『マン・オブ・スティール』 鉄の厨二病 (original) (raw)
クリストファー・ノーラン製作、ザック・スナイダー監督、ヘンリー・カヴィル、エイミー・アダムス、マイケル・シャノン、ラッセル・クロウ、ケヴィン・コスナー、ダイアン・レイン、ローレンス・フィッシュバーン出演の『マン・オブ・スティール』。
科学者ジョー=エル(ラッセル・クロウ)は、滅亡の危機にある惑星クリプトンから生まれたばかりの息子カル=エルを脱出させる。反乱を起こしたゾッド将軍(マイケル・シャノン)は、部下たちとともに“ファントム・ゾーン”に閉じこめられて追放された。カル=エルは地球でジョナサン(ケヴィン・コスナー)とマーサ(ダイアン・レイン)のケント夫妻に育てられ、クラーク・ケントとして生きることになる。33歳になったクラーク(ヘンリー・カヴィル)は、北極で正体不明の巨大な乗り物の調査団に同行していた新聞記者ロイス・レイン(エイミー・アダムス)と出会う。
ザック・スナイダーがスーパーマンの映画を撮るという情報は前作『エンジェル ウォーズ』の直後からあって、僕は世間的には失敗作よばわりされてるらしい『エンジェル~』が好きなのでその監督の最新作に期待していたんですが、出演者たちの画像や予告篇が公開されるにしたがって次第に不安がつのってきたのだった。
というのも、ようするに過去にクリストファー・リーヴ主演で作られたシリーズとはかなり違うものであることが、この企画自体が『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン主導で動いていることからもあきらかだったから。
あぁ、また例の「リアル路線」かと。
それでも予告篇の第1弾の映像は、どなたかがおっしゃってたようにまるでテレンス・マリックの映画のようでちょっとグッとくるものもあって、これはこれで悪くはないんではないかと思っていた。
しかし、予告篇の第2弾で披露されたVFXを駆使した場面が、どうも「いかにもCGでデコレートしました」的なものだったので、ふたたび不安に。
結論から申しますと、その不安は的中しました。
少なくともあのVFX映像に僕は「現実味」を感じなかった。
以下、『マン・オブ・スティール』とクリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」シリーズ、そして『スーパーマン リターンズ』の
ネタバレをふくみますので、ご注意ください。
僕はスーパーマンの原作コミックは読んだことがなくて、あくまでもリチャード・ドナー監督、クリストファー・リーヴ主演の1978年の『スーパーマン』とその続篇のファンです。
だからどうしたってそれらとの比較は避けられないので、今回の感想もところどころでクリストファー・リーヴ版についての言及が入ってきます。
クリストファー・リーヴのスーパーマンについては以前『スーパーマンII 冒険篇』の感想を書きましたので、そちらをご参照ください。
ちなみに、2006年に公開されたもののヒットしなかったために続篇が作られなくてこれまた失敗作の烙印を押されがちなブライアン・シンガー監督、ブランドン・ラウス主演の『スーパーマン リターンズ』も僕は好きです。
あの作品にはクリストファー・リーヴが演じたスーパーマンへのリスペクトがあふれてたから。
ただ残念なのは、クリストファー・リーヴの「スーパーマン」シリーズの続篇という位置づけだったためにリーヴ版を観ていない人にはよくわからない部分があったり(スーパーマンとその父ジョー=エルの関係や恋人ロイス・レインとの絆、宿敵レックス・ルーサーとの因縁、父から託されたクリスタルや弱点であるクリプトナイトのことなど)、敵がスーパーパワーをもった超人ではないのでこれまでの「スーパーマン」シリーズにまったく思い入れのない人にはどうやら物語の展開が退屈だったらしいこと。
でも個人的には、あの映画は続篇が作られなくてむしろよかったと思ってますが。
『リターンズ』をごらんになったかたならわかると思いますが、もしあのつづきを作ったら超人一家が活躍する『Mr.インクレディブル』みたいな話になっちゃうだろうから。
じつはあの映画では、今回の『マン・オブ・スティール』でジョー=エルが息子に託したことが実現されているのだ。
今回ラッセル・クロウが演じるジョー=エルは、息子のカル=エルに時を越えてメッセージを送る。「クリプトンと地球の架け橋になるように」と。
『スーパーマン リターンズ』は、カル=エルが父の言葉を“我が子”に伝えるところで終わる。
「子は父となり、父は子に還る」
その我が子は、地球人の女性とのあいだにうまれた子どもであった。
“リターン”とは、そういうことなのだ。
だから『リターンズ』は、いってみれば映画「スーパーマン」シリーズの最終回ともいえる。
僕はあのラストでいつもちょっと涙ぐんでしまう。
ところで、先日金曜ロードSHOW!で放映された『リターンズ』はおもいっきり場面が端折られてたりズタズタにカットしまくられた代物で、慌ただしいことこの上ない最悪のヴァージョンでした。
あれだけ観たら「うーん、いまいち」となってもしかたがない。
なにしろ2時間半ある映画を2時間の放送枠のなかにむりやり押しこめたんだから。
なので初見だったかたは、あの放送だけで「つまんね」と判断せずに、ぜひDVDかブルーレイでいま一度ごらんになってみてください。
ただその際、できれば1978年の第1作『スーパーマン』(可能なら2作目も。2作目は『マン・オブ・スティール』とかさなる話ですので)を先に観ておくとより感動が深まると思います。
さて、今回リブートされた『マン・オブ・スティール』は、すでに映画化されているシリーズの再解釈である。
故郷の消滅、異郷である地球で人間として生きることになる主人公の生い立ち、そしてスーパーマンの誕生がもう一度描き直される。
旧シリーズではどこか抽象化されていたクリプトンは、『マン・オブ・スティール』ではまるで『スターウォーズ』に登場するような生き物が棲息するスペースオペラ的な惑星として描かれる。
『スーパーマン』では、ジョー=エルはその手で反逆者ゾッド将軍をファントム・ゾーンに封じこめて追放し、妻ララとふたりしてクリプトンと運命をともにしたが、『マン・オブ・スティール』のジョー=エルはゾッドに殺される。
ゾッドたちが入れられたファントム・ゾーンは惑星クリプトンの爆発で破壊されて、彼らは自由の身となる。
そしてゾッドは、滅亡した故郷を復興させるために地球を改造しようとする。
一方、赤ん坊のときに脱出カプセルで地球に不時着したカル=エルはケント夫妻のもとで育てられたが、クリプトン人である彼はみずからの特殊な力を制御できなくて学校でも孤立していた。
この映画でのカル=エルは終始「いじめられっ子」として描かれている。
子どものときだけでなく成長して親元を離れても、どこに行っても「使えない奴だ」と言われたり店の客に挑発されたりする。
孤独な異端者ということが強調されている。
まぁ、あんなマッチョが「使えない奴」よばわりされることなんて現実には
ぜったいないけどな!
クリストファー・リーヴ主演版でも高校で同級生たちからからかわれたり、デイリー・プラネット社で働いているときもまわりからないがしろにされることもままあったが、スーパーマンとして覚醒してからは基本的に明るくてあまり深く根にもたないキャラクターとして描かれていた。
『スーパーマンII』のラストでスーパーパワーをとりもどしたスーパーマンは、以前人間になったときに自分を痛めつけたトレーラーの運転手に仕返しをする。
よくよく考えると陰湿な感じもするけど、あくまでもそれはギャグとして描かれている。
「面白いね、ゴミがゴミを食べてる」 運転手の名前は“ロッキー”
おそらくは『スーパーマンII』へのオマージュも込めて入れられたんだろう『マン・オブ・スティール』での同様のシーンは、しかし映画自体がシリアス一辺倒な作りのうえに、運転手のトレーラーがクラークによって見るも無残に破壊されているさまは観ていてまったく笑えない。
むしろクラークというキャラクターが非常に鬱屈した精神の持ち主であることがうかがえる。
このように『マンスティ』(なんかこの略称は卑猥な感じがするのは俺だけだろうか)の主人公は、基本的に人間を信用していない。
ロイスにもハッキリとそう言っている。
これは、根本的なところでこれまでのスーパーマン像(あくまでも映画の、です。漫画の方は知りません)から180度変わっていて、ほとんど別のキャラといっていい。
そんなわけで、今回のスーパーマンは自身の存在に悩んでいる。
自分はクリプトン人なのか、それとも地球人なのか。どちらの側に立って戦うべきなのか、と。
…なんかウルトラセブンみたいですが。
対するゾッド将軍は、『スーパーマンII』でテレンス・スタンプが演じたサーカス団みたいな格好で地球を支配しようとする完全無欠の悪役とは異なり、今回マイケル・シャノン演じる彼は滅びゆく種族を存続させるために地球をクリプトン人に適した星に植民地化しようとする、どこか悲壮感を帯びた戦士として描かれる。
ブラマヨ小杉と水道橋博士が合体したようなご面相のマイケル・シャノン演じるゾッド将軍
故郷のクリプトンが消滅したあとも彼が“将軍”を名乗りつづけるのは、最初からそのように決まっているから。
クリプトン人は人工的に培養され、生まれたときから役割が決められていてそれ以外の選択ができない。
自然分娩によって生まれたカル=エルは、クリプトン人としても特殊な存在ということだ。
このようにいろいろと設定が付け足されていてつまりシリアス全開の映画なんですが、かなり用心して観たせいか、僕も途中まではわりと自然に入りこめたんですよ。
スーパーヒーローが異端者として周囲から排斥されるという話自体はよくあるものだし、クリストファー・リーヴの「明るいスーパーマン」とはイメージが異なっていても抵抗はありませんでした。
赤ちゃんカル=エルが地球にむかった直後に物語は33年後に飛び、さらにところどころで少年時代の回想がはさまれるという形式が主人公への感情移入を阻む、という指摘がけっこうあってそれはよくわかったけれど、これも知ってて観たのでこういうのもアリかな、と。
しかし、ゾッド将軍たちが地球にやってきたあたりから急激に違和感がわいてきた。
ゾッドは宇宙船で地球にあらわれて、人類にカル=エルを引き渡すよう要求する。
だけどそもそもこの段階でカル=エル、つまりスーパーマンの存在を人々はよく知らないから、「誰なんだよ」って話になる。
なんだろう、しばしば悪い例としてあげてファンのかたには申し訳ないですが、『アメイジング・スパイダーマン』で、スパイダーマンがろくに活躍してないうちから敵の怪人が登場して暴れはじめたときに感じた慌ただしさに似ている。
スーパーヒーローと一般の人々との出会いを描かずに、いきなり強敵が暴れだす作劇。
見せ場を早く出したいからなのかなんなのか知らないけど、これはたしかに共感というか、主人公のスゴさが実感しづらい。
だってその前に主人公をピンチにおとしいれる敵が出てきてしまうんだから。
カル=エルと接触していたロイスがFBIに捕まってしまい、彼は人々の前に姿をあらわす。
で、取調べをうけたりしてるんだけど、うーんと、そんなことしてるヒマがあったら早くゾッドたちをなんとかしろよ、と思うんですが。
ここでもスーパーマンは、ゾッドは信用できないが、さりとてクリプトン人の自分は人類のために戦うべきなのかどうかと迷うのだ。
あぁ、なんかもどかしいな!!
けっきょく言われたとおりゾッドの宇宙船に乗りこむのだが、ゾッドはロイスもいっしょに来るように告げる。
なぜなのかはよくわかりません。
ジョー=エルはクリプトンの中枢からコデックスと呼ばれる登記簿を盗みだして赤ん坊のカル=エルとともに地球に送っていた。
これはどうやら地球をクリプトン化するのに必要なものらしい(たしか胎児の記録かなにかだったよーな。もうだいぶ内容を忘れかけてるんで間違ってたらゴメンナサイ)。
それでゾッドはこのコデックスを狙って地球にやってくるのだ。
ということは、カル=エルが地球にいなければゾッドによって多くの犠牲を出すこともなかったかもしれないよな。
しかもカル=エルにはいまだに人類に対する不信感があるので、人類の側から映画を観るとそんな彼に憧れをいだくのは難しい。
クリストファー・リーヴが演じたスーパーマン、あるいはウルトラマンやウルトラセブンでもいいけど、スーパーヒーローたちには「地球とそこに住む人々を愛している」というのがまず大前提としてあったはずだが、そこがそもそも揺らいでいるのだ、この映画の主人公は。
だからその後、ゾッドとぶっ飛ばしあいながら町じゅうを破壊するアクション場面は、爽快感よりも「主人公は人類のことなど気にも留めていない」ように感じられてしまう。
ゾッドが地球をクリプトン化するためにおこなった大量虐殺。
人が死ぬ場面は描かれないが、大都市が壊滅するようなあんな大破壊があればおびただしい数の人が死んでるはずだし、それに育ての親であるジョナサン・ケント(ケヴィン・コスナー)の死もまた、観ていてまったく納得できないものだった。
ジョナサンは、クラークの目の前で竜巻に巻きこまれていく。
いや、そこはふつうに助けろよ、と。なんで手をこまねいて見てんの?
クリストファー・リーヴのスーパーマンだったら周囲の人々の目をくらませて父親を救っただろうし、ゾッドの破壊行為だってなんとかして食い止めただろうに。
人の命よりも「正体を知られてはならない」というルールを優先する奇妙な論理。
おなじザック・スナイダー監督による『ウォッチメン』も、目の前の人命よりも国家間のパワーバランスの方が優先されるというお話だったけど、おかしな理屈ですよね。
僕があの映画が苦手なのはそういうところもある。
おなじことがこの『マンスティ』にもいえた。
『ウォッチメン』はまだ“皮肉”ととることができるけど、人命を軽視するスーパーマンなんてスーパーマンじゃねぇだろ、と思う。
悩んでないでさっさと助けろよ、と。
ようするに、この映画の作り手たちは「正義」を相対化したいんでしょう。
スーパーヒーローが掲げる「正義」がほんとうに正しいのかどうかわからないし、敵にも彼らの論理や行動の理由があるのだ、と。
でもそれを「スーパーマン」でやんなくていいよ。
観てて萎えるから。
いちいち悩むヒーローにはウンザリだ。
この映画ではジョン・ウィリアムズ作曲のあのおなじみのテーマ曲は使われていない。
ハンス・ジマーによってあらたにテーマ曲が作られている。
短いんであまり聴きごたえはないけど、映画の雰囲気にはあってるし僕はわりと好きですね。
テーマ曲以外はまったく印象に残ってないけど。
そしてスーパーマンはトレードマーク(?)の赤いパンツを穿いていない。
それはあまり気になりませんでしたが。
なにしろビュンビュン飛びまわるもんだからコスチュームがよく見えないのだ。
今度のジョー=エルは息子にどうしても赤パンを穿かせたくなかったらしい。
カル=エルの父ジョー=エルは、クリストファー・リーヴ版ではマーロン・ブランドが演じていてまるで神のように主人公を導き見守る存在だったのが、ラッセル・クロウが演じるとおもいっきり武闘派になってるのが可笑しかったです。
冒頭でジョー=エルはゾッドと殴りあうんだけど、なにしろこの人は元グラディエーターなので(笑)めっちゃ強くてゾッドをノシてしまう。
すいません、あそこはちょっと笑いました。
刃物で刺されて倒れるとこまでコピーしてんだもの。
死んだあとも出まくりだし。ゾッドもツッコんでましたが。
でも、あのときジョー=エルがゾッドの息の根を止めていれば、その後の地球での大惨事もなかったのにな。
この映画のクリプトン人ってのはとことん迷惑な奴らだ。
ここからは僕の勝手な解釈なんですが、これは厨二病の映画なんじゃないかと。
つまり、学校や社会にとけこめない人間が「俺は特殊な能力をもった存在なんだ」と思いこんでる話のようにおもえたのだ。
もっと言っちゃえば、これはぜんぶ「心を病んだ者の妄想」ではないだろうか。
ふだんクラーク・ケントとして生活しているが、つねに幻聴がしたりみんなには見えないはずのものが見えてしまうので集中できない。
成長して自分の“力”を制御できるようにはなったが、それでも人々のなかで生活するのは苦手。
しかしそんな俺には使命があって、それは地球を脅かす敵を倒すこと。
そしてこんな俺を理解してくれる女性とめぐりあって結ばれること。
主人公が悩んだりゾッド将軍や部下のファオラがやたらと「戦う理由」について厨二病的な屁理屈をならべるのも、彼らとの戦いがほとんど「ドラゴンボール」とか格闘ゲームみたいにリアリティがないところや、戦いの派手さばかりが目当てで人の生き死にへの無頓着ぶりなども頭の悪い中坊っぽさであふれている。
あれだけ町が破壊されながら、ラストシーンでデイリー・プラネット社の窓の外には何事もなかったかのようにビルが建ちならんでるし。
もっと妄想めいたことを言うと、劇中の回想シーンで、スクールバスの車内でクラークは眼鏡の太っちょ君からからかわれる。
その直後に運転手がハンドルを切りそこなってバスは川に転落。
クラークはクラスメイトたちをバスごと助けだし、最後にあの太っちょを川から引き上げる。
その後、太っちょ君はクラークを見る目が変わり、いじめられている彼に手を差し伸べたり、大人になってからもクラークの活躍を静かに見守っている。
僕には、彼はもしかしたら現実の世界でのクラーク・ケントの真の姿なんじゃないかとおもえたのだ。
太っちょ君のあの冴えない風貌は、いじめっ子というよりもいじめられっ子で、だから秘めたる“力”をもったクラーク(カル=エル)という少年はいわばあの太っちょ君が夢みた彼自身の姿だったんじゃないかと。
いじめに打ち勝ち、世界を救って美しい恋人もゲットする。
これぞスーパーヒーロー。
書いててだんだん哀しくなってきたけど。
そろそろ結論を言わせてもらうと、この映画はものすごく金をかけた『
中学生円山』なのだ。
地球での父ジョナサンは、いじめに悩み「どうして仕返ししちゃいけないの?」とたずねるクラーク(カル=エル)に「そんなことしてなんになる」と諭して「まず信じてみること」を教える。
まわりの奴らは僕をいつもいじめるけど、それでも彼らを憎まずに人を信じよう。
成長したクラークは、こうして父の教えどおりぎりぎりのところで人類のために戦う。
これはそういう物語なんだろう。
スーパーヒーローをいじめられっ子が夢みる存在として描く試み自体は僕は非常に共感できるし、それがうまくいっていればあらたなスーパーマン像を創りあげることもできただろうと思うのだ。
ゾッドはあきらかにクラーク・ケントの暗黒面であり、人類などとっととぶっ殺して自分たちにとっての楽園を築こうとする。
そしてクラークに、おなじクリプトン人として自分たちと手を組め、と言う。
でもそれは妄想のなかに逃げこむことだ。
だからこそ、クラークはそんな彼自身の世間への復讐心や破壊衝動と戦わなければならない。
敵にも戦う理由がある、というのならその敵の主張におもわず共感してしまいそうになるような説得力が必要だし、それでもそんな敵に同調せずに人類のために戦う主人公の「理屈」を越えた想いが描かれていなければ、それは中坊並みの屁理屈(「どうして自分の欲望のために人を殺したらいけないんですか?」という質問の類い)の応酬と超人同士の単なるボコりあいになってしまう。
いや、ボコりあいだってかっこよければいいんですけどね。
かっこよかった、と褒めてる人もいるようなんだが。
VFX映像に関しては、僕はこの映画で燃えられるシーンはほとんどなかった。
わずかにスーパーマンが地上すれすれに猛スピードで空を飛ぶ場面に臨場感があったぐらい。
ゾッドたちとの殴りあいには、まるで重力の存在が感じられませんでした。
ゾッドたちが乗っている宇宙船も、UFO映像のように完全に物体の移動の法則を無視した動きで重量感もなにもない薄っぺらなものに見えたし、スーパーマンはいつも弾丸のように轟音とともに「発射」されるだけで、着地のときも全体重をかけて地面に「ドンッ」と落ちるだけ。
あんな着地のしかたでは、ものすごい衝撃があると思うんですが。
ピーター・パンのように浮かんで、つま先からトン、と軽やかに地上に舞い降りていたクリストファー・リーヴのスーパーマンのように、現実の人間にはできない「空を飛ぶこと」への憧れを喚起させる感覚が『マン・オブ・スティール』には欠如している。
あんなふうに終始ミサイルみたいに超音速で飛ばれたら、「人が空を飛ぶ」なんて現実にはありえない、と最初から強調されてるようなものだ。
クリストファー・リーヴのスーパーマン第1作目のキャッチコピーは「あなたも空を翔べる!」だったんだが。
『スーパーマン リターンズ』でも、リーヴのときと同様にスーパーマンを演じる俳優が実際にワイヤーで吊られて自動車を持ち上げたり、デイリー・プラネット社のてっぺんにあった球状の看板をうけとめるときにも、やはりちゃんと実物大のものを使って撮影していた。
『スーパーマン リターンズ』より
『マン・オブ・スティール』でも実物大のプロップを使ってるところはあるけど、ポスト・プロダクションで映像を加工しすぎてて、実在感がない。
「リアル路線」などといわれるけど、再度言いますが僕はあの映像に現実味はまったく感じなかった。
スーパーマンやゾッド将軍が現実の町なかで暴れてるようには見えなかった。
おそらく『エンジェル~』とおなじような方法で素材の多くをグリーンバックの前で撮影してあとで合成したんだろうけど、この映画では成功しているとはおもえませんでした。
スーパーマンを演じるヘンリー・カヴィルが屋外の撮影現場でワイヤーで吊り上げられることもなかったんじゃないだろうか。
映像処理にしても、かつて『300 <スリーハンドレッド>』で半裸の男たちの大乱舞をフィルムのスピードを変化させて表現していたザック・スナイダーならば、もっと工夫できたのではないか?
スーパーマンやゾッドたちクリプトン人はこの映画のなかですさまじい速さで移動するけれど、逆に彼らからすれば通常の人間たちの動きはものすごくスローに見える、といった具合に、いくらでも面白くなるはずなのに。
『マトリックス レボリューションズ』のネオとエージェント・スミスのタイマンからほとんど進歩していないようなアクションシーンにはかなりガッカリした(そーいや、この映画には「マトリックス」シリーズのモーフィアス役のローレンス・フィッシュバーンともう一人、『マトリロ』『マトレボ』で司令官を演じてた俳優さんが将軍役で出てるな)。
それとこの作品では『エンジェル ウォーズ』のように映像の色を抜いてひと頃のスピルバーグの映画みたいな記録映像っぽい加工をしてたけど、人間ドラマの場面はともかく、VFXシーンではまるでトニー・スコットの映画のような高速ズームをひっきりなしにやってて非常にウザかった。
あれを「リアル」だとか称するんだったら勘違いも甚だしい。
いまどき「バトルスター ギャラクティカ」って、いつの流行りだよと。
たとえばクリストファー・ノーランが監督した『ダークナイト ライジング』で、巨大カブトガニみたいな“ザ・バット”が飛行する場面はかっこよかったですよ。
ショットによっては実物大の模型も使って撮影していて、映像もクリアでリアリティがあった。
『マン・オブ・スティール』のアクション場面もああいうふうに処理すべきだったんじゃないだろうか。
そうしたら描いてる内容はおなじでも印象はぜんぜん違ったと思うんですが。
それにしても主人公をあんだけ深刻そうに悩ませといて特に後半はシナリオがスッカスカだったんだが、戦いのシーンには「あとよろしく」とでも書いてあったんだろうか。
シナリオを書いた「ダークナイト」組のお二人、クリストファー・ノーランとデヴィッド・S・ゴイヤーは、ノーランのバットマンでは映像で誤魔化されてたけど今回映像の方もアレだったから、中身がなにもないことが完全に露呈してしまいましたな。
中身がないならないで開き直って賢そうなフリすんのやめて、もっと単純明快な勧善懲悪のスーパーヒーロー物を作ればいいのに。
スーパーマンはその代表格だったわけで。
『スーパーマンII』でのテレンス・スタンプ演じるゾッド将軍はほんとに見事なまでの悪役ぶりで最高でした。
スーパーマンを翻弄してきたゾッド将軍が最後に勝ち誇って「この手をとり、永遠に忠誠を誓うのだ」と言って差しだした手の指をメキメキメキッと握りつぶされて「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」ってなって悲鳴を上げながら投げ飛ばされてく姿に子ども時代の僕はおおいなるカタルシスを得たのです。
そういう快感をひさしく味わっていない。
現在の映画の作り手のみなさんには、どうかお願いだから頭でっかちの消化不良な映画じゃなくて、観客が興奮できて最後に溜飲が下がる気持ちのいいスーパーヒーロー映画を作っていただきたいです。
切に願っています。
長々と文句垂れてきましたが、この映画は海外ではヒットしてるらしく、すでに続篇も動きだしている模様。
なんでも次回はバットマンと共演するんだそうな。
先日、新バットマンをベン・アフレックが演じることに決まったと報じられて、アメリカでは反対の署名運動までおこってるみたいで。
どんだけ信用ないんだベン・アフレック^_^;
ただ、あたらしいバットマンがどのように描かれるのかはわかりませんが、スーパーマンとバットマンというのは対照的なキャラだからこそ面白いんであって、そのスーパーマンがなにやら陰のある悩み多きスーパーヒーローとして描かれちゃうとバットマンとキャラがカブりませんかね。
大丈夫なんでしょうか。
けっきょくこの映画はつづく『スーパーマン vs バットマン』のための前フリでしかないのだろうか、と思うと「またかよ」という気分になってきますが(マーヴェル・ヒーローでさんざんおなじ目に遭ってきたので)、たぶん続篇も観ることになるんでしょうなぁ。
そしてまたあーだこーだとケチつけるんだと思います。
我ながらなにやってるんだろう(;^_^A
それは、幼い頃にまぶたに焼きついたあのスーパーマンの勇姿をもう一度スクリーンで観たいという、儚い願望のせいかもしれません。