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松本育夫

元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。
1941年11月3日生まれ、栃木県宇都宮市出身。

栃木県立宇都宮工業高等学校から早稲田大学に進学。1960年、サッカー日本代表に初選出。
大学卒業後、東洋工業に入社。主に左サイドアタッカーとして活躍し、日本サッカーリーグ初年度の1965年から1968年までの4連覇に貢献。

長沼健の監督就任後は代表に定着、1968年メキシコオリンピック銅メダル獲得にも貢献した。

現役引退後、東洋工業からマツダに改名され、サッカー部監督に就任。
ユース日本代表監督にも就任し、1979年に日本で開催された第2回FIFAワールドユース選手権では、尾崎加寿夫、風間八宏、鈴木淳、柱谷幸一、水沼貴史らを抜擢。
サッカー解説者としても活躍。

1983年11月22日、「つま恋ガス爆発事故」で、瀕死の重傷を負いながら、自力で脱出。奇跡的に回復し、厳しいリハビリを経て現場に復帰した。

1996年マツダを退社、京都パープルサンガゼネラルマネージャー就任。

1999年シーズン途中、川崎フロンターレ監督に就任。チームを建て直し、J2優勝、悲願のJ1昇格に導いた。対FC東京戦で、相手CKの際の「誰かにあわせてくるぞー!」という発言は、一部のサポーターの中では有名な話。
翌2000年は社長就任。現場から離れ、シーズン最下位でJ2降格、社長を辞任。

2002年、地球環境高等学校で監督就任。同年末の全国高等学校サッカー選手権大会、翌2003年のインターハイに導く。2003年8月辞任。

2004年に、サガン鳥栖で監督に就任。2007年からは岸野靖之が監督に就任、自身はゼネラルマネージャーに就任。
2010年、サガン鳥栖監督に復帰。尹晶煥ヘッドコーチがJリーグ監督を務めるために必要なS級ライセンスを取得するまで、暫定的に監督を務めた。2011年はサガン鳥栖のアドバイザーを務めていたが、5月限りで退任。

2013年、地元の栃木サッカークラブのシニアアドバイザー兼取締役。同年9月13日から松田浩の退任に伴い監督に就任。シーズン終了後、監督職は退任した。

座右の銘は「全力に悔いなし」。

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