紀州惣国とは 地理の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)
紀州惣国
(
地理
)
【
きしゅうそうこく
】
かつての紀伊国北西部の一部のこと。
このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
関連ブログ
反俗日記•1ヶ月前
<根来寺>探索予備資料集。過去の日根野「庄」への小旅行の続きだ。反俗日記。 根来寺に行くことにした。過去の日根野「庄」への小旅行の続きだ。 日根荘 - Wikipedia 歴史 「天福2年(1234年)に九条道家が開発を申請したところ官宣旨が下り、日根荘が成立するに至った。九条家領は寄進地系荘園が多く、九条家自らが開発した日根荘は特異な存在であった。」 *** W。以下の観点からの小旅行であった。 「中世当時の様子は『九条家文書』や、文亀元年(1501年)3月から永正元年(1504年)12月まで九条政基が入荘した際に記した『政基公旅引付』などの古文書から窺い知ることができ、 戦国時代、日根荘の領主であった九条政基が長福寺に4年間滞在していた時に記した日記。…
関連ブログ
ホリショウのあれこれ文筆庫•2ヶ月前
第1169話 鈴木孫一と雑賀衆序文・鉄砲傭兵 堀口尚次 鈴木孫一は、雑賀衆(さいかしゅう)、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一や平井孫一〈平井は孫一の居所〉という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。孫一やその一族のことは分かっていないことが多く諸説ある。 戦国期から江戸時代にかけての文献には紀州雑賀衆の孫一〈雑賀孫市〉の記述がみられる。石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめたとされる。この人物については、石山合戦で討ち死にしたとする説、秀吉の雑賀攻めのときに藤堂高虎に謀殺されたとする説、小田原征伐でも鉄砲頭として戦い生涯を終えたとする説、関ケ原の戦いで石…
bogus-simotukareのブログ•3ヶ月前
櫻井よしこのバカさに呆れる(2024年8月31日記載)「 松浦光修氏が語る特別な『わが国』 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト 「言論テレビ」で皇學館大学教授の松浦光修氏*1に語ってもらった。 松浦氏は安倍晋三*2総理や中川昭一氏*3らが創った若手保守議員の勉強会(後の創生日本*4)の、いわば指導に当たった人物である。 「昔は政治家、言論人、学者、みな『わが国』という言い方が普通でした。ところが最近は『この国』という表現が一般的になってきました。司馬遼太郎さん*5の『この国のかたち*6』というエッセイの影響もあるかもしれません。けれど実は、敗戦でGHQが日本を占領したとき、使用を禁止された多くの言葉の中にも『わが国』が入っているのです」 言葉…
根来戦記の世界•6ヶ月前
根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立前記事で紹介したように、紀州・根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との間で派閥争いが表面化してくるのだ。 客僧はあくまでもゲストであって、根来寺においては重要な職に就くことはできなかった。いずれは地元に帰っていく者たちが多く、その数も少なかったから、当初はそれでもよかったのだ。だが時代が下るにつれ、客僧の数が増大してくる。日本全国から集まってきた客僧には、また極めて優秀な者たちが多かったのだ。 根来の座主は、京にいる院家出身の僧…
根来戦記の世界•6ヶ月前
根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する、幕府の影響力の増大である。将軍の覚えめでたい僧侶らが幕府の威光を背に、金剛峯寺や大伝法院の座主に就任してくるようになるのである。 こうした影響を受けて、大伝法院の管領権が一時的に八条院に移ったり、鎌倉幕府の後押しを受けた金剛三昧院が新たに台頭してくる、などの変化はあったのだが、基本的には「金剛峯寺vs大伝法院」の争いの構図は変わらない。1242年にも金剛峯寺…