わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる (original) (raw)

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ガルシア=マルケス『百年の孤独』は、何度読んでも面白い。

私の記憶力の無さと、再読までに積んだ経験によって、読むたびに面白いと感じるポイントが変わっていく。本は変わらないのだから、再読による発見は、自分の人生の厚みが変わったためなのだろう。

さらに、この小説を楽しんだ人の感想を聞くと、十人十色で面白い。私に近い人もいれば、予想外のところにハマった人もいる。アウト・オブ・眼中の所にのめり込んだ人の話を聞くと、「なるほどなぁ!」と新鮮に読め、一冊で二度も三度も楽しめる。

小説なんだから好きに読めばいい。

引っ掛かった描写。伏線に見えるセリフ。湧き上がるイメージと、それに結びついた自分の読書経験と実人生の体験。学校じゃないんだから、「正解」なんてものはなく、「ぼくのかんがえたさいきょうの読解」の多様性を楽しむといい。

そんな皆さんの感想を伺うべく、『百年の孤独』の読書会に行ってきたので、レポートする。未読の方にはネタバレをしないように配慮する一方で、読んでる方には再読したくなるようなネタを紹介しつつ書いてみる。読書会の開催者はマヤさん(@Mayaya1986)、楽しい会をありがとうございました。

どこに付箋を貼ったか

参加された皆さんが持ってきた『百年』を見ると、あちこちに付箋が貼ってある。

もちろん私のもハリネズミのように付箋だらけなのだが、人により付箋を貼るところが違ってて楽しかった。

なかでも、「孤独」が出てくる箇所に貼った人がいる。

何故に「孤独」か?

本のタイトルにまで登場する「孤独」なのもそうだけど、言われてみると、そこらじゅうに孤独が散りばめられている。この物語を支える通底音が「孤独」なのかもしれぬ。

愛なき世界を生きる一族なのだから、各々が孤独を抱えていることは当然の帰結だろう。圧倒的な権力の重さに誰にも相談できない孤独から、愛する相手が血のつながった家族であるが故に突き落とされる孤独など、様々な孤独が出てくる。

「孤独」に付箋を貼った人によると、面白いことに、アルカディオ名が付くキャラには、孤独が出てこないという。むべなるかな、家族の中でアルカディオと名づけられる男は、豪放磊落な大男になる傾向がある。お祭り好きで女好きなキャラは、孤独とは程遠いかも。

さらに『百年の孤独』の「孤独」は、soleであってlonelyじゃないという指摘は鋭いと思った。日本型の、ねっちょりジメっとした loneliness というよりも、それぞれが背負ってる業の形が違う故の solitude の孤独だ。

「黄」に付箋を貼った人もいる。

最初は不思議に思ったが、言われてみればなるほど!と腑に落ちた。

不眠症になった仔馬は黄色になるし(p.75)、マコンドに鉄道が開通し、最初にやってくる汽車の色は黄色だ(p.346)。レメディオス(メメ)を付けまわすマウリシオつねに「黄色い蛾」を辺りにはべらせており(p.443)、一族で最も美しいレメディオス(小町娘)に捧げられるのは黄色い薔薇である(p.308)。ある重要な人物が死ぬとき、マコンドの町全体に黄色い花が降る(p.221)。何度も登場する魚の金細工の黄金色や、アメリカ人が経営する農園のバナナの色(表紙を見よ)まで黄色だ。

確かに、重要なアイテムやイベントには、黄色のイメージが閃いているように見える。

黄色に何か意味があるのだろうか?

ユダが着ている服は黄色の場合が多いから、裏切りの色かもという意見や、太陽や黄金からイメージされる豊穣の意味があるのではというのもあったが、参加者みんなに共通したものは、私たちの抱いているイメージとは異なる黄色だ。明るくない、ねっとりとくすんだ黄色になる。

英語圏において、青が、憂鬱(blue monday)やポルノ(blue film)を意味したり、日本語ではピンクがエロス(ピンク映画、桃色遊戯)を意味するように、ラテンアメリカ圏では黄色に特別な意味があるのかもしれない。

『百年』の後に読みたい一冊

『百年』は、様々なイメージを喚起させ、自身の読書体験を呼び覚ますような読書になる。マコンドという特殊な場所のブエンディアという特別な一族を描いているにもかかわらず、どこかで見た(聞いた・感じた・語った)ような懐かしさも覚える。

結果、『百年』の後にお薦めしたい、あるいは読みたい本が山と出てくる。そんなお薦めあいをするのも楽しい。

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持ち寄られた中で、ひときわ目を引いたのがこれ。出版50周年記念版の『百年』だ。

両手でないと持ち上げられないくらい巨大な一冊で、豊富な挿絵と、何よりも家族の姿を写し取ったような家系図が、見ているだけで時を忘れる。

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この家系図、本当によくできており、ホセ・アルカディオ・セグントとアウレリャノ・セグントが瓜二つである(でもアウレリャノのほうが太っている)ように描かれている。レメディオス(小町娘)は、レメディオス・ザ・ビューティ(Remedios the beauty)だし、レベーカやアマランタは、美しい少女時代よりも、長い苦い時を過ごすことを予感させるように少し老けている似姿だ。

アウレリャノを名のる者は内向的だが頭がいい。一方、ホセ・アルカディオを名のる者は衝動的で度胸はいいが、悲劇の影がつきまとう。 (p.285)

そうウルスラが結論付けるように、アウレリャノは思慮深く、アルカディオはマッチョイズムを体現したような顔つきだ。一か所だけ、この法則に合わない所があるが、それは棺を蓋う瞬間に分かるように仕掛けが施されている。

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本当に偶然だった。レベーカの目が塀に向けられた。驚きのあまり彼女はその場に立ちすくんでしまった。彼に向かって別れの手を振るのがやっとだった。 (p.189)

ここ好きなシーンだ。一つ一つの細かい描写も再現されているので、描いた人はきちんと読み込んでいることが分かる。

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ところが、笛のような音や荒い鼻息の騒々しさがおさまったとき、住民のみんなが表へとび出してみると、機関車の上で手を振っているアウレリャノ・トリステの姿が見えた。そして、予定より八ヶ月も遅れてやっとこの町へ到着した花いっぱいの汽車が、夢中になっている連中の目に飛び込んだ。多くの不安や安堵を、喜びごとや不幸を、変化や災厄や昔を懐かしむ気分などをマコンドに運びこむことになる、無心の、黄色い汽車が。 (p.346)

「黄色い汽車」のシーンだ。線路が敷かれ、汽車が開通することで、マコンドと文明が接続されることになる。それまでは野を越え山を越えてきたジプシーの売り子しか外の世界との接点が無かったのに、文明という名の資本主義がもたらされる。

ここ、よく見ると、ほぼミッドポイントになる。マコンドは、汽車前/汽車後で大きく変わっていくことが、後から眺めると、はっきりと見えてくる。プロットを廃し、乱雑に小話を詰め込んだと思いきや、積み上げ方を計算していたのかもしれないと思うと、さらにもう一度読みたくなる。

スペイン語だし、入手困難だが、「欲しい!」と所有欲を掻き立てる豪華版なり。

この読書会で、桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』を教えてもらった。桜庭一樹も知っているし、『赤朽葉家の伝説』も(タイトルだけは)知っていた。けれども、『赤朽葉家』が『百年』のオマージュであることは知らなんだ。

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山陰地方の架空の町に居を構える、赤朽葉家が舞台になる。江戸から明治、そして戦後にかけての激動の歴史と共に生きた三代の女性の物語だという。千里眼を持つキャラが出てきたり、「このミステリーがすごい!」などのランキングで上位を連ねたりで、かなり話題になったようだ。『百年』が豊穣な作品なので、こうした優れたオマージュが出るのは嬉しい限り。

私がお薦めしたのが『フリッカー、あるいは映画の魔』だ。

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ある映画監督に取り憑かれるあまり、彼の究極映像を追い求める話なのだが、そのまま悪夢の遍歴となる。実際の映画史と虚構がないまぜとなり、主人公の悪夢を強制的に観させられるような体験ができる。映像美のディテールが凄まじく、この監督の映画を観てぇ……悪魔に魂を売ることになっても……と吼えながら、ラストの「究極の映像」に身もだえするだろう。

このラストが、『百年』の最後に解読されるアレを読んでいる感情と完全に一致する。人生で一回しか観れない映画があるように、人生で一回しか読めない手記がある。それが『百年の孤独』なのだということが、よく分かる。

『エレンディラ』を挙げていた人もいた。

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これはありかも。ロウソクを消し忘れたまま眠ってしまい、火事になって家を焼いてしまった少女の話だ。

目が覚めたときには、あたり一面火の海で、母がわりの祖母と一緒に住んでいた家は灰になった。その日から、祖母は焼けた家のお金を取り戻すために、町から町へ彼女を連れ歩いて、二十センタボの線香代で春を売らせていた。 (p.86)

娘の計算によると、旅費や食費や何やらで、ひと晩に七十人の客を取ってもあとまだ十年はかかるらしい。

『百年の孤独』で、この少女のところに、アウレリャノ(大佐)が行くのだが……というエピソードを読んだのなら、まさにその少女を描いた短編小説『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』を読みたくなるはず……

お薦めされた方は、「サボテンの方」と言っていたので、『エレンディラ』の方だろう。「大人のための残酷な童話」と銘打っているけれど、確かにその通り。ガルシア=マルケスの短編だと「美しい水死人」が白眉だと思う。

さらに私から。めくるめく『百年』の迷宮にハマった人には、ドノソ『夜のみだらな鳥』を推したい。

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2024年に『百年の孤独』が文庫化されたことは確かに事件だが、2018年に『夜のみだらな鳥』が復刊されたことは、大事件だと思う(長らく絶版で、平気で諭吉の値が付いてた)。

『夜みだ』を読むことは、読書というよりも毒書であり、耐性がある人には中毒症状・禁断症状が現れることになる。

語り手と語られる/騙られる者・場所・時間・記憶が、迷宮状に入り混じり接続し、先の否定が肯定され、後の出来事を未来で予告する。カオスと呼ぶためにはカオス”でない”存在、少なくとも読み手がそうでない必要があるが、丹念に読めば読むほど、うねる物語に呑みこまれ異形化する。

ありのまま、起こった事を話すなら、「彼の語りを読んでいたと思ったら、いつのまにか読まれていた」……何を言っているのか分からないと思うが、わたしも何をされたのか分からない。頭がどうにかなりそうだった。信頼できない語り手だとかメタフィクションだとか、そんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わう、そういう毒書だ。

ラテンアメリカ文学の瘴気に当たるのに丁度いい傑作。

湧き上がるイマジネーションを思う存分開放したエッセイが、『『百年の孤独』を代わりに読む』だ。

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「代わりに読む」とは何ぞや?いわゆる「読み屋」みたいなものだろうか?ゲラを予め読んで内容をまとめておき、プロモーションの片棒を担ぐ「プロの書評家」のことだろうか。

本人の動機は、「まだ読んでない友人の代わりに読もう」ということで、その経験を綴ったものがこれになる。ただし、よくあるような、あらすじを要約して背景を解説して評点を付けるようなことはしない。それは、「代わりに読む」ことにはならないというのだ。

理由としては、こう述べている。

なぜなら、小説を読み進めている時間に読む者の心のなかにだけ立ち上がる驚きやワクワクというものは、要約や解説では伝えられず、そのまま時間が過ぎれば消えてしまうものだからだ。なんとかしてその消えてしまうはずの驚きやワクワクを生のままに伝えたかった。 (『百年の孤独』を代わりに読むp.3)

そして、『百年』を読みながら呼び起こされる自身の経験や、映画やドラマや小説やマンガのとあるシーンや会話を語り尽くす。自分も読んだことのある作品もあれば、タイトルすら知らないようなものもある。けれども、「代わりに読む」ことで記憶のスイッチが次々とONになってゆくのを見てるだけで楽しい。「『百年』を読むという経験」を、同時進行で味わえる。併読するとさらに楽しいかも(というか、併読したくなる)。

読書会でお薦めされたのが、『族長の秋』だ。めちゃくちゃ強く推された。

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思い起こすと、ネットでもリアルでも、ガルシア=マルケスの話をすると、たいてい『百年』『エレンディラ』『予告された殺人』『コレラの時代』『水死人』ときて、最後は『族長の秋』を読め(命令形)になる。

そもそも、『百年』の文庫版の解説で、筒井康隆がこう述べている。

ほんとうのことを言うと、実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に描いた「族長の秋」なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかもしれないが、その破茶滅茶ぶりにおいてはこちらの方が上回っている。 (百年の孤独【新潮文庫】p.660)

そして、解説の最後で、「読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め」とまで断言している。

よし読もう。

神話か民話か

『百年の孤独』には、物語を貫くメインプロットが無い。

普通の小説には普通にある。

プロットは、物語の骨組みを示し、「はじめ・なか・おわり」を定義し、出来事を論理的に結び付け、テーマやストーリーラインを強調する。プロットのおかげで、「それがどんな物語であるか」について、読者は物語と分かり合うことができる。

だがそれは、言い換えるなら、プロットが無いと辛くなる。

読み手は、それが何の話なのか手探りで進むことになる。誰かの冒険譚か成功譚なのか、テーマが愛なのか争いなのか、分からないまま読むことになる。各々のエピソードがどのように有機的につながるのか見えないし、登場する新キャラがどんな役にハマるのか分からないまま取り残される。

これは辛い。

ブエンディア一族に起きる出来事はフラットに並べられ、時を経てつながりはするけれど、それは物語の進行とは無関係に配置される。一つ一つのエピソードは面白いが、小話をまとめる因果は存在しない。『百年の孤独』に歯ごたえを感じたり挫折する人は、メインプロットを探そうとして壁にぶち当たっているのかもしれぬ。

これに一番近いのは、民話や昔話だ。

「むかしむかし、あるところに」で始まるお話が、ひたすら並べられている感覚。笑えるホラ話もあれば、残酷で不思議な物語もある。少し時間が経てば伝承や伝説になるかもしれないが、それ未満の小話たち。柳田國男『遠野物語』の登場人物を、一つの家族でやろうとすると、『百年の孤独』に近くなる。

なので無理やりプロットを探そうとせず、やってくる小話やエピソードを、そのまま呑み込んでいけばいい。

「百年は民話だ」ということを読書会で述べると、前日の読書会では「百年は神話だ」という意見が数多く出たという。

人間くさいけれど人間ばなれしたキャラが出てきて、試練を乗り越えたり皆を危険な目に遭わせたりする。英雄的なキャラも出てくるし、絶世の美女も登場する。だから神話だというのだ。

なるほど!その発想は無かった……確かに人とは思えない怪力や、空に消える超常現象、死者とナチュラルに対話するなんて、神話的な要素もあるかもしれぬ。

ただし、物語が神話として成立するための大事な要素が欠けていると思う。それは、「世界がこうなっているという説明」だ。

例えば、雷が鳴って落雷するのはなぜか。人は死ぬとどうなるのか。なぜ海は荒れたり凪いだりするのか。宗教や科学に引き継がれるずっと前に、これらを説明するために、ゼウスやハデスやポセイドンが誕生した。

文化や価値観を反映し、次の世代に向けて「世界がこうなっている理由」を説明し、その共同体のアイデンティティを形成するために、神話が存在する。数々の物語の中から、ほかならぬそのお話が「神話」たりうるのは、この役割の有無だろう。

もちろん、『百年の孤独』が神話になることだって可能だった。だが、(読んだ方なら分かるだろうが)あの終わり方では、神話として成立することはできない。

どこかで耳にしたのだが、おばあちゃんにしてもらった昔話を想起しながら書いたといったことを、作者自身がインタビューで答えている。なので民話として読むのが作者の意図に近いのかもしれぬ。

一方で、仮にこれが民話ではなく神話として読めるのなら、その語り手は誰になるのだろうと考えると、面白くなってくる。私の見立てだと、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダしか語り手たりえないと思うのだが、どうだろう。

はてブへのリプライ

はてなブックマークコメントに返事をしてみる。

もう一回読んでみようかな/たかだか10年前くらいまでに読んだ本が、最近読み直すと全然わかっていないことが多くて、自分の人生は何なのだろうとおもう (reponさん)

ありがとうございます!「もう一回読んでみようかな」と思っていただいただけでも、この記事を書いた甲斐がありました。「読み直そう」と思う時点で、それは価値のある作品で、それほど価値がある作品であるならば、一回や二回読破しただけで「分かる」なんてことは、ないと思います。あるいは、読み直すたびに、分かりなおすのかもしれません。マッカーシーやドストエフスキーを読み直す度に、そう感じます。

文庫版買ったんだけど、まだ読んでない。 違和感を散りばめてある…か、違和感があると気になって読み進められないタチだから、俺には向いてないのかも (minaminoaniさん)

「違和感があると気になって読み進められない」ということは、(minaminoaniさんにとって)違和感ナシで読める作品が存在することになります。マジ?と思いました。あらゆる作品は、読むたびに感情や記憶を呼び覚まし、何かしらの引っ掛かりを残します。それが無いというのは、いったいどんな作品なんだろうと、逆に気になりました。

読んだことないんだよなあ 買うか! (esbeeさん)

はい!是非!書店で積んであると思うので、まずはパラパラっと見て、面白そうだと感じたら買って読みましょう。記事にも書いた通り、どの節を抽出しても、全体と相似しているフラクタルな構造のため、どこを読んでも「『百年の孤独』を読んだこと」になりますので。

読書会あれこれ

読書会が良かったのは、好きなだけイマジネーションを語れたこと。

ネットだとネタバレを配慮したり、発想の暴走を自制したりと、気を付ける必要があるが、リアル読書会なら、キャラの最期や物語の最後を好きなだけ語れる。「●●がダメだった」というネガティブな感想も言える自由さもいい。以下、読書会に出てきた様々なコメント。

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『百年』はどう読んでも面白いけど、みんなで読むと100倍面白い。みんなでしゃぶりつくそう。