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馬忠

中国後漢から三国時代の人物(? - 249年)。字(あざな)は徳信(とくしん)。巴西郡閬中の人。子に馬脩、馬恢。孫に馬義。『三国志』に伝がある。

元々の姓は狐で名は篤といった。

地元の郡の役人をしていたが、夷陵の戦いに敗退したばかりの劉備の知遇を得て、「黄権を失ったが、孤篤を得た」と評価された。

諸葛亮の北伐に参加したこともあるが、主に南中方面の軍事に力を尽くし、特に225年の諸葛亮の南征、233年の劉胄の反乱の鎮圧では功績があった。

諸葛亮の没後、蒋琬蒋エン)・費禕の時代にも蜀漢の南方の軍事の要とし活躍した。寛大で温和な性格で決断力もあり、南方の地元民にも慕われていたという。

三国志演義』でも諸葛亮の南征に参加するが、孟獲の妻の祝融と一騎打ちして敗れ、張嶷と共に捕虜となり処刑されそうにもなっている。

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馬忠

中国後漢から三国時代の人物(生没年不詳)。孫権(呉(孫呉)の初代皇帝)の部将の潘璋の部下。

219年、孫権による関羽討伐戦に参加。孫権の部将の呂蒙陸遜のためにほとんどの味方が降伏させられ進退に窮した関羽は逃亡を図ろうとした。
このとき、潘璋は命令を受けて朱然と共に関羽の退路を絶つ任務を与えられ、漳郷の地で関羽・関平親子とその部下の趙累らを捕らえることに成功した。このとき関羽を直接捕虜にした功労者が馬忠という人物である。

『三国志演義』では、馬忠は関羽を捕らえた恩賞としてその愛馬となっていた赤兎馬を貰うが、赤兎馬は絶食して数日後に死亡してしまう。後に劉備が関羽の報復のために侵攻した夷陵の戦いのときは、主人の潘璋を執拗に狙う黄忠を弓で撃退して戦死させるが、孫権軍の劣勢は変わらず、変心した降将の糜芳傅士仁に襲撃され、首を切られて劉備への手土産とされてしまった。しかし、糜芳と傅士仁もまた劉備に処刑されることになる。

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