河野談話に至るまでの経緯について (original) (raw)

1986年

7月8日 「日本を守る国民会議」が教科書検定に対して不満を表明*2
7月25日 藤尾正行文部大臣が「東京裁判が客観性を持っているのかどうか。勝ったやつが負けたやつを裁判する権利があるのか,ということがある。世界史が戦争の歴史だとすれば,至るところで裁判をやらなきゃいけないことになる」と発言*3。これに対して中国は一時的な批判でそれ以上の追及は避けた。
8月22日 藤尾文部大臣「文部大臣としては言葉遣いが不適切で,誤解を招いたことは私の不徳。おわびする」「政治家個人としては,自分の信念は変わらない」と発言の撤回を拒否。
9月 藤尾文部大臣、文芸春秋10月号で「われわれがやったとされる南京事件と,広島,長崎の原爆と,一体どっちが規模が大きくて,どっちが意図的で,かつより確かな事実としてあるのか。現実の問題として,戦時国際法で審判されるべきはどちらなんだろうか。」と発言。
9月7日 薄一波中共中央顧問委副主任が「日中友好にそむくもの」と藤尾発言を批判。
9月8日 中曽根首相が藤尾文相を罷免。

ちなみに藤尾文相は安倍(晋太郎)派に属する自民党議員です。

1990年

1月 尹貞玉、『ハンギョレ新聞』に「挺身隊の足跡を追う取材記」を連載
5月18日 「韓国教会女性連合会」「全国女子大生代表者協議会」「韓国女性団体連合」が、日本政府にこの問題に対する真相究明と謝罪を求める声明を発表
5月24日 盧泰愚大統領訪日(海部首相及び明仁天皇と会談)

国賓 大韓民国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐
平成2年5月24日(木)(宮殿)
昭和天皇が「今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならない」と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に,貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h02e.html

6月 6日 社会党本岡昭次議員、日本政府に日本軍「慰安婦」調査を要求したが、日本政府 は「従軍慰安婦は軍・国家と関係なく、民間業者が連れ歩いたもの」と回答

118 - 参 - 予算委員会 - 19号
平成2年6月6日
○政府委員(清水傳雄君) 従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。

7月 10日 「挺身隊研究会」*7結成*8
7月 31日 「釜山女性経済人連合会」と「地域女性連合」主催で光復(植民地解放)45周年記念イベント「日帝に奪われた韓国の娘たち、挺身隊の惨状とその後」を開催
10月 17日 「韓国女性団体連合」、「韓国教会女性連合会」など37の女性団体が韓日両国政府に対し、挺身隊に関する公開書簡を送付
11月 16日 37の女性団体と個人が参加し、「韓国挺身隊問題対策協議会」(略称、「挺対協」)結成*9
12月18日 社会党清水澄子議員、日本政府に調査内容を確認。日本政府は「厚生省関係は関与していなかった、それ以上は、(略)調べたけれどもわからなかった」と回答

120 - 参 - 外務委員会 - 1号
平成2年12月18日

清水澄子君 そういうことは聞いていません。私の質問にだけ答えてください。国と軍は関係していなかったのか、いたのかということだけです。いなかったというお答えでしたから、それをもう一度確認しておきたいんです。

○説明員(戸刈利和君) 少なくとも私ども調べた範囲では、先ほど申し上げましたように、厚生省関係は関与していなかった、それ以上はちょっと調べられなかったということでございます。調べたけれどもわからなかったということでございます。

この時期、日韓間では戦時強制連行に関する問題が議論され、慰安婦問題はそれに付随して議論されていました。1990年6月6日の「従軍慰安婦は軍・国家と関係なく、民間業者が連れ歩いたもの」との政府回答は徴用などによる連行と同様の形式ではなく、厚生省では確認できない、と言った発言ではありましたが、日本政府が調査に極めて消極的であることを示すものであることは確かであり、日本の市民団体や韓国側団体から強い反感を買うことになります。実際、それから半年経った12月18日時点でも日本政府は「調べられなかった」と消極的な回答に終始しています。

1991年

5月18日 大阪で「朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会」発足
5月31日〜6月2日 「挺対協」、ソウル鍾路基督教会館で「挺身隊問題を考える講演会」開催、海部首相宛てに公開書簡を送付
7月 内閣外政審議室が「慰安婦」調査を開始
8月14日 元日本軍「慰安婦」被害者として韓国で初めて名乗り出た金学順さん(当時67歳)の公式記者会見
9月18日 「韓国教会女性連合会」、被害申告電話を設置
10月19日 釜山「女性の電話」、挺身隊申告電話を設置
11月21日 前山口県労務報国会・吉田清治氏が慰安婦狩りをしたと証言
11月26日 ソウルで2回目の 「アジアの平和と女性の役割」シンポジウム開催
12月2日 大邱に住む文玉珠さん(当時67歳)が申告
12月6日 金学順さんら3名の日本軍「慰安婦」被害者、日本政府を相手取り「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」訴訟開始
12月7日 日本政府、軍慰安婦問題について、加藤紘一官房長官が「政府関係機関が関与した資料がなく、対処が困難である」と表明
12月10日 韓国外務部、駐韓日本大使に加藤官房長官の発言に対する歴史的事実の究明を要求
12月13日 通常国会で「挺身隊問題解決のための請願書」を外務統一委員会で検討。尹貞玉挺対協共同代表と日本軍「慰安婦」被害者のハルモニが証言者として参加
12月21日 駐米韓国大使館、日本軍が朝鮮人従軍慰安婦の管理に関与した内容の米軍の調査報告書を発見したと報道(朝鮮日報

韓国で慰安婦問題が日韓問題として提起した1990年から日本政府は「政府が関与した記録がない」と事実上、国の責任を否定し続け、その結果、1991年になって金学順氏(8月)や文玉珠氏(12月)らが名乗り出て、金学順氏は1991年中に日本政府に対し訴訟*10を起こすに至りました。この期に及んでもなお、日本政府は「政府関係機関が関与した資料がなく、対処が困難である」と表明して、さらなる反感を買うことになります。
現実問題として、1968年の時点で日本政府は慰安婦動員にあたって「軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われます」*11などと認めていました*12。にもかかわらず韓国側から問題を提起されると、日本政府は関与していないと逃げ始めたわけで、当事者の感情を逆撫でして当然の態度をとったわけです。慰安婦問題におけるボタンの掛け違えが生じたとすれば、1990年から1991年のこの日本政府の卑怯な態度こそが原因と言えます。

1992年

1月8日 第1回水曜デモ(日本大使館前、以来毎週水曜日に実施)
1月10日 中央大学吉見義明教授、日本軍の慰安所に関与した証拠資料を発見(朝日新聞報道)
1月13日 日本政府、日本軍の関与事実を初めて公式に認める官房長官談話を発表「発見された資料や関係者の証言、米軍等の資料を見ると、従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できない」
1月17日 訪韓した宮沢首相が韓国国会演説で謝罪と反省を表明、「最近、いわゆる従軍慰安婦(挺身隊)問題が取り上げられていますが、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。」
2月25日 韓国政府、被害者センターを設置、被害申告と証言の受付開始
4月13日 日本軍「慰安婦」被害者6名、日本政府を相手取り賠償を求めた訴訟で追加提訴
7月6日 日本政府、慰安婦問題に関する第1次調査結果を発表、日本軍「慰安婦」問題への日本政府の直接関与を公式に認めたが、強制連行については否定(加藤談話)。
7月31日 韓国政府、慰安婦問題の調査報告書を発表、事実上の強制連行があったとした。
8月10日 ソウルで「第1次挺身隊問題解決のためのアジア連帯会議」開催、被害国の韓国、台湾、タイ、フィリピン、香港などと日本の市民団体が参加
10月 被害者のハルモニのための福祉施設(ナヌムの家)オープン*13
12月 国連総会第3委員会で従軍慰安婦問題について言及
12月25日 釜山在住日本軍「慰安婦」および勤労挺身隊被害者4人、日本政府を相手取り1億円の賠償を請求する訴訟を提起(下関地方裁判所

1992年1月頃の報道についてはApemanさんところの記事に詳しく書かれています。1991年まで慰安婦関係の調査自体に極めて消極的な態度を示し、「政府が関与した記録がない」と責任を否定し続けた日本政府は、1992年1月に吉見教授らが発見した日本軍が慰安所に関与した証拠資料を提示されて始めて関与を認めたわけです。この時点で日本政府は慰安婦関連の資料を1年以上にわたって調査していたはずでした。ところが政府よりも先に民間研究者から動かぬ証拠が提示されて、日本政府は赤っ恥をかくことになったわけです。
この時点で慰安婦問題に関して日本政府は極めて消極的であるというマイナスイメージがつくことになりました。日本政府関与の下で戦時性的人身売買が横行したというそれだけで日本政府の責任といえ、しかもその解明に現日本政府が消極的、さらに言えば事実上の隠蔽を狙ったと言われても当然のことをしたわけです。このマイナスイメージを取り戻すには、積極的な実態解明と被害者支援に転じる必要がありましたが、日本政府は関与を認め元慰安婦に同情を示しつつも事実上の責任は否定するという選択肢を選びました。
こうした中で、文玉珠氏らも日本政府に対して提訴に至ります(12月)。

1993年

2月 第49回国連人権委員会ジュネーブ会議)で軍慰安婦問題について議論
2月 韓国政府、合計490人の挺身隊被害者の申告受付の結果を発表
3月 証言集第1集『強制的に連行された朝鮮人日本軍「慰安婦」たち』刊行*14
3月13日 金泳三大統領、対日補償を要求しない方針を明言
3月23日 河野官房長官、聞き取り調査の必要性に言及。「文書を探す調査だけでは十分でないという部分もございますから、関係された方々のお話もお聞きをするということを考えております」
4月2日 フィリピンの日本軍「慰安婦」被害者18人、日本政府を相手取り提訴(東京地裁
4月5日 在日韓国人日本軍「慰安婦」被害者宋神道氏、日本政府を相手取り提訴(東京地裁
6月 「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」国会で可決、8月に支援金、医療支援、永久賃貸マンション分譲などの支援を実施
6月 国際人権会議(ウィーン)で従軍慰安婦問題について議論
6月 宮沢内閣不信任決議案可決
7月 自民党、総選挙で過半数確保に失敗
7月26日〜30日 日本政府による元慰安婦16人からの聞き取り調査(ソウル)
8月4日 日本政府、「従軍慰安婦」問題に対する官房長官談話を発表:慰安婦の存在、慰安所の設置・管理および慰安婦の移送に旧日本軍が直接、または間接的に関わり、慰安婦募集に軍が関与したことを認める(河野談話

1993年になっても“関与はしても責任はない”という態度を崩さない日本政府に対し、韓国政府は3月13日「対日補償を要求しない方針を明言」し、韓国政府のみで元慰安婦らに補償することになりました。“日本軍は慰安婦制度という組織的強姦制度に関与したが責任はないので補償はしない”という日本政府に対して、韓国政府は“そうまで責任を認めようとしないのならもういい、韓国政府のみで独自に補償する”というやり取りです*15
一方で、日本軍慰安婦制度の被害者はフィリピンなど東南アジアでも明らかになり、慰安婦問題の火の手はアジア全域に広がりつつありました。
1992年7月の加藤談話の時点で日本が最大の友好国とみなしていたインドネシア(当時、スハルトによる反共独裁政権)からも内々での抗議がなされ、外務省に動揺が走っています*16。既に韓国一国だけを相手にする問題ではなくなりつつありました。韓国相手の慰安婦問題解決に失敗すれば、東南アジア諸国との関係悪化にもつながる可能性があったわけです。金泳三大統領が対日補償を要求しない方針を明言した直後、それまで強制連行を証明する文書がないと責任を否認してきた日本政府は元慰安婦への聞き取り調査の必要性に言及します。
1993年6月に不信任案が可決された宮沢内閣は、7月末に元慰安婦への聞き取り調査を行い、8月4日の河野談話へと至ります。

慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

1992年7月の加藤談話から進歩した部分は「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」くらいで、ごく常識的に当然と思える内容に過ぎません。たったこれだけのことを認めるのに日本政府は1年以上ゴネ続け、かつ、たったこれだけの談話が日本政府が譲歩できる最大限の内容でした。本人の意思に反したこと、強制的な状況だったことを日本政府が認めることで、韓国政府を黙らせようとしたわけです。