黒夜行 平台がおまちかね(大崎梢) (original) (raw)

書店の前に立つと、未だに緊張する。もうこうして書店を訪問するようになってかなり経つのに、未だに慣れるということがない。でも僕は、そんな緊張感がたまらなく好きなのだ。この緊張感を味わいたくて、こうして書店を回っていると言っても言い過ぎではない。
意を決して店内に入る。店内で作業中のスタッフに声を掛け、文芸書の担当者を呼んできてもらう。この店に来るのは初めてだ。というか僕の場合、一書店を訪問するのは一回だけだ。常に、初めましての会話から初め、じゃあまた来ますと言って別れるけれども、その書店には二度と足を運ぶことはないのである。そうするしかないのだから仕方ないとは言え、ちょっと残念だなと思わないでもない。
「初めまして。一二三出版の竹中と申します」
名刺を出して渡すのはさすがに慣れてきた。こればっかりやっているのだ。
「あぁ、一二三出版の方ですか。営業の方が来たのって初めてかもしれないなぁ。そうじゃないですか?」
「えぇ、たぶんそうだと思いますね。ウチは営業を四人でやっていますんで、なかなか回りきれないところがありますよね」
「まあ仕方ないですよね。そういえばあれ売れてますよ、『緑の敷地にガナリアン』。ウチのスタッフが好きでね、趣味みたいなもんですけどね」
「ありがとうございます。あれを売っていただけている書店さんは他にあんまりないでしょうからねぇ。嬉しいです」
「文芸書は最近落ちてるからね。ちょっとでも活気のある話は嬉しいよね」
「そうですね。それでこんな本もあるんですけど、いかがですか?今吉田山書店で週売30冊を超えてるんですよ」
「へぇ、『マルコム仏陀』ですか。変なタイトルですねぇ。ノンフィクションですか?それなら今あの辺に似たようなのを置いてるからそこに混ぜてみようかなぁ」
「ありがとうございます。あと、こっちもなかなかいいんですよ。まだ数字は出てないんですけど、今編集がイチオシなんです。馬蝶書店の長柄さんにPOPを書いてもらおうなんて話もありまして」
「あの長柄さんにかぁ。それはいいですね。じゃあそれも置いてみますよ」
「ありがとうございます。じゃあ番線をお願いします」
こうやってスムーズに話が進んでいくと気持ちがいい。何のかんのと言って、やっぱり本屋が大好きなんだな、と思うのだ。
さて、次の書店でも回ろうか。『マルコム仏陀』なんて本は存在しないし、これからも発売されることはないだろう。僕も、出版社の営業の人間ではない。ただ趣味で書店営業のフリをして本屋を回っているだけだ。一度訪れた書店には二度と行けないし、その内この悪事が誰かに見つかってしまうことだろう。それでも、病み付きになってしまった。だったら本当に書店の営業になればいいんだろうけど…。
まあ人にはいろいろあるのだ。

一銃「書店営業」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、書店営業マンを主人公にした連作短編集です。それぞれの内容を紹介しますが、その前にざっと大まかな設定だけ。
主人公は、明林書房の営業マンである井辻智紀。学生時代からアルバイトをしていた出版社で正社員として採用されて半年。とある事情で編集部には行きたくないから、そっちに行けと言われないように営業部で頑張ろうと思っている。
智紀は、吉野という今は編集部にいる先輩の営業区域をすべて受け持った。吉野先輩は書店員から絶大な人気を誇っていて、智紀が営業になってから一年が経つのに、未だに吉野先輩の話を聞かされる。吉野先輩を越えられるような営業マンになることが目標だ。
智紀はよく書店で、佐伯書店という出版社の営業マンである真柴司と鉢合わせる。真柴は、営業マンとしては智紀の先輩に当たるが、図々しく不真面目そうに見えるので素直に尊敬できない男である。智紀のことを「ひつじくん」なんて呼び方をするし。
そんな中で智紀は、書店さんときちんと向き合っていい仕事が出来るようにと、日々営業マンとして頑張っているのである。

「平台がおまちかね」
智紀は、上司から受け取ったデータを見て首を捻った。ある書店で、明林が五年前に出し、そこまで売れているわけでもない文庫本を異常に売っている店があったのだ。これまで行った事のなかった書店だったので早速足を運んでみた。そこでは、目立つ平台すべてがその文庫で占められていて、飾りつけもすごかった。それはすべて店長がやっているとスタッフから聞いた智紀は、お礼を言おうと店長に話し掛けたのだけど、ぶっきらぼうな対応の上、最後には帰ってくれと言われてしまった。一体どういうことなんだろう…。

「マドンナの憂鬱な棚」
書店営業マンの間で、「マドンナ」として通っている書店員がいる。書店営業マンの間で抜け駆けを防ぐべく、「マドンナの笑顔を守る会」なんてのが存在するくらいだ。
そのマドンナが落ち込んでいるという話をある営業マンが口にした。何でも、「つまらない女だ」と言われたのだそうだ。なんだと、我等がマドンナにそんなことを言うやつはどこのどいつだ、と「守る会」のメンバーはいきり立ち、マドンナを元気付けるためにあれこれ手を尽くすことになるのだが…。

「贈呈式で会いましょう」
明林書房が手掛けている新人賞の授賞式が今日行われる。その準備に借り出された智紀だったが、ちょっと買出しに出かけた際にとある老人に、大賞受賞者に伝言があると言って呼び止められた。その伝言とは、『君もずいぶん大胆な手を使うようになったじゃないか』というものだった。智紀には意味がわからない。
伝言を伝えようと控え室にやってきた智紀は、そこでとんでもない事実を知る。なんと大賞受賞者が行方不明だというのだ。一体どこにいるんだ…。

「絵本の神さま」
初めの内は首都圏近郊の書店しか回っていなかった智紀だったが、ようやく慣れたということもあって、東北に出張に出ることにした。そこで向かった一軒の書店が閉店していて、智紀は愕然とした。前任者である吉野がその書店で写真を撮っていたのだ。それを渡すつもりだった。
その本屋は周辺でもかなり評判のいい書店で、なかでも絵本の品揃えはピカイチだったそうだ。誰もがその閉店を惜しんでいた。
一方で、智紀の周囲でその閉店した書店に関わりそうな小さな出来事がいくつも続いた。これは一体何を意味しているんだろう…。

「ときめきのポップスター」
ある書店で、なかなか面白い企画をやることが決まった。その書店に出入りする営業マンが、他社本にPOPをつけ売上を競う、というものだ。最も売上を上げた営業マンが、翌月のある平台一面を独占できる、というご褒美つきだ。
智紀ももちろん参加することにした。なるべくメジャーな作品ではなく、埋もれてしまいそうな発掘本をということで、なかなか面白い本が並んだフェアになった。
さてそのフェア開始後、何だか奇妙なことが起こるようになった。真柴が選んだ本が平台の上でどんどんと移動していくのだ。何だろう、これは。何かのメッセージなんだろうか…。

というような話です。
いやぁ、これは非常に面白かったですねぇ。大崎梢さんと言えば、「成風堂」という本屋を舞台にしたシリーズが有名ですけど、僕はこっちの出版営業シリーズの方が好きかもしれないですね。
どっちのシリーズも謎解きを主体にしたミステリなんですけど、こっちの出版営業シリーズの方が舞台が広い分やっぱり面白くなりますね。書店が舞台だと、どうしても書店の中での話に限定されがちで、内容もちょっと狭くなってしまいがちだけど(それでも、「成風堂」シリーズでよくもまああそこまで書店を舞台にしたミステリを書けたものだ、と感心していますけど)、出版営業のシリーズでは、ある一書店だけではなく全国各地様々な書店を舞台に出来るし、さらに自社や他社を含めた出版社も舞台にすることが出来ます。その分幅が広がるわけで、これは是非じゃんじゃんシリーズ化していって欲しい作品ですね。
僕のイチオシは、「絵本の神様」です。これは、ミステリ色はそんなに強くないんですけど、ラストの展開が秀逸ですね。思わずうるっと来てしまいましたよ。いい話だったなぁ。
ミステリ色が強いのは、「マドンナの憂鬱な棚」と「ときめきのポップスター」ですね。「マドンナの憂鬱な棚」は、初めはちょっと無理があるかなぁという導入だったんですけど、最後まで読むと、なるほどそういうことでしたか、と納得でした。かなり巧い設定だなと思いました。
「ときめきのポップスター」は、謎解きの部分よりも、ここで扱われているフェアそのものにかなり興味アリでした。確かにこのフェアは面白いと思います。出版社の営業の人に他社本を薦めさせて、一番売れた人に平台を全部あげるなんて、これやろうと思ったら出来そうですよね。ウチはそこまで書店営業の人が来る方でもないと思うんで難しいかもしれないけど。面白いアイデアだなぁ、と思いました。
「贈呈式で会いましょう」もミステリタッチだけど、ちょっと違う感じがしますね。何だかいろんな人間模様が絡んでいて面白いです。
人間模様が絡むといえば「平台がおまちかね」もそうで、これもミステリと言えばミステリですけど、面白い展開の話ですね。ありがとうと言いに言ったのに追い返されてしまった智紀は残念ですが、まあこういう事情なら多少は諦めも付くかなという感じです。
書店を舞台にしたミステリというのもかなり珍しかったですけど、書店営業をメインにしたミステリというのもかなり珍しいでしょう。今までなかった分野ではないかと思います。書店や出版社を舞台にしているからと言って、一般の人に分からないような内輪なネタがあるなんてことは全然ないです。もちろん、書店や本に興味のある人なら充分楽しめる内容になっています。これは面白い作品ですよ。是非読んでみてください。装丁も面白いですしね。
余談ですが、出版社の営業にも様々にいて、僕はやっぱり強引な人は好きになれないですね。特に、フェアを無理矢理入れようとする人は嫌いです。
さらに余談ですが、本作中二箇所誤植を見つけました。
253P 「指示」→「支持」
256P 「強力」→「協力」
ですね。まあもう誰かが気づいて出版社に連絡していることでしょう。

大崎梢「平台がおまちかね」

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