高倉天皇とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

高倉天皇

(

一般

)

たかくらてんのう

平安時代末期の天皇。名は憲仁(のりひと)。
在位中は後白河上皇*1が院政を行っていた。
平家物語』で有名な建礼門院平徳子の夫であり、安徳天皇の父である。

*1:天皇在位中に法皇となる。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ

🪻源氏物語&古典blog 和歌&漢文🪻3ヶ月前

【平家物語 第1巻】🪷祇園精舎 🗡️殿上闇討 🐟鱸すずき🍃禿髪かぶろ🌹一門の栄華 🌸祗王👑二代の后🖼️額打論🔥清水寺炎上🤴東宮立 🏇殿下乗合🏔️鹿ケ谷⚔️鵜川合戦🤲願立🌺御輿振❤️‍🔥内裏炎上祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声、 諸行無常の響《ひびき》あり。 娑羅双樹《しゃらそうじゅ》の花の色、 盛者《しょうじゃ》必衰の理《ことわり》をあらわす。 おごれる人も久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。 猛《たけ》きものもついにはほろびぬ、 偏《ひとえ》に風の前の塵《ちり》に同じ。 少納言のホームページ 源氏物語&古典 syounagon-web ぜひご覧ください🪷 https://syounagon-web-1.jimdosite.com 💠聴く古典文学📚少納言チャンネルは、聴く古典として動画です。チャンネル登録お願いします🌷 【ふるさと納税】【波佐見焼】【水晶が映し出す神秘的なお茶の…

#二位尼#敬礼門院徳子#安徳天皇#高倉天皇#伊勢平氏

関連ブログ

源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸5ヶ月前

平家物語79 第4巻 厳島御幸③〜The Tale of the Heike 🌊翌十九日、 大宮大納言 隆季《たかすえ》の徹宵の準備で 御幸はつつがなく行なわれた。 三月も半ばを過ぎている。 霞に曇る有明の月おぼろな空の下、御幸の一行は、 地に淡い影を落しながら鳥羽殿へ向った。 鳥の声、空を渡るのを見上げれば、 遥か北陸を目指す雁の群である。 一群消えればまた一群、哀れをもよおす雁の声は、 御幸の者の胸にひびいた。 鳥羽殿についたのはまだ未明であった。 御車より上皇は降り、門を開いて進んだ。 すでに春は暮れなんとしている。 薄暗い木立、人の気配すらない。 木々の梢の花色あせて、 樹葉は早くも夏を告げる装いをしている。 鳴く鶯《うぐいす》の声も力なく老いていた。 上皇の胸に…

#厳島#安芸#御幸#行幸#高倉天皇

源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸5ヶ月前

【平家物語50 第3巻 赦文①〈ゆるしぶみ〉】〜The Tale of the Heike🌊治承二年の正月がやってきた。 宮中の行事はすべて例年の如く行われ、 四日には、高倉帝が院の御所にお出でになり、 新年のお喜びを申し上げた。 こうして表面は、 いつもながらの目出度い正月の祝賀風景が繰りひろげられていたが、 後白河法皇の心中は、内心穏やかならぬものがあった。 成親はじめ側近の誰彼が、殺されたり流されたりしたのは、 つい去年の夏のことである。 その生々しい光景はまだ、昨日のできごとの様に、 まざまざと心に甦《よみが》えってくる。 その事をおもい出すごとに、法皇の胸には、 清盛に対する、いや平家に対する憎悪の念が、 いやましにひどくなってゆくのである。 諸事万端、物憂く、 政事《まつ…

#高倉天皇#平徳子#敬礼門院#赦文#大人の人形劇

alchemist_380 のひとりごと5ヶ月前

無機の「窒素三態」前回の振り返り: 清少納言は細やかな心の持ち主だったと信じるに足る材料がありました。やってしまうタイプの人とその職場環境には、必要なはずの知識も職務への責任感も足らなかったようでした。消してしまいたい黒い過去は、誰にでもあるのでしょうけど。 さて、白楽天のネタをもう一つ。こちらは平家物語です。 安徳天皇の父、高倉天皇(第80代:1161生~1181没)、十歳のころ。紅葉を大変愛され、庭に紅葉を植え、一日中眺め暮らしておられたそうです。 ある夜、野分(のわき)はしたなうふいて、紅葉みな吹きちらし、落葉頗る狼藉なり。 ここでいう「野分」はたぶん「台風」。紅葉は「はしたなし」「狼藉」と表現されるほど…

#清少納言#平家物語#高倉天皇#野分#酒を煖めて紅葉を焼く#植物プランクトン#酸化・還元

源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸6ヶ月前

【平家物語15 第1巻 殿下の乗合〈でんかの のりあい〉〜The Tale of the Heike🪷嘉応《かおう》元年七月十六日、後白河院が出家された。といっても、今まで通り、政務は、続けられていたから、別に変りはなかった。益々わがまま一方になる平家のやり口については、心の内で、何かとご不満を感じていられた様子だったが、それを公けにされたわけでもなく、 平家の方でも当らず、さわらずといった態度で、 表面は、何事もない平和な日が過ぎていった。 が、事件は、思いがけないところから、口火を発することになった。 重盛の次男で、新三位《しんさんみの》中将 資盛《すけもり》は、 まだ十三の腕白坊主だが、年は若くても、 良い星の下に生れたおかげで、身分は高く、 したい放題の事をしても、誰もとがめるものがい…

#殿下の乗合#平資盛#高倉天皇#藤原基房#摂政

源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸6ヶ月前

【平家物語14 第1巻 東宮立(とうぐうだち)】〜The Tale of the Heike🪷その年は喪中のため即位の行事も取やめになったが、暮の二十四日、東の御方、建春門院《けんしゅんもんいん》の腹になる、後白河院の皇子に親王の宣旨《せんじ》があり、明けて、年号が変って仁安《にんあん》となった。この年の十月、この皇子が東宮になられたが、何と東宮は伯父《おじ》で六歳、天皇が甥《おい》で三歳という、全く政権争いの格好な道具でしかなかったのだ。 仁安三年には、この天皇が位を伯父の東宮に譲り、新院になった。新院は五つ、天皇は八つ、西も東もわからない、いたいけな幼児たちは、この頽廃《たいはい》した院政の、最も大きな犠牲者だったのである。 というのも、新しく即位した高倉《たかくら》天皇の母は平家…

#平滋子#建春門院#平時子#後白河天皇#高倉天皇

源氏物語&古典文学を聴く🪷〜少納言チャンネル&古文🌿1年前

【後鳥羽院】(99番)続後撰集 雑・1199 🌊 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は【後鳥羽院】(99番)続後撰集 雑・1199 🌊 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は 〜ある時は人々を愛しく思い、 またある時は恨めしいとも思う。 この世はどうにかならないものだろうが、 それゆえに物思いをする私であるよ。 💠 後鳥羽院 💠 ごとばいん (1180~1239) 高倉天皇の第四皇子。 源平の戦が終わり、 平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った年に5歳で即位。 翌年鎌倉幕府が成立。 19歳で位を譲り院政をしきましたが幕府と対立し、 3代将軍源実朝暗殺事件の後、 承久3年に北条義時討伐に失敗(承久の変)。 隠岐へ流され、19年そこで暮らして後、崩御。 藤原定家らに…

#承久の乱#後鳥羽院#後鳥羽上皇#北条義時#高倉天皇

源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸2年前

【後鳥羽院】(99番)🌊人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は【後鳥羽院】(99番)続後撰集 雑・1199 🌊 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は 〜ある時は人々を愛しく思い、 またある時は恨めしいとも思う。 この世はどうにかならないものだろうが、 それゆえに物思いをする私であるよ。 💠 後鳥羽院 💠 ごとばいん (1180~1239) 高倉天皇の第四皇子。 源平の戦が終わり、 平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った年に5歳で即位。 翌年鎌倉幕府が成立。 19歳で位を譲り院政をしきましたが幕府と対立し、 3代将軍源実朝暗殺事件の後、 承久3年に北条義時討伐に失敗(承久の変)。 隠岐へ流され、19年そこで暮らして後、崩御。 藤原定家らに…

#隠岐#後鳥羽院#高倉天皇#承久の乱#人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は

spring has come13日前

5.9月28日の日記今日は日がな一日のんびり過ごした。 本調子でないこともあってできることも限られているし、ぼうっとしている方がらくちんだし。窓を開けて、そのすぐそばの椅子に座って目を瞑っていると、私の体の中にまで風が通っていく気がする。気持ちがいいなと思うし、私って空っぽだわ、とも思う。ふうせんみたい。ふらふらしている。 昨日は楽しかった。と、思う。 京都貴船の川床に行った。喜らくさんというお料理屋さん。 川面すれすれに設営された床の上でお食事をいただくのだけれど、流水の表に近いというだけでひんやりとした風が吹いて驚くほど涼しかった。 目に楽しいお料理が順々に運ばれて、どれもすてきだった。中でも蓼酢でいただいた…

面白雑学ブログ!14日前

平清盛に関する雑学!武士が頂点に立つ時代を切り開いた男 Wikipediaより 皆さん、こんにちは! 今回は平清盛に関する雑学をご紹介します! 平清盛は、平安時代末期の武士であり、武士政権の先駆けとなる重要な人物です。 彼は平氏一族を日本の貴族社会の中で強力な存在に押し上げ、後に武士が権力の中心に立つきっかけを作った人物でもあります。 ここでは、彼の生涯、偉業、そして興味深い雑学を紹介します。 平清盛の生涯 誕生から力を持つまで 平清盛は、永久6年(1118年)に生まれ、平正盛の孫、平忠盛の長男として育ちました。 彼は若い頃から戦での功績を挙げ、平氏一門をさらに強大にするために尽力しました。 平清盛は、後白河天皇…

雲心月性...16日前

新古今和歌集 恋一 1034 (89)玉の緒よ絶えなば 絶えねながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする (新古今和歌集 恋一 1034)(89) 式子内親王(多紀理、Wikipedia日本語版推敲更正) 式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年)- 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、日本の皇族で、賀茂斎院を務められた方です。新三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人であり、後白河天皇の第三皇女として知られています。母は藤原季成の娘、藤原成子で、守覚法親王、亮子内親王(殷富門院)、高倉宮以仁王とは同母兄弟にあたります。また、高倉天皇は異母弟にあたります。内親王は萱斎院、大炊御門斎院とも称され、法…

日本の隅っこの歴史17日前

鹿ヶ谷の陰謀 ~ 治承・寿永の乱前半さて、平治の乱から15年くらい経った1176年(安元2年)、夏ごろから急に宮中は不幸が続きます。後白河上皇の妻、建春門院。二条天皇の中宮、高松院。後白河上皇の孫、六条上皇。近衛天皇の中宮、九条院。と、相次いで亡くなってしまいます。 この時の天皇は、六条上皇の三つ年上の叔父で、後白河上皇の息子、高倉天皇です。六条天皇は享年13才ですから、この当時16才ということになります。高倉天皇の母親は建春門院こと平滋子(たいらのじし)。清盛からみれば義妹にあたる人です。つまり、高倉天皇はお母さんを亡くしたことになり、同時に母方のバックアップを失ったことになります。奥さんは清盛の娘の平徳子(たいらのとくし)で…

ioritorei’s blog1ヶ月前

【アニメ『平家物語』】2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られなかった討たれる側の物語。アニメ 平家物語 平家物語 2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られなかった討たれる側の物語 軍記『平家物語』 軍記『平家物語』とは 作者は不詳 アニメ『平家物語』 あらすじ 2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られなかった討たれる側の物語 義経最大の武功「鵯越の逆落とし」の真相 結末を知っているからこその楽しみ方 2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られなかった討たれる側の物語 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 軍記『平家物語』 祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹さらそう…

うまずたゆまず1ヶ月前

相撲は俳句では「秋」の季語令和6(2024)年9月8日から、 両国国技館で「秋場所」が始まります。 ところで、相撲は、俳句の世界では、 「秋」の季語としてよく知られています。 奈良・平安時代、宮中では、 毎年7月 (陰暦・初秋) に 「相撲節会」(すまいのせちえ) が行われたため、 秋の行事ということになったようです。 相撲の歴史 相撲の起源~神話の中の相撲~ 宮中の年中行事「相撲節会」(すまひのせちえ) 武家社会における相撲 現在の大相撲は江戸時代にほぼ確立 明治以降の相撲 現在の相撲 祭りの儀式 独り相撲の語源「一人角力」 力士達の一挙手一投足 邪気を払う「四股踏み」 土俵を清める「塩まき」 体を清める「力水」 相…

よそもんが京都で暮らす1ヶ月前

大原の里は外国人観光客で賑わうも・・・国宝阿弥陀三尊像が納まる三千院の往生極楽院 何年振りかに大原を訪ねた。地下鉄で国際会館まで行き、そこから大原行きの京都バスに乗ると約20分で着く。バスは大体30分間隔、お昼過ぎの時間帯だったがほぼ満席で、アジアからの観光客が多かった。 大原バス停から三千院までは参道をゆっくりと登っていき、約10分の距離にある。三千院は最澄が比叡山に開いた草庵を発祥とする天台宗の門跡寺院。明治維新の後、現在の大原の地に移ったが、この地に元々あったのが往生極楽院。986年に『往生要集』を著した恵信僧都源信が父母の菩提を弔うために姉の安養尼と共に建立したと伝わる。往生極楽院の中央に座る阿弥陀如来はかなり大きい。右側…

Svelandski氏の秘められた日記1ヶ月前

建春門院2024-08-28 (水)(令和6年甲辰)<旧暦 7 月 25 日>(先勝 甲子 三碧木星) Fatima Leila 第 35 週 第 27591 日 建春門院(平滋子)は後白河院が、おそらくもっとも深く愛されたお后である。後白河院と建春門院の間に生まれた皇子が高倉天皇である。高倉天皇がお生まれになる前には、別のお后との間に二条天皇や以仁王が居られたが、いづれも若くしてお亡くなりになった。平清盛の継室・二位尼(平時子)は建春門院の姉であったこともあって、当初は後白河院は平家をさほどには憎んでをられなかった。平清盛はこの建春門院のお力添へを得て、娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れることができた。…

Svelandski氏の秘められた日記1ヶ月前

平家物語 巻第六 「小督 9」2024-08-26 (月)(令和6年甲辰)<旧暦 7 月 23 日>(大安 壬戌 五黄土星)下弦 Östen 第 35 週 第 27589 日 どうも小督殿は内裏にあって、夜な夜な帝とお逢ひになってゐらっしゃるらしいといふ噂が、どこからともなく入道相國のお耳に入った。「小督がどこかへ行ったといふのは嘘であったのだな」と入道相國は怒って、小督殿をとらへ、尼にして放り出した。小督殿にしてみれば、出家の覚悟ははじめからできてゐたのだし、むしろそれが望みであったのだし、世を捨てることには何の未練もなかったのであるけれども、いきなり暴力的に尼にされてしまったことで心に深い傷が残った。お年23歳、濃き墨…

Svelandski氏の秘められた日記2ヶ月前

平家物語 巻第六 「小督 8」2024-08-25 (日)(令和6年甲辰)<旧暦 7 月 22 日>(仏滅 辛酉 六白金星) Lovisa Louise 第 34 週 第 27588 日 未明の御所に着いた仲國は「今はまだ帝はご寝所でお休みであらう。誰に申し入れれば良いだらうか」と言って、龍の御馬をつながせ、いただいてきた装束を清涼殿の馬の書いてある衝立に投げかけ、南殿の方に回ってみた。すると帝は昨夜居られたご座所にまだ居られたままであった。和漢朗詠集の詩を吟誦しておいでである。「南に翔けり、北に向かふ、寒温を秋の雁につけ難し、東にいで、西に流る、ただ瞻望を暁の月に寄す」そこへ仲國がつっと参った。「小督殿からのお返事でござ…

京都の魅力2ヶ月前

嵯峨野散策竹林から竹林へぬける嵯峨野の道。萩の花が咲き、若い芒の穂先がうす紅にのびるころ、虫の音もどこかよそより澄んで聞こえる。時代の波に押されて破壊されゆく京都の都外でも、嵯峨野にはまだ静寂がある。嵐山の風景がひろがる渡月橋のほとりから、嵯峨野にかけては、『平家物語』に登場する薄幸な女性たちの歴史がひそんでいる。その一つ「小督塚」は、天竜寺へいく道すがらにある。小督局は、高倉天皇に大そうちょう愛された琴の名手で、天皇と対立する平清盛の圧迫を受けて、この嵯峨野の奥に隠れ住んでいた。心をいためた高倉天皇は、ある 夜源仲国に命じて 小督を探索させたがみつからず、仲国が途方にくれていると、さえざえとした月明り…

ruRiの気ままにオタ活2ヶ月前

ビルシャナ戦姫 〜源平飛花夢想〜 用語一覧字典内の用語を載せています。 自力で攻略したい方、ネタバレをなるべく踏みたくない方は閲覧をお控えください。 ⚪︎あ ・青墓の宿 ・愛宕山 ・安倍頼時 ・阿波 ・池禅尼 ・遺児 ・居丈高 ・一条長成 ・伊東祐親 ・馬筏 ・烏帽子親 ・蝦夷 ・奥州 ・近江 ・仰木峠 ・小山政光 ⚪︎か ・邂逅 ・鏡の宿 ・上総介広常 ・寡戦 ・堅田 ・被衣 ・搦手 ・火龍経 ・干珠島と満珠島 ・伽羅御所 ・矜持 ・今上帝 ・熊野 ・倶利伽羅峠 ・黒方 ・元服 ・興福寺 ・御座船 ・五条橋 ・後白河法皇 ・御母堂 ・金色堂 ⚪︎さ ・相摸守 ・相模国 ・佐竹義政 ・猿ヶ馬場 ・三種の神器 ・鹿ヶ谷 ・鹿ヶ谷の陰謀 …

Svelandski氏の秘められた日記2ヶ月前

平家物語 巻第六 「小督 1」2024-08-17 (土)(令和6年甲辰)<旧暦 7 月 14 日>(友引 癸丑 五黄土星) Verner Valter 第 33 週 第 27580 日 高倉天皇は葵の前が亡くなられた後も、ずっと恋慕のもの思ひにしづんでゐらっしゃった。そのお悲しみを少しでもお慰め申し上げやうと、中宮に仕へる女房のひとりをおそばに参らせた。その人は桜町中納言成範卿の御娘で、小督殿と呼ばれた。宮中一の美人で、しかも琴の名手であられた。ところが実は前からこの女性を思ふ人があった。冷泉大納言隆房卿である。まだ少将であった頃にこの女房を見そめられた。積極的に近づかうとして、歌を詠んだり、お手紙を書いたり、思ひのたけ…

Svelandski氏の秘められた日記2ヶ月前

「しのぶれど、、」と「恋すてふ、、」2024-07-27 (土)(令和6年甲辰)<旧暦 6 月 22 日>(先負 壬辰 八白土星) Marta 第 30 週 第 27559 日 「しのぶれど、、」の歌は平兼盛の歌である。戦記物である「平家物語」を読んでゐてこの歌に出くはすとは思はなかった。有名な「天暦の御時の歌合」があったのは村上天皇の天徳4年(960年)3月30日のこと。この歌合せで対した壬生忠見が詠んだ「恋すてふ、、」の歌とともに、ふたつの歌は並んで人口に膾炙した。高倉天皇の御代はその歌合せから220年近くが過ぎてゐた。藤原定家は、この頃18歳前後であったが、後に小倉山荘で編んだとされる百人一首にも両方の歌が並んで選ばれてゐ…

べにーのGinger Booker Club2ヶ月前

「銀杏八幡宮」「水天宮」(東京都中央区)7/29。 宴があって出かけたのですが、時間があったのでぶらぶらと。 とはいっても、それほど遠くには行けませんので、そういえば行ってないな、と思い日本橋から「水天宮」を目指しました。 と、その前に、途中にあった「銀杏八幡宮」へ。 ◯こちら===>>> 日本橋 銀杏八幡宮のご利益や御朱印、アクセス情報まとめ【読み:いちょうはちまんぐう】 | とーんと日本橋 都会の真ん中の、小さめのお社というのは、良い風情なものです。 こちらは「銀杏稲荷」でよいのかな……。 おキツネ様。 ちゃんと調べていませんが、どちらかの大名屋敷に祀られていたそうなので、江戸時代の案内にはあまり載っていないのだと思います(調べ…