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駿河国

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するがのくに

かつて日本の地方行政区分だった令制国の1つ。東海道に属していた。遠江国の西隣で、現在の静岡県の中部と大井川以東を領域としていた。

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Dr.FeelGoodの小部屋2年前

春、駿河国への旅を計画。 旧幕臣の足跡をたどる。幕府瓦解後の旧幕臣の苦労は大変なものだったと推測します。 負け組はいつの時代も大変だったことだろう。 これは現代も、組織においてみられるはず。 多くの旗本衆は駿河国へ移住。 生きてゆくのも大変だった。どうやって生きていったのだろう。 幕臣のプライドを捨てたもの、明治政府に入ったものあり。 函館戦争から戻ったものあり。農民、商人になったものありと。。。 主を失い、新たな主をもとめ、キリスト教徒になったものも、旧幕臣には多いときく。 腕のいい職人などもついていったという。子供のころ熱中したプラモデル、タミヤがあるのもその産物です。 第一級の金型技術。 友人との、街道をゆくシリーズと称する旅も、ここ…

#旧幕臣の明治維新#駿河国#街道をゆく#タミヤ

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日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 2日前

太古より、知念間切の久高島には「異種の民」がいた。彼らは皆、ヒザからくるぶしにかけてとても細く、かかとがない。足の甲は短くて足の指は長く、そのかたちは手のひらのようになって、地に立つ。(2)<ニッネプリ> ・アイヌに伝わる怪異。「魔神の山」を意味する名前で、石狩方面に存在したという。この山には魔神たちが隠れ住んでおり、常に人間の世界を邪魔していた。そこでオタシトンクルというアイヌの英雄がそれを退治するため、六日六晩にわたり戦った。この戦いで多くの魔神が倒されたが、その頭領とは容易に決着がつかず、なおも激しい戦いが続いた。 <ヌプリコルカムイ> ・アイヌに伝わる神。「山を支配する神」という意味で、かつて日高の幌尻岳にいた熊だという。この熊は時を経て足から人間に変わっていき、人間の女と恋をして子どもが生まれた。その子孫は千歳に住み、今でも幌尻岳に酒を捧げる人がいるという。 ・昔、平取…

日本の隅っこの歴史3日前

乱?変? 梶原景時予告通り今回は梶原景時の変です。『変』が正しいのか『乱』がいいのかわかりませんけど、個人的には『乱』にはなってないんじゃないかと思いました。 大河ドラマなんかをご覧になっている方は、よくご存知ではないかと思います。『鎌倉殿の13人』なんかはこの辺がクライマックスなのではないでしょうか?私は大河ドラマがどうにも苦手で、この事件のこともわかっていないので、しっかりおさらいしようと思います。知らない事を「おさらい」って、そこが『変』ですけど さて。 治承寿永の乱で義経と超仲が悪かった梶原景時ですが、頼朝には心底信頼されていたようです。 と、いうのも、1180年(治承4年)に小田原で頼朝が惨敗した時、…

だいだらボッチの激安おでかけバンザイ5日前

駿豆線「三島二日町~大場」間にある「中村踏切」他8箇所の撮影地を徹底比較今月から職場に復帰してきた日雇いバイトの梅ちゃん(あだ名)、2ヶ月間も職場に顔を出さなかった理由は聞きませんでしたが、競馬で高額配当の大穴でも当てたのでしょうかね?? そんな梅ちゃん不在時の穴を埋めたのは同じく日雇いバイトの中村さん(本名)、彼の献身的な働きは立派に梅ちゃんの代役を務めました。 そんな事を尻目に久々に職場にやって来たにも関わらず、先月まで中村さんが頑張ってきた作業場所に当たり前の様に陣取って勝ち誇っている梅ちゃん…単に周りから忖度され踊らされているだけなのが何故分からないのでしょうかね(´・ω・`) そんな梅ちゃんを思い出しながら訪れた先は、JR東海道線から特急踊り子号の乗り入…

bitterharvest’s diary10日前

横浜市歴史博物館で「寳林寺・東輝庵展 横浜の禅―近世禅林のルーツ」を鑑賞する江戸時代の中ごろ、東海道・保土ヶ谷宿近くの永田村周辺で、思いがけず禅文化が花開いた。幕末頃の保土ヶ谷宿の様子は、歌川広重の浮世絵(Wikipediaより)から知ることができる。手前の川は帷子川(かたびらがわ)で、橋は帷子橋である。江戸から旅経ち、今まさに保土ヶ谷の宿に入るという場面で、旅人たちや宿の女中たちの姿が描かれていて、当時の宿場の様子がよく表わされている。さらに、広重はブルーの表現が得意で、この絵にも活かされている。 永田村はこの宿場の向こう側にある。今昔マップを用いて、明治39年測図(左側)と現在を並べて表示すると下図のようである。左図で上部右に黄色の矢印で示したのが帷子橋で、そこを…

大和の国のこころ、万葉のこころ17日前

防人の歌(42)・・・巻第20-4353訓読 >>> 家風(いへかぜ)は日に日に吹けど我妹子(わぎもこ)が家言(いへごと)持ちて来(く)る人もなし 要旨 >>> 家のほうからの風は日ごとに吹いてくるのに、妻からの家の便りを持ってきてくれる人とてない。 鑑賞 >>> 上総国の防人、朝夷郡(あさひなのこおり)の上丁丸子連大歳(まるこのむらじおおとし)の歌。「家風」は、気象学的な風の名ではなくふるさとの家の方角から吹いてくる風。「家言」は、家からのことづて。 窪田空穂は、「風、雲、鳥などは、音信を連想させるものになっていた。『家風は日に日に』は、家のことが絶えず連想される意で、『人もなし』は、その連想の裏切られる嘆きである。事としては常識…

イベとぴ ~ふじ楽いず楽~19日前

5日(土)に富士市の雁堤でかりがね祭り開催予定2024年更新 富士市の富士川 雁堤で10月5日(土)に第35回かりがね祭り開催予定 写真コンクールはなし かりがね祭りの駐車場などの基本情報 地図 近隣からのアクセス 公式情報 富士市の富士川 雁堤で10月7日(土)に第34回かりがね祭り開催予定 日中からお祭り開始 富士市の富士川に雁堤で10月2日(土)に開催予定の第33回かりがね祭りは中止 富士市の富士川にある雁堤で10月3日(土)に開催予定のかりがね祭りは新型コロナウイルス災禍により中止です 10月5日(土)に富士市の富士川にある雁堤で第32回かりがね祭りが開催されます メインは投げ松明 富士市の富士川 雁堤で10月5日(土)に第35回…

かつどぅーん20日前

戦国最強部隊「赤備え」を率いた武田四天王・山県昌景軍神・上杉不識庵謙信の生涯のライバルとして川中島で5回戦い、後の天下人となる東照神君(徳川家康)と織田の援軍を三方ヶ原の戦いで木っ端微塵に粉砕した戦国最強と言われた武田晴信(徳栄軒信玄)には、それぞれが戦国大名として君臨してもおかしくない能力を持つ四天王が支えていました武田の副将格なのに地味な内藤昌秀(昌豊)戦死するまで合戦で傷を負わなかった鬼美濃こと馬場信房戦国最強部隊「赤備え」を率いた山県昌景戦国三弾正の1人で「逃げ弾正」と呼ばれた春日虎綱(高坂昌信)四天王は信長の野望であれば全員が軍師になれる能力を持ちますこの中から私が好きな山県昌景の事を書きます 山梨県の川浦温泉に「川浦温泉山形館」と…

小高旭之の幕末維新人物探訪録24日前

19の(5) 神に祀られた旧幕士松岡萬 (明治3年~同5年)19 静岡藩士としての松岡萬に関しては、製塩事業の外に3つの顕著な逸話が伝えられている。その一つは、蓮華寺池(静岡県藤枝市内)の所在する若王子村(藤枝市若王子)と池の水に農業用水を依存していた市部村と五十海村(何れも現藤枝市域)の干拓事業をめぐる争論に関するものであった。そもそも、この若王子村と市部村・五十海村の両村とは、慶長18年(1613)に蓮華寺池が完成して以来、池とその灌漑用水の管理や用益権をめぐって幾度となく争論が繰り返されていたという。 そうした中の明治2年の冬、突然新たな湧水が出たとして若王子村の村民が水路を堀り始め、掘削は蓮華寺池用水の水門や池の堤際にまで到ったのである。驚いた…

大和の国のこころ、万葉のこころ25日前

防人の歌(41)・・・巻第20-4356訓読 >>> 我(わ)が母の袖(そで)もち撫(な)でて我(わ)がからに泣きし心を忘らえぬかも 要旨 >>> 私の母が、袖で頭を撫でてくれながら、私のために泣いてくれた。その気持ちは忘れようにも忘れられない。 鑑賞 >>> 上総国の防人、山辺郡(やまのへのこおり)の上丁、物部乎刀良(もののべのおとら)の歌。「我がからに」は、私のことゆえに。「かも」は、詠嘆。ここでも4346の歌と同じように「頭を撫でる」行為がうたわれています。旅の無事を祈り、祝の言葉に伴わせる一つの呪法であったようです。ただ、「我が母の袖もち」は、母が私の袖を撫でて、とする解釈もあります。 巻第20「防人歌」の構成 兵部少輔の大…

御書の講義と研鑽1ヶ月前

仏種は縁により起こる。この故に一乗を説く|高橋殿御返事・米穀御書2024年9月度座談会御書2024年9月度の座談会御書は、「高橋殿御返事(米穀御書)」です。地区座談会の御書講義の内容を一担当者として、できるだけ分かり易くまとめてみました。 いわく、「仏種は縁より起こる。この故に一乗を説く」なるべし。勇気をもって一乗(法華経)を説くという、地涌の振る舞いの何たるかに思いを寄せることが出来ました。 今回の座談会御書(拝読範囲)のテーマは以下となります。 一人一人が「地域広布の責任者」に 勇気の対話で友の仏性の触発を! 拝読・研鑽の一助ともなれば幸いです。よろしければ是非、ご覧下さい。 2024年9月度座談会御書【高橋殿御返事(米穀御書)】の講義|拝読範囲の背景と大意 「高橋殿御返事(米…

川柳と習字を与那国島から1ヶ月前

雨月 589 大久保忠佐昨夜、3回足が痙ったせいか朝は起きられず、ランは休みました。午後は郵便局・区役所そして歯医者に行ってきます。 「日本史1200人」589 大久保忠佐(タダスケ;1537〜1613) 徳川家臣、駿河国沼津藩主、蟹江七本槍・徳川十六神将。父や兄・忠世と共に松平広忠、家康に仕えた。武勇に優れ1572年の一言坂の戦いでは殿軍を務めている。1575年の長篠の戦い、1584年の小牧・長久手の戦いで武功を挙げた。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い、真田昌幸親子が籠る信濃国上田城を攻撃し、その功により、2万石の駿河国沼津藩主となった。しかし、長男・次男ともに早世したため、八弟の忠教を養子にして家を相…

銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記1ヶ月前

青森県編 その9〇日持上人と蠣崎甚兵衛 日持上人(1250~?)は、鎌倉中期から後期の日蓮宗の僧で、日蓮六老僧の一人。駿河国庵原郡松野(現静岡県富士市)生まれ。1295年に布教を目指して東北から蝦夷地(北海道)、樺太へ渡ったという。この地で蝦夷地へ渡るために、海上安全の祈禱をおこない、石崎浜の船頭、蠣崎甚兵衛を案内に、1296年に無事蝦夷地へ渡ったとされる。 <日持上人と蠣崎甚兵衛像> 場所:聞法寺(青森県東津軽郡外ヶ浜町平舘石崎字元宇田52) 竣工:2003年 像高: 作者: 撮影時: 説明:聞法寺(もんぽうじ)は日蓮宗の寺院で、江戸時代後期に建立され、戦後消失したが、1957年に再建された。ちなみに、蝦夷…

川柳と習字を与那国島から1ヶ月前

寝待月 588 大久保忠教朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日は口笛を吹くのがチョッと苦しくて疲れました。嫁さんはやっと風邪が治ったようです。 「日本史1200人」588 大久保忠教(タダタカ;1560〜1639) 徳川家臣、通称・彦左衛門。徳川家康に仕え兄・忠世らと共に各地を転戦した。1600年の関ヶ原の戦い後、次兄・忠佐は駿河国沼津城主を継がせようとしたが、忠教は「自分の勲功はない」と申し出を固辞したため沼津藩は改易された。さらに本家の忠隣が失脚・改易となると、それに連座して忠教も改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され復帰した。1614年の大坂の陣にも従軍し、家康死後は2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に…

大和の国のこころ、万葉のこころ1ヶ月前

防人の歌(40)・・・巻第20-4341訓読 >>> 橘(たちばな)の美袁利(みをり)の里に父を置きて道の長道(ながち)は行きかてのかも 要旨 >>> 橘の美袁利(みおり)の里に父を残し、長い旅の道は行きかねることだ。 鑑賞 >>> 駿河国の防人の歌。「橘」は地名で、静岡市清水区立花か。「美袁利の里」は、所在未詳。「行きかてぬかも」の「かてぬ」は、できない、しかねる。「かも」は、詠嘆。なお、父への思いを詠んだ歌は珍しく、防人歌のなかで、父だけをあげているのはわずかに1首、「父母」と記しているのが8首、「母父」と記しているのが3首、母だけをあげているのが10首となっています。この時代、父母健在でも、子が母とのみ住むケースはあるにせよ、…

川柳と習字を与那国島から2ヶ月前

雁渡し 577 石川数正朝、海岸沿いをヘトヘトに走ってきました。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら51.7kgと先週より1.6kg減っていました。食べ過ぎかな、と思うくらい食べていたのですが・・東京の嫁さんの方では、台風で少し雨漏りしたようです。 「日本史1200人」577 石川数正(カズマサ;?〜1592) 戦国から安土桃山時代の武将・大名。徳川家康に仕えたが出奔して羽柴秀吉の家臣となった。家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から仕えた懐刀であった。軍事面においても姉川の戦い・長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。織田信長が死去し秀吉が台頭すると、秀吉との交渉を担当した。1584…