黒夜行 罪の声(塩田武士) (original) (raw)

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「事実」には、圧倒的な力がある。
僕はそれを、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読んで、改めて実感した。

「殺人犯はそこにいる」では、北関東で起こったある事件が取り上げられている。似たような複数の事件を、連続殺人なのではないか?と著者は考えるが、そこには大きなハードルが横たわっていた。
事件の一つが、犯人逮捕という形で「解決」されていたのだ。
しかし、連続殺人事件であるという直感に導かれ、著者はその「解決された事件」の冤罪を証明し、さらに連続殺人事件の犯人まで特定した。
しかし警察は、その犯人を逮捕することが出来ない。そこには、司法が抱える特大の闇が隠されているからだ。
それらをすべて、地道な取材から解き明かした、著者の執念の一冊なのだ。

「殺人犯はそこにいる」が持つ「事実」の圧倒的な力には、震えが来るほどだ。僕らがどんな現実に足をつけて日々を過ごしているのか、僕らが視界に入れないまま過ごせてしまう様々な闇がどうなっているのか。普通に生きているだけでは知ることが出来ない「僕らの日常を成り立たせている要素」を垣間見せてくれる作品で、「事実」というものの積み重ねがどれほど力を持つのかということをまざまざと見せつけられた思いだった。

しかしその一方でまた、本書から僕は「物語」の力を思い知らされた。

「事実」は、「事実であるという事実」によって、圧倒的な力を持つ。「事実」とは、現実という平面に刻まれた傷そのものであり、一つの大きな傷を眼前に提示されることで、他にもそんな傷が山ほど存在するに違いない、という思いを抱かせることにもなる。

しかし「事実」には出来ないこともある。
それが、「余白を埋める」ということだ。

ニュースなどを見ていて、もどかしい思いをすることもある。例えば何か事件なりトラブルなりが起こるとする。それらは、何らかの形で外側から切り取られた様々な「事実」をベースに報道される。しかし、現代の報道は、それでは終わらない。様々な識者の見解、関係者の周囲にいる人間の生い立ち、僅かな情報から組み立てられた憶測など、「事実とは言えないもの」や「事実だが本筋とは関係ないもの」なども報道に組み込まれていく。

それは、「余白」を埋めたい、埋めて欲しい、という欲求から来るものなのだろう、ということは理解できる。

とはいえ、その試みは大抵成功しない。いや、視聴率や雑誌の購買率という意味では「成功」と判断されることもあるだろう。しかし、ある事件なりトラブルなりを「見る」上で、それら「事実」以外のものというのは、ほとんど役に立たない。状況をかき回したり、無意味に人を傷つけたりしながら、時にそれら「事実」以外のものは、「事実」さえも捻じ曲げるように働くようになるからだ。あらゆる人間が一個のメディアとして世の中に関われるSNSというツールが発達したこと、また、インパクトのあるものしか訴求力を持てなくなってしまったことなどにより、報道がどんどん「事実」以外のものを取り込まざるを得なくなっている現実はもう変えようがない。世の中の大きな動きは、まだどうしたってメディアを通じて手に入れるしかない中、メディアが内包するその矛盾を認識した上で、僕らはメディアと接するしかないのである。

そういう時代の中でこの作品は、「事実」と「明確に組み上げられた物語」を実にうまくつなぎ合わせることで、現代の報道がなかなか実現できないものを提示することに成功した、実に稀有な物語であると僕は感じた。

昭和史を揺るがせた「グリコ・森永事件」。本書は、この事件を細部まで徹底的にベースとして描きながらも、そこに著者自身の「物語」を組み込んでいくことで、謎だらけのこの黒い昭和史の「余白」を見事に埋めている。

読みながら時々、ノンフィクションを読んでいるような気分になった。いや、その表現は適切ではないだろう。ノンフィクションは「事実」によって構成されている以上、「余白」を細部まで埋めることはほとんど不可能に近い。この物語は、「事実」をベースにしながら、それら「事実」にピッタリと当てはまる「物語の断片」をいくつもいくつも根気よく見つけては貼り合わせるという作業を通じて「余白」を埋めていく。それはノンフィクションとはまったく異なるものだ。そういう意味で本書の読書体験は、ノンフィクションを読むのともまた違う、ちょっと異質なものだったように感じられる。

本書は、「未解決事件の加害者家族」に焦点が当てられる。帯には『家族に時効はない』『未解決事件の闇には、犯人も、その家族も存在する』と書かれている。

犯人が特定された事件における加害者家族については、僕らは知る機会がある。報道などにモザイク処理されて引っ張り出されることもあるし、ノンフィクションなどでは、加害者家族に会おうとして会えなかった、というような描写が出てくることもある。いずれにせよ、直接それを知る機会がなかったとしても、自宅や職場にマスコミが殺到し、近所からの目を避け、厳しい現実の中を生きていかなければならないのだろう、という想像をすることは出来るし、その想像は大きく外れてはいないだろうという感覚を持つことも出来る。

では、未解決事件の加害者家族はどうだろうか?
当然だが、僕らは彼らについて知ることはほとんど出来ない。未解決である以上、犯人は特定されていないのだし、であれば家族についても分かるはずがない。

『本作品はフィクションですが、モデルにした「グリコ・森永事件」の発生日時・場所・犯人グループの脅迫・挑戦状の内容、その後の事件報道について、極力史実通りに再現しました。この戦後最大の未解決事件は「子どもを巻き込んだ事件なんだ」という強い想いから、本当にこのような人生があったかもしれない、と思える物語を書きたかったからです』

著者は巻末に、そう記している。僕は知らなかったが、「グリコ・森永事件」では、犯人グループが録音した子どもの声で脅迫などを行っていたらしい。では、その子どもは今どうなっているのか?本書をどこから着想したのか僕は知らないが、著者の中には常にこの問いが横たわっていたことだろう。

この物語が「事実」そのものではない以上、当然、現実の「グリコ・森永事件」で使われた声の子どもが本書で描かれている通りに生きているはずがない。しかしこの物語は、圧倒的なリアリティを以ってその子どもの架空の人生を切り取って見せることで、その子どもの実際の人生に思いを馳せさせる、そんな強い力を持っている。これを「事実」でやってしまうのは、描かれる側にも描く側にもあまりにも重すぎる。そしてそれ故に、読む側も穏やかにそれを読むことが難しくなる。フィクションだと分かっているからこそ僕らは、架空の人生を経由して、実際の人生を想像してみようと思えるのだ。

「事実」にしか出来ないことがある。そして「物語」にしか出来ないこともある。昭和史を揺るがせた圧倒的な「事実」と、事実と事実の間を隙間なく埋める恐ろしく微調整された「物語」を見事に融合させたこの物語は、両者が持つ力を相殺させることなく互いに倍化させた、強い力を持つ作品だと僕は感じた。

内容に入ろうと思います。

京都市北部の住宅街に「テーラー曽根」という店を構えている曽根俊也は、ある日、母から頼まれたモノを探している途中で、見覚えのないものを発見する。透明なプラスチックケースに入ったカセットテープと黒革のノートだ。
カセットテープには、幼い頃の俊也自身の声が録音されていた。そして黒革のノートには、解読出来ない英文の合間に、【ギンガ】【萬堂】の文字が。
まさか。
検索サイトで「ギン萬事件」と入力しまとめサイトに行き着いた俊也は、そこで信じられない事実を知ることになる。
このテープは、戦後最大の未解決事件と言われる、複数の製菓・食品メーカーを恐喝した大事件である「ギン萬事件」で、電話越しの脅迫で使われたものだ、と。
スーツの仕立て一筋だったはずの父と「ギン萬事件」はどうしても結びつかない。しかし、それなら誰か親族が関わっているとでも言うのか…。俊也は、父の幼馴染であり、これだけの大きな事柄を唯一話すことが出来る堀田に相談をし、可能な範囲で「ギン萬事件」と曽根家との関わりを調べることにする。
一方で、大日新聞の文化部の記者である阿久津英士は、上司の指示で社会部の鳥居を訪ねることになった。社内でサツ回りと言えば真っ先に思い浮かぶ人物であり、やり手だが強引な男だ。文化部のようなのんびりした雰囲気で仕事を続けたいと思っている阿久津にとっては、会いたくない人物だ。
その鳥居から阿久津は、メチャクチャな指令を下される。大日新聞は年末に昭和・平成の未解決事件の特集を組むことが決まっており、大阪本社はギン萬事件をやるという。そして「英検準1級だから」という雑な理由でロンドンへの派遣を命じられた。なんでも、世界的ビールメーカー「ハイネケン」の社長が誘拐された事件の際、この事件について聞き込みをしていた「ロンドン在住の東洋人の男」がいたという情報があるのだという。ギンガ社長の誘拐は、ハイネケン事件の四ヶ月後。手口など模倣している点が多いことなどから、その東洋人がギン萬事件に何らかの形で関わっているのではないか、と鳥居は言うのだ。そこで、ハイネケン事件を担当したロンドンのリスクマネジメント会社の元交渉人に当たり、それからその東洋人を探せ、というのだ。
無茶だ。一介の文化部記者に出来る話ではない。しかし鳥居に、そんな話が通用するはずがない。阿久津は、まともなネタをとってこれる見込みもないままロンドンでの取材を開始する。
それから、専従としてギン萬事件に関わることになる阿久津。様々な資料を読み込み、鳥居の嫌味をなんとかかわしながら、出来る範囲で取材を続けていく。あらゆる方向から取材を続けた阿久津は、ついに突破口となる大ネタを手にするが…。
というような話です。

とんでもなく面白い作品だった。冒頭の文章でも書いたけど、読みながら「この作品は事実なのではないか」と思っている自分に気づく瞬間が何度かあった。物語の展開にハラハラするのではなく、事実を読み進めていくかのような妙な高揚がもたらされる作品で、そう思わせるだけの力を持つ強い作品だと感じた。

この作品は、家族の物語として描かれている。まずその土台がとても良い。曽根俊也は、曽根家の名誉のために事件を調べ始める。そして阿久津は、取材を進めていく中で、加害者の家族、特に脅迫にその声が使われたと思われる三人の子どもに視線が向けられていく。

俊也にとっては、寝耳に水の話だ。記憶にないとはいえ、自分の声があの戦後最大の未解決事件で使われている。このことが世間に知られたら、自分が父から受け継いだこの勝手の良い店は、娘の詩織は、自分の人生はどうなってしまうのだろうか。そんな葛藤と同時に俊也は、親族の誰かがあの事件に関わっているのならそれを知りたい、という気持ちを抑えることが出来なくなっている。それはただの好奇心ではなく、加害者家族としての責務と俊也は捉えている。自分に責任があるかどうかはともかくとして、親族の誰かがあれだけのことをしでかしてしまったのだとすれば、自分にもなにがしかの責任はついて回るだろう。俊也はそう考えている。その責務が、彼を突き動かしている。知られたくはないが、知りたい。知ろうとすれば知られるかもしれない、という恐怖に常に苛まれながらも、俊也は責務を胸に前へと進んでいく。

自分が俊也だったら、と考えずにはいられない。僕は一体何を考えるだろうか。とてもではないが、責務、などということは考えられないだろう。知らんぷりするか、逃げるか。物語を進めるには俊也が動かざるを得ないという都合ももちろんあるだろうが、そういう「動かされている」というような感覚はまるで感じられない。俊也が悩みながらもなんとか踏ん張って、未来を見据えながら目の前でどんどんと膨張していくどす黒い現実に対峙しようとするあり方はとても潔く、誠実であると感じた。

一方で阿久津は、取材を進めることで、それまで意識したことのなかった加害者家族の存在を認識するようになる。脅迫のために子どもの声を使うという卑劣なやり方を取った犯人たち。その子どもたちは、自分の声が事件に使われたことを知っているのか?知っているのだとすれば今何をどう思って生きているのか?そもそも彼らはまだ生きているのか?まったく乗り気でない取材に組み込まれた阿久津だったが、次第に、彼ら加害者家族のために前へと進んでいこうと決意するようになる。

彼らは、通常の加害者家族とは違う。解決済みの事件であれば、心無い批判が殺到するのと同時に、差し伸べられる手もあるだろう。しかし、未解決であるが故に、その存在すら誰にも知られない状態になっている。事件とは無関係に穏やかに生きている可能性ももちろんあるが、取材の過程でその可能性は低いと思わざるを得なくなっていく。ならば彼らはどんな風に生きているのか。

戦後最大の未解決事件をただ題材に使った、という甘い作品ではない。現実の事件という事実に、まったくの虚構を丁寧に組み合わせることで、そこに家族の物語を現出させる。日常を舞台にしては描くことが出来ない家族の形、人生を描くために、戦後最大の未解決事件という舞台を選んだ。そういう必然性のある物語であると感じた。「

物語がどう展開するのかは是非読んで欲しいが、非常に秀逸だと感じるのは阿久津の取材の描写だ。
「グリコ・森永事件」をベースにした「ギン萬事件」は、未解決事件である。警察が最大量の人員を投入し、あらゆる角度から捜査をしてなお未解決である事件なのである。それを、一介の新聞記者がひっくり返すというのはよほどのリアリティを以って描かなければ難しい。ありがちな描写であれば、「それぐらい警察の捜査で判明するのではないか」と思われてリアリティを生み出すことが難しい。

しかし本書は、ごく僅かな情報や時の流れによる変化、些細な矛盾から導き出される仮説など、確かにこれなら警察力をもってしてもたどり着けなかったかもしれない、と思わせるだけの状況を見事に描き出していく。幸運ももちろんあるのだが、そればかり続くのも興がそがれる。その辺りのバランスを絶妙に取りながら、少しずつ全体像が明らかになっていく展開は非常に面白いし、現実と間違えそうになるくらいのリアリティがある。

また、実際の事件の展開や痕跡などはそのままに、それらにきちんとした説明を与える犯人像の造形も素晴らしい。ギン萬事件(というかグリコ・森永事件)には様々に不可解な点が残されている。著者は、犯人グループの造形を絶妙に行うことで、それらの疑問点に無理のない説明を与えることに成功しているように感じる。動機の浅はかさ、犯人グループの面々の性格や行動原理、計画された行動と不測の事態に対処するための行動。結果として生み出された不可解な点が、それら犯人グループの様々な設定によって綺麗に説明がついてしまうのもまた、本書のリアリティを担保しているといえる。

著者が創作した虚構が、実際の事件の中に絶妙に組み込まれて一層のリアリティを生み、そのリアリティに支えられた世界観の中で「家族」というものを描き出していく見事な作品だ。凄い読書体験だった。

塩田武士「罪の声」

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