松尾村とは 地理の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

松尾村

(

地理

)

まつおむら

かつて熊本県にあった村。飽託郡に属していた。1955年4月1日に熊本市に編入された。

松尾村

(

地理

)

まつおむら

岩手県にあった村。
岩手郡松尾村

2005年9月1日、岩手郡西根町、安代町と合併し、八幡平市となった。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・18日前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ57 山国の土今から280年ほど前に、当時の山国村の村役人から三草藩主に提出した『明細書上帳』(寛保2年・1742)の中に、次のような一節があります。 一 村方ハ野山方ニ而地形郡中二而高キ所ニ御座候ゆへ大風之節損亡強く御座候、惣(じて)田畑片さがり二て畔岸たかく、土目(1)ハ白土赤ねばニ而隣村(に)すぐれ土性悪敷(悪しく)麦作出来不申作食不自由ニ而御座候、(後略) 山国村『明細書上帳』寛保2年(1742)より 下線部にあるように、「白土」はちょっと意味不明ですが、「赤ねば」というのは、文字通り「赤土で粘土質」という意味です。ちなみに、西側に隣接する当時の松尾村(現・加東市松尾地区)の村明細帳にも同様に以下の…

関連ブログ

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・1ヶ月前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ52 村の争論② 土地と山野の争論前回の水争いに続いて、今回は開墾地の権利と山野の入会権をめぐる争論について見ていくことにしたいと思います。(『社町史第二巻 本編2』) 延宝五年(1677)、社村を中心に周辺の検地が行われました。いわゆる延宝検地です。このとき、新しく開墾された土地(1)をめぐって、それが社村、山国村のいずれに属するかという争論が生じました。これと同時に、山国村の東部から東北部にかけて広がる東野の入会権(2)をめぐって、山国村・松尾村・東実村と社村・家原村・鳥井村(鳥居村)・田中村との間で争論が起こりました。七か村の入会地争論について、山国村が「山国・東実・松尾の三か村の入会地」と主張したのに対して、社村は「社…

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・1ヶ月前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ51 水争い『社町史第二巻 本編2』近世編では、第五章を「近世社の争論」と題しています。内容は主に境界争論、山の争論、ため池の争論となっていますが、江戸時代当時の山国村は山論、水論の両方を経験していました。 今回は、ため池の争論のうち、「王子ケ池・新池」にかかわる争論について、見ていくことにしたいと思います。(『社町史第二巻 本編2』及び松尾村区有文書) 当地区最大のため池・王子ケ池は出水川の最上流部にあり、江戸時代以前に築かれたとされています。長らく地元山国だけでなく、下流の松尾村の灌漑用水としても使われてきており、用水の割合は山国が六分の五、松尾が六分の一というとりきめになっていました。 中新池は上水…

ホリショウのあれこれ文筆庫3ヶ月前

第1142話 勤皇博徒・日柳燕石序文・勤皇の志士たちを助けた 堀口尚次 日柳燕石(くさなぎえんせき)〈文化14年 - 慶応4年〉、江戸時代末期の志士。讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡〈現・香川県仲多度郡琴平町〉の出身。幼名長次郎のち耕吉、諱は政章、字は士煥、号は燕石。 父は加島屋惣兵衛が五十七歳、母は幾世が三十八歳の時の子である。幼少時代から気が鋭く、伯父の石崎近潔に学び、その後13歳で琴平〈松尾村〉の医師・三井雪航に学んだ。三井雪航や岩村南里に経史・詩文、奈良松荘に国学・歌学を学んだ。詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。 当時の榎井村は幕府直轄地で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、また隣の松尾村の街には…

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・4ヶ月前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ28「村明細帳」にみる18世紀中頃の山国村⑦(最終回)一 村方 竪東西三拾七町 内廿三丁半山国村領ニ而入相野入組横南北拾七丁 但余田境より社村境迄但村境ハ西ハ社村松尾村田畑を境東実村畑林沼、南ハ様塚よりおくひさき迄一筋之通道を限、北ハおくひ先より社村境塚迄大道限り山国村領内此内南広沢よりわらしか池堤道限り原田六ツ塚より東江おくひさき迄但三方道ヲ限、松尾村東実村山国村立会之草場此内ニ山国村松尾村新開御普請所並七ケ村入相草場入組有、右山国村領之内社村田中村鳥居村東実村松尾村山国村草入相場境目塚御座候 村境がどこにあったのか、北、西については社、東実、松尾の各村との境ははっきりしていますが、南については「様塚」から「おくひさき」までの道というのが、現在…

くまもと自転車紀行4ヶ月前

河内村と松尾村の道路元標めぐりパリ五輪サッカーの日本VSマリ戦を前半途中まで見て4時半過ぎにカーボンロードバイクで出発。 白川沿いの遊歩道を走って明午橋を渡り、 県道1号線に入って花園町から坂を上がり、 標高約260mの鳥越峠に上がる頃には汗ビッショリ。 大将陣の棚田を眺めて坂を下り、 追分からは県道101号線に入って快調に坂を下り、 清原元輔も歌に詠んだ「鼓ケ滝」 今でも河童が生息する河内川沿いを走り、 河内の集落に到着。 路地に入って、樹齢600年以上のイチョウの木の根元の穴から湧き出す「鑪水」を経由して、 「寛政の大津波」の犠牲者の慰霊碑の建つ蓮光寺 の路傍に目指す「河内村道路元標」が立っている。 スマホで日本がマリ…

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・4ヶ月前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ25「村明細帳」にみる18世紀中頃の山国村 ④続いて、川、溜池など農業水利関係の一覧が記載されています。 【川】 一 前の谷川 川長当村之内千弐百六拾間(2.29km) 川巾凡四間(7.2m)但川上水(1)元当村境内山野之惣水流ニ而御座候(当村の山野からの水を水源としている) 一 北之谷川 川長四百六拾八間(833m) 川巾凡四間(7.2m)右同断右弐ケ所之川筋洪水大破之節ハ御入用御普請被仰付候(これら二ヶ所の川筋が洪水で大破したときは、これまで〈幕領時〉はお上が工事をされていました) 【溜池】 ※赤字の池については、所在地など不明。 一 □池(2) 溜池堤長八拾間 分水 三分三厘三毛 東実村 壱分一厘一毛 松尾村 五分五厘五毛 山国村伏…

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・4ヶ月前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ24「村明細帳」にみる18世紀中頃の山国村 ③野原、山、林、藪などの所在について記載されています。 一 芝野 七拾四間 弐拾間 四反九畝拾歩 牛馬飼場是ハ原野ニ而当村秣取場故野手銀不付之、右ハ御検地帳ニ載リ申候 (村人共同の牛馬の飼料「秣:まぐさ」をとる原野があり、年貢は免除されていた) 一 村境内ニ百姓入相牛馬飼申芝野御座候但字むかい野、字北ノ野、字東山右三方ニ御座候、反別相知不申候、但村方畑林山之辺入組ニ而御座候(村の南・北・東の三方に百姓たちが共同で牛馬を飼う草原がある) 一 当村領東野之内松尾村東実村山国村三ケ村入相之草刈野山御座候、反別相知不申候、並松尾村東実村山国村家原村鳥居村田中村社村七ケ村入相草刈野御座候,反別相知不申候(…

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・6ヶ月前

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ9 山国の子どもたちが通った寺子屋と小学校②前回の記事にあるように、「学制」公布直後の小学校は、いずれも寺子屋の実態のまま看板だけを掛け替えたようなものでした。 当時、学校の運営に要する費用は授業料や民費に依存していました。村ごとの小規模な学校では維持が困難なことから、明治8年(1875)飾磨県(後に兵庫県)は、学区域を拡大して小規模校の統合を進める方針を打ち出します。その結果、当初旧社町域に20もあった小学校は、明治9年(1876)には9校になりました。 これに伴って、報国校(妙仙寺)に通っていた山国と松尾村の生徒は、田中・出水の両村の子どもたちとともに東古瀬(現在の福田小学校の位置)に当時としては数少ない新築の校舎の建った「河東校」…

往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・7ヶ月前

地区(村)の名はどう推移したのか? ーふるさと山国の今昔あれこれ2ー平成18年(2006年)3月に、旧加東郡の社・滝野・東条の3町が合併して加東市となり、私たちの地区も「兵庫県加東市山国」となりました。それでは大昔から政治体制の変革、行政区画の推移、市町村合併などにより、地区の呼称はどう推移してきたのでしょうか。簡単にまとめてみました。 1 中世・・・播磨国福田保内山國村(はりまのくにふくだのほのうちやまくにむら) 『日本歴史地名大系』(平凡社、2005年)によれば、「山國村」の名が登場する最も古い史料は元徳二年(一三三〇)二月一八日の「沙弥某寺領寄進状」(清水寺文書)だということです。 ※福田保・・・野村、上田、福吉、大門、西古瀬、中古瀬、東古瀬、屋度、沢部…

mtmrのブログ7ヶ月前

木戸孝允日記現代語訳/慶応四年四月この日記は明治元年四月一日から始まっています。この年は九月八日に明治と改元されました。それまでは慶応四年でした。 この年は次のような出来事がありました。 一月三日 鳥羽、伏見の戦い。 三月十四日 西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸城開城の了解なる。五ケ条の誓文発布(十五日、五枚の立札を掲示)。 三月二十一日 天皇が大阪行幸。閏四月八日京都へ帰る。 四月四日 江戸城開城し、十一日徳川慶喜水戸に屏居謹慎し、榎本武揚が幕府の軍艦を率いて北海道へ向かう。 四月二十五日 近藤勇、江戸下板橋で斬られる(三十五歳)。 閏四月八日 天皇が大阪行幸から京都へ帰る。 閏四月三日 福沢諭吉、芝に英学塾を移転し慶應義塾と改…

郵便番号と鉄道郵便7ヶ月前

鉄道乗務員を親局とする郵便番号〒779-51 三縄郵便局郵便局名 三縄郵便局読み方 みなわ(歴かな:みなは)所在地 〒779-5161徳島県三好市池田町中西フロノタニ1415-20担当鉄道郵便局 高松鉄道郵便局鉄道郵便路線 高松窪川線受渡駅 国鉄土讃本線三縄駅キロ程 三縄駅 0.4km 三縄郵便局記号入り番号消印 為替貯金番号 62055局番号 55為替貯金記号 つは古現在の集配区 阿波池田〒779-511930年(昭和5)当時の集配区域 三好郡三縄村 歴史1876年(明治9) 川崎(かわさき 歴かな:かはさき)郵便局(五等)として設置。1885年(明治18)10月15日 廃止。1885年(明治18)10月16日 川崎郵便受取所として設置。 188…

木戸孝允日記現代語訳7ヶ月前

慶応四年四月この日記は明治元年四月一日から始まっています。この年は九月八日に明治と改元されました。それまでは慶応四年でした。 この年は次のような出来事がありました。 一月三日 鳥羽、伏見の戦い。 三月十四日 西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸城開城の了解なる。五ケ条の誓文発布(十五日、五枚の立札を掲示)。 三月二十一日 天皇が大阪行幸。閏四月八日京都へ帰る。 四月四日 江戸城開城し、十一日徳川慶喜水戸に屏居謹慎し、榎本武揚が幕府の軍艦を率いて北海道へ向かう。 四月二十五日 近藤勇、江戸下板橋で斬られる(三十五歳)。 閏四月八日 天皇が大阪行幸から京都へ帰る。 閏四月三日 福沢諭吉、芝に英学塾を移転し慶應義塾と改…

木戸孝允日記現代語訳7ヶ月前

木戸孝允現代語訳この日記は明治元年四月一日から始まっています。この年は九月八日に明治と改元されました。それまでは慶応四年でした。 この年は次のような出来事がありました。 一月三日 鳥羽、伏見の戦い。 三月十四日 西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸城開城の了解なる。五ケ条の誓文発布(十五日、五枚の立札を掲示)。 三月二十一日 天皇が大阪行幸。閏四月八日京都へ帰る。 四月四日 江戸城開城し、十一日徳川慶喜水戸に屏居謹慎し、榎本武揚が幕府の軍艦を率いて北海道へ向かう。 四月二十五日 近藤勇、江戸下板橋で斬られる(三十五歳)。 閏四月八日 天皇が大阪行幸から京都へ帰る。 閏四月三日 福沢諭吉、芝に英学塾を移転し慶應義塾と改…

郵便番号と鉄道郵便8ヶ月前

鉄道乗務員を親局とする郵便番号〒769-25 大内郵便局郵便局名 大内郵便局読み方 おおうち(歴かな:おほうち)所在地 〒769-2516香川県東かがわ市土居73-1担当鉄道郵便局 高松鉄道郵便局鉄道郵便路線 高松牟岐線受渡駅 国鉄高徳本線丹生駅キロ程 丹生駅 0.5km 大内郵便局記号入り番号消印 為替貯金番号 63004局番号 4為替貯金記号 とち現在の集配区 長尾(三本松)〒769-251930年(昭和5)当時の集配区域 大川郡丹生村・松尾村 歴史1874年(明治7)12月10日 町田(まちだ)郵便取扱所 1875年(明治8)1月1日 町田郵便局(五等)となる。 1877年(明治10)6 丹生村ノ内町田(にぶむらのうちまちだ)郵便局に改称。1…