電気羊の夢の跡 『千と千尋の神隠し』-湯女や売春の話 (original) (raw)

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■1.はじめに

某匿名掲示板などを見ていると、『千と千尋の神隠し』の舞台になっている油屋が、売春を行っている場所だということを巡って、過剰な反応を示す人がいまだに多いようです。ちょっとそのあたりについて書いてみました。気がつかなかった人は、読まないほうがいいかもしれません。

ネタバレ注意です。

■2.情報の元は?

情報源と思われるのは、映画評論家、町山智浩氏の記事のようです。

検索して見つかる記事は以下の2つ。

▲記事1 町山智浩インタビュー その2

▲記事2 「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか

これらの記事の情報ソースは、日本版『プレミア』に掲載された宮崎駿監督のインタビュー記事のようです(私は読んでいません)。

引用された監督の発言を見ても、映画の舞台設定に、風俗という視点があったことは確かだと思います。

日本版『プレミア』の2001年6月21日号での『千と千尋』についてのインタビューで、どうして今回はこういう話にしたのかと質問された監督はこう答えている。

「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。

日本はすべて風俗産業みたいな社会になってる

じゃないですか」

以下、宮崎監督はえんえんと日本の性風俗について語るのだが、要約すると、『千と千尋』は、現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので、性風俗産業の話になった、と監督は言っている。

風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサーで、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」というようなことを宮崎監督に話したら、「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうだ。

『「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか』より引用
*引用中の傍線は全て引用者によるものです

まず、『町山智浩インタビュー その2』についてコメントすると、この作品のテーマが「売春」であるというのは、飛躍しすぎですね。

この映画は「もし、お父さんとお母さんがバブルなんかで投資に失敗して破産したら、子供が一生懸命働くんだよ」っていう話でしょ。豚になってしまったお父さんの世代が経済的に失敗したために、日本が現在のような社会状態になってしまった。その中で

女の子たちは売春するしかなくなってしまった、ということを描いてる映画

なんだよ。バブル崩壊後の社会を背負わなきゃならない少女たちへのメッセージではあるんだ。

『「映画秘宝」ができるまで 町山智浩インタビュー その2』より引用

随分と極端な解釈です。そもそも2001年の時点で、今さらバブル批判はないと思います。もっと単純に、現在の日本が飽食や拝金主義、性風俗まみれなことを風刺しているのだと思います。

また、この記事では『空飛ぶゆうれい船』の名を挙げていますが、宮崎駿氏は原画に参加した程度だったと思います(ゴーレムのシーン)。この記事だと、まるで『空飛ぶゆうれい船』が宮崎駿氏の作品であるかのような印象を与えます。このあたりからも穿った見方をしていると感じます。

『「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか』の方は、過剰に反応する人々への反論といった感じですね。湯女自体の話はその通りでしょう。後半の民俗学的な話は面白いですけれど、肝心の作品との接点については、前の記事と似たような話をしているだけで、ほとんど何も書かれていません。

町山智浩氏は記事の中で、こう述べています。

「プレミア」のインタビューで宮崎監督は現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかねばならない現状を語っている。

要するにこれが全てなんではないでしょうか。ここから先どう解釈するかは人それぞれです。常識的に言って、そういう現実の中で安易に流されないで欲しいという願いで作られていると思います。

■3.一般的な解釈

以下は、極端な解釈をしている先の記事への反論です。

「現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかねばならない現状」というのは、女の子たちは売春するしかなくなってしまったという意味ではないと思います。そうでなく、性風俗だらけだということです。都会の駅前に行けば誰でもわかりますね。ネットもアダルトサイトやその宣伝で溢れています。未成年の援助交際なんかも事件としてよくニュースになります。

そういう現状なので、『千と千尋の神隠し』という子供向けアニメにも、そういった問題に対するメッセージを混ぜているということではないでしょうか。カオナシのシーンはそういう解釈も可能です(お金に惑わされるなという話が中心にありますが、あのシーンは芸者の水揚げを連想させます)。

順を追って説明すると、『千と千尋の神隠し』は、映画を通じて、少女に現実社会・大人社会を垣間見させつつ、ちょっとがんばればなんとかなるよ、と応援する作品です(それだけではないのですが)。

千尋が訪れたのは、おとぎの国のように見えるかもしれません。しかし、あそこは実は現実世界の引き写しでもあるのです。カエルやナメクジ、蜘蛛、大根、河などを人間のようなキャラクターとして描く一方で、現実の世界をカリカチュアライズ(戯画化)して、見せているわけです。

わかりやすいところで言うと、湯婆婆は現実の大人を誇張したキャラクターです。でかい顔してる大人、宝石好きな大人、金にうるさい大人、子供を甘やかしている大人。身近にいますよね。みな現実の誇張です。

油屋も現実社会の投影です。描かれていないところで、大人の女性は神様に性的なサービスをしているのかもしれません。ただ、大人は10歳の少女にそういうことを普通はさせないでしょう。実際、千尋は、ぞうきん掛けや、風呂掃除なんかをやらされていたわけです。

そこに、カオナシ(変な人)に狙われるというシーンが入っています。ストーカーに狙われた少女という感じです。これは少女が遭遇しうる危機のひとつを戯画化していると言えるでしょう。

カオナシに対し、千尋はこう答えます。
「欲しくない、いらない」「わたしが欲しいものは、あなたには絶対出せないから」

ここには、お金に惑わされず、千尋のように振舞って欲しいという願いがあると思います。それを印象づけるように、カオナシのお金は、土くれに変わります。釜爺もこう言っています。「わからんのか、愛だ愛」

大人でも気持ちが悪くなるようなカオナシの描写は、意図的なものだと思います。スペクタクルとして描いたということもあるでしょうけれど、あれぐらいインパクトのあるものをやらないと観客の心に刺さらない・残らないだろう、そういう考えではないかと思います。

こんなことを解説するのは野暮だなあと思いつつも、もうちょっと踏み込んで書きます。

この作品に込められた想いのひとつは、「自分を見失わないように」「自分を大事に」ということだと思います。

化け物に食べられるというのは、死や性行為の**<直喩>です。赤ずきんちゃんと同じですね(馬鹿な娘は食べられてしまう)。おとぎ話というのはそもそも残酷で血生臭いものが多いんです。しかし、「食べられる」というのはただそれだけの意味ではありません。現実社会にこれから接していく子供たちが自分を見失わずに、ちゃんと生きていけるようにという意味でもあります。社会の荒波に飲まれるとか、社会に食い尽くされる、社会の悪い部分に毒されてしまう、そういったことの<暗喩>**にもなっていると思います。

そしてそれは、名前を奪われるという作品を貫くエピソードにつながっています。

だいじょうぶ、
あなたはちゃんとやっていける---。
そう子供たちに伝えたい。

ロマンアルバム収録 宮崎駿インタビューより引用

そんな想いの中に込められたメッセージのひとつが、「自分を見失わないようにね」ということです。それを伝えるのが、名前を奪われるエピソードであり、カオナシのエピソードだということです。

まあ、こんな風に書いてしまうと、せっかくの話(名前を奪われるという解釈の幅のある話)がだいなしですし、お説教っぽくなってしまうのですけれど……。

視野をさらに広げれば、これは日本人へのメッセージでもあります。

ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。

歴史を持たない人間、過去を忘れた民族

はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う。

ロマンアルバム収録 「不思議の町の千尋-この映画の狙い」より抜粋引用

伝統や歴史、文化を失いつつある日本は、千が置かれた状況と同じであり、これからどこへ行くのか、どう生きていくのか……。そういった問いかけも含まれていると思います。

これも解釈のひとつです。

■4.余談

あのカオナシは、映画が3時間になってしまうのを、短くするために途中で抜擢されたという経緯があるそうです。制作途中では、カオナシが巨大化して油屋を破壊みたいな展開も考えていたそうです(似たようなことは前作のシシ神でやったというのもありますし、貧乏な神様が行く風呂屋を壊したくなかったみたいなことを監督は語っています)。そのカオナシを単なる悪人として描いてないところが、この作品の奥深さでもあります。おとぎ話としては、カオナシは魔物ということになりますが、虚ろな現代人や心の闇を象徴するような存在ですね(あなたの中にもカオナシはいる、と)。

私は、あのカオナシと千尋が向き合うシーンのきわどさにドキっとしました。子供向けの作品でここまでやるか!という意味です。そして、その後の「ゆるせん」という駄洒落のようなカオナシの台詞に安堵し、思わず笑ってしまうのです。

ちょっと脱線しますが、最近の子供向けの雑誌はひどいみたいですね。小学生の女の子向けの雑誌でも、異性にモテるための特集記事がいっぱいあるようです。モテる髪型とか服装とかスタイルとかしぐさとか……。小学生の頃から、そんなのばっかり見てたら、そりゃ子供もお金を欲しがるようになりますよね……。

宮崎駿監督の発言をいくつか。

現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえている事に気がつくはずだ。
もっとも、ただパニックって、「ウソーッ」としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、

そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかしてしまうだろう。千尋が主人公である資格は、実は喰らい尽くされない力にあるといえる。

決して美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない。

ロマンアルバム収録 「不思議の町の千尋-この映画の狙い」より抜粋引用

次の発言も印象的です。どういうレベルで物語と格闘しているのかがわかると思います。

よく、一番最初の場面で、もしも千尋の横にハクが来なかったらあの子はどうなったんだ?っていう質問をする人もいます。多くの人は、一番困ってるときに誰も助けに来なかったというね、そういう人生を生きてることが多いんだから(笑)。だけど、そこで千尋には来たわけですよね。だから、『千と千尋』っていうのは、それを受け入れることができる人たちの映画なんですよ。まあ、世の中生きてると、そういうこともあるわなんていうね。それまで疑ってかかる人のための映画じゃないですよ。その範囲で自分で

限定して作ったから完成することのできた

映画なんです。

なんであそこでハクが助けに来るの?って、実際でもそういうことは起こってるんであって、ただ気がついてないだけなんじゃないかって、僕なんか思ってますけど。閉ざしていれば気がつかない。

『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(宮崎駿インタビュー集)より抜粋引用

理想を押しつけられていると感じた子供もいたかもしれませんけれど、宮崎駿監督は別に聖人君子ではありません。過去には次のような発言もしています(1990年の発言)。

子供は可能性を持ってる存在で、しかも、その可能性がいつも敗れ続けていくっていう存在だから、子供に向かって語ることは価値がある

のであって。もう敗れきってしまった人間にね、僕は何も言う気は起こらない。と言ってしまうと、ちょっと言葉の上では走りすぎてるのかもしれませんが。

『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(宮崎駿インタビュー集)より抜粋引用

子供向けの作品を作りたいというのは、そういうことだったりします。
突き抜けたニヒリズムの人という感じです。

初めて読んだ時、目から鱗が落ちるような衝撃がありました。