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桃中軒雲右衛門

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関連ブログ

直子の部屋8ヶ月前

圓生が興行していた静岡の寄席「入道館」久しぶりに静岡の寄席話を。 六代目三遊亭圓生師匠が残している本には寄席や寄席の楽屋話の記憶を残そうという趣向のものがあり生の高座へ足を運ぶのとは別に個人的に大変好み。 その中で先日から時々名前を出していた『寄席切絵図』に静岡の寄席や興行をした場所がいくつか登場。 主な2つが静岡の「入道館」と浜松の「勝鬨亭」 勝鬨亭は古今亭志ん生師匠に縁があるらしく大河ドラマ「いだてん」にも登場したらしい。 静岡の「入道館」には大正時代から戦中まで何度も行ったことが書かれている。 入道館は七間町にあった寄席。 七間町通りから今の両替町通りを少し入った所という説と通り沿いで呉服町側から行って両替町の通りを越えた辺…

#落語#静岡#三遊亭圓生#寄席#入道館#桃中軒雲右衛門

関連ブログ

tamutamu2024のブログ2ヶ月前

桃中軒牛右衛門は異色の浪曲師だ…(2024年8月18日『毎日新聞』-「余録」)人間国宝に認定されることになった浪曲師の京山幸枝若さん=大阪市中央区で2024年7月17日、西村剛撮影 桃中軒(とうちゅうけん)牛(うし)右衛(え)門(もん)は異色の浪曲師だ。明治初めの1871年にいまの熊本県荒尾市に生まれ、父や兄たちを通し自由民権思想の影響を受けた。97年には亡命中の孫文と出会い、中国革命の支援に奔走する。宮崎滔天(とうてん)の名の方が知られているだろうか ▲激動の半生記「三十三年之夢」に、中国での蜂起失敗後、浪曲師への転身を決意し1902年、桃中軒雲右衛門に入門するまでをつづる。「夢の名残の浪花武士、刀は棄(す)てゝ張り扇」と歌う「落花の歌」に革命に挫折した思いがにじむ▲…

直子の部屋4ヶ月前

年表まとめマイブーム年表まとめのすすめ 去年落語まわりの自由研究をしてから、調べたことや関連することを書き散らしていた。 落語に関すること、寄席に関すること、噺家に関すること、災害や戦争など、当時の大きな出来事と影響したことの範囲が調べて気づくほどに広がるので、調べたバラバラのことを年表形式にまとめている。 完全にひとつにするのは難しい。 なにしろブログを見ればわかる通り、テーマがまるで絞られていない。かといって大局は時代の参考ぐらいにしか見ていない。 三遊亭圓朝を徳川慶喜公の関係から静岡の寄席のことを調べたかと思えば、桃中軒雲右衛門入道が入ってきたり、末広亭を作った北村銀次郎さんの本を読んで戦後の寄席の様子をさ…

Impression>Critique5ヶ月前

2023年の演芸その他と私2023年の演芸その他と私 2023年は演芸以外でもあまりにも印象的な出来事が多かったので、時系列で書き留めることにした。 2023年に拝聴した演芸(1高座単位で配信は入れていない)浪曲:304(そのうち138は玉川太福師匠)落語:171講談:72色物:28 昨年に続き浪曲師玉川太福師匠を緩く追った。以下、拝聴した演目の内訳を記す(丸数字は聴いた回数)。☆は特に印象深かった演目。 <古典>(57)◎天保水滸伝「繁蔵売り出す」②◎天保水滸伝「鹿島の棒祭り」②◎天保水滸伝「笹川の花会」➂◎天保水滸伝「蛇園村斬り込み」②☆◎天保水滸伝「平手の駆け付け」①◎天保水滸伝「繁蔵の最期」①◎清水次郎長伝「秋…

園遊舎主人のブログ5ヶ月前

戦中の大衆娯楽・寄席(演芸場)江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)274戦中の大衆娯楽・寄席(演芸場) 寄席(演芸場)については、大正時代からの経緯と共に昭和前期を紹介したい。江戸時代から明治時代の大衆娯楽といえば、寄席であった。まだ東京の人口が200万人に達してもいない時期に、ピーク時は年間約500万人もの観客を動員していたという。しかし、この盛況ぶりも長くはつづかず明治の末頃(1909年)からは徐々に観客が減少し、四十五年には前年より約50万人も減って324万人になってしまった。 その後も寄席の観客数は、30万人程度ずつ減り続け、大正四年(1915)には約250万人と最盛期の半分近くになってしまった。東京の人口は、明治三…

60歳からの自分いじり6ヶ月前

(講義関連)アメリカ(31)kickboxingは何語だろう。(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(31)kickboxingは何語だろう。 細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男:昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社、2020年)を読んでいて、キック・ボクシングが和製英語ながら、国際的に通用する語であることを知りました。 Wikipediaでkickboxingと引いてみると、確かに項目があり、詳細な記述があがっています(以下はその一部)。 The term itself was introduced in the 1960s as a Japanese anglicism by Japanese boxing promoter …

4310(昭和94年2月~)7ヶ月前

ドぴあ(792)2024/03/18~03/242024年03月24日号(通巻792号) 表紙:高田直久さん 3月23日(土)16:30~ アテネ・フランセ文化センター 脚本(シナリオ)で観る日本映画史 第八弾 第2回 『片足のエース』1971年 101分 脚本:井手雅人 監督:池広一夫 https://www.j-writersguild.org/entry-info.html?id=534720

ばんたび気がいってたら身がもたねぇ7ヶ月前

澤順子師 美しく飛翔し鶴女房浪曲新宿亭です。 玉川わ太さんw.一貴さんは梅花の誉れ。 天中軒すみれさんw.貴美江さんは小平誕生物語・小川九郎兵衛村を拓く。 お仲入り。 東家孝太郎さんw.まみさんは桃中軒雲右衛門・桃源の風雲児。 澤順子師w.貴美江さんは大西信行作・鶴女房。

直子の部屋8ヶ月前

静岡・入道館 その3 昭和初期の静岡寄席興行かつて静岡市内にあった「入道館」での寄席興行のエピソードを六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』の中からご紹介。今回は関東大震災を経て昭和に入った頃の静岡興行の話。前回の大正10年の話もよろしければお読みください。 entsunagi705.hatenablog.com 昭和初期当時の不況 寄席の話に入る前に、時代背景について。 大正10年から昭和の始めとは、歴史で見ると昭和恐慌の只中。大正7年に第一次世界大戦が終結すると、大戦景気が過ぎ戦時バブル崩壊。1920年代(大正9年~昭和4年)は国内が慢性的な不況に陥っていたそうで。 この不況は大正の戦後恐慌、銀行恐慌、震災恐慌、昭和恐慌とも呼ばれる昭和金融…

気まぐれなページMkⅡ9ヶ月前

足跡(寺社)75・旧東海道品川宿あたりの寺社「真了寺・天妙国寺」……2019.3.8なぜか数珠つなぎのように10ヵ寺を歩いた2019年3月8日のこと…… 品川寺を後にして旧東海道を少し北へ進むと、大井町駅から仙台坂(旧仙台坂ではない)を下って海へと向かう道「池上通り」が横切るのだが、見上げると「あおよこ」と書かれた街灯が並んでいた。青物横丁の短縮形だろうが「あおよこ通り」とでも呼ばれているのかと思っていたら「ジュネーヴ平和通り」という別称があった。 19世紀のパリ万博に出展した際に行方不明となっていた品川寺の梵鐘(昨日の日記)がスイス・ジュネーブの美術館で発見され、無事 品川寺に返されたことを通じ、品川区はジュネーブと友好都市提携を結んだ。その友好関係の証として、ジュネーブか…

直子の部屋9ヶ月前

増田太次郎『引札繪ビラ風俗史』から 最近読んだ本の巻末で興味を持った本を読んでいる。 2冊あって両方とも青蛙房さんの本。 今日はそのうち一冊から。 引札絵ビラ風俗史 (青蛙選書) タイトルに惹かれた通り、頭から30ページでもう楽しい。 「引札」とは今でいうチラシ(配る広告)、「繪(絵)ビラ」とは貼り紙、ポスター(貼る広告)のこと。 この本にはその呼び名に定まるまでのこと、広告を兼ねた宣伝・販促方法の時代的な広がりや変遷について書かれている。暮らしの中にある広告の話なので、江戸明治大正だけでも商売全般に繋がって幅広い。 この本の中では江戸・明治の広告媒体の話がでてくる。 刷りものなら錦絵や暦、見立番付、双六や景品、書籍巻末の広告。…

気まぐれなページMkⅡ1年前

足跡(寺社)34・泉岳寺……2018.12.15歯医者の帰りに、魚籃坂を上ってから、伊皿子坂を下って泉岳寺を訪問した2018年12月15日のこと……写真の時間を見たら11時だった。朝食も摂らずに朝一で歯医者に行ったようだ。 「泉岳寺中門」……元来、泉岳寺には「総門・中門・山門」の三つの門があったが、現在はこの中門と山門のみが残っている。 こちらが「山門」……着いた時はたくさんの方で埋め尽くされていたから、空くまで少々待機した暇な私。皆さん義士のお墓参りだった。 山門手前の右に「大石内蔵助良雄銅像」……浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、当時の風俗である元禄羽織をまとい、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでい…