五輪招致反対派の落胆と祝福 (original) (raw)

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小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明

五輪招致反対派の落胆と祝福

やっかいな原稿になってしまった。

書きにくい理由は、私自身が五輪招致に反対だったからということもあるが、それ以上に、東京の五輪招致活動は失敗に終わるものと決めてかかっていたからだ。

招致成功の可能性をゼロと踏んでいた以上、当然、私の脳内には、失敗を前提とした予定稿が着々と出来上がりつつあった。
そんなわけなので、9月8日の朝、パソコンを立ち上げて、東京招致の結果を確認した瞬間に、私のシステムは、フリーズした。

リセットと再起動には、4時間ほどの時間を要した。
具体的に言うと、午前7時に結果を確認した後、私はそのまま11時までふてくされて二度寝をしたのでした。

ある年齢を超えると、願望と予測の境界が曖昧になる。今回は、そのことを思い知らされた。

単純な賛否について言うなら、私は、百パーセントの反対論者だったわけではない。いくつか、反対する理由をかかえていたということで、比率で言うなら、反対7、賛成3ぐらいの気分だった。

が、予想の面では、9割方東京の目は無いと思っていた。
現時点から振り返って見るなら、その予測に、たいした根拠があったわけではない。
そうなってほしいと思っていただけだ。
願望がそのまま予断として私の思考を限定していたわけだ。

そういう意味では、私は、安倍首相がスピーチの中で「(福島第一原発の)状況はコントロールされている」と言明したことを、非難する資格を持っていないのかもしれない。
願望なり希望なりが、いつしか現実認識として根を張ってしまうことは、多かれ少なかれ、誰にでも見られる傾向だ。

それが今回の招致プランの中で頻発されていた「夢を見る」ということの実態でもある。
もっとも、政治家の場合は、夢を見るだけでは困る。
彼らには夢を実現してもらわねばならない。

東京招致が実現して、私が落胆しているのかというと、実はそうでもない。
半分ぐらいは祝福する気持ちでいる。
なんというのか、たった一夜のうちに、賛否の割合が五分五分ぐらいのところまで変化したわけだ。
わがことながら、なんと軽薄な心構えであろうか。

おそらく、半年もすれば、私の内心は、期待が6割に不安が4割ぐらいの比率になっている。でもって、7年後の開催時には、ワクワク感9割の好々爺になり果てているはずだ。そういうふうにして人の心は動く。オリンピックのようなものに反対を貫くことは本当にむずかしい。

個人的には、招致決定でほっとしている部分もある。

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というのも、招致に失敗した場合、私は、政権基盤の軟弱化に焦る安倍首相が、いよいよ本気になって憲法改正に乗り出す予感を持っていたからだ。

それが、五輪というわかりやすいフラッグを手に入れたことで、安倍首相にとって、国民統合のために無理をせねばならない理由は当面、消滅する。であるからして、憲法改正の動きは、しばらくおあずけになった、と、私はそう思っている。まあ、当たっているかどうかはわからないが。

招致のためのプレゼンテーションは、ほとんど見なかった。
後々の検証のために録画はした(←どうせ見ない)のだが、ナマ進行の映像は5分ほどしか見ていない。画面の中に横溢する全員一丸な雰囲気についていけなかったからだ。

なので、プレゼンをめぐるあれこれについては、ツイッターに流れてきたレポートや、新聞社のサイトに掲載されたスピーチの全文を通して眺めていた。で、当日(9月7日のことだが)は、その間接的な観察結果をもとに、ツイッター上で色々といちゃもんをつけたりしていたのだが、いまからそれを再現するつもりはない。

敗れ去った招致反対派が自分のいちゃもんを未練たらしく繰り返すことは、五輪万歳のテレビ局が、招致決定の瞬間を何十回もリピート再生して反芻している態度と同様、みっともないと思うからだ。

ただ、予想を外した人間が言うのもどうかとは思うのだが、今回、開催都市として東京が選ばれたのは、必ずしも最終プレゼンテーションのパフォーマンスが優秀だったという理由からではない。

東京での開催が支持を集めたことは、わが国の政治経済外交を含めた総合的なプレゼンスがそれだけ評価されていたということであり、同時に、わたくしども日本人のホスピタリティーが世界の人々の心に深く浸透していたことを意味している。ついでにいえば、オリンピック精神を奉ずるIOC委員からの高い評価の背景には、平和憲法への敬意が、いくぶんかはあずかっていたはずだ。

ということはつまり、招致成功は、必然だったのである。
こういうことを広告代理店や戦略家の手柄に帰してはいけない。

最終プレゼンテーションを紹介する番組を見ていて私が不快になったのは、出演者の多くが口先のスピーチや小手先の交渉術をやたらと重視しているように見えたからだ。
色々と複雑な背景があるとはいえ、世界の目は候補国の実相を見ている。私自身は、五輪招致への賛否は別にして、開催国として選ばれたことについては誇りを持って良いと思っている。

ついでに、五輪招致に反対していた理由を明らかにしておく。
この期に及んで、五輪の開催に水をかけるつもりで言うのではない。
いまさらながら反対理由を述べるのは、個人的に、五輪招致に反対していた人間は、開催が決まったら、要望を投げかける役割に転じるべきだと考えているからだ。

オリンピックのような巨大イベントについての賛否を問われると、われわれは、反射的に「日本のために」という枠組みでの模範答案を作成しにかかる。

「日本の未来のために」
「日本人の団結のために」
「東日本のすみやかな復興のために」

でも、実際のところ、賛否は、個人的なものだ。
少なくとも私は、色々なことについて、いつも「オレにとってどうか」という視点で考えている。

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