アノニマス・ガーデン/記憶のほとりの庭で (original) (raw)

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東京の午睡」と書いて「とうきょうのひるね」と読む。『東京の午睡』は東京に生きるわたくしの寝言やら独り言やら繰り言やら小言やら諫言やら暴言やら失言やら遺言やらを、できうれば「東京事(とうきょうごと)」乃至は「東京事態(とうきょうじたい)」を踏まえつつ、ほぼ自動書記で、ということはつまり、思うまま考えるまま感じるまま見たまま聴いたまま推敲やら加筆やら訂正やらなしに書き殴り、書き飛ばし、書き放ち、書き捨てといったかたちで記述される。風狂明快なることこのうえもない戯れ言遊びとなるはずである。

わたくしは東京の空気などいっさい読まぬし、わたくしの知ったことではないが、『東京の午睡』はグレート&ファックに汚れた東京の空気を思うぞんぶん吸いこんだうえの、ある種の「東京の現在」ともなろう。それはすなわち、「のっぴきならないわたくしの現在」をもあらわすものであって、永井荷風『シ墨東綺譚』を母とし、作者不詳『江戸午睡』を父とする。決して、孤児(みなしご)ではない。

サブカルなど糞喰らえの立場はかわらぬし、堅持するが、否が応でもサブカル臭は漏れ出すに相違ない。サブカルチャーはもちろん、カウンターカルチャーさえ飲み込んで、ついには「トキオクールチュール」のとば口あたりまでたどり着けるならば望外の収穫である。さらには、これは些末なこだわりの類いであるけれども、東京「に」生きるほかに、東京「を」生きる、東京「で」生きる、東京「は」生きる、東京「の」生きる等々をも試みていく予定である。

いずれにしても、わたくしにとっては、「生きること」はすなわち「東京すること」でもあるから、当然に処世訓、人生論、人間学に加えて、政治論、経済論風なフレバも醸すことが予想される。その場合、「なんでもわかっているお見通し」な御仁は、さっさと、しかも、物静かに退場するがよかろう。以後は、『東京の午睡』が本欄の中心となっていく。(「ある事情」によって、今後、「小説」のスタイルをとっている類いのテクストを本欄で発表することができなくなってしまったことを、言い訳がましく付記しておく。いずれ、未完のテクストどもは、「別のかたち」で諸兄の目汚しの栄に浴すこともあろうが、それはそれで、ある種の風狂、御愛嬌である。もって、瞑すべし。)

『東京の午睡』は範を元禄の頃に世に出た『江戸午睡(えどごすい)』にとっている。作者不詳のこの戯作本は「匿名」の体裁をあえてとって、自由闊達、放埒自在に「江戸」の森羅万象を俎上に載せ、解体しまくり、調理調味しまくり、刺身にし、煮付けにし、唐揚げにし、炒め物にしといった具合に江戸を骨の髄まで味わい、しゃぶりつくしている。まさにアノニマス・ガーデンで時さえ忘れて無心に一心不乱に遊ぶ真の自由人、幼子のこころを『江戸午睡』の中にわたくしは読み取った。『江戸午睡』は当時、空前絶後のベストセラーとなり、ブーム後は長屋という長屋の路地、入口、ゴミ捨て場に、文字通り山のように積まれていたとモノの本にある。わが『東京の午睡』もまた、かくありたいものである。

なお、西沢一鳳の『皇都午睡(みやこのひるね)』は寡聞にして存在すら知らず、もちろん、読んだこともなく、このたび『東京の午睡』をはじめるにあたって、基礎資料の収集のために吉里吉里国国会図書館、東京帝國主義大學歴史文庫、早稲田圃大学演劇博物館ほかで江戸期の戯作本、黄表紙の類いを片っ端から読み飛ばしているうちに偶然発見した。発見したときは嬉しいやら悔しいやら、不思議な心持ちであった。西沢一鳳翁の慧眼に敬意を表しつつ、ゆっくりのんびりたっぷり天下太平楽に午睡のごとく朦朧茫漠茫洋としてすすめる次第である。

かくして、本日も東京は天下太平楽である。

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朝、窓をあけるとアンジェリック・キジョの『バトゥンガ』が聴こえた。音のするほうに目をやると、髪を短く刈りこんだいかつい男がこちらを見ていた。男は短躯でいかつかったが、どこか愛嬌のある顔をしていた。アンジェリック・キジョが「バトゥンガ!」と歌うところで、同時に男は漢字の「大」の字のかたちに両腕両足をひろげてジャンプした。目を凝らしてよくみると、男の左肩上には黒いしみのような点がジャンプのたびに浮かんだ。犬だ。男は犬と言いたいんだと私は理解した。私が理解すると同時に男はとても気持ちのよい笑顔みせた。
「あれ? ぼくの考えていることがわかるのかい?」と私が考えると、男は笑顔をテンコ盛りにして何度もうなずいた。
「そうか。わかるのか。キミはもしかして、一昨年、虹の橋にでかけたっきり帰ってこない、ぼくの親友だったフレンチ・ブルドッグのバトゥンガ?」
男はからだがばらばらになってしまうのではないかと心配になるくらい全身を激しく動かした。男は私の唯一の相棒であり、用心棒であり、友だちだった、フレンチ・ブルドッグのバトゥンガだった。私はほぼ2年ぶりの再会がとてもうれしかった。それだけじゃない。うれしかっただけではなくて、すごく感動していた。涙がじゃぶじゃぶ音を立ててあふれでた。私がいつもしていたようにあごをしゃくる仕草でバトゥンガを呼ぶと、バトゥンガはものすごい勢いで私のところにすっ飛んできた。私とバトゥンガは再会のよろこびをわかちあい、抱き合い、それから隅田川沿いを散歩し、上野の不忍池あたりに沈む夕陽をいっしょにながめ、さくら橋のたもとでさよならをした。バトゥンガはしょんぼりとした足取りで、ふりかえりふりかえり、虹の橋へと帰っていった。 次にバトゥンガに会えるのはいつだろうな。いまからたのしみだ。朝起きるたびに『バトゥンガ』を聴いて、バトゥンガが犬の字ジャンプをみせてくれるときを待つことにしよう。バトゥンガ!

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→KOFFの月に一度のスペシャル・セールで手に入れた『フィネガンズ・ウェイク』を読むにはうってつけの午後だった。リラの花影が揺れる窓辺では水曜日の午後の野毛山動物園から飛来した42羽のクォーク鳥たちが「クォーククォーククォークダンテブルーノヴィーコジョイス クォーククォーククォークダンテブルーノヴィーコジョイス クォーククォーククォークダンテブルーノヴィーコジョイス」と3度鳴き、台所では年老いた大工の棟梁が鉋がけに精を出していて、夜にはセシウム除染中に屋根から転げ落ちて死んだ42年間音信不通の友人の通夜が控えていた。ラジオからはジョン・ケージの『42歳の春の素敵な未亡人』が聴こえ、死と再生と転落と地獄と天国と覚醒が、これまでに出会い、通りすぎ、背を向け、いつか出会うすべての人々とともに部屋中を舞い踊っていて、おまけに人生はまだ見ぬ世界に向かって静かに進行中だった。それらのすべてが雷鳴とイズラエル・カマカヴィヴォオレが天国から歌う KAMINARI の轟く中で呼応しあい、息吹き、慈しみあっていた。私は人類の意識の流れの終わりなき円環に眼も眩みそうだった。

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Finish! Initial! Nothing! Nonsense! Enable! Goddamn! Ambitious! Nock! Shot! Wake!

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「ぼくにも食べさせてよ」と世界にただ一匹のミニチュア・セントバーナード犬、ポルコロッソが言った。尻尾をヘリコプターみたいにぐるぐるまわしている。尻尾の回転速度と表情と息づかいからして、猛烈に『フィネガンズ・ウェイク』に興味があるようだ。「これは食べ物じゃないよ」と私。
「だって、あんたはすごくしあわせそうじゃないか」
「しあわせそうでも、これは食べ物じゃない。それに、おまえにはまだはやすぎる」
「そんなのずるいや! 自分だけおいしい思いするなんて! ねえねえ、お願いだからぼくにもおくれってば!」

私は商店主のハンフリー・チップデン・エアウィッカーが法廷で相手方の木偶の坊弁護士から雨の休日の過ごし方について実に間の抜けた尋問を受ける場面のページをポルコロッソの鼻っつらに押しつけた。ポルコロッソは鼻をくんくん鳴らし、上目づかいで私を見てからぺろりと『フィネガンズ・ウェイク』の420ページをなめた。

「まずっ! ひどいや!」
「だから言ったじゃないか」
「でも、なにか裏がありそうだな」
「裏なんかないって」
「いや、あんたはいままでにぼくを4242回だましてきたからな。けさは春巻きの皮しかくれなかったし」
「きのうはピーナッツを42粒もあげたぜ」
「おかげでゲリゲリピーピーピーナッツだ」
「わかったよ。これはおまえにあげるよ。そのかわり、だいじにしてくれよな。気がすんだら返してもらいたいし」

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私は『フィネガンズ・ウェイク』をポルコロッソの寝床であるホットマンのターコイズ・ブルーのタオルケットの上にそっと置いた。ポルコロッソは『フィネガンズ・ウェイク』にぴったりと寄り添い、満足そうに眠りについた。そして、目を覚ますたびに1ページずつ『フィネガンズ・ウェイク』を食べた。ポルコロッソが『フィネガンズ・ウェイク』を平らげたら、次は『ユリシーズ』、その次は『失われた時を求めて』をあげることにしよう。『イーリアス』と『オデュッセイア』と『プルターク英雄伝』と『パイドン』と『聖書』と『神曲』と『無限・宇宙・諸世界について』と『地獄の季節』とー(θ)ー『虹のコヨーテ』と『アノニマス・ガーデン』とー(Ω)ー『精神現象学』と『純粋理性批判』と『悦ばしき知識』と『善悪の彼岸』と『ツァラトゥストラかく語りき』と『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』と『悪霊』と『ディヴィッド・コパフィールド』と『森の生活』と『老人と海』とー(Φ)ー『堕落論』と『山羊の歌』と『在りし日の歌』と『異邦人』と『シジフォスの神話』と『存在と時間』と『存在と無』と『グレート・ギャツビー』と『長いさよなら』と『路上』と『悲しき熱帯』と『言葉と物』と『グラマトロジーについて』と『重力の虹』と『ライ麦畑のキャッチャー』とー(Ψ)ー『共同幻想論』と『死霊』と『豊饒の海』と『断層図鑑殺人事件』と『骰子一擲』と『半獣神の午後』と『変身』と『文学空間』と『期待/忘却』と『スローターハウス5』と『ニューロマンサー』と『セヴンティーン』と『政治少年死す』と『同時代ゲーム』と『万延元年のフットボール』と『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』と『ガルガンチュアとパンタグリュエル』もあげよう。すべてを食べ終えたとき、ポルコロッソは世界で一番あごが丈夫で、イデアでプラトニックでロゴスでミュトスでエロスでタナトスでモダンでコスモポリタンでルネサンスで海とつがった太陽で砂漠の商人でオー・マイ・ゴッドでエトランジェーでフィロソフィーでベグリッフェンでニヒルでスーパーマンでルサンチマンでアナーキーでエッケ・ホモでラスコーリニコフでエコロジーでファンキーでタフでクールでハードボイルドでイノセントでヒップでフラップでプライベート・アイズでプル・ソワでアンガージュマンでエピステーメーでパラダイム・シフトでイグジスタンスでデコンストリュクシオンでディセミナシオンでモヒートで無頼で汚れっちまった悲しみで茶色い戦争でチューヤでビートニクでポップでデオキシリボヌクレイック・アシッドで逆立で黙狂で虚體で憂国であっはでぷふいでポスト・モダンでニューエイジでサイバーパンクでスラップ・スティックでサンボリスムでアノニマスでスコールで想像力と数百円でジャギュアでスパゲティ・バジリコでちょっとマドレーヌな犬になっているにちがいない。

ポルコロッソに負けてはいられない。本を読もう。もっともっと本を読もう。もっと勉強しよう。もっと映画をみて、もっと音楽を聴いて、もっと自転車に乗って、もっと散歩をして、もっとおいしいものを食べて、もっと世界とコミットメントしよう。Work in Progress. 人生は進行中なんだ。ポルコロッソも同じ意見らしい。ブーブーブーと鼻を鳴らしている。

ブーブーブー。ブーブーブー。BOO-BOO-BOO. BOO-BOO-BOO.

BOO→

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世界にただ一頭のミニチュア・セントバーナードのポルコ・ロッソが2012年夏最後のおめかしに出かけた。朝10時にお迎えがきて、帰宅は15時。5時間の一大イベントである。人間さまならCDを2、3枚聴き、空模様をうかがい、机の上を片づけ、妄想し、鼻くそをほじり、ついでに鼻毛を抜き、耳くそをほじり、ついでに耳毛を抜き、ネットの掲示板でラバトリ・グラフィティをし、さらに妄想し、トホホなニュースねたを探し、ザラ場チェックし、注文し、チャットで馬鹿っぱなしに興じていれば、5時間などすぐにやりすごせる。だが、ミニチュア・セントバーナードのような小動物にとっては、5時間というのは永遠とも思えるようなとほうもなく長い時間であるにちがいない。象の時間とねずみの時間はちがうのだ。
そんなこんなで、ポルコ・ロッソはくたびれ果てて帰ってきた。水を少し飲むと、定位置にへたり込んだ。こちらがからんでもいっこうに乗ってこない。いつもならしっぽをヘリコプターみたいにブルンブルン振って飛びかかってくるのに。よほど疲れたんだろう。帰ってきてもう3時間になるがまだ本来の姿ではない。だが、そんなくたびれ果てたポルコ・ロッソを見ているのも悪くない。悪くないどころか、慈しみの気持ちさえ湧いてくる。もちろん、本人にとっては、見知らぬ人間に体中をいいようにいじくりまわされ、毛をバサバサ切りまくられ、耳の穴に綿棒を突っ込まれ、お湯をじゃぶじゃぶかけられというのは拷問同様の経験だったろう。それを思うと胸が痛む。
「おめかし」などと言っても、それは人間さまの勝手な言い分で、当のポルコ・ロッソはいいかげんにしてくれと思っているにちがいない。師匠としての誇りがあるので口には出さないが、いやな思いをさせたときには心の中で手を合わせ、おまえがずっとずっといつまでもハッピーな気分で、いつでも元気でかわいらしくて愛嬌のある、世界一のミニチュア・セントバーナードであってほしいと願っているんだ。そして、できうれば病気ひとつせず、ときに私に闘いを挑み、ときに甘え放題甘えて、いつかさよならのときがきたとき、つまりは、私の最期がやってきたとき、わが人生の同行者とともに看取ってほしい。そんなふうに思っている。
さて、街も闇に沈んだ。今夜は虹子ちゃん特製のスタミナ夏休み鍋だ。私たちが鍋をつついているあいだ、おまえはかたわらに微動だもせずに座り込み、つぶらな瞳をまん丸に見開いて、おこぼれにあずかる瞬間を待ちかまえるんだろう。ポーちゃん、今夜、おまえにはなにをあげようかな。楽しみに待っていなさい。

いい子で。ずっといい子で。

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ワン公を里親に出した。ワン公の名前はくんちゃん。つきあいは17年になる。灰色の、冴えない、ごくごくフツーのワン公であるくんちゃんは、ある時は私を励まし、ある時は私を叱咤し、ある時は私を勇気づけてくれる、サイコーにゴキゲンなやつだった。
くんちゃんと初めて会ったのはバブルがはじけ、街からけばけばけばとげとげした空気が消え、だれもがフツーであることになにかしらの魅力を感じはじめた頃だった。夕暮れどき、くんちゃんは防衛庁近くの六本木の路上で、南米系の胡散臭い毛唐のそばに、アルパカの毛糸の帽子やらナスカの地上絵の猿や蜘蛛やハチドリが刻まれた石ころやら安っぽいラピスラズリのペンダントやら賞味期限が切れていそうなターコイズのブレスレットやらまがいもの臭いケーナやらに囲まれてじっとうずくまっていた。

「イヌ、買うですか?」と南米系毛唐。
「イヌ、買うです」と私。
「千円ですか?」と南米系毛唐。
「千円ですか?」と私。
「千円、いいです」と南米系毛唐。
「千円、いいです」と私。

交渉成立♪ 私はくんちゃんを受け取り、乃木神社に寄り道して1時間ばかり考えごとをし、それから家に帰った。そのあいだ、くんちゃんは吠えもせず、オシッコもせず、ただじっと、フツーの犬としての役回りをたんたんとこなしていた。17年間、くんちゃんはいついかなるときにもくんちゃんだった。変身も変節も変体も変態もしない、フツーであることを忠実にこなすワン公だった。スーパー・ドッグに仕立てあげようと、あーでもないこーでもないそーでもないと色々なことを試みた時期もあったが、くんちゃんにはどうやらスーパー・ドッグになるための才能がないらしく、ただ私をじっと見つめるしか能のない、けれど物静かでやわらかでしなやかなからだと心を持った、血統書もワン力もない、ただの、フツーの犬のままだった。でも、くんちゃんを見ていると、フツーであることのよさを考えるきっかけを与えてくれる瞬間がよくあった。フツーの犬がフツーのままフツーに生きつづける。それはもしかしたらすごいことなんじゃないのかとか、くんちゃんは考えさせてくれるのだ。だから、くんちゃんは、私にとっては名犬ラッシー以上に名犬で、忠犬ハチ公よりも忠義にあついサイコーのワン公だったのだ。くんちゃんを里親に出したのは、くんちゃんにフツーでサイコーでワンダフルなだけのワン公じゃなくて、立派なワン公になってもらいたかったからだ。それで、私は「讃岐うどん傷心旅行」のさなかに知り合った西の国の探偵さんにあずけることにしたのだ。

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くんちゃん。私はおまえを捨てたわけじゃないよ。いつか、おまえがフツーでサイコーでワンダフルで立派な犬になったらば、かならず私はおまえを迎えに行くからね。
くんちゃん。それまで、夏の初めの空みたいに爽やかで広くてしなやかな心を持った探偵さんの言いつけをちゃんと守って、一所懸命、フツーでサイコーでワンダフルなワン公でいるんだよ。いいね、くんちゃん。私は1秒だってもくんちゃんのことを忘れたりしないから。いつも、いつでも、くんちゃんのことを思ってるから。そして、いつか、くんちゃんがフツーでサイコーでワンダフルで立派なワン公になったとき、私はおまえを迎えにいくよ。たとえ、それが真夜中でも、私はすっ飛んでいく。そしたら、昔のようにふたりでいっしょにさくら橋のたもとの土手で日向ぼっこしようね。そして、いつまでもいつまでも、ずっとずっと、いっしょにいよう。その日までさようなら、くんちゃん。夏の初めの空みたいに爽やかで広くてしなやかな心を持った探偵さん。フツーでサイコーでワンダフルなくんちゃんを、どうぞよろしくお願いします。

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籠もり部屋(隠れ家)ができた。今日は籠もり部屋の初日にして徹夜仕事だ。籠もり部屋の存在は誰も知らない。わが人生の同行者も知らない。ポルコロッソにだけは教えた。いまもすぐそばで寝息を立てている。

籠もり部屋を持とうと思い立ったときから籠もり部屋には必要最小限のモノしか置かないことを決めていた。机、椅子、冷蔵庫、グラスと食器類、PC、プリンター、そしてオーディオ・システム。机と椅子は arflex の中古が信じられないような値段で手に入った。冷蔵庫はビールとワインを冷やすために必要だった。1ドアのシンプルなものを確保。PCは Mac mini に決定。

問題はオーディオ・システムだった。CDもLPレコードもなしでいこうと思った。手持ちの音源は可能なかぎりMP3ファイルに変換し、Mac mini にバンドルされている iTunes で聴く。テーマは「総額5万円以内でニア・フィールド・リスニング用のシステムを組むこと」とした。

目指すところは「オーディオの箱庭」だ。早い話が「PCオーディオ」である。壮大さや豪快さや大音量で音のシャワーを浴びることは求めない。「重厚長大よ、さようなら」という方向性。かと言って、軽佻浮薄などでは無論なく、軽妙洒脱への明確な意志を失わないことが肝要である。

増幅器は中国製の小型軽量ディジタル・アンプの中に15000円前後で質の良いパーツを使ったいいものがわずかだがあるので、ディジタル接続を前提としてそれらの中から好みに応じて選んでもいいし、評価の高いNational Semiconductor社製のパワーアンプIC LM3886を搭載したものもやはり15000円を切る価格で入手できる。ほかには、予算を多少オーバーするがTEACのA-H01(プラスチックの天板はまったくいただけないが)、中国製の朗韵D5も視野に入る。

予算をかなりオーバーするし、初期の製品より内部配線の質の低下とパーツのグレード・ダウンが気になるが、Flyingmole社のCA-S10も作り込みのよさから検討対象に値する。2007年3月のリリースで現在はすでに生産完了となっているが、SONYのディジタル・アンプのTA-F501はサイズ、デザイン、クオリティ、パフォーマンスともに素晴らしいのでいずれ手に入れようと思う。セコンド・ハンズ乃至は新古品でしか入手できないが。

悩んだのはスピーカーの選定である。仕事机の上に設置するのであるからコンパクトであることは必須条件だが、音質面で妥協することはできない。価格.com や amazon でリサーチし、ネット上にあるめぼしいオーディオ関連のサイトで情報を収集した。そして、YAMAHAのNS-BP200が最終的に残った。最安値で送料込み1ペア1万円を切る価格で入手できた。

アンバランスなようだがケーブル類にはおもいきって10000円ほどを投入した。スピーカー・ケーブルはNS-BP200付属のものは使うべきではない(NS-BP200に限らず、本体に付属しているケーブルは動作確認、初期不良チェックのためのものと考えたほうがいい)。ベルデン、アクロテック、モガミ、オルトフォンなどの中から好みに応じてチョイスする。このとき、ケーブル長は極力短くすることがいい結果につながるというのが経験上の結論だ。

ニア・フィールド・リスニングにおいては機器のデザインや質感も重要である。NS-BP200(BP)は十分に条件を満たしている。「ウッドコーン」が売りのVICTOR SX-WD30も候補だったが「予算総額5万円」のテーマから考えて除外。最後にNS-BP200(BP)が残った。

NS-BP200は中低域再生の重要な要素である「容量」を稼ぐために深型のエンクロージャーを採用している。幅と高さに比べて奥行きが深い。本機は「非防磁型」なので、TV・ディスプレイ等の近くに設置するときは対策が必要な場合がある。

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音の第一印象はフラットでニュートラル。上品、上質。育ちの良さのようなものを感じる。音像定位は良好。低域はたっぷりとし、引き締まっている。スネア・ドラム、ハイ・ハット。金属と木が衝突したときのリアルな再現はほぼ満足。ピアノの粒立ち良好。特筆すべきは中低域だ。やわらかな質感。ジャズ・ヴォーカルなどでの中域は表現力、質感ともに見事。

アル・ディ・メオラとパコ・デ・ルシアの『Mediterranean Sundance』における火の出るようなギター・ファイトを臨場感たっぷりに再現したのには正直驚いた。弦の振動音だけではなく、胴体が鳴り響き、唸るさまをまざまざと聴き取ることができた。

死を目前にしたスタン・ゲッツがコペンハーゲンの「カフェ・モンマルトル」で行ったライブ盤中の『First Song』の再現は息をのむほどの生々しさで、3ヶ月後に死を迎えるスタン・ゲッツの凄絶なプレイと心の痛みが伝わり、不覚にも落涙を禁じえないほどであった。スタン・ゲッツは『First Song』で人々に彼のラスト・ソングを送り、別れを告げたのだということが、このとき初めてわかった。

1日5時間、2週間ほどでエージングはほぼ完了する。音の深み、響き、輝き、解像度、音場の広がりが明らかに向上する。決してじゃじゃ馬ではない。育ちのいいお坊ちゃまにして優等生である。

オーディオ機器の中には数ヶ月、数年、場合によってはそれ以上の年月をエージングにかけなければ本来のパフォーマンスを発揮しないものもある。このあたりがオーディオの難しさであり、醍醐味でもあるのだが、本機に限ってはエージングに関する難しさはないように思える。NS-BP200を使いこなすのはきわめて容易である。オーディオ・ルーキーからオーディオの古強者までを納得させうる実力の持ち主であると言える。

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音の濁りの原因のひとつである「不要共振」を防ぐためにもスピーカー本体とスピーカー設置面(床面)との間に適度な距離を確保することはセッティング上の絶対条件である。NS-BP200には3点支持の硬質な樹脂製脚部が備わっているが、さらに質のいいインシュレーターを使うことで確実に透明感と解像度が増し、低域の腰がすわる。

キャノンボール・アダレイのasが実に深々と朗々と鳴り響く。低域は解像度にやや物足りなさがあるものの、不足はない。高域は情報量がやや少ないという印象。W.マルサリスがハイノートをヒットするところではおぼつかないところがあったが、ペトルチアーニがffをアタックする場面ではピアノが実は凶暴な楽器なのだということを思い知らされるような表現力を持ってもいる。

分解能及び原音忠実性は合格点を与えることができる。音像と音場感は明快にして明確で3次元的。エッジはきつくなく聴きやすい。音の厚みはそれほどない。温かみ、ヴォーカルの艶っぽさは充分に感じられる。躍動感、伸びやかさ、溌剌さ、鮮烈さはないがバランスはいい。響きは適度。

弦楽器もそつなくこなすが、残念ながら、「チェコ・フィルの松脂の飛び散る音」を聴きたい方に満足を与えるレベルには達していない。そういった御仁はそもそもPCオーディオには手を出さず、ピュア・オーディオに専念することをおすすめする。金管楽器は力強さに欠けるが、無難な鳴らし方だ。木管楽器はまろやかで申し分なし。聞き惚れる。打込み系の表現は迫力不足を否めない。

全体的にウォームすぎるきらいがあるが、これは開発者がチューニングに際してあえて意図したところだろう。音場感は十分にあり、音像の定位、解像度、原音忠実性など、重要な評価ポイントにこれと言って大きな欠点は見あたらない。温かみと爽やかさを兼ね備えている。ただし、演奏者たちはクオリティを維持したままとはいえ一様にサイズ・ダウンする。それがニア・フィールド・リスニングの妙味でもあり、限界でもあるのだろう。庭園ではなく箱庭、森林ではなく盆栽という趣向をたのしむ心意気、心映えを持てるか否かということだ。

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ブラインド・テストでNS-BP200の価格を正確に言い当てられる者は皆無だろう。それくらいNS-BP200のコスト・パフォーマンスは高い。本機はYAMAHAの「戦略商品」のひとつであろうからコスト・パフォーマンスが高いのは当然だが、そのことを差し引いても桁外れにコスト・パフォーマンスが高い。

誤解を承知で言えば、「なにか裏があるのではないか?」と下種の勘繰りをしてしまうほどである。NS-BP200は1ランクどころか、2ランク3ランク上、システムやケーブル類の組み合わせ、セッティングいかんによってはさらに上の価格帯に属する機種とも互角の勝負ができるように思える。実際、大手メーカーの10万円を超える価格帯の製品の中には(当のYAMAHAのスピーカーの中にすら)本機の足元にも及ばないようなレベルのものが複数存在する。

2010年秋のデビューにもかかわらずほとんど値崩れを起こしていないことがNS-BP200の実力の証でもあるだろう。売れていることに便乗して無闇・無意味に後継機種を連発する「野蛮」「不毛」に手を染めないYAMAHAの姿勢にも好感が持てる。YAMAHAの意地、良心を垣間見る思いがする。

LE-8T-2ではなく、あくまでもLE-8Tというスタンス。フェライトではなく、なにがなんでもアルニコという姿勢、節度、一徹。かつての心あるオーディオ・ファイルたちがNS-BP200についていかなる感想を持つかという興味が湧く。YAMAHAにはまちがっても「新素材採用」などと銘打った大仰・大袈裟・大上段に構えただけの上っ面、上っ調子な愚行は犯してもらいたくないものだ。ウーファーのコーンを白くされてもこちらは鼻白むだけである。

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NS-BP200はピュア・オーディオ、ハイエンド・オーディオのベテランがメイン・システムとは別に、PCを使うシーン、いわゆる「PCオーディオ」を組む際にシステムの中核とすることができるだろう。

蛇足であり、メーカー保証の対象外となる話だが、内部配線、出力端子、吸音材をカスタマイズするという楽しみ方もある。開発者が意図したチューニングの方向性とは別のオリジナル・チューニング、カスタマイズによって「世界にただ1台のNS-BP200」、NS-BP200(改)をつくることに専念すれば、愚にもつかぬ政治屋どもやあさましい木っ端役人どもにいいように弄ばれている憂さを一時でも忘れられるかもしれない。

マグネット着脱式のサランネットは弦楽器の形状を模したものらしいがまったくいただけない。使わないほうがスマート&クールだ。ピアノ・フィニッシュ調の仕上げは埃や手あかなどの汚れが目立つが、こまめにメンテナンスしてやればさらに愛着が湧くだろう。「Made in China」ではなく、「Made in Indonesia」。このことは評価ポイントである。

NS-BP200の上位機種にNS-B750があるが、こちらも素晴らしいパフォーマンスを発揮する。拙宅の映画鑑賞用音響機器の主役である。筆者にオーディオにおける重厚長大路線からの脱却を決意させたスピーカーだ。実売価格30000円(1本)ほどで入手可能である。
筆者がオーディオという魔道に血道を上げていた1980年代ならNS-B750のパフォーマンスとクオリティと作り込みのスピーカーは1ペアで20万円代後半の値づけがされていたはずだ。「年々歳々花相似たり、歳々年々オーディオ同じからず」とでもいうことか? NS-B750についてもいずれ触れる機会があるだろう。

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その昔、CDを中心としたディジタル・デバイスが世の中を席巻しはじめたとき、ある高名なオーディオ・ファイルは「いずれ、大脳辺縁系にデバイスを直付けするような時代がやってくる」と言って嘆いていたが、iPodの出現によってそれは現実味を帯びてきていると感じる。CDすらも「時代遅れ」になりつつある。

あらゆる「形あるもの」は0と1のディジタル・データに変換され、電子の海を縦横に、自由自在に泳ぎまわる世界。人はそれを極楽浄土と言い、天国と呼ぶかもしれない。そのときに再生され、鳴り響くのはいったいどのような音楽、音なのか? 深夜、人々が寝静まり、世界が深い闇の底に沈んだ時分、iTunesによって再生された今は亡きジャン・ミシェル・ミゴーの畢生の大作、『死と再生』をNS-BP200で聴きながら考えるのも悪くない。

くだんのオーディオ・ファイルは米寿をとうに過ぎたいまも矍鑠とし、ケンリック・サウンド社によって徹底的にレストアされたJBLパラゴンとマッキントッシュMC275と光悦でベニー・グッドマンの『Memories of You』のEP盤を聴いていると風の便りがあった。いつの日か、老オーディオ・ファイルのシステムで『風の歌』を聴くことができたらいい。そのときはNS-BP200を持参しようと思う。

夜もだいぶふけてきた。ポルコロッソを相手にナイト・キャップを何杯かひっかけて長い夜をやりすごすことにしよう。iTunesのスマート・プレイリストの中から『あなたと夜と音楽と』をチョイスしてPlay it. 1曲目は ”マンハッタンの吐息” 、リー・ワイリーの『Night in Manhattan』だ。

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(リファレンス機材)
System1: Linn CD12→Cardas Golden Reference(1.0m R/L)→Krell KSL→Cardas Golden Reference(1.0m R/L)→McIntosh MC275(×2 バイアンプ駆動)→Esoteric 7N-S20000 MEXCEL(2.0m R/L)→Sonus Faber STRADIVARI Homage

System2: Krell CD-DSP→Ortofon Reference(1.0m R/L)→A&M AIR TIGHT ATC-1 LIMITED→Ortofon Reference(1.0m R/L)→A&M AIR TIGHT ATM-2→Ortofon SPK-4500 SILVER(1.2m R/L)→Acoustic Energy AE2

System3: SONY CDP-X5000→Ortofon Reference(1.0m R/L)→SONY TA-F5000→Ortofon SPK-4500 SILVER(1.2m R/L)→YAMAHA NS-B750(BP)

System4: Mac mini(Mid 2011)→Ortofon Reference 6NX-MPR30/M-RCA(1.2m)→ 朗韵D5(TAS 5162) →MOGAMI 2804(0.7m R/L)→YAMAHA NS-BP200(BP)

註: System1、System2、System3にはそれぞれYAMAHA NS-BP200(BP)を接続しての視聴も併せて行った。再生機器としてMac mini(Mid 2011)を用い、iTunesでの再生も同時に行った(音源のレート: 256kbps/44.100kHz)。なお、System4については、Mac mini(Mid 2011)に換えてLinn CD12によるCD再生の視聴も行っている。System4が本稿に即したシステムだが、朗韵D5のほかにNational Semiconductor社製のパワーアンプIC LM3886を搭載したYS1やTripath社製のディジタル・アンプIC TK2050が搭載された機種という選択肢もある。Mac mini(Mid 2011)はオプティカルによるディジタル出力が可能なので、ディジタル・アンプとディジタル接続したときにいかなるパフォーマンスを見せるかは興味ある課題のひとつである。問題はまともな mini-TOSLINK→TOSLINKケーブルがこの世に存在しないことだ。自作する以外に手がないのが現状である。「予算総額5万円」の中にMac mini(Mid 2011)は含まれていない。

(リファレンス音源)
Grover Washington, Jr./Wine Light
Pat Metheny & Lyle Mays/As Falls Wichita, So Falls Wichita Fall
Pat Metheny/Bright Size Life
Pat Metheny Group/Travels
Pat Metheny & Charlie Haden/Beyond the Missouri Sky(Short Stories)
Al Di Meola/Mediterranean Sundance
Michael Hedges/Aerial Boundaries
Lee Ritenour/Wes Bound
Julian "Cannonball" Adderley/Somethin' Else
Michel Petrucciani/Live At The Village Vanguard
Michel Petrucciani & Niels-Henning Ørsted Pedersen/Petrucciani & NHØP
Keith Jarrett & Michara Petri/J.S. Bach: Six Sonatas
Keith Jarrett/The Melody At Night, With You
Eliane Elias/Something for You
Miles Davis/TUTU
Miles Davis/Doo-Bop
Stan Getz & Kenny Barron/People Time(Live at Café Montmartre)
Wynton Marsalis /Standards & Ballads
Chris Botti/Night Sessions
Marcus Miller/M2
Lee Wiley/Night in Manhattan
Sarah Vaughan/Crazy and Mixed Up
Rod Stewart/The Great American Songbook
Itzhak Perlman + Oscar Peterson/Side By Side
Itzhak Perlman/Theme from Schindler's List
Wynton Marsalis & Philharmonia Orchestra of London/Tomasi: Concerto for Trumpet & Orchestra
Willem Mengelberg - Concertgebouw Orchestra Amsterdam/St. Matthew Passion BWV 244
Karl Böhm - Vienna Philharmonic/W.A. Mozart: Requiem
Mstislav Rostropovich/J.S. Bach: Cello Suites
Andrés Segovia & John Williams/Segovia and Williams: Guitar Virtuosos Play Bach
Jean-Michel Migaux/Mort et Reproduction
渡辺香津美/DOGATANA
ゴンチチ/ANOTHER MOOD
ゴンチチ/脇役であるとも知らずに
ゴンチチ /アンダーソンの庭
吉田美奈子/Extreme Beauty
松任谷由実/昨晩お会いしましょう

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午前零時。インターネット・ラジオから松任谷由実の『シンデレラ・エクスプレス』が聴こえてきた。遠い日、シンデレラになりたがっていた不思議な女の子のことが思い出された。

1985年の秋の終わりの七里ヶ浜駐車場で知り合った女の子は1987年のクリスマス直前まで、毎週末大阪から新幹線に乗ってやってきた。私といっしょに週末を過ごすためだ。

女の子の名前はミサキちゃん。彼女の健気さと純真さは宝石のようだった。私が七里ヶ浜駐車場レフト・サイドで取りつく島がないほど機嫌を悪くしたターコイズ・ブルーの1955年式フォルクスワーゲン・カルマンギヤ/type14の脇腹に蹴りを入れ、悪態をついているときにミサキちゃんは現れた。

「カルマンギヤはあなたのキックに耐えられるほど頑丈にできていないわよ」とミサキちゃんは言った。「それと、あなたのバリゾウゴンはひどすぎる」
「罵詈雑言……。ずいぶんと難しい言葉を知っているんだね」
「そうよ。コピーライターだもの。いろんなことを知っていなくちゃね」

ミサキちゃんはこじんまりとした鼻に皺を寄せて笑い、ウィンクをした。まだあどけなさの残る笑顔が胸にずきんときた。『珊瑚礁』で昼ごはんを食べることを私が提案すると、ミサキちゃんはすぐに同意した。

『珊瑚礁』までの坂道をのぼるあいだ、ミサキちゃんはずっとソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』のリフを口ずさんでいた。それはほぼ完璧と言っていいできだった。カリブ海に面した中古自動車屋から聴こえてきそうなほどだ。

『珊瑚礁』の海をのぞむテラス席で、ミサキちゃんはピッチャー・サイズのビールを飲み、ビーフ・サラダをふた皿とエビ味噌カレーを食べ、ときどき気持ちよさそうに風に吹かれていた。そして、自分の23年間におよぶ人生の来し方を語った。

ミサキちゃんは世田谷の用賀で生まれ育ち、幼稚園から大学までお嬢様学校で真綿で首を絞められるようないやな日々を送ったあと、大手の広告代理店にコピーライターとして就職した。

ミサキちゃんの話が人生の行く末におよんだとき、店の天井に据え付けられたBOZEの古いスピーカーから松任谷由実の『シンデレラ・エクスプレス』が聴こえてきた。ミサキちゃんは急に口をかたくつぐんで黙り込み、眼を閉じ、うつむいた。『シンデレラ・エクスプレス』が2番に入ってすぐ、ミサキちゃんの眼から涙がこぼれ落ちた。いくつもいくつもだ。

「純真で健気な女の子になりたいの。これまでの23年間の人生は純真さや健気さとはあまりにもかけ離れたものだったから」
「純真さや健気さとあまりにもかけ離れたきみの23年間の人生はともかく、これからあと、どうする?」
「とりあえず、わたしをシンデレラにして」
「オーケイ。ぼくはきみをシンデレラにする。純真で健気な女の子にも」
「約束よ」
「約束だ」
「王子様の灰皿に誓って約束して」

私はテーブルの隅の無愛想で尊大な灰皿をつかんで胸に当て、右手を上げて『マグナ・カルタ』の第38条をクイーンズ・イングリッシュとラテン語を織りまぜてつぶやいた。

「それ、『マグナ・カルタ』じゃないのよ。裁判権の保障なんて、誓いの言葉にはまったくふさわしくないわよ。それと、あなたのクイーンズ・イングリッシュには退廃と怠惰のにおいがする。ラテン語はだらしない感じがするし」

ミサキちゃんはそう言ってから、ビーフ・サラダのボウルをフォークで3回叩いた。叩くと同時にピンクのウサギが現れて、とても恭しく挨拶をしたので驚いた。ミサキちゃんはその後もときどき風変わりなものを出現させて私を驚かせた。ギリシャ大使館のある坂道の途中で出現させたミニチュア・セントバーナードはいまも私と暮らしている。

青山通りや外堀通りや、ときに三浦半島から江ノ島にかけての海岸線を自転車で走る。真夜中の麻布十番のメイン・ストリートでストリーキングする。根津美術館で『スタン・バイ・ミー』を絶唱する。外交資料館の受付の稲葉さんを沖縄返還にかかわる「機密資料」の開示を請求して困らせる。東京タワーの第二展望台で芝公園を見下ろしながらピクニックする。有栖川公園の薄汚れた池で釣りをする。東レのオフィシャル・ショップで「エクセーヌ」の欺瞞について議論する(赤坂警察署から警察官が駆けつける)。元麻布の毛唐どものハロウィン・パーティに乱入する(私がジャバ・ザ・ハット、ミサキちゃんがR2-D2)。

当然のごとくわれわれのそのような日々にも終わりがやってきた。クリスマスを目前に控えた週末のことだ。別れることについて、私とミサキちゃんは特段の議論をしなかった。私もミサキちゃんもすんなりとその事態を受け入れた。別れの理由はおたがいに「特別なひと」が現れたこと。よくある話だ。

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1987年のクリスマス・イヴを4日後に控えた日曜日の夜。私とミサキちゃんは東京駅の15番線ホームにいた。

「ガラスの靴はちゃんと持っててよ。気を抜くとすぐにこわれちゃうからね」とミサキちゃんは言ってから、キヨスクで買ったソルト・ピーナツをカリカリと音を立てて食べた。私も3粒もらって食べた。

「これからの週末はきっとすごくヒマになる」
「おなじく」
「ねえ、週末だけ会うというのはどうかな? セックス抜きで」
「それはちょっとね。会えばセックスしたくなるわけだし。きみもぼくも」
「そうね。そのとおりだわ」
「そんなのは純真で健気なシンデレラがすることじゃない」
「あなたの言うことはいつも的確で正しい」
「的確で正しくあることはとても疲れるよ」
「ところで、わたしはシンデレラになれたのかな?」
「ぼくの手元にガラスの靴があるところからすると、きみはまちがいなくシンデレラになれたんだよ」
「そう。よかった」
「よかったね。でもね、シンデレラになることより、シンデレラでありつづけることのほうがむずかしいと思う」
「またまた的確だわ。あのね、あなたにはとても感謝しています。ありがとう」
「ぼくのほうこそだよ。ありがとう」
「おねがい。魔法は解かないでおいて」
「うん。そうするよ」

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東京発新大阪行きの最終列車、ひかり289号が東京の街の夜光虫のような光をまとってホームに滑りこんできた。

ミサキちゃんとの別れまで17分。そのあいだ、私とミサキちゃんはときどき見つめあったり、手をつないだり、ピーナツを食べたりした。なにも言葉は交わさなかった。乗車をうながすアナウンスが流れ、新幹線のドアが開いた。ミサキちゃんは背筋をピンと伸ばして新幹線に乗り込んだ。

ミサキちゃんがこぼれそうになる涙を必死にこらえているのがわかった。私が口を開きかけるとミサキちゃんは首をふり、「なにも言わなくていい」とだけ言った。ミサキちゃんの小さくてかわいらしい口元からピーナッツの香ばしいにおいがした。

東京駅15番線ホームに『シンデレラ・エクスプレス』の軽快なメロディが流れ、溜息のような音を立ててドアが閉まった。それがミサキちゃんと会った最後だ。もう25年がたつ。

ミサキちゃんはその後、どのような恋をし、生涯をともにするに値する人生の同行者を見つけることができただろうか? 赤ちゃんは何人産んだろうか? いいおかあさんになれただろうか? たのしい人生を送っただろうか? そして、その年に生まれた世界中のすべての女の子のいったい何人がシンデレラになれたのか? 王子様は現れ、ガラスの靴をシンデレラたちに履かせることができたのか? 思うことはいくらでもある。

ミサキちゃんのガラスの靴は25年の間に行方不明になってしまった。1989年の秋まではマッキントッシュMC275の脇に確かにあったのだが。行方不明になったのは意地悪な姉妹や強欲な義母のせいではない。すべて私の責任だ。責任というより、生き方だ。しかたない。しかし、いつかミサキちゃんのガラスの靴を見つけだし、ミサキちゃんにそっと履かせてあげようと思う。『珊瑚礁』の無愛想不遜きわまりない灰皿と『マグナ・カルタ』に誓って。

新幹線が初代のずんぐりとした0系からシャープな風貌をもつ100系へ、そして300系からエアロダイナミクスの粋を凝らしたN700系になっても、いまもかわらず幾千、幾万のシンデレラたちのときめきやらかなしみやら痛みやらは最終電車に乗って世界中を走りまわっているんだろう。

最終の新幹線だけではない。東海道本線や横須賀線や銀座線の始発やラッシュ時の山手線や京浜急行や東横線や世田谷線や江の電や都営荒川線やアムトラックやユーロ・スターや銀河鉄道に乗って。中国の新幹線にさえ乗って。

ミサキちゃん。そして、世界中のシンデレラたちよ。きみたちが抱えていたときめきやらかなしみやら痛みやらをかけらでもいいからこの先もずっと持ちつづけていてほしい。雨音や雨の匂いや風の歌や会いにいく道すがらのときめきや別れ際の胸の痛みを忘れずにいてほしい。灰になるまで。私が言いたいのはつまりはそういうことだ。

『シンデレラ・エクスプレス』松任谷由実

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わが愛犬、くんちゃんのことを『フツーの犬のこと』に書いて以降、驚くほど多くの方々から問い合わせのメッセージをいただいた。中には、「あんたには犬を飼う資格はない!」「いまごろ、くんちゃんは涙で目を泣きはらしているぞ!」「かわいそうに! あんたのしたことは動物虐待とおなじだ!」「犬にだって犬の権利、犬権があるんだ! 幸福で文化的な最低限度の生活をする権利は憲法で保障されているんだ!」というお叱りや、「現在、聞き分けのない大馬鹿者のナポリタン・マスチフを飼っています。あなたのところでしばらく預かっていただけないだろうか? 御礼はきちんとさせていただく」というものまで。
事態が思わぬ方向に推移してしまったので、ここでタネあかしをしておく。上の写真はくんちゃんの相棒のきんちゃん。相棒であり、腹ちがいじゃなくて、色ちがいの双子の兄弟でもある。きんちゃんの毛色が灰色に変われば、それがそっくりそのままくんちゃんになる。そう。くんちゃんはぬいぐるみのワン公だったのだ。悪気などなかったが犬好きの方にはいささか刺激が強すぎたのかもしれぬ。だが、である。ホンモノの犬とぬいぐるみのワン公とのあいだに横たわる差異とはいったいなんなのだろう? ホンモノの犬にはゆるされなくてオモチャのワン公にはゆるされること。そこにはいったいどのような「尺度」「規範」「基準」が存在しているのだろう。愛情を注ぐ対象としてはホンモノのお犬様であろうが、合成繊維やプラスチックやゴムでできたオモチャのワン公であろうが変わりはない。ところが、いざ、「愛情」とは対局にあることを彼らに向けた場合(「虐待する」「ネグレクトする」「捨てる」「里親に出す」等々)、ホンモノのお犬様に対しては喧々囂々の非難の嵐が巻き起こる。いっぽう、オモチャのワン公については、せいぜいのところが「モノを大切に♪」くらいの、「♪」付きのたしなめがされる程度だ。このちがいはなんだ? そんなこんなを考えているうちに、くんちゃんや、現在もわが家に同居中のきんちゃんを、逆説の犬、パラドクス・ドッグスと命名することにした。パラドクス・ドッグスが戦争の犬たちになるのか、それとも、西の国随一の探偵犬になるのか、はたまた境界のボートが係留された川岸でフツーで平凡で幸福な笑う犬の生活をを生きるのか。それはひとえに、人間の想像力にかかっている。

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「小林秀雄が生きていれば」と思うことがよくある。戦後、たちまちキャラメルママ・デモクラシーのまやかしにしてやられ、そのふしだらきわまりもない言説に迎合したあげく、" 進歩的文化人 " に変貌したり、懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」と小林秀雄は言い放った。清潔な態度に深い共感を持った。
この夏、小林秀雄の評論集『無常といふ事』をゆっくり時間をかけて再読した。『無常といふ事』は実にいい。文体がたまらなくいい。同時に、友の死さえも「物」として見てしまう小林秀雄の「視線」に強く魅かれた。脳内読書ノートによれば、『無常といふ事』を読んだのは小学校5年の夏休みである。わたくしの "小林秀雄初体験" であった。以後、三島由紀夫とともにわたくしは小林秀雄にのめり込んだ。
小林秀雄畢生の大作『本居宣長』が「新潮」に連載開始されたのは昭和40年だが、その3年後、わたくしは行きつけの古本屋で「新潮」の昭和40年6月号をみつけ、その中に小林秀雄の『本居宣長』を発見した。そのときの心のふるえはいまもあざやかにおぼえている。以後、「新潮」のバックナンバーを可能なかぎり入手し、『本居宣長』だけを読んだ。小学生ごときにこの難解な大作が読解できたのかどうかははなはだ疑問だが、おそらく、一連の小林秀雄作品をやっつけてしまおうという荒削りな情熱の中で読んだのにちがいない。それもまた、「読書」のありようのひとつであるから、よしとせねばなるまい。

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過去の連載を読み終え、最新の連載に追いついたとき、わたくしは中学生になっていた。おとなのとば口に立ちつくしながら、小林秀雄の「視線」「眼差し」がいつも自分に注がれているような錯覚に陥ることがしばしばあった。哀しい視線

わたくしが小林秀雄の眼差し、視線に感じたものである。読むもの・観るもの・聴くもの・触れるもの・食すもの

何から何までが哀しかったにちがいない。視えすぎてしまう悲劇

小林秀雄の後半生はまさに悲劇だったのではないか。よくも天寿をまっとうしたものだ。「視えすぎてしまう悲劇」を生ききることのできなかったのが、芥川龍之介であり、三島由紀夫であり、江藤淳だろう。吉本隆明をのぞけば、あとはひと山いくらという括りで充分である。その吉本隆明も逝き、この国の「精神」はいよいよ末期に近づいた。
批評とは無私を得る道である

そのような極意、境地に小林秀雄は晩年に至って達する。そして、ランボー、モーツァルト、ゴッホ、ドストエフスキーの森や闇や谷や砂漠や狂気を変遷し、批評する精神の大伽藍がついに辿りついたのが本居宣長であった。小林秀雄は実に11年間にわたって『本居宣長』を書き継ぎ、完成をみた6年後の昭和58年早春、桜がまだ芽吹きさえもせぬ季節に世を去った。享年80歳。その哀しい視線はいま、この国を、世界をどのように視ているのだろうか。

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曖昧で、名前すらつけることのできない空を見上げながら雨の気配を探る日々。かつて、われわれはそのような日々を「夏休み」と呼んだ。夏のはじまりにふさわしい純真と清冽と茫洋とあらかじめ失われた彼女の指先と彼女の「人生との和解」を見つけだすためにこそ私の夏はあった。

遠い日の冬の夜明け前。
「あなたが帰ってくるとわたしの夏は始まるの」と彼女は言った。乳白色の手の中にティー・カップを包みこんだまま。「人生はやっぱりにがいより甘いほうがいい。冷たいよりあたたかいほうが。冷めた紅茶なんか見るのもいやよ」
彼女の背中、右の第五肋骨のちょうど下にある大きな傷痕にふさわしいだけの言葉がみつからない。
「わたしの手に包まれたとたん、あたたかくて甘いはずのミルク・ティーはみるみる熱を失ってにがくなっていくの」
彼女の手に包まれているティー・カップからはひとかけらの湯気も立ちのぼっていない。ひとかけらも。
「こんなふうにしてわたしの中からは日々、熱が奪われてゆくのよ。そして、最後にはわたしのすべての細胞は動きを止めて、マイナス273.15℃になっちゃう」
「だから僕は年に一度帰ってくるんだ。いくつもの悲しみをくぐりぬけて冷えきったきみを暖めるためにね」
「でも、そのあとは? その先は?」
「また来年」
「ふん」
鼻を鳴らしたあと、彼女は唇を尖らす。そして、両手を目の前にひろげて指をみつめる。
「それにしても10本の指、じょうずに切り落とせたものだわね。ずっと昔からそうだったみたいに第一関節から先がない。完璧といえばこれくらい完璧なのはロートレアモンの『マルドロールの歌』とフェルメールの『青いターバンの少女』とバッハの『フーガの技法』くらい。いまでもわたしの10本の指先、ちゃんとしまってある?」
「もちろんだよ」
「いつかは返してよね。わたしの指」
「返すさ。返すだけじゃなくて、元どおりにくっつけてやるよ」
私が言うと彼女はミルク・ティーをひと口だけすすった。
「やっぱり人生もミルク・ティーも冷たくてにがいよりあたたかくて甘いほうがいい」
「冷めたらまた火にかけて温めればいいし、にがいなら砂糖を足せばいい」
「もう!」
「偶蹄目?」
「ちがう! ちがう! ちがーう! ちーがーいーまーすー! まったくあなたって人はなんにもわかってない。初めて会った頃と少しも変わってない。成長なし、進化なし。いいこと? 苦渋と絶望はちがうものなのよ。苦渋は熱を生むこともあるけど、絶望は8月の太陽からも熱を奪い去るだけ。おぼえておいて」
「まちがいなくおぼえとくよ。次の夏までにはね。浪子不動に誓って」

私は確かに浪子不動に誓いを立てた。しかし、彼女は夏が来る前に自ら死を選んでしまった。彼女がこの世界から消えて数えきれないほどの季節が過ぎていった。彼女の死とともに世界は徐々に色も匂いも熱も失っていき、いまはなにも色がない。匂いもない。熱もない。私の前にはなにもない茫漠とした世界がただ広がっているだけだ。
夏が来て、雨の気配を探る日々が始まるたびに彼女のことを思い出す。そして、8月31日には七里ヶ浜駐車場レフト・サイドで2000tの雨に打たれる。彼女が残した10本の指と一緒に。2000tの雨に打たれてもなにも感じない自分が今年もそこにいるはずだ。

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徹夜明けの朝、誰もいない部屋。虹子はとうに仕事に出かけている。何時間もひとりぼっちにされたポルコロッソが足元にじゃれついてくる。テーブルの上、きゅうりのサンドウィッチとトマト・ジュースの横に2枚のCDが置いてある。JUJU『ただいま』とAI『MIC-A-HOLIC A.I.』。
「聴いて。JUJUの『ただいま』から聴いて。そのあと、AIの『Story』を聴いて。虹.」とへたくそな字で書かれたメモが添えられていた。虹子だ。私がJ-POPがことのほか嫌いなのを誰よりも知っている虹子が言うのだから、よほどのことである。
JUJUとAI。名も知らぬ歌い手だった。JUJUの『ただいま』をCDプレイヤーにセットし、PLAY IT. 声質にいきなりノックアウト。メロディも歌詞もいい。なんだか知らぬが泣けてくる。10回くらいリピート。JUJU。本物だ。つづいてAIの『MIC-A-HOLIC A.I.』。15曲目の『Story』をPLAY IT. ぐえ。またまた本物だ。やはり10回ほどリピート。うれしくなってきた。本物に出会えたからだ。しかも二人同時に。さっそくiTunesとiPodに取り込んだ。しばらくヘビー・ローテーションで聴くことになるだろう。

「CDよかったよ。JUJUもAIもすごくよかった」
仕事から帰ってきた虹子に声をかける。虹子はただ「うんうん」とうなずくだけだ。見ると眼に涙をいっぱいためている。
「なんだよ。泣くところじゃなかろうよ。そこは ”ただいま” って言うところだ。そしたら、吾輩が ”おかえり” って言うんだ」
「だって、うれしいんだもん。なんだかすごくうれしいんだもん」
「そうかそうか。うれしいか。すごくうれしくて泣いてるのか。では、吾輩も泣くことにしよう。そして、今夜はずっとJUJUとAIをいっしょに聴こう。ところで、酒が切れてるんだがね……」
「買ってきましたよ」
安物のチリの赤ワイン、サンタ・カロリーナ。わが家の定番だ。
「Here's looking at you, kid!」
虹子とグラスを合わせると、JUJUが「過ぎてゆく毎日に大事なものを忘れそうで」と歌いはじめた。ポルコロッソは虹子の膝の上で小さな寝息を立てている。

JUJU/ただいま
http://youtu.be/5pk2cCPNIlM

AI/Story
http://youtu.be/Ku8ia8aAGwU

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「わたしだけ、ひとりぼっち」と目的語のない女は言った。わたくしには目的語のない女にかけるべき言葉のひとかけらもなかった。彼女の味わっている孤独と不安と困難を癒すことのできない己が不徳、不甲斐なさにはらわたがよじれた。
1995年冬。17年前から始まったジェットコースター・デイズをともに生きてきた戦友でもある目的語のない女。いつも予告なく姿を消すわたくしと、ただひとり代々木の殺風景な部屋に取り残される目的語のない女。放埓にかまけるわたくしから部屋の鍵を受け取り、南麻布から代々木まで、泣きながら歩いて帰った遠い春の日をおまえは生涯忘れぬだろう。ひとかけらのやさしさもねぎらいもなく出てゆくわたくしを見送ったあとの、寒いほどの孤独な夜。窓際のオーディオから流れる松任谷由美やゴンチチやモーツァルトをおまえはどんな気持ちで聴いていたんだ? 不条理、理不尽に待たされつづけた品川駅前、代々木の地下のバーをおまえはおぼえているか? にがいだけのジム・ビームのソーダ割りをおまえは飲み干せたのか? 「バーボン、バーボン」とおどけるおまえの目にたまっていた涙のゆくえを見届けることもなく、ふりかえることもなく、足早に去った。「けっこうありますよ」と言ってひろげた手の平には360円。金目のものをすべて売り飛ばし、「かたちになりました」と言って、わたくしに数枚の1万円札を差し出すおまえの顔の、なんと晴れ晴れとしていたことか。目黒の雑居ビルの3階。敷く布団もかける布団もない晩秋の夜。泡の時代の名残りのブルックス・ブラザース、ゴールデン・フリースのくそ重いオーバー・コートに二人くるまって眠った。フローリングの床がすごく痛かったな。寒かったけれども、暖かかったな、目的語のない女よ。冬の夜、厚顔無恥にも訪ねてきた馬鹿女に遠慮して、サンダルばきで出ていったおまえの後姿を忘れることはあるまい。目的語のない女よ。つらく、困難にみちて、不安と孤独にまみれてはいても、すべては宝石で、現在の日々もいつか必ず宝石になる。夏の朝の成層圏にはいつもいい風が吹く。

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_人間は変わりはしない。ただ人間に戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。_AN-GO

17歳の夏、「自殺」を解読しようとしたことがある。自殺の動機、方法、自殺者の年齢、職業、性別など、「自殺」にかかる事柄のすべてを収集分析し、定量化しようという無粋な試みである。

『完全自殺マニュアル』なる書物が出版され、話題にもなり、ベストセラーに名を連ねたときには、驚きとともに、わが「青二才の頃」の着想の的確さがひそかに誇らしかった。

インターネットは無論のこと、データベースなどという便利なシロモノも一般的ではなかった当時、「自殺の定量化」のための作業は困難をきわめた。

図書館にこもり、文学作品、思想・哲学書、辞世の句、新聞、雑誌など、「自殺」に関わる過去の文献・資料を虱潰しにあたり、可能な限りの方法を駆使して「自殺」を読み解くことに半年を費やした。

「悪法もまた法なり」と言い残し、従容として毒杯を仰いだソクラテスの死は自殺か刑死かを考えたのはこの頃であるし、人類史上初の純粋に哲学的な動機に基づく自殺をしたのはアナクシマンドロスであることを知ったのもこのときだ。

芥川龍之介が死の直前に遺した『或る阿呆の一生』をはじめとする散文のいくつかは、自殺者の心理の一端を覗き見るようで生々しかった。また、自裁した三島由紀夫を追悼する高橋和己の一文で「しおからを覆す」という言葉を初めて目にし、好敵手の死に直面した者の激情を知った。さらに、世代は異なるが、自分とほぼ同年代で自ら命を絶った高野悦子『二十歳の原点』や奥浩平『青春の墓標』などの文章には身につまされる「閉塞感」を共有できたような気がしたものだ。

思えば、私の「青春時代」の中心である1970年代は自衛隊市ヶ谷駐屯地における三島由紀夫の自裁の衝撃で幕をあけた。

エルビス・プレスリーは自室に閉じこもってドーナツを頬張り、ビートルズは「なるようになるさ」と言い放ってさっさと大衆に背を向けた。せめてもの救いはサイモン&ガーファンクルが得体の知れない明日に怯える個衆予備軍に向け、逆巻く渦にも負けない橋を架けてあげようと慰めてくれたことだった。

だが、その慰めも長くは続かなかった。そのような時代を経て、木綿のハンカチーフが真っ赤なドレスと靴に変わり、「のんびりゆこうよ~おれたちは~」などと暢気にほざき、ガス欠したポンコツのフォルクス・ワーゲンを押す鈴木ヒロミツの横を、「可愛いあの娘はルイジア~ナ」というどこかぎこちない和製ロックンロールに発情したクールスが駆け抜け、ウェストコーストの薄っぺらで上げ底の波がなんとなくクリスタルでただ居心地がいいだけの街に押し寄せようとしていた。

1970年代末、街には『ホテル・カリフォルニア』の物悲しい旋律がいつも流れていたと記憶する。当時は「アイデンティティ」だの「共通体験」だの「同苦」だの「共通感覚」だのといった言葉がある種のファッションのように語られていたが、私はそれらの言葉に対してなんとはいえない軽薄さ、皮膚が毛羽立つような異和、上滑りしたお祭り騒ぎのごとき印象をぬぐえなかった。

とはいうものの、私にも誰かとなにごとかを共有したいという気持ちは強くあって、やがて私のその気持ちのブレは熱病のような高揚感を伴って自殺者たちと同期してしまった。いつ知れず私は「自殺」に魅入られていたのである。

私は約一ヶ月間、「自殺」のことばかり考えた。しかし、それは「死にたい」「死のう」という熱い衝動、情念とは異なって、「どこで、どのような方法で死ぬか」といった冷たい形式、理性に関するものであった。やや哲学的な言いまわしで表現するならば、対自的な死ではなく、即自的な死の選択肢を私は模索していたのである。芥川は「死と遊んでいる」と表現したが、私もまた死と戯れていたのだと思える。

私は「自殺」を敢行するに際し、三つのことを念頭に置いた。

必殺の方法であること。
速やかに死に至ること。
見た者が嫌悪の情をもよおさない美しい死にざまであること。

そして、私は「自殺」を決断した。しかし、それは決して「死の決断」ではないのであって、「死にいたる方法の決断」であった。

私が決断した「死にいたる方法」は毒物の服用である。美しい死にざまであるための方法についてはすでに十全の知識があった。「美しい死にざま」とは、換言すれば「汚くない(酷くない、臭くない)死体」ということであるが、それを満足させるのが毒物乃至は薬物による死であった。しかも、使用する毒物は必殺、速効の薬理作用を有していなければならない。三つの条件を満足する毒物は青酸化合物であった。「遺書」めいたものもすでに用意してあった。

「コレニテ一件落着。スベテ清算カリニケリ」

私は使用する毒物を青酸カリと決め、薬局に向かった。薬局に向かう道すがら、奇妙に爽やかな、晴れ晴れとした気分であったことを覚えている。

薬局ははじめ人がいなかった。私は奥に続くやけに間の抜けた空間に向かって声をかけた。奥から素っ頓狂な返事が聴こえ、昼餐の最中だったのだろう、口をもぐもぐさせながら店主が顔をのぞかせた。

その顔を見て私は驚いた。殿山泰治そっくりだったのだ。あまりにも薬局の店主が殿山泰治に似ていたので私は思わず大声で笑ってしまった。私の笑いにつられて店主は口をもぐもぐさせたまま笑った。

「出直してきます」と笑い転げながら告げて、私は薬局をあとにした。薬局を出てもしばらく笑いは収まらなかった。このような劇的効果を現代の演劇理論ではなんと呼ぶのか私は寡聞にして知らないが、いずれにしても私の「自殺」を阻止したのは殿山泰治似の薬局の店主である。

『異邦人』のムルソーは太陽が眩しかったから殺人を犯した。私は薬局の店主が殿山泰治に酷似していたから自殺を断念した。このふたつは実存の前に等価である。同様に、「太陽が雲のかげに隠れていたら?」という問いと「薬局の店主が殿山泰治に似ていなかったら?」という問いも等価である。もしあのときの薬局の店主が成田三樹夫風のこわもてだったら、あるいは女主人で山田花子系だったら、さらには鈴木京香や伊東美咲ばりの美形であったら。妄想はつきない。

さて、「自殺」を断念した私はどうしたか? さめざめと涙を流したのである。それは熱病のごとき高揚感から解き放たれ、偶然にもせよ死なずにすんだ安堵感から出た涙であったように思われる。そして私は『堕落論』に出会ったのだ。

死を弄ぶこともある種の堕落であるなら、私はまぎれもない堕落を経験したと言える。私は『堕落論』を読み進みながら、愉快で愉快で仕方がなかった。途中、何度も高笑いしたくらいだ。

安吾は私に、堕ちるときは正統に真っ逆さまに堕ちよ。昇るときは堂々とどこまでも昇りつめてやれと言っていた。安吾の、人間、人生に対するときの清潔な姿勢が私には宝石のごとく輝いて見えた。眩しかった。嬉しくさえあった。それは読書というより、体験そのものであったと言ってよい。

人間。繁栄と没落。恐怖と怯懦。飽食の眠らぬ夜と飢餓の眠れぬ夜。享楽と放逸と困憊と忍従と。それらを丸ごと抱え込み、飲み込み、壮大な叙事詩は語り継がれる。

「アフリカの飢えた子供の前で文学は何をなしうるか?」といった類の問いにはなにかしら不潔なものを嗅ぎとってしまうが、「生きよ、堕ちよ」という祈りにも似た叫びの前では襟を正さずにはおれない自分がいる。だが、アフリカの飢えた子供も、淪落した少女も、実はみな同じなのであって、生まれ、生き、死に、苦しみ、憎み、哀しみ、慈しみ、儚く、しかししぶとく、慎重で、しかしいい加減で、強く、しかし弱くもあり、強引でありながら繊細で、強欲でありながら清廉で、狡猾でありながら善良で、勤勉でありながら怠惰な、物静かでありながらもかまびすしい、べらぼうな、高慢ちきな、泣いたと思えば笑い、笑ったと思えばまた泣く、ときに人情家で、ときに冷酷漢で、ときに賎しく、ときに高貴で、ときに醜く、ときに美しい、昇りつめ、堕ち、さらに堕ち、また昇り、また堕ちる、そのような人間の、人間であるがゆえの、人間であらんとするがゆえの、すべてが私はいとおしい。

『堕落論』はまぎれもなく、私の「17歳の地図」であった。約束の地も天国も極楽浄土も示されてはいないが、かけがえのない「17歳の地図」であった。

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30歳を目前にした熱い夏、ある輸入ビールの広告制作の依頼が舞い込んだ。当時はキリンビールが圧倒的なシェアを有していて、どいつもこいつも当たり前のようにキリンビールを飲んでいた。そういった状況に異議申立てしたかった。そして、「センス・エリート/1番が1番いいわけではない。1番ではないことがクールでカッコイイことだってある」というコンセプトで企画を立て、広告文案を書いた。自分自身に言い聞かせるような意味合いもあった。ギャラは安かったけれども、この広告文案が書けたおかげでその夏はいい夏になった。その夏の終わりに手に入れたデヴィッド・ホックニーのリトグラフはいまも手元にある。

001 30歳を過ぎても少年の好奇心が旺盛である。
002 謎めいた部分を持っている。
003 家庭のことはいっさい口にしない。
004 軽々しく“仕事”という言葉を使わない。
005 「男らしさ」を誇示しない。
006 汗を拭き拭き喫茶店の水を飲まない。
007 なにを身につけてもさまになる。
008 健康のためのスポーツ、教養のための読書などはしない。
009 自分の持ち物、ファッション等に関しての入手先、値段を口にしない。
010 つきあいパーティーの類にはいっさい顔を出さない。
011 本物と偽物を見ぬく眼を持ち、好き嫌いがハッキリしている。
012 オートバイに夢中になってもスピードの魅力を口にしない。
013 一流の映画監督よりも三流の映画役者をこよなく愛す。
014 カネがあろうがなかろうが自分の生活を匂わせない。
015 文化人と呼ばれる人間の言うことは簡単に信じない。
016 世の中についての安易な発言はしないし、世論に惑わされることもない。
017 探検旅行が好きなうえに旅慣れている。
018 趣味をひけらかさない。
019 格闘技をこよなく愛する。
020 動物に対して親愛の情を抱いている。
021 クレジットで生活しない。
022 絵心を持っている。
023 仕事仲間よりも遊び仲間を優先する。
024 社会的名誉よりも個人的悦楽を優先する。
025 アメリカン・コレクションにうつつをぬかさない。
026 学校教育以外の独学で世界を知り、独自の美意識を身につけている。
027 「ほどほど」という平均値を生きていくうえでの基準にしない。
028 ビール5~6杯で酔っぱらって愚痴をこぼすようなことはしない。
029 自己の行為に反省やら悔恨の情はいっさい抱かない。
030 他人がなんと言おうが自分の信じる流儀はすべてにおいて貫きとおす。
031 己のプライドを傷つけるものに対しては徹底して戦う。
032 数少なく信頼できる友を持っている。
033 “なんとなく”という気分はいっさいない。
034 さびしさをまぎらわすために夜な夜な酒場で陰気な酒を飲んだりしない。
035 最終的には一人で物事の決着をつける覚悟を持っている。
036 社会情勢、景気、不景気で信条を変えない。
037 時間に追われる生活をしない。
038 いつもここより他の地への夢想を密やかに胸に抱いている。
039 男には仕事に成功した時の喜びの顔よりも美しい顔があることを知っている。
040 群れない。
041 小さなことにも感動できる少年の心を持っている。
042 笑顔がさわやかである。
043 ウエスト・コーストを卒業。オーセンティックを好む。
044 長い船旅に退屈しない。
045 性に対しての偏見を持たない。
046 女性遍歴の自慢話はしない。
047 アメリカの放浪よりもヨーロッパの漂泊。
048 セクシーだが猥せつではない。
049 売名行為はしない。
050 人に説教、訓戒の類いをいっさいしない。
051 イエス・マンではない。
052 学校教育に関しては無関心である。
053 部屋の壁にはデヴィッド・ホックニーのリトグラフ。
054 遠くを見つめているような神秘的な瞳を持っている。
055 深刻になったとしても決して眉間に皺を寄せない。
056 群衆が熱狂する祭りのなかに身を投じ、魂を解放できる。
057 流行を創りだすことはあっても追いかけない。
058 社会的地位を得たとしても安閑としない。
059 ファッションでサングラスをかけない。
060 まちがっても、女から「老けたわね」と言われない。
061 生涯を通じてイチかバチかの大冒険を少なくとも三度は体験する。
062 仕事か家庭かの選択を迫られるような生活はしない。
063 笑いはあらゆるマジメを超えていることをわかっている。
064 一生の住みかを構えようとは思わない。
065 自分が身を置いている現実のちっぽけさを知っている。
066 貸し借りなしの人生。
067 滅びゆくもののなかに光る美を発見し、愛惜する情を持っている。
068 どんなことがあろうとも女性に対し暴力をふるわない。
069 郷土愛、祖国愛にしばられることはない。
070 相手の弱みにつけこまない。
071 時として無償の行為に燃える。
072 大空への情熱。そしてアフリカへの憧れ。
073 場末の人間臭さを素直に愛せる。
074 一人旅、一人酒を楽しめる。
075 力の論理や数の論理に圧倒されることがない。
076 “世代”のワクでくくられないような道を歩んでいる。
077 神話世界に深い関心がある。
078 すがるための神なら必要としない。
079 なにごとにつけ女々しさを見せない。
080 はたから見たら馬鹿げたことでも平気でやる。
081 人前で裸になれないような肉体にはならない。
082 感傷的な面もあるが想い出に耽ってしまうことはない。
083 自分だけの隠れ家を持っている。
084 食道楽等のおよそプチブル的道楽志向とは無縁である。
085 あらゆる判断と行動の基準は「美しいか、美しくないか」である。
086 お湯でうすめたアメリカン・コーヒーは飲まない。
087 なにごとにおいても節制によって自分を守ろうとはしない。
088 自然に渋くなることはあっても自分から進んで渋さを求めない。
089 どこまでが真実なんだか虚構なんだか定かでない世界に生きている。
090 カネは貯えない。ひたすら遣う。
091 ヤニ取りフィルターなどを用いない。
092 生き方について考え悩まない。
093 愛誦の詩を心に持っている。
094 やたらハッピーな世界をつまらなく思っている。
095 失くし物をしても探すようなマネはしない。
096 洗いざらしのコンバースがいつまでも似合う。
097 女性に対してはロマンチストである。
098 世に受け入れられないすぐれた芸や人を後援するが表には出ない。
099 内面にこだわる以上に外観にも気を配る。
100 No.1がかならずしも素晴らしいとは思わない。

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霊長類最強の男が負けた日
2000年9月27日、シドニー・オリンピック、レスリング・グレコローマン・スタイル130kg級決勝。霊長類最強の男が負けた。それもノー・マークの、ただ体重が重いだけの凡庸な若者に。

不敗神話はついに終止符を打った。格闘王・前田日明をして「どの分野でも強い人間はいるが、カレリンはまちがいなく『最強』だ」と言わしめた「最強の男」は、表彰台で終始、視線を落としたままだった。マットを降りるとメダルを首から外し、無言のまま会場をあとにした。

この日が来るのは予想していた。予想はしていたが、いざカレリンの敗北を目の当たりにすると、つらかった。目頭が熱くなった。

「キングコング」「霊長類最強」と言われる男は苦境のうちにシドニー・オリンピック本番を迎えた。痛めた首と背中の怪我は完全には癒えていなかった。選手生命にかかわる負傷だった。リハビリに専念するため、負傷後の国際大会はすべて欠場した。4月の欧州選手権も勝ちはしたが、はなはだしく精彩を欠く試合内容だった。「これでキングコングはただのゴリラだ」と口さがない人々は噂しあった。

世界選手権9連覇を成し遂げた後、ロシア下院選に出馬。圧倒的な支持を集め、当選した。しかし、下院議員になったことが仇となり、トレーニングの時間が激減した。五輪開催中に33歳になる肉体に、「文武」の両立は難しかったということだろう。

予選リーグで、カレリンは二試合を戦った。初戦では「カレリンズ・リフト」はすべて空振りに終わった。よくない兆候だった。しかも、試合のさなか、喘ぐように肩で息をし、何度も苦しそうな表情をみせた。そのような醜態はかつてカレリンが絶対に見せることのないものだった。困憊のカレリンにもはや「最強不敗の男」の迫力はなかった。

シドニー・オリンピック、グレコローマン130kg級のファイナルは退屈凡庸きわまりない試合だった。対戦相手のルーロン・ガードナー(米国)はカレリンのペナルティによる1ポイントをとったのみで、延長戦の末、判定勝ちした。だが、この試合はガードナーが勝利したのではなく、カレリンが敗北したのだとわたくしは思った。実際、ガードナーのレスリングは華も剛もない、凡庸なものだった。カレリンにしても、伝家の宝刀であるカレリンズ・リフトがまったく決まらず、もどかしさだけが残るレスリングだった。あきらかにカレリンは衰えていたのだ。

オリンピック開幕前からカレリンの敗北は予想していた。シドニー・オリンピック初戦に登場してきたカレリンの姿を見て、わたくしの「予想」は「確信」へと変わった。全盛時の岩石の塊のようなド級ド迫力の筋肉が無惨にたるんでいたのだ。最強の男も「老い」には勝てないということである。

実のところ、シドニー・オリンピックでわたくしがいちばん注目していたのは、YAWARAちゃんでもサッカーのオール・ジャパンでもマラソンの高橋尚子でも陸上のモーリス・グリーンでもマイケル・ジョンソンでもなく、アレクサンドル・カレリンだった。オリンピックの格闘技四連覇という前人未踏の偉業を成し遂げるかどうかより、カレリンがどのように「最初で最後の敗北」を喫するかに注目していた。「相手の腕を取っただけで脱臼させた」という無類無敵の王者の幕引きにこそ、わたくしは魅かれたからだ。

カレリンを倒すにはゴリラに格闘技を教えるしかない
アレクサンドル・カレリンは極寒期には零下80度にもなるシベリアの地、ノボシビルスクで生まれ、育った。出生時の体重7500グラム(!)。こどものころ、アパートの最上階まで120キロの冷蔵庫を一人で担ぐ怪力ぶりだった。レスリングを始めてからは、相手がどんな態勢であろうと強引に持ち上げる「カレリンズ・リフト」を武器に無敗記録を伸ばしていった。けがを恐れてみずから両肩をつき、わざと負けてしまう者さえいた。

「カレリンを倒すにはゴリラに格闘技を教えるしかない」

レスリング選手たちはそう囁きあった。カレリンの前に道はなく、カレリンが歩いたあとに道はできた。前人未踏 ── カレリンのグレコローマン・スタイル・レスリングにおける13年間の足跡はそれを如実にあらわしていた。冬は雪原を走り、夏は大木を担ぎ、湖で5時間ボートを漕ぐ。大自然のエネルギーを吸収する独自のトレーニングに打ち込む姿は、太古の昔、人間がまだ自然とともに生き、大地の息吹を思うぞんぶん吸い込んでいた頃の力強さ、しなやかさを思わせた。

同時代に生きることのできた幸福。「伝説」「神話」を語り継げ
1999年の2月。それまで否定し続けてきたプロレスのリングに上がった。ファイトマネーを五輪を目指す地元の少年レスラーたちに贈るためだ。鋭い眼光、鍛え抜かれた筋肉の内側には、激しい闘争心とは別の熱い思いがある。

カレリンは詩人でもある。ロシア最高峰の体育学アカデミーで修士号をとり、つねにプーシキンの著作と哲学書を携帯し、時間があるかぎり読み耽る。パバロッティをこよなく愛し、プーシキンを愛読する温厚な人柄。驕らず、おおらかな人柄は多くの人々を魅きつけてやまない。将来、「ロシア大統領、アレクサンドル・カレリン」として世界に再登場すると予想するひとも多い。

異形の王はこの敗北を機に引退した。無類無敵の王者は引き際を知る者でもあった。「霊長類最強の男」は静かに表舞台からの退場を果たした。わたくしはこの異形の王を生涯忘れないだろう。そして、この男と同じ時代に生まれ、生きることのできた幸福を味わうことになるだろう。

われわれは確認しなければならない。アレクサンドル・カレリンという150万年の人類史にたった一度だけ出現した「最強の男」と同じ時代に生きたことを。「伝説」「神話」はこの眼で見届けた。あとは語り継ぐのみである。

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目下のところのもっとも甘くほろにがい夢は、アイルランドの鉛色の海を見下ろす断崖の際にひっそりと建つ小さな家で、わが人生の同行者である虹子と一番弟子のミニチュア・セントバーナードのポルコロッソに看取られながら、それまでの人生で聴いた最高の『ダニーボーイ』を聴きながらくたばることである。どうせくたばってから行きつく先は鬼か亡者か閻魔が待ちかまえているようなところであろうから、せめてくたばるときくらいは極楽天国をみたいということだ。
『ダニーボーイ』を初めて聴いたのはいつだったか、どこだったか。とんとおぼえていない。物心ついたときには口ずさんでいた。母親の腕の中で子守唄がわりに聴いたのか。それとも、ろくでなしの生物学上の父親が免罪符がわりに歌って聴かせたのであったか。あるいは小学校の音楽の時間に聴いたのか。いずれにしても、『ダニーボーイ』は、私の魂、心、性根、細胞のひとつひとつに染みついている歌であることにかわりはない。
記憶にいまも残るのは、遠い日の夏、母親に連れられて出かけた丹沢で、山道を二人並んで歩きながらいっしょに『ダニーボーイ』を歌ったことだ。夏の盛りの陽は木々にさえぎられて涼しく、山百合の甘くせつない香りはつきることがなかった。夏の盛りの陽にさらされながらも涼しげだった緑。甘くせつない山百合の匂い。母親の細い背中とやわらかな手。そして、鈴の音のような声。あの遠い夏の日の『ダニーボーイ』は私の宝石のうちのひとつであり、忘れえぬ。母親がいまも生きて元気達者でいるならば、夏の盛りにおなじ山道を歩き、『ダニーボーイ』を一緒に歌ってみたいものだが、それももはやかなわぬ夢となった。生きつづけるということは夢のひとつひとつが確実に失われていくことでもある。
いまのところの最高の『ダニーボーイ』は、アイルランド南部、ウォーターフォード州の小さな港町で聴いた。聖パトリック・デーのイベントのクライマックスに登場した市民合唱団による『ダニーボーイ』である。プロフェッショナルのコーラス・グループのような声量や安定感や劇的な構成はなにひとつないが、彼らの『ダニーボーイ』はとても心がこもっていた。彼らの全員が愛する者たちを思い浮かべながら歌っているのが手に取るようにわかった。いつしか、会場である市民ホール前の円形広場はひとつの塊となっていて、そこにいるすべての者が『ダニーボーイ』を歌っていた。私もその中の一人だった。ある者は人目も憚らずに涙を流し、ある者はからだを激しく震わせていた。嗚咽する者すらいた。私は彼らが日々の暮らし、家事、仕事、学業をこなし、時間を工面し、知恵をしぼって練習し、うまくいかず、落胆し、気を取りなおし、夜はふけてゆき、何度もおなじパートを練習しという姿が目に浮かび、胸打たれた。
また、別の意味で感慨深かったのは、2002年のFIFAワールドカップの折り、赤坂9丁目、赤坂通りのどんつく、外苑東通り、六本木に抜ける坂道の途中でアイルランド・チームを応援するためにかの妖精の国からやってきた一団が緑づくめの衣装を身にまとい、『ダニーボーイ』を歌いつつ闊歩する光景に遭遇したときだ。ふだんはナショナリズムなどにはいっさい興味はないし、信用もしないが、そのときだけはちがった。夕闇迫る東京のど真ん中、雑踏で聴く妖精たちの『ダニーボーイ』はまた格別であった。時間がゆるせば、妖精たち全員を引き連れてアイリッシュ・パブに繰り出したいくらいの気分だった。そして、ギネスのスタウト・ポーターでしたたかに酔いしれ、妖精たちと夜ふけの東京で『ダニーボーイ』を歌えたなら、おそらくは極上の『ダニーボーイ』になったことだろう。だが、すべては縁のもので、私の無邪気馬鹿げた夢は夕暮れの東京の雑踏のただ中に儚くも消えた。縁とはそういったものでもある。

『ダニーボーイ』は出兵したわが子を想う母親の歌だ。

おお ダニーボーイ バグパイプが呼んでいる 谷から谷へ 山の斜面を転げ落ちるように夏が去り バラの花はみな枯れゆく おまえは行かねばならない わたしを残して

おお ダニーボーイ もしもおまえが帰ったとき すべての花が枯れ落ち たとえわたしがすでに死んでいたとしても おまえはかならずわたしをみつけてくれる わたしが眠る場所を ひざまずき さよならの祈りを捧げてくれる わたしはきっと聴くだろう おまえのやさしい足音を わたしがみる夢はすべてあたたかくやさしいものになるだろう

おまえが「愛している」と言ってくれるなら わたしは安らかに眠るだろう おまえがわたしの元に来てくれるその日まで

哀惜の情とは、哀切とは、このようなことをいうのでもあろう。いつか来る別れ、やがて来る別れ、かならず来る別れを惜しみつつ、そして、「最高のダニーボーイ」に出会うことを願いつつ、残されたいくばくかの日々をせめて夢見心地に生きることとしよう。ダニーボーイの夢はきっと山百合の匂いがするはずだ。してほしい。

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昔々、横浜で。

高校生の頃、安くてくそまずいコロッケ定食を食うだけのために金沢八景にある横浜市立大学の学食に忍び込んだことがある。コロッケは1個、キャベツ山盛り。申し訳ていどの漬け物と色がついているだけの味噌汁。140円也。
「これじゃ、コロッケ定食じゃなくてキャベツ定食じゃんよ」
配膳口で学食のおばちゃんにそう言うと、おばちゃんは「じゃ、これ、オマケ」と言ってとんかつとコロッケを皿にのせてくれたうえに、ライスを巨大などんぶりにテンコ盛りした。そして、ウィンクした。おばちゃんのウィンクにはちょっと寒気がしたが、おかげで腹いっぱいになれた。その学食のおばちゃんとは高校3年の秋から冬にかけて恋愛関係になるのだが、それはまた別の話だ。
食後、シェークスピア・ガーデンに寝転んでショッポで一服していたら、やさしいサヨクのためのディベルティメントをくちずさむ薄っぺらな左翼学生にオルグされかけた。私は日本国憲法と軍人勅諭と小林秀雄と三島由紀夫と吉本隆明と大江健三郎と坂口安吾と『古事記』と『万葉集』と『古今和歌集』と『新古今和歌集』と『今昔物語』と『方丈記』と『エゼキエル書』と『碧眼碌』と『甲陽軍鑑』と『葉隠』と『草枕』と『いきの構造』と『侏儒の言葉』と『ライ麦畑のキャッチャー』と『長距離走者の孤独』と『赤ずきんちゃん気をつけて』と『白鳥の歌なんか聴こえない』と『狼なんかこわくない』と『ゴドーを待ちながら』と『絶対の探求』と『人間喜劇』と『複製技術時代の芸術』と『泥棒日記』と『善の研究』と『純粋理性批判』と『精神現象学』と『夢判断』と『孤独な散歩者の夢想』と『シルトの岸辺』と『悪魔の辞典』と『中世の秋』と『存在と無』と『エロスの涙』と『存在と時間』と『世界の共同主観的存在構造』と『異邦人』と『二重らせん』と『セロ弾きのゴーシュ』と『銀河鉄道の夜』と岡林信康と『イムジン河』と『ダニーボーイ』とボブ・ディランとエルヴィス・プレスリーとマイルス・ディヴィスと『至上の愛』と『ケルン・コンサート』と『あしたのジョー』と『ハレンチ学園』と『忍風カムイ外伝』と『サスケ』と『ガキデカ』と谷岡ヤスジとブレヒトとガストン・バシュラールとフッサールとアインシュタインとシュレディンガーと『無伴奏チェロ組曲』とワグナーと『魔笛』を無理矢理組み合わせる「荒技」で論破し、へっぽこ左翼学生を号泣させ、吸いかけのハイライトとまだ封をあけていないハイライトを「供出」させた。凱旋気分でサニーマートのゲームセンターに乗り込み、居合わせたYTCと横須賀学園の「とっぽい奴ら」と路上肉体言語合戦(ストリート・ファイト)をやり、二人は踏みつぶし、残りの三人に組み敷かれたところで、目の前の金沢警察署のぼんくら警官どもにさらに取り押さえられ、補導された。
担任の新米教師が身柄を引き取りに来るまで、3時間にもわたって少年課の萩原という好々爺然とした刑事に諭され、励まされ、握手を求められ、嗚咽された。のちに判明したことだが、萩原さんは中学の同級生の父親であった。縁とはかくも深く、不可思議なものである。成人後も萩原さんとは年に一度くらいのペースで会い、酒を飲み、思い出話、四方山話に花を咲かせたが、先頃、亡くなってしまった。そんなことと、そんなことにまつわることと、そんなことにはいっさいまつわらないことをなつかしく思いだす。たのしい思い出がほとんどだが、ほろ苦いのや甘酸っぱいのも、わずかながらある。
横浜市立大学はユニヴァシティというよりも、英国のカレッジといった風情を醸すいい大学だ。質と仕立てのいい英国製シャツのような印象であった。「余計な手を加えていないモスグリーンのモーリス・ミニクーパーのような大学」というわけのわからない形容をあえてしたくなってしまう学び舎である。一時期、進学先の候補にリストアップしたが、「東大進学者数のアップ」を至上命題、金科玉条と崇め奉る愚かな担任と定年間近の木偶の坊学年主任の懇願を受け入れ、受験することはやめた。横浜市大に入っていれば、私の人生も、また別の風貌、色づきを呈していたかもしれぬ。
シェークスピア・ガーデンは横浜市大のキャンパスの一隅にある実に魅力的な英国式庭園である。横浜でもっともスローで晴れ晴れとした春が訪れる場所だ。シェークスピア・ガーデンを舞台にした1970年代後半の「いい話」をいつかものにできたらいい。
金沢八景。数えきれぬほどの思い出やら「貸し」やら「借り」やらを置き去りにしてある街だ。いつか取りもどしにいこうと思いながら、もう30年以上の歳月が流れてしまった。「貸し借りなしの人生」が私の決してゆずれぬ信条でもあるので、アデュー、アディオースのときまでには「貸し方/借り方」双方をゼロにし、貸借対照表をきれいさっぱり破り捨てるためにもきっちりとけじめをつけねばなるまい。そして、そののち、『人間最期の言葉』の末尾にでも「辞世」が載るくらいの仕事はしたいものだ。野島橋の欄干にもたれ、平潟湾を染める夕陽に心ふるわせて流した涙がガラス玉だったのか、それともダイヤモンドだったのか。いつか確かめにいかなくてはならない。もちろん、八景島シーパラダイスなど知ったことではない。

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遠い日、いまよりはるかに生き急いでいた頃、パリのバスチーユ地区にある安宿に秋の終わりからパリ祭直前までのおよそ8ヶ月のあいだ暮らした。アーネスト・ヘミングウェイが『移動祝祭日』の中で「人生のある時期、パリに暮らした者には一生涯パリがついてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と書いたくだりを自分自身の眼と耳と鼻と舌と肌で検証しようというのが旅の動機だった。と言えば聞こえはいいが、当時、個人的に傾倒していたフランスの文学者、哲学者、思想家(モーリス・ブランショ、ロラン・バルト、ジャック・デリダ、ミシェル・フコ、ジル・ドゥルーズ、クロード・レヴィ=ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカンら)に直接会い、あわよくばインタビューしてやろうという無謀な試みを実行に移しただけのことである。さらには、彼らへのインタビューをまとめて出版化にこぎつけたいという密やかな企みもあった。当然のことながら、この身のほどをわきまえぬ「蛮行」は失敗に終わった。キラ星のごとき構造主義者たちとはただの一人も直接対面することはできなかった。もっとも、「顔のない作家」であるブランショがじかに他者と会うはずはないし、「悪しきパロール中心主義」から「戯れのエクリチュール」への脱却を標榜していたデリダがそもそもインタビューなんぞに応じるわけもない。しかも、相手は「極東の小島」の名も知らぬ小僧っこである。歯牙にもかけまい。そんなことはハナからわかっていた。わかってはいたが、「実存をさらけだせばもしや」の気持ちがなかったわけではないのもまた事実である。私の目論見はかなわなかったが、パリのど真ん中で、憧れのストラクチュアル・ギャング・スターズとおなじ空気を吸い、おなじパンを食い、おなじセーヌ川を眺め、かれらが歩いているとおなじモンマルトルやモンパルナッスやカルチェ・ラタンを歩き、おなじパリの雨に打たれ、おなじパリの空を見上げたことだけで、私はじゅうぶんに満足だった。面談の交渉のために訪れたエコール・ノルマル・シューペリウールやコレージュ・ド・フランスの学食で食べた昼飯はおそろしいほど安く、おそろしいほどまずかったことを憶えている。
エッフェル塔や凱旋門にのぼり、またサクレクール寺院前の斜面に座り、パリの街を一望したときには、いま目の前にひろがるパリのどこかにフコやデリダやレヴィ=ストロースがいるのだということに思いいたり、胸に強く迫るものがあった。旅程表をつくりはじめ、私淑していた清水多吉先生に相談したところ、「ミッテランが大統領のうちに行ってきなさい」と激励され、数通の紹介状を書いていただいた。おかげで、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったユルゲン・ハーバーマス教授にお会いできたばかりか、カルチェ・ラタンの小さなビストロでごちそうにまでなった。忘れえぬ思い出のひとつである。ハーバーマス教授は「あなたはいくぶんか物事を性急に片づけようとする面があるが、それもまた若さの特権でしょう」と言って笑い、食後の腹ごなしの散歩の際に、セーヌ川沿いの古本屋でみずから選び、買ったポール・ニザンの『アデン・アラビア』にその場でサインをし、プレゼントしてくださった。「『アデン・アラビア』には純粋無垢なる魂があります。ポール・ニザンの魂はあかむけなのです」というハーバーマス教授の言葉はいまも私の胸を打つ。以来、再会は果たされていないが、いつかいまだに生き急ぎ、物事を性急に片づけようとする面の改まらない私をおめにかけ、叱咤していただきたいものである。

さて、約8ヶ月間、パリ探索の拠点としたのは、「オテル・ド・フルクチュア・ネク・メルギチュール」という名の木賃宿だった。ホテルをうたってはいたが、どう贔屓目にみても下宿屋に毛の生えたようなぼろ宿だった。もちろん、料金はおどろくほど安く、ユースホステルやYMCA系列の施設に泊まるより、はるかにふところにやさしかった。もっとも、私が宿を「オテル・ド・フルクチュア・ネク・メルギチュール」に決めた理由は単に宿代の安さだけではない。「オテル・ド・フルクチュア・ネク・メルギチュール」という名前に魅かれたからである。日本語にすれば、「漂泊不沈旅籠」とでもなるだろうか。「漂泊不沈」すなわち、「漂えど沈まず」という言葉は私が師と仰ぐ人物から教わったが、以来、きょうまで私の座右の銘となっている。「漂えど沈まず」は古いラテン語の成句で「FLUCTUAT NEC MERGITUR」といい、パリの市民憲章ともなっている。シテ島対岸のパリ市庁舎正面玄関にはFLUCTUAT NEC MERGITURと刻まれた大理石のプレートが掲げられ、「魂の不服従」をしめすシンボルとなっている。パリがまだルテチアと呼ばれていた頃、パリの街一帯はローマ帝国による支配下にあった。だが、行政上の支配を受けてはいても、志、魂はけっして何者にも売りわたさない、屈服しないという決意をこの言葉はあらわしている。パリ暮らしの日々が本稿の目的ではないので、話はパリを去る日にまで飛ぶ。パリの街は7月14日の革命記念日(パリ祭)をひかえて慌ただしく、装いをあらたにしようと活動的になっていた。革命記念日は翌週に迫っていたが、私は旅装をととのえ、次の目的地リスボン行きのチケットを買った。シャルル・ド・ゴール空港までのリムジン・バスの車中、私は別れがたいパリへの思いを断ち切ろうと、あえて窓外を見ず、パリ北駅の売店で買ったフィガロ紙を隅から隅まで読んでいた。その中に時計メーカーのフェスティナの広告をみつけた。

旅人とともに時を刻む。フェスティナ。

けっしてできがよいとはいえないキャッチコピーに苦笑したが、私をひきつけたのは「Festina Lente」と刻まれた石の彫刻の写真だった。「Festina Lente」とはギリシャ語で、「ゆっくりと急いで」を意味する。古代ギリシャの劇作家ソポクレスの『アンティゴネー』第231節に由来する言葉である。私ははっとした。悠々としすぎたのではないか。旅はまだなかばまでにもいたっていない。いつか旅の円環は閉じられるとしても、悠長な旅などとは無縁であろうと決めてはじめた旅ではなかったか。急いていては本来見るべきもの、聴くべきもの、味わうべきもの、触れるべきものを逃してしまう。しかし、急がなければ先へは進めないのだ。
私はシャルル・ド・ゴール空港につくやいなや、デイパックひとつに入るものだけを残して、ディナー用のフォーマル・スーツやネクタイ、ドレスシャツ、テストーニの靴、さらにはパリ漂泊中に集めに集めた「パリ土産」の数々をすべてゴミ箱に放りこみ、ついにはスーツケースも置き去りにして、必要最小限の旅装に改めた。「パリの日々」の痕跡はことごとく失われ、デラシネ同然だったが、心は信じがたいほどに軽やかでおだやかで、冬のパリの空のように晴れわたっていた。悠々として急ぐ者はちょっとやそっとのことで動じてはならないのである。

(à suivre→ser continua)

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原子力不安全の番人、原子力不安全委員会の長である。デタラメくらい出鱈目で軽薄で無責任で無能で姑息な輩にはそうそうお目にかかれまい。サンイン予算委員会に参考人としてお呼びがかかり、きっつい質疑の矢面に立つデタラメのうろたえぶり、ビビりぶりは見物であった。ロッキード事件にかかわる証人喚問のときのオサノ(「記憶にございません。」)ケンジ、ダグラス・グラマン事件の証人喚問で宣誓書に署名するときにガクブルしていたカイフ・ハチロウに匹敵する。そのいっぽうで、フクシマ原発事故発生から12日間にわたり取材を拒否するという剛の者の一面も。その理由を問われて答えに窮したデタラメは苦しまぎれに「(マスコミなんかだいっきらいだしぃ)官邸と文科省に伝えりゃいいと思ったもんで。でへへ。うしし。ぐふふ。」ときたもんだ。非常用ディーゼル発電機や冷却ポンプなどの重要機器が複数同時に機能喪失することを想定しなかった理由を社会ス義ミンス党のフグスマ(キ印の女たち一味)ミズホちゃんに問われ、「そんな事態は想定しない。そんなことを想定してたんじゃ原発つくれないもんよ。(つくれなきゃ、オイシイ思いできないじゃん!)」とドヤ顔。また、高レベル汚染水への対応について質問された際に、「原子力不安全委員会はそんなめんどくさい知識は持ち合わせてないYO!」などと発言して見識のなさを露呈するとともに、原子力不安全委員会の存在意義に大いに疑問を抱かせた。そんなこんなのデタラメは、週休6日、勤務時間5分~1時間で年収1650万円もらっちゃうちゃっかりさんである。口ぐせは「お兄ちゃん、まだらめぇ~」

本名マダラメ・ハルキ。1948年生まれ。1970年3月トーキョー帝国主義大学工学部卒業。1972年4月とうきょうしばうらでんき入社。1989年トーキョー帝国主義大学工学部附属原子力工学研究施設助教授。2005年4月トーキョー帝国主義大学大学院工学系研究科教授。2010年4月内閣府原子力不安全委員会委員長就任。

【著 書】
『虱の歌を聴け』
『2011年のビーンボール』
『核をめぐる冒険』
『キュリー夫人はグレイなレム睡眠がお好き』
『世界の終わりとテプコ・アトミック・ワンダーランド』
『炉、建屋を焼く、その他の短編』
『福島行きのスローボート』
『TEPCOピープル』
『ベクレルの森』
『原子力村クロニクル』
『2Q11』
『福島の南、浜岡の西』(原発紀行集)
『スリーマイル豆腐』(グルメ評論集)
『チェルノブイリ・プリン』(グルメ評論集)
『かあつ式』(原子炉娯楽情報誌・月刊『ゲロ』連載の漫画エッセイ集)
『ふっとう式』(原子炉娯楽情報誌・月刊『ゲロ』連載の漫画エッセイ集)

【訳 書】
『偉大なるメルトダウン』(F.S.フィッツゲラダヒヒ)
『シュラウド再訪』(F.S.フィッツゲラダヒヒ)
『デンリョク畑でつかまえて/The Catcher in the Lie』(J.D.モウドクサリンジャー)
『バカな魚に手頃な日』(J.D.モウドクサリンジャー)
『シーベルト序章』(J.D.モウドクサリンジャー)
『冷却』(T.アポーンティ)
『フクシマの小女子釣り』(R.ボディーブローティガン)
『ガイガーの世界』(J.アービングクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)
『ホテル・ニュートリノ』(J.アービングクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)
『ニュートリノの聖骸布』(イアン・ウェスティングハウス)
『今、そこにある放射線管理区域』(T.クライシス)

【好きな映画】
『アトミック・ヴィレッジの青春』(ポール・ファザースキー)
『東京電力物語』(小角安二郎)
『最後の商売』『絵に描いた餅』(ピーター・ボクダノサノバビッチ)
『The Killing Atomic Fields』(シドニー・グリーンストリートシャンバーグ)

【趣 味】接待旅行とポンチ絵描き

【愛 読 書】なし

【ひとこと】「もっとチェレンコフ光を!」

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最強の官僚キャラ。フクシマの原発事故後、会見にのぞむ原子力反安全・不安院の担当者がついついほんとのことを言っちゃったり(「溶けちゃってます。メルト・ダウンです」)、黙秘したり(「…。」「……。」)、ふてくされちゃったり(「もう3日も寝てないんで、手短に簡潔にやりましょうよ」)という失態によって次々に更迭されたのを受けて、急遽、環太平洋村から呼び寄せられたヅラメガネは、初めのうちこそ苦手な理系問題にへどもどしていたが、時間の経過とともに保身テク、ごまかしテク、言い逃れテク、天下り先確保テク、ヅラテクを次々と繰り出して記者たちを煙に巻き、ついでに自分にはヅラを巻いた。不安院が原発事故現場から撤退したことについて追及を受けると、間髪をいれずに「(権力さえあれば)現場にいなくても規制はできる」との名言を残す。いっぽう、「不安院のあいつはヅラだ」等の風評被害に悩まされ、身も細り、毛も抜ける日々を送ってもいる。ライバルは「とくダネッ!」のオヅラ・トモアキ。愛娘の舞ちゃんはテプコ・アトミック・ワンダーランドの社員。父親と瓜ふたつ。やはり、いつの時代も不幸はそれぞれに不幸である。

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本 名:ニシヤマ・ヒデヒコ
生年月日:1956年12月29日
生 息 域:トーキョー、カスミガセキ・ヴィレッジ

1980年 トーキョー帝国主義大学法学部卒業
1980年 ツーサン省入省
1984年 ハーバード大学法科大学院修了
2001年 ケーサン省通商政策局米州課長
2006年 大臣官房総務課長
2007年 資源エネルギー庁電力・ガス事業部長
2009年 通商政策局審議官

2011年3月13日より、連日、原子力不安全・不安院担当としてテプコ・アトミック・ワンダーランドのフクシマ原子力発電所事故についての記者会見にのぞむ。その後、職場ファックがバレバレしてフクシマに飛ばされる。学生時代、だっさい臙脂色のナップザックに有斐閣小六法、我妻榮『担保物権法』『民法基本判例集』、團藤重光『刑法綱要』、平野龍一『刑法概説』、芦部信喜『憲法訴訟の現代的展開』とともに団鬼六やら宇能鴻一郎やらケン月影やら縄やら鞭やら蝋燭やらを忍ばせていたことを知るのは、なにを隠そうこの私だ。

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パンナム・エアの時代遅れもはなはだしい曲面の翼をひろげたアトランティック・バード号は空の勇者のように静かに滑走路に舞い降りた。ゲートまで滑るように進み、タラップが大きな音を立ててドアをノックする。ニューヨークからの乗客が一斉に立ちあがる。物理学者が無惨に死に、失踪中の歴史学者のメモが14世紀の地層から発掘されたところでマイケル・クライトンの『タイムライン』を閉じる。開け放たれたドアからバハマの熱い空気が吹き込んでくる。
「いい休日を!」
ブルネットの髪を無造作にひっつめたグラマーでゴージャスなエア・ホステスが5万ドルはしそうな笑顔を投げてよこす。
「ミスター・ペーパーバック。こちらにはスキン・ダイビング? ゴルフ? フィッシング? それとも、ガール・ハンティング?」
「そのどれでもない。ただ本を読みにきただけだ」
私はブルネット・グラマーにそう答え、ウィンクした。すれちがいざま、彼女はひんやりした指先で私の右手の甲を意味ありげに撫でた。だが、私は無視した。私はニュー・プロビデンス島に本を読むためにやってきたのだ。

海に向いたテラスのデッキ・チェアに座り、ジム・ビーム&ソーダを飲みながら、午後をやりすごす。波と風の音だけが聴こえる。ときどき、グラスの中の氷が軽やかにステップを踏む音も混じる。電話は沈黙を守りつづけている。いい兆候だ。休日を台無しにするのは決まって1本の電話だからだ。
時間が止まった島で、自分だけの、自分のための時間をすごす贅沢、その充足、その優雅。都会での日々が野蛮にさえ思えてくる。3杯目のジム・ビーム&ソーダを飲みほし、読み終えたページにクリップをセットする。自由放埒港にアンカーを打ち込んだような気分だ。本をテーブルに置き、海を見る。水平線から湧きあがる雲が読んでいるペーパーバックの主人公の顔に見えてくる。西から流れてきたやや小さな雲が寄り添い、動きをとめた。彼の愛しい女にちがいない。風がかわり、ふたつの雲はさらに近づき、やがて離ればなれになった。
「さらば、愛しき女よ。人生は流れる雲みたいなものだ」
どこかのペーパーバック・ライターが自嘲気味に書いていたのを思いだす。主人公の雲はまだ同じ場所に浮かんでいた。

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ニュー・プロビデンス島の人々はいつも最高の笑顔で迎えてくれる。この島が好きでいつも足が向かうのは、彼らの笑顔があるからだ。島の人々は誰かに教えられるわけでもなく、そして、誰かのためにでもなく、自分の気持ちに忠実であるがゆえにいつも最高の笑顔を持ちつづける。
ニュー・プロビデンス島にいるときに必ず顔を出すバーに寄ると、その昔、アンドロス島のアマチュア・チャンプだった男がシェイカーを振っていた。スツールに腰かけ、ペーパーバックをカウンターに置いた。元チャンプはシェイカーからグラスに酒を注ぎ終えると、私のためのギムレットを作りはじめる。彼のギムレットはそのレフト・フック同様、ニュー・プロビデンス島で人生の大半をすごす者の宝だと誰かが言っていた。
「ようこそ、ミスター・ペーパーバック。ナッソーで一番のギムレットです」
よく冷えたギムレットと熱いストーリー。都会では味わえない至福のトワイライト・タイムだ。カウンターの横に置かれたソニーの赤いポータブルTVではインディアンが騎兵隊と戦っている。
「ホカ・ヘー! おれにつづけ! 今日は戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!」

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いつもペーパーバックで想像の旅をしていた。ニュー・プロビデンス島に来るようになったのはイアン・フレミングの『ナッソーの夜』を読んでからだった。キリマンジャロの山、キーウエストの海、パリの夜、スペインの闘牛場。いずれも想像の世界で遊んでいた。そして、ニュー・プロビデンス島だけが本当の旅の地となった。
ニュー・プロビデンス島ではゆっくりと、心ゆくまで本が読める。『ナッソーの夜』に導かれ、初めはただ「本がゆっくりと心ゆくまで読める」というだけの理由でやってきたのに、今ではこの島の人々の笑顔を見ることも重要な旅の目的となった。
ぺーパーバックの中で実に多くの人々と出会った。彼らの笑顔はいったいどんなものだろうか。あるいは、彼らの流す涙のうち、いったい幾粒がダイヤモンドで、カリブの海にはどれくらい流れ込むのか。今夜も、新しい笑顔、美しい涙と出会うためにペーパーバックを開く。私の旅はまだ始まったばかりだ。

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週末、金曜の昼下がり。都会の喧騒が消え失せた宝石のような時間。オフィス・ビルの壁面のガラスが夏の初めの空と雲と光を映している。仕事は午前中にすべて片づけた。仕事もプライベートもすべては順調で、なにひとつ思いわずらうことはない。これから日曜の夜にベッドにもぐりこむまで、夏の始まりにふさわしいとびきりの時間をすごせる幸福で、心は夏の雨上がりの空のように晴々としていた。
オープン・テラスのテーブルの上に読みはじめたばかりのアーウィン・ショーの短編集を置き、ウェイターが注文を取りにやってくるのを待つ。通りに目をやると、クレープデシンやコットンリネンやピケやコードレーンやシアサッカーの夏服に身を包んだ女たちがややあごを突き出して歩いている。どの女たちの顔をみても週末の夜のお愉しみを目前に美しく健康的で、適度にエロティックで、いきいきとしている。「いい週末を」と思わず声をかけたくなる。

澄んだ空気。
にこ毛のような陽の光。
そして、夏服を着た女たち。

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これから日が暮れるまでの数時間を自由に贅沢にすごそう。気持ちはさらに浮き立ってくる。
「クルヴァジェをクラッシュ・アイスに注いで、それをエヴィアン・ウォーターで割ったものを」
新米のウェイターが怪訝な表情を浮かべたので、私は伝票とボールペンを受け取り、注文を記した。新米ウェイター君に安堵とともに爽やかな笑顔がもどる。
薄手の大きな丸いグラスを琥珀色の液体が満たしている。グラスの淵に鼻を近づけ、芳醇馥郁たる葡萄の精の香りを愉しんでからひと息で半分ほど飲んだ。爽やかで、しかも豊かな味だ。決して上等とはいえないBOZEのコンパクト・スピーカーから、ジューン・クリスティの『サムシング・クール』が聴こえはじめる。夏の初めの空と雲をみる。流れゆくひとかけらの雲が、遠い昔に私を通りすぎていった女たちの顔にみえる。さらにクルヴァジェをもう1杯。動悸がたかまる。

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その昔、いつでもどこでも、『サムシング・クール』を口ずさんでいる女の子がいた。彼女は冷凍室の中でさえ、「なにか冷たいものをおねがい」と言いそうだった。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。背筋を冷たい汗が一筋、流れ落ちる。

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『クール・ストラッティン』のジャケット写真みたいに魅惑的な脚線美をいつも誇らしげに見せびらかす女もいた。彼女が自信たっぷりに気取って街を歩くと、男たちは立ち止まり、慌てて振りかえり、そして、遠ざかる彼女の後姿と脚線美を溜息まじりに見送ったものだ。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。軽い眩暈に夏の初めの街が揺れる。

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「マイルス・ディヴィスは嫌いだけど、『クールの誕生』は好き」と言いながらLPレコードを乱暴にターンテーブルにのせる女もいた。私は彼女の手荒さに辟易したものだ。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。グラスを持つ右手がふるえだす。
初めてみにいった『グレート・ギャツビー』で意気投合し、「あなたがギャツビーで、わたしがデイジー。そうすれば二人の復讐と幸福と享楽と放埓は完結するのよ」と言って、熱烈なキスをプレゼントしてくれた女もいた。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。全身が泡立ちはじめた。
女たちの毒を含んだ矢が次々と飛んでくる。その毒矢は決して的を外すことはない。しかも、彼女たちのすべては遠い記憶の淡い桃色の雲の中に隠れていて姿をみせることはない。心の中にみるみる黒い雲が湧き上がってくる。寒気さえ感じる。初めの頃の浮き立つような気分はとうに消え失せていた。

街が黄昏はじめた頃、やっと彼女は現れた。淡い水色のクレープデシンのドレスに身を包んで。彼女のあたたかくやわらかな笑顔だけがいまの私を彼女のいる世界に引き戻してくれる。そう思い、私は心の底から安心し、彼女に感謝した。
「あなたと初めてみにいった映画、おぼえてる?」と彼女は突然言った。
「ごめん。忘れちゃったよ。きみとは映画ばかりみてるから」
「『グレート・ギャツビー』よ」
「まさか……」
「本当だってば。初めてのデートで、初めての映画ですもの。忘れたりするもんですか」
私は立ち上がり、もう何杯目なのかさえわからなくなってしまったクルヴァジェを毒杯でもあおるような気分で飲み干し、夏服を着た女たちが涼しげな表情を浮かべて行き交う街の中へ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一人で漕ぎ出していった。

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横浜YMCAでひと泳ぎした帰路。中華街玄武門際のシーメンズ・クラブでギネス・ビールを飲み、ホット・サンドを食べた。ダブリン市民であるアイルランドの貨物船のセカンド・オフィサーを相手に「物理学における基本粒子」を言いっこしたり、頭突きっこしたり、ギネスを賭けて腕相撲したり、沈黙合戦したり、人文科学と社会科学限定の尻取りをしたり、人類史とアーサー王伝説と『ダニーボーイ』とクラウゼヴィッツの『戦争論』とジェームズ・ジョイスとサミュエル・ベケットと「ティム・フィネガンはなぜ屋根から転落し、『フィネガンズ・ウェイク』の "フィネガンズ ”にはなぜアポストロフィーがついていないのか?」について、さらには「クォーク鳥が "クォーク"と3回鳴いた意味」についてちょっとした議論をし、Life is a work in progress という地点に落下傘なしでいっしょに着地し、最後には握手していい友人になった。彼がその後、アイルランド首相になったときは心の底から驚くと同時にうれしかった。たぶん、あのときの言い争いと頭突きと腕相撲と尻取りと議論が彼の政治意識を目覚めさせ、高め、ついには彼を政治家にさせたのだ。そのことはわれわれの友情に終止符を打つ結果となり、「二人の聖パトリック・デー」の終焉をもたらしたが、なにひとつ悔いはない。

巨人大洋戦の消化ゲームを観戦する人々でにぎわう横浜スタジアムを抜け、根岸線関内駅南口へ。根岸までの乗車券を買い、いかにもやる気のなさそうな男(きっと動労系のやつにちがいない)に持たせ切りされてむかっ腹を立てながら改札を抜け、ホームへ。反対側のホームに高校時代のガールフレンドの姿をみつけ、ほんの少し動揺しているとスカイブルーの車輛がホームに滑り込んできた。車内はほぼ満席。乾いたコンプレッサー音を発してドアが閉まり、スカイブルーの車体は退屈そうに走りだす。石川町駅と山手駅の中間よりやや山手駅寄りで、となりに座っていた男がポケットに突っ込んでいた手をもぞもぞと動かしはじめる。前の座席にはバンビのように可憐な脚と眼、三つ編み、陶器のようにつるりとしたきれいな肌の女子高生が座っていた。彼女は大事そうに真っ白なキャンバスを抱えこんでいる。制服から横浜雙葉の生徒とわかる。「次は根岸」の車内アナウンス。そのときやっと、初めて、世界の基本は無関心なのだと気づく。
「何年生だろうな」と思ったとき、となりの席の男が急に立ち上がった。酒が入っているのか、足元があやうい。吊革につかまる手は油の汚れで真っ黒だ。焼酎とニンニクともつ焼きのにおいがする。「いやだな」と思った。男は女子高生をみすえ、足を踏み出す。男の体が揺れる。「まずいな」と思う。また一歩。さらに揺れる。男は女子高生の前に立ちはだかる。うつむく三つ編みのバンビちゃん。そして、男は言い放った。
「きみのその真っ白なキャンバスに向かって、おもいきりシャセイさせてくれないか」
夏の名残りを残す根岸線磯子行きが凍りつく。三つ編みバンビちゃんの顔はみるみる歪み、ついには嗚咽を漏らしはじめる。そして、号泣。そして、僕は席を立ち、ドアに向かう。あとの顛末はまったくわからない。僕は凍りつく根岸線磯子行き車輛番号クハ103-420から下りたのだ。かわいそうな三つ編みバンビちゃんを残して。心残りは三つ編みバンビちゃんの涙のゆくえを見届けられなかったことと、男に「写生と射精をひっかけたんですよね?」と尋ねられなかったことだ。夏の名残りを残す根岸線磯子行きが私の下車駅、根岸に着いてしまったからだ。根岸の駅前に降り立つと同時にほんの少し秋の気配を感じた。

三つ編みバンビちゃん。あのときのいやな出来事のあと、きみはきみが持っていたキャンバスにどんな絵を描いたのかな。やっぱり、美術室の薄汚れたトルソーやら山下公園の真ん前でふんぞり返るマリンタワーやら港の見える丘公園から見下ろす横浜港やら草むした外人墓地やら根岸台の緑やら元町を行き交う物狂おしい大衆やらのつまらないものを写生したのかな。あの日から、毎年8月31日が来るときみときみが抱えていた真っ白なキャンバスのことを思いだすよ。来年もきっとね。そして、考える。きみときみが抱えていた真っ白なキャンバスのことを。僕の行動の問題点を。僕の行動の問題点はきみを忌まわしい困難から救いだせなかったことじゃない。問題はきみを救いだそうとしなかったことだ。勇気を持てなかったことだ。その考えはいまも変わらない。これから先、変わることもない。きみに言いたいことはつまり、きみときみが抱えていた真 っ白なキャンバスのことを思いだし、考えるときに聴く音楽は『The Gallery in My Heart』だし、結局、人生は Work in Progressってこと、そして、僕もあの日よりは少しは勇気を持てるようになったってことだ。だから、これからもあの日みたいにしっかりと真っ白なキャンバスを抱えつづけてほしい。なにがあっても。そうさ。なにがあってもだ。どんなにつらくて悲しい出来事があってもだ。そして、そこに人生やら世界やら宇宙やら森のコトリたちのことやら雨に濡れて輝く森の木々のことやら海の不思議な生き物たちのことを写しとってほしい。僕が言いたいのは、たぶんそういうことだ。
あのときのきみはすごく悲しい顔をしていたけど、いまはいくらか悲しみや苦しみがやわらいでいるように見える。もちろん、僕の中ではきみはいつまでも三つ編みバンビちゃんのままだけどね。そして、僕は約束する。いついかなるときも、困憊と困難と不運が山のように僕に降りかかっていても、根岸線磯子行きに乗ったときはかならず三つ編みバンビちゃんのことを思いだすって。

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三つ編みのバンビちゃん。僕はこの夏、亜麻色の髪のコトリのような少女が「足だけ入る川」で水遊びする光景を描くために生まれて初めてキャンバスに向かったよ。亜麻色の髪のコトリのような少女と三つ編みのバンビちゃんがなぜだかダブって見えた。でも、たぶんそれは僕の気のせいだ。

正確に37年前のきょうの出来事である。(「あ、さてー」の小林完吾ではない)

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好きなサイコーは『最後の晩餐』
好きなサイコパスはノーマン・ベイツ
好きなノーマンはキングズレー・メイラー
好きなメーラーはEudora
好きなカードゲームはジン・ラミーとUNO
好きな醤油は栄醤油店の「甘露醤油」
好きな晦渋は『精神現象学』
好きな韜晦は『純粋理性批判』
好きな難解は『存在と時間』
好きな難儀は『論理哲学論考』
好きな陶酔は『存在と無』
好きな透徹は『善の研究』
好きな愉悦は『エロスの涙』
好きな至福は『フーガの技法』
好きな退廃は『ドリアン・グレイの肖像』
好きな荒廃は『シルトの岸辺』
好きな荒唐は『ガルガンチュワ 第一之書』
好きな無稽は『パンタグリュエル 第二之書』
好きな無頼は『堕落論』
好きな無粋は『「いき」の構造』
好きな決まり手は「黙殺」
好きな服地はスキャバルとドーメルとランバン
好きな古典楽曲はG.マーラーの『交響曲第5番 嬰ハ短調』とリムスキー=コルサコフの『交響組曲作品35 シェヘラザード』
好きなホテルは1990年夏の逗子なぎさホテル
好きな道はザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードと外苑西通りと国道134号線と静岡県道17号線と行き暮れた果ての奥の細道
好きな夜は『眠られぬ夜のために』を読みながら眠る夜
好きな歌は『ダニーボーイ』と『バラ色の人生』と『星に願いを』と『虹の彼方に』
好きな樹は神宮外苑青山通りから12本目の銀杏の樹
好きな場所は水曜の午後の野毛山動物園と開店前のバーのカウンター
好きな合言葉は「勇気」「倍音」
好きな口ぐせは「倍音が!」「物静かに退場しろ」「悪いがほかを当たってくれ」「それは吾輩の仕事ではない」
好きな上はガウタマ・シッダルダの掌の上
好きな下はパリの空の下
好きななぞなぞは「カルネアデスの板」
好きな雄叫びは「ユリイカ!」
好きな損益分岐点は限界利益率∞
好きな情報機関は内閣情報調査室
好きな特殊部隊はネイビー・シールズ(United States Navy SEALs/アメリカ合衆国海軍特殊戦グループ)
好きな法令は刑事訴訟法
好きな法学者は宮沢俊義と團藤重光と我妻榮
好きな物理の定理は「ベルヌーイの定理」(同一流線上のエネルギー保存則)
好きな物理学者はエルヴィン・シュレディンガーとアルベルト・アインシュタイン
好きな数学の定理はK.ゲーデルの「不完全性定理」
好きな数学の難問は「フェルマー予想」
好きな数学者はアンドリュー・ワイルズと谷山豊
好きなJBLはLE8T(Al-Ni-Co)
好きな雑言は「奴を高く吊るせ!」
好きな塩はモンゴル産岩塩「蒼き狼」と敵に贈る塩
好きな絵描きはアルタミラとラスコーの穴蔵生活者
好きな生活者は吉本隆明
好きな吉本隆明は『共同幻想論』と『言語にとって美とはなにか』と『固有時との対話』
好きな幻想は貨幣
好きな美は一度限りの美
好きな苗はクボタの早苗
好きな不二家は「ソフト・ドーナツ」に名称変更する前の「不二家のドーナツ」
好きな不二家の店は横浜伊勢佐木町ヘンリー・アフリカの並びの店
好きなタクシーはリュック・ベッソン&ジェラール・ピレス
好きな路線バスは都営バス「都110系統」
好きなバイシクル・コンポーネントはカンパニョロ社製
好きな自転車フレームはマージ初代によるグラン・クリテリウム(鉄!)
好きな愛はバスルームから。
好きな恋は花咲く恋
好きなハナは肇
好きな情けは深情け
好きな深川は深川丼(あさり飯)か門前仲町の魚三
好きな魚屋は錦糸町の魚寅か神奈川新町の魚新本店
好きなラモーンズは元麻布2丁目で昆布〆鯖を食べながら聴くラモーンズ
好きなザ・フーは「あんた誰?」とすごみつつ踊るビートニク・ガールの背景から聴こえてくる『QUADROPHENIA』
好きな少年はナイフ
好きなナイフはラヴレス
好きな象はパオパオ
好きなパオパオはビール(アンダルシア風茄子の漬け物付きヴェルタ・エスパーニャ仕様)
好きなサイクル・ロードレースはツール・ド・フランス
好きなストリート・レースはSHINO主催「東京選手権」
好きなサイクル・ミーティングはYO! HEY!主催「TBMU(Tokyo Bike Meet Up)」
好きなバイシクル・メッセンジャーはSHINOと神風寺
好きなカレーは左手で喰らう。
好きなピエロは暴走族
好きな捜査官は警視庁公安部内事課の宮川警視
好きな必殺技はジャン・ポール・サルトル
好きな生徒は悪魔っ子ちゃん
好きな肉はジョージ・バーナード・ショウ特製の銀行通帳風味皮肉
好きなポイントカードは悲劇のテンポイント
好きなレスラーはカール・ゴッチ
好きなカールはハインツ・ルンメニゲ
好きなおやつは「それにつけても」
好きな「それにつけても」はカールのチーズ味
好きなチーズは空飛ぶフォルマッジオ・マルチオと冷酷非情のカース・マルツ
好きな犯罪人類学者はチェーザレ・ロンブローゾ
好きなローンブロゾーは黄金バット
好きなバットは吾輩自身
好きな吾輩は犬である。
好きな猫はアメリカン・ショート・ヘア(渡辺香津美御用達)
好きな渡辺香津美はDOGATANA
好きな刀は関の孫六
好きな剣はエクスカリバー
好きな槍はロンギヌス
好きな変人は最初の恋人(交換日記に「わたしはあなたの変人になりたい」とか書きやがんのよ! クラクラきたぜ、ナオコちゃん!)
好きな長州は萩
好きな擬音はハッカラモケソケヘッケレピー
好きな藤圭子の表現はカシュカシュ
好きなアレサンドロはナニーニ
好きなコードは電気D7
好きなニャンピョウはキャット空中3回転
好きなモンスーンは麻布十番のキャッフェ
好きなキッスはベラカミーノ
好きなベーゼは死の接吻
好きなレッチリはナポリタンズ
好きな調味料は空腹
好きな格闘技はストリート
好きなサイボーグはターミネーター
好きな権力者は後醍醐天皇
好きな電車は世田谷線
好きな粒子はシュレディンガーの猫の餌
好きな宇宙人はスザンヌ
好きなひろしは詐欺師
好きな月は14番目
好きな呪文は「産卵。」
好きな丼はテイク・イット・イージー天丼
好きな中華はMajong
好きな烈士は平岡公威と飯沼勲
好きな超能力は千里眼
好きな遺跡は仁徳天皇陵
好きな飲み物は大五郎ベースのミント・ジュレップ
好きなシリアルはキラー
好きなクレヨンはさくら
好きな桜は根方に死体の埋まっている桜
好きな死体は饒舌な死体
好きなビートはたけし
好きな猛々しさは AFRO-BEAT
好きなアフロは SOUL TRAIN
好きなトリートメントはエメロン
好きな時計は[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]
好きな靴はおろし立てのオフホワイトのコンバースとJOHN LOBBのプレステージラインとa.Testoni
好きな蕎麦は時
好きな秋刀魚は目黒
好きな鰯は信心
好きな鯛は海老で釣れた鯛
好きな釣りはねとらじで。
好きなねとらじDJはロイ清川
好きなポジションはリベロと敵の背後
好きなサプリはメントール
好きなギターはギブソン・レスポール・モデル(1968 Model)
好きなピアノはベーゼンドルファー・インペリアル290
好きな民族派の街宣車は衛藤豊久先生存命中の日本青年社の2番車
好きなフォースはダウン
好きなマイケルはタイソン
好きなディミトリはフロム・パリ
好きな教授はキヨカワ・ロイド・ジュニア
好きな作家は旧約聖書の作者
好きな詩人はアルチュール・ランボオ
好きな死人はモルグ街で眠っている。
好きな偉人はモーゼ
好きな韋駄天はフォレスト・ガンプ
好きな河童はジョニー・ワイズミュラー
好きな酔いどれはトマス・アラン・ウェイツ
好きな戦争は笑う戦争
好きなテクストは銀行通帳
好きな州はコネチカット
好きなチョコレートはキャドバリーのフルーツ&ナッツ・チョコレート
好きな国はキリバス(クリスマス島)
好きな胃薬は重炭酸ナトリウム
好きな戦術はマクナマラ方式
好きなアトラクションは赤札堂のタイム・サービス
好きな魚は幻の虚数魚i=Poisson d'Avrilと氷下魚
好きな区は港区
好きな缶詰はマルハのサバ味噌煮缶
好きな絵本は『羊男のクリスマス』
好きなクリスマスは「羊男のいないクリスマス」
好きな冒険は『羊をめぐる冒険』
好きな『羊をめぐる冒険』は初版で持っている。風もピンボールもワンダーランドも初版で持っている。『街と、その不確かな壁』が載った1980年9月号の『文學界』だって持っている。
好きなヤハギはハルキよりカッコイイと思う。
好きなヤハギは神様のピンチヒッターにはなれなくてもピンチランナー調書くらいは書けると思う。
好きなヤハギはキタカタよりか数段粋だと思う。
好きなカイタカケンは今頃グラスの淵をまわりながら「書いた? 書けん!」と怒鳴り散らしていると思う。
好きなカイタカケンはムール貝をバケツ3杯食った。(ほぼ日刊実話)
好きなイトイの「明るいビル」は魚籃坂界隈を14パーセントくらい明るくしたが品はない。
好きなクリームは初期
好きな映画監督はピーター・ボグダノヴィッチ
好きな敵は贅沢と素
嫌いな敵は霞ヶ関の木っ端役人
好きな探偵は法水麟太郎
好きなPRIVATE EYESはフィリップ・マーロウ
好きなタフ・ガイはマイク・ハマー
好きな伝言はマイク・ハマーへ
好きな方程式はE=MC ハマー
好きなハマはヨコハマ
好きなヨコはヨコスカ
好きなタテはバンツマ
好きなヨコハマは黄昏
好きな黄昏は神々の黄昏
好きな神は天照大神
好きな太陽は海とつがった太陽
好きな海は17歳
好きな17歳は南沙織
好きな南は国境の南
好きな西は太陽の西とバロン西とマンモス西
好きな東はちづる
好きな北は一輝
好きな川は隅田川とシルト川
好きな小川は等々力とJ.S.バッハ
好きな体位は正常位
好きな空賊はマンマムート団
好きな家電はGE社製冷蔵庫
好きな野菜はメークィン
好きな孤独は長距離走者の孤独と百年の孤独
好きな金田一京助の口癖は「これは何?」
好きな島はクリスマス島(キリバス領)
好きなウルトラマンはコスモス
好きなカップヌードルは浅間山荘
好きなブランドは PATEK PHILIPPE & CoとVACHERON CONSTANTINとBRÉGUETとApple
好きな色はトスカーナ・ブルーとアドリアンニューウェイ・ブルーとターコイズ・ブルー
好きなカメラは地雷を踏む寸前にちょっとピンボケするライカ
好きなメガネはロイド
好きな忍者は霧隠才蔵
好きなソナタは双曲線の彼方に向かっての一蹴
好きなアイスクリームはハーゲンダッツの抹茶黒蜜(300円)
好きなロボットはロビー
好きな探検隊はシュリーマン隊
好きな化粧水はへちまコロン
好きなエフェクターはナチュラル・ディレイ
好きな妖怪は垢舐め
好きな刑事はいない。
好きな星は願いを聞き届けてくれる星
好きな南方熊楠は『和漢三才図会』の綴じ糸を縁側で繕いながら寛いでいる。
好きな柳田國男は『海上の道』
好きな折口信夫は『ごろつきの話』
好きな侠客は会津小鉄
好きな無頼漢はモロッコの辰
好きなアウトサイダーはコリン・ウィルソン
好きなギャングスターはアルフォンス・ガブリエル・カポネ
好きなラッツ・アンド・スターは田代
好きなスクーターはヴェスパ
好きなヒーターはデロンギ
好きなミニッツ・リピーターはフランク・ミューラー
好きなビフィーターは47度
好きな決めゼリフは「背中の桜が泣いている」
好きな部位は足首と大脳辺縁系及び大脳新皮質
好きな思想家はゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
好きな几帳面はイマヌエル・カント
好きな策略家はサルヴァトーレ・ルカーニア(ラッキー・ルチアーノ)
好きな道楽者は明烏
好きな扇動者はカール・ハインリヒ・マルクス
好きな放蕩者はやがて帰還する息子
好きなマルクスはアウレリウス・アントニヌス
好きな喜劇人はマルクス兄弟と大宮デン助とトニー谷とニート仁田
好きな博打打ちはフョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー
好きなジャン・ミシェル・フコは『監獄の誕生』
好きなジャン・ミシェル・(ウホッ)・フコは24会館
好きな書き手はモーリス・ブランショ
好きなイラストレーターはアドビとミルトン・グレイサーとシーモア・クワスト
好きなアドビはフォトショップ
好きな写真店は注文の少ない写真店
好きな場所はエルスケンの南、オキーフの西
好きな広告文案家は秋山晶と片岡敏郎と平賀源内
好きな商業図案家は杉浦康平と佐藤晃一と宮田識
好きな編集図案家は戸田ツトムと菊池信義
好きな商業造本家は戸田ツトムと杉浦康平と菊池信義と平野甲賀
好きな編集者は松岡正剛
好きな噺家は五代目古今亭志ん生
好きな浪曲師は二代目広沢虎造
好きな破産者は初代桂春團治
好きな剣術使いは机竜之助
好きな剣術流派は柳生新陰流
好きな兵法は甲陽軍艦
好きな作曲家はヨハン・セバスチャン・バッハ
好きな作詞家は阿久悠
好きな編曲家はクィンシー・ジョーンズとデイヴ・グルーシン
好きなシンガー・ソング・ライターはジャクソン・ブラウン
好きなジャズ・ミュージシャンは全員死んだ。
好きなヴォイス・パフォーマーはエラ・フィッツジェラルドとエディット・ピアフ(編集焼飯)とイーヴァ・マリー・キャシディ
好きなトランぺッターはクリフォード・ブラウンとマイルス・デイヴィスとブルー・ミッチェルとニニ・ロッソ
好きなサキソフォニストはチャーリー・パーカーとソニー・ロリンズとグローバー・ワシントン Jr.とデイヴィッド・サンボーン
好きなピアニストはビル・エヴァンスとロヴェール・カサドシュとキース・ジャレット
好きなヴァイオリニストはイツァーク・パールマン
好きなチェリストはパブロ・カザルスとムスティスラフ・ロストロポーヴィチとミッシャ・マイスキーとゴーシュ
好きなギタリストはパット・メセニーとマイケル・ヘッジスとタル・ファーロウと寺内タケシ
好きなベースマンはマーカス・ミラーとスコット・ラファロ
好きなドラマーはスティーヴ・ガッド
好きなパーカッショニストはモンゴ・サンタマリアとティト・プエンテとレニー・ホワイトとラルフ・マクドナルドと村上ポンタ秀一
好きなミュージシャンはデオキシリボヌクレイック・アシッド・ミュージックの旗手、ジャン・ミシェル・ミゴー
好きなTVドラマは和久井映見主演の『ピュア』
好きなレコード屋はiTunes Store
好きな鉄砲は数を撃てば当たる種子島スペシャル
好きな拳銃はワルサーPPKとブローニング380
好きな拳闘家はジャック・デンプシーとロッキー・マルシアーノとピストン堀口
好きなファイターはロッキー・マルシアーノ
好きな世紀の一戦はモハメド・アリV.S.ジョージ・フォアマン(キンシャサの奇跡)
好きな好事家は大倉喜七郎
好きな数寄者は千利休
好きな硬骨漢は白洲次郎
好きな伊達男は白洲次郎
好きな趣味人は白洲次郎
好きな日本人は白洲次郎
好きな料理人は雷門・柿汁の大将
好きな七人の侍は島田勘兵衛
好きなパンクスはゴードン
好きなダンスはラスト・ダンス
好きな家畜はヤプー
好きなガロは1978年9月号
好きなゼロはハリバートン
好きな夢魔は星新一
好きな魔王はパズズ
好きな悪魔はアンブローズ・ビアス
好きな悪党はジェシー・ジェームズ
好きな悪辣はボニー&クライド
好きな辛辣はジョージ・バーナード・ショウ
好きな辞典は大辞林とWikipediaと明解さん
好きな百科事典は平凡社大百科事典(CD-ROM版)
好きな花は強く生き、やさしく咲く女郎花
好きなストリート・ファイターはマイケル・パレ
好きなハンバーガーはヒル
好きなファミレスはない。
好きな弁当屋は小菅の高橋屋
好きなレストランは青山キハチ(消滅)
好きなラーメン屋は目黒・勝丸
好きなとんかつ屋は目黒・ポーク亭
好きなもつ焼き屋は東駒形・とん平
好きな鰻屋は虎ノ門・鐵五郎
好きな天丼屋は浅草・天健
好きな牛丼屋はない。
好きなバンドはザ・クルセイダーズ
好きな祭りは2ちゃんねる
好きなハーケンクロイツは『大戦略』のエンディングで折れた。
好きなTOKIOは城島
好きなアクション俳優はスティーヴ・マックイーンと千葉真一
好きな居酒屋は東駒形のもつ焼きとん平
好きなスターバックスはペンティ・サイズのキャラメル・マキアート
好きなタリーズは麻布十番店のオープン・テラス
好きなスタバは横須賀シーサイドビレッジ店
好きなスタジオはPUSH PIN STUDIOSとBOLT & NUTS STUDIO
好きなドリフターズはいかりや
好きな公園は有栖川宮記念公園と木場公園とリュクサンヴール公園とセントラル・パーク
好きなチャットはスカイプ
好きなチョップはポークと空手
好きなミネラルはマグネシウム
好きな超人はハルク
好きな魔術師はフーディーニ
好きな姉妹は「20歳を過ぎたら21。」
好きなアンはマーグレット
好きな酒は焼酎大五郎とヘネシーVSOP
好きな裏本は横浜野毛の岡本書店で買っていた。
好きな寺はサクレクール
好きな石はトパーズ
好きなクレジットカードはない。使えない。
好きなシュートはサンチェス・ ロメロ・カルバハル社製イベリコ豚の生ハム
好きなハチミツとクローバーは恋仲である。
好きなDTPソフトウエアはQuark XPress
好きな文具メーカーはSTAEDTLERとMARVYとFABER-CASTELL
好きなFABER-CASTELLはAlbrecht Dürer Watercolor Pencils(120 Colors/Wood Box)
好きな鮨は鮪の赤身のづけ
好きな鮨屋は浅草・一心
好きな豆腐は風に吹かれて豆腐屋ジョニー
好きな緑黄色野菜はルナール
好きな物理法則は作用反作用の法則
好きなギターの弦はオカムラ
好きなスーパーはプライム両国店
好きなロックンローラーはジョニー・ウィンター
好きな埋葬は風葬
好きなセガールは刑事ニコ
好きなセガは怪し気なバーにピンボール・マシンやバリーのスロット・マシンをリースしていたセガ・エンタープライズ
好きなセナは1985年4月21日、ポルトガルのエストリル・サーキットにおいてポンコツ・ロータスを駆り、PP&FLで初優勝したアイルトン・セナ・ダ・シルバ
好きなアイルトンはナイジェル・マンセルと死闘を演じた1992年のモナコGPの激走
好きなアイルトン・セナ・ダ・シルバは1994年5月2日、イモラ・サーキットのタンブレロ・コーナーで死んじゃいました。
好きな将棋指しは升田幸三
好きな碁打ちは藤沢秀行
好きなチェス・プレイヤーはボビー・フィッシャーとジョシュ・ウェイツキン
好きな将棋の駒は香車
好きなチェスの駒はスティーヴン・ビショップ
好きな麻雀牌は「発」
好きなトランプ・カードはスティングと同じ。
好きな花札は坊主丸儲け
好きなチンチロリンはかっぱぎ
好きなチロリン村はどこだっけ?
好きなゲーム・ソフトは『ファイナル・ファンタジー7』
好きな巨大物件はサンダーバード2号
好きなUMAはケサランパサランとゴドルフィン・アラビアンとエクリプスとセクレタリアトとエリモジョージ
好きなこまどり姉妹は右
好きなザ・ピーナッツは沢田と結婚したほう
好きなザ・リリーズは右
好きな鮫はディープ・ブルー
好きな心霊現象は細木数子
好きな天変地異は細木数子
好きな阿鼻叫喚は細木数子
好きな言語道断は細木数子
好きな空前絶後は細木数子
好きな厚顔無恥は細木数子
好きな安岡正篤は細木数子に喰い殺された。
好きなコロッケは静岡県御殿場市山崎屋精肉店製
好きなメンチカツは東京都墨田区石原の名無し肉屋製
好きな鳥の唐揚げは東京都目黒区下目黒の鈴木肉店製
好きな秘密結社は死せる詩人の会
好きな大佐はカーツ
好きな東京大学歴代総長は蓮見重彦
好きな助数詞は「発」
好きな漢字文化圏における数の単位は「恒河沙」
好きなヤード・ポンド法における単位は「パイント」
好きな橋はいつかポーちゃんと会える虹の橋
好きな言葉は「語りつくせぬことについては沈黙せよ」
好きな態度は「沈黙。深き沈黙」

好きな最期は薄桃色の雲に乗った菩薩様がお迎えにくること。

好きなねじまき鳥は村上、じゃなくて、年代記、でもなくて、断然、桃色看護婦の松坂世代

参考:TBMU(Tokyo Bike Meet Up)
http://spastica.exblog.jp/5996020/

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私の耳たぶを噛む男がいる。男は私の耳たぶをとてもじょうずに噛む。噛むというより撫でられているように感じることさえある。彼が私の耳たぶを噛むようになってからもう3年2ヶ月だ。初めの頃はキャドバリーのフルーツ&ナッツ・チョコレートとビーバー・カモノハシの臍の緒の赤ワイン煮込みと人参のピクルスをいっしょに食べるような不思議な違和感があったが、いまではすっかり慣れてしまった。
噛む男の名前はいまだにわからない。外見はきわめて霞ヶ関官庁街的である。グレイ・フランネルの高級そうなスーツを着ている。髪の毛の右の生え際に3センチばかり白髪が密集していて、ちょっと尖った顔だ。耳が極端に小さく、500円硬貨ほどしかない。瞳は右が榛色で、左が橙色だ。特筆すべきはその鼻と唇の形状である。鼻はステルス戦闘機B-2そっくり、唇はズムウォルト級ミサイル駆逐艦の艦橋部を縮尺したとしか思えない。顔面ステルスとでもいいたいほどだ。普段、同僚たちから「ステちゃん」と呼ばれているにちがいない。

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男が私の耳たぶを噛みはじめたのは2009年12月26日である。昼下がり、私はダッフル・コートのフードをすっぽりかぶり、日比谷公園の噴水の近くのベンチに座って高橋源一郎の『ジョン・レノンと火星人』を読んでいた。突然、頭になにかが触れた。噛む男だった。私は驚いてふりむいたが噛む男は当然のように私の耳たぶを噛みつづけた。気でも狂っているのかと思ったが噛む男の左右で色のちがう瞳にはかけらほども狂気は浮かんでいなかった。
「やめてくれよ。見知らぬ人間に耳たぶを噛まれるのはあまり好きじゃないんだ」
右の耳たぶに噛みついている男を頭を振って引き剥がしてから言った。しかし、噛む男は私の声などまるで聞こえない様子だった。「警察を呼ぶぞ」と怒鳴っても噛む男はどこ吹く風で、スミノフの空き瓶みたいにクールだった。
噛む男はルーティン・ワークでもこなすように淡々と私の耳たぶを噛みつづけた。男が噛むのをやめそうになかったので、迷ったすえに肩越しにゲンコツを食らわしてやった。噛む男はすっ飛んだ。そして、かすかな呻き声を漏らした。だが、噛む男はすぐに起き上がり、無言で再び私の耳たぶを噛みはじめた。鼻血が出ているのを見てちょっとだけ気の毒になった。鼻血が出るほど強く殴らなければよかったと後悔した。軽く耳たぶを噛まれただけでこれっぽっちも痛くはなかったのだから。鬱陶しくはあったが、そんなことはこの国には掃いて捨てるほどある。セブンーイレブンに行けば、レジのそばに山積みで置いてあるし、マックス・バリューなら詰め放題200円で売っている。まっとうな人間は他人が鼻血を流すほどのパンチを繰り出すべきじゃない。あのときの私はよっぽどどうかしていたのだと思う。アルバイト先の人間関係をめぐるゴタゴタに巻き込まれていて冷静さを失っていたのだ。噛む男にはいまもあのときの無礼を謝罪する。もっとも、噛む男は私が謝っても無表情で私の耳たぶを噛みつづけるだけだ。

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私は逃げようとした。しかし、噛む男は私の耳たぶを噛みながらついてきた。走り出すと一瞬噛む男を引き離すことができたが噛む男はなんとしても私の耳たぶを噛もうと追ってきた。噛まれているうえに耳たぶが引っ張られて二重の痛みだ。丸の内警察署まで行って、「お巡りさん、この男が私の耳たぶを噛むんです。困るんです。助けてください」と訴えようかとも考えたが、そんなことに前例はないだろうし、怪しまれて身分証を見せろと言われたり、痛くもない腹を探られ、意地の悪い質問を浴びせられた挙げ句の果てに逮捕されないともかぎらない。実は、私自身が「舐める男」として指名手配中だったのだ。私はすぐにあきらめた。

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とにかく家に帰ることに決め、日比谷線に乗った。噛む男も私の耳たぶを噛みながら乗り込んだ。先頭車両の一番前の座席に座ると噛む男は私の真横に立ち、左手で手摺りにつかまりながら執拗に私の耳たぶを噛みつづけた。近くの乗客のうちの数人が顔を見合わせてこっそり笑うだけだったが、異変に気づいた運転手もちらちらとこちらを見はじめた。次第に地下鉄の車内に他人の小さな不運に遭遇できた喜びのたぐいの笑いが広まっていき、ついに乗り合わせた人々全員が腹を抱えて笑いはじめた。私は恥ずかしくて右の頬が少し燃えてしまったほどだ。
私と噛む男は六本木駅で下車した。残った乗客たちはいかにも名残り惜しそうに私と噛む男を見送っていた。芋洗い坂を急ぎ足で下った。すれちがう誰もがみんな、あきれ顔でふりむき、声を上げて笑った。私はよっぽど、「おまえら! なに見てんだよ! 耳たぶを噛まれてるのがそんなに珍しいか? 面白いか?」と言ってやろうかと思ったがやめた。彼らが笑うのはもっともだ。グレイ・フランネルの高級スーツを着た男に耳たぶを噛まれながら芋洗い坂を急ぎ足で下る人物にはそうそうお目にかかれるものではない。途中、けやき坂のTSUTAYAに寄ってジョン・ケージの『4分33秒』とカールハインツ・シュトックハウゼンの『4機のヘリコプターと弦楽のための四重奏曲』を試聴した。私が試聴しているあいだも噛む男はヘッドフォンの脇から私の耳たぶを引っ張りだして噛みつづけた。

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私の知るかぎり(私の睡眠中はわからないが)、噛む男は一睡もしないし、なにも食べない。水道の蛇口から垂れる水滴をたまに手のひらにつけ、唇の端から薄桃色の舌先を出して舐める程度だ。そのときさえ男は私の耳たぶを噛んでいる。男は一瞬たりとも私から離れない。入浴のときも排便のときもだ。男が私の耳たぶを噛みはじめた頃は一晩中眠れなかったが、今では噛まれていないと眠れなくなってしまった。日常というのは本当に恐ろしい。もちろん、われわれはいつも良好な関係を維持できていたわけではない。季節に一度は男にかなりきつい口調で耳たぶを噛む理由について詰問した。しかし、男は私の質問にはいっさい答えず、黙って私の耳たぶを噛みつづけるだけだった。

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何度となく私は男に暴力をふるった。鼻っ柱にゲンコツをお見舞いしたり、頭突きを喰らわしたり、鳩尾に膝蹴りを入れた。男の鼻腔に2Bの鉛筆を突き立てたことさえある。そのときだけは男はもごもごと口を動かして言った。
「2B OR NOT 2B」
「え?」
「2B OR NOT 2B」
「なんだよ!」
「ニービーオアナットニービー」
「わからないよ!」
「わからなくていい。わからない者にいくら説明しても結局はなにもわからない」
私は無性に腹が立って男の右の眼にハラペーニョ・ジュースをかけてやった。しかし、男はされるがまま、呻き声ひとつ上げなかった。暴力をふるわれるのも仕事のうちといった風情ですべてを受け入れた。
噛む男は私の耳たぶを噛むことに揺るぎない信念を持っているように思われた。いまや、私は男に耳たぶを噛まれていないと、この先生きていけないのだと考えるようになってしまった。2009年の冬の初めから3年2ヶ月も続いているこの異常な事態は世界のなにごとかを象徴しているのだとも。そして、そのような考えに至った今朝、私の鼻の匂いを嗅ぐ女が現れた。次に登場するのは眼を舐める女か尻を撫でる男か。いずれにしても、もうなにが起ろうとどうということはない。さて、そろそろバイトの時間だ。

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クマグス先生は『和漢三才図会』の綴じ糸を繕いながら、イズラエル・カマカヴィヴォオレが歌う『虹の彼方に』にじっと耳を傾けている。
「この若者はずいぶんと肥満しているのではないのか?」とクマグス先生が突然尋ねるのでびっくりした。
「そうですよ、先生」と答えるのが精一杯だった。
「若死にしたんだな?」
「どうしてわかりますか?」
「きみきみ。吾輩は天下無双のミナカタ・クマグスだよ。わからぬことはなにひとつない」
「じゃ、先生。落窪物語でマタ・ハリよろしく間諜仰せつかったクソ婆が便意を催したとき、婆の腹黒く愚かな腹からはなんと音がしましたか?」
「ごぼごぼ」
「え?」
「ごぼごぼ」
「まいりました」

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わたくしは今さらながらにクマグス先生の偉大さを思い知らされた。「ときに先生、ここのところのトロトロの具合はいかがでしょう?」
「そうだね。寄る年並と言いたいところだが、中沢新一とかいうテンプラ野郎が吾輩の森でヨハン・セバスチャン・バッハばかりを大音量でかけやがるので、ほとほと困っておる」
「その中沢新一とかいう小僧っこ、ぶっ殺してきましょうかい?」
「それには及ばないさ。ほっときゃ消えるような輩の類いだ。柳田のうすら馬鹿みたいにね。そんなことより、最近、吾輩の森が思いもよらず花ざかりなのはなぜだと思う?」
「そうですねえ、あっしが森の番人として手入れに余念がないのもさることながら、やっぱり、あれではないですかね。先っぽから来ちゃったんじゃございますまいか」
「ああ、先っぽからなあ。神さまがなあ」
クマグス先生はそう言ったきり、また『和漢三才図会』三冊本の繕いに戻った。わたくしは手持ち無沙汰にもう一度、イズラエル・カマカヴィヴォオレが歌う『虹の彼方に』をリピートした。その途端に、クマグス先生に怒鳴られた。
「おなじ曲とは能がないぞ! その歌はいいにはいいが一度聴けばよかろうよ、きみ。それよりかバッハを聴こうぜ、バッハを」
「バッハのなにがよろしゅうございますか?」
「そうだな。ゴルトベルク変奏曲がいいな」
「合点承知! 委細面談! 焼肉定食! 暴行傷害焼定食!」
「漢字ばかり使うんじゃない! 下品な! 那智の滝から突き落とすぞ!」
「平身低頭! 陳謝慰謝平謝! 祇園精舎で三拝九拝!」
「ゴルラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「先生こそ、片仮名ばっかじゃん! 蛇蝎魑魅魍魎鬼!」
「すまん」

明日はクマグス先生と神々の棲まう岬、大瀬崎までフィールド・ワークである。

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夕暮れどき、まだ夏の盛りの余韻が残る神宮外苑の銀杏並木を鉄の馬で疾走中にとびきりの『Desafinado』は聴こえてきたのだった。愁いを含んでほのかに甘いアクースティック・ギターの調べに乗って。
ホブソン・コヘア・ド・アマラル。生粋のカリオカ、リオ・デ・ジャネイロっ子だ。1月の川はたいてい冷たいがホブソンは明るく暖かくやさしい。シンガーであり、ギタリストであり、パーカッショニスト。在日13年。カタコトの日本語とたどたどしい英語とファンキーなポルトガル語を織りまぜて一所懸命話す姿がキュートだ。奥さまは日本人で、ツアー・コンダクターをされているという。
神宮外苑の銀杏並木でホブソンと初めて会ったとき、彼は間近に迫ったライヴのレッスン中だった。ホブソンはママチャリを脇にとめ、ベンチに座って一心にギターを弾き、歌っていた。私がホブソンの前を通りすぎようとしたとき、彼はスコアから眼を上げた。そしてとびきりの笑顔を投げかけてきた。私も手持ちのうちの最高の笑顔をホブソンに投げ返した。

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私は神宮第二球場で草野球の試合をしばし観戦し、もと来た道を戻った。ホブソンは前と同じように一心不乱に練習をしていた。私は『青山通りから12本目の銀杏の木の下』に鉄の馬を停め、ホブソンに近づいた。近づくにつれて、『Desafinado』は輪郭がくっきりとしてきた。それは名演と言っていい演奏、歌唱だった。その『Desafinado』は私の知るかぎり、スタン・ゲッツ & ホアン・ジルベルトの名演にも引けをとらないように思われた。『Desafinado』はホブソンの十八番であり、スタン・ゲッツ & ホアン・ジルベルトの演奏を聴いて以来、私のフェイヴァリット・ソングでもあった。調子っぱずれな人生を生きる者にはうってつけの曲だ。
ボッサ・ノッバにほのかに薫る哀愁は、若く名もなく貧しき青春の日々と深くつながっている。ボッサ・ノッバは安アパートの一室で誕生した。まだ無名だった若かりしホアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビムが大きな音を出すことのゆるされない部屋で、ほかの住人たちに気づかって撫でるようにギターを弾き、小声でささやくように歌ったとき、ボッサ・ノッバは生まれたのだ。これはとても胸打つエピソードである。そのことをホブソンに言うと、「どうして知っているんだい?」と大きな眼をさらに大きくして言った。
「アントニオ・カルロス・ジョビム本人から聞いたのさ」
「ええええええっ!? ほんとに?」
「うそ。本で読んだのさ」
「うへぇ! 日本人はほんとに勉強好きなんだなぁ」とホブソンは言って、両手を天に向かって差し上げるような仕草をした。

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ホブソンはそれから『黒いオルフェ』や『コルコバード』やボッサ・ノッバ風にアレンジした『上を向いて歩こう』を聴かせてくれた。私がお礼にビールをごちそうすると誘うと、ホブソンは「グーッド! グーッド!」を7回も連発した。
銀杏並木沿いのいい雰囲気のレストラン、「セラン」に行き、通りに面したテラスでビールを飲みながら、日本のことやブラジルのことや音楽のことやサッカーのことやアイルトン・セナ・ダ・シルバのことやエドソン・アランテス・ド・ナシメントのことやナナ・バスコンセロスのことやパット・メセニーのことやホアン・ジルベルトのことやアストラット・ジルベルトのことやアントニオ・カルロス・ジョビムのことを話しているうちに私たちはとてもインティメートな気分になっていった。
「弾いてもだいじょうぶかな?」と眼のまわりをうっすらと染めたホブソンが尋ねた。
「ノー・プロブレムだと思うよ」
エンジン全開になりつつある私は答えた。ホブソンはとてもキュートな笑顔を見せ、ケースからギターを出した。内心、私はお店のひとからたしなめられるかなと思ったが、ホブソンの涼しげなギターの音色と哀愁をおびた歌声が夏の終りの夕暮れの銀杏並木に流れ出すとまわりのだれもがしあわせそうな表情になった。曲が終わるたびにあちこちで拍手が起こったほどだ。「あちらのお客さまからです」と言って、若いギャルソンがビールを4杯持ってきた。私とホブソンはごちそうを山分けし、大ゴキゲンで飲み干した。蝉しぐれ、揺れる銀杏の葉陰、ボッサ・ノッバ

この夏の思い出にまたひとつ宝石が増えた気がした。

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「クモモの樹探索」から帰還し、おそい午睡をとった。そして、アイルトン・セナと春のやわらかな陽射しにあふれる隅田川沿いを散歩している夢をみた。セナは愁いと甘さと哀しみとを含んだ微笑を浮かべ、陽の光を反射してきらきらと輝く隅田川の流れをみつめていた。セナが「境界のボート」に乗り込んだところで夢は終わった。すでに夕暮れどきをすぎ、街は闇に沈んでいた。目がさめると涙が一筋、頬をつたっていた。闇の中でセナのことを考えていたら、涙は次から次へといくらでもあふれてきた。

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アイルトン・セナを初めて知ったのは1987年、鈴鹿の日本グランプリだった。セナはキャメル・イエローのロータスをドライビングしていた。彼が初めてワールド・チャンピオンになる前年のことだ。それは良くも悪くも「セナ・プロスト時代」の幕開けを告げる重要な年だった。セナはどのドライバーよりも輝いていた。スリムな体から発する輝きが桁はずれて眩しかった。端正で物憂げな面差しが輝きに深みをあたえているように感じられた。アラン・プロストもネルソン・ピケもナイジェル・マンセルもセナと比べてしまうとくすんでみえた。
「アイルトン・セナはいつかかならずワールド・チャンピオンになる」
私が言うと同行のホンダ広報のSがうれしそうに何度もうなづいた。私の予言どおりアイルトン・セナは翌年、F1最強のホンダエンジンRA168Eを搭載したマクラーレンMP4/4というリーサル・ウェポンをえてワールド・チャンピオンとなった。私の6年に及ぶ「セナ時代」のはじまりだった。

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1991年、インテルラゴス・サーキットで行われたブラジル・グランプリでセナは初めて母国での優勝を遂げる。アイルトン・セナのブラジル・グランプリ優勝は「セナのやり残した大きな仕事のうちのひとつだ」という声があがるほどセナにとってもブラジルの人々にとっても重要な意味を持っていた。これをやり遂げれば、セナに残されたのはファン・マヌエル・ファンジオの記録(F1ワールド・チャンピオン5度)を破ることだけだった。レースを終え、メイン・スタンド前にマシンをとめて天を仰ぎ、神と対話するセナの陶酔しきった姿をみて、私は「セナはもうすぐ死ぬのだな」と不意に思った。
あるモーター・レーシング関係者は「モチベーション」という表現でセナの行く末を案じていた。私は燃えつきてしまった者の姿をセナにみた。実際、母国グランプリの勝利以降、セナは抜け殻のようだった。セナが半透明に透けて、見えないはずの向こう側が見えてしまうことさえあった。愁いの影や哀しみの色は日ごと増していくように思われた。「セナはいまサウダージのただ中にいるのだ」とも思った。私の「予感」は3年後に現実のものとなるのだが、もちろん、当時の私は「セナの死」を予感しながらも、決してそれはあってはならないことであるとも考えていた。だが、音速の貴公子、アイルトン・セナ・ダ・シルバは1994年5月1日、春のイモラ、アウトドローモ・インテルナツィオナーレ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリに散った。

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予選走行の段階ですでに悲劇は序章を迎えていた。ルーベンス・バリチェロの身も凍るようなクラッシュ、ヘルメットから血潮を滴らせ、意志をうしなった肉の塊りがコクピットから露出したローランド・ラッツェンバーガーの壮絶凄惨な死。
「次はセナの番だ」
私は確信にちかい思いを抱いた。運命のサンマリノ・グランプリ、運命の決勝。セナ通算65回目、生涯最後のポール・ポジション。スタート直前のセナは死人のように青ざめた表情でウィリアムズ・ルノーFW16のコクピットにおさまっていた。レッド・シグナルからグリーン・シグナルへ。スタートと同時にエンジン・ストールに見舞われたJJ・レートにペドロ・ラミーが追突。マシンから飛び散った破片で観客にも負傷者がでる。ペース・カーによる先導ののち、5周後にレースは再開した。

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レース再開後の2周目。セナ、生涯最後のラップを車載カメラが克明に冷徹にとらえる。シューマッハのオンボード・カメラにセナのマシンが映る。運命のタンブレロ・コーナー。名にしおう高速コーナーである。タンブレロ・コーナーの入口でセナのマシンは左リアのあたりから激しく火花を散らし、カメラの視野から流れるように消えてゆく。流星のように消えゆくアイルトン・セナ・ダ・シルバ。バック・ミラーに映るシューマッハの驚愕と恐怖に満ちた眼差し。コンクリート・ウォールに向かって一直線に突き進むセナ。時速300km。息を飲む大クラッシュ。だれもがセナの死を思ったはずだ。
「セナがクラッシュ! アイルトン・セナがクラッシュ! イモラがアイルトン・セナにも牙をむいた!」
春のイモラに実況のフジTVアナウンサー、三宅正治の絶叫が響きわたる。タンブレロ・コーナーを直進し、砂煙を上げてコンクリート・ウォールに激突するホワイト&ブルーのウイリアムズFW16をモニターが何度となく映しつづける。引きちぎられたマシンの中でブラジル・カラーのヘルメットが激しく揺れる。「ROTHMANS」と記されたリア・ウィングはスローモーションのように宙空を舞い、セナの親友ゲルハルト・ベルガーのフェラーリ421T1の前に転がった。ベルガーは16周目、沈痛な面持ちでマシンを下りた


セナは事故現場ですぐさま気管切開をほどこされ、ヘリで病院へ搬送されるが破損したサスペンション・アームが頭蓋骨を砕き、激突の衝撃はセナからすべてを奪い去ろうとしていた。1994年5月1日18時40分、心肺停止。享年34歳。その早すぎる死に世界中が涙した。事故原因は諸説入り乱れ、いまだ確定されぬままである。

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セナのいないF1は気の抜けたビールのようだった。以来、私はF1をほとんどみなくなった。F1サイボーグといわれるミハエル・シューマッハがいくら「正確無比のドライビング」をみせつけ、「記録」を塗りかえても、空飛ぶフィンランド人、ミカ・ハッキネンがワールド・チャンプに輝いても、悲劇の無冠の帝王、ジル・ビルヌーヴの忘れ形見、ジャック・ビルヌーヴが天才の片鱗をみせても、私の心は動かされなかった。ことF1に関して言えばアイルトン・セナの死とともに私の心は石ころになってしまったのだ。もはやマシンを大胆かつ繊細にスライドさせながらコーナーを攻めつづけるセナの姿を見ることはできない。わずか数センチの隙間をみつけだし、1秒間に6回アクセルのON/OFFを繰り返すといわれる「セナ足」でコーナーに飛び込んでいくセナの姿を見ることはできない。世界中のどこのサーキットにも、風をきり、風になって走り抜けていくセナの勇姿はないのだ。そのことを思い知ったとき、世界は完全に色あせた。物事にはいつかかならず終りがくる。そう、かならず終りがやってくるのだ。だれもそのことから逃れることはできない。たとえ限界を超えるコーナリング・スピードを連発し、あまたのコース・レコードを打ちたてたアイルトン・セナ・ダ・シルバであってもだ。

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「僕はレーシング・ドライバーだ。レーサーとして生まれたんだ。と同時に、それは自分が選んだ道なんだ。スピードへの興味はつきない。僕のライフ・スタイルだ。きっと生まれたときから急いでいるんだね」
生まれたときから急いでいる

生き急ぎ、死に急いだアイルトン・セナ・ダ・シルバ。
「僕にとっての1秒がセナにとっては10秒だったのだろうと思う。コースを走っている時、セナは僕とまったくちがう世界を見ていたのだと思う。彼はまちがいなく英雄だった。でも生きて素晴らしいレースをつづけてほしかった。こんな形でいなくなってはいけない人だった」
かつてのセナのチーム・メイト、中嶋悟が「そのときのこと」を振り返る。ふだんは寡黙でめったに感情を表に出さない中嶋悟が顔面を紅潮させ、目を潤ませて語った。

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アイルトン・セナは同時代に生まれ、同時代を生きることのできた幸福を感じさせてくれる数少ない人物の一人だった。セナが世界のどこかにいて呼吸をし、ステアリングを握り、マシン・セッティングについて注文をつけ、いわれなき誹謗・中傷・非難に一喜一憂し、哀愁の微笑を浮かべていることを思うだけで私は幸福な時間をすごすことができた。だが、そのセナはもはやいない。アイルトン・セナの死によって、私の世界はしけた、輝きのない、つまらぬものになってしまった。以来、今日までときめくことなどただの一度もない。そのようにして18年の歳月が流れた。そのあいだに皇帝ミハイル・シューマッハがおそらくは永遠に破られることのない「記録」を打ち立て、引退し、ワンダーボーイ、マイク・タイソンはただの大うつけ者に成り下がり、スキーター・デイヴィスはアメリカ合衆国の田舎町でひっそりと息を引き取っていた。以後も私にとって「世界」はますますつまらなくなっていくだろう。それでいい。もう「世界」になにも期待などしない。記憶と思い出の中で静かに戯れ、遊ぶだけである。

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いつか春のイモラを訪ね、セナが流星になったタンブレロ・コーナーに抱えきれぬほどのグラミス・キャッスルを手向けようと思う。そして、アイルトン・セナ・ダ・シルバのことを日が暮れるまで思おう。それまではナイジェル・マンセルと死闘を演じた1992年のモナコ・グランプリを繰り返し繰り返しみることにしよう。春のイモラで逢う日までアデュー、アイルトン。(o Fim)

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【檄】澄まし顔、したり顔で愚にもつかぬ能書き・御託を並べ立てる団塊老人どもに「1970年11月25日、あなたはどこでなにをしていたか?」と訊ねよ! 視えない自由を射抜く矢を射れ!

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1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地総監室。三島由紀夫(平岡公威)、森田必勝ほか「楯の会」構成員による「東京事変」勃発。テラスから「檄」を飛ばす三島由紀夫をだらけきった姿で見上げる自衛官。飛び交う怒号と下衆な野次。

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私はこの日、一報を知るや、ランドセルを教室に放り投げ、市ヶ谷駅まで地下鉄を乗り継ぎ、そこから靖国通りをひた走りに走って市ヶ谷駐屯地前にたどり着いた。途中、赤信号を突破しようとした市ヶ谷本村町の交差点で都バスに轢かれそうになったがぎりぎりで回避し、「ばかやろう!」の定番捨て台詞をくれてやるというおまけつきである。もちろん、「現場」に立ち入ることはできず、外から「三島死ぬな、三島死ぬな」とつぶやきながら、現場の修羅を想像した。

「三島死ぬな」と思いつつも、死ぬことはわかっていた。三島が『豊饒の海』を書きはじめた時点でそんなことはわかりきっていた。わからぬほうがおかしい。だが、どうしても、なんとしても、三島由紀夫には死んでほしくなかった。生きて、私の思いを代弁するがごとき「物語」を書いてもらいたかった。

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さて、「東京事変」を遡ること1年半。1969年5月13日。文武両道軒・三島由紀夫は東京大学教養学部900番教室で東京大学全学共闘会議、いわゆる全共闘の若造青二才どもと対峙していた。五月祭の呼び物イヴェントに三島由紀夫がやってきたのだった。

「近代ゴリラ」と記された三島由紀夫のパロディ立て看板を指差し、苦笑する三島。会場入口前の立て看板をみる三島由紀夫の顔には、その日の対論が戦いにはならないことへのあきらめの表情が浮かんでいる。

「諸君がひと言、天皇と言ってくれたら、私は共闘する」と三島由紀夫は誘い水をかけたが、東大全共闘のポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウどもはへらへらと半笑いを浮かべるのが精一杯だった。

中でもとりわけて不愉快なやつが、学生結婚し、子供がいることをひけらかすべく赤ん坊を抱いて参加し、無礼無作法にも「おれ、つまんねえから帰るわ」とほざき、途中で戦線離脱した「学生C」、つまりは現在、うさん臭く鼻持ちならないことこのうえもない前衛劇団を主催してふんぞり返っているゴミアクタマサヒコである。このたぐいの輩の遺伝子が現在の2ちゃんねるあたりに象徴される「下衆外道臆病姑息小児病」を生んだと断言しておく。

東大全共闘の小僧っこ猿どもが近代ゴリラに必死で「楯突こう」とする姿は滑稽でさえあるが、勝負は近代ゴリラに軍配である。相手は醜の御楯として出立たんとする者だ。志なき小僧っこ猿どもの鈍ら刀など鼻から刃が立つはずもない。

三島由紀夫 VS 東大全共闘 エクリチュールの巨人 VS エゴイズムの群れ 覚悟性 VS 逃走性乃至は放棄性 近代ゴリラ VS 小猿集団 憎悪する母性 VS キャラメル・ママ

この討論集をこのようにとらえ、さらに勝ち/負けという単純な二項対立図式で読み解くのも一興で、あきらかに「志」のちがいがディベートの中身に出ている。

日本国語とも思えぬ未消化の言葉、「砂漠のような観念語」を吐き出す小僧っこ猿どもと、少なくとも「痛みとしての文化」を含めた、たおやめぶり/ますらおぶりの言葉の森を渉猟してきた者との戦いは戦闘がはじまる前から勝敗はわかりきっている。というよりも、そもそも小僧っこ猿どもは土俵にのぼることすらできていないのだ。

たとえそれが「時代錯誤」「勘ちがい」「情死」と下衆外道どもに評されたとしても、三島由紀夫の「行動」はふやけた日本社会に衝撃を与えた。高橋和己をして、「しおからを覆して哭く」と言わしめた「市ヶ谷の自裁」は40年以上を経過したいまも、たとえ市ヶ谷駐屯地が現代建築の粋を凝らした防衛省に変貌を遂げたとしても、その衝撃の意味を失わないし、色あせない。そのことに気づかぬポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウどもは深く反省せねばなるまい。(と、煽っておく。)

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さて、三島由紀夫は四部作『豊饒の海』を書き終えてのち、楯の会会員とともに市ヶ谷に向かったわけだが、私は直前に靖国神社に詣でる彼らと拝殿へとつづく石畳ですれちがっている。

こども心にも圧倒的ななにごとかを嗅ぎとり、特に三島由紀夫本人から蒼白い炎のようなものがゆらゆらと噴き出していたのをおぼえている。そのことを同行の母親に言ってもまともに相手にはされなかった。あのとき、三島から噴き出ていた「蒼白い炎のようなもの」の意味をこそいつの日か解読したいものだ。

ところで、夏の日盛りを浴びてしんとしていた「豊饒の庭」はいま、どのような時間、どのような記憶をたたえているのだろう。縁があれば飯沼勲君あたりに案内してもらいたいと思う。

飯沼勲よ、君はいま、どの滝で水垢離をしているのだ?

【再檄】澄まし顔、したり顔で愚にもつかぬ能書き・御託を並べ立てる団塊老人どもに「1970年11月25日、あなたはどこでなにをしていたか?」と訊ねよ! 視えない自由を射抜く矢を射れ!

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音楽家。文筆家。ストリート・パフォーマー。1938年、パリのバスチーユ地区に生まれる。父はユダヤ系フランス人、母はアルジェリア系フランス人。ジュリアード音楽院でピアノと音楽史を学ぶ。その後、NYのサウス・ブロンクスでアフリカ系アメリカ人の友人らとコミューンを形成し、ストリート・カルチャーに親しむ。住所、居所、生死、いずれも不明。フランス帰国後はコレージュ・ド・フランスの哲学科に編入。ブランショ、フコ、デリダ、ドゥルーズらの影響のもと、「哲学と音楽の批判的融合」をテーマとした論文で学長賞を受賞。ピアノのほか、パイプ・オルガン、アルト・サクソフォン、ギター、ベース、ドラムス、ヴァイオリンの演奏もこなす。主著に『Le Ruisseau de Bach』『HIP-HOP EXISTENCE』『L'ESPACE MUSIQUE』『La MUSIQUE INFINI』『Converso, Marranisme, Morisques, Musique, Reconquista』等がある。
一貫して、「現在性」「匿名性」「偶然性」「縁」「反権力」「反権威」「漂泊」をみずからの創作活動、表現活動の主軸としており、ごくかぎられた人びとをのぞいて、ジャン・ミシェル・ミゴーの素顔を知る者はいない。また、「音楽は本来持っていた現在性、一回性をかなぐり捨てて、楽譜、記録媒体に依存することによって退廃腐敗した。その大罪の主犯は J.S. バッハである」として、演奏を記録することをかたくなに拒みつづけている。ジャン・ミシェル・ミゴーの即興によるパフォーマンスは彼の作品そのものであり、それ以外には、著作をのぞけば「作品」と呼びうるものはなにひとつ存在しない。
ジャン・ミシェル・ミゴーの部屋の壁には、かの鈴木大拙揮毫による「一期一会」の書がかけられているといわれる。また、若き日、参禅を主たる目的として来日したおり、鈴木大拙本人から「未豪」なる号を授けられた。「禅」はミゴーを読み解くキーワードである。ミゴーはこの号がたいそう気にいったようで、サインを求められると必ず「未豪」と記す時期があった。
1990年代末、K. ジャレットとの「インプロヴィゼーション・デュオ」が企画されたが、契約問題、特に「録音」を主張する K. ジャレット側との調整が難航し、企画は立ち消えとなった。記録された音源が公式にはいっさい残っていないため、一部の音楽愛好家のあいだで「リスト以上」とも賞賛されるピアノ演奏の超絶技巧や、エミネム、2PAC、ICE-CUBE、ICE-Tらが涙したといわれるライムを聴くことは不可能な状況である。2000年9月、イーベイ・オークションに、「ジャン・ミシェル・ミゴーのサウス・ブロンクス時代のストリート・ライヴ」と称される音源が出品され、高値を更新しつづけたが、突如として当該オークションは取り消された。オークションの存在を知ったジャン・ミシェル・ミゴー本人からイーベイに対する強い抗議があったためと推測されている。なお、URLは不明であるが、インターネット上で連日、ジャン・ミシェル・ミゴーがアノニマス・ライブ実況をしているといわれ、好事家のあいだではそのサイトを見つけだそうというコミュニティが数多く生まれている。筆者はパリのサンジェルマン・デ・プレ教会で行われたライヴを一度だけ聴いたことがある(ライヴは事前の告知などはいっさいなく、偶然サンジェルマン・デ・プレ教会を訪れたのであった)。そのとき、ジャン・ミシェル・ミゴーは黒マスクをかぶり、全身黒ずくめのジャンプ・スーツでパイプ・オルガンによるオリジナル楽曲、『Jardin Anonyme à Paris / Peur de la Liberté』を演奏したが、テクニーク、表現力、独創性のいずれもがリヒターを軽々と凌駕するものであった。

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