黒夜行 2005年05月13日 (original) (raw)

都心に立つマンションの一室に僕はいる。いつものように朝起き、顔を洗って朝食を食べ、歯を磨いて支度をして、さて部屋を出よう、と玄関のドアを開けた途端…
目の前には朽ちかけた橋がある。橋の両岸は崖で、遥か下に川が流れている。その橋は、どう見ても人一人の体重を支えられる状態ではない。
橋のこちら側は、地面は荒れ、草木は無秩序に生え、日陰が点在し、空気が淀んでいる。しかし、対岸に目をやると…
そこには、こちら側とは比べ物にならない、別世界が広がっていた…
本作を読み終えて感じたのは、つまりそれぞれの作品が、理想の対岸を目の前に、しかし絶対に渡ることの出来ない橋に絶望する、そんな光景に出くわしたような感覚でした。
世界が、ものすごく広がっている。
本作は、僕が今まで手にした中でも格段に薄い。しかし、その薄さに反比例するかのように、内包され凝縮された世界は、限界のなくなった風船のように、どこまでも広がり続けているように思う。
文章が着地しない。ふと飛び上がったまま、何かの拍子に時間が止まってしまったかのように、書かれてる文章は句点を突き破る。文章は、文脈や時間を形成するが、世界の輪郭は規定しない。どこかにあるはずの輪郭が、言葉という線で強調されるはずなのに、どこか曖昧で、近づこうとすればするほど、水面下から世界を見るように、どんどんとぼんやりとしていく。
とても不思議な作品だ。
僕は、やはりというかいつも通りというか、村上春樹の作品をなかなか理解することはできない。どう楽しめばいいのか、というコードがきっと導入されていないのだろうと思う。全ての要素が外側を向き、ほんの僅かな内側からの力のバランスで形を保っている物体を扱っているような、文字を追えば追うほど、形が曖昧になり、世界が発散し、いつしか蒸発してなくなってしまうような、そんな不安定感を抱くからかもしれない。
ただ、嫌いではない、と思う。というか、興味がある、という表現の方がより正しいかもしれない。つまり、村上春樹の発想の繋がり、連想の極み、展開の意外性。そうした、物語とは別次元での興味を抱かせる作品だと思う。
村上春樹は、どこかへと続く7つの世界の入口をこの短編集に収めたのだ。入口を入った瞬間、僕らが自由に世界を定められる。いや、入口をくぐる前に世界を望むのかもしれない。
求める世界へと飛躍する扉。そんなどこでもドアのような作品だと、僕は思います。
しかしながら、やはり村上春樹の作品の感想を書くのは難しい。
それぞれの作品をごく簡単に紹介しようと思います。

「蛍」:僕はある寮に住んでいる。ルームメイトは潔癖症の変わった奴。偶然出会った知り合いと、時々時間を過ごす。寮での日常。変わっていく関係。そして蛍。

「納屋を焼く」:僕は、パントマイムを練習しているという女性に出会い、付き合うように。ある日突然アフリカへ行き、突然帰ってくると、彼氏を連れていた。その彼氏を連れて僕の家に彼女が来た時、彼女が寝てしまったのを見計らって彼が言った。「僕は納屋を焼くんです」。

「踊る小人」:夢に出てきた小人。象を作る工場で働く僕は、小人の話を聞きにある老人の元を訪ねる。老人は、華麗に踊りやがて消えてしまった小人の話を僕にした。工場で有名な美女。誰にもなびかない彼女を僕はものにしたいと思った。ダンスのうまい彼女を振り向かせるため、小人の力を借りダンスを踊るのだが。

「めくらやなぎと眠る女」:時折耳が聞こえなくなるといういとこを連れて病院に行くことに。会社を辞めていなかに戻ってきた僕。バスの中にひしめく老人。時刻を気にするいとこ。病院では僕は、既視感を覚える。どこかで見たような気が。昔を思い出す。いたずらにばらばらになった記憶を繋ぎ合わせ、めくらやなぎと眠る女の話を思いおこす。

「三つのドイツ幻想」:さらに三つの短編からなるこの短編は、僕には紹介できません。

「蛍」を読んだとき僕は、「ノルウェイの森」から抜書きしてこの短編が生まれたのだと思ったのだが、どうやら書いたのはこちらの方が先のようだ。つい最近「ノルウェイの森」を再読したので、かなり驚いた。
僕は、どうしてか説明は出来ないけど、「納屋を焼く」と「踊る小人」が好きです。

村上春樹「蛍・納屋を焼く・その他の短編」