きょうのわたくし (original) (raw)

「感動」という病

「プロジェクトX」打ち切り危機…また問題発覚

子供に見せたい番組だそうだが。(web-tonbori堂)

このことに関してNHKには弁明の余地はまったく無い。以上、終わり(おい!)。
……終わってどうするの、わたくし。ただね、直接関係はないかもしれないが、toboriさんが書いてらしたことで、この手の番組について日頃考えていることがあり、そのことについて書きたいと思う。

何でも感動的な話だ、いいことだでは考えることを放棄していると思うのだが。

と、tonboriさんはおっしゃった。んで、私はといえば、ふと、こういう言葉が浮かんだわけ。
日本中を悪霊が徘徊している。それは「感動」という名の悪霊である。

……とは、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の有名な冒頭の句のパクリだが、今の版の訳では「ヨーロッパに幽霊が出る,共産主義という幽霊である。 古いヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」とくる。
んで、今の日本では、その徘徊する霊を退治しようとする神聖同盟などどこにもなく、それを蔓延させようと努力してる人しかいない気がするんだわ。

TVで流される「感動」ドキュメントというのは、情に訴える音楽とナレーション(音楽は概ね、流用モノ)と、やたらアップにこだわるカメラワークという、どれもこれもこれでもかこれでもかとばかりに、「さあ、感動しなさい」とこちらに押しつけて来る。
そのためにどれだけのやらせが動き、どれだけの事実が踏みにじられているかなど、あの節操のない映像を見ていれば簡単に想像がつこうってもんでしょ。
まるで、こう言ってるみたいだもん。
ここまで道筋を作ってあげたんですよ、後はあなたが泣けばいいだけよん。楽でしょ? 簡単でしょ? 考えないでも、感動できるでしょ? 涙を流すのって気持ちいいですもんね。そりゃあしょぼいもんでも、一種のカタルシスですからね。さあ、泣きましょう。そのためにここまで盛り上げてあげたんだから、さあ、どうぞ。泣いてすっとしましょう。そうして。自分は「感動できる心をもっている」いい人なんだと再確認しましょう。

そして、それで泣く人は結構多いんだ。TVだけでなく、新聞だって出版だってそうじゃない。
みんな泣かせたがってるじゃない。みんな感動させられたがってるじゃない。それもおそろしくわかりやすい、後は泣くだけシステムで感動したがってるじゃないのさ。だって、売れるじゃないのさ、そういうもん。現実に、「プロジェクトX」だって視聴率高かったじゃない。
感動ってのは、一番売れる商品なのよ、今。

そいで、売りつけている物が「感動」だから、tonboriさんが書かれたように、出す側も受け入れる側も健やかな思考停止に陥っている。これも私がいつも考え込むように、動機があっけらかんと手段を正当化している。それってええんか?

だって、こうしてことさらな感情刺激モードに作り替えられた「感動」ノンフィクションってのは、何のこたない、あのおどろおどろしたニュースショーと同じだよ。ゲーム脳だの何だのさんざんゲームを悪者にしておきながら、福知山線脱線事故で「絵を盛り上げる」ために「バイオハザード4」のBGMを使う、あの恥知らずな「悲しみと怒りと不信」の押し売りと同じだよ。
そして、最近は「悲しみと怒りと不信」に対しては拒絶を示す人も増えて来てはいるが、やはり、大多数の人はまだそれを望んでいる、あるいは望んでいると信じるからTV局は流す。(でなかったら、何で、どのニュース番組もワイドショー番組も潰れないんだ?)
あの「感動」ドキュメントだって、それで泣く人が、そこまでされても泣きたい人が多いからそうやって流すわけだ。それにさらに泣かせよう(=さらに視聴率を上げよう)として、そこに意図的な作為が生まれてく。ああ、ステキな悪循環。

たとえば、「はじめてのおつかい」というシリーズがある。これは出始めた当初、私はとてもファンだった。ああ、ちっちゃい子にとってスーパーまでのほんの何十メートルが大冒険なんだなあ、その何十メートルでこれだけの感情の振幅を味わうんだなあと、それこそ涙ぐみながら見ていた。
それがどうなったかというと、みなさん、ご存じの通り。この番組は子供をいじめて泣かせて、それを見て大人が泣くというおよそ倒錯的なグロテスクな番組になりはてた。幼稚園児に、バス乗って二つも買い物こなしてから父親にそれを届けに行くなんて馬鹿馬鹿しいこと、そんなおそろしいこと、フツーさせるか、親が! フツーありえるか、そんなこと!
それもこれも、みんなもっとさらなる「感動」を求めたからだよな。もっと泣きたくなったからだよな。同じ刺激じゃ泣けないの、もっとそこんとこ押してくれる?
それだけ日々の生活がしんどいからかもしれない。それだけ、今の社会は殺伐としているからかもしれない。けれど、そうやって、古いゴムのように強張った心を、人に無理矢理揺すぶってもらって、そこからだらだらと生理反応めいた涙を垂れ流すことを、果たして「感動」と呼ぶんかい、という気がするがね、私は。
それじゃあ、感動もまあ、ずいぶんと安いモノになっちたんねえと思ってしまうわけよ。

そういう慢性的な「感動したい病」患者を相手にし続けて「ともかく感動させたい病」患者になって、つうかイタチごっこの繰り返しで病状を悪化させていって、どっか感覚の壊れちったクリエイターの作るものなんて、ホントの意味での感動なんてこれっぽっちもあるわけないじゃないか。

感動というのは与えられるものではなく、自分で見つけだすものだ。

先日、私はマーシャル諸島の漁民が使っていたという海図の写真をアップした。それは見るからに摩訶不思議な、地図とは紙に書いてあって東西南北があってという私たちの今の常識からは想像もできない「海図」だった。布巾掛け?という言葉があったが、それが一番近い(壁飾りという気もする。カードさして眺めるのに便利そう)。
それに感動してくれた人が居た。その人は、そこにこめられた、西欧近代の思考とは無縁の、しかし負けずに深い人の叡智に感動したんだと思う。海の地図というのは、こういう形で表現したってかまわないんだ、この海図だって使えるんだ、マーシャル諸島の人はこの海図を頼りに海を渡り、生活を営んで来た。そういう風に、自分の知らない経路を辿り、洗練されていった人の知恵も、世界にはいくらでもあるんだ。
面倒くさく言うなら、そういうことだろう。そして、TVの安いドキュメントのこれでもか音楽もナレーションも無しで、その人は自分で、一瞬でその道筋をたどれた。
感動できる心って、こういうものだと思う。毎日の生活で何かを発見したいと願う、弾みのある心だと思う。

大学時代の同級生で、学科一の秀才だった男がいる。K大の院に進み、今ではどっかの教授様であろう。そいつとある日、学校の木陰のベンチに座って話し込んで時だ。私が大学に行くのに、みんなが使うバス通りではなく、川沿いの道を歩く方が面白い、毎日、川の流れも違うんだぞ、春になると増えるんだ、面白いなあと言ったら、彼もそうだと言って、こう続けた。
「あの○山もこっちからなら見れるだろ。あれだって格好も色も、毎日微妙に違うんだよね。そいで、春のある日、二倍に膨れ上がってたりするんだ。一斉に葉が吹くからさ。それで俺は十分、半日は感動してられる。
他にも、例えば、こないだ、お前と大議論して俺が完膚なきまでに勝ったやんか。それが次の日、ガッコ出て来たお前がまた俺に議論ふっかけて来たろ、そいでもって前の日よりずっとすごい理屈持ってきて俺を圧倒したやんか。あんとき、そりゃ悔しかったけど、俺は結構、感動したね。この女、ひと晩でこれだけ考えてきやがったな、畜生って、感動したね。感動したから、明日は俺が息の根止めたるとか思ったよ」(←その通り、私は息の根止められて、悔し涙にくれた。およそ広範囲で深度の深い知識持つ彼とわたりあうのは、院生でも難しかったろう)
彼はそう言って笑い、最後にこう付け足した。卒業旅行に行くのが流行っていた頃だった。
「わかんないんだよな、何で、みんなそう海外とか遠くまで、一々なんか探しに行くんだろ。いや、そうしたい人はそうすればいいんだけどさ。俺は面倒臭がりだし、俺にとって感動ってのは、毎日の道ばたに転がってるのを探す方が面白いんだ。そりゃあ一個一個は小さいけど、ためればバカにならないからさ。俺はちびちび楽しむ方が好きやしな」
(余談だが、この辺の話は、yalingさんのおっしゃる「本当の意味でのゆとり」の問題とも絡んでくるような気がする)

感動はさせてもらうもんじゃない。自分でするもんだ。つまり、感動ってのは能力だ、と思うんだわ。だもんで、「プロジェクトX」のみならず、あの手の「感動ノンフィクション」を見続けている限り、その貴重な能力は鈍化し、摩滅していく一方だと私は思いますです、はい。自分で揺すぶらないで、人に揺すってもらい続けてりゃ、そりゃ古いゴムみたいになるでしょうさ。
足若丸や金魚運動器でしなやかな筋肉はつきません。

ところで、TB元の記事中の

「NHKには、総力をあげやっていることには無法がまかり通る体質がある。あんな美談はあり得ず、NHKが取材に来れば誰でも協力してくれることを悪用している。海老沢時代が生み出した体質。それを治すための改革なのに、反省もない。こんなことではNHKは潰れる」

というのは、NHKのみならず、全てのマスコミに言えることだよな。
正直に言や、自分で記事書いていながら、背筋に冷たいもの来なかったか、夕刊フジ?という気さえする。いや、NHKの権力ってのはすごいんだ、民放や、ましてや俺たち夕刊紙なんかの比じゃない、とくるんだろうが、夕刊フジであろうが、一般の人には「新聞記者」だよ。勝手に思いこまれてる権威を背負ってやってくることに代わりはなかろう。そいでもって、事実の確認がおざなりであるだけでなく、さりげに創作入れることだって、今じゃどのマスコミも平気でやってるよ。NHKがやって大騒ぎになるのは、NHKが徴収料を取ってやってますんで、そういうことしません、しない筈だって信仰があったからだよね。
(んで、NHKが何かやるときの叩きっぷりを見ていると、他の全マスコミはNHKのそういうとこが憎くて憎くて、鼻について鼻について仕方なかったんだろうなあとしみじみ)

んでも、朝日だろうが毎日だろうが読売だろうが産経だろうが、そしてその系列TV局もみな、「誰でも協力してくれることを悪用」し続けている。そして、「こんなことではマスコミは潰れる」
この手の問題が起こっても、そういうマスコミ全体の危機感ってのがあんま感じられないのね。朝日の問題、NHKの問題ってことで片の付く問題じゃねえやん。ホント、マスコミは人にだけ危機管理求めるから嫌よ。

追記;
1.じゃ、どんなドキュメンタリが私はいいと思うのかってことについて、書いてみた分が、HPにあります。よければお手透きの時にでも読んだってください。→●「子どもたちをよろしく」
2.この日々のささやかな発見の「感動」について冷静に知的に分析した本がある。精神分析医の春日武彦さんの本。ただ、彼は私がファンになるような学者さんなんで、「感動」という言葉のの価値下落にうんざりしてるせいか、それを「幸福感」に結びつけて書いてます。あ、おたれな専門用語羅列してわかったげな気分にさせてくれるよな、そういう芸と志の浅い方じゃないすから、安心して読んでね。→●「幸福論」(春日武彦/講談社現代新書)

も一つ、師匠のエントリが出ました。ええ、私は師匠の猫です。→●既製品が好きな日本人(とある店員のぼやき)
業界の構造分析ならこっち→●テレビ、虚構と現実(Mの裏日記)
この物語はフィクションであり・・・(ゑびす屋ぽん子の滑稽新聞)

他にもTBしてくれたところ
NHK、「プロジェクトX」で謝罪(りゅうちゃんミストラル)
NHK「プロX」で、またも取材相手が抗議する事態が発生する(松浦晋也のL/D)
「感動」という病(PLAYNOTE)
Impressions , be impressive .(空色日記)
コラムたち。(カミザレ)

by acoyo | 2005-05-25 11:06 | 時事ネタ |Comments(36)

えとー、こんにちわ。やたらとネット落ちする上に、文章は長いわテーマに統一性ないわと、かなり粗忽なところです。それでも、コメントとかお気軽につけてくれたら嬉しいです。

by acoyo

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