黒夜行 「ルーム」を観に行ってきました (original) (raw)

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宇宙の外側には何があるのか、という問いがある。
現在の物理学では、この問いに明確な答えを返すことは出来ない。

『“へや”の外は宇宙空間。TVの惑星がある』

様々な仮説を唱える人はいる。しかし、現時点ではそれらはすべて仮説に過ぎない。どれかの仮説が正しいと証明される日は、来ないかもしれない。
何故なら「宇宙の外側」は、定義出来ないからだ。

『壁の向こうって?』

宇宙というものがどう定義されているのか、正確には知らないが、しかし一つ言えることはある。
それは、僕らに“見える”範囲だけが宇宙なのだ、ということだ。

『リスと犬はTVの中にしかいない』

“見える”というのは、人間の目でなくても良い。電磁波でも赤外線でもなんでも、とにかく人間が何かを“見る”ためには、光などの電波的なものが何かにぶつかり、それが反射したものを捉えなければならない。
その限界が、宇宙の限界だ。

『TVに入りきらない』

人間が見ることが出来るなら、それは宇宙の外側ではない(見える、のだから、それは僕らが把握できる宇宙だ)。そして、人間が見ることが出来ないのなら、それは存在しないのと同じだ。

『“世界”なんて嫌いだ。僕信じない』

この時、「宇宙の外側」というのは、一体何を指すのか。それは、存在すると言えるのか。存在するとして、僕らにそれは影響するのか。

『TVの中のものは本物なの。
本物みたいな物はすべて本当にあるのよ』

生まれた時からずっと“へや”にいた少年。
この“へや”こそが世界のすべてで、壁の向こうは宇宙空間であると教わった少年。
TVに映るものはすべてニセモノで、この“へや”の中のものだけが本物だと教わって育った少年。
彼にとっての「壁の向こう」を理解しようと、「宇宙の外側」のことを考えてみたのだけど、やはり僕には想像出来ない。

『ロウソクはないの?
本物の誕生日ケーキにはロウソクがあるのに』

『裏庭って何?』

『“世界”はTVの惑星にそっくりだ』

彼には、僕らが生きているこの“世界”が、どう見えているだろうか?

『どのドアにも内側があって、外側もあるんだ』

“へや”の中で暮らす母・ジョイと子・ジャック。四方は壁に囲まれ、窓は天窓のみ。入り口のドアには暗証番号で開くロックキー。風呂に入りながら服を洗濯し、狭い“へや”の中で運動をし、時々やってくる“オールド・ニック”の登場に怯えつつ、“オールド・ニック”からの“日曜日の差し入れ”で彼らは生活している。
ジャックは毎朝、部屋の中の友達に挨拶をし、料理を手伝い、“オールド・ニック”に買ってもらったラジコンで遊ぶ。誕生日ケーキにロウソクがなかったり、“オールド・ニック”が来る夜はクローゼットから出ちゃ駄目だったり、色々不満はあるけど、それでもジャックは、この“へや”での生活が当たり前で、ジャックなりに快適に暮らしていた。
一つのきっかけは、罰として部屋の電気を止められたことだった。ジャックが5歳の誕生日を迎えたことも大きい。ジョイはジャックが、物事を理解できる年齢になったと判断した。
ママは17歳の時、誘拐されたの。
ここは納屋で、私たちはずっとここに監禁されているの。
ママの話を、ジャックは理解できなかった。聞きたくなかった。壁の向こうは、宇宙空間のはずだった。TVの惑星は全部ニセモノのはずだった。ジャックには、“世界”のことは理解できなかった。
『ママのことを助けて』
でも、そうママに言われたから、ジャックは理解しようと努力した。そして、ママが立てた作戦を実行する勇気を振り絞った。
『ドアのそばで待つだけじゃ何も起こらない 「不思議の国のアリス」』
ジョイは、“へや”の外の世界に“脱出”した。
しかしそれは、ジャックにとっては、未知の惑星との“直面”でしかなかった…。

というような話です。
素晴らしい映画でした。絶賛されるのも納得の作品でした。

この映画では、「ジョイにとっての脱出」と「ジャックにとっての直面」を同時に描いている、という点が素晴らしい。まったく同じ行為をしていながら、ジョイとジャックではまるで違う意味合いになる。

ジョイにとって“へや”での生活は、制約でしかない。17歳で誘拐され、7年に渡り監禁され続けている。外の世界を知っているジョイにとっては、“部屋”は狭く臭い場所でしかない。彼女には、この上京をどうすることも出来ない。だから、諦めとともにどうにかここで生きていくしかない。しかしジョイは、いつでも外の世界を希求しているし、現状の生活に終わりのない不満を抱えている。

ジャックにとって“へや”での生活は、日常だ。彼には、「壁の向こう」の世界など存在しない。世界には、自分とママだけがいて、その他ささやかに部屋の中に存在するもの以外、この世には何も存在しないと思っている。普段食べているものは、“オールド・ニック”がTVの中から魔法を使って取り出しているのだ、と解釈している。ジャックは、母親の説明を頼りに、自分なりに世界のあり方を構築している。
そんな彼にとって“へや”での生活は、そう悪いものではない。何せ、生まれた時からここにいるのだ。“へや”以外での生活を知らないから、比較にしようがない。TVの惑星のことは、存在しないものだと思っているので、比較対象にはならないのだ。

ジョイは、“へや”からどうにか脱出したいと思っている。しかしジャックにとって、「壁の向こう」に出ることは恐ろしいことでしかない。彼にとってそこは、何も存在しない宇宙空間なのだ。彼にとって「壁の向こう」は、異世界でしかない。

この二人の価値観の差は、“へや”から抜けだした後も彼らを縛り付けることになる。

『私変よ。ハッピーなはずなのに』

7年ぶりに元の世界に戻ってきたジョイ。自分は幸運であり、家族とまた再会し、何でもある広い世界で暮らせることを幸せに感じている。“へや”での悪夢のような生活から逃れられたことに感謝している。

しかし、ジョイの心は落ち着かない。脱出出来たことの喜びを噛み締め、穏やかな日常が戻ってくると、ジョイは次第に荒んでいく。
「どうして自分がこんな目に…」という気持ちが大きくなっていったのだろう。
外の世界を知っていたが故に、失われた7年間のことを虚しく思い出してしまう。何故自分だけがという気持ちが他者にも向いてしまう。

『(たくさんのおもちゃを指して)子供が喜ぶものよ。少しは触って。(レゴを持って)こうやってくっつけるのよ。やって』

『私がいなくても楽しくやってたくせに!』

『ママが人に優しくっていうから、あいつの犬を助けようとしたのよ!』

失われた7年間をなかったことにするために、一刻も早く“普通”を取り戻すために、ジョイは心の平穏を失っていく。

『あのベッドがいい。“へや”の』

ジャックにとっては、“世界”の方が不安でたまらなかった。TVの中のニセモノだと思っていた人間が“世界”にはたくさんいて、色んな人が話しかけてくる。色んな音がする。光が眩しい。TVの惑星の食べ物が出てきて、怖くて食べられない…。

『「いつまでここにいるの?」
「ずっと住むのよ」』

“世界”に出てきてからのジャックは、極端に口数が少なくなる。何を考えているのか、分からない場面の方が多い。恐らく、誰にも理解できないだろう。それはまさに、僕らが「宇宙の外側」について考える時と同じくらいのわけのわからなさだ。しかもジャックは、存在するはずのない「宇宙の外側」に足を踏み入れた少年なのだ。彼が世界をどう捉え直し、何を感じ、どうしたいのか。誰にも理解できるはずがない。

『時々帰りたい。
いつもママがいた』

ジャックにとって“へや”は、いつでも至近距離にママがいる場所でもあった。“世界”に出てきてからは、そうじゃない。ママ以外の人間がたくさんいるし、ママとずっと一緒にいられるわけでもない。“へや”ではママを独り占め出来たのに、“世界”ではそうじゃない。「囚われている」という自覚のなかったジャックにとって、“へや”の方が快適だった、というのは分かる気もします。

『“へや”に帰ろうよ。ちょっとだけ』

映画を観ながら、刷り込み効果のことを考えていた。鳥が、生まれてから初めて見た動くものを親だと思ってしまう現象のことだ。生物には、与えられた環境で生きていくための、行動を決定づけるスイッチが様々な形で用意されているのだろう。

ジャックにとって“へや”は、生きていくのに当たり前の空間だった。“へや”での常識がジャックの常識になり、“へや”での生活スタイルがジャックの生活の基盤となった。それが生物学上の親でなかろうと動くものを親だと思ってしまう鳥のように、それが正しい世界認識でなかろうとも自分が生まれ育った場所を普通と捉えてしまうことは当然だろう。本当にあったことかどうか真偽は知らないが、昔「オオカミに育てられた少女」という話が広く知られていた。本当にそんなことがあったとすれば、ごく一般的に育った場合とはかけ離れた価値観になるのも当然だろう。

『ドアが開いてると“へや”じゃない』

ジャックは、生まれてから5年間過ごした“へや”を見て、すっかり変わってしまった様子を確認する。「縮んだ?」と母親に確認するほどだ。

『ママも“へや”にさよならして』

生まれた時からあった“へや”。“世界”に恐怖して時々戻りたくなってしまう“へや”。それがもう既に存在していない。ジャックがそれをきちんと認識した時、ジャックの新たな人生は始まったと言えるかもしれない。

この映画は、脱出するまでの監禁されている生活の悲惨さ(しかしジャックにとっては必ずしも悲惨ではない)と、脱出した後の戸惑いや不安などを描く部分が実に秀逸だが、物語全体で言えば、彼らが脱出を企てそれを成功させるまでの部分が一番ハラハラさせられた。ストーリー展開上、この脱出計画は成功するに違いないと確信していたのだけど、それでもどうなってしまうんだろうか、とドキドキしながら見た。この物語は、実話からインスピレーションを得て作られたフィクションが原作のはずだ。実話を元にした話は、重厚感やテーマ性などに優れているが、ストーリー性という意味では弱いことが多い(貶しているわけではなく、実話を元にしている以上それは仕方ないことだ、と思って見ている)。しかしこの映画は、実話をベースにしつつ、脚色も加えたフィクションが元になっているので、ストーリー性も十分にある。その分、映画としての完成度も高いように感じられた。

『でもそれが彼にとって、最良の方法だった?』

この問いに、世の母親はどう答えるだろうか?

「ルーム」を観に行ってきました

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