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樺山資紀

樺山資紀(1837年10月20日-1922年2月8日)は、日本の軍人、政治家。海軍大将、伯爵。大勲位菊花大綬章受章。

薩摩国鹿児島城下高見馬場(現在の鹿児島県鹿児島市)生まれ。
薩摩藩士橋口与二郎の三男で、樺山四郎左衛門の養嗣子となる。
薩英戦争、戊辰戦争、台湾征討に従軍、西南戦争では熊本鎮台参謀長として籠城。
1878年陸軍大佐、近衛参謀長。
1880年大警視を兼任。
1881年官職名変更により警視総監となった。
1883年には陸軍少将から転じて海軍大輔となった。
海上勤務の経験なくして1884年海軍少将、1885年中将に昇任し、軍務局長、次官、第1次山県、第1次松方内閣で海軍大臣を歴任ののち、枢密顧問官となって予備役編入。
日清戦争では海軍軍令部長として現役復帰。
1895年史上2番目の海軍大将になり、同時に初代台湾総督。
第2次松方内閣の内相、第2次山県内閣の文相となった。第2議会の議場で藩閥政治擁護の演説をし、「日本今日の発展は薩長のおかげだ」といって物議をかもした。
1903年元帥となる。

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