2015-07-06 (original) (raw)
一昨日の夜、長野に着いた時、私は“長野市といえば善光寺”以外、なんの知識も予定も持っていませんでした。
そこで、ツイッターで「善光寺の他、どこに行けばいいでしょう?」と聞いてみたんです。
そしたらアレコレ情報を頂けたので、「だいたいこんな感じで動けばいいのね!」とラフなイメージを持つことができました。(情報をくださった皆さん、ありがとうございます!)
で、それに沿って、朝から動いてみます。まずは長野電鉄というローカル線で、その昔、生糸で栄えた須坂という町へ。
長野電鉄って、特急には成田エクスプレスの車両(右)、各駅停車には東横線の車両(左)と、「どっかで見たことあるよ、コレ」な車両を使ってて楽しいのです。
これが須坂の駅。ちきりんが大好きなローカル駅で、駅の向こうにはもちろんイオンの看板。
ここにはたくさんの博物館があるんですが、特に昔の豪商の家が博物館になってて、彼らが使ったモノが展示されてる田中本家博物館は、家も庭も展示品も驚くほどのクオリティで、
海外から(特に欧米から)観光客を呼べるレベルです。
てか、須坂全体でグローバルな旅行先として十分に通用します。善光寺に来られた方には超お勧め。
駅近くのクラッシック博物館も、障子や窓の枠などのデザインがすばらしかった。この辺の写真は後日パーソナルブログにアップしますね。
これがまたすごい展示で、びっくらたまげました。
東京でも同じような展示会や施設はありますが、これは展示の方法がとても粋でした。
「戦に関わる資料は敢えてもってこず、戦争による生活の変化がわかる展示品に絞ってます」と主催者の方が言われるとおり、
たとえば今もある女性誌の「主婦の友」。
(以下、『主婦の友』の表紙写真はすべて『S12.S20 信州と戦争の時代』 前川英樹(戦場体験放映保存の会)著より)
日米開戦前の昭和 12年(上)は表紙もカラーで、女性は明るい笑顔を見せています。特集も「娘と妻と母の衛生読本」に、「夏の婦人服や子供服の作り方」です。
当時の日本が豊かで文化度の高い国であり、みんな楽しく暮らしていたってことがよくわかります。
ところが戦況が厳しくなった昭和 18年あたりから・・・下記を見てください。
女性の表情はものすごく厳しくなり、新年号だというのにお正月の華やぎは全く感じられません。11月号にいたっては、防火ずきんを被った女性に「国土防衛戦」というコピーです。
さらに戦況が進むと、暗い悲壮感の漂う絵柄となり、ページ数も以前の半分ほどに減ってしまっています。
そして終戦間際にはいよいよ白黒、かつ、紙不足でページ数も激減(右)してるんです。これじゃあ、前と同じ雑誌とは思えません。
さらに左側は敗戦直後の昭和 20年 8月号。極度の食糧難に瀕した世相を反映し、特集内容も「どうやって生き抜くか」(野草や昆虫の食べ方?)に変わってしまいました。。。
↓
このように特定の雑誌をずっと追いかけることで、いかに戦争が豊かで幸せな生活を破壊していくものなのか、感覚的に理解できるというわけです。
他にもたくさんの興味深い資料が揃っており、とても感銘を受ける展示手法だったので、「これは是非、ツイッターでみんなに知らせよう!」と思ったのだけど、なんと展示は3日間だけで、この日が最終日とのこと。
あらま。ブラブラ歩いてて、偶然こんな展示会に遭遇できるなんて、私はとってもラッキーだったんですね。
その後はツイッターでお勧めされたコーヒーショップを目指しました。
で、どれにするかとメニューを見ていたら、すぐ後ろからピアノの音が流れてきます。
コレがまた素敵なリズムだったので振り向くと、フリースペースで無料のジャズピアノセッションが行われていました。
↓
インパクトのある声に楽しげなリズムで、思わず聞き入ってしまうほど。
しかも、東京だったら混み混みになりそうだけど、(上記の写真でわかるように)ここではイスも空いてて、座ってゆっくりジャズピアノ鑑賞ができるんです。
こうして午後は、ちょっとしたミニコンサートを楽しむことができました。
というわけで、完全 No plan で長野までやって来たのに、Social で「どこに行けばいい?」と相談したら進むべき方向性が見え、その上で当日の偶然に身を任せてあれこれ寄り道してたら、すごく素敵な1日になったというご報告。
こういう方法の方が、最初からガチガチに予定を決めてしまうより、圧倒的に豊かな結果につながったりする。
そしてそれは旅だけじゃなく、仕事でも人生でもたぶん同じなんです。
これからも私は、No plan で Social で、そして偶然を大切にして、生きていきたい。
そう思えた1日でした。