黒夜行 2010年01月31日 (original) (raw)

アカネちゃんはカナちゃんとは対照的に、実に男の子っぽい女の子だ。髪の毛も短いし、スカートを履いているのをあんまりみたことがない。外見にあんまり気をつかわないみたいで、化粧も最小限。目が大きいから、化粧をすればもっと映えると思うんだけど、そんなことには頓着しないみたい。目が小さい志保には羨ましい限りだ。性格もさっぱりしていて、本当に男の子と一緒にいるんじゃないかって思うことも時々ある。
「ベルは?とりあえず並ぶ?」
ベルというのが志保のあだ名だ。三人は同じガーデニングサークルに所属しているんだけど、そこではよくシャベルを使う。サークルの備品のシャベルもあるし、自前のシャベルを使いたいという人にはその保管場所も用意されているんだけど、志保は毎日必ずシャベルをバッグに入れて持ってきては、その都度家に持ち帰っている。それを知って驚いたアカネちゃんがつけたあだ名だ。
このシャベルは、小さい頃好きだった男の子にもらったものだった。

「失踪シャベル 3-3」

内容に入ろうと思います。
本書は本屋大賞のノミネート作になっている作品です。江戸時代実際に存在した渋川春海(作中ではほぼ安井春海という名前で出てくるけど)の生涯を描いた小説です。
春海が行ったことは、新たな暦を生み出し、それを正式な暦として認めさせる『改暦』です。
御城で碁を教える、というのが元々の春海の役職でした。身分の高い人に稽古をつけたり、将軍の前で碁を打ったりするのが本来の仕事です。
しかし一方で春海は、算術にも大いなる興味を持っていました。算盤片手にあらゆる問題を解くことを趣味とする男は、ある時とある神社の絵馬に算術の問題が書かれているという噂を耳にします。
実際に行ってみると、確かにある。そして春海はそこで、『関』という名の算術に関して異常な才能を持った男の存在を知ることになります。『関』というのは、和算の創始者として名高い関孝和のことです。とはいえその頃はまだ、趣味であらゆる問題を解きまくっているだけの、春海と同年代の若者でした。
春海は関という数学者の才能に惚れ込み、会いたいと望みながらも気持ちの踏ん切りがつかず、迂遠にも関に問題を出して挑戦するなどというやり方で己の存在を示そうとします。春海にとって関は、純粋に趣味として興味を持つ存在でしたが、改暦に際して関は春海に重要な示唆を与えることになります。
一方で、春海の身辺はどうにも慌ただしくなります。意味も分からず武士のように帯刀されられるようになったかと思えば、何を考えているのかわからない大老酒井の謎めいた問いかけがあり、また水戸光国(後の水戸黄門)との面会ありと、どんな思惑がなされようとしているのか春海にはさっぱりわからない状況が続きます。
その延長線上に、改暦がありました。
しかしそこに至るまでも長い道のりがあり、また改暦に挑戦し始めてからも長い道のりがあり…。
というような話です。
いやはや、これはまあ傑作でした!もうべらぼうに面白かったです!一応時代小説という括りになるのかもしれませんが、舞台が江戸時代というだけで、文章なんかは現代小説と同じです。いろいろと覚えにくい(と感じるのは、僕が歴史が苦手だからでしょうか)固有名詞が出ては来ますけど、会話も古臭いわけでもないし、文章も読みやすいので、時代小説ってちょっと…、みたいな風に思って読まないのはちょっともったいなさ過ぎる作品だと思います。
まずこの作品、登場人物たちがとにかく素晴らしい!
主人公の春海は言うまでもなく素晴らしいキャラクターをしています。武士のような格好をしているけど武士ではなく、一応長男ではあるけど長男のようではなく、碁を仕事にしてはいるけど既に飽きていて、算術にのめりこんでいる。これだけでも充分にいいキャラですけど、読めば読むほど親しみも湧くし親近感も覚えるしで、実にいいですね。なんとなくですけど、時代小説の主人公って武士とか町人みたいなイメージがあって、どっちもシャキッとしているような感じがあるんだけど、春海は基本的に全然シャキッとはしていません。うだつの上がらない、という表現をしてもいいくらいなんだけど、そこがまあ憎めないわけですね。
関孝和もいいです。ほとんど後半にしか出てこないんだけど、なかなか強烈な印象を残します。しかし名前だけは知ってましたけど、関孝和って凄い人だったんですね。今では当たり前の方程式(2X+3=5みたいなやつ)を欧米や中国の数学者の成果を知らずに独自に編み出したらしいし、恐らく世界で初めて行列式というものを考え出したみたいですよ。すげーな、ほんと。関孝和は、ありとあらゆる問題に一瞬で答えを出すことから、「解答さん」あるいは「解盗さん」と呼ばれているんだけど、そう呼ばれるのも当然か、という感じがしました。
あとはいろいろ思いつくままに挙げてみるけど、まずえん。えんは春海がとあるきっかけで出会う武家の娘なんだけど、男勝りというかまさに武家の娘という感じの女で、こういうチャキチャキした女性が好きなんでよかったです。対照的に、春海の最初の奥さんであることも、ほとんど作品には出てきませんけど、「ことは、幸せ者でございます」と常に言っていた病弱な女は、なかなか印象深かったです。
道策という、碁打ち一家の仲間でありライバルである年下の男もよかったですね。この道策は、とにかく碁の申し子みたいな男で滅法強いんだけど、何かにつけて春海との勝負をしたがるんですね。これ、わかんないけど、腐女子とかには結構ウケるような関係なんじゃないかなと思います。
安藤という、どういう理由でかは忘れたけど春海と同じ家に住んでいる男がいて、春海と同じく算術が得意で、後に春海と共に改暦を目指すことになるんだけど、この礼儀正しい男もよかったです。特に安藤が一番初めに出てきた時、持ち慣れない刀を腰に差した春海にきちんとした帯刀の仕方を教える場面なんか最高だなと思いました。
星の観測のために日本中を旅する際に、隊長と副隊長であった建部と伊藤もよかったです。二人とも子どもみたいで無邪気な感じがよかったです。
春海が残した功績に表面切って悔しがる水戸光国とか、ほとんど何を考えてるのか分からない大老酒井なんかもいいキャラでした。特に酒井が最後春海を呼んでしたことはじんときました。
あと印象的なのは、保科正之でしょうか。たぶん実在の人物なんでしょうけど、読めば読むほどとんでもない人間だなと思います。ほとんど一人で、江戸という街を、そして脱・武士という理想を成し遂げたような男で、この男は凄まじいなと思いました。
まあそんなわけで、他にも魅力的なキャラクターはたくさん出てくるだろうけど、とにかく一人ひとりが活き活きしていて、実に魅力的です。このキャラクターの強さみたいなものが、本作の大きな魅力の一つだろうと思います。
ストーリーも実にいいですね。どこまでが史実でどこまでが創作なのか分からないけど、おおよそ史実に沿って話が進んで行くんだろうと思います。にしてはちょっと出来すぎてますけどね。改暦にまつわる展開は、これほんとに史実なのか?と思いたくなるほど魅力的な展開で、なかなか信じがたいものがあります。
改暦にまつわるあれこれを読んでいると、ソニーのことを思い出しました。ベータの雪辱をブルーレイで取り返したみたいな、なんとなくそんな印象があります。
春海は一旦とんでもな窮地に陥るわけなんですけど、でも結果的にそれが吉と出たわけです。しかも、とんでもない偉業をほとんど一人で成し遂げてしまっているんだから、やはりとんでもない男です。ケプラーの法則がまだ日本に入ってきていない頃、惑星が楕円軌道を描いているというのを恐らく日本で初めて突き止めた人じゃないでしょうか。すげーよ、ホント。
いやしかしまあこの春海、挫折ばっかりなんですね。挫折の連続です。よくもまあこれだけ打ちのめされて、それでも前に進めたものだな、と思います。この作品を読んでいると、もし春海がいなければ、日本にはまともな暦は生まれることはなかったんじゃないかん、なんて思ったりもします。凄いものだなと思います。
改暦に関わる部分だけではなくて、碁や算術を通じた人々との関わりや、あるいはちょっとした恋など、いろんな要素が盛りだくさんの作品です。バカの一つ覚えのように繰り返しますけど、まあこれは滅法面白いです。この作品は、もしかしたらもしかすると本屋大賞取るかもしれません。とにかく傑作です。是非読んでみてください。

冲方丁「天地明察」