藤原秀郷とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

藤原秀郷

(

社会

)

ふじわらのひでさと

生没年不詳
日本の平安時代中期の武将。
平将門追討の功績により鎮守府将軍となった。また、末裔は関東中央部を支配する武家諸氏となった。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ

源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸4ヶ月前

【平家物語103 第4巻 宮の御最後①】足利又太郎の装立ちは、赤革縅の鎧、黄金作りの太刀、二十四本背に差したるは切斑の矢、重籐の弓を小脇にかいこんで、乗る馬は連銭葦毛、鐙をふんばって声を轟かせた。岸に先手をきっておどりあがった足利又太郎の装立ちは、 赤革縅の鎧、黄金作りの太刀、 二十四本背に差したるは切斑《きりふ》の矢、 重籐《しげとう》の弓を小脇にかいこんで、 乗る馬は連銭|葦毛《あしげ》、 鐙《あぶみ》をふんばって声を轟《とどろ》かせた。 「昔、朝敵|将門《まさかど》を亡ぼした 俵藤太秀郷《たわらとうたひでさと》十代の後胤、 下野国の住人足利太郎俊綱の子又太郎忠綱、 生来十七歳のもの、 かく無位無官の者が宮に弓を引き奉るは恐れ多いことなれど、 弓矢の冥加《みょうが》平家の上に とどまっているものと存ずる。 三位入道の御方のうち、われと思わん人は寄りあい給え、 見参せん」 こう名乗り…

#以仁王の令旨#俵藤太#藤原秀郷#弓矢の冥加#足利又太郎

ネットで話題

もっと見る

12ブックマーク藤原秀郷 - Wikipediaja.wikipedia.org

関連ブログ

天才詩人こうやまあきらのブログ!9ヶ月前

足利、佐野「双子ちゃん都市」巡り中河原分倍河原府中本町南浦和大宮久喜館林足利市・・・ふー、なんか呪いをかける呪文みたいだ 足利まで乗り継いだ駅名をズラッと並べてみました。早朝5時台の京王線から、南武線、武蔵野線、宇都宮線、東武スカイツリー線、東武伊勢崎線と乗り継ぎ、足利には9時前に着くことができました。1日目は足利を代表する古社から、その裏手にそびえ立つ霊山へ登拝。2日目は佐野へ移動し、水源地、関東七名城の一角を中心に巡りました。 足利市はいわずもがな、鎌倉幕府を倒幕した足利尊氏から足利将軍家を輩出した土地であり、佐野市は宇都宮二荒山神社の霊剣で平将門を討取ったとか、ムカデの化け物退治や鬼退治伝説のある藤原秀郷が治めた土地。…

#足利市#佐野市#足利氏#藤原秀郷#パワースポット

東京神社1年前

忘れられた日本 平清盛 の乱を鎮めた 藤原秀郷 が夢見で建てた神社 むかで退治 新橋駅 から徒歩1分 鳥森神社youtu.be サラリーマンの街として知られる、新橋。居酒屋・ラーメン屋・カラオケ店、安くて美味しくお酒を楽しめる街。そんな新橋駅からほど近いところに鎮座する、 鳥森神社 。最初、「とりもり」神社だと勘違いしていましたが、読み方は「からすもり」神社、でした。歴史を調べてみると、 平将門 を討伐した 藤原秀郷 が建てた神社。千年を超える古社なのです。今は 御朱印 の美しさが有名なので、そんなに古い歴史を持つとは知らず、早朝、参拝する度に「朝参りの人が多いな~」とだけ思っていました。参道もビルにまぎれてしまうほど細い細い道。けれど、こんな古社がこんな繁華街に残っているのは東京の神社のすごいところ…

#日本人#新橋#新橋駅#東京神社#平将門#藤原秀郷

東京神社1年前

忘れられた日本 つわものどもの夢の跡 100年前の日本人の写真とともに 合戦の本陣となった仏の地 源義経、弁慶、藤原秀郷、足利尊氏、新田義貞、後醍醐天皇、足利氏満、上杉氏、後北条氏・・・忘れられた日本 つわものどもの夢の跡 100年前の日本人の写真とともに 合戦の本陣となった仏の地 源義経、弁慶、藤原秀郷、足利尊氏、新田義貞、後醍醐天皇、足利氏満、上杉氏、後北条氏・・・ - YouTube 善明寺と高安寺府中市は素敵なお寺の宝庫・・・。静かに自分を見つめ、そして戦いの歴史に思いをはせる。善明寺と高安寺は隣り合うように近い立地なのに、全く雰囲気が変わるのです。善明寺で時を過ごし、高安寺に向かうと歴史上の人物のかけらに出会います。藤原秀郷、源義経、弁慶、そして足利尊氏、後醍醐天皇、足利氏満、上杉氏、後北条氏・・。新田義貞も。合戦の砦になってしまったお寺の悲しい歴史です。何度も荒れ…

#日本#日本人#日本の秘密#お寺#府中#源義経#弁慶#藤原秀郷

owari-oyajiの放浪記2年前

「鵜森神社」​三重県四日市市浜田町「鵜森神社」は近鉄四日市駅から南に徒歩5分程の鵜の森公園内に鎮座する神社。 上近鉄の高架と下を走る「四日市あすなろう鉄道」 四日市から二駅先の日永から八王寺線と内部線の二手に別れ、西日野、内部までを結ぶ。762 ㎜のナローゲージ(狭いレール幅)の特殊狭軌鉄道で、車体の鮮やかな緑が印象的な可愛い車両が走る。 写真は262F型、毎時3本程しか運行されていないようで、踏切が降りるのはある意味運がいい。下この踏切から先の突き当りが鵜森神社。 鵜森神社社頭。 神明鳥居から先のこんもりとした社叢は嘗ての浜田城跡、神社はその中に鎮座します。敷地周辺は緑豊かな鵜の森公園として整備され憩いの場になっている。 社…

#鵜森神社#藤原秀郷#浜田城址

今日の夢はどんな夢?3年前

― アワヒメを追って 91話 ―― 赤穂大石神社 ― あこうおおいしじんじゃ 2021年7月6日 15:00 御参拝 兵庫県赤穂市上仮屋131-7(旧城内) 主祭神 大石内蔵助良雄以下四十七義士命、中折の烈士萱野三平命 播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の三侯 浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・力丸の七武 将 〝忠臣蔵〟 元禄14年(1701)春3月、江戸城中松の廊下で、勅使接待役の浅野内匠頭長矩 が、指南役の当家筆頭吉良上野介義央に刃傷におよぶという一大事件が起こりました。 長矩は将軍家綱吉の独裁をもって即日切腹、浅野家は取り潰しとなります。 これが第一の事件。 元禄15年(170…

#大石神社#赤穂浪士#大石内蔵助#中臣鎌足#藤原秀郷#天児屋根命

狒々門の奥の入江のむじな島にて。3年前

梅雨時期のムカデ退治は、藤原秀郷もやる気が出んわ日記。ぼくがこの僻地に移住してきた理由は、とある求人に採用されたからだった。 まず最初に言っておこう。 その求人元がとんでもないブラックで、とんだクソ野郎で、研修という名目で一ヶ月間、ほとんど休みも給料も無いまま過酷な労働をさせられた挙げ句に、「やっぱり、いらないから」と言って即日で解雇された。 「給料を払わなくてもいいなら働いてもいいけど」と、そんなようなことを言われた。 バカか!? もう一度言っておこう、大切なことは二度言うことにしている、ぼくの人生史上稀に見るクソ野郎だった。 その仕事のために、わざわざ、精神的にも金銭的にも大きな負担を乗り越えて、移住してきたのだ。移住ってさ、なかなか凄まじい…

#はてなブログ#日記#ムカデ#藤原秀郷#俵藤太

ウミノマトリクス4年前

【御朱印】椙森神社に行ってきました|東京都中央区の御朱印最終更新日時: 2021年3月14日 今回は、東京都中央区日本橋にある「椙森神社」(すぎのもりじんじゃ)に行ったので、そのレポートを書きたいと思います。 椙森神社の特徴 御朱印マトリクス 見どころ:2.5点/10点満点中 ※個人的な意見 歴史:940年ごろ (創建されたとされる年) 椙森神社マトリクス 比較しやすいようにマトリクスを作ってみたよ あくまでもこのブログとしての見解だからね 椙森神社の特徴 椙森神社の特徴 日本橋にある小さな神社で日本橋七福神、江戸三森神社の一社です。 宝くじ発祥の神社として「富塚」があります。

#御朱印#金運#藤原秀郷#富塚#限定御朱印#東京証券取引所#富の日

天才詩人こうやまあきらのブログ!9ヶ月前

パワースポット巡り(953)(954)唐沢山、藤原秀郷公墳墓 【2023年末 足利・佐野ふたごちゃん都市を巡るパワースポットの旅 第二日目②】パワースポット!パワースポ ッター!!パワースポッテスト!!!より強いパワースポットを求めて全国を旅します! パワースポットとは何か?ウェブを見れば、それこそ風水師、占い師、スピリチュアル・カウンセラー、パワースポット・マニア・・・等、さまざまな立場の方が独自の定義をもっておられるようです。このわたしも定義をもっていて、その定義は「与えられた限りある命を、精一杯生きていく上で、そのエネルギーを充電できる場所」というもの。具体的には、「こめかみ辺りに、キーンという痛みがくる場所」を指します。この感覚はわたし独自のものであり、ほかに聞いたことがないのですが、その能力にはかなり自信をもっているのです…

#唐沢山 猫#唐沢山城跡#唐沢山神社#パワースポット#藤原秀郷

とある雑食型ゲーマーのゲームミュージアム20時間前

出戻りFGO日記7へいよーかるでらっくす!おはこんばんにち神黎(シンク)です。本日は7章のお話。 7章の敵は敬愛すべき尊敬するファラオと同じく敬意と忠誠を示すべきアーサー王改め獅子王です。という訳で、元々の予定で言えばクライマックス。 敵味方の数と勢力が凄い。発言と行動が裏腹過ぎる優しき冥界に精通するファラオことニトクリス。 でませい、でませい!可愛いですぞ、王よ! 「不敬です」って言われそうですがwwそして、ファラオが仕えるのは王の中の王。 3人目の金ぴかの鎧、オジマンディアス。 尊厳の塊であり、いきなり笑わせてくれたり、子安さんだったり、子安さんだったり、子安さんだったり、許されるならエジプト勢に与したいと…

大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵8日前

感無量のおまいり大森先生シリソワカ🙏 思いがけず仕事を退職いたしまして時間が出来たこともあり和歌山の友達からうちに泊まってアテンドするよと誘って頂いたこともあり行ってまいりました。 初日に◎◎さんと伏見稲荷さんで合流して一緒にお山をしました。 砂澤先生のお塚にもお参り出来ました。 その後、滋賀の三井寺、瀬田の唐橋近くにある龍王宮秀郷社にもお参りしました。 私の氏族は藤原秀郷公が祖なので思いがけず参拝出来て嬉しかったです。 龍王宮 撮影Sさん 高野は1日じゃ無理だから2 回に分けてと友達に案内して頂きました。 1日目は丹生都姫神社にお参りした後、高野山に上がりました。 あの光明真言曼荼羅にもお参り出来ました。 …

面白雑学ブログ!15日前

平将門に関する雑学!反乱の英雄か、怨霊か?武士の時代を切り開いた男の物語 皆さん、こんにちは! 今回は平将門に関する雑学をご紹介します! 平将門は、平安時代中期の武将であり、日本史上初めて「新皇」として独自の政権を樹立した人物です。 彼の生涯は「承平天慶の乱」として知られ、平安時代の貴族政治に対する武士の反抗の象徴としても語られています。 以下、彼の生涯、偉業、そして雑学について詳しく説明します。 平将門の生涯 生い立ち 平将門は、平安時代初期の桓武平氏の一族であり、平良将(たいらのよしまさ)の子として下総国(現在の千葉県北部から茨城県南部)の豪族に生まれました。 将門の家系は、東国に勢力を持っていましたが、中央…

ごまめの旅日記15日前

甲州街道を歩く 2 上高井戸宿〜日野宿 その2甲州街道を歩く 2 上高井戸宿〜日野宿 その1 の続きです。 目次 8 府中宿 9 西府・谷保 10 日野の渡し 11 日野宿

Kaccinのひとり言18日前

鰭ヶ崎村 東福寺流山に東福寺が有るのは、知って居ましたが、恥ずかしながらお寺には行った事がなく、昔にチーム東葛のポタリングで東福寺の別院になって居る奥の院の千仏堂が有る墓地前の「死人坂」に行った時に、このお寺の存在を知りました。南流山駅から向かい寺の正面に出ましたが、入り口は奥まって狭くて大きい寺には見えませんでした。ただ奥まって急な石段が見えて居るだけでしたが、手前の左側に膨大な数の庚申石碑があり、往時の庚申信仰が盛んな事と、相当大きな寺で有る事が予感されました。 やや狭めの石段でしたが登り始めると、とても長く急でした。 登り切ったところに、とても立派な仁王門が有り、 それを潜ると広大な敷地に佇む本堂と境内…

ovanの社会科見学1ヶ月前

2024/09/08 阿蘇神社御祭神 健磐龍命、阿蘇都媛命、速瓶玉命、配祀九柱 由緒 旧称は阿蘇大明神ズ、長渕郷総社龍水山 阿蘇官と称した。創建は推古天皇九年(601) と伝える.領主、武家の崇敬が厚く承平三年 (933)平将門が社殿を造営した。 以後藤原 の秀郷,三田柿部助定重もまた社殿を造営、 小田原の北条氏は二十貫文の神領を、徳川家康 は二丁四方の馬場を寄進、神馬を放牧した。 徳川家光は十三石の朱印領を寄進し、代々家 例とした.慶応四年朱印状を奉還,神領を上知した。 明治政府より通録金五十円を下賜 明治二年阿蘇神社と改称当社は,和漢三才 図絵」「国花萬葉記」「武蔵国全図」の名所 案内記に「阿蘇明神在羽村社領二十四石」…

西國三十三所順打ち巡礼記1ヶ月前

【西国第十四番】長等山 園城寺 (三井寺) その二宗派 天台寺門宗 総本山 本尊 如意輪観世音菩薩 ご詠歌 いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖 520-0036 大津市園城寺町246 公式サイト http://www.shiga-miidera.or.jp/ 長等山 園城寺 (三井寺) → その一 【前の記事】 ⇩ ⇩ ⇩ さて、第十四番の石山寺から、 やはりビッグネームの巨刹、 第十四番・園城寺こと三井寺の、 有料駐車場に到着したのは午後2時です。 こちらもやはりその歴史等は、 6年前のその一や、 公式サイトをご覧ください。 前回は琵琶湖一周サイクリングの途中で、 西国札所の観音堂の下から入山しましたが、 今回はあえて…

ホリショウのあれこれ文筆庫1ヶ月前

第1161話 新皇・平将門序文・怨霊になった新しい天皇 堀口尚次 平将門〈延喜3年 - 天慶3年〉は、平安時代の関東の豪族。日本の第50代桓武天皇四代の皇胤(こういん)であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍・平良将の子。下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称して東国の独立を標榜。朱雀天皇の朝敵となった。しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された〈承平天慶の乱〉。死後は怨霊になり、日本三大怨霊の一人として知られる。 後に御首神社・築土神社・神田明神・国王神社など…

たっちゃんの古代史とか1ヶ月前

関東の平将門と影武者の首塚・墓所は13か所、やっぱり結界だった件・・・そして真の将門塚の発見へ平将門の首塚といえば、東京大手町のホラーな名所が知られてますが。 実は京都から関東にかけて、平将門の首塚や墓地は他にもあるんです。あるというか、あまりに多すぎるんですが。調べてみました。 関東周辺の首塚・墓地13か所 平将門と言えば、朱雀天皇と朝廷に反抗し神皇を名乗り、関東に新たな国を起こそうとした人物で有名です。後に藤原秀郷らに敗れ西暦940年に殺害されましたが、死後に怨霊になって天皇家を苦しめたので、日本三大怨霊に数えられています。 あとは平将門の首が飛んだ伝説とか、首塚の祟りだとかもよく知られるところ。 そんな平将門の首塚は、複数あるのは知ってましたが、実際のところ何処にあるのか?結界な…

旅行大好き akihirog2ヶ月前

宇都宮ライトレール(LRT)一日乗車券で沿線散策

日本の隅っこの歴史2ヶ月前

承平天慶の乱 おさらい前回まで、秋月家に関する歴史を4回にわたってやって来ました。その中で節目となった出来事とその背景を、今回からいくつかおさらいしようと思います。 まずは、秋月家のご先祖、大蔵春実が秋月にやってくるきっかけとなった、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)から始めます。 承平天慶の乱は、「平将門の乱」「藤原純友の乱」と分けて呼ばれることもあります。全く別の土地で、全く別のことをきっかけとして始まった反乱なので、分けて呼ぶのが妥当かも知れませんが、この二つの内乱がほぼ同時期に起こったことで武士の台頭が始まり、貴族政治が揺らぎ始めることになります。 将門と純友が示し合わせて反乱を起こしたわけではない…

Mottyの旅日記 Archive2ヶ月前

結城城田川を天然の外堀として使った低い台地上にあった平山城で、関東八家のひとつである結城氏代々の居城。 城の築城時期としては、治承年間(1177-81)に結城朝光が築いたという伝承があるが、実際に城としての体裁を整えたのは、南北朝時代前後かと思われる。 結城氏は、関東に勢力を扶養した藤原秀郷の流れで、小山政光の三男朝光が頼朝に重用され、結城を領して名字とした。朝光の晩年は、政治の表舞台に出ず、出家して信仰の道を究めようとしたが、これによって権力闘争とも無縁となり、他の草創の功臣が北条氏によって滅ぼされて行く中、結城氏は以後もその地位を維持している。 鎌倉時代の結城氏は、山川氏を始めとする諸々の庶流の…

ある社会科講師の旅の回想録2ヶ月前

社会科講師的東京散歩~皇居をぐるり②~平将門の首塚 東京駅から大手門に,途中平将門の首塚を訪ねる。939年,関八州(関東八ヶ国)を束ね,自らを「新皇」と名乗り,朝廷に反旗を翻した平将門の首塚。将門の本拠は茨城県猿島(さしま)であったが,藤原秀郷(俵藤太)らによって打ち取られると,その首は京都で晒されたのち,怨霊となってこの地に飛来したという。以後,この地を侵すものあれば祟りとなって仇をなし,関東を鎮守する地霊として祀られるようになった。 写真は2014年当時のもの。ビル街の隙間にひっそりと建っていたが,現在は三井物産本社が入るOtemachi Oneの玄関に堂々と祀られており,怨霊感が薄れて個人的には残念な景色になっている。江戸時…

Mottyの旅日記 Archive2ヶ月前

水戸城水戸城解説板 常陸大掾平国香の子孫である馬場資幹が、建久年間(1190-99)頃に丘陵突端に居館を構えたのが最初で、当時は馬場城と呼ばれたというが、詳しいことはよく分かっていない。ただ、鎌倉期の水戸には、資幹の同族である吉田氏や石川氏が栄えていたようだ。 関東の平姓諸豪族は、国香の父である高望王こと平高望の系統がそのほとんどであるが、馬場氏を含む常陸平氏も同じである。高望の長男国香が父に従って関東に下り、やがて、常陸大掾で広大な私営田を持っていた源譲の娘婿となってその基盤を引き継いだ。 国香はその後、平将門と護との対立に巻き込まれて没してしまうのだが、嫡子貞盛が将門討伐に功を挙げて多数の領地を…

日々是"吉"日2ヶ月前

崇神天皇御子による勧請 大神神社どうも、ひのきですm(*_ _)m 宇都宮、いや、下野国巡拝を締めくくるのは大神神社です 此度の巡拝は暑さと体力を考慮して滝尾神社と二荒山神社、餃子を食べて元気だったら大神神社という三社に絞っていたのですが特に大神神社についてはほぼ何も調べておらずきっとサラッと参拝して終わるだろうと思っていたので二荒さんでかなり満足した私はもうそのまま帰っちゃってもいいかなぁなんて思っていました、気温も上がってきたし極度の睡眠不足だったし 心満たされたお昼に美味しい宇都宮餃子でビールをくぃーっとやって帰りの電車は涼しく寝ながら...なんて贅沢の極みでしょ! でも何故か私は、次の神社はお酒を入れて行くべきではな…