コンサドーレ札幌とは スポーツの人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

チーム名の由来

"道産子"を逆さ読みした"コンサド"と、"オーレ"を組み合わせた造語。
一般公募によって決定。
2016年度よりチーム名を「コンサドーレ札幌」から「北海道コンサドーレ札幌」へ変更予定。

出資企業

サポーターズ持株会が筆頭株主となっている。
他に石屋製菓、サッポロビール、丸井今井、JR北海道、北海道新聞社、ハウスメイト、札幌市交通局など地元企業200社以上も出資。

クラブ沿革

前身は川崎市にあった東芝サッカー部
1996年、Jリーグブームに沸く中「プロスポーツ不毛の地北海道にプロクラブチームを!」の声が上がり、北海道を拠点とする若手財界陣が東芝サッカー部の誘致に成功。
1998年にジャパンフットボールリーグ(旧JFL)からJリーグへの昇格に成功するが、翌1999年よりJリーグ ディビジョン1(J1リーグ)とJリーグ ディビジョン2(J2リーグ)の2部制に移行するのに伴い行われたJ1参入決定戦で、アビスパ福岡に敗北しJ2に降格。このころにはJへの参入時に行った派手な補強が災いし、チームの財政は破綻同然となった。
1999年に元日本代表監督の岡田武史を監督招聘。1999年シーズンはクラブチームの指揮の経験の無い岡田監督による選手起用がかみ合わず5位と低迷。
2000年シーズンは、選手層も薄く財政基盤も貧弱なチームが確実に勝利できるよう、一点注力主義の身の丈サッカーを身上に徹底したカウンターサッカーを展開。ついにはブッチギリの成績でJ2優勝を決め、J1昇格を果たした。

2002年シーズンは柱谷哲二が監督に就任したが、外国人選手の不振もあってチームは低迷、その後2回の監督交代、その場限りの補強も実らず、Jリーグ始まって以来最速のペースでJ2への降格を決めてしまう。

2003年シーズンは、鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイトなどで指揮を振るった名将ジョアン・カルロスを招聘。一年でのJ1復帰を目指した。
札幌に在籍していた2001年に得点王となったウィルが復帰し、ホベルッチ、ベットの元ブラジル代表選手、世代別の日本代表である今野泰幸らの活躍が期待されたが、監督の途中交代、外国人選手のトラブルによる退団、戦術が定まらないまま試合に臨み低迷し、結局9位と言うチーム史上最低の成績でシーズンを終える。

2004年シーズンは基本に立ち返るため、多くのベテラン中堅選手を解雇、U-23日本代表キャプテン・今野泰幸を移籍させ、若手中心のチームを一から築く方針に転換(5ヶ年計画)。若手選手の育成に定評ある柳下正明監督を招聘した。
結果、序盤の不調が仇となってクラブ史上初のJ2最下位となるも、天皇杯ではまさかのベスト8進出を果たし、現状の路線が間違いではないことを示した。
2005年シーズンは、昇格争いに加わり6位。コンサドーレ札幌U-18は2005年高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会で準優勝を果たした。チームはこの年にアイスホッケーのNPO法人札幌ポラリスと北海道教育大学と相互協力協定締結を結んだ。

2006年シーズンはホーム開幕戦で乱闘によるフッキの退場という幸先の不安なスタートだったが、9勝7敗6分と5位で前半折り返した。しかし健闘むなしく、最終的に前年と同じ6位でシーズンを終える。柳下監督はこの年を持って退任することが決定した。
天皇杯ではJ1の3チームに連勝。準決勝ではガンバ大阪に惜敗もベスト4に輝いた。

2007年は、前年まで大宮アルディージャを指揮していた、三浦俊也監督が就任。J2優勝でJ1復帰を決めた。しかし、2008年シーズンは4勝6分24敗の最下位で、わずか1年でJ2に降格した。
2009年より石崎信弘が監督に就任。石崎体制3年目の2011年シーズン、21勝5分12敗の3位で4年ぶりにJ1復帰を果たした。

J1に復帰した2012年シーズンは、シーズン前半の4月8日に最下位に転落して以降、一度も順位が上がることなく、最終的には17位に勝点24の大差をつけられて最下位*1に沈み、1年でJ2陥落となった。