2013-04-21 (original) (raw)
先日“「ゲームは一日15分」の時代背景”というエントリを書いたら、「我が家はこんなルールでした」というツイートをたくさんいただきました。(Thanks!)
子どもの教育や育て方に関しては各家庭に様々なルールがあり、どれかのみが正しいということはありえません。
ゲーム機も買い与えず、一切ゲームをさせないという方針で育てたら、子どもが勉強にも運動にも積極的に取り組み、期待通り文武両道の優等生になることもあるだろうし、
そういうものに一切触れずに育ったがために、将来、巨大な成長産業となるゲーム関連分野に興味もセンスも持てない、みたいなことも起こりえるでしょう。
何が良くて何が悪いかなど結果論に過ぎず、親は子供のために良かれと思ってそうしているのだから、
子どもから見て(それがたとえ結果的に、イマイチな教育方針だったとしても)、それで親を怨むようなことはありません。
子どもに必要なのは正しい教育方針ではなく、親の愛情だからです。
ただ学校に関して言えば、できる限り「思考停止にならないよう」教育したほうがいいかなとは思います。
たとえば、「なぜ本は学校に持ってきてもいいのに、マンガを持ってきてはいけないの?」とか、
「なぜ読書は一日 3時間でもよくて、ゲームは 1時間しかだめなの?」という問いは、
論理的に物事を考える訓練をするための非常に良いトピックです。
なのに、「それは我が校のルールなのだ」(から、そんなことを説明する必要も、議論する必要もない!)と、思考停止するよう求めたり、
「ゲームのやりすぎはよくないからだ」などという、なんのデータも理屈もない結論を押し付けるのは、
教育機関が子供たちに対して「組織や年上の人の言う事には、何も考えずに思考を止めて従え」と教えてるようなもので、それってさすがにマズイでしょ。
★★★
前回のエントリで、ゲームは一日 15分というルールだと、ドラクエが一生クリアできないと書きました。
「じゃあ、一回セーブしたら終わりというルールにしたらどう?」と聞いたら、「雑魚敵相手に延々とレベル上げするだけならまず死なない。
宿屋と往復してたら、一度もセーブしなくても何時間でもプレイできるから、それじゃあ子供は何時間でもやってる」と言われ、
「じゃあ、一日 1時間というルールならいいの?」と聞けば、「ラストダンジョンは 1時間じゃ終わらない」と言われる。
ではどういうルールが適切なの?
ってことを、親子なり先生と生徒なりで話し合って考えればいーじゃん。
そんな中から、一日 30分ルールなんだけど持越可能で、3日我慢すれば1時間半やってもいいとか、(外で遊べない)雨の日はちょっと長くやってもいいというルールはどうだとか、いろんな案が出てくるし、そもそも何がよくないんだっけ? という議論だってできるはず。
こういうルールを、子どもに自分で考えさせることの方が、「一日一時間」とかのルールを上から決めるより、よっぽどいい教育になるのでは?
社会は「組織や上司が決めたことに素直に従う人」ではなく、「自分で判断できる人」を求めてるのに、なんでそういうふうに教育しないのかなという話。
★★★
ちょっと長くなるけど、先日の呟き
一定の年齢を超えると、あきらかにお金より時間のほうが「制限性が高いリソース」になるので、お金の使い方より、時間の使い方のほうが圧倒的に気になり始めるよね。(とか言いつつ、くだらないツイートをつづけてるとか、どーなんだ問題はある)
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
とはいえ、ツイッターは楽しいので無駄な時間とは思わない。無駄な時間とは、楽しくない時間のことだから。とにもかくにも「楽しくない時間」をいかに最小化するかが、もっとも重要な人生戦略
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
韓国ドラマ見てる時間も楽しいので、無駄な時間じゃありません。繰り返しますが、無駄な時間とは、自分が楽しいと思えないことをやってる時間のことです。それを最小化するのが超大事。掃除が嫌いなら、お金払ってでも掃除しなくていい方向にもっていくべき
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
最近、つまんない時間だと思うのは、「やればできることがわかっていて」「やったあと何が起こるかもわかってる」みたいなことに時間使うことだよね。それ、やる必要ないやん、って思う。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
たとえば「この人と一時間話をすれば、こういう話が聞けるんだろうな」とわかった時点で、その人と会うのって意味なくない?って思い始める。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
人生の時間のどれくらいを誰と共有するかは、人生がどんなもんになるかを、ほぼ規定する。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
さっきのは、別に結婚相手ということだけじゃなく、どんな人と仕事するか、どんな人と食事するか、どんな人と飲みに行くか、とか全部だよ。 「誰と時間を過ごすのか」は、「何をするか」とほぼ同等(もしかしたらそれ以上に)大事
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
忙しい人生は嫌い。あたしは誰かに求められていないと自分の存在価値が確認できない人じゃないから。超ヒマな毎日でも、十分に生きる意味も生きる意義も感じられる。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2013年4月18日
ちょっとあちこち行っちゃってるツイートですが、言いたいことは、「自分の時間をどう使うか、それについて自分の基準をしっかり持つって大事だよね」という話。
人生の時間を「成長につながること」、「社会に価値の出せること」、「人に評価されること」に使わないといけない、みたいな強迫観念は、ちきりんにはありません。
ひたすら自分が好きで、楽しいことをやっていたい。
人間にとって最も限られてるリソースは「人生の時間」なんです。
「お金がないと何もできない」的なことをいう人も多いけど、実際には何より限られているのは時間であってお金じゃない。
お金は工夫で増やせるけど、時間は無理。お金は貯めておいて一気に使うこともできるし、貸し借りも可能。
でも時間だけは刻々とリアルタイムで消費されていく。20代は 10年しかないし、30代も 10年しかない。
どう生きるかを決めるというのは、「自分の人生の時間を、何にどれだけ配分するか決める」ということなんです。
なのにそれをいつまでも他者(親や所属組織)に決めてもらってるようじゃ、どーしようもない。
小学校から高校までは決められた一定の時間、学校の教室に座ってないといけない。でも大学に入れば、時間の使い方はほぼ自由になる。
だから初めて「人生の時間配分の全権を持った」大半の人が、自分の時間を何に使うべきか、わからなくなってしまう。(私も最初の半年くらい、生活がめちゃくちゃになってました)
でも、それを通して「あたしは自分の人生の時間を、どう使いたい?」ってのが理解できる。
シムシティや韓国ドラマにはまるのも同じ。なにかに時間を取られると「私は自分の人生の時間を、何にどう使いたいんだっけ?」って自問することになる。
それを通して、自分なりの「人生の時間配分の方針」が決まってくる。
多くの人は、就職して会社に入ると再び「人生の時間配分権」を自ら組織に献上し、手放してしまう。
そして 20年。40代半ばになって、ふと気が付く。「これってホントにオレの人生?」、「あたしってこういうふうに生きたかったんだっけ?」
子供たちは大人から「○○は一日○時間」と言われる生活から、どこかで「俺は人生の時間のこれだけを○○に使う」と、自分で決める人にならなくちゃいけない。
もちろん中には「自分の人生の時間を何にどれだけ使うのか、自由度が少ないほど気楽だ」みたいな人もいるんだけど。
<ちきりんパーソナルブログからのセレクション>
・タンザニア サファリの写真集
とても素敵な写真です。ぜひお楽しみください。