ドンちゃんの他事総論 (original) (raw)

倭国は3人の貴公子、アマテラス、ツクヨミ、スサノオに別けられました。スサノオはイザナミの国に行きたいとアマテラスを訪ねます。倭国の出入り口が九州のアマテルの支配地だったからです。スサノオがアマテルに下ったことで倭国の王はアマテラスとなりました。そこからアマテラスとスサノオの国造りがはじまったのでありました。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

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****0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から** 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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5. 日本の神話 国産みに戻る

6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊

アマテラスの拠点は筑紫の久留米平野でありました。奥地まで海岸線であった有明海はゆっくりと陸地が増して旧石器時代、縄文人、弥生時代と集落の場所が海の方へ延びてゆきます。それでも2200年前は随分と奥まで海が広がっていたことが判ります。

これは別に堆積物によって陸地が増えたのではなく、4500年前から海面がゆっくりと低くなっていっている為であります。海面がゆっくりと引くと、そこに川から流れてきた堆積物が沖まで流されなくなり、そこに留まって陸地が加速的に広がってゆくのです。

アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三国時代は、紀元前473年以降でちょうど平野部が増えてゆく過程でありました。

<s-06-1 筑紫平野生成過程図>

S061

〔筑紫平野生成過程図〕

【図1】「筑紫平野生成過程図」(久留米市史第一巻)。原典は九大教養部地質研究報告第4集(昭和三二 年)。

しかし、アマテラスの御世はそれほど安泰ではありませんでした。今から2200年前に由布山が噴火し、それに続いて九重連山がブルカノ式噴火の活動期に入ります。ブルカノ式噴火とは、比較的長期間活動を休止していて、火口が閉塞されている火山でマグマが活発化して、分離したガスの圧力が増大して、火口栓が飛ばされ、火山弾、火山岩塊、火山灰などが爆発的に放出されるような噴火のことです。

筑紫平野に暮らしていた人々は神の怒りに怖れ慄いたことでしょう。それはもう天地がひっくり返ったことでしょう。

<s-06-2 筑紫平野の情景>

S062

さて、問題はそれだけに終わりません。この筑紫平野は筑紫山地と九州山地に囲まれたいわばお椀の中にあります。その南側の由布山や九重連山が噴火すると、火山灰が積もり平地の農作物をすべて駄目にしてしまいます。そして、雨が降れば、その火山灰は土石流となって筑紫平野に流れ込んでくるのです。もうとても人が住める土地ではありません。その時の大王であったニギハヤヒ(天照)はヤマトへの移住を考えた訳であります。

つまり、筑紫のアマテラスの御世は紀元前5世紀半ばから紀元前3世紀までと限定されたのであります。

一方、もう一人の主人公であるスサノオは、父の伊邪那岐に比べて革新的な人物であったことが判ります。アマテラスが反乱を起こすまでは倭国の王であった伊邪那岐はアマテラスに敗れて倭国の王を奪われます。スサノオは伊邪那岐から倭国の王の地位を譲られ、奪われた土地と権威を奪還する為に兵を起こし、筑紫のアマテラスから奪い返す為に兵を差し向けました。

古事記・日本書紀のどちらもアマテラスは武具を整え、魔除けの勾玉を沢山身に付けてスサノオを迎え討つ準備をしております。スサノオが手勢を連れて高天原にやって来て尼テラスと対峙したことは間違いありません。

スサノオは記紀に書かれているように初めから母の国に行きたいと思っていたのか、アマテラスの軍勢を見て、「これは勝てない」と悟って同盟を申し出たのかは知る由もありませんが、どちらであったとしても状況を判断できる冷静な知略を備えていた革新的な頭脳がなければ、戦いもせずに和議を申し出る行動になりません。

スサノオが高天原に滞在するようになると、田んぼに続く畔を壊して、田に引く水の溝を埋めてしまいます。それに対してアマテラスは罰を与えません。むしろ、田が広がったと良かったと褒めています。さらにスサノオは忌服屋という神聖な機織り小屋に皮を剥いだ馬を放り込み、織女を殺した古事記に書かれております。織姫と彦星、その下にペガサスが逆さに飾る天の星々の謂れを語っているギリシャ神話でも模しているのでしょうか。

紀元前5世紀から紀元前3世紀なら古代ローマ帝国の時代であり、紀元前15世紀と言われるギリシャ神話も確立しており、大陸を渡って伝承が流れてきた可能性も考えられます。

いずれにしろ、畿内の淡路島を中心とした倭国の中心はアマテラスの登場によって九州久留米周辺とする地域に変わりました。同時に高天原は、イザナミの母国である大陸を差す言葉から九州久留米周辺の言葉に変わっていったのであります。当然、葦原中国は淡路周辺のみを差す言葉になりました。

スサノオがアマテラスの下に降り、再び交易が自由になります。契約で土地を譲られたアマテラスの子たちは、その統治にスサノオの力を借ります。古事記の言う畔を壊すとは、スサノオが民を集めて新たに土地を開拓したことであり、神聖なハズの機織りなどの宮殿を新しくしたことを指します。

スサノオの協力で全国から物資と人が集まり、久留米当たりが目に見えて発展したことにアマテラスが非難する訳もゆかず、民の敬意が無冠の弟に集まることを苦々しく思ったことでしょう。

さて、ここで天の岩戸伝説には、二説あります。

1つは、日食を利用してアマテラスが岩戸にお隠れになった。

1つは、火山が噴火して太陽の日を遮った。

日食の観測は中華では夏の時代の義と和という二名の司天官が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑されたという有名な話が『書経』に記されており、紀元前6世紀頃であれば、ある程度の日食の予測ができます。あるいは偶然に噴火した火山の灰で太陽の光を遮ったとも考えられます。

アマテラスは「主は二人要らない」とか言って阿蘇の麓に隠居します。すると、日食、あるいは火山が爆発などの天変地異が起こり、人心は不安を覚えます。古事記では思金神をはじめ、天宇受売命まで多くの神々が登場し、実に比喩的に描かれております。

隠居したアマテラスを古参の神々が策略を巡らし、お帰り頂いたというのが話の全般となっております。ここで登場する尻久米縄(シリクメナワ)は、神社の鳥居などに掛かっているしめ縄であります。

しめ縄はアチラとコチラの境を示す結界であり、神々とそうで無いものを初めて分け隔てたのかもしれません。

いずれにしろ、帰ってきたアマテラスはスサノオの髪と爪を切って小綺麗にすると、旅立ちを祝って罰と称して追放したのであります。

古事記や日本書記では、スサノオの滞在がわずかな印象を持ちますが、実際はスサノオがアマテラスに降ってから10年近く掛けて畿内の民がスサノオの下に集ったと考えられ、スサノオが吐き出した汚物は、有明海(筑紫潟)を埋める土木作業のようなもので数年の事業ではありません。村が町、町から都市へと発展していった過程を、天の斑馬(シマウマのような珍しい馬)を逆剥ぎで神聖な忌服屋(織姫が働く神殿)を壊したと表現したのです。

一方、追放にスサノオが素直に従いました。正確には先代旧事本紀に書かれているように、スサノオを大陸に渡る許可を出し、スサノオは喜んで大陸に渡っていきました。その後で、スサノオを追放したと民に告げれば、体よく追い払ったと判ります。

さて、スサノオが海を渡った先は、イザナミの母国である呉ではなく燕であります。

漢書地理誌、王充が著した『論衡』(ろんこう)に

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)

周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)

成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)

周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

また、秦・漢時代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に

「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

と、倭が燕に属していたという記述が見られます。

周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の時代から秦の時代に至るまで、倭国は燕と国交が深かった為です。

スサノオが燕で目にした光景は、高度な文明で巨大な建造物と立派な宮殿、珍しい品と鉄の武具でした。しかし、その国では何千という兵が殺し合いをする凄まじい残虐な光景も目にしたのです。

敵の民をすべて滅殺するというのは大陸の文化であります。海の民はそんな残虐な真似をする部族はいません。なぜなら、海は危険が沢山あり、いつ遭難するか判りません。戦以外は相互互助が海の民には必要だったのです。つまり、戦士以外を殺すことはなかったのです。凄まじい虐殺にスサノオは目を背け、「もうこんな国は嫌だ」と帰ることを決意します。

先代旧事本紀では、新羅の曽尸茂梨(そしもり)から土の舟を作り、東に渡ったとあります。スサノオの時代が紀元前2世紀以前ですから、新羅も辰国も衛氏朝鮮も出来ておりません。ただ、曽尸茂梨は朝鮮半島の北東の位置にあります。スサノオが朝鮮半島の東側を経由して帰ったという印象を受けます。もちろん、スサノオが新羅との関係を深く印象付けたい為に書かれたのかもしれません。

いずれにしろ、スサノオと大陸の文化が結ばれて、その技術に支えられることによって倭国の王として返り咲くことになります。

愛媛の大山祇神社に鎮座する大山祇神は、『伊予国風土記』逸文に百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとあります。百済から来た神とは誰を差すのか、想像の翼が広がってしまいます。

畿内に戻ったスサノオは丹生氏などの力を借りて畿内を大きく変えた形成期が見受けられます。大和出雲のヤマタノオロチ退治は川の氾濫であり、治水工事の技術がオロチ退治となります。洪水を防ぎ、稲から酒を造って神に奉納しました。治水工事こそ最新の知識なのです。

因みに、酒は『論衡』の記述に、成王(紀元前1000年頃)の時「倭人は鬯草(酒に浸して作製した薬草のこと)を貢す」と書かれており、ずいぶんと古くから酒が日本にあったと推測されます。

次に、淡路から須賀(アスカ)の地に拠点を移したのは、淡路より須賀の地の方が畿内を移動するのに便利だからです。スサノオの伝承を追うと、拠点を次々と移しているのが判ります。しかし、最初の拠点となった須賀の地が重要な意味を持ってきます。クシナダヒメと契り、子を成して、周辺部族を従えてからスサノオは国を広げてゆくことになります。

最初に訪れたのは、おそらく木の国(紀の国)です。

スサノオはクシナダヒメとの子である五十猛神(イソタケル)を伴っていることから、須賀から木の国に訪れたことが判ります。木の国では、新種の種や造船技術を伝え、まず丹生氏を擁護しました。あるいは丹生氏から接触してきたのかもしれません。

和歌山県北東部には、丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)があり、丹生氏の拠点の1つであり、この神社の建立は空海が金剛峯寺を建立するにあたって高野山北西の天野盆地に丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社であります。空海は讃岐忌部氏と関係が深く、空海、丹生、忌部の関係は非常に複雑です。それはまたいずれ話すとしまして、何故、木の国かと断言できるのかと言いますと、紀の川が奈良の交通の要所だからであります。

<1-49 紀の川河口からの航空写真>

149

〔紀の川河口からの航空写真〕(紀の川 万葉香の悠久の歴史と自然の川 国土交通省HPより)

口で言うより写真を見れば、一目瞭然であります。

飛鳥時代の物流はすべて紀ノ川を通じて行われておりました。須賀に拠点を置いたとするなら、蛇行する大和川よりもまっすぐな紀ノ川を通じて淡路と連絡を取る方が楽です。さらに吉野付近を制すると、十津川から熊野川に抜けて熊野に通じます。

熊野信仰の中心の1つである熊野速玉大社は、神倉社を経て阿須賀神社(あすかじんじゃ)に結神(熊野牟須美大神)・早玉神(熊野速玉大神)と家津御子神(熊野坐神)を祀ったとの記述が「熊野権現垂迹縁起」に見られます。

熊野牟須美大神=イザナミ

熊野権現=スサノオ

紀伊の人々がスサノオを深く信仰していたことが伺えます。

南の次は北の山城の国(京都)であります。

京都と言えば、『祇園祭の山鉾巡行』の八坂神社であります。スサノウは牛頭天王(ごずてんのう)として祭られ、蘇民将来など新羅と結び付ける逸話が多くあります。実際、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)などでは、イザナミの国は辰国(後の新羅)ということになっておりますし、スサノオも高天原を追放された後に一度新羅に渡ってから倭国に戻って来ております。古事記・日本書紀の本文には書かれておりませんが、韓の国を強く意識しているのは間違いありません。また、日本書紀の別伝には書かれております。

しかし、ニギハヤヒが大和に移住するのが紀元前2世紀より、スサノオが活躍した時代は100年ほど前となります。朝鮮の辰国が秦の始皇帝の末裔であることより、

秦国=辰国

と名乗っている伝承から言えば、秦国が滅亡したのが紀元前206年であり、朝鮮半島にまだ辰国はできておりません。もしも、スサノオが大陸に渡っているとするなら、その国は辰国ではなく、燕や斉や越であります。

いずれにしろ、スサノオが大陸の武具や技術を取り入れ、丹生氏や忌部氏など大陸と繋がりのある部族を引き連れていました。

さらにその先は丹波であります。

『丹後風土記』によると、今日の大江町有路と千原の地名由来についておよそ次のとおりのべております。

その昔、日子坐王が、丹波国の青葉山(丹後と若狭を境いする)にいたクガ耳の御笠を征討したとき、匹女(ひきめ)という土クモの女酋を追討し、この蟻道の里の「血原」に追い詰め、これを殺害したところだと傳えている。今日の大江町有路(ありじ)と千原(せんばら)である。

さて、ここに出てくる『血原』ですが、大和にも「宇陀の血原」という名称がでてきます。伝承では、吉野入りした神武天皇に敵対する兄ウカシを裏切って、弟ウカシが神武天皇に付き、兄ウカシは自分の仕掛けた罠で悶死した。その死体を切り裂いて流れ出した血が、踝(くるぶし)までつかるほどあり、いつまでも消えないので「宇陀の血原」と呼んだと残されております。

宇陀に隣接する丹生谷には、朱砂含有の露頭した母岩があり、その流出した朱砂が堆積して眞赤に野を染めていたと思われるのです。

朱砂は辰砂(しんしゃ)の別名で水銀の原料であり、不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶であり、古より赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されております。それは堆積して血原と表現されていました。

つまり、丹波国の青葉山の近くに水銀の鉱床があったのです。丹生氏が多くやってきて、丹波や丹後などと言う地名が使われるようになったかもしれません。

さて、日子坐王は『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」とされ、第9代開化天皇の第三皇子と言われます。丹生氏を丹波に連れてきたのが、スサノオなのか、日子坐王か、悩ましいところであります。

丹波には、古代民族が定住地を求めて移動した時に目印となった山が二つあると言われ、1つが三嶽はもと畑山(幡山)といい、もう1つが波賀尾山であります。目印としていたのが波賀尾山であるから、波賀が的(はが)の語源と云われています。

三嶽山の麓には天孫系の大和の神々(タカミムスビ、イザナギ、アマテラス。ニニギ)を祭る神社が取り囲み、波賀尾山の麓には出雲の神々(カミムスビ、イザナミ、スサノオ、オオナムチ、オオヤマクイノカミ)を祭る神社が多くあります。

つまり、福知山あたりが但馬と丹波の境界線であり、北にアマテラスを支持する民が住み、南にスサノオを支持する民が住んでいたようです。ただ、但馬でもスサノオは祭られております。

たとえば、但馬の八坂神社は雄略天皇の御世で祭られており、時代と信仰する神によって祭られる神が代わってきますから簡単に判別できません。スサノオとイソタケルを祭る神社は全国にあり、スサノオの御世でどこまで版図を広げたのか推測が難しいのであります。

たとえば、島根県大田市五十猛町にある韓神新羅神社(からかみしらぎじんじゃ)は、元々五十猛神社の境内社にあったのを移したとあります。名前からして新羅系の神様であります。このように嵐などを起こす荒神のスサノオを祭り、天候に恵まれ、豊漁であるように祈っているのです。

スサノオが自ら広げた所もスサノオ、スサノオの子孫が広げたのもスサノオ、スサノオのように強い男がスサノオを名乗る場合もあり、また、スサノオを信仰する民がスサノオを祭る場合、この石はスサノオさまが剣で切った跡に違いないと思い込みでスサノオを祭る場合、この石はスサノオさまがお座りになった霊源あらたかな石で、石の付近から涌く水には、スサノオさまの霊力が混じっておりますなどと商魂たくましく逸話を捏造する場合などなど、伝承そのものにどれだけの信憑性があるのかさえも判り兼ねますが、神話の中のスサノオ様は倭国の王で間違いありません。

しかし、それでは話になりませんので、視点を変えてみます。

京都府京丹後市の峰山町の扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡は弥生時代前期末(BC300年頃)に発展したと判ってきました。高地性大規模環濠集落ですが住居跡は見つかっておりません。環濠からは、「鉄」「玉」「ガラス」等が出土して、陶ケンとは中国源流の土笛も出土しております。板状鉄斧は、全長5.6㎝ 幅3.4cm、厚2.0㎝、重さ68gのもので、砂鉄系原料による鋳造品です。鉄製品導入期の希少なものです。それらは隣の七尾遺跡からは方形台状墓も見つかっております。山城、大和、播磨といった地方の土器と類似した土器も出土したことから、スサノオの一味が丹波・丹後まで進出したのではないかと思われます。

一方、扇谷遺跡は弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると姿を消します。おそらく扇谷遺跡は、途中が丘遺跡を営んだ人たちと同じ部族で2つの集落の間を行き来しながら、先端技術工房を築いたと思われ、その技術工房を外敵から守るために、環濠を掘ったものと考えられております。弥生時代中期中葉(BC200年頃)以降、ニギハヤヒが大和に入り、スサノオとアマテラスが併合された為に防御の豪が必要なくなり、扇谷遺跡は消え、途中ヶ丘遺跡が繁栄するようになったと思われるのです。

<s-05-2 稲作伝播の版図>

S052

〔稲作伝播の版図〕(Akazawa 1978,佐々木1986による)

さて、スサノオはどこまで北上したのでしょうか。突帯文土器の分布は、紀元前2世紀で越前・岐阜・三河のラインで止まっております。ここより先に北上した可能性は低いでしょう。そして、最終的にスサノオが鎮座したのはどこでしょう。

そこで参考にするのが銅鐸の分布であります。銅鐸は紀元前2世紀から2世紀まで広く分布し、3世紀になると消えてしまいます。時期的に言えば、ニギハヤヒが大和に移って来て広まり、神武天皇が大和を治める頃に消えて往きます。

ニギハヤヒの正式名称は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命となっており、『天照』というアマテラスの天孫族であると同時に、その銅鐸が集中しているのが、『櫛』、『玉』というイザナギが持つ神器も所有していたことを連想させます。つまり、アマテラス、ツクヨミ、スサノオと三ツに別れた国を1つにした倭国の王と考えられるのです。

スサノオが最後に鎮座したのは、オオクニヌシの章で大屋毘古神(オオヤビコ神)は

「須佐之男命(スサノオ命)の居る根の堅州国に行きなさい。 」

と言ってオオクニヌシをスサノオのいる国に行くように進めおります。

銅鐸の分布を見れば、畿内にニギハヤヒが移住していますから、スサノオの末裔はその周辺ということになります。そう考えると『根の堅州国』は、阿波・播磨・近江・尾張の国が候補として上がります。

主観的に考えれば、琵琶湖の東側の近江盆地は湖岸の湿地帯の周りはハンの木やコナラを中心として豊かな照葉樹林が広がり、食料も豊富で肥沃的な土地が広がっておりました。壬申の乱の折りも、近江と尾張の衆をどちらが味方にするかで大勢に大きな影響を与えます。

しかも近江には多賀大社があります。多賀大社の主祭神に伊邪那岐命、伊邪那美命、 摂社(境内社)の延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀っております。

遣隋使・遣唐使で派遣された犬上御田鍬(いぬがみのみたすく)を輩出した犬神族の土地であり、「故、其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也。」と古事記には書かれていることにより、西暦712年には多賀社が実在したということになります。有力な候補地の1つです。

<s-06-3 銅剣・銅戈・銅戈文化圏VS銅鐸文化圏>

S063vs

〔銅剣・銅戈・銅戈文化圏VS銅鐸文化圏〕(井上光貞著「日本の歴史1 神話から歴史へ」より)

そして、もう1つが熱田大社のある尾張であります。ここからも出土数が多くでております。

そして、銅鐸の候補地から外れますが、淡路から冬至のレイラインであり、日が沈む方角という意味で島根の出雲が『根の堅州国』の可能性が残されております。

国譲りで大和の出雲を追いだれたオオクニヌシが、流れ流れ付いたのが、スサノオがいる島根の出雲であったという可能性は非常に高く。

須賀族も一緒に伴って定住したと考えれば、大和の須賀から追い出された須賀氏が、大和の須賀に戻って、「我、蘇り」と蘇我を名乗った理由もはっきりとします。

ここもまた、有力な候補地であります。

いずれにしろ、スサノオは畿内を中心に同盟部族を増やし、アマテラスの国から見れば、由々しき国力を持つ国となっていったのであります。

■天照大神と素戔嗚尊

国を3国に分けて分轄統治することになりましたが、スサノオだけは泣き喚いて統治しようとしません。あまり泣け叫ぶので緑の山は枯れ、河・海が干し上がるほどの干ばつや夏のハエのような辺り一面の悪霊が沸く疫病がはやり、国は大いに乱れます。イザナギはスサノオに聞きました。

「おまえは何をしたいのだ」

すると、スサノオは答えます。

「亡き母の国である『根の国』に行きたい」

イザナギは怒り、スサノオを国から追い出してしまいます。スサノオは仲間と連れ立ってアマテラスの国に向かいます。そして、アマテラスに頼んで根の国に行けるようにして貰うつもりでした。

しかし、アマテラスはスサノオが攻めてきたと思い、鎧を付け、守りの勾玉を多く飾って弓を引いて出迎えます。

「何しに来た」

スサノオは素直に答えました。

「ならば、あなたの心が清く正しいことをどう証明するか」

「誓約をして子供を作りましょう」

スサノオがアマテラスに十拳の剣を差し出して敵意のないことを示します。そして、多紀理毘売命(タキリヒメノミコト)、次に市寸嶋比売命(イチキシマヒメノミコト)、さらに多岐都比売命(タキツヒメノミコト)の三人の娘を人質という養女として差し出します。

そこに応えて、アマテラスは左右の角髪(みずら)を外してスサノオに与え、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)、天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)を養子として与えます。続いてスサノオと共について行く者として、天津日子根命(アマツヒコネノミコト)、活津日子根命(イクツヒコネノミコト)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)も養子として与えました。今でいう目付のようなモノです。そして、アマテラスは言います。

「後から生まれた五柱はわたしの持ち物から生まれたわたしの子です。先に生まれた三柱はあなたの物から生まれたあなたの子です」

と、生まれた神を別けました。

誓約が無事に終わるとスサノオは無邪気に喜びました。スサノオの子は心が清らかなのでか弱い女の子が生まれました。そういう意味でスサノオの心の清さが証明され、両手を上げて「自分が勝った。勝った」と騒ぎます。騒いでいると、体が大きな壁にぶつかりました。

「これはなんだ」

「これは堤防で御座います。そこから水を取って田畑に流しているのです。丈夫に作っておりますから、誰かが当ったくらいでは壊れません」

スサノオは「そうか」というと、思いっきり体を堤防にぶつけます。

すると、堤防にヒビが入り、そこから水が決壊し、田や畑、大嘗(=収穫祭)を行う神殿も水と泥に流されて大無しになってしまいます。

「なんだ。大したことないではないか、は、は、は」

スサノオは決壊した堤防を見ながら無邪気に笑いました。周りの者はアマテラスがどういうのか、息を潜めて待っています。

「あのように泥まみれになりましたが、悪意がある訳ではありません。泥が溝を埋めてしまいましたが、田を広げるのに丁度よいでしょう」

アマテラスは悪い言葉をスサノオに吐かず、困難を糧により良いものにしていくのがあなたたちの努力でしょうと、悪いものを良いものに変えてゆくという「言霊信仰」を説きました。

しかし、スサノオの好奇心は止まりません。

ある時、忌服屋という機織りの家にゆくと、女たちが数人で機織りをやっております。スサノオは興味津々でそれを教わります。そこでスサノオはお礼に珍しい天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入れました。珍しい衣服に女たちは大切な機織りの仕事を止めてしまいます。スサノオに一突きされた女たちはアマテラスの忠誠を忘れ、スサノオに下ってしまいました。

このような恐ろし所行にアマテラスは自ら天の岩屋戸を開き、勅命を持って母里に移られてしまったのであります。するとどうでしょう。高天原が暗くなり、葦原中国もことごとく暗闇に包まれ、朝の来ない夜となってしまったのであります。是に万の神の声が陰暦五月頃の群がり騒ぐ蠅のように沸き立ち、よろずの物の妖が現れたような災害に見舞われたのであります。

これに困った神々は天安の河原に集まり、高御産巣日神の子、思金神に相談したのです。長鳴鳥(ナガナキドリ)を集めて泣かせ、天安河の上流の天の堅石と天の金山の鉄を材料に、鍛冶屋の天津麻羅と伊斯許理度売命に鏡を作らせます。玉祖命に勾玉を連ねた玉緒を作らせ、天児屋命と布刀玉命を呼び、天の香具山の鹿の骨を抜き取って桜の木で占いをさせました。そして、天の香具山のサカキの木を一本抜いてきて、上に玉緒を、中段に八咫鏡を、下段には白い布と青の布を垂らします。その飾ったサカキを布刀玉命が持ち、天児屋命が祝詞を唱え、天手力男神が岩戸のそばに隠れて立ち、天宇受売命が日陰蔓をたすきがけにし、マサキカズラを髪に飾り、手に笹の葉を束ねて持ち、桶を伏せてその上に立って踏みならしました。神懸かりを為して、乳房を晒し、着物の帯を陰部まで押し下げます。神々はどっと湧きました。

アマテラスは何事かと思い、天戸を開いて覗き見ました。

「吾がいなくなり、世界は暗闇に包まれているのに、天宇受売は踊り、八百万の神は笑っているのかとお尋ねになります」

天宇受売は答えました。

「あなた様より貴き神がお座りになったので、喜びに湧き、踊っているのです」

アマテラスは天戸から顔を出して覗き出しました。布刀玉命はそこに鏡を差し出すと光輝く神が映っているのです。おどろいて乗り出したアマテラスを天手力男神が手を取って引き出し、布刀玉命が尻久米縄をアマテラスの後ろに掛けて戻れなくします。アマテラスを高天原にお戻り頂くことができて、世界に光が満ち、思金神一同、八百万の神が胸をなで下ろしたのであります。

さて、アマテラスがお隠れになった原因のスサノオに何ら沙汰しないとはいきません。髪を整えさせ、髭を切り、爪を抜いて、身なりを整えると、スサノオが願っていた母の国へ神の遣いとして遣わすと命じます。スサノオは喜んで根の国を目指します。

(スサノオは根の国のすばらしい宮殿や進んだ文化に心を躍らせます。しかし、恐ろしい殺戮を繰り返す国に嫌気が差して戻ることに決めました。その国の民はスサノオを慕って付いてきます。東から海を渡って戻ろうとしますが、高天原は入れてくれません。スサノオは自分が追放されたことに気づきます。そこで機織り巫女、アマテラスの妹であったツキヨミを訪ねます。ツキヨミはスサノオと禁を犯した罪で伊予の大山津見神に嫁つがされていたのです。伊予で一息ついたスサノオは淡路に戻ることを決めました。スサノオに付き従った幾人かはこのまま伊予に留まります。淡路に戻ったスサノオを大気津比売神が迎えてくれたのです。)

大気津比売神は鼻や口、および尻から食べ物を取り出すとスサノオに差し出します。それを見たスサノオは、

「汚い物を出しやがって」

と怒って、斬り殺しました。

スサノオが殺した大気津比売神が治めた阿波の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれ、実り深い国へと変わってゆきます。しかし、スサノオはそれで満足できません。

スサノオは東に進み、河内湖を遡ると三ッ島がありました。その島にかの地から着いて来た者に与えると、さらに東に進みます。

山を越えると、大きな大きな海(奈良湖)が広がっていました。その地は出雲といい、肥河の上流の鳥髪というところにやってきました。河から箸が流れてきたので、人がいると思い河を上ってゆくと、アシナヅチ・テナヅチのお爺さんとお婆さんが泣いていたのです。そして、二人の間に童女がいたのです。

スサノオは、「汝等は誰ぞ」と問うと、老父は「国津神の大山津見神の子で、 足名椎といいます」と答えます。妻は手名椎、娘の名は櫛名田比売と紹介します。スサノオが泣いている理由を聞くと、河の龍神である八俣の遠呂智が暴れ、娘を生け贄として差し出し、遂に櫛名田比売のみなってしまったと嘆いていたのです。

八俣の遠呂智の目は赤加賀智のように赤くて、体がひとつで、頭が八つ、尻尾が八つ、体には、日陰かずらやヒノキや杉が生えていて、八つの谷と八つの峰に及んでおり、腹は赤い血が爛れているといいます。

スサノオは娘を私に献上するなら何とかしてやろうといいます。しかし、老夫婦はスサノオの名も知りません。

スサノオは名乗りました。

「私は天照大御神の伊呂勢なり、 今、高天原より降り立ちました」

すると、足名椎手名椎は娘を献上しましょうといいます。スサノオは八つの八塩折の酒を造らせて奉納して玉鎮めを行います。そして、かの地の民達を呼び寄せ、河に石を投げて流れを変え、河幅を広げて流れ穏やかにし、土手を作って村を守りました。

玉鎮めのおかげでしょうか。八俣の遠呂智は中々目を覚ましません。しかし、遂に暗雲が立ち込める雨雲がやって来て、目を開けられぬほどの豪雨となり、肥河が血で染まり、流れてきました。スサノオは豪雨の中で十拳剣を抜いて天にかざします。

するとどうでしょう。

天は二つに裂け、蒼天の空から日差しが漏れだしたのであります。スサノオはかの地から持ち帰った都牟刈の大刀を持って来させて、十拳剣で切りつけます。しかし、都牟刈の大刀はびくともせず、十拳剣の方が欠けてしまいました。

「この大刀は八俣の遠呂智の尾から現れた。この大刀を天照大御神に奉じましょう。さすれば、この地に安寧を約束してくれるでしょう」

そう言って都牟刈の大刀をアマテラスに届けさせ、スサノオが下って来たことをアマテラスも喜んでその地の安寧を約束してくれたのです。

さて、これより後に足名椎との約束で出雲国に土地を貰う為に国中を歩いていると、天がどこまでも高い土地に辿りつき、スサノオは空を見上げて声を上げました。

「吾、この地に来て、我が御心があぁ~清々しいな」

スサノオがそう言ったのでの、この地を『阿須賀』と呼ばれるようになったそうです。今でもさらに清らかになり、『アスカ』と呼ばれております。

スサノオは訪ねます。

「この地はどういった土地であるか」

すると、土地の者が申しました。

「昔、イザナギの神が根の国の邪気をそこの海の水で払ったと伝えられております」

「おぉ、そうか」

この清々しい空、清らかな海の水なら然もありなんとスサノオは納得し、この地に宮殿を造ることに決めました。そして、宮殿を造りはじめると、雲が立ち上がり、スサノオはこの雲を眺めながら歌いました。

「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

その後、アシナヅチを呼んで宮殿の責任者にすると、稲田の宮主の須賀之八耳神と名づけたそうです。

こうして、スサノオの国造りがはじまったのであります。

【参考資料】

但馬の八坂神社(豊岡市竹野町奥須井)

由緒には、

人皇21代雄略天皇17年(473)春4月 出雲国土師連ハジノムラジの祖・吾笥アケの部属ミヤツコ、阿故氏人等部属を率いて、阿故谷*1に来たり、清器スエキを作る。阿故は赤土なり。

よって埴ハニを延ばすことを名づけて、蕩ヒクと云う。ゆえにその場所を蕩森ヒクノモリとも云う。(蕩は止呂呂久トロログと云うべし。のち単に蕩と云い、また森とも云う。故に阿故を置く谷を蕩と云う) (式内阿古谷神社・森神社 豊岡市竹野町轟)

五十猛神社

御祭神:五十猛命 應神天皇

配祀:抓津姫神 大屋姫神

合祀 式内社 石見國迩摩郡 國分寺霹靂神社

霹靂神社 別雷神 玉依姫命

島根県大田市五十猛町2348

祭神は素盞嗚尊の御子神・五十猛命。

父神とともに新羅へ天降り、

新羅より埴舟に乗って我国へ帰り来たった神。

その帰路、磯竹村(現五十猛町)の内大浦の灘にある

神島に舟上がり、

父神・素盞嗚尊は大浦港(韓神新羅神社)に、

五十猛命・抓津姫神・大屋姫神の兄妹神らは

今の宮山(当社)に鎮まり給うたという。

韓神新羅神社(からかみしらぎじんじゃ)

祭神:スサノオおよび韓郷山

島根県大田市五十猛町

元々五十猛神社の境内社で、大浦で漁師が増えた事から、大漁と航海安全祈願の為、明治40年(1907年)から2年かけて本殿を大浦に移し、明治43年に拝殿が建てられました。地元では通称「大浦神社」、「明神さん」と呼ばれています。

石見風土記によると延長3年(925年)に創立されました。(五十猛村誌より)

天照大御神(アマテラスオオミカミ)の弟であり、高天原から新羅の国へ天下り、のちに御子、三兄妹(五十猛命(イタケルノミコト、大屋津姫命(オオヤヒメノミコト)、抓津姫命(ツマツヒメノミコト))を連れて五十猛町の神島(カミシマ)に上陸され、出雲の国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したという神話が五十猛町に伝えられています。

かぐや姫の里、それはどこにあったのでしょうか?

竹は今ではどこでもある木でありますが、古来は南洋の植物でわざわざ持って来て育てました。誰もが気軽に持っているかごなどの竹細工は、貴重な技術者のワザだったのです。

瀬織津姫 目次
瀬織津姫(1)大三島の大山積神に消された瀬織津姫
瀬織津姫(2)瀬織津姫の呪い、それとも天照大神の呪い?
瀬織津姫(3)瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たち
瀬織津姫(4)瀬織津姫とかぐやの里

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〔歴史館はこちらへ〕

瀬織津姫(3)瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たちへ戻る

4.瀬織津姫とかぐやの里

かぐや姫の翁は、大筒木垂根王が最も有力と考えられております。

大筒木垂根王は京都府京田辺市の普賢寺(朱智荘)・興戸・飯岡・三山木(佐賀荘)の村々を合わせた「大筒木郷」の地方の長と考えられ、垂根は「竹の根」、筒木は竹と月を連想させます。

現在の近鉄三山木駅の少し南寄りに大筒城佐賀冠者旧館地があり、戦前まで多くの人が竹細工をおこなっておりました。竹細工と言うと日本全国にあるように思われますが、竹は元々南方植物であり、めったに花が咲かない為に、畿内や東北まで竹が生育するのは人の手で運ばれたと考えるしかありません。

時期は特定できませんが、青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡(「縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡)から竹かごが出土しており、竹細工の発祥の地である隼人の故郷・薩摩半島から全国へ持ち込まれたと考えられます。

推古4年(596年)、聖徳太子が道後来浴の折、付近一帯に広がる竹林を見て、住民に竹材の組編みを教えたのが始まりと言い伝えられ、6世紀には一般的にあったと考えられます。

竹細工と言えば、『かごめかごめ』の歌が有名です。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」

籠目は六芒星を表すとか言われますが、籠目は「神具女」(かぐめ)若しくは「神宮女」(かぐめ)という説もあります。しかし、神具の姫はかぐや姫ですから、籠の中の鳥は迦具夜比売命を差しているのかもしれません。

浦島太郎に登場する鶴は翁、亀は瀬織津姫の妹と言われ、浦島太郎は玉手箱を開けてに翁となり、瀬織津姫の妹は竜宮城の乙姫です。竜宮城というくらいですから龍神の住処であり、大三島には龍神が祀られており、四国霊場八十八ヶ寺の第55番元札所 大山祇神社の付近にあったと言われる大山祇神社には大通智勝如来を祀る神宮寺があり、寺の山号は「月光寺」と呼ばれていました。そう、古代大山祇神社の地は竜宮城であり、月の都だった訳です。

瀬織津姫の都であった竜宮城は愛媛にあり、浦島太郎の老いた姿が住吉明神と同じと言われ住吉の翁です。

天の羽衣伝説によると、

月の都から天女として瀬織津姫は天照大神(ニギハヤヒ)と共に畿内に降臨しますが、翁に羽衣を隠されて、現世に留まります。しかし、翁は自分たちの子供ではないと瀬織津姫を畿内から放り出します。穢れた瀬織津姫は月の都に帰ることもできず、丹波(タニワ)に逃れて泣き過ごしました。丹波(タニワ)の人々は、そんな瀬織津姫を神具の姫と祭り上げ、新たな月の都として丹波(タニワ)王国に生まれ変わったのです。

大筒木垂根王は丹波(タニワ)王国の一族であり、中でも天皇家に多くの姫を輩出した息長氏は、拠点を近江の米原当たりに定め、丹波(現在の但馬、丹波、丹後)、若狭、越(加賀・越前)、近江、伊勢、尾張と淀川水域に大きな影響力を持っていました。

また、舒明天皇の和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)といい、母の糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)が息長氏であったことを物語っているように系図に従うのであれば、糠手姫皇女の父は第30代敏達天皇で、母が伊勢大鹿首小熊の女が息長氏となります。

しかし、『姓氏録』未定雑姓右京にあげられる大鹿首氏については「津速魂命三世の孫、天児屋根命の後なり」とありますから、そうなると中臣連の祖神となってしまいます。

意富富等王を祖とする八氏族は息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏とあり、また、継体支持勢力として、和邇(わに)氏、物部氏、大伴氏あるいは阿部氏など、また近江、越前、尾張、秦氏などの渡来人、宇土半島の肥(火)君一族などあげられます。一般的には認知されていませんが、蘇我氏も継体支持勢力に入れても構わないでしょう。

名は体を表しますが、古代の系図は改ざんが激しく、奇々怪々の世界で摩訶不思議であります。

かぐや姫が登場する時代は、壬申の乱(西暦672年)の後と言われ、その理由がかぐや姫に求婚をした名のある五人の貴公子が、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、左大臣:阿倍御主人(さだいじん:あべのむらじ)、大納言:大伴御行(だいなごん:おおとものみゆき)、中納言:石上麻呂足(ちゅうなごん:いそのかみまろたり)の五人であり、彼らは皆、大海人皇子側についた者たちで、大宝律令の701年には高い位をもらっていたからです。

江戸時代の加納諸平という学者の書いた「竹取物語考」では、

石作皇子ー=丹比真人島、

車持皇子ー=藤原朝臣不比等、

左大臣:阿倍御主人ー=阿部朝臣御主人、

大納言:大伴御行ー=大伴宿禰御行、

中納言:石上麻呂足ー=石上朝臣麻呂、

以上の5人と比定して、帝を707年に二十五才で夭折した繊細で感性豊かな文武天皇とみています。

一説には、かぐや姫は「天の香具山(かぐやま)」を象徴するものだというものもあります。

天の香具山と言えば、

「春過ぎて夏来にけらし 白たえの衣干すてふ 天の香具山」 持統天皇

(はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あめのかぐやま)

直訳:春がすぎて夏がきたようだ 白妙の衣が干されているという 天の香久山よ

これは香倶山の曽我氏ゆかりの神社の神官や巫女たちの着ている白装束が、洗濯されて干されている情景でありますが、香具山は神の山ですから、衣を干すという行為が禁忌に触れます。

つまり、天武朝の春が来たと思っていたら、私(天智朝)の夏がやってきて、神の山をいただけたようだという政権交代を歌っているのではないでしょうか。

いずれにしろ、持統天皇がかぐや姫ではないので割愛します。

観音寺(かんのんじ)は、京都府京田辺市普賢寺下大門にある真言宗智山派の寺院であり、山号を息長山といいます。本尊は十一面観音が祀られ、別名を普賢寺、大御堂などといいます。

伝承によれば、白鳳年間(7世紀後半)、法相宗の僧・義淵により創建された観心山親山寺が始まりと伝えられ、天平16年(744年)、東大寺初代別当の良弁が中興したと言われ、延暦13年(794年)の火災以後、たびたび火災に遭い藤原氏の援助によりその都度復興されたが、藤原氏の衰退とともに寺運も衰えたそうです。

同じ敷地内に地祇神社があり、創建由緒など不詳で鳥井脇に掲げる案内(京田辺市教育委員会)には、

「正徳元年(1711)の“山州名跡志”には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二柱がみえる。 明治初めころは、地主神社と呼ばれていた」

とあります。延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社とあり、社名は“クニツカミノヤシロ”、“チギ神社”と呼ばれています。

江戸時代の古書には、

・山州名跡志(1711・江戸中期):鎮守社 堂の西山の麓に在り 社艮(北東)に向く 祭る所 権現大明神、同 右社の北に在り 社同上 祭る所 地主権現

・山城名跡巡行志(1754・江戸中期):地祇神社 同村に在り大御堂西山麓 今権現大明神と云。地主権現の社 同村に在り 式内の社也

江戸後期以降の資料には

・神名帳考証(1813江戸後期)・山城国式社考?・大日本史神祇志(1873・明治初):祭神については記載なし

・神社覈録(1870・明治初):祭神詳ならず(大己貴命は信がたい)

・特選神名牒(1876・明治前期):祭神不詳

・山城綴喜郡誌(1908・明治末):御霊天皇と称して継体天皇を祀り、山王権現と称して神功皇后を祠れり。

などはっきりしないのですが、山城綴喜郡誌には興味深いものがあります。

式内社調査報告は「現在の祭神、活気長足比売(オキナガタラシヒメ=神功皇后)・大国主命・大山祇命とは、上記諸説を集積したものであろう」と記載されているそうです。

お寺の南西方約3kmの山中(京田辺市山王)に鎮座する朱智神社(主祭神:迦爾米雷王,カニメイカヅチ)が当地一帯の総鎮守社であり、当地一帯が息長氏あるいは神功皇后と関係深いことからとも思われることから活気長足比売(オキナガタラシヒメ)を神功皇后としたと思われます。

かぐや姫の里と言われる京田辺ですが、当時、都のあった飛鳥京か藤原京から大和国の京田辺などのかぐやの里へ通うのは不可能であり、讃岐と名付けられた神社がある大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)がかぐやの里であると昭和二十九年に大阪市立大学講師塚原鉄雄氏が発表しました。

飛鳥京と藤原京の位置に示し、大筒木郷と笠縫邑を落とすと、大筒木郷は藤原京から40km近い道のりを行き来することになり、これは大変です。

聖徳太子は斑鳩と飛鳥京を馬で通勤していたと云われ、奈良湖の湖畔を回って田原本町(笠縫神社)を通って約20km程度の飛鳥京を目指したと思われます。そう考えると40km程度の道のりも通えないとは言えません。

<瀬織04-02 藤原京と京田辺の位置関係>

0402

<瀬織04-03 藤原京と飛鳥京>

0403

〔古代史百科事典 道路より〕

江戸時代までこの広陵町は、大和国広瀬郡散吉郷と『和名抄』(930年)に記載されており、讃岐と散吉は同音・同意で同じと考えられます。

『竹取物語』の冒頭に「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」とあり、竹取翁の名前は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれています。翁は讃岐村の長であることがわかります。

讃岐は18代履中天皇の妃の兄にあたる阿波忌部族の一派であった天富命(あめのとみのみこと)の孫である鷲住王(わしずみおう)が、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興し、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構えて讃岐国造になったとされています。

それ以前の善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という記述も見られ、古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の1つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈され、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったとあり、讃岐が竹細工に深い因縁があることが伺われます。

岩波・新潮・講談社の「竹取物語研究書」には、奈良県北葛城郡広陵町の小字(こあざ)は「笠神」であり、讃岐神社(広陵町)と笠神との間には「笠」なる村が存在し、古語拾遺の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑(かさぬいのむら)とあったと思われます。讃岐忌部氏と深い関係が伺われ、大嘗祭などに使用する笠を献上していたのかしれません。

ところで物語では、三室戸斎部秋田(みむろとのいんべのあきた)という人を呼んで『かぐや姫』と名付けさせています。斎部は「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味する古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である忌部氏(いんべうじ)、のち斎部氏(いんべうじ)のことで、文中に堂々と登場しているのですから、斎部氏との関係を今更に疑う必要もありません。

作中の三室は平安時代の歌人・在原業平や能因法師の歌など、多くの和歌に詠まれていることでも知られる奈良県斑鳩町の『三室山』が有力であります。古来から神の鎮座する山とされており、別名を神南備山とも、三諸山とも呼ばれています。聖徳太子が斑鳩宮を造営するにあたり、飛鳥の産土神をこの地に勧請されており、『かぐや姫』の命名に当たって呼ばれたのも不思議な話ではありません。

さて、この広陵町の西には天武天皇も崇拝した龍田大社があります。

アニメ・漫画『ちはやぶる』で読まれた

ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平 17番)

で有名な龍田大社です。

龍田大社は祭神を天御柱命(志那都比古神)と国御柱命(志那都比売神)の2柱を祀り、別名を龍田神・龍田風神とも言います。社伝によると、崇神天皇の御代に凶作が続いたとき、夢でこの風神のお告げをうけて創建され、毎年行われる風鎮祭は、天武天皇(675年)に始まると伝えられる由緒を持っています。

摂社には、神武天皇の即位前にまで遡るこの土地の氏神「龍田比古命」(たつたひこのみこと)と「龍田比売命」(たつたひめのみこと)が祀られています。古くから五穀豊穣・航海安全に霊験ありとして崇敬を集めており、瀬織津姫の龍女神と同じ信仰、同じ龍神姫が祀られております。

龍田大社の俯瞰図を見ると、

<瀬織04-01 龍田大社俯瞰図>

0401

龍田大社に入ると「拝殿」であり、正面に見えるのが「祝詞殿」で、奥に「本殿」です。祝詞殿の両脇には5つの摂社末社が祀られ、末社3社は、上座から天照大御神と住吉大神、枚岡大神と春日大神、高望王のお妃が並びます。奥側の摂社2社には、上座から龍田比売命と龍田比古命が祀られていることがよく判ります。

中臣大祓詞

遺(のこ)れる罪は不在(あらし)と、祓(はら)ひ賜(たま)ひ、清(きよ)め賜ふ事を、

高山の末(すゑ)、短山(ひきやま)の末より、佐久那太理(さくなだり)に落瀧(おちたぎ)つ速川(はやかは)の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神、大海原に持出(もちいたし)なん。

如此(かく) 持出なは、荒塩の塩の八百道(やほち)の八塩道(やしほち)の、塩の八百会(やほあひ)に坐す速開都比咩(ハヤアキツヒメ)といふ神、持(もち)可可呑(かかのみ)てむ。如此(かく)可可呑(かかのみ)ては、気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし) といふ神、気吹(いぶき)放(はなち)てむ。如此(かく)気吹放ては、根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐す速佐須良比咩(はやさすらひめ)といふ神、持(もち)佐須良比(さすらひ)失(うしなひ)てむ。

祓戸四神

四神:瀬織津姫は川の神(水神)、速開都姫は海神、気吹戸主は風神、速佐須良姫は地底(霊界)の神と位置づけられている。

【龍田大社の白龍神社】

風神を祀る龍田大社境内に清らかな水の聖域があり、龍田大社末社の白龍神社があります。龍田大明神の使いとして崇められる白龍大神を祀ります。

【兼六園/金沢神社の龍神祝詞】

高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給う龍王は

大宇宙根元の御祖の御使いにして一切を産み一切を育て

萬物を御支配あらせ給う王神なれば

一二三四五六七八九十の

十種の御寶を己がすがたと変じ給いて

自在自由に天界地界人界を治め給う

龍王神なるを尊み敬いて

眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給いて

愚かなる心の数々を戒め給い

一切衆生の罪穢れの衣を脱ぎさらしめ給

萬物の病災をも立所に祓い清めて

萬世界も 御親のもとに治めせしめ給へと

祈願奉ることの由をきこしめして

六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと

恐み恐み白す

(龍神を憂い、龍神を祀る。切ない祈りが祝詞にあります。)

龍田大社の風鎮祭と同じ頃に始められたのが、廣瀬大社の廣瀬大忌祭であり、『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとあります。これが4月・7月に行われる廣瀬大社の廣瀬大忌祭の起源とされてあります。

廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町川合99)は文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となる所であります。祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を主祭神とし、相殿に櫛玉命(くしたまのみこと/饒速日命)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀られていまするが、本当の祭神は「長髄彦(ながすねひこ)である」とする説も残されています。

その裏付けとなるのが、広瀬神社(廣瀬大社)の斎主に大山中・曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)が任じられたということです。

曽根連(そねのむらじ)は、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)より出た六世孫の子孫とされる広瀬大社の古い神家であり、曽根氏(そねうじ)や中曽根氏(なかそねうじ)の発祥地名の元とされる古代の豪族であります。

曽根氏が祀る神社が大阪府泉大津市曽根町にある曾禰神社であり、祭神は饒速日命、伊香我色雄命、素盞嗚尊、表筒男命、中筒男命、 底筒男命、息長帶姫命とあります。

龍田大社・廣瀬大社共に息長氏と縁が深そうなことが判ります。

龍田大社の「風神祭」、廣瀬大社の「水神祭」、これに往馬大社の「火神祭」を加えて、古来より朝廷の崇敬を受けてきました。

【往馬大社】

往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)

往馬大社(いこまたいしゃ)とも称し、生駒神社(いこまじんじゃ)と通称される。

住所:奈良県生駒市壱分町1527-1

主祭神:伊古麻都比古神

伊古麻都比賣神

氣長足比賣命

足仲津比古命

譽田別命

葛城高額姫命

息長宿禰王

摂社:祓戸社(瀬織津比賣神(せおりつ ひめ))

摂社:生駒戎神社(事代主神(ことしろぬし))

摂社:南末社(伊奘諾社(伊邪那岐命・伊邪那美命)、住吉社(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、猿田彦社(猿田彦神)、稲荷社(宇迦之御魂神))

摂社:水神社(水分神)

摂社:北末社(豊受比賣社(豊受比賣神)、仁徳天皇社(大雀神)、神明社(天照大神)、春日社(天児屋根命)、大山袛社(大山袛神))

英霊殿

観音堂

伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司る神として信仰されている。大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々当社が献上することとなっており、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木(ひきりぎ)が使用されています。

往馬大社も息長氏と縁が深く、摂社に祓戸社の瀬織津姫を祀っていました。

大祓い(おおはらい)と言えば、『中臣大祓詞』が有名ですが、中大兄皇子(後の38代天智天皇、626年~671年)と中臣鎌足(614年~669年)が645年から646年にかけて大化の改新を進め、お祓いは禁止されました。

そして、朝廷が飛鳥より近江大津宮に移った天智天皇八年(669年)、天皇の勅願により中臣朝臣金連【かねのむらじ】がこの地に社殿を造り、『祓戸の大神三神』を祭ったのが『中臣大祓詞』の始まりです。

40代天武天皇(631年?~686年)の時に国家神道が確立され、伊勢神宮の天照大神を頂点として日本の隅々にまで神社を系統付けました。また母の37代斉明天皇(594年~661年)が道教に関心を示し、その他の禁止されていたお祓いが祓除(はらえ)として国家行事にまで昇華していきました。

42代文武天皇(683年~797年)の701年に大宝律令が完成しまします。6月と12月の晦日に朱雀門前の広場に皇子・大臣・官僚などが集まり、中臣氏が取り仕切る中臣神道として大祓えが始まり、6月の大祓えを夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓えを年越の祓(としこしのはらえ)といいました。この呼び方は明治政府によって一時禁止されましたが、宮中では今でも行事が残っています。

かぐや姫の里を調べてみると、

大筒木垂根王が拠点とした京田辺「大筒木郷」、

讃岐造に縁深い大和国広瀬郡散吉郷「笠縫邑」、

と、どちらも里も息長氏と縁が深く、龍田大社、廣瀬大社、往馬大社の3社も瀬織津姫と無関係とはいえません。ただ、淀川水系に近い大筒木郷は息長氏の勢力下であり、大和水系は忌部氏の勢力下であったという点です。

息長氏が近江を中心し、丹波・伊勢・淀川水系を支配地にしているのに対して、忌部氏は出雲忌部・紀伊忌部・阿波忌部・讃岐忌部と分派しており、笠縫邑は讃岐忌部と縁が深いことが伺われます。しかし、忌部氏は天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族と言われるように、様々な式典に重要な役割を持つ一族であり、イザナギと共にした海の民の子孫と思われます。

ニギハヤヒが瀬織津姫を連れて畿内に入り、『はごろも伝説』に残されるように畿内から追い払われ、但馬・丹波・丹後をあわせた古代丹波(タニハ)に逃れ、再び祀られた経緯から、古代丹波の息長氏と忌部氏の結び付きも生まれていたと推測されます。

かぐや姫の原型は瀬織津姫(ニギハヤヒの妻)であり、大王(天皇)に同情しつつも追い出されて、古代丹波(タニハ)の月の都に帰ったというのが伝承で、浦島太郎、はごろも伝説、かぐや姫に登場する翁は、同一人物のように思われます。

その伝承が物語になったのは、藤原不比等が蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)を追い落とし、蘇我、物部、息長、忌部など旧来の一族を排除し、時の名声を占有したからに違いありません。特に藤原道長の時代には、「欠けることもない望月(満月)」と豪語していたと言うのは有名な話であります。

平安時代初期、中臣氏の勢力の伸長下し、祭祀(さいし)執行の職権を縮小されつつありました。そこで旧来の祭祀氏族斎部氏である忌部広成は平城天皇に『上書古語拾遺初旬』というを提出したのであります。

『上書古語拾遺初旬』(※1)には、

「けだし上古之世まだ書き残す文字有らざりしならん。口々に次々と相い伝えたるものならん」

と太安万侶の古事記を説明しております。

安万侶の古事記表文に、

「諸家の持ちたる処の帝記及び本辞はみな、まちまちで正実とは違ってきているので、旧辞を検討して誤っている処は削除して正しき記録をせんとす」

と初めに書き、

「阿礼に勅語して帝皇の日つぎや先代の旧辞を誦み習わせしめるは、名は文命より高く、徳は天乙にまされりと謂うべし、ここに旧辞の誤りあるのをその侭にしては、惜しくも先代のことごとくが間違って伝わらんことを惧れ、あんじてよって先紀の錯誤している点をも統一訂正し、和銅四年(711九月十八日をもって撰録して献上いたすものなり」

と書きしめしております。

(旧辞とは古い書体を意味し、本辞とは当時の使用文字である。)

この古語拾遺には古事記の誤りを改めております。

たとえば、中臣連の祖は天児屋命(あめのこやねのみこと)とあり、系図を辿ると津速産霊神に遡ります。しかし、古語拾遺では中臣朝臣祖と読めます。

どういうことなのでしょうか?

神産靈神(カミムスビ)は『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では神魂命と書かれております。天地開闢の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)・高皇産霊神(たかみむすび)の次に高天原に出現し、造化の三神の一とされています。

まとめると、

津速産霊神(『記・紀』には登場しない) ・・・ 天児屋命 ・・・ 中臣氏

天御中主神(古事記で最初に出てくる神)・・・ 思金神

高皇産霊神(高天原の根本神) ・・・ 布刀玉命 ・・・ 忌部氏

神皇産霊神(出雲系の根本神)・・・少彦名神・ 天忍日命 ・・・ 大伴氏

宇摩志阿斯訶備比古遅神(生命の根源を司る神)・萬幡豊秋津師比売命

天之常立神(高天原を恒久に守る神)・・・・・『神代七代』

と、こんな感じです。

しかし、古語拾遺では津速産霊神(ツハヤムスビ)が天御中主神を始源神となっており、高皇産霊神を長男、津速産霊神を次男、神皇産霊神を三男として天中に存在したとされているのです。中臣氏から別れた藤原氏であるのに、本家の中臣氏・忌部氏・大伴氏すべてが没落しているのであります。

『延喜式 卷八 神祇八 祝詞』(※2)で、

「祭祀の詞は忌部氏、諸(もろもろ)の祭には中臣氏が祝詞せよ。」

と読まれているように、中臣氏・忌部氏共に宮中で無くてならない存在であるのに、不遇を憂いていたことが『上書古語拾遺初旬』から読みとれるのであります。

『かぐや姫』が出典された背景には、忌部氏をはじめとする排斥された多くの部族の怨みつらみがあり、作者は作中を通して「人の怨みつらみもあるまじ」となりたかったのでしょう。

【参考資料】

(※1)古語拾遺 一卷 加序 從五位下齋部宿禰廣成 撰

蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘 書契以來 不好談古 浮華競興 還嗤舊老 遂使人歴世而彌新 事逐代而變改 顧問故實 靡識根源 國史家牒 雖載其由 一二委曲 猶有所遺 愚臣不言 恐絶無傳 幸蒙召問 欲攄蓄憤 故録舊説 敢以上聞 云爾

一聞 夫 開闢之初 伊奘諾伊奘冉二神 共爲夫婦 生大八州國 及山川草木 次 生日神月神 最後 生素戔鳴神 而素戔鳴神 常以哭泣爲行 故 令人民夭折 青山變枯 因斯 父母二神 勅曰 汝甚無道 宜早退去於根國矣

又 天地割判之初 天中所生之神 名曰 天御中主神 次 高皇産靈神 【古語 多賀美武須比 是 皇親神留伎命】 次 神産靈神 【是 皇親神留彌命 此神子天兒屋命 中臣朝臣祖】 其高皇産靈神所生之女 名曰 栲幡千千姫命 【天祖天津彦尊之母也】 其男 名曰 天忍日命 【大伴宿禰祖也】 又男 名曰 天太王命 【齋部宿禰祖也】 太玉命所率神 名曰 天日鷲命 【阿波國忌部等祖也】 手置帆負命 【讚岐國忌部祖也】 産狹知命 【紀伊國忌部祖也】 櫛明玉命 【出雲國玉作祖也】 天目一箇命 【筑紫伊勢兩國忌部祖也】

於是 素戔鳴神 欲奉辭日神 【天照大神】 昇天之時 櫛明玉命 奉迎 獻以瑞八坂瓊之曲玉 素戔鳴神 受之 轉奉日神 仍 共約誓 即感其玉 生 天祖吾勝尊 是以 天照大神 育吾勝尊 特甚鍾愛 常懷腋下 稱曰腋子 【今俗 號稚子 謂和可古 是 其轉語也】

其後 素戔鳴神 奉爲日神 行甚無状 種種凌侮 所謂 毀畔 【古語 阿波那知】 埋溝 【古語 美曾宇美】 放樋 【古語 斐波那知】 重播 【古語 志伎麻伎】 刺串 【古語 久志佐志】 生剥 逆剥 屎戸 【如此天罪者 素戔鳴神 當日神耕種之節 竊往其田 刺串相爭 重播種子 毀畔 埋溝 放樋 當新嘗之日 以屎塗戸 當織室之時 逆剥生駒 以投室内 此天罪者 今中臣祓詞也 蠶織之源 起於神代也】

于時 天照大神赫怒 入于天石窟 閉磐戸而幽居焉 爾乃六合常闇 晝夜不分 群神愁迷 手足罔措 凡厥庶事 燎燭而弁 高皇産靈神 會八十萬神於天八湍河原 議奉謝之方

爰 思兼神 深思遠慮 議曰 宜令太玉神 率諸部神造和幣 仍 令石凝姥神 【天糠戸命之子 作鏡遠祖也】 取天香山銅 以鑄日像之鏡 令長白羽神 【伊勢國麻續祖 今俗 衣服謂之白羽 此縁也】 種麻 以爲青和幣 【古語 爾伎弖】 令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之 以作白和幣 【是木綿也 已上二物 一夜蕃茂也】 令天羽槌雄神 【倭文遠祖也】 織文布 令天棚機姫神織神衣 所謂和衣 【古語 爾伎多倍】 令櫛明玉神作八坂瓊五百筒御統玉 令手置帆負彦狹知二神以天御量 【大小斤雜器等之名】 伐大峽小峽之材 而造瑞殿 【古語 美豆能美阿良可】 兼作御笠及矛盾 令天目一筒神作雜刀斧及鐵鐸 【古語 佐那伎】 其物既備 掘天香山之五百筒真賢木 【古語 佐禰居自能禰居自】 而上枝懸玉 中枝懸鏡 下枝懸青和幣白和幣 令太玉命捧持稱讚 亦 令天兒屋命相副祈 又 令天鈿女命 【古語 天乃於須女 其神強悍猛固 故以爲名 今俗 強女謂之於須志 此縁也】 以真辟葛爲 以蘿葛爲手繦 【蘿葛者 比可氣】 以竹葉飫憩木葉爲手草 【今 多久佐】 手持着鐸之矛 而於石窟戸前覆誓槽 【古語 宇氣布禰 約誓之意】 舉庭燎 巧作俳優 相與歌舞

於是 從思兼神議 令石凝姥神鑄日像之鏡 初度所鑄 少不合意 【是 紀伊國日前神也】 次度所鑄 其状美麗 【是 伊勢大神也】 儲備既畢 具如所謀 爾乃 太玉命 以廣厚稱詞啓曰 吾之所捧寶鏡明麗 恰如汝命 乞 開戸而御覽焉 仍 太玉命天兒屋命 共致其祈焉 于時 天照大神 中心獨謂 比吾幽居 天下悉闇 群神何由如此之歌樂 聊開戸而窺之 爰 令天手力雄神引啓其扉 遷座新殿 則 天兒屋命太玉命 以日御綱 【今 斯利久迷繩 是 日影之像也】 迴懸其殿 令大宮賣神侍於御前 【是 太玉命 久志備所生神 如今世内侍善言美詞 和君臣間 令宸襟悅懌也】 令豐磐間戸命櫛磐間戸命二神守衛殿門 【是 並太玉命之子也】

當此之時 上天初晴 衆倶相見 面皆明白 伸手歌舞 相與稱曰 阿波禮 【言天晴也】 阿那於茂志呂 【古語 事之甚切 皆稱阿那 言衆面明白也】 阿那多能志 【言伸手而舞 今指樂事謂之多能志 此意也】 阿那佐夜憩 【竹葉之聲也】 飫憩 【木名也 振其葉之調也】 爾乃 二神倶請曰 勿復還幸 仍 歸罪過於素戔鳴神 而科之以千座置戸 令拔首髮及手足爪以贖之 仍 解除其罪 逐降焉

素戔鳴神 自天而降到於出雲國簸之川上 以天十握釼 【其名 天羽羽斬 今 在石上神宮 古語 大虵謂之羽羽 言斬虵也】 斬八岐大虵 其尾中得一靈釼 其名 天叢雲 【大虵之上 常有雲氣 故以爲名 倭武尊東征之年 到相模國 遇野火難 即 以此釼薙草得免 更名 草薙釼也】 乃 獻上於天神也 然後 素戔鳴神 娶國神女 生 大己貴神 【古語 於保那武智神】 遂就於根國矣

大己貴神 【一名大物主神 一名大國主神 一名大國魂神者 大和國城上郡大三輪神是也】 與少彦名神 【高皇産靈尊之子 遁常世國也】 共戮力一心 經營天下 爲蒼生畜産 定療病之方 又 爲攘鳥獸昆虫之灾 定禁厭之法 百姓至今 咸蒙恩賴 皆有效驗也

天祖吾勝尊 納高皇産靈神之女 栲幡千千姫命 生 天津彦尊 號曰皇孫命 【天照大神高皇産靈神二神之孫也 故曰皇孫也】 既而 天照大神高皇産靈尊 祟養皇孫 欲降爲豐葦原中國主 仍 遣經津主神 【是 磐筒女神之子 今 下總國香取神是也】 武甕槌神 【是甕速日神之子 今 常陸國鹿嶋神是也】 駈除平定 於是 大己貴神及其子事代主神 並皆奉避 仍 以平國矛 授二神曰 吾以此矛 卒有治功 天孫 若用此矛治國者 必當平安 今我將隱去矣 辭訖遂隱 於是 二神 誅伏諸不順鬼神等 果以復命

于時 天祖天照大神高皇産靈尊 乃相語曰 夫 葦原瑞穗國者 吾子孫可王之地 皇孫就而治焉 寶祚之隆 當與天壤无窮矣 即 以八咫鏡及薙草劍二種神寶 授賜皇孫 永爲天璽 【所謂神璽釼鏡是也】 矛玉自從 即 勅曰 吾兒視此寶鏡 當猶視吾 可與同床共殿 以爲齋鏡 仍 以天兒屋命太玉命天鈿女命 使配侍焉 因 又勅曰 吾則起樹天津神籬 【神籬者 古語 比茂侶伎】 及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命太玉命二神 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉 惟 爾二神 共侍殿内 能爲防護 宜以吾高天原所御齋庭之穗 【是 稻種也】 亦當御於吾兒矣 宜太玉命率諸部神供奉其職 如天上儀 仍 令諸神亦與陪從 復勅大物主神 宜領八十萬神 永爲皇孫奉護焉 仍 使大伴遠祖天忍日命 帥來目部遠祖天槵津大來目 帶仗前驅

既而且降之間 先驅還白 有一神 居天八達之衢 其鼻長七咫 背長七尺 口尻明曜 眼如八咫鏡 即 遣從神 往問其名 八十萬神 皆不能相見 於是 天鈿女命 奉勅而往 乃 露其胸乳 抑下裳帶於臍下 而向立咲噱 是時 衢神問曰 汝 何故爲然耶 天鈿女命 反問曰 天孫所幸之路 居之者誰也 衢神對曰 聞天孫應降 故 奉迎相持 吾名是猨田彦大神 時 天鈿女命 復問曰 汝應先行 將吾應先行耶 對曰 吾先啓行 天鈿女 復問曰 汝應到何處 將天孫應到何處耶 對曰 天孫當到筑紫日向高千穗槵触之峰 吾應到伊勢之狹長田五十鈴川上 因曰 發顯吾者汝也 可送吾而致之矣 天鈿女命還報 天孫降臨 果皆如期 天鈿女命 隨乞侍送焉 【天鈿女命者 是猿女君遠祖 以所顯神名爲氏姓 今彼氏男女 皆號爲猨女君 此縁也】 是以 群神捧勅 陪從天孫 歴世相承 各供其職

天祖彦火尊 娉海神之女豐玉姫命 生 彦瀲尊 誕育之日 海濱立室 干時 掃守連遠祖天忍人命 供奉陪侍 作箒掃蟹 仍 掌鋪設 遂以爲職 號曰蟹守 【今俗謂之借守者 彼詞之轉也】

逮于神武天皇東征之年 大伴氏遠祖日臣命 督將元戎 剪除兇渠 佐命之勳 無有比肩 物部氏遠祖饒速日命 殺虜帥衆 歸順官軍 忠誠之効 殊蒙褒寵 大和氏遠祖椎根津彦者 迎引皇舟 表績香山之巓 賀茂縣主遠祖八咫烏者 奉導宸駕 顯瑞菟田之徑 妖氣既晴 無復風塵 建都橿原 經營帝宅

仍 令天富命 【太王命之孫也】 率手置帆負彦狹知二神之孫 以齋斧 齋鉏始採山材 構立正殿 所謂 底都磐根仁宮柱布都之利立 高天乃原爾搏風高之利 皇孫命乃美豆乃御殿乎造奉仕也 故 其裔 今在紀伊國名草郡御木 麁香二郷 【古語 正殿謂之麁香】 採材齋部所居 謂之御木 造殿齋部所居 謂之麁香 是其証也

又 令天富命率齋部諸氏 作種種神寶 鏡玉矛盾木綿麻等 櫛明玉命之孫 造御祈玉 【古語 美保伎玉 言祈也】 其裔 今在出雲國 毎年與調物共頁進其玉 天日鷲命之孫 造木綿及麻并織布 【古語 阿良多倍】 仍 令天富命率日鷲命之孫 求肥饒地遣阿波國殖穀麻種 共裔 今在彼國 當大嘗之年 貢木綿麻布及種種物 所以 郡名爲麻殖之縁也 天富命 更求沃壤 分阿波齋部 率往東上 播殖麻穀 好麻所生 故 謂之總國 穀木所生 故 謂之結城郡 【古語 麻謂之總 今爲上總下總二國 是也】 阿波忌部所居 便名安房郡 【今安房國 是也】 天富命 即於其地立太玉命社 今謂之安房社 故 其神戸有齋部氏 又 手置帆負命之孫 造矛竿 其裔 今分在讚岐國 毎年調庸之外 貢八百竿 是其事等証也

爰 仰從皇天二組之詔 建樹神籬 所謂 高皇産靈神産靈魂留産靈生産靈足産靈大宮賣神事代主神御膳神 【已上 今御巫所奉齋也】 櫛磐間戸神豐磐間戸神 【已上 今御門巫所奉齋也】 生嶋 【是 大八洲之靈 今生嶋巫所奉齋也】 坐摩 【是 大宮地之靈 今坐摩巫所奉齋也】

日臣命 帥來目部 衛護宮門 掌其開闔 饒速日命 帥内物部 造備矛盾 其物既備 天富命 率諸齋部 捧持天璽鏡釼 奉安正殿 并懸瓊玉 陳其幣物 殿祭祝詞 【其祝詞文在於別卷】 次 祭宮門 【其祝詞 亦在於別卷】 然後 物部乃立矛盾 大伴來目建仗 開門令朝四方之國 以觀天位之貴

當此之時 帝之與神 其際未遠 同殿共床 以此爲常 故 神物官物 亦未分別 宮内立藏 號日齋藏 令齋部氏永任其職

又 令天富命率供作諸氏造作大幣訖 令天種子命 【天兒屋命之孫】 解除天罪國罪事 所謂天罪者 上既設訖 國罪者 國中人民所犯之罪 其事具在中臣祓詞 爾乃 立靈畤於鳥見山中 天富命 陳幣 祝詞 禋祀皇天 徧秩群望 以答神祇之恩焉 是以 中臣齋部二氏 倶掌祠祀之職 猨女君氏 供神樂之事 自餘諸氏 各有其職也

至于磯城瑞垣朝 漸畏神威 同殿不安 故 更令齋部率石凝姥神裔天目一筒神裔二氏 更鑄鏡造釼 以爲護御璽 是 今踐祚之日 所獻神璽鏡釼也 仍 就於倭笠縫邑 殊立磯城神籬 奉遷天照大神及草薙釼 令皇女豐秋鍬入姫命奉齋焉 其遷祭之夕 宮人皆參 終夜宴樂 歌曰

美夜比登能 於保與須我良爾 伊佐登保志 由伎能與呂志茂 於保與須我良爾 【今俗哥曰 美夜比止乃 於保與曾許志侶茂 比佐止保志 由伎乃與侶志茂 於保與曾許侶茂 詞之轉也】

又 祭八十萬群神 仍 定天社國社及神地神戸 始令貢男弭之調 女手末之調 今神祇之祭 用熊皮鹿皮角布等 此縁也

洎于卷向玉城朝 令皇女倭姫命 奉齋天照大神 仍隨神教 立其祠於伊勢五十鈴川上 因 興齋宮 令倭姫命居焉 始在天上 預結幽契 衢神先降 深有以矣

此御世 始以弓矢刀 祭神祇 更定神地神戸 又 新羅王子 海檜槍來歸 今在但馬國出石郡 爲大社也

至於纏向日代朝 令日本武命征討東夷 仍 枉道詣伊勢神宮 辭見倭姫命 以草薙釼授日本武命而教曰 慎莫怠也 日本武命 既平東虜 還至尾張國 納宮簀媛 淹留踰月 解釼置宅 徒行登胆吹山 中毒而薨 其草薙釼 今在尾張國熱田社 未叙禮典也

至於磐余稚櫻朝 住吉大神顯矣 征伏新羅 三韓始朝 百濟國王 懇致其誠 終無欺貳也

至於輕嶋豐明朝 百濟王貢博士王仁 是河内文首始祖也 秦公祖弓月 率百廿縣民而歸化矣 漢直祖阿知使主 率十七縣民而來朝焉 秦漢百濟内附之民 各以萬計 足可褒賞 皆有其祠 未預幣例也

至於後磐余稚櫻朝 三韓貢獻 奕世無絶 齋藏之傍 更建内藏 分收官物 仍 令阿知使主與百濟博士王仁 計其出納 始更定藏部

至於長谷朝倉朝 秦氏分散 寄隷他族 秦酒公進仕蒙寵 詔聚秦氏 賜於酒公 仍 率領百八十種勝部 蠶織貢調 充積庭中 因賜姓宇豆麻佐 【言 隨積埋益也 所貢絹綿 軟於肌膚 故 訓秦字謂之波陀 仍 以秦氏所貢絹 纏祭神釼首 今俗猶然 所謂秦機織之縁也】 自此而後 諸國貢調 年年盈溢 更立大藏 令蘇我麻智宿禰 檢校三藏 【齋藏 内藏 大藏】 秦氏出納其物 東西文氏勘録其簿 是以 漢氏賜姓 爲内藏大藏 今 秦漢二氏爲内藏大藏主鎰藏部之縁也

至於小治田朝 太玉之胤 不絶如帶 天恩 興廢繼絶纔供其職

至于難波長柄豐前朝 白鳳四年 以小花下 諱 齋部首作賀斯 拜祠官頭 令掌叙王族宮内禮儀婚姻卜筮 夏冬二季御卜之式 始起此時 作斯之胤 不繼其職 陵遅衰微以至今

至于淨御原朝 改天下萬姓 而分爲八等 唯序當年之勞 不本天降之績 其二曰朝臣 以賜中臣氏 命以大刀 其三曰宿禰 以賜齋部氏 命以小刀 其四曰忌寸 以爲秦漢二氏及百濟文氏等之姓 【蓋 與齋部共預齋藏事 因以爲姓也 今 東西文氏 獻祓太刀 蓋亦此之縁】

至大寶年中 初有記文 神祇之簿 猶無明案 望秩之禮 未制其式

至天平年中 勘造神帳 中臣專權 任意取捨 有由者 小祀皆列 无縁者 大社猶廢 敷奏施行 當時獨歩 諸社封税 總入一門

起自天降 洎乎東征 扈從群神 名顯國史 或承皇天之嚴命 爲寶基之鎮衛 或遇昌運之洪啓 助神器之大造 然則 至於録功酬庸 須應預祀典 或未入班幣之例 猶懷介推之恨

況復 草薙神釼者 尤是天璽 自日本武尊愷旋之年 留在尾張國熱田社 外賊偸逃 不能出境 神物靈驗 以此可觀 然則 奉幣之日 可同致敬 而 久代闕如 不修其祀 所遺一也

夫 尊祖敬宗 禮教所先 故 聖皇登極 受終父祖 類于上帝 禋于六宗 望于山川 徧于群神 然則 天照大神者 惟祖惟宗 尊無與二 因 自餘諸神者 乃子乃臣 孰能敢抗 而 今神祇官班幣之日 諸神之後 叙伊勢神宮 所遺二也

天照大神 本 與帝同殿 故 供奉之儀 君神一體 始自天上 中臣齋部二氏 相副奉日神 猨女之祖 亦解神怒 然則 三氏之職 不可相離 而 今伊勢宮司 獨任中臣氏 不預二氏 所遺三也

凡 奉造神殿帝殿者 皆須依神代之職 齋部官 率御木麁香二郷齋部 伐以齋斧 堀以齋鉏 然後 工夫下手 造畢之後 齋部殿祭及門祭訖 乃所御座 而 造伊勢宮及大嘗由紀主基宮 皆不預齋部 所遺四也

又 殿祭門祭者 元 太玉命供奉之儀 齋部氏之所職也 雖然 中臣齋部共任神祇官 相副供奉 故 宮内省奏詞偁 將供奉御殿祭 而中臣齋部候御門 至于寶龜年中 初宮内少輔從五位下中臣朝臣常 恣改奏詞云 中臣 率齋部候御門者 彼省 因循永爲後例 于今未改 所遺五也

又 肇自神代 中臣齋部 供奉神事 無有差降 中間以來 權移一氏 齋宮寮主神司 中臣齋部者 元同七位官 而延暦初 朝原内親王 奉齋之日 殊降齋部 爲八位官 于今未復 所遺六也

凡 奉幣諸神者 中臣齋部 共預其事 而 今大宰主神司 獨任中臣 不預齋部 所遺七也

諸國大社 亦任中臣 不預齋部 所遺八也

凡 鎮魂之儀者 天鈿女命之遺跡 然則 御巫之職 應任舊氏 而 今所選不論他氏 所遺九也

凡 造大幣者 亦須依神代之職 齋部之官 率供作諸氏 准例造備 然則 神祇官神部 可有中臣齋部猨女鏡作玉作盾作神服倭文麻續等氏 而 今唯有中臣齋部等二三氏 自餘諸氏 不預考選 神裔亡散 其葉將絶 所遺十也

又 勝寶九歳 左辨官口宣 自今以後 伊勢太神宮幣帛使 專用中臣 勿差他姓者 其事雖不行 猶所載官例 未見刊除 所遺十一也

一 昔在神代 大地主神 營田之日 以牛完食田人 于時 御歳神之子 至於其田 唾饗而還 以状告父 御歳神發怒 以蝗放其田 苗葉忽枯損似篠竹 於是 大地主神 令片巫 【志止止鳥】 肱巫 【今俗竈輪及米占也】 占求其由 御歳神爲祟 宜獻白豬白馬白鶏 以解其怒 依教奉謝 御歳神答曰 實吾意也 宜以麻柄作桛桛之 乃以其葉掃之 以天押草押之 以鳥扇扇之 若如此不出去者 宜以牛完置溝口 作男莖形以加之 【是 所以厭其心也】 以薏子蜀椒呉桃葉及鹽 班置其畔 【古語 薏玉都須玉也】 仍 從其教 苗葉復茂 年穀豐稔 是 今神祇官 以白豬白馬白鶏 祭御歳神之縁也

前件神代之事 説似盤古 疑氷之意 取信寔難 雖然 我國家神物靈蹤 今皆見存 觸事有効 不可謂虚 但 中古尚朴 禮樂未明 制事垂法 遺漏多矣 方今 聖運初啓 照尭暉於八洲 寶暦惟新 蕩舜波於四海 易鄙俗於往代 改粃政於當年 隨時垂制 流萬葉之英風 興廢繼絶 補千載之闕典 若當此造式之年 不制彼望秩之禮 竊恐 後之見今 猶今之見古矣 愚臣廣成 朽邁之齡 既逾八十 犬馬之戀 旦暮彌切 忽然遷化 含恨地下 街巷之談 猶有可取 庸夫之思 不易徒棄 幸遇求訪之休運 深歡口實之不墜 庶斯文之高達 被天鑑之曲照焉

大同二年二月十三日

古語拾遺一卷

(※2)延喜式 卷八 神祇八 祝詞 より

祝詞

凡祭祀詞者 御殿御門等祭 齋部氏祝詞 以外諸祭 中臣氏祝詞

凡四時諸祭不云祝詞者 神部皆依常例宣之 其臨時祭祝詞 所司隨事修撰 前祭進官經處分 然後行之

歴史書、それは時の権力者がその時代に都合のいいことを残した自国の歴史である。しかし、様々な事象と相対的な比較によって歪なひずみを訂正し、真の歴史を見つめるのも歴史の楽しみである。

無限に広がる連想パズル、それが古事記と日本書記の謎であります。

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古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 目次

0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-e726.html

古事記・日本書紀に書かれた神話はどこからきたのでしょう?

畿内、九州、それとも他のいずれかでしょうか?

少し視線を広げて、古事記と日本書記を読み直してみましょう。

1. 古事記・日本書紀のはじまり

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-4ee3.html

古事記・日本書記が編集されたのは8世紀です。日本書紀の在位を逆算すると、神武天皇が即位したのは2600年ほど前になります。縄文人と弥生人が暮らしていた時期になり、東征なんて考えられません。神武天皇の東征はいつごろなのでしょうか?

神話はその先にあります。

2.邪馬台国の都がどこにあったのか?

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/--21a4.html

邪馬台国のあったのは2世紀でした。魏志倭人伝に卑弥呼が使者を送り、倭国の王となりました。2世紀は魏の曹操がローマ方面から取り寄せた知識で帆船の一大革命が起った時代でした。でも、2世紀の倭人は手漕ぎ舟が全盛期で卑弥呼は中華との貿易を独占できるシャーマンなのでした。そして、三韓を征した神功皇后は4世紀の人でした。

3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-74e6.html

古事記・日本書紀を編纂したのは藤原氏、神話を編纂し始めたのは推古天皇の時代でした。物部氏と蘇我氏が活躍する時代の歴史書には、ニギハヤヒが天照であり、物部氏がその子孫であるなんて藤原氏に不都合なものでしかありません。また、聖徳太子の活躍を奪いとった藤原氏にとって不都合な真実でした。

3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-6758.html

古事記や日本書記、そして、神話に書かれている出雲の国譲り、オオクニヌシはアマテラスに国を譲ります。しかし、出雲神話には国を譲っていません。

どういうことでしょうか?

そう、島根の出雲と神話の出雲は別の国だったのです。では、神話の出雲はどこなのでしょうか?

4. 天孫降臨は2度あった

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-6b2c.html

神話をもう一度よく見ると、淡路を中心に不思議な名前が浮かび上がってきます。古事記に書かれている神話は、日本のどこかではなく、ヤマトの国の神話だったのです。

出雲も山戸も須賀もすべて奈良にあったのです。

大和で作られた古事記・日本書記です。大和の神話を元に作られていて当然です。ずいぶんと遠回りをしました。

5. 日本の神話 国産み

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-07dc.html

古事記・日本書記の神話が大和から始まった。淡路島からはじまったイザナギ・イザナミの神話を歴史の遺跡から検証してみましょう。

稲作が日本に入ってきたのは縄文・弥生時代から最近の研究で判ってきました。縄文人は現代人が考えるより広い流通網を持っており、考えるより昔から大陸人が日本に来訪していたのです。

6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-466c.html

倭国は3人の貴公子、アマテラス、ツクヨミ、スサノオに別けられました。スサノオはイザナミの国に行きたいとアマテラスを訪ねます。倭国の出入り口が九州のアマテルの支配地だったからです。スサノオがアマテルに下ったことで倭国の王はアマテラスとなりました。そこからアマテラスとスサノオの国造りがはじまったのでありました。

7. 日本の神話 大国主

別館 瀬織津姫 アマテラスの妻であった龍女神

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-179d.html

瀬織津姫、それは天照坐皇大御神荒御魂と称される天照大神の妻。

しかし、歴史から忙殺されている水の龍女神であり、呪いと祟りをまき散らす悪霊神である。その謎の神を掘り下げます。

古事記・日本書記の神話が大和から始まった。淡路島からはじまったイザナギ・イザナミの神話を歴史の遺跡から検証してみましょう。

稲作が日本に入ってきたのは縄文・弥生時代から最近の研究で判ってきました。縄文人は現代人が考えるより広い流通網を持っており、考えるより昔から大陸人が日本に来訪していたのです。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

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****0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から** 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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4. 天孫降臨は2度あったへ戻る

5. 日本の神話 国産み

八百万の神を祭る日本神話、その神話のふるさとが畿内であると言う仮説は正しいと思います。しかし、その正しさをいくら主張しようとも、仮説が真実になることはありません。歴史というのは、1つの遺跡によって根こそぎ変わることがよくあることなのです。

正史というは結局のところ、最も信じられている仮説、あるいは信じたいと刻の権力者が思う仮説でしかないのであります。

仏教の伝来が百済からもたらされたという史実から稲も文化も人も全部朝鮮半島を通じて日本に伝来したと思われていましたが、現在の歴史では稲は中国の南東部から直接入ってきたと変わりました。

最新のゲノム解析から日本人の祖先は、アジアに入ってきた最初の人類と同じ遺伝子を持ち、大陸や半島で変化した遺伝子とは異なることも判ってきました。いずれ教科書にもそう書き換えられることになるでしょう。

さらにAMS-炭素14年代測定法から鉄が日本に入ってきたのが紀元前10世紀頃であり、中国の殷・周時代(紀元前10世紀)に河北省で中国最古の鉄器の発見と同時期であることも判ってきました。つまり、紀元前20世紀のヒッタイトの製鉄技術が、ヒッタイトの滅亡に伴いユーラシア大陸を横断してインド・中国に伝播した時期(紀元前10・9世紀)と同じなのです。

もちろん、この発表に衝撃はありましたが驚きはありません。日本の縄文人は沖縄や南九州でしか取れない貝殻を北海道の部族が使い、北海道より北の天然アスファルトを出雲の部族が使っている非常に高度な物流システムを持つ人種であり、海を自由に行き来し、ウラジオストックから中華大陸海岸部を縦断し、ベトナムやフィリピンまで交流していたのでしょう。後期石器時代(1万5000年前)から交易システムを持つと思われる倭人が、中華に入って鉄器を手に入れられない訳がないのです。もちろん、鉄の精製技術が日本に伝来したのは紀元後1~3世紀以降を待たねばなりません。また、出雲・吉備など日本全国に鉄の精製が広がるのは6世紀になります。

いずれにしろ、仮説であります。

淡路島の周辺を神話の地と考えること事態、北九州説を説く方にとってあり得ない話でしょうし、阿蘇付近を高天原と考える方にとっても受け入れられないことでしょう。ですが、基本的には、そんな事はどうでもいい話なのです。神話の話ですから、辻褄があるのであれば、北九州説でも、阿蘇説でも、阿波説でも、なんなら半島説でも、大陸説でもいいのです。

少なくとも古事記や日本書記を編集した方々は、百済と新羅を意識した神話構成を行っております。先代旧事本紀では、イザナミの出身は朝鮮の神であり、スサノオは朝鮮を経由して倭国に木々の種を持ち込んだとされております。弁財天や大黒天が元々外国の神であるようですが、それの何が拙いのでしょうか。

一向に構いません。

稲荷神社が百済系の神を祭り、八幡神社や白髭神社などが新羅系の神を祭っていたとしても問題ありません。八幡神社、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社の宇佐神宮の祭神は、八幡大神(応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、神功皇后であり、すべて日本の神だと反論が返ってきそうですが、八幡様はスサノオと言われ、スサノオは祇園さんで牛頭天王とされております。神功皇后もスサノオも新羅の縁の深い方とされております。そして、そもそもお稲荷様は百済系の渡来人が祭っていた神であり、八幡様は渡来系の秦氏(ハタシ)が祭っていた神であります。

秦氏の伝承を信じるのであれば、日本の天皇は古代朝鮮辰国から来た王の一人であり、辰国の由来は、秦の始皇帝が万里長城を建設している際に秦が滅んでしまい、皇帝に連なる一族が朝鮮半島に亡命したことに発します。さらに祖先を見れば、中央アジアの弓月国に遡り、中東のエルサレムから逃れてきたユダヤの民の末裔となるのです。

“かごめ かごめ”の六芒星や卍紋、万字紋(まんじもん)や古代文字がユダヤ文字や宗教儀式と似ていると彼らは主張しているのであります。確かにそう考えると、聖徳太子の隋に送った手紙は、『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや』の命文章も「秦の皇帝であった倭国の天子から現中華の皇帝である隋の天子に送る」という嫌味の籠った手紙になってしまいます。

それはそれでロマンなのですが、真実がどうかは霧の彼方なのです。少なくとも遺跡などから、それらを類するできる何かが発掘でもされるか、遺伝子解析から同一民族であるなどの新事実でも発見されないと議論できません。

しかし、日本の神と外ツ国の神が同じであっても構わないのです。この日本という国は、違う神も同一神として重ねる融合を繰り返すことで融和を繰り返してきたのです。寛容こそ日本の美徳であり、様々な考え方が共存共栄できる環境なのであります。

その話はまた後でする事にしましょう。

今の古事記・日本書記の解釈では、蘇我氏が朝廷で一目置かれる存在であった理由が見当たらないのであります。蘇我氏も須賀を発祥とするスサノオ直系の末裔であるとすれば、蘇我氏に期待するスサノオ縁者の期待を背負ったことが伺われます。藤原氏が必要なまでに蘇我氏を警戒した理由も頷けます。

さらに、消された忌部氏(いんべうじ)、大伴氏(おおともし)など経歴が浮き彫りにする為に阿波・讃岐の実態を明らかにする必要があるのです。その為の仮説なのあります。

■古事記 序文 イザナミの伝承

九州ではイザナミの伝承が非常に少なく、イザナミが九州では縁の薄いことが判っております。福岡・長崎・鹿児島の神社に鎮座し、その他の県は余り見受けられません。

古事記では、イザナミの埋葬地は「出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺の比婆の山に・・・・・・」となっております。日本書記では、紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたといいます。一般的には『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話などから鳥取の因幡が伯伎の国とされます。

ところでアマテラスやスナノオの神社は全国にあり、これを元に全国を統一したなどと言えば、諏訪のタテミナカタも全国を統一したことになりますから無理があります。また、スサノオが九州を統一したなどという説もありますが、実に大味であり、細かい歴史はどうでもいいという感じの土地柄を醸し出しているようであります。

特に九州の高千穂連山は神々しい山々に囲われ、阿蘇の雄大さは正に神々が降ってきた壮大な高天原を想像します。下界との入り口となる菊池地方に王朝が生まれ、北九州と南九州に広がってゆき、天智天皇が都を奈良に移すまで、蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの物語はすべて九州王朝のものであるというのは余りにも大胆な仮説であり、反論の気力も失ってしまいます。しかし、すべてを無視すべきかと云えば、そうもいきません。

九州は大陸との玄関口であり、

紀元前2世紀には、秦の始皇帝の意思で徐福が九州の久留米に渡ってきております。

紀元前473年には、中国の春秋時代に存在した君国の一つ呉(ご)が、越王の勾践により滅ぼされ、国姓は姫(き)を持つ民族が日本列島に渡来した形跡を残す伝承が幾つも各地で残っており、まったく出鱈目という風に一笑できません。その呉の最後の国王「夫差」といい、その子が「忌」であります。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されております。

その渡来したと言われる候補地の1つが、熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近であります。菊池市の旧・七城町にある野間口の大字の名の「神来」(おとど)という地名があります。そこに建つ神来貴船神社は、菊池氏の祖である菊池則隆、あるいは藤原則隆が京都から貴船神社を勧請した折に、「神の降り来せし地とせん」という意思を社名に籠め、「神来」を冠したものとしたと言われます。

“おとど”は『大臣』と語源を同じくし、『大殿』とも書かれます。呉国からの貴人を“おとど”と呼ぶようになったのかもしれません。

さて、その呉人ですが、丹生都比売伝承の伝承には、

「稚目女(わかるひめ)は、江南の呉王国の妹王女として生を受けた。姉王女は大日女(おおひるめ)という。南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、すなわち丹生都比売神の原型となった。稚日女姫を奉載した一族は熊本の八代や嵯峨で水銀鉱脈を見つけ採掘した。」

と残されております。

この稚目女・大日女を祖とする丹生氏は、水銀鉱床を掘る掘り師集団であり、その水銀鉱床の地図を見ますと、

<s-05-1 列島の水銀鉱床郡>

S051

〔列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)

日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。

<s-02-16 古事記に書かれる日本>

S0216

〔古事記の国産み〕

偶然の一致か、イザナギとイザナミの国産みと水銀鉱床の列島線が一致しているのです。そうです。イザナミ神を祭る九州の地域は福岡・長崎・鹿児島、四国は土佐、畿内は熊野に多く見られます。

大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分っております。朝鮮を介さずに、中国南部の呉当たりから日本に持ち込まれたのであります。「呉越同舟」の呉越戦争の時代で滅亡した呉も水田跡が残っており、紀元前450年頃に組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっております。

『山海経』の「海内北経」には倭人が中国東北部にあった燕国に属していたという記述があり、これは紀元前6世紀から紀元前4世紀頃のことと考えられております。

春秋時代の呉国の滅亡から海に逃げ出して、当てもない大海原の先に倭国に漂着し、大量の渡来人として倭国に定着したなどとは考えられません。

当てもなく、海に逃げ出すのは自殺行為です。

紀元前6世紀頃、春秋時代の呉国が建国した頃から倭国との交易がはじまり、水銀鉱床を求めて多くの呉人が渡来し、倭国で呉人によるコミュニティがすでに構築されており、紀元前473年の呉滅亡に伴って、呉の王族を先頭に大量の渡来人がやって来て、大きな変革を齎したと考える方が論理的ではないでしょうか。

■創世

それはむかしむかしの話です。まだ、この島が混沌とし、国もなく、王もなく、ただあるがままに過ごしていた時代の話です。

遠く、遠く、果てしなく遠い大陸にいくつかの国が生まれ、その中の1つの国の名を殷と言ったそうです。その国も周によって滅ぼされ、殷の商王朝と名乗る人々が島々に渡来して、彼らは大変に珍しいものを持ってきたそうです。海を漂流する民、商の人々は島々の珍しいものを気に入って、お互いに人々はもっと珍しいものはないのかと手を広げて取引をするようになったことが商人という語源に始まりだそうです。

その殷を滅ぼした周は300年ほど平穏が長く続きましたが、いろいろな不満が募り、遂に分裂してします。多くの国が分裂し、様々な国々が乱立した時代を春秋時代と呼び、その東の1つに周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国を呉と呼んだそうです。

それは2600年前の頃、紀元節(きげんせつ)の辛酉年春正月、庚辰朔だったかもしれませんし、そうでなかったかもしれません。

大陸の東のその国を治める王は姓を『姫』と言うそうです。王の一族、『姫』の名を持つ者が王の命で不老不死の薬を求めて島々に送られました。島々の人々は取引に応じてくれるのですが、神聖な山々に入ることは認めてくれません。一団は黒潮に乗って北へ、北へと進んでゆきます。そして、不老不死の薬が眠っていそうな竜王の山を見つけて上陸します。しかし、やはり、その土地の人々とぶつかって追い払われました。

その一団のリーダーであった天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)は大変に困りました。

葦原中国の人々は、まだ若く、まだ固まらない、水に浮く油のように判らろうとしてくれない。様々な物資を交換し、種子を与え、話もできるのですが理解して貰えません。

そこで高御産巣日神は一計を案じて、その土地の伊邪那岐(イザナギ)に、まだ幼い妹(イモ)である伊邪那美(イザナミ)に話し掛けさせました。すると、伊邪那岐は心開いてくれたのか、牟古(ムコ、六甲山の麓)を与えてくれました。しかし、牟古には不老不死の薬となる水銀鉱床はありません。

そこで高御産巣日神はさらに一計を案じて、伊邪那岐の興味を引く物を見せながら、伊邪那岐から伊邪那美に声を掛けてくるのを待ちました。大変りっぱな戈を持つ伊邪那美に伊邪那岐が興味津々で声を掛けます。

「そのりっぱな戈はなんでしょうか」

「私をあなたの妻にして下さい。さすれば、この天の沼矛(アメノヌボコ)を授けましょう」

伊邪那岐は大いに喜んで伊邪那美を妻に迎えます。そうして天津神たちは伊邪那岐と伊邪那美にこう言います。

「この漂ってる国を固めて完成させなさい」

伊邪那岐は海(明石海峡)を渡って、オノコロ島(淡路島)の大王(おおきみ)に力くらべを挑みます。鋼鉄の刃を持つ天の沼矛の前にオノコロ島の大王では敵いません。

「参りました。このオノコロ島の大王はあなた様です」

こうして、伊邪那岐は宮殿を建てて、名を改めて淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケシマ)の大王となります。次に伊予之二名島(イヨノフタナシマ)の大王たちに力くらべを挑み、新たな大王となると、伊予の国は愛比売(エヒメ)、讃岐の国は飯依比古(イヒヨリヒコ)、阿波の国は大宜都比売(オオゲツヒメ)、土佐の国は建依別(タケヨリワケ)と子供達に大王として治めさせます。

高御産巣日神たちは念願叶って不老不死の薬が取れる山を掘ることでできるようになりましたが、大陸へと続く道中に筑紫(九州)が横たわります。そこで伊邪那岐に筑紫を治めて貰おうと思うのですが、長く淡道之穂之狭別島を留守にするのは不安なので、日に向かって東の隠伎之三子島(隠岐の島の三つの島、大阪府高槻市)を治めることにしました。隠伎之三子島には、子の天之忍許呂別(アメノオシコロワケ)を大王に据えると、筑紫(九州)に遠征を行います。

伊邪那岐は筑紫の大王たちに次々と力くらべを挑み、筑紫の国に白日別(シラヒワケ)、豊の国に豊日別(トヨヒワケ)、肥の国に建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)、熊曾の国に建日別(タケヒワケ)を大王に据えます。

筑紫を治めるとさらに周辺の伊伎島(イキノシマ=壱岐島)に天比登都柱(アメヒトツバシラ)、次に津島(ツシマ=対馬)に天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)、そして、佐渡(?)を治めさせます。

最後に黒潮に乗って(太平洋を北上して、熊本、土佐、紀伊水道を渡って)大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキヅシマ、紀伊半島)を治め、天御虚空豊秋津根別(アマツミソラトヨアキツネワケ)を大王に据えて帰途につきました。伊邪那岐が治める国を大八島国と呼びます。

大八島を生んで帰る途中で吉備児島(キビコジマ)に建日方別(タケヒカタワケ)、小豆島に大野手比売(オオノデヒメ)、大島に大多麻流別(オオタマルワケ)、女島に天一根(アメヒトツネ)、知訶島に天之忍男(アメノオシオ)、両児島に天両屋(アメフタヤ)を平定し、子供たちを大王として据えました。

淡道之穂之狭別島に戻った伊邪那岐と伊邪那美は、次々と新しい神を生みます。産んだ神の名前は大事忍男神(オオコトオシオノカミ)、石土毘古神(イワツチビコノカミ)、石巣比売神(イワスヒメノカミ)、大戸日別神(オオトヒワケノカミ)、天之吹男神(アメノフキオノカミ)、大屋毘古神(オオヤビコノカミ)、風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオノカミ)、海の神の大綿津見神(オオワタツミノカミ)、水戸神(ミナトノカミ=港の神)である速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)、妹の速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)等々です。

最後に、火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオノカミ)を生みました。 別名を火之炫毘古神(ヒノカガビコノカミ)、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)といいます。

この火の神を生んだことで、伊邪那美は『ほと』(御陰、陰所、女陰)を火傷して死の苦しみに襲われます。その苦しみから脱糞し、糞から生まれたのが 波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)と波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメノカミ)、 失禁し、尿から生まれたのが

弥都波能売神(ミズハノメノカミ)と和久産巣日神(ワクムスビノカミ)、 和久産巣日神の子供は富宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)です。そして、伊邪那美は黄泉への国へと旅立ったのです。

伊邪那岐と伊邪那美が生んだ子は、14島、35柱神でありました。伊邪那美の遺体は出雲国と伯耆国の境にある比婆山(ヒバノヤマ)に葬られました。

妻を失った伊邪那岐はこれに怒り、十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて、迦具土神(カグツチノカミ)の首を切りました。これでまた様々な神が生まれます。

さて、伊邪那美が死を迎えたのは、紀元前473年のことでした。死んでしまった伊邪那美は『姫』の国の姫でありました。イザナミの国である呉は100年余り続きましたが、越王の勾践により滅ぼされます。生き残った亡霊たちは、海を渡ってかの地に渡来します。亡霊たちは火の国(肥の国、熊本)の菊池に漂着したと伝えられます。その亡霊たちの中に美しい二人の姫がおりました。姉姫の名を丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)と言います。妹姫の名を稚日女姫(ワカヒルメノミコト)といいます。

筑紫の国(久留米)を治める大王である大日孁貴神(オオヒルメノムチノカミ)は、それを聞いて確かめにいきました。そして、姫の美しさに見惚れて妻に娶ったのであります。丹生都比売命は大日孁貴神の女となり、大日女姫(オオヒルメ)と名を改めました。

伊邪那岐の元に伊邪那美は黄泉が返ったと聞き付けて、伊邪那岐はすぐに筑紫に赴きます。伊邪那岐は大日女姫を人目見て好きになってしまいます。そして、求婚を申し込ました。大日女姫はすでに大日孁貴神の妻なので一晩待ってほしいといいました。

その夜、伊邪那岐は待ち切れずに迎えにゆくと、大日女姫と高御産巣日神が話しているのを聞きました。二人は、どちらを夫に迎えるのが黄泉の国を造るのに良いかと話していたのです。この国を乗っ取ろうとする陰謀でありました。

伊邪那岐は剣を取って二人に襲い掛かります。

二人は兵を呼んで伊邪那岐を食い止め、伊邪那岐も兵を集めて大きな戦いとなりました。そこに筑紫を治める大日孁貴神が駆け付けます。

「この者たちは、この国を乗っ取ろとする不埒者である。共に討たん」

「伊邪那岐さまは私を妻にと申されて、断られると剣を差し向けたのです」

大日孁貴神は父国である伊邪那岐と妻の言葉のどちらを信じればいいか迷いましたが、伊邪那岐が大日女姫を妻にしたいという噂を聞いていたので、妻の言葉を信じることにしました。

伊邪那岐の兵は皆強く勇猛でしたが、大日女姫から貰い受けた武器を身につけた大日孁貴神の兵も強靱と化します。しばらく、伊邪那岐が優位でしたが、多勢に無勢で徐々に劣勢になってゆき、遂に伊邪那岐は兵を引いたのです。

伊邪那岐が負けたという噂は、光より早くこの島々に伝わります。伊邪那岐に味方しようという者がいなくなり、伊邪那岐は追って来る黄泉の軍勢から必死に逃げたのです。

九死に一生を得た伊邪那岐ですが疲れて歩けません。そこで(吉備の国で)木になっていた桃を食すと、わずかばかりの力がみなぎってきて、伊邪那岐は国に戻ることを決めました。

淡路の近くまで来た伊邪那岐ですが、海を渡ろうとせず、そのまま日に向かって歩き続けます。このまま国に帰って、どう皆に云えばいいのか判らなかったからです。

小戸を抜けて、山を越えると橘が生える美しい湖畔が広がります。伊邪那岐は檍原(アハキハラ)の湖に入って水をすくうとで 禊祓 ( みそぎはら ) い 給 ( たま ) います。

すると、心の靄が晴れて、身を心も穏やかになります。

そうして、伊邪那岐は淡道之穂之狭別島の宮殿に戻り、皆にこう言いました。

「吾は、大日孁貴神と力くらべとして負けた。よって、筑紫の国を大日孁貴神に譲ろうと思う。この日出る『日の国』を末の素戔嗚に、日没する『夜の国』を愛比売の月夜見命(瀬織津姫)に、黄泉と通ずる『海の国』を大日孁貴神に譲るとする」

そう申して伊邪那岐は大王を素戔嗚に譲られました。

これを筑紫の国の高御産巣日神が聞くと、

「(大陸から向かって)日出る国を総べる大日孁貴神こそ、天照大御神(アマテラスオオミカミ)である。対をなす夜の国を治めるのは月読神である。(淡路の周辺の)海の国を治めるのが素戔嗚ではないか」

と間違いを正された。

【国産みの解釈】

稲がいつ伝来は、弥生時代の初めの紀元前4~5世紀と推定されていたが、弥生時代の土器に付着している「ふきこぼれ」の放射性炭素を加速器質量分析法(AMS法)によって測定したところ、考えられていたよりも500年も時代をさかのぼるという結果が出ました。同時期の古墳から鉄器が見つかっており、鉄も紀元前10世紀頃と今はされております。

紀元前10世紀は周の時代であり、呉は周の諸侯の1つとして長江下流を治めておりました。呉と倭人が交流をしていたのは、前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年~97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書に、

「第八 儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

第十三 超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

第十八 異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。」

と残されており、霊草などを貢ぎに来る倭人がいたことを書き遺しております。

さらに、呉が滅亡後に倭国に渡来した形跡として、唐の時代の張楚金という歴史家が残した『翰苑』(カンエン)という歴史書に、

「…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。」

と書き遺しております。

どこまで信憑性があるかは別として、春秋時代の呉国の民の様々な伝承も残されていることより、倭国においてそれなりの地位を占めていた事だけ疑いようもありません。

紀元前10世紀の倭国に国という意識はなく、各地方に散らばって各部族が住んでおりました。しかし、交流は密に行われ、物々交換の交易が盛んでありました。その地域ごとに長(おさ)と呼ばれる大王(おおきみ)がおり、大王は外敵から仲間を守る戦士であると同時に、火山が噴火した場合や病が流行したときなど、神々の怒りを鎮める祈祷師としての役割を持っておりました。

大王は決して支配者としての王ではなく、生きる為の互助的な共同体のリーダーでしかありませんが、大王の命令で数十、数百の部族が動き、数百、数千の民が言うことを聞くというカリスマ的な存在でした。

数十隻の船がイルカの群れを湾内に追い詰めるイルカ漁は、真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡)から発見された大量のイルカの化石によって数十の部族が集まって真脇の縄文人のイルカ漁が行われていたことを証明しております。

大王という存在は戦士でもありますから強さも求められます。戈や剣や盾や鎧は戦士の証であり、大王となれる資格のようなものでした。

紀元前10世紀くらいに大陸と交易を行っていた倭人は、霊薬や貝殻やヒスイなどを貢ぎ、鉄や青銅や天然アスファルトなどの道具を得ていたと思われます。その貢物の中に水銀も含まれていました。しかし、水銀などを掘削する技術は倭国にはありません。その山師の技術を持った丹生氏の祖先が、水銀を求めて倭国に渡来したことでしょう。

周が衰退し、呉の諸侯が王に昇格し、呉が国力を蓄えると、組織的な一団を送ったと思われるのです。しかし、それは越の国、斉の国、燕の国も同じでありますが、伝承にほとんど残っておりませんが、越の遺跡郡に倭国の青銅によく似た剣などの遺跡、漢書に紀元前300年ころ斉の一族が土井ヶ浜に渡来して、「東鯷人」と呼ばれたと残されておりますなどの歴史書の中に少し覗かせております。しかし、残念ながら日本の伝承には出てきません。おそらく、呉の祖先を名乗る丹族と秦の祖先を名乗る秦族(百済系・新羅系を含む)に習合されてしまったのでしょう。

特に呉が越に滅ぼされたことにより、王族の渡来と大量の難民発生が伝承として残された原因かもしれません。さて、水銀鉱床を求める一団、強力な武器を持つ伊邪那美と出会うことで、伊邪那岐は大王になれたのではないでしょう。さらに大陸の土木技術や様々な種子と薬草の知識は、収穫の安定と病の治療に役立ちます。

本来、大王が一柱神として担うものですが、伊邪那岐が戦士、伊邪那美が巫女という分業によって二柱神となりました。

元々、殷の時代は、女性の地位が高く、『姓』という感じが、『女』と『生』で作られるように、女性の系図が使われておりました。系図が男性で書き示すようになったのは周の時代以降であります。巫女の『巫』は、「かんなぎ」と呼ばれ、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指します。男は『覡(げき)』と呼ばれ、巫女を見守る者です。古代において遺跡の土偶(どぐう)を見ても女性の地位が高かったと思われます。また、生まれた子供を育てるのは母方の一族で行います。少なくとも日本では平安の時代までその風習が続いております。

古事記・日本書紀が編纂された飛鳥時代において、伊邪那岐が先に声を掛けるのか、伊邪那美が先に声を掛けるのか、どちらが先などという疑問は中国の影響を受けた「男尊女卑」、「男不言内、女不言外」を意識したのかもしれませんので、後に書き加えられた可能性も強く、解釈が間違っている可能性も否定できないのです。

伊邪那岐は戦いを挑み、淡路の1人、四国で4人、三島で1人、九州で9人、紀伊半島で一人と最低でも16人の大王と戦ったのでしょう。古事記には14島、35柱神と書かれているので、49人と戦ったのかもしれませんが、数は問題でありません。伊邪那岐は10年くらい、あるいは世代を超えて100年近く掛けて14島を治めます。その版図が水銀鉱床の分布図と同じなのは偶然とは思えません。

いずれにしろ、丹生族は水銀を掘り、伊邪那岐の海族はそれを運ぶという相関関係を築いていったと思われます。

<s-05-2 稲作伝播の版図>

S052

〔稲作伝播の版図〕(Akazawa 1978,佐々木1986による)

突帯文土器の分布を見れば、縄文晩期(BC1000~BC200)に西日本まで広がっていることが判ります。また、水田の伝来である弥生時代前期(BC400~BC200)の遺跡郡も西日本に広がり、弥生時代中期(BC200~0)になって関東・東北へと広がっています。

これを前提とすると、鉄が伝来した紀元前1000年から紀元前473年以前に伊邪那岐・伊邪那美の国が淡路島に誕生したと思われます。伊邪那岐が遠征して各地を治めるのに要した時間を考慮しますと、紀元節の2600年前というのはあながち嘘ではないのです。

紀元前473年以降になると、呉の国が滅亡して劇的な変化を齎します。すなわち、アマテラスの登場であります。天照と言うのは後に送られた諡号(しごう)でありますから、本来の名前が判りません。

伊邪那岐が九州を制圧していたと仮定すると、伊邪那岐は九州の前大王の娘を妻に貰い受けて、その子が次の大王になっているハズです。大王は神、あるいは神の代理人であり、神から生まれる子も、また神と考えるからです。もちろん、実力主義でありますから、子の中でも最も優れた者となります。

アマテラスは伊邪那岐の子であり、大王の一人だと考えられます。呉から逃げてきた呉王の姫は外つ国(とつくに)の神の娘でありますから、アマテラスが妻に迎えるのに不足はありません。天照の妻は、天照女(アマテラスメ)となり、大日女(おおひるめ)と称されることになります。これは天の岩戸の前で踊ったアメノウズメが、猿田彦の妻となり、猿女(サルメ)と呼ばれるのと同じであります。

大陸の呉国は、日没する国の先ですから黄泉の国と解釈できます。

呉の姫の一団は、王族が持つ門外不出の技術を数多く齎しました。たとえば、織物の技術です。大日女の妹である稚目女(わかるひめ)が古事記では、天の服織女(はたおりめ)とされています。蚕から作る絹は、シルクロード(絹の道)と呼ばれたようにローマ帝国と秦・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易の道の名であります。中華の帝国は絹の製造方法を秘伝として海外に漏れることないように隠しておりました。

その貴重な技術が呉王族の渡来か、秦の王族の渡来の際に日本に来たと推測されます。呉服の語源となっている呉国の渡来人が有力候補であるのは間違いありません。

その他にも鉄製の武器なども多く持っていた呉の姫を妻に貰うというのは、技術的にも、軍事的にも大きな力を持つことになります。

伊邪那岐が妻を迎えていったのは、そういった意味であります。

アマテラスも簡単に申し出を受け入れる訳もいきません。実際、伊邪那岐とアマテラスの戦争であったというのが古事記・日本書記に書かれる黄泉の国の戦いの顛末でしょう。それではアマテラスが黄泉の国の王になってしまいます。

もしも、伊邪那岐の跡を継いだ素戔嗚が倭国の王として、アマテラスを討伐していたなら古事記・日本書記の内容はまったく違うもので、アマテラスに送られる諡号(しごう)は、黄泉とか、死霊とでもなっていたかもしれないのです。

いずれにしろ、戦に負けた伊邪那岐は、アマテラスの追っ手を払って逃げてゆきます。そして、吉備に入ると桃源郷と詠われる『桃』は邪気を払うとされますので、伊邪那岐がこれより先に黄泉の軍が来ないように植えたのが吉備の桃のはじまりかもしれません。

伊邪那岐は淡路島に還ることなく、日に向かって逃げてゆきます。

おそらく、伊邪那岐は本当にアマテラスを恐ろしく思い、淡路まで襲ってくると思い、さらに東に逃げるつもりだったのでないでしょうか。

大和葛城山は2時間くらいで登ることができ、比較的登り易い山であります。景観は遠く小豆島まで見渡すことができ、振り返ると大和盆地が一望できる絶景の観光スポットであります。生駒山でも小豆島まで見渡すことができるのですが、感覚的に登るのなら葛城山のような気がします。

そして、いつまで待っても淡路を襲うアマテラスの舟はやって来ず、肩の力も落ちた伊邪那岐が山を下りて、奈良湖の湖畔で禊をしてから淡路に帰参したというのが『檍』と『橿』が同じ意味を持つ漢字という推測から導いた情景であります。

こうして、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三国時代がはじまったのであります。

さて、伊邪那岐が追って来ると思っていたアマテラスですが、伊邪那岐ばかりに構ってられないというのが実情でありました。

紀元前5世紀(春秋時代)と言えば、鉄器が増える時期に当たります。その主な輸入元は燕の国であり、遺跡の出土時期は朝鮮半島南部より日本の方が早く出現しております。

「燕の鉄は倭人が運ぶ」

と記録に残されているように、燕の国とは浅からぬ関係でした。また、燕の隣国である斉の国とも交易があり、一番問題となる呉の敵国である越と倭国の交易がありました。大陸の玄関口である九州では、燕、斉、越と交流のある部族が住んでおり、筑紫の国が呉国になることに快く思わない勢力もあったのです。筑紫の国のアマテラスはそれらとも交渉、あるいは戦う必要がありました。

また、四国の伊予の国は愛比売と呼ばれ、元々瀬織津姫が治めていたと伝わります。この姫にも『織』の字が使われていることから織姫と縁があるようです。古事記では、稚日女命(わかひるめ)を天服織女(あまのふくおりおんな)され、

「天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし時、其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。」

と、あっけなく死を貰う不幸な女性であります。

丹生都比売伝承では、この大日女と稚日女命の二人の姉妹が呉王の太伯の血を受け継ぐ姉妹であるとされているのであります。

福岡県久留米市の高良大社の「干珠満珠型三韓征伐」譚を載せているの『高良記』には、「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」と題した系図があり、「稚日女命」から「天日神命」まで四十四代の名前が並んでいるのであります。この稚日女命は、丹生都比売神社の御由緒で天照大御神の御妹神さまで神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されましたとされています。

因みに「干珠満珠型三韓征伐」譚というのは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話であり、海幸彦・山幸彦の元ネタとしか思えません。

この逸話と似ているのが、與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町大字川上1 )は、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」であります。

與止日女神社の由緒には、御祭神に與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられております。豊玉姫と言えば、玉依姫の姉神であり、干珠満珠とも例えられる姉妹神で、豊玉姫は潮満珠(しおみつたま)でした。

では、竜宮城の乙姫は瀬織津姫(亀)の妹でしたから、姉の大日女(おおひるめ)が瀬織津姫となってしまうのです。これはニジハヤヒ(天照)と瀬織津姫(月読)の関係と同じであります。語呂合わせで言えば、『月読』は『憑く黄泉』とも呼べます。

愛媛の大山祇神は、伊邪那岐神・伊邪那美神が神産みをした子で、百済から渡って来られたという説もありますが、百済ではなく呉国なのではないでしょうか。愛比売の妻に、妹の稚日女命を嫁がせ、呉国の民を住まわせた。そこには竜宮城と呼ばれる異国の建物が立ち並んだというのが物語の本末であります。

当然、四国の有力者である愛比売を取り込めば、筑紫のアマテラスは淡路の伊邪那岐への牽制と大きな後ろ盾を手にすることになります。

筑紫のアマテラスは、愛比売のツクヨミの娘である瀬織津姫を妻に迎えるというのが1つの慣例となっていたと思われます。

古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

で説明しましたが、もう一度簡単に説明します。

筑紫の大王であったニギハヤヒ(天照)はヤマトへ東征し、ヤマトの主になります。慣例に従って瀬織津姫を妻に迎えていましたが、第15代応神天皇(おうじんてんのう)の御世で不都合が生じます。応神天皇の母は、三韓征伐を成し遂げた神功皇后(じんぐうこうごう)でありましたが、応神天皇の権威を高める為には、神功皇后が天照大神であり、倭王の卑弥呼であったとする方が神々しくなります。

そこで応神天皇は、

天照大神=神功皇后=倭王卑弥呼

としてしまったのであります。

アマテラスが男神であれば、月の女神である瀬織津姫である大日女が存在してもおかしくありませんが、神功皇后がアマテラス(女神)となると、大日女も神功皇后であり、瀬織津姫が存在することが矛盾になるのです。そこでトヨウケビメを丹波から召喚して、アマテラスの世話役としてしまったのです。

それゆえに、古事記では天服織女として死を賜り、日本書記では月読を保食神を剣で切り殺します不埒者として、「もう会わない」と別れてしまいます。

さらに、愛媛に大山祇神社が勧請されて瀬織津姫の神社は封印され、全国で瀬織津姫の痕跡を消す為に他の神々と祭神を変えさせました。

こうして、瀬織津姫の抹殺を第15代応神天皇の御世から明治天皇の御世まで永遠と続けているのです。

因みに、與止日女神社から分社したのが、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)を祭る與杼(よど)神社(京都市伏見区淀本町167)であります。神社には、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であり、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると書き示されてあります。名を変え、姿もない『與杼様』でありますが、瀬織津姫を慕う民の心は、蜃気楼の彼方にぼんやりとその姿を映すように淀川の語源ともなって今も多くの人々に愛されているのであります。

いずれにしろ、偶然か、意図的かは別にして平成29年、西暦2017年は紀元節の2677年であり、国産みの神話は紀元前夜の物語であります。

イザナギがイザナミと交わって力を手に入れ、倭国の王として君臨しました。しかし、紀元前473年以降になると、呉の国が滅亡すると呉の王族が海を渡り、南九州に上陸し、その土地の王と契って天照一族が生まれ、イザナギの時代は去り、アマテル、ツクヨミ、スサノオの三貴公子の時代へと移っていきます。

神話をもう一度よく見ると、淡路を中心に不思議な名前が浮かび上がってきます。古事記に書かれている神話は、日本のどこかではなく、ヤマトの国の神話だったのです。

出雲も山戸も須賀もすべて奈良にあったのです。

大和で作られた古事記・日本書記です。大和の神話を元に作られていて当然です。ずいぶんと遠回りをしました。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

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****0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から** 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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〔歴史館はこちらへ〕

3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

4. 天孫降臨は2度あった

1966年(昭和41年)に平城宮東南隅の「式部省関連地域」と呼ばれる遺構地域(奈良県奈良市佐紀町)から出土した木簡のひとつに破斯 清通(はし の きよみち)と書かれたペルシャ人の官吏がいたことが、2016年10月5日に奈良文化財研究所から発表された。

書かれていた文字は、

「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」

とあり、木簡には、

大学寮解と書かれ、これは式部省直轄下の官僚育成機関から出されたものと言う意味であり、警護の武者を「滝口」と呼び、滝口は御所に宿直するが、昇殿は許されず、宿直する者は蔵人がとりつぎ、滝口はその姓名を名のる。これを宿直申(とのいもうし)と言う。員外は定員外で任じられたこと(員外官)・特別職であり、大属は大学寮の四等事務官にあたる下級官吏で表わすので、

“天平神護元年(765年)に破斯清通は員外大属(いんがいだいさかん)の宿直申(とのいもうし)という役職に付いた。”

という意味になります。

聖徳太子の側近、秦氏の先祖は弓月君(ゆづきのきみ)であります。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔であると書かれております。

弓月の由来は三カ月にあり、弓月国はシルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えたキリスト教国であり、古代イスラエルの人々は離散したあとキルギスの北部のエニセイ川源流あたり(現在のカザフスタン北部)に弓月国を立てたとも言われております。

真偽のほどはともかくとして、ユダヤの星(六芒星)、男子が13歳になると成人を迎える儀式が同じであるとか、カタカナとヘブライ文字には形と読みが同じものや似ているものがあるとか、日本の三種の神器があるがようにイスラエルにもユダヤの三種の神器があるとか、古来より国際色豊かな倭国でありました。

日本書記は、中国の正史として司馬遷の著した『史記』と対抗して、倭国の正史を定めた史書であります。その史書を書き留めるのに置いて、様々な文献が調べられたことは間違いありません。

正確かどうかはともかく、エジプト神話やギリシャ神話も調べたことでしょう。

エジプト神話の太陽神ラーは、日中はハヤブサの姿をして天を舞い、夜は雄羊の姿で夜の船に乗り死の世界(夜)を旅するとされているとして、男神のイメージが強くあります。同じく、ギリシャ神話に登場するアポロンも男神であります。

一方、ギリシャ神話のアルテミスは、月の女神であり、女性と月のサイクルには深い関係があります。

体にとって最も自然なサイクルは新月に排卵し、満月に月経を起こす、およそ28日周期で起こるそうです。満月になると出産が多くなるという言い伝えがありますが、現代において、そう言った統計は出ていません。

しかし、世界には色々な言い伝えが残っており、

・女性は一人で満月を見てはいけない。

・満月を見ると妊娠するから見てはいけない。

・満月の費に妊婦は産気づく。

・満月の夜は凶悪な殺人事件が増える。

・満月になると女性はネガディブな考え方になる。

・満月の日は生物の成長が活発になる。

と、色々残されておりますが、何の根拠なる統計も逸話も残っておりません。

しかし、実際に人間以外の対象なら、たとえば、ウミガメの産卵が満月に多いことは確認されております。

古代の女性はシャーマンとして、様々な天候を占ってきました。邪馬台国の卑弥呼も船出の刻を告げる巫女であります。

月の満ち欠けが海に大きく影響するのは、古代人でなくとも判ります。海の民は太陽神よりも月の女神にこそ信仰神を集めておりました。

しかし、日本書記では、天照大日霎尊(アマテラスオホヒルメ)と書かれており、太陽神は女神となっております。古事記には男神とも女神とも記述されていません。

一方、月読命に関しては、日本書記も古事記も性別に触れている箇所はありません。わずかに日本書記では月読命が剣を持っているので男神とされていますが、スナノオを高天原に迎えるときにアマテラスも剣を下げておりますから、余り触れるべきではないのでしょう。

前章でも少し話ましたが、

(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

アマテラスは時代と共に変化し、男神であった時期と女神であった時期の双方が存在するのであります。

つまり、

アマテラス=ニギハヤヒ=男神

アマテラス=ヒミコ=神功皇后=女神

神功皇后が三韓征伐(さんかんせいばつ)あるいは新羅征伐を行った4世紀は、北九州の邪馬台国を併合した世紀でもあります。その子、応神天皇(おうじんてんのう)の御世から魏国から送られたと伝えられる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などが、大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土するようになります。

また、日本書記には神功皇后と邪馬台国の卑弥呼が同一人物であるかのように書かれております。しかし、現実には100年以上の開きがあり、神功皇后と卑弥呼が同一人物であるハズもないのですが、神功皇后を神格化することで、王朝の権威を高めることを狙ったと思われるのであります。

<s-02-28 天照大神は時代と共に、男神となり、女神となる>

S0228

その方針は、応神天皇の皇子である第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)、仁徳天皇の孫にあたる第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)へと受け継がれていきます。この雄略天皇の御世でアマテラスは女神であると落ち着いたのであります。

神功皇后の神格化にとって、不都合な存在となった月の女神であった瀬織津姫は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)として葬り去られ、全国にあった大山祇神社や瀬織津姫神社や籠神社の祭神を大山積神や彦火明命などに替えてゆく作業が、朝廷の勅命で明治の御世まで続いているのであります。

このように古事記・日本書記が綴る神話の時代は、都合よく改竄されている為に、解読が難解となっております。しかし、1つ1つのピースを分解し、再構成すれば、そこに真の正史がぼんやりと浮かんでくるのであります。

■淡路の伊弉諾神宮のレイライン

伊弉諾神宮の境内に表参道から御本殿に向かう途中、二の鳥居をくぐって左側に日時計のモニュメントが立っており、その横に『ひのわかみやと陽の道しるべ』という碑石が立っております。

このモニュメントには、春・秋分、夏至、冬至の日の出・日の入のレイラインが書かれており、淡路の伊弉諾神宮から見て、春・秋分の日の出とは伊勢神宮から昇り、対馬国一宮の海神神社に日が沈むでゆきます。同じように夏至の日の出は諏訪大社から昇り、日の入は高千穂の天の岩戸に沈みます。そして、冬至の日の出は熊野那智大社から昇り、日の入は出雲大社に沈みます。

<s-03-01 ひのわかみやと陽の道しるべ>

S0301

〔ひのわかみやと陽の道しるべ〕(日本のレイラインを伊弉諾神宮で考える 人生は白い犬(=尾も白い)HPより)

偶然というにはあまりにもできた配置に驚き、誰がこのように壮大な構想を作ったのかと疑うかもしれません。しかし、これは偶然でもなく、そして、特定の誰かが画策したものでもないのであります。

古代の倭人は中華大陸東海岸から日本全土、北はオホーツク、南は沖縄・台湾まで自由に海を行き来しておりました。天候と風向き、暦と天体の動きは彼らにとって重要なファクターであり、当然、その1つである太陽の通り道であるレイラインを読み説くことも簡単なことでした。周囲を見渡す高い山は倭人にとって聖地であり、その山々を結んで方位を知ることが縄文人・弥生人にできたのであります。

古代の倭人にとって神々は火山・地震・雷・火事・疫病と同格であり、それらは益を為すものであると同時に呪いでもありました。

たとえば、戦に負けたとします。

現代であれば、地形・天候・戦力・戦略・戦術など様々な要因で勝敗が決すると考えますが、古代の人々は戦に負けるのは神々の力を得られなかったからだと考えます。つまり、自分達を率いた大王(おおきみ)が神々を粗末にしたから呪われて負けたと考えるのです。

祖神であるイサナギ・イザナミ神を祭ることは、様々な凶事から逃れる唯一絶対の手段なのでありました。新たな土地に移り住んだ大王は、最も神格が高まる夏至・冬至・春秋分の日に太陽が昇る。あるいは沈む方向に大宮を建てて祖神を祭ったのであります。

これは、古事記や日本書記が編纂される藤原京の時代まで続き、それ以降はアマテラスやスサノオ、歴代の天皇などの祭る神々が混在し、菅原道真や平将門など様々な神々が祭られるようになってゆきます。

ですから、淡路の伊弉諾神宮を中心に主要の神宮などが日本全国各地に広がったのではなく、アマテラス族やスサノオ族が淡路島から出て広がっていった結果、自然と生まれたのであります。

古事記や日本書記に書かれている国産みの神話は、島根の出雲に国譲りがなかったことから、日本全国を対象とした神話ではなかったことが判ります。よって、古代の神話の原点は、淡路島を中心としたもっと狭い地域なのです。

それがどこかと言えば、『ひのわかみやと陽の道しるべ』にひっそりと書かれております。

■淡路は八州の要、元熊野の諭鶴羽神社

淡路島最高峰の山、諭鶴羽山(ゆづるはさん、標高607.9m)は、唐の天台山の霊神が九州筑紫国・英彦山の峰に降臨され、伊予の石鎚山に渡られ、淡路国・諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵(神倉)の峯へ渡られたとされる。淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある淡路最高峰の山であります。古名に譲葉山とも言われ、この諭鶴羽山は大坂湾、瀬戸内海、紀伊水道を眼下に、泉、播、讃、阿、淡、紀、備などの八州が一望できます。その山頂から南側に約400mに鎮座するのが諭鶴羽神社であり、『ひのわかみやと陽の道しるべ』に伊弉諾神宮の南方の神社として記載されています。

なぜ、古事記・日本書紀で最初に淡路島が書かれているのか?

それは淡路島が大坂湾、瀬戸内海、紀伊水道の中央に位置し、泉、播、讃、阿、淡、紀、備などの八州を治めるのに適した土地であったからです。つまり、神話の舞台はこの八州であることを物語っているのであります。

<s-03-02 伊弉諾神宮を中心としたレイライン>

S0302

この淡路島の伊弉諾神宮から夏至のレイラインを伸ばすと、東は兵庫県尼崎市の生島神社(祭神:生國魂大神)に当たります。この生島神社は大阪にある生國魂神社の元宮と言われ、祭神の生島大神(いくしまのおおかみ、生嶋大神)、足島大神(たるしまのおおかみ、足嶋大神)は、古事記・日本書記に書かれていない神々であります。しかし、長野県上田市下之郷にある神社の生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)も同じ神を祭っていることより、スナノオ・オオクニヌシらに縁の深い神であることが伺われる。

さらに遡ると、摂津国嶋下郡の伊射奈岐神社(大阪府吹田市山田東二丁目三番一号)に当たります祭神は伊射奈美命であります。万国博会場になった地域に隣接する高庭山に伊勢斎宮女倭姫の御示教により、大佐々之命が五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀せられたと社殿に残されているようです。雄略天皇二十二年は、豊受大御神を伊勢にお移しになった年であり、何故、この地に伊射奈美命を祭ったのかと非常に興味深く思われるのです。

さらにレイラインを遡ると、三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)に当たります。主祭神は大山祇神と事代主神であり、仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたと伝えられております。事代主神は、八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通ったとされますが、三島と姫を聞いて、ニギハヤヒと瀬織津姫を思い浮かべない人はいないでしょう。

また、熊鰐(ワニ)と三島で連想するのは因幡の白兎ではないでしょうか。

古事記に出てくる隠岐は、隠伎之三子島(おきのみつごのしま)と書かれております。この淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが因幡の白兎であります。

古代の三島鴨神社は、現在の位置と鴨神社も候補地と言われております。また、三島鴨神社の絵図が淀川縁を描いているのあれば、「三島鴨神社」は淀川縁の三島江にあった事になります。

<s-03-08 摂津名所図会「三島鴨神社」>

S0308

〔摂津名所図会「三島鴨神社」〕(歴史倶楽部166回・高槻より)

三島鴨神社に纏わる加茂、鴨、賀茂神社 延喜式には、人皇四十六年代孝謙天皇の御世に玉安姫命が隠岐に入り、隠岐の賀茂那備神社(島根県隠岐郡西郷町大字加茂)を祀ったとされており、三島鴨神社との縁もまったくない訳でもないようであります。

さらに古代の三島鴨神社の地は、河内湖の一部であり、大阪湾と繋がっていた小さな三ツ島でした。その対岸に佐奈部神社(さなべじんじゃ)があり、その地は茨木市稲葉町といいます。この社伝にこの地が稲・麦を打ち落とす農具・佐奈を制作する部民のことを残せれ、稲に纏わる民の地であったことが判っております。稲葉(いなば)と因幡(いなば)、単なる偶然と思われますが、非常に興味深い因縁を感じずにはいられません。

いずれにしろ、この三ツ島にあった三島鴨神社の大山祇神が大島に移されるのですから、非常に重要な島であったことは間違いなく、隠伎之三子島とはこの三ツ島でしょう。

<s-03-09 河内湖と巨椋湖と奈良湖>

S0309

生島神社・伊射奈岐神社・三島鴨神社という創建が古い神社のすべてが、イザナミ・スサノオ・ニヒハヤヒを祭っているのです。この方面がイザナミ・スナノオに関連する土地であったという形跡のみが残っております。

さて、夏至のレイラインを西に伸ばすと徳島県美馬市脇町字西大谷674)四国八十八箇所総奥の院、四国別格二十霊場二十番札所の大瀧寺があります。この大瀧寺の右脇に鳥居があって、階段を上ると西照神社があります。この西照神社の縁起は、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降りてきた天孫は高天原に移り、祖国並に大八州国を統治し、月読尊は夜の食国を統括し、見晴のいい大嶽山から東大和紀伊の動向を看視せよと書かれております。

祖国、大八州国、夜の食国がどこにあったのかは議論の余地がありますが、少なくと東大和紀伊ではないことが伺われます。

夏至のレイラインを終えて、春秋分のレイラインも見てみましょう。

■伊弉諾神宮と伊勢神宮を繋ぐレイライン

<s-03-03 伊弉諾神宮から春秋分のレイライン>

S0303

春秋分のレイラインを辿り、大阪湾を渡ると和泉郡に出ます。和泉郡には住吉大社を始め、和泉五社(いずみごしゃ)など、初代神武天皇の東遷、神功皇后の三韓征伐とゆかりの深い神社が多くあります。

一宮 大鳥大社(堺市西区鳳北町)は、大鳥から想像されるように日本武尊を祭る神社であります。

二宮 泉穴師神社(泉大津市豊中町)は、祭神が天忍穗耳尊と栲幡千千姫命であり、 天忍穂耳尊は農業の神であらせ、栲幡千々姫命は紡織の神であらせます。

三宮 聖神社(和泉市王子町)御祭 神聖大神、四宮 積川神社(岸和田市積川町)御祭神 生井神、栄井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神、五宮 日根神社(泉佐野市日根町)御祭神 鸕鷀草葺不合尊、玉依姫尊と特に変わった神はありません。

総社 泉井上神社(和泉市府中町)は、御祭神 天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神とあり、社殿には、200年(仲哀天皇9年)に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、当地を行啓した際に突如として泉が湧き出、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったというと残されております。それこそ方位違いの方違神社(ほうちがいじんじゃ)といい、神功皇后に纏わる伝承ばかりで神話とはまったく縁のない話であります。

少し変わった神社と言えば、夜疑神社(やぎじんじゃ、岸和田市中井町)であり、祭神を布留多摩命とし、古代地方豪族八木氏の氏神として創建されたというくらいです。

海岸部を諦めて、少し奥に入りますと葛城山が見えてきます。そこから奈良盆地に入って蘇我の地である飛鳥・明日香に入ります。そこから山深くなり、奈良と伊勢の境界となる三峰山(みうねやま)が見えてきます。この三峰山の北側には御杖神社(みつえじんじゃ)が建っており、久那斗神・岐神(くなどのかみ)、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)の三神が祭られております。久那斗神は杖を表わし、八衢は境界を表わします。ここから聖域なのか、ここまでが聖域なのか、その意味は計りかねますが、ヤマトタケルの尊もこの境界を超えることができなかったのでしょう。

そして、レイラインはいよいよ伊勢神宮を目指します。

まず最初に『伊勢三山』〔堀坂山(ホッカサン)757m、白猪山(シライサン)820m、局ヶ岳(ツボネガタケ)1029m〕の1つ局ヶ岳(つぼねがたけ、三重県松坂市)が見えてきます。この三山は

伊勢市の方角から見ると、これら3つの山が同じ位の高さに並んで見ることができるそうです。ここを抜けると伊勢神宮です。

ところで、

伊弉諾神宮と伊勢神宮のレイラインの15km北側に、興味深いラインが存在します。NHKで紹介された「知られざる古代~謎の北緯34度32分をゆく」であります。

伊勢久留麻神社-大鳥神社-箸墓古墳-檜原神社-大坂山(穴虫峠)〔二上山〕、

-三輪山-長谷寺-春日宮天皇妃陵-斎宮跡-神島

この北緯34度32分のラインも「元伊勢」と呼ばれる檜原神社や神聖な山として崇められた二上山など実に興味深いものがあります。

万葉の時代から神聖な山として崇められていた二上山には大津皇子などが眠り、歴代の天皇も二上山を大切な山と扱っております。この二上山(ふたかみやま)と同じ名を持つ山が日向の神話に出てくる二上山(ふたがみやま)であります。

日向神話では、五ヶ瀬町と高千穂町の境に二上山(ふたがみやま) と呼ばれる信仰の山があり、標高1,060メートルの山頂は男岳と女岳の2つの峰に分かれ、高千穂町から遠望する山容は、2つの峰がそびえ立って特に秀麗である。ニニギノミコトは、大勢の神々を引き連れて、この山に天下ったと伝えられております。

同じ名を持つ山があったことが偶然なのか、それとも當麻山口神社(奈良県葛城市當麻1081)が天孫降臨のニニギノミコトを始めとする八柱を祭神としていることが必然なのか、実に興味深いことでありますが、そのことはまたいずれにしましょう。

さて、西に向けると小豆島が見えます。

今が香川に属する小豆島ですが、古代は吉備に属しておりました。小豆島の中央北部にある星ヶ城山(ほしがじょうさん)には、阿豆枳神社が祭られおりますが、それ以外に特に気が付く伝承はありません。

一番問題なのが、冬至のレイラインであります。

■スナノオが創った木の国

和歌山は高野山や熊野がある聖域であり、神聖な土地なので伝承に事欠きません。

『木の国の始まり』は、

はるかな昔、素盞嗚尊は我が瑞穂の国に有功な木らしい木のないのに気がついた。 有功な木とは、家屋などの材料として、また果実のなる木々のことである。 そこで鬢髭を抜いて息を吹きかけ杉の木種をつくつた。次いで胸の毛を抜いて檜の木種を、尻の毛を抜いて槙の木種を、眉の毛を抜いて楠の木種をつくった。 そして、御子の五十猛命、大屋津比賣命、抓津比賣命の三神を呼んでこういった。

「この木種を植え育てよ。杉と楠は舟をつくるのに用い、檜は家をつくるのに、槙は棺をつくるのに用いよ。」

三神は早速その木種をこの地に植えつけた。これが「木の国の始まり」である。

五十猛命、大屋津比賣命、抓津比賣命の三神を祭る神社は、

伊太祁曽神社 (和歌山市伊太祈曽) 祭神 五十猛神

大屋都姫神社 (和歌山市宇田森59) 祭神 大屋都比売命

都麻津姫神社 (和歌山市平尾957) 祭神 都麻津姫命

上小倉神社 (和歌山市下三毛508) 祭神 手置帆負命

和歌山市の紀ノ川の下流域に集まっております。

冬至のレイライン上にあるのは、名草山(和歌山県和歌山市紀三井寺)でしょうか。

紀ノ川の下流に神武の東征に名草戸畔(ナグサトベ)との戦いが残されております。名草山は名草戸畔を慕う一族が神の山として崇めております。しかし、これは神話とは関係ないでしょう。

いずれにしろ、『木の国の始まり』の伝承を信じるならば、木の国を作ったのはスサノオとなります。

『日本書紀』には「一書に曰く」として次のようなことが書かれています。

一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇 素戔嗚尊 乃以天蝿斫之劔 斬彼大蛇 時斬蛇尾而刃缺 即擘而視之 尾中有一神劔 素戔嗚尊曰 此不可以吾私用也 乃遺五世孫天之葺根神 上奉於天 此今所謂草薙劔矣 初五十猛神 天降之時 多將樹種而下 然不殖韓地、盡以持歸 遂始自筑紫 凡大八洲國之内、莫不播殖而成青山焉 所以 稱五十猛命 爲有功之神 即紀伊國所坐大神是也

**訳:スサノオの行いがひどかったので、神々はスサノオを高天原から追放した。

スサノオは、その子五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅の国のソシモリに降るも、「この土地にはいたくない」と、土で船を造って、それに乗り、海を渡ってしまう。

**着いた所が出雲の国の鳥上山。そこに人を呑む大蛇がいた。

**スサノオは天蠅斫剣(あまのははきりのつるぎ)をもって、大蛇を斬る。その尾を斬ったときに刃が欠けたので割いて中を見てみると、尾の中に不思議な剣がひとつあった。

**スサノオはこの剣を天に奉った。これが今の草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

**はじめイタケルが天降るときに、たくさんの木の種をもって降ったが、韓地では播かずに、すべて日本に持ち帰って日本の国中に播いて、国土を全部青山にしてしまった。

この功によりイタケルは、有功(いさおし)の神とされ、紀伊国に鎮座する大神となった。

第五の一書では、素戔嗚尊が鬚髯から杉、胸毛から檜、尻毛から槇と榧、眉毛から楠など体毛を抜いて作った各種の樹木を、二柱の妹神(大屋津姫命と枛津姫命)とともに全国に植えたとあります。

日本書記や先代旧事本紀を信じるのであれば、新羅から帰ってきたスサノオが漂着するのは日本海側になるでしょう。しかし、そもそも杉は日本固有種の1つであり、伝来した訳ではありません。檜は日本と台湾にのみ分布しますので新羅のある朝鮮半島は関係ありません。つまり、鉄を造るときに燃料とする薪は、朝鮮半島では乱伐採されて枯渇し、一方、日本には木々が豊かに実っているという意味なのです。

ならば、木の国でスナノオと五十猛神は、何を伝えたのでしょうか。

一番考えらえるのが、諸手船(もろたぶね)であります。諸手船とは、刳舟(くりぶね)のことであり、丸太をくりぬいたり、木や竹などの骨組に獣皮や樹皮をはりつけた舟であり、丸木舟(まるきぶね)ともいいます。

<s-03-04 丸木舟>

S0304

(丸木舟 ウィキペディアHPより)

写真の丸木舟は安土城考古博物館に展示されているものであり、先史時代に琵琶湖で使用されていたもののレプリカで、湖北町尾上から竹生島までの実験航海に使われたものです。底に穴が空くと、泥やアスファルトなどで固めて補修します。掘りが浅いと安定せず、深く掘ると底が抜けることがあり、本来なら遠洋に向かないと思うのですが、三郷南(埼玉県三郷市)―高谷(市川市)で発掘された丸木舟は、全長7.2メートル、幅50センチ、船底の厚みは約8センチだったそうです。中を火で焦がしながら石器で丸太をくりぬいていった跡が残っていました。

これで倭人は太平洋や日本海といった海を渡っていたようです。千葉県市川市の貝塚を主体とする「雷下遺跡」で発掘された丸木舟は、国内最古となる約7500年前の物でした。

中国には、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船(させん)があり、丸太船から進化した福船と融合し、三国志時代には複合船になっていたと思われます。 <1-32 福船と沙船>

〔福船と沙船〕(弥生時代の日本への渡海は中国のジャンク船だった 日本の歴史と日本人のルーツより)

倭人がいつの頃から中国と関係を密にしていたのかと言いますと、

その燕の漢書地理誌、王充が著した『論衡』(ろんこう)に

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)

周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

また、秦・漢時代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に

「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

と残されており、周の時代(紀元前1046年頃~紀元前771年)から倭人は中国と交易を行っておりました。つまり、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船や福船の技術を習得していた事になります。そして、その技術は3世紀の古墳時代まで続いていました。

<s-03-05 古墳時代の日本の帆船の線刻画>

S0305

〔古墳時代の帆船〕(古墳時代の日本の帆船の線刻画 日本の歴史と日本人のルーツHPより)

何故、3世紀と言い切れるといいますと、3世紀に入ると魏国の曹操が西洋の帆船技術と航海術を取り入れ、大型帆船の時代へと移ってゆくからであります。

話を木の国に戻しましょう。

スサノオが木の国にやってきて伝えたのは先進的な沙船や福船などの造船技術ではないでしょうか。丸木舟はなんと言っても巨大な丸太なしで造ることはできません。巨大な丸太を川や海に運ぶだけでも大変な作業となります。それに対して沙船や福船は板を組んだ構造船となります。材料の調達が楽になり、多くの船を建造できるようになります。

古代の和歌山は、その造船技術によって『木の国』と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

そう考えれば、スナノオは海を渡ってきた技術集団であり、アマテラスの天孫族より先に木の国(和歌山)に辿り着いたことが判ります。

■吉備のスサノオ

冬至のレイラインを西に向かうと吉備の国に入ります。

レイラインの最終地は出雲大社となりますが、『出雲風土記』に国譲りがなかったことが書かれているように、古事記・日本書紀に書かれている神話の出雲ではありません。それを裏付ける証拠の1つとして、ヤマタノオロチの伝承も『出雲風土記』に記載されておりません。

しかし、吉備の国には、『日本書紀』にスサノオがヤマタノオロチを韓鋤の刀で斬ったとあり、この刀は「今、吉備の神部の許にあり。出雲の簸の川上の山是なり」とあると記載されており、明治までその韓鋤の刀である十握剣を布都御魂とご神体として石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に祭られていました。

4世紀の崇神天皇(すじんてんのう)の御世でヤマト国において病が蔓延すると、この剣の霊力を頼りにヤマトの国に献上され、国家安泰が祈願されて大和国の石上神社に奉納されたとありますから、石上布都魂神社に残されたのはレプリカか、その一部が残されていたのでしょう。

いずれにしろ、この吉備にスサノオの剣が残されていたことになります。

韓鋤の刀がどんなものかと言いますと、天羽々斬(あめのはばきり、あめのははきり)、天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)・布都斯魂剣(ふつみたまのつるぎ)・天十握剣(あめのとつかのつるぎ)・蛇之麁正(おろちのあらまさ)・蛇之韓鋤(をろちのからさひ/おろちのからさび)・天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ/あめのはえきりのつるぎ)などと呼ばれております。

一方、ヤマタノオロチから出て来た剣を、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、あめのむらくものつるぎ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)・八重垣剣(やえがきのつるぎ)と称されて、三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされております。

韓鋤の刀は、十束剣(とつかのつるぎ)と呼ばれるように、束が長いの剣であり、スキの部分が長く剣のように振るえるものでありました。

<s-03-06 鎌鍬鋤>

S0306
その先は鋼鉄が据えられており、その剣がヤマタノオロチの尾を切ったときに欠けたとありますから、草薙剣も鋼鉄製であります。

鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていました。しかし、鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としてです。

紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトは、アナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていましたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げました。そのヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった訳です。ヒッタイトは紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になります。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられております。エジプト・メソポタミアに技術が流出したように、インドから東南アジアや東アジアにも流出したと考えられます。

中国においては、殷代(17世紀頃 - 紀元前1046年)の遺跡において既に鉄器が発見されているものの余り利用されておりません。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代(紀元前400ー200年頃)に鍛鉄とならんで銑鉄(鋳造用の鉄)を生産し、各種の鋳鉄製品を製作しておりました。

続く漢代に入ると、鉄は国家による専売制の下で、銅よりもはるかに安い価格で、ますます大量に生産されるようになります。

・鉄の鋳造技術は、中国では戦国時代(B.C.476-221年)頃に始まった。

・BC 5 世紀 • 中国南部 (呉)、高炉[爆風炉]、脱炭素法

・BC3世紀~BC2世紀 • キューポラ炉の登場

・AD 31 年頃 • 杜詩が高炉[爆風炉]の「ふいご」に水車の動力を使用

・4 世紀頃 • 宋の高炉[爆風炉」で木炭の代わりにビツマス石炭の使用した。

日本は弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来した5世紀から6世紀になります。

鉄器の分布を時代で見ると、弥生時代には鉄器が九州広がっていることが判ります。

<s-03-07 県別にみた鉄器の出土数>

S0307

〔県別にみた鉄器の出土数〕(川越哲志編「弥生時代鉄器総覧」2000年刊より)

逆に考えると鉄製の武器が珍しい時代は弥生時代の初期以前であり、始皇帝が不老不死を求め、に徐福に蓬莱の国へ行き仙人を連れてくるように命じたのが紀元前3世紀頃と重なります。

鉄製の武器はすべて輸入でされたものであり、鉄製の武器を持つ者はすべからく高貴な方と判ります。吉備の国から鉄が産出され、生産地となるのは5世紀から6世紀の渡来人の来襲時期を待たなければなりません。

吉備に残された韓鋤の刀がスサノオの剣であることを疑う意味はありませんが、その剣の入手方法が、スサノオに味方して譲られたものなのか、スサノオ一族を襲って奪ったものなのかは知る由もありません。

備前国赤坂郡 石上布都之魂神社の社伝には、今は素戔嗚が祭神であるが、元々は十握劔を祭神としていたと書かれ、以後、日本書記などから説明がなされている。しかし、何故、この剣がこの宮に祭られたのかが書かれていない。

吉備には多くの大蛇伝説があり、その退治をスサノオ(スサノオ一族)が行ったのかもしれない。しかし、スサノオがこの地に留まったという伝承は残されていないのであります。

■天孫降臨の神話

淡路を中心に神話が作られているという仮説に基づいて8州を調べ直すと、色々と見えてきるものがあります。位置関係が不自然であった神話も少しずつ整理されてゆくようであります。そこで大きな疑問の1つである伊勢の主、猿田彦について考えてみましょう。

猿田彦は古事記・日本書紀の天孫降臨に登場する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神であります。

猿田彦大神を祀る神社の総本社で猿田彦大本宮とも呼ばれる椿大神社(つばきおおかみやしろ)や、その容姿から白鬚大明神と呼ばれ、白鬚神社(しらひげじんじゃ、滋賀県高島市鵜川)を総本山にする白鬚神社など、全国各地に猿田彦の神社を持っております。その中には、祭神が塩土老翁神である神社もあり、猿田彦と塩土老翁神が同神とされる理由の1つであります。

古事記では以下のように進み、国産みから『天孫降臨』が書かれております。

この豊かな葦原の水穂の国(あしはらのみずほのくに)は、アメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)が治める国です。アメノオシホミミノミコトは、天の浮橋(うきはし)に立って、下界を見下ろすと、下界はずいぶんと騒がしいようで、アメノオシホミミノミコトが治めるべきたと言いって、天から降りることにしました。

乱暴な国津神々を治めるにはと思い、アマテラスオオミカミが八百万の神を集めて相談するとオモイカネノカミ(思金神)がアメノホヒノカミを遣(つか)わずのがよいと言ったので遣わすと三年経っても何の報告もありません。

そこでアマテラスはオモイカネノカミに相談すると、天津国玉(あまつくにだま)の神の子の(天若日子)を遣わすと良いと言うので、アメノワカヒコを下界に遣わしますが、アメノワカヒコもオオクニヌシの娘のシタテルヒメ(下照比売)を妻にして、八年になるまで何の連絡もしてよこしませんでした。

そこで鳴き女(なきめ)という名前のキジをアメノワカヒコに遣わします。キジは下界へと飛んで、アメノワカヒコの家の門にある桂(かつら)の木の枝にとまり、アマテラスオオミカミの言葉をそのままに伝えました。すると、家の中にいたアメノサグメ(天佐具売)という女が、この鳥の声を聞き、アメノワカヒコにこの鳥の無く声はたいへんきたないので、矢で射殺(いころ)してくださいと言いました。

それでアメノワカヒコは天の神から授かった弓で矢を放ち、その矢はキジを貫いて殺し、天をめがけて飛んで行き、天の安の河原にいらっしゃたアマテラスオオミカミとタカミムスビノカミのところまで届きます。

そこでタカミムスビノカミは神託を乗せて、アメノワカヒコがわれわれの命令のとおりに、これが乱暴な神に向かって放った矢であるならアメノワカヒコには当たるな。しかし、もしそうではなく、謀反(むほん)の心から放った矢であるならアメノワカヒコに当ってしまえとおっしゃて、その矢をつかんで飛んで来た穴から衝(つ)き返してやったところ、朝まだ床の中で寝ていたアメワカヒコの胸につき刺さり、死んでしまいます。

そこで次に下界に遣わしたのが、タケミカヅチ(建御雷の男の神)でした。

タケミカヅチは、出雲(いずも)の国の伊耶佐(いざさ)という小浜に降り立って、長い剣を抜き、海の波に逆さまに刺し立てました。そして、その前にあぐらをかいて座ると、オオクニヌシに向かって、

「アマテラスオオミカミ、タカギノカミのご命令で、使者として来たものだ。アマラテラスオオミカミは、こうおっしゃった。あなたが支配するこの葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、わたしの子の支配する国と命じたものです。あなたは、これについてどう思っているのか。」

と言います。オオクニヌシはわたしの子のコトシロヌシノカミ(言代主神。言霊=ことだま。ことばの中に住む神霊。)が代わってお答えしますといい、コトシロヌシノカミを呼び出すと、天の神さまのお子さまに差し上げた方がよろしいでしょうと言って、乗って来た船を踏みつけて逆手で手を打っておまじないをすると隠れます。

次にオオクニヌシは、タケミナカタ(建御名方の神)が代わって答えますというと、タケミナカタノカミが千人で引かないと動かないほどの大きな岩を手の上に転がしながら持って来て大声でタケミカヅチに戦いを申し込ます。

しかし、タケミナカタがタケミカヅチの手をむんずと掴むと、その手が氷柱(つらら)のように凍ってしまい、そのうちに剣の刃になってしまいました。タケミナカタは、恐ろしくなって後ずさりしました。すると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの手掴もうとします。タケミカヅチに比べるとタケミナカタの手は、やわらかい葦(あし)のように感じたので、つかんだまま投げ飛ばしてしまいました。タケミナカタは、逃げ出しましたが、タケミカヅチは後を追って、信濃(しなの)の国の諏訪湖(すわこ)まで追いつめ、殺そうとしたときに、タケミナカタが一命を嘆願し、この地より他にはどこにも行きません。そして、これからは父のオオクニヌシと兄のコトシロヌシの言うことに逆らいません。この葦原の中つ国は、天の神のお子さまに差し上げますと泣いて謝りました。

オオクニヌシはこれで諦めて、

「この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

と申したので、タケミカヅチたちはオオクニヌシのために出雲の国の多芸志の小浜(たぎしのこはま)に、出雲大社(いずもたいしゃ)を造り、ミナトノカミ(水戸の神)の孫のクシヤタマノカミ(櫛八玉神)を料理人としました。このクシヤタマノカミは、鵜(う)に変身し、海にもぐり、海底の土を採って来て、たくさんの土器のお皿を作りました。また、わかめの茎で臼(うす)を作り、昆布の茎で杵(きね)を作って、その臼と杵で火をおこして、新築のお祝いしました。

こうして、オオクニヌシノミコトは出雲大社の中にお隠れになりました。

ここからが『天孫降臨』となります。

アマテラスオオミカミとタカギノカミ(高木神)は、アマテラスオオミカミの息子のアメノオシホミミノミコトに葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)が平定されましたことを告げます。しかし、アメノオシホミミノミコトは、下界に降りずに、ニニギノミコト(邇邇芸命)を遣わすことにしました。

アマテラスオオミカミとタカギノカミは、ニニギノミコトにおっしゃいました。

「この豊かな葦原の水穂の国は、あなたが治める国です。さあ、命じられたとおりに、この天の国から地上へと降りなさい。」こうして、ニニギノミコトが、天から降りようとしていたところ、天から地上へと行く分かれ道のところに、上は高天原(たかまがはら)を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神さまが居座って、その先へ行かせてくれません。そこでニニギノミコトは、アメノウズメノミコトにこう言いました。 「あなたは、女神なので力は弱いが、敵対(てきたい)する神と顔をつき合わせたときには、必ず勝つ神です。そこで、あなたはアマテラスオオミカミとタカギノカミの使者として、分かれ道にいる神のところへ行って、『わたしの御子が、天から降りようとしている道をふさいでいるのは誰だ。』とこう聞いてください。」アメノウズメノミコトが命じられたとおりに訊(たず)ねたところ、その神は、答えて言いました。「わたしは、この国の神でサルタヒコといいます。天の神の御子さまが降りていらっしゃると聞き、ぜひお仕えしたいと思って、お迎えにやってきました。」こうして、ニニギノミコトは、アメノコヤネノミコト(天児屋命)、フトダマノミコト(布刀玉命)、アメノウズメノミコト、イシコリドメノミコト(伊斯許理度売命)、タマノオヤノミコト(玉祖命)の五柱の神さまたちに支えられて、天から地上へと降りることになりました。このとき、アマテラスオオミカミは、三種の神器(さんしゅのじんぎ)の勾玉(まがたま)、鏡、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)をニニギノミコトに授けました。また、オモイカネノカミ(思金神)、タヂカラオノカミ(手力男神)、アメノイワトワケノカミ(天岩戸別神)もニニギノミコトの元へに遣わせました。そして、アマテラスオオミカミは、ニニギノミコトにおっしゃいました。「ニニギノミコトよ、あなたは、この鏡をわたくしの魂(たましい)だと思って、わたしを拝むように、これを大切にお祭りしなさい。またオモイカネノカミよ、そなたは、ニニギノミコトのことをよく助けてやり、そして政治を行いなさい。」ニニギノミコトとオモイカネノカミは、今も伊勢神宮にお祭りされています。アメノイワトワケノカミは、「天の岩戸」が神となったもので、天皇の宮殿の門をお守りになっています。ニニギノミコトは、高天原の住まいを離れ、たくさんの雲を押し分けて、たくさんの道を別け入って、天の浮橋(あめのうきはし)に立ち、下界を見下ろしました。そして、ついに筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の峰(たかちほのみね)という霊山(れいざん)に降り立ちました。そこには、アメノオシヒノミコト(天忍日命)とアマツクメノミコト(天久米命)という神が、見事な石でできた靱(ゆき。矢を入れる。)を背負い、石の刀、石の弓、石の矢を持って、ニニギノミコトにお仕えするために、出迎えました。ニニギノミコトは、この高千穂の峰の感想をこうおっしゃいました。 「ここは、韓国に向いていて、笠沙の岬(かささのみさき)へもまっすぐに行く道がある。朝日が直にこの山を照し、また夕日も照る美しい国だ。ここは、たいへんすばらしい地である。」そして、地面の底深くに置いた石の上に太い柱を立て、高天原に届くかのように高い立派な宮殿をお造りになりました。ニニギノミコトはアメノウズメにサルタヒコに仕えるようにいい、アメノウズメは猿女となります。サルタヒコが阿邪訶(アザカ)で漁をしていると、比良夫貝(ヒラブガイ)に手を食われて挟まれて海に沈んで溺れてしまいます。そこでサルタヒコを送り届けたアメノウズメが帰ってくると、鰭の広物、鰭の狭物(=尾の広い魚、尾の狭い魚…大小様々な魚)を集めて、ニニギノミコトに仕えるかと聞くと、ナマコ以外が仕えるといいました。アメノウズメは何故答えないのかと言って、ナマコの口を裂きました。それゆえに今でもナマコの口は裂けております。というわけで、これより志摩国の初物の魚介類が宮廷に献上されるときは、猿女君に賜ります。これが古事記の国譲りかた天孫降臨に至る話の概略であります。

国譲りで何の理もなしで、出雲から諏訪まで追ってゆくタテミカヅチも大概でありますが、話の流れからニニギノミコトは出雲に降ると思いや日向に降り、何故か突然に伊勢に祭られております。サルタヒコがアメノウズメを娶って帰っていった国も伊勢であります。

<s-03-10 ダイナミックな国譲りと天孫降臨>

古事記や日本書記の話を組み立てますと、タテミカヅチが下界の騒ぎの元が出雲であり、アマテラスがいう豊かな葦原の水穂の国を治めるのに適した土地が日向ということになります。島根の“出雲”などを支配するのに、宮崎の“日向”が適している地理的要因は皆無であります。

宮崎県の日向灘は、黒潮の影響を受けて海流が早く、海産物が非常に良く取れる海でありますが、波が荒く航行困難な海域でもあります。

<s-03-11 黒潮と内海の海流図>

S0311

基本的な海流の流れは南から北に潮が流れ、日向から北九州や中国、近畿に進むのは便利ですが、戻るには手間と時間が掛かります。攻めるに易く守るに難い、攻防を兼ねた海の地形でありますが、物流や交流の拠点には向きません。

タテミカヅチが島根の出雲を抑えたのですから、タテミナカタの諏訪に睨みが利く、難波の国か、大和の国当たりまで拠点を進めるべきでしょう。

平安時代に出された『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』では、ニニギの前にニギハヤヒが大和に東征しております。

国を分割するのでしたら、中国や四国にも天孫降臨を記載するべきです。

そこで話を元に戻します。

神話は淡路島の近隣ではないのだろうか?

原文は、

故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那雲而、伊都能知和岐知和岐弖、於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。

訳:故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。

とあり、「竺紫、日向の高千穗」と書かれております。

竺紫と日向はイザナギが禊を行った場所でも使われおり、「筑紫日向小戸橘之檍原」と残されております。

淡路島には(しづき)という地名があり、字を逆にすると筑志(つくし)となる。しかし、これは余りに強引過ぎる。強引過ぎます。

そこで九州の筑紫の語源を確認すると、筑紫潟から来ており、有明海のことでした。昔の有明海が内陸まで深く入り組んでおり、臼を叩く杵か、中国は秦で広く使われた楽器『筑』のように深く奥広くなっておりました。

<s-03-12 筑>

S0312

『新修大阪市史2』の史料に、国司の任を終えて土佐から都に帰る紀貫之の一行は、承平五年(935)二月五日住吉の沖を通過し、翌日大阪湾から淀川をさかのぼった。

『土佐日記』には、「六日、みをつくしのもとよりいでて、なにはにつきて、かはじりにいる」とあります。

一行は大阪湾から、つまり『つくしのもとより』と書かれているのです。

そうです。

大阪湾岸こそ、古代の『筑紫』なのです。古代の難波津から住吉に掛けての大阪湾の海族が半島の交易の為に九州に移住し、久留米当たりで筑紫潟(有明海)を見て、『筑紫』と名付けたのが九州筑紫の謂れではないでしょうか。

さて、大阪湾岸から日に向かって進むと、河内湖へ入ります。その入り口は『小戸』と呼ばれていたのでしょう。明石海峡が『大戸』であり、神々が通った『戸』だから神戸なのです。

次に橘と言えば、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来します。橘で有名なのが橘寺(たちばなでら)であります。田道間守が持ち帰ったとありますが、もっと古くからあったのかもしれません。

橘寺は奈良県高市郡明日香村にあります。その地こそ、『橿原』なのです。

最後の檍原(アハキハラ)』は阿波岐原(アワギハラ)と呼ばれていますが、本当にそうでしょうか。

この『檍』の字は、中国読みの『橿』と同じ読みを持つ漢字なのです。

【漢字】 【中国での意味】 【日本特有の意味】

樫 無し かし

橿 もちのき かし

檍 もちのき (あはき)

かし

檮 切り株

『檍』を『橿』に変えて、書き直せば『橿原』になります。

橿原神宮は神武天皇が即位した地として有名であり、何故、この地で即位したのかと問われれば、イザナギが禊によって、アマテラス・ツクヨミ・スサノオを生んだ土地でありませんか。

否、神武天皇が即位するならここしかありません。

天孫降臨では「竺紫、日向の高千穗」と書かれております。

高千穂とは、宮崎県日向の高千穂であり、高い山々が連なると勘違いしておりました。神話の時代は地名ではなく、漢字の意味通りに読まなくてはいけないのです。

つまり、高千穂は“高く”・“沢山”・“実った稲穂”という意味であり、黄金色の稲穂がばぁっと広がる景色が眺める場所であります。

そんな心が穏やかになる景色を私は一か所しか知りません。

おそらく、古代の葛城山に登って奈良盆地を見下ろすと、天の香久山が島のように奈良湖と稲穂の海に浮かんで広がる景色は見えるようではありませんか。

奈良県の明日香は空が高く見えて、清々しく気持ちのいい土地です。

そう、橿原神宮のあるこの土地は清々しい土地なのです。大阪湾から東に向かうと葛城山があり、葛城山を越えると高千穂の明日香村が待っているのです。

■天孫降臨は二度あった。

奈良大和路を探究すれば、誰が一度は首を傾げるのが、三輪山であります。

三輪山のご神体は、大物主神であります。

大物主神=オオクニヌシ(大国主神)

島根の出雲の神を何故、大和で祭っておりのかと言いますと、崇神天皇の御世に疫病が大流行し多くの民が亡くなりました。この時天皇は大変悲しんで神牀(かむとこ)をします。 神牀とは、夢の中で神様と繋がりお告げを受けることであります。

すると、三輪山の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れ、

「この有様は私の心である。意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祭らせなさい。そうすれば疫病も治まり、国も安らかに治まるだろう。」

と言われました。

天皇は意富多多泥古を探し、河内の美努村(みののむら)(大阪府八尾市上之島町付近)に意富多多泥古という人物が見つかったのです。

「私は大物主大神が陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘の活玉依毘売(いくたまよりひめ)を娶って生んだ櫛御方命(くしみかたのみこと)さらにその子の飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、さらにその子の建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子にあたるのが私、意富多多泥古でございます。」

それを聞いた天皇はたいそう喜んで、意富多多泥古を神主として御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を祭らせましたとあります。

ところで奈良県桜井市に出雲という町があります。

奈良の都が造営されるときに、各地の民が集められて小さな村を作り、奈良には沢山の地名を持つ町があります。おそらく、出雲もそうであろうと言われてきました。

しかし、出雲から来た民が近く山にお国の神様を誘致することを、時の朝廷が許すでしょうか。

桜井市は三輪山と外鎌山挟まれ、東に逝けば鳥見山、貝ケ平山、伊那佐山があり、北は龍王山、南は音羽三山の熊ケ岳があり、正に『ヤマト(山戸)』と呼ばれるに相応しい場所です。そんな場所に出雲からヤマトに移されて民の頼みを朝廷が聞き届けるでしょうか。

そもそも、第10代の崇神天皇が大物主大神を三輪山へ誘致したのではありません。大物主大神ははじめから三輪山に鎮座していたのです。

古事記の大国主の章に

「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」

と書かれておりますから、三輪山に大国主を祭ったのは自分自身のようです。

大阪湾岸に『筑紫』であり、大阪の高槻市に『隠岐の三島』、その対岸に『因幡』、大国主は住んでいる土地が出雲ですから、三輪山の周辺が古代の『出雲』でもおかしくありません。

この奈良には大和の大蛇三社(やまとのだいじゃさんしゃ)というヤマタノオロチとも思える伝承もあります。『ちはやぶる』で有名になった竜田川となど、奈良湖は度々水害に襲われております。スナノオは先進的な灌漑事業を伝えて、治水を行ったのではないでしょうか。

また、島根の出雲には須賀という地名があり、須賀とはスサノオとクシナダヒメが住む為に選んだ“清々しい”土地であります。

誰が言ったのかは忘れましたが、

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠ごみに 八重垣作る その八重垣を」

訳:出雲の幾重にもめぐらした垣根。妻をこもらせるために八重の垣を作る、その美しい八重垣を

この詩に読まれる“八雲立つ” ような幾重にも重なりあった雲は、出雲の空と奈良の空しかお目に掛かれない。

確かに、出雲も奈良も周囲に見た目が高い山がありません。雲が高く重なり合い、どこまでも広々と感じられ、心地良い風が身も心も軽くしてくれます。

その清々しい土地を“アスカ”と呼びます。

漢字で飛鳥、あるいは明日香と表記されていますが、熊野の熊野速玉大社の横を流れる熊野川の護岸に阿須賀神社(あすかじんじゃ)が創建されております。祭神はもちろんスサノオ神であります。

阿須賀と書いて、“アスカ”と呼びます。

そうです。アスカとは、阿・須賀(ア・スガ)なのです。奈良湖の湖畔に『須賀』があったのです。

この飛鳥時代にこの地を治めていたのが蘇我氏であります。

蘇我氏の謂れは、「我、蘇る」という意味であり、朝鮮に渡った蘇我氏が日本に戻ってきたという風に言われ、あるいは、原始キリスト教の復活を意味するキリスト教か、ユダヤ教の末裔とも言われております。

しかし、もっと単純な意味であったことが、このことで判ります。

須賀に住んでいた蘇我氏の祖、須賀氏としましょう。

須賀氏は須賀に住んでいましたからスサノオとクシナダヒメの末裔です。国譲りでタケミカヅキが現われて、オオクニヌシと共に須賀を去ることになります。

オオクニヌシは各地を転々として、最後に根の国(島根)である出雲に到着して、奈良のような八雲立つ出雲を自らの国に定めます。そして、須賀氏も出雲の須賀地方に根付いた訳です。時は数百年過ぎ、須賀氏は朝廷に仕えるようになり、葛城氏と婚姻を結んで権力を少しずつ蓄えて、遂に奈良のアスカ(飛鳥・明日香・阿須賀)の地に戻ってきたのです。 そして、須賀氏は蘇我と名乗ったのであります。

蘇我氏はスナノオの血を引く、由緒ある一族ですから、朝廷の中でも一目置かれる存在になったのは言うまでもありません。

さて、国譲りが島根の出雲ではなく、奈良の出雲であったことは判りました。天孫降臨で大阪湾の『筑紫』から日に向かって葛城山を越えて阿須賀に降り立った天孫族こそ、ニニギの末裔、あるいは、天津彦根命(天若日子)の末裔である葛城氏なのです。

何故、そうはっきりと言い切れるのかと言えば、紀記に雄略天皇の事績として、葛城山で天皇一行とそっくりな一言主神一行と出会い、対峙したという話が残されているからです。

『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されており、一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されております。

いずれにしろ、天孫族である証を一言主神が持っていたのは間違いないのであります。『先代旧事本紀』では一言主神を素戔烏尊の子とされ、平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語集では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛されたと記されております。

紀元前2世紀頃に新高天原とでも呼ぶべき、九州筑紫の天孫族であるニギハヤヒがヤマトに東征し、同時期に阿蘇周辺の天孫族が九州日向に天孫降臨し、紀元後2~3世紀に神武天皇の東征が行われます。

古事記・日本書記では、国譲りから天孫降臨までの間に欠史が存在し、先代旧事本紀では、ニギハヤヒの話が補完されております。しかし、ニギハヤヒより100年近く以前にタテミカヅキが落とした奈良の出雲に降った天孫降臨の話が欠落しているのであります。

いずれにしろ、奈良の筑紫日向小戸橘檍原(橿原)と九州日向の筑紫日向小戸橘檍原(阿波岐原)の二か所に天孫降臨は成されたのであります。

そして、都合の悪い葛城氏の祖神は天孫降臨の神があることは隠されて、神話の中に埋もれてゆくのであります。

【参考資料】

『古事記』天孫降臨

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。」

〔倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年、(P129)より〕

『日本書紀』天孫降臨

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」

〔坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店、1993年(P140)より〕

(すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されています)

『日向國風土記』逸文

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。

時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」

〔秋本吉郎校注「日本古典文学大系2風土記」岩波書店、1958年〕

『大和国の風土記』

『大和国の風土記』に云わく、天津神命、石津神命、三都嫁(みとのまぐわい)、遊(うらぶれ)、面語(おもがたり)してとあり。〔毘沙門堂本古今集註 風土記 日本古典文学大系2〕

天津神命はアマテラスなどの高天原に住む神々であります。

石津神命は石津太神社に祭られている天穂日命が石津連の祖神と言われておりますから、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大神の第二子とされ、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった神でしょうか。

三都嫁とは、「この嶋を国中の柱として、男神は左から女神は右からまわって「ミトノマグワイ」をして日本の国々山川草木、神々を生んだとしている。」と書かれているので言葉の意味のままであり、遊は物思い、面語は面と向き合って語るであります。

天津神命が男神なら、天穂日命も男神なのでまぐわうとはおかしな表現であります。石津が国津と同じ意味ならば、高天原から来た男神と国津神の女神が愛し合ったと読めます。

大和国の風土記に云わく、

むかし明日香の地に老狼ありて多くの人を食らう。土民畏れて大口の神という。その住める所を名付けて、大口の真神原という云々風土記に見えたり。〔枕詞燭明抄(中)〕

とあります。

また、舎人娘子『万葉集』巻八1636にも、

大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに

という歌が残されており、「大口真神原」は飛鳥寺付近だと言われています。

三輪山

かつて強制的に移住させられた人々がいて、旧国名を地域名とした。

三輪山は“みもろやま”ともいい、神奈備(かむなび)でもある。

縄文時代・弥生時代から自然崇拝の対象であったらしく、三輪山そのものを御神体とした

大神神社は大和国の一の宮。大神神社は大物主を祀る。

出雲という地名は、三輪山南東のこの辺りだけではなく、他の近隣エリアにも残されています。

狭井神社で知られる狭井川の北方に、出雲屋敷という地名が伝承されています。さらに、三輪山北西には、かつて出雲荘と呼ばれる荘園がありました。

出雲荘は、現在の桜井市大西・江包(えっつみ)の地に当たります。

出雲・・・この不思議な国

日本中が神無月のとき、神在月と言う国・・・・・

大和の大蛇三社(やまとのだいじゃさんしゃ)

大和国、現在の奈良県に所在する三つの神社を、大蛇(巳)、あるいは竜に見立て、その頭、胴、尾になぞらえたもの。蛇も竜もいずれにしても水神。三社とも水との関わりが深い神社とされる。

大神神社はもともとが蛇の社という側面がある。石園座多久虫玉神社(竜王宮)は海神色が強い。長尾神社は、竜と蛇の伝承だらけ。社号の尾は、そのまま蛇と竜の尾の意と考えられる。

大神神社と長尾神社だけでも、蛇あるいは竜の頭と尾ともされる。巨大な蛇が頭を三輪山(大神神社)にしてとぐろを巻き、その尾が長尾神社まで届いた、という伝承による。

元熊野・諭鶴羽神社

淡路島最高峰の山、諭鶴羽山(標高607.9m)

「熊野権現御垂迹縁起」によると、唐の天台山の霊神が九州筑紫国・英彦山の峰に降臨され、伊予の石鎚山に渡られ、淡路国・諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵(神倉)の峯へ渡られたとされる。山頂の南側約400mに鎮座する諭鶴羽神社は創建が開化天皇の治世と伝えられる古社である。祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。三角点のある山頂は諭鶴羽神社の御旅所で、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がります。

諭鶴羽山(ゆづるはさん)は、大坂湾、瀬戸内海、紀伊水道を眼下に、泉、播、讃、阿、淡、紀、備などの八州が一望できる。

阿豆枳神社

祭神:大野手比売(おほぬてひめ)」(香川県小豆郡小豆島町神懸通)小豆島の産土神は、イザナギ・イザナミの国産みによって生まれた大野手比売である。

星ヶ城山(ほしがじょうさん)は、小豆島町(旧・内海町)の中央東部にある標高817m(東峰)の山である。

三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)

主祭神:大山祇神、事代主神

津の国御島(現在の高槻市)の日本で最初の三島神社(山祇神社)である。

社伝では、伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社とともに「三三島」と呼ばれたという。また、日本で最初の三島神社(山祇神社)とされる。

大山祇神 (おおやまづみのかみ)

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという。

大山祇神 (おおやまづみのかみ)

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという。

事代主神 (ことしろぬしのかみ)

事代主神は鴨氏の氏神とされ、当地に鴨氏の進出が背景にあるとされる。『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。

創建は不詳。当社は元々淀川の川中島(御島)に祀られていたといい、社伝では仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたという。大山祇神社が大三島瀬戸に鎮座したのが推古天皇2年(594年)とされている。

生島神社

祭神:生國魂大神(兵庫県尼崎市栗山町2丁目24-33)

主祭神:生島大神(いくしまのおおかみ、生嶋大神)、足島大神(たるしまのおおかみ、足嶋大神)

創始は仁徳天皇の時代、313年から399年頃。大阪にある生國魂神社の元宮と言われる。祭神とする生島神・足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない神々である。

難波の生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の『延喜式』神名帳では生島巫が神祇官西院で生島神・足島神の2座を祀ると記されており、平安京の宮中で「生島巫(いくしまのみかんなぎ)」という専門の巫女により奉斎される重要な神々であった。

長野県上田市下之郷にある神社の生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)も同じ神を祭っていることより、スナノオ・オオクニヌシらに縁の深い神であることが伺われる。

摂津国嶋下郡 伊射奈岐神社

祭神:伊射奈美命(大阪府吹田市山田東二丁目三番一号)

延喜式神名帳の島下郡の条に「伊射奈岐神社」が二座あり、その一座とされる。なお、もう一座は佐井寺に位置しイザナギを祀る同名の神社だといわれる。

御由緒

当社は、延喜式内社で、延喜式神明張に、摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座云々とあり一座がこの神社であって、千里丘陵の中間で万国博会場になった地域に隣接する高庭山に鎮座している。爾来、皇大神御霊と共に内裏に奉斎されていた豊受大御神の御霊が崇神天皇の御宇、皇居を離れさせられ、後に丹波国与謝郡(現在福知山市)の比冶真名井に遷し奉られたが人皇第二十二代雄略天皇即位二十二年、皇大神の御神誨により現在の伊勢市山田、高倉山麓の山田ヶ原に遷座し奉られたとき、伊勢斎宮女倭姫の御示教により、大佐々之命が、五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀せられたと云う。又、山田という地名がこの様な処から山田原と称し、伊勢山田から名を移したのであると伝えられている。俗に姫神社とも称し、貞観元年正月従五位上を授けられ(三代実録、貞観元年正月の条に「二十七日甲申京畿七道諸神進階及新叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五位、伊射奈岐神従五位上」)同十五年社宮と改称されたと云う。

犬を観る神社(宇多賀 賢見神社)

主祭神: 素戔嗚尊・応仁天皇(徳島県三好市山城町寺野112)「犬神信仰」 徳島県に掛かる淡路のレイライン上にある。

長福寺

本尊:薬師如来(徳島県三好市山城町大月)四国八十八箇所第六十六番札所雲辺寺奥の院

大瀧寺

本尊:南無西照大権現(おおたきじ)(徳島県美馬市脇町字西大谷674)四国八十八箇所総奥の院、四国別格二十霊場二十番札所。

大瀧寺の右脇に鳥居があって「西照神社」への階段が有ります。

西照神社の縁起は、

『大滝山阿讃国境に位し標高九四六米七尾七谷の源をなす嶺峰にして古代「大嶽山」と稱せられる。

由緒、古伝の存す所を案ずるに上代神世の昔、伊耶那岐尊、高御産巣日神の詔を以ちて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降り禊祓まして心身清浄なる身を以て山川草木各々の主管者を任命し終りに天照大神を高天原へ。

祖国並に大八州国を統治し次に月読尊は夜の食国(筑柴の国即ち九州全域尚湯の出る国即ち四国の嶋)を統括し

東大和紀伊の動向を看視せよと委任し給ふ。

そこで月読尊は航海の神、田寸津姫命即ち宗像三神の部族を率いて伊豫から阿波の国に移り大嶽山の頂、展望のきく所に櫓を設け瀬戸内海難波及び大和の動向を監視せしめ、天津神の詔を体し九州四国を統括し、蒼生人の九厄十悪を祓ひ退け、夜毎に白露をふらし、五穀草木を潤し海上安全を守護されしと降って、平安朝の初期桓武天皇の御代僧空海二十四才の頃三教指針(神道儒教仏教)の一佛教を選び厳修体得せんと大嶽山に登り、北面の崖の中腹に山籠すること三年。教理に初光を見出し、続いて土佐の国室戸に至って三年余を経て都に赴く。

つまり、「月読尊(天照大神の弟神、更に弟が素戔嗚です。このイザナギが産んだアマテラス、ツクヨミ、スサノオが、三貴神と呼ばれています)を大和方面の監視役として田寸津姫命を大滝山山上に遣わして瀬戸内海の監視に当たらした事が神社の起源」という事でした。名前は西照ですが、西照大権現のいわれは無く、むしろ「記・紀の説話は阿波に実在した」と言う説を真っ向から補強する面白い縁起です。

「西照大権現」の御姿は今回拝見出来ませんでしたが、「東照大権現」以前に弘法大師によって「西照大権現」が造られ祀られていた事が判りました。

水主神社御

祭神 倭迹々日百襲姫命(日本書紀) 夜麻登々母々曽毘売命(古事記)

(香川県東かがわ市大内町水主1418)

「倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられた」

弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返 され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を 避けて、この地に来られたと伝えられています。

姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々 のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを 助けたといわれています。

夜疑神社(やぎじんじゃ)

主祭神:布留多摩命

大阪府岸和田市中井町2-7-1

ご由緒、八木の地は肥沃で水利も良く、古くから拓けた所であった。「陽疑」「揚貴」「八木」などと表記されたこともあるが、いずれも「やぎ」と読む。当社の創建は定かでないが、延長5年(927年)成立の『延喜式』に「夜疑神社」と記されており、また主祭神の布留多摩命については、弘仁5年(814年)成立の『新撰姓氏録』に「八木造。和多罪豊玉彦の児、布留多摩命の後すえなり。」とある。

布留多摩命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)が、高天原より天降られる時、天津神から「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」を授けられました神宝であります。

古代地方豪族八木氏の氏神として創建されたと考えられる。

方違神社(ほうちがいじんじゃ)

主祭神 天神地祇、素盞嗚尊、住吉大神、神功皇后

大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1

創建 人皇10代崇神天皇8年12月29日(西暦前90年)

天神地祇とは、天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)を合わせている。

ご由緒

神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定した。皇后は新羅から凱旋の途中、皇子(後の応神天皇)とは腹違いの2人の王子の叛乱に遭うが、住吉大神の御神教により、5月晦日、御自ら沢山の平瓦を作って天神地祇を祀り、菰の葉に埴土を包み粽として奉り、方災除けを祈願して皇軍を勝利に導いた。後にこの地に神霊を留め、方違社と尊び奉る。

当神社奉斎地は--「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」--と、『万葉集』にも歌われているごとく、摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の三国の境界なるが故に、“三国山”“三国の衢(ちまた)”また“三国丘”とも称され、奈良時代には僧行基が此辻に伏屋を設け旅人の休憩に供したので、人馬往来の要衝であった。

また、平安時代には、熊野詣の通過地点であったため、熊野詣での人々は必ず当社へも参詣し、旅の安全を祈ったという。

御杖神社(みつえじんじゃ)

御祭神:久那斗神 八衢比古神 八衢比女神

奈良県宇陀郡御杖村神末1020

三峰山の北にあるこの神社は、第11代垂仁天皇の勅命により天照大神の御杖代となった倭姫命が、天照大神をお祀りする候補地として杖を残したとされる伝承の地。その杖をお祀りすることから御杖村の村名の由来となっている。

・久那斗神・岐神(くなどのかみ):伊弉諾尊いざなきのみことが黄泉よみの国から逃れて禊みそぎをした時、投げ捨てた杖から生じたという神。

・八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ):岐の神(くなと、くなど -のかみ)とも呼ばれ、「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味を持つ。道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる。『古事記』では、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしており、『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。

・三峰山(みうねやま)

三重県松阪市・津市

奈良県御杖村

御杖村から旧伊勢参宮街道の宿場町である神末を経て神末川沿いに遡り、三峰山登山口(560m)から不動滝(720m)、避難小屋(1,090m)、三畝峠を経て山頂に至る。また登山口から休憩小屋(740m)を経て避難小屋で合流するルートもある。

當麻山口神社

祭神 大山祇命、天津彦火瓊瓊杵命、木花佐久夜比賣命

奈良県葛城市當麻1081

天孫降臨のニニギノミコトを始めとする八柱を祭神とする歴史ある神社で、境内摂社の當麻都津比古神社は、第33代用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる麻呂子皇子と當麻津姫を祀っております。

名草戸畔(なぐさとべ)

日本書紀には

「6月23日、軍、名草邑(むら)に至る。則ち名草戸畔という者を誅す」

と書かれています。

「戸畔(とべ)」とは、女性首長を指す古い言葉で、「名草戸畔」とは「名草村の女性首長」という意味です。

名草戸畔(ナグサトベ)は縄文時代、名草地方(現在の和歌山市・海南市)を治めていたとされる女王とされ、

「宇賀部神社(うかべじんじゃ)」宮司家出身・故小野田寛郎氏の家に内々に語り継がれてきた「口伝」によると、「名草戸畔は負けていない」「神武軍は名草軍に撃退されて仕方なく熊野に行った。しかし最終的に神武が勝利し天皇に即位した。

そのため名草は降伏する形になったが、神武軍を追い払った名草は負けていない」「名草戸畔は殺されたのではなく戦死した」

土地の伝承には、ナグサトベの遺体を、名草の住民により頭、胴体、足の三つに分断し、頭は宇賀部神社(うかべじんじゃ)、胴は杉尾神社(おはらさん)、足は千種神社(あしがみさん)に埋葬されたと言われています。

名草山をとりかこむ湿地帯「阿備の七原(安原、広原、吉原、松原、内原、柏原、境原)」に人々が住み始めたそうです。

名草山は人々にとって山の恵みを授かる場所、神の山「神奈備」として信仰されていたとされています。

阿須賀神社(あすかじんじゃ)

主祭神:事解男命、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神

和歌山県新宮市

熊野曼荼羅三十三ヶ所霊場 第23番。

熊野川河口近くにある蓬莱山と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する。古くは飛鳥社とも称された。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をしている。

「熊野権現垂迹縁起」によれば、熊野の地において熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられており、熊野権現の具体的な神名がはじめて現れた場所と見なされている。

出雲荘(いずものしょう)

大和国城上郡(現在の奈良県桜井市)にあった荘園。

興福寺の雑役免荘として延久2年(1070年)の坪付帳に登場するのが初出で、21町3反半(不輸田畠4町・公田畠17町3反半)から成り立っていた。

荘田は散在形式であったが、規模の拡張とともにしだいにまとまりを見せるようになり、文治2年(1186年)の坪付帳では32町2段180歩に広がって4か所に固まっている。

更に一色田であった間田(名田以外の田畠、原則的には荘園領主の直轄地となる)11町2反280歩を編入し、総面積が43町5反にまで広がったことが知られている。

龍田神社(たつたじんじゃ)

主祭神:天御柱命、國御柱命、竜田比古神、竜田比女神

奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6

風神である天御柱命(龍田比古神)と国御柱命(龍田比売神)の二座のこと。あるいは、同じく風神である級長津彦神、級長津比売神(級長戸辺神)のことであるともいう。崇神天皇の御代、龍田の風神が現われ、以来、大雨洪水による不作が続いた。 どのような神の災いかを占った天皇の夢に現れた神は、アメノミハシラ・クニノミハシラと名乗り、 災いを除くため、龍田の宮を造って祀る事を要求したという。

百人一首17首目『ちはやふる』

千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)

からくれなゐに 水くくるとは

漫画『ちはやぶる』のカナちゃんの説明では、

「千早(ちはや)ぶる」とは、神が安定した駒のように揺るぎなく回っているようなものであると言っております。

つまり、この凄い神がかった様子は、太古の神々の時代から竜田山のほとりを流れる川に鮮やかな紅色の川の水を括り染めにしてしまっているのでしょう。

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)

主祭神:素盞嗚尊

岡山県赤磐市石上字風呂谷1448

明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれている。

佐奈部神社(さなべじんじゃ)

祭神 春日大神、応神天皇

茨木市稲葉町16-26

由緒;摂津国島下郡水尾郷の水尾・堂・小路・内瀬・真砂の5ケ村の氏神。 中世の水害や兵乱で由緒を知る手掛かりを失う。

初代茨木市長・高島好隆は佐奈部とは稲・麦を打ち落とす農具・佐奈を制作する部民のことで、佐奈部神社のサナは鐸、近隣の佐和良義神社の迦具土神、葦分神社のアシは砂鉄、溝咋神社のタタラと、金山彦をまつる主原神社(茨木神社に合祀)、勝尾寺川水系上流にある北山の銅山、福井新屋神社のカナクソ、粟生の銀山、勝尾寺、箕面の修験道場などを組み合わせて一つの古代鍛冶集団を想定している。

もと堂の弥勒堂傍の素盞鳴尊神社と水尾の個人が祀っていた猿田彦社を合祀。

大神神社(おおみわじんじゃ)

主祭神

大物主大神

奈良県桜井市三輪1422

当社の創祀そうしに関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。

また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂みたまとして顕現けんげんされ、三輪山に鎮しずまられたということです。

この様に記紀ききの神話に創祀そうしの伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神さいじんの神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。

そして、ご祭神さいじんがお山に鎮しずまるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初げんしょの神祀りの様を今に伝えており、その祭祀さいしの姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。

「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神すじん天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤あつく祀まつられました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観じょうがん 元年(859)に最高位の正一位しょういちい となりました。延喜式えんぎしきの社格は官幣大社かんぺいたいしゃ で、のちに大和国一之宮やまとのくにいちのみやとなり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。

中世には神宮寺じんぐうじであった大御輪寺だいごりんじ や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵あんど されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社かんぺいたいしゃとなりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。

石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ)

主祭神:建玉依比古命、建玉依比賣命、豊玉比古命、豊玉比賣命

奈良県大和高田市片塩町15-33

通称 竜王宮として地元住民からは篤い信仰を集めている。

また、大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社を龍の尾とする伝承がある。

長尾神社(ながおじんじゃ)

主祭神:天照大神、豊受大神、水光姫命(豊御富)、白雲別命

奈良県葛城市長尾471

水光姫命は『日本書紀』で神武天皇東征に際し吉野川上(奈良県川上村井光)に巡幸の際、井戸の中から現れた国神(くにつかみ)として記される井氷鹿で、水神・井戸の神である。古事記や日本書紀によると、光って尾が生じていたと記されている。新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘・豊御富登であり、水光姫の名は神武天皇が授けられたもの」としている。社伝では、水光姫命は応神天皇の治世に三角岩(葛城市竹内)に降臨し、子孫の加彌比加尼(かむひかね)に命じて長尾に祀らせたもので、姿は白蛇であって、今、神社の東北に藤をもって覆われている御陰井の藤の花がそれであるという。

石津太神社

御祭神:蛭子命(ひるこのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)

大阪府堺市西区浜寺石津町中四丁飯田12-7

創建: 孝昭天皇七年(BC469)

最古の戎神社

神代の昔。

伊弉諾命【いざなぎのみこと】と伊弉册命【いざなみのみこと】の間に生まれた蛭子命【ひるこのみこと】は、三歳になっても立つことができなかったため、天磐樟船【あめのいわくすぶね】に乗せて海に流された。

船は波のまにまに風のまにまに漂い、ある海岸に流れ着いた。蛭子命が携えて来た五色の神石を置いたことから、その地を石津と称し、船の漂着した所を石津の磐山というようになった。

それから遥かに時を経て、五代孝昭天皇の御代、蛭子命を祀る社殿を建てたのが石津太神社の始まりだという。我が国最古の戎社と称している。

賀茂那備神社(かもなびじんじゃ)

御祭神:別雷神

配祀:素盞鳴尊 玉安姫命

島根県隠岐郡隠岐の島町加茂342

隠岐島島後、加茂にある。西郷港から南西に6Km。深い入り江の最深部に位置する。

式内社・賀茂那備神社に比定された古社で、

京都上賀茂の分霊を祀った神社。

孝謙天皇の御代、天平年中、玉安姫命が当港より隠岐に入り、

当地に祀ったとされている。

往古は、賀茂を本郷とし、西田、岸浜、箕浦、蛸木を枝郷として

それぞれの氏神である、切明社、厳島社、花生社、姫宮社を摂社としていたが

いまは、それぞれが独立しているようだ。

配祀の素盞鳴尊は、宇津宮という地にあった祠を合祀したもの。

『賀茂大明神傳記』に、「家傳云、隠州賀 茂大明神之鎮座者、人皇四十六年代孝謙天皇之御宇天平年 中、玉安姫入到於隠岐國。時十二月三十日、繋於船今之賀 茂浦也。守彼神明來而造営於今之社地也。有鎮座而姫亦給 仕之久矣。終卒於賀茂之客館。無子孫而後里人信敬而祭 之。暦數代而後野津對馬守入渡而此浦領賀茂之邑、而即爲 神職矣。聊因有納貢之違失、而改家徒之筭。其徒其御遺 恨、故不俟其爭而渡丹後國、又不再歸矣。其子過三四年來 而續社職之家。於是家名全矣。今亦野津氏爲神職矣」云々とある。

【倭名類聚抄 阿波國】

阿波国 名方(のちに名東,名西),板野,阿波,麻殖(おえ),美馬(みま)(のち三好が分出),勝浦,那賀(のち海部が分出)の7郡がおかれる。

板野〈伊太野〉郡 松島〈萬都之萬〉 津屋〈都乃也〉 高野〈多加乃〉 小島〈乎之萬〉 井隈〈井乃久萬〉 田上〈多乃加美〉 山下〈也萬乃之多〉 余戸〈アマベ〉 新屋〈ニヒノヤ〉

阿波郡 高井〈多加爲〉 秋月〈安木都木〉 香美〈加々美〉 拜師〈波也之〉

美馬〈美萬〉郡 蓁原〈波都波良〉 三次〈美須木〉 大島〈於保之萬〉 大村〈於保無良〉

三好〈美與之〉郡 三繩〈美奈波〉 三津〈美都〉 三野〈美乃〉

麻殖〈乎惠〉郡 呉島〈久禮之萬〉 忌部〈伊無倍〉 川島〈加波之萬〉 射立〈伊多知〉

名方西郡 埴土〈波爾〉 高足〈多加之〉 土師〈波之〉 櫻間〈佐久良萬〉

名方東郡 名方〈奈加多〉 新井〈爾比井〉 賀茂〈加毛〉 井上〈井乃倍〉 八萬〈波知萬〉 殖栗〈惠久利〉

勝浦〈桂〉郡 篠原〈之乃波良〉 託羅〈多加良〉 新居〈爾比乃井〉 餘戸〈アマ〉

那賀郡 山代〈也萬之呂〉 大野〈於保乃〉 島根〈之萬禰〉 坂野〈佐加乃〉 幡羅〈波良〉 和泉〈伊豆美〉 和射〈ワサ〉 海部〈加伊布〉

楽器『筑』

秦で広く行われていたことから秦箏とも呼ばれ,中国大陸西部に興った秦と箏との関係は密接である。

『史記』刺客列伝には、筑の名手高漸離(燕の人)が、筑に鉛を入れて秦の始皇帝になぐりかかったが当たらず、誅殺されたという伝説がある。高漸離が鉛を入れて始皇帝をなぐろうとした筑は、棒状の古制の筑であろう。筑が、燕・斉・趙・楚などで用いられていたことは、『戦国策』『史記』に描かれている。『史記』高祖*本紀には、漢の高祖*(楚の人)は筑を善くし、『西京雑記』(前漢・劉[音欠])にも、高祖*が愛した戚夫人もまた筑を善くしたという。古制の筑は、戦国時代から前漢代にかけて、支配者のみならず民衆にも愛好された楽器であった。

九州の筑紫

『隋書』倭国伝の「竹斯」とある。

古事記には「筑紫」「竺紫」、 日本書紀には「筑紫」「竹斯」「竹紫」、万葉集には「豆久紫」と表記されました。「筑紫」という2文字が見られるのは大化2(646)年頃からとされます。

(江戸期の文献の説によると) 「筑紫」とは「西海道」すべてを言うのではなく、「筑前」のみを言うのである。そして、筑前が古来、異国から「大宰府」へ向かう重要な路であったため、それが石畳にて造られていた。それを称して「築石」といい、これがなまって「筑紫」となったのである。石畳の道は筑前の海岸に現存しているという。

筑紫野市原田の式内名神大社筑紫神社の縁起には「往古筑紫の名は当社の神号より起こる」とあり、もともと政治的・軍事的に重要であった福岡平野と筑紫平野の間の三郡山地と背振山地に挟まれた太宰府市、筑紫野市あたりの狭隘部を指す地名であったと考えられます。

「筑紫」の語源は、国の形が「木兎(つく)」に似ているとする説、人命尽神の「尽(つく)」に由来する説、「築石(つくいし)」からとする説、果ての国の「尽(つく)し」とする説など、諸説あります。

「筑前」「筑後」は、「筑紫の国」の北半分が「筑前」、南半分が「筑後」です。「筑豊」は福岡県の中でも、古く「豊の国(現在の大分県)」の領地に属していた地域、接していた地域なので「筑+豊」です。

797年に成立したとされる『続日本紀』の大宝2年(702年)の項に「筑紫七国」(筑後、筑前、肥後、肥前、豊後、豊前、日向)の表現があります。

筑後國風土記に云はく、「筑後國はもと筑前國と合せて、一つの國たりき。... 因りて、筑紫國と曰ひき。後に、両の國に分ちて、前後と為す。」

●土佐日記

六日。澪標(みをつくし)のもとより出(い)でて、難波(なには)に着きて、川尻(かはじり)に入(い)る。みな人々、媼(をむな)、翁(おきな)、額(ひたひ)に手を当てて喜ぶこと、二つなし。

かの船酔(ふなゑ)ひの淡路(あはじ)の島の大御(おほいご)、みやこ近くなりぬといふを喜びて、船底(ふなぞこ)より頭(かしら)をもたげて、かくぞいへる。

いつしかといぶせかりつる難波潟(なにはがた)葦(あし)漕(こ)ぎ退(そ)けて御船(みふね)来(き)にけり

いと思ひのほかなる人のいへれば、人々あやしがる。これが中に、心地悩む船君(ふなぎみ)、いたくめでて、「船酔ひし給(たう)べりし御顔(みかを)には、似ずもあるかな」と、いひける。

●澪標 (源氏物語)

「澪標」(みおつくし)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第14帖。巻名は作中で光源氏と明石の御方が交わした和歌「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」および「数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」に因む。

●みおつくし(澪標)

「みおつくし(澪標)」というのは、その昔、難波江の浅瀬に立てられていた水路の標識のことです。

「みお」は、漢字で「澪」または「水脈」と書き、水路という意味です。

「くし」は漢字で「串」、即ち「杭」の意味です。

難波江につくしを置いた地ゆえに筑紫と呼ばれていたのかもしれません。

(難波江、大阪市の上町台地の西側まで来ていた海域の古称。)

古事記や日本書記、そして、神話に書かれている出雲の国譲り、オオクニヌシはアマテラスに国を譲ります。しかし、出雲神話には国を譲っていません。

どういうことでしょうか?

そう、島根の出雲と神話の出雲は別の国だったのです。では、神話の出雲はどこなのでしょうか?

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

目次へ

****0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から** 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)へ戻る

3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

■出雲風土記に国譲りなどない。

古事記・日本書記・旧事紀と大きな違いがあるが、すべて天皇記・国記で作られた史書を基準に編纂されております。しかし、古事記が完成した712年に諸国の風土記の編纂が命じられ、733年に出雲風土記が完成します。

その出雲風土記には、

『我(あ)が造り坐(ま)して命(うしは)く国は、皇御孫命(すめみまのみこと)、平世(やすくに)と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍(め)で直し賜ひて守りまさむ』

現代語の意訳:「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」

と書かれているのです。

『出雲風土記』では、

オオクニヌシが自発的に国を譲ると言っており、大きな宮(出雲大社)を建ててくれたら国を譲るなどということも言っていません。

また、古事記・日本書記では、すべて譲ると言っているのに対して、「ただし・・・」と出雲の国だけは譲りませんと宣言しているのです。つまり、オオクニヌシは出雲の国から去っていないのです。

また、スサノオはヤマタノオロチを退治して、稲田姫と清(すが:須賀)に至って、そこに宮を建てて結婚、大己貴をもうけたと言われております。

ところが出雲におけるスサノオの足跡は簸(ひ)川(現斐伊[ひい]川)の上流と清(すが)(須賀)の二箇所のみしかありません。また、『出雲風土記』には「スサノオのヤマタノオロチ退治」は一切見当たらないのです。

では、出雲風土記は日本書記と呼応していないかと言えば、そうでもありません。

それは意宇(おう)郡母理(もり)郷の郷名由来記事で、「天(あめ)の下所造(したつく)らしし大神大穴持命(おおなもちのみこと)は、越の八口(やくち)を平定し給うて、お還りになった時、長江山においでになって詔して、『私がお造りして領有して治める国は、皇御孫(すめみま)の命(みこと)が無事に世々お治めになる所として、統治権をお譲りしよう。ただ、八雲(やくも)立つ出雲の国は私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて、玉珍(たま)を置き賜うてお守りしよう』。だから、文理(もり)という」とあります。

ここで語られる大穴持の『私がお造りして領有して治める国は……』は、『書紀』神代紀下第九段の一書②にある大己貴の言葉「吾がしらす顕露(あらわ)のことは、皇孫まさに治め給うべし。吾は退りて幽事(かくれたること)を治めん」に、見事に対応しています。『書紀』がなければ、『出雲国風土記』にある皇御孫(すめみま)の命(みこと)がニニギであることは絶対にわからないのです。

出雲風土記には書かれていませんが、出雲の国には多くのスサノオの痕跡が残されております。また、ヤマタノオロチの伝承も残されています。

どうやら、出雲風土記の編纂者がスサノオの存在を意図的に隠したことが判ります。同時に出雲の国譲りが存在していなかったことを隠さなかったことは、編纂者の意地であることが伺えるのです。

続日本紀によれば日本書記が漢文調の文体で書かれているのは官選の国史である為です。対外的なモノということは、日本以外の他国が見ることを前提としております。そう考えると神武天皇の即位が後漢の終り頃から魏の時代ではあまりにも絞まりのない浅い歴史となります。中華においては司馬遷(紀元前91年頃)が『史記』を書き、紀元前2500年頃に建国したと歴史を綴っているのに対して、倭国は卑弥呼と同年代の紀元150年頃が建国では箔が付きません。よって、神武天皇の即位を紀元前660年に改め、各地の伝承を神世の時代として数千年の歴史があるように改編したのであります。

当然、日本書記の完成に近づくと、各地の伝承と国史に齟齬が発生してきます。それゆえ、712年に元明天皇は地方の風土記の編纂を命じたのです。

こうして、1000年以上も続く辻褄合わせが始まったのです。

たとえば、アマテラス、ツクヨミ、スサノオは多くの名を持ちます。

・アマテラス=天照大御神(あまてらすおおみかみ)=天照大神=大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)=大日女尊(おおひるめのみこと)=大日霊(おおひるめ)=大日女(おおひめ)=皇祖神=ヒルコ(日ル子)=卑弥呼=瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=ニギハヤヒ

・ツクヨミ=月読命=月読尊=月夜見尊=月弓尊=都久豆美命=阿沼美神=瀬織津姫

・スサノオ=素戔男尊=建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)=神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)=牛頭天王

このように神々は沢山の名前を持っております。

さて、その中でもニギハヤヒはアマテラスと同一神とは言われません。しかし、ニギハヤヒの正式名称は天照国照天火明櫛玉饒速日命(アマテル・クニテル・ヒコ・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ ノ ミコト)であり、天照大神と同じ名を持っております。このニビハヤヒの妻と言われるのが瀬織津姫であり、国津神の女神と呼ばれておりました。

アマテラスが男神か、女神かという議論を別にすれば、

持統天皇の御世において、アマテラスと持統天皇とを重ねることで孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承するのに都合がいいならば、アマテラスを女神に断定するのに戸惑いはなかったでしょう。

すると、その妻である瀬織津姫の存在が不都合になります。こうして、持統天皇の御世から明治に至るまで、祭神瀬織津姫の名が消されていったのです。

それを証明するように、

北海道苫小牧市の樽前山神社では、氏子衆によって「瀬織津姫命」をまつると主張されていたにもかかわらず、明治期になると、明治天皇の「勅命」の名のもとに、祭神が「大山津見神」ほか二神と表示され、瀬織津姫の名が消されております。こんなことを1000年以上もやっているのです。

本来、ツクヨミは月の女神とされています。瀬織津姫の化身はウサギであり、日の神の妻である瀬織津姫も月の女神でした。男神アマテルを女神アマテラスに変わると、アマテルであったニギハヤヒはツクヨミとなり、「もう会わない」と宣言されて封印されたのかもしれません。

また、スサノオの信仰は広く、全国に広がっています。そのスサノオの子である大国主(オオクニヌシ)も多くの名を持っており、

大国主=大己貴神(オオナムチ)=大物主(オオモノヌシ)=大穴牟遅神=八千矛神=ニギハヤヒ

となっております。

しかし、瀬織津姫が大山津見神に改編されたことを見れば、事実は逆なのであります。日本書記に基づいて、元々いた神の名を辻褄のあう神の名に改編することで、神話の信憑性を高めるという作業が永遠になされてきたと考えるべきでしょう。

そう考えると、

1つの神の名に多くの名前があることに疑問がなくなるのです。

しかし、出雲風土記では、存在しない国譲りがあったと書き残すことに抵抗があったのでしょう。では、神話に出てくる国譲りはどこで行われたのでしょうか。

■阿波風土記に国譲りがある。

古事記・日本書記・旧事紀の神話の国産みは、

1.淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)から始まります。

日本書記の一書においてのみ、大日本豐秋津洲が登場しますが、それ以外は淡路島であります。そして、次に古事記では伊予之二名島(いよのふたなのしま)が登場します。

はじめて古事記や日本書記は読む方は、何故阿波なのかと疑問に思った方も多いでしょう。淡路島や伊予は田舎であり、伊勢神宮や出雲大社のような歴史的な聖域とされていません。淡路島にはイザナギの伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)があります。しかし、初詣客数は約1万5,000人と50位以下で100位に入るかどうかの地名度です。

一番ご近所の西宮神社(兵庫県西宮市)は約50万人、反対側の徳島では大麻比古神社(徳島県鳴門市大麻町坂東広塚)が26万人と決して参拝者がいない訳ではありません。

しかし、奈良にある橿原神宮(かしはらじんぐう)が創設されたのは明治になってからであります。

神武天皇を祭る神社

熊本 70、廣島 37、岡山 32、 福岡 16、 宮崎 15、 鹿児島 15、 山口13、福井 12、 長野 10 奈良 6社

大和王朝を作ったとされる初代天皇が即位された奈良で6社とわずかです。

では、イザナギとイザナミを祭る神社に人気がないのかと言えば、決してそうでありません。

三重の熊野本宮大社は全国3000社ある総本山であり、また、多賀大社は古くから「お多賀さん」の名で親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集め、全国に二百数十社を持ちます。

イザナギ・イサナミを祭った神社(田村誠一氏著書より)

青森 7 岩手 6 宮城 4 秋田 6 山形 11 福島 4 福島 4 群馬 2 栃木 1 埼玉 5 干葉 9 東京 5 神奈川 6 新潟 3 富山 1 石川 9 福井 11 長野 9 山梨 6 静岡 14 愛知 20 岐阜 22 滋賀 4 三重 1 奈良 2 京都 7 大阪 2 和歌山 1 兵庫 14 岡山 11 広島 5 鳥取 6 島根 10 山口 4 香川 2 徳島 5 愛媛 8 高知 8 福岡 15 佐賀 2 長崎 5 熊本 8 大分 2 宮崎 12 鹿児島 8

畿内は総本山があるに関わらず、その数が少なく。古事記・日本書記に出てくる伊予には、言われの神社が多くありそうですが、逆に少ないという奇妙な結果が出ております。

まるで都合の悪い事実が出て来ないように、その他の神々と習合して隠ぺいでもなされたのでしょうか。

淡路島は国産みで出てくるのに関わらず、その存在が置き去りにされています。

712年に編纂を命じられた風土記には、

1 郡郷の名(好字を用いて)

2 産物

3 土地の肥沃の状態

4 地名の起源

5 伝えられている旧聞異事

などが示されています。『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』は一部欠損して残っております。その他の国の風土記も残されていたハズですが、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみであります。

その1つである『阿波国風土記』も逸文が残るのみで、一説には、明治初期まで阿波藩に存在したとの説もあったと言われています。

その逸文は萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されている主に五節がほとんどなのです。

(1) 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)

阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

(2) 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)

中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。

阿波國風土記ニ見エタリ。

(3) 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)

阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。

奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。

(4) アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)

阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

(5) 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)

阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。

勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。

粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。

〔仙覚抄〕(阿波國続(後)風土記について(1)HPより引用)

下図は「仙覚抄」勝間井の部分。

<s-02-09 仙覚抄>

S0209

〔仙覚抄〕(阿波國続(後)風土記について(1)HPより引用)

『阿波国風土記』の(1)に崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇の称号が書かれているのは何故なのでしょうか?

古事記・日本書記に崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇が阿波出身であるなどとは書かれていません。

『阿波国風土記』の(5)によると、勝間の由来は倭建命が大御櫛笥を忘れた場所と書かれています。この「勝間の井」は義経が名前を聞いて縁起がいいと言った場所で、觀音寺村の舌洗の池と一緒に残されておりますが、その一文が何を意味するのかは理解できかねます。唯一言えることは、『阿波国風土記』に崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇、倭建命も阿波と深い関わりがあったと思わせる一文であるということだけです。

これを裏付けるように、『日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』の中に、

阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う。

御所(ごしょ)神社、

別名、「瑜伽(ゆうが)神社」(徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921)

御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 大山祇命 誉田別命 息長帯比売命

大麻綜杵命は、10代崇神天皇の外祖父。

伊加賀色許賣命(伊加賀志神社の祭神)の父君(『先代旧事本紀』による。『日本書紀』では母)にあたる

大麻綜杵命の中から『麻』の文字を抜いた大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られております。この大綜杵命は旧事紀で伊香色謎命の父とされており、大麻綜杵命と大綜杵命が同一人物であることも判ります。

伊香色謎命は第8代孝元天皇の妃、第9代開化天皇の皇后であり、第10代崇神天皇の祖母になります。また、孝元天皇の皇后は欝色謎命(うつしこめのみこと)であり、欝色謎命は大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)であります。一方、旧事紀では、物部連公の祖の出石心命(いずしこころのみこと)の孫であると記載します。

素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

つまり、物部氏の一族であると主張しているのです。

一方、『麻植郡郷土誌』では、大麻綜杵命は阿波忌部氏であり、忌部氏の祖は天岩戸で活躍した天太玉命ですが、天太玉命に従っていた五神があり、そのうち、天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏の祖となったといわれます。つまり、大綜麻杵命は天日鷲命を祖とする一族であると『阿波国風土記』は語っているのです。

同時期の伝承の中に、讃岐国の香川郡桃太郎神社には、第7代孝霊天皇の皇子の稚武彦が本津川で洗濯をしていた娘に一目惚れして、その婿となり、女木島に住んでいた鬼を退治したと云う伝説を伝えております。

どうやら欠史八代の御世において、四国において天皇家と忌部氏に深い関係があると判ってきました。

古事記、日本書紀、旧事紀では、瀬織津姫の事も含めて、あまり四国のことが語られておりません。まるで消し去ったようにポッカリと空白地ができています。

一方、『阿波国風土記』には、イザナギ・イザナミの伝説から古事記・日本書記・旧事紀の原型を思わせる箇所が幾つもあります。そして、阿波古事記伝説では、古事記の伝承は阿波にあったと言うのです。

<s-02-10阿波古事記の地名>

S0210

古事記には、須佐之男命は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智(やまたのおろち)という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまうとあります。

確かにヤマタノオロチは大俣大蛇とも書き、吉野川の流域に大俣と高志という地名が並んでおり、須佐之男命はヤマタノオロチを倒したというのであります。

■阿波古事記

阿波古事記のあらすじ

はじめ高天原(木屋平)に神様が現れました。イザナギとイザナミの神はオノコロ島(舞中島)に降り、ヒルコ・淡島(吉野川市(旧麻植地区)・善入寺島)を開拓したが、うまくいかなかったので、改めて淡路島から国を広げ始めました。しかし国を広げる途中、イザナミの神は亡くなり出雲国と伯伎国の境の比婆山(吉野川下流と上流の境、岩津にそびえる高越山)に葬りました。

イザナミの神に会いに行ったイザナギの神は、妻の醜い死体を見て黄泉国の軍団に追われて逃げ、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(阿南市見能林町)で黄泉国のよごれを落とすため海に入り禊ぎをしました。その時に生まれた天照大御神と月読命は、高天原(神山町)に送られ、スサノウは、「海原を治めよ」と宍喰町に送られました。しかし、スサノウは海原を治めず、「母の国根の堅洲国に行きたい」と泣きわめいたので、追い出されました。

スサノウは、母の国(吉野川上流)へ行く途中で、姉の天照大御神に挨拶するため高天原へ登りましたが、高天原で数々の乱暴なことをしたので、姉の天照大御神は、天岩戸(神山町元山)にこもってしまいました。困った多くの神々は、天照大御神を岩戸より呼び出すため祭りをし、そしてスサノウを追放しました。

吉野川流域に下ったスサノウは、高志八俣の大蛇を退治し、スサノウの子孫の大国主命は、後に出雲(葦原中国)すべてを治めるようになりました。大国主命の子供である事代主命が、出雲国を譲ることを承諾したので、出雲(豊葦原水穂国)の高千穂峰へ高天原から天照大御神の孫ニニギノ命が降ってきました。

そして、ひ孫の神武天皇は、鳴門海峡を渡り奈良に出向いて行きました。

(高天原をゆくHPより引用)

この阿波古事記の信憑性がどこまであるか?

阿波古事記は平成12年(2000年)3月1日(水)阿南古事記研究会が発足し、7月10日(月)徳島古事記研究会が発足し、その中から編纂された新しい歴史書であります。

阿波古事記研究会

http://park17.wakwak.com/~happyend/index.html

ここでは伝承として残されていた記録や地名などから、阿波古事記の検証がなされております。実に興味深いことが書かれております。

たとえば、スサノオが与えらえた旧宍喰町の旧宍喰町史に「八坂神社は,鎌倉時代の頃から日本三祇園の一つと称された。」と書かれてあります。日本三祇園とは,京都の祇園八坂神社・広島県福山市の沼名前(ぬなくま)神社・徳島県海陽町宍喰の八坂神社を指しており、徳島県海陽町では宍喰祇園祭やまほこ巡幸が執り行われております。

京都祇園やまほこ巡幸、宍喰祇園祭やまほこ巡幸、阿波古事記の記述が間違っているとすると、宍喰にやまほこが祭られた理由は何なのでしょう。

<s-02-11 やまほこ巡幸 >

S0211

その他にも、天津祝詞や大祓詞には、「〔筑紫の日向(ひむか)の橘の〕小戸の阿波岐原(あはぎはら)に~」とありますが、何故に『阿波』なのでしょうか。

筑紫の日向に阿波岐原という地名があるのが不思議なことです。逆に阿波の東海岸には、牟岐・由岐・木岐という地名が残されており、阿波国の"岐"と呼べる地域であります。

イザナギ・イザナミを祀る神社は多くありますが、イザナミを社名とするのはわずかです。その1つが阿波国美馬郡の伊射奈美神社(いざなみじんじや)であります。この美馬郡は阿波古事記でいうイザナミの国、根の国です。

<s-02-12 旧伊射奈美神社の跡>

S0212

〔旧伊射奈美神社の跡〕(美馬市HPより)

<s-02-13 母国 根の堅州国>

S0213

〔母国 根の堅州国〕(阿波古事記研究会HPより)

旧伊射奈美神社は川の中央にあったようですから、もしかすると舞中島の中にあったようです。ここから東に目を向けると高越山が見えます。

高越山はイザナミを葬った山とされ、その高越山山頂に伊射奈美神社の鎮座地があったとされ、『伊邪那美命(いざなみ)の神稜』であったと言われているそうです。高越山には、高越寺があり、寺の開基は役小角であると言われ、弘法大師が28歳の頃(801年)に修行したと伝えられます。その高越寺の上にあるのが高越神社であり、高越神社の祭神は天日鷲命とされております。天日鷲命は阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神であります。

そして、この吉野川を下ると、ヤマタノオロチを連想する大俣と高志という地名に辿り着きます。そして、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を連想する天村雲神社(徳島県吉野川市山川町村雲)、櫛名田比売と共に暮らす場所を探したと言われる須賀は、徳島県吉野川市に、前須賀、先須賀、東須賀、中須賀、北須賀、西須賀と多く残っております。

徳島県阿南市長生町宮内にある八桙神社(やほこじんじゃ)の境内の看板には、「長(なが)の国の祖神は、大己貴命(おおなむちのみこと)」と書かれています。阿波では、南方を古代から「長の国」と呼び、北方を「粟の国」と呼んできたそうです。他にも事代主命の事代主神社(徳島県徳島市通町)、建御名方神の多祁御奈刀弥神社(徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪)もありました。

<s-02-14 阿波の国の建御名方神社>

S0214

<s-02-15 出雲の国の建御名方神社>

S0215

(めのや出雲大社店HPより)

もちろん、出雲にも建御名方神社がありましたが、ずいぶんと質素のようです。

建御名方神と言えば、その対となる建御雷神(タケミカズチ)が気になります。

そして、それは当然のようにありました。

建御雷神の建布都神社(徳島県阿波市市場町香美字郷社本18)は、多祁御奈刀弥神社から吉野川を上流に上ったところ、阿波(粟)の国と呼ばれた所に鎮座しております。

他にも木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が祀られる「曽我氏神社(そがうじじんじゃ)」(徳島県名西郡石井町城ノ内字前山993)、茅野姫(かやのひめ)が祀られている「鹿江姫神社(かえひめじんじゃ)」(徳島県板野郡上板町神宅字宮ノ北45)、神武天皇・神日本磐礼毘古之命(かむやまといわれひこのみこと)が祀られている「樫原神社」(阿波市土成町樫原山ノ本)、天岩戸である立岩神社の元山、手力男命塚と目白押しであります。

もし、これだけのモノを古事記・日本書紀が成立してから作り、子子孫孫まで伝えてきたとすると、並々ならない努力は最早、人の為す術ではなく、怨念からくる悪魔か、鬼の呪詛そのものです。つまり、神話の元となる事変か、伝承発祥の地のいずれかという訳です。

■出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある

やっとここに辿り着きました。

古事記・日本書記・旧事紀は聖徳太子の時代である推古天皇の御世で天皇記・国記をベースに書かれたものというは間違いありません。この天皇記は『大王記』と称されていたとも言われます。記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』も7世紀くらいに成立したと言われ、同じく『書記』の史料とされた『百済本記』(百済三書の一つ)を参考にするくらいですから、6世紀以前の史料は乏しかったと思われます。

ほとんどが口伝であり、編集も困難を極めたことでしょう。

<s-02-08古事記・日本書記・先代旧事本紀の完成年代>

S0208

さて、記紀を完成したのは藤原氏が謳歌する時代であり、藤原氏が物部氏や蘇我氏の手柄を自分の手柄にしたように、天皇記を編纂したであろう物部氏・蘇我氏は初代天皇である神武朝から第16代仁徳朝当たりまでの忌部氏(いんべうじ)の活躍した人物を抹消、あるいは自分の系図に書き換えてしまったのでないでしょうか。

もちろん、物部氏・蘇我氏が悪意で歴史を改編した訳はなく、口伝などで曖昧な部分を自分の系図に入れただけなのかもしれません。

6世紀の推古天皇(593年1月15日 - 628年4月15日)の御世の者にとって、初代神武天皇が即位した辛酉年(181年)は、400年も前の伝説なのです。

現代人の私達でいうならば、信長・秀吉・徳川の歴史を紐解くようなものなのです。我々が戦国時代を検証できるのは、様々な記録や日記という歴史文献があるから検証できるのであり、紀元前二世紀から五世紀はこの倭国では紙や木簡で記録をすべて留めるという習慣もない時代でありました。

神武天皇が天下を取り、それを綏靖天皇が継承した程度の伝承は残されていても、安寧天皇(あんねいてんのう)は何をした人だった?

そもそも名前が残されていたのかも怪しい時代なのです。それが6世紀以降、記録を残す文化が中華より入ってきて、様々な伝承が各地で残されたのです。そして、6世紀に編集する上で、阿波(粟)の国からイザナギ・イザナミの伝承がはじまっている程度しか伝承が残っていなかったとするなら、古事記には阿波から国造りが始まったと書かれている理由が見えてきます。

古事記には、

1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)

2.伊予二名島(四国)粟国,讃岐国,伊予国,土佐国

3.隠伎の三子島 ←伊島(徳島県阿南市)

4.筑紫島(九州)筑紫国,豊国,肥国,熊曾国

5.伊伎島(壱岐島)

6.津島(対馬島)

7.佐渡島 ←沖縄列島?

8.大倭豊秋津島(畿内)

と小さな瀬戸内に浮かぶ島々が記載されています。

<s-02-16 古事記に書かれる日本>

S0216

〔古事記に書かれる日本〕(阿波古事記研究会HPより一部改編)

この中で隠岐と佐渡だけは方向から違います。

話は逸れますが、

隠岐島の三子島と書かれておりますが、隠岐島は4島で数も異なります。阿波古事記では、四国の東にある三島からなる伊島と言われております。

また、琉球の歴史は二千年前に天から聖なる島に久高島に上陸し、アマ・ミクは稲の種を持ってきたと言われ、アマ・ミクの長男は天孫を名乗り、王となりました。アマ・ミクの娘は神女となり、王国と兄弟の王を守るために、各地に設けられた御嶽(うたき)を巡り、祈りをささげたと言われ、沖縄に多い名前が高良さん、多賀良、多嘉良があるそうです。また、福岡県久留米市には高良神社があり、祀るのは高木さんたちがおり、高木神に率いられた民が、琉球を経由して列島に上陸したと考えられております。ゆえに高木神の子の名前は、思兼(おもいのかね)と呼ばれ、貴族には、思徳金、思市金、思松金のように、頭と尾ともに付ける風習が残されていました。

琉球王の神号は、

英祖 日子(ちだこ)

察度 大真物(うつまむの)

武寧 君志真物(ちんしまむの)

思紹 中之真物(なかむまむの)

日子は太陽または日神のことで、最上の尊厳を表わすため、王のことを日子と称します。真物(まむの)とは、偉大な傑物の意味であり、大は大物主を意味するのかもしれません。

この察度(さっど)は旧古代琉球王朝の名の1つであり、察度と佐渡がよく似通っております。

これも1つに推測に過ぎず、何の確証もありません。

ただ、日本には同じような地名が多くありますから、隠岐と佐渡は西日本のいずれかの島々の名前である可能性が高いと思われます。

話を元に戻しましょう。

この古事記の地図に出雲の国は含まれておりません。

古事記・日本書記・旧事紀に書かれている出雲の国では、アマテラスに遣わされた建御雷神が国譲りをオオクニヌシに命じます。そして、オオクニヌシは「仰せのとおりこの国をお譲りします。そのかわり、高天原の大御神様の御殿のような神殿を建てていただきたい。」と言って応じました。

これは単なる神話として語られてきたと思われていましたが、近年、古代出雲大社の発掘調査から、巨大な建造物であったことが判りました。

当時の大建造物のおぼえ歌がある「大屋を誦して謂う。雲太、和二、京三」のように、大和国東大寺の大仏殿、京都の大極殿八省(今の平安神宮)よりも大きな建造物があったのです。そのことから神話の出雲の国であると思われていました。

しかし、出雲風土記には、

『我(あ)が造り坐(ま)して命(うしは)く国は、皇御孫命(すめみまのみこと)、平世(やすくに)と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍(め)で直し賜ひて守りまさむ』

現代語の意訳:「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」

と書かれており、オオクニヌシは自ら国を守ると言って、出雲の国譲りは行わしていないのであります。

当然、古代出雲大社を立てたのはオオクニヌシの一族ということになります。

出雲風土記で国譲りが存在しないと言い、古事記の地図でも出雲の国は含まれておりません。つまり、神話の出雲の国と律令制が始まった時点の島根の出雲の国は別の国であったということなのです。

では、神話の出雲の国はどこでしょうか?

古代の神々を祀った神社は日本全国にあり、そこから推測するのも簡単でありません。たとえば、天の岩戸は全国各地にあり、それを基準にすると高天原の候補地も全国になってしまいます。

<s-02-X01 天の岩戸の日本地図>

S02x01

そこで古事記を頼りに推測を搾ると、伊勢、和歌山、淡路、徳島、宮崎に搾られます。さらに国造りの神話から淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)の周辺と仮定すれば、和歌山、淡路、徳島に搾れる訳です。

阿波古事記に出雲の国譲りが書かれているように徳島を神話の地と考えるのも一興でありますが、和歌山を高天原と考える説もあるのです。

和歌山の高野山付近を古くは『たかの』と呼んでいた風習からこの地域を『高天原』と考えると伊勢が出雲となります。仮定することもできます。

『伊勢国風土記』に伊勢津彦(いせつひこ)は、国津神で風の神であり、元の名を出雲建子(イズモタケコの)命、またの名を櫛玉(クシタマの)命といいます。風土記逸文によれば、伊勢津彦命は大和の天津神に国土を渡すよう要求され、断っていたものの、最終的に追われ、のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って、伊勢国としたと記述されるのです。

そう考えると和歌山も候補と言えるのですが、和歌山や三重には肝心のヤマタノオロチ伝説がないのです。

アワより先に生まれたヒルコの総本山は西宮神社(兵庫県西宮市)なのですから、はやり淡路島近海が候補となります。

すると、播磨国風土記に伊勢野の項にこう書かれています。

「衣縫猪手(きぬぬいのいて)・漢人刀良(あやひとのとら)らの祖は、ここに住むことにした時、社を山麗に立ててうやまい祭った。山の峰においでになる神は、伊和大神のみ子の伊勢都比古命・伊勢都比売命である。そこで伊勢と呼ぶ。」

伊勢野は現在の姫路市林田町上伊勢付近になります。

この付近の伊和神社〔伊和坐大名持魂神社〕(兵庫県宍粟市一宮町須行名407)は、主祭神に大己貴神を祭っておりますが、『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなしております。配神に少彦名神と下照姫神とあり、少彦名神が祭られているのは非常に興味深いものがあります。

少彦名神は大国主と共に全国を回った神であり、鳥取県米子市彦名町の粟島神社、和歌山市の加太神社、島根県玉造温泉の玉作湯神社、愛媛県道後温泉の湯神社、東京の神田明神、茨城県那珂湊市の酒列磯前神社、山梨県甲府市の金桜神社など祭られております。この少彦名神と伊勢津彦神が一緒に祭られているは偶然とは思えません。

伊勢津彦神は『伊勢国風土記』によると伊勢の国神とあり、調べてみると、『伊勢風土記 逸文』に伊勢の国名の由来として、

「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、

出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。

此の神、石もて城を造りて此に坐しき。

ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」

とありました。

陽の伊勢に陰の出雲と呼ばれ、天皇家と同じくらい格式が高いのです。

ゆえに、出雲大社の宮司は天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家のみが祭祀を担うことが許されとされており、皇室の者すら本殿内までは入れないというしきたりを守り続けています。

先頃、高円宮典子様が輿入れされ、その記者会見で出雲大社の宮司である千家(せんげ)さんは、

「私の祖先は2000年前の天照大御神の弟です」とおちゃめっぽく自己紹介されました。」

歴史的に見て、天皇家の娘さんが千家に輿入れするのが大変なことなのです。

表の大神主である伊勢と裏の大神主である出雲、その双方に大国主が関わっております。

大己貴神と大国主は同神とされています。

大己貴神=大国主命

すると、伊勢津彦(伊勢都比古命)は大国主命の子であり、タケミナカタも大国主命の子でなります。大国主や素戔嗚の伝説は、畿内から島根の出雲まで広がり、タケミナカタは諏訪湖まで逃亡しております。

さて、古事記で黒く塗られた地図を見た瞬間、もう1つの地図がくっきりと重なります。それは2世紀以降に分布した銅剣・銅矛・銅戈圏と銅鐸圏の分布図であります。

<s-02-17 2世紀以降 銅矛・銅鐸圏>

S0217

どうですか?

見事に重なっていると思いませんか。

さらに銅鐸の分布図を古冢(弥生)中期と古冢(弥生)後期の二つに分けた図を見ると興味深い分布の移動が見受けられます。

<s-02-18 大和の空白>

S0218

〔大和の空白〕(第三部 説話の考古学『ここに古代王朝ありき』HPより)

銅剣・銅矛・銅戈の文化の前に栄えた銅鐸文化は、古冢(弥生)中期(一世紀前後)の畿内を中心(阿波・播磨・奈良)に栄えた銅鐸圏は、東海・中部・越前・出雲・島根・吉備まで広がっていますが、古冢(弥生)後期(二世紀)になると滋賀・東海に密集しております。

明らかに大和に空白地帯が発生し、畿内西部を中心に銅鐸文化からの乖離が見られるのです。

銅鐸(どうたく)は紀元前2世紀から2世紀頃に栄えた文化であり、弥生時代の分類でいえば、Ⅲ期からになります。

<s-02-19 弥生時代>

S0219

〔弥生時代〕(ウィキペディアHPより)

弥生Ⅲ期は、北九州において農機具が激変する時期にあたります。つまり、石製の農具から鉄製の農具に変わっているのであります。一方、畿内においては弥生Ⅴ期まで石製の農具を使っているのです。

遺跡から神話を推測するのは非常に難しい作業であり、正しい推測に行きつくとは限りません。そのことを承知した上で、1つ仮説が申し上げます。

島根の出雲の国(出雲風土記)には、国譲りがありません。古事記の国産みにも島根の出雲の国は描かれておりません。

また、国譲りに登場する建御名方と建御雷之男神の神社分布を見ると、鳥取から丹波に掛けて日本海側に空白地帯が存在します。つまり、島根の出雲から逃げた建御名方の経路は、

出雲~吉備~播磨~和歌山~三重~滋賀~岐阜~長野

以上の経路を使ったのです。大型帆船などない時代ですから、島根の出雲から石川県まで一っ跳びに行くことはできないのです。つまり、島根の出雲の国は神話に出てくる出雲ではありません。

一方、徳島の阿波古事記が真実かと言えば、これも不確かなことが多くあります。おそらく、元々あった神話に古事記・日本書紀の内容が影響して、不必要に編纂が行われていると考えられます。これは信長公記と並ぶ、歴史書の武功夜話が偽書とされる理由と同じであります。

しかし、天の岩戸、イザナミの墓、あまたの神々の神社をすべて有しているのは、伊勢・阿波・出雲・日向の四ヶ所しかありません。しかし、出雲には天の岩戸はありません。日向には古代出雲と思われる場所がありません。古事記・日本書紀に則って、阿蘇周辺を高天原と為し、島根の出雲を古代出雲と考えないと辻褄があません。

しかし、島根の出雲には『国譲り』は存在しないのです。

そう考えると古事記が、国産みで淡路島から始まっているのであれば、高天原もその周辺であって不思議はないのです。

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)に阿波國(あわこく)は海國(あまのくに)と書かれていますから、

阿波(あわ)=海(あま)=天(あま)

阿波の国を支配したのは、海人であり、後の天孫族で間違いないのでしょう。

さて、徳島の阿波の中心を流れる吉野川には、阿波古事記にまつわる故事が多く残されております。一方、その海の対岸にある紀の川を上ると、川の名前が『吉野川』と変わります。弘法大師が創建した高野山は、かって『たかま』と呼ばれておりました。

紀伊水道を対称線に引きますと鏡に映したように、東の木の国の紀の川(吉野川)の下に高野山があり、西の阿波の国の吉野川の下に高天原と呼ばれている土地であります。

<s-02-20 吉野川と紀の川の対照線>

S0220

弘法大師、空海の生まれは、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)とあります。阿波の高越山はイザナミの埋葬された山と言われ、弘法大師が高越山を修行の場にしたのは、その霊的な土地であったからであります。その高越山と対をなす高野山、弘法大師が高野山に総本山を置いたのには、そう言った深い意味が含まれていたのであります。

そして、この紀の川を遡り、山を越えた先に伊勢があります。

阿波の国、木の国、伊勢の国に同じ民族が住んでいたことだけは、間違いないようです。

さて、この古代阿波の国は良質な水銀が取れることで有名でした。古代人は水銀を辰砂(しんじゃ)と呼び、錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されておりました。

特に錬丹術では、不老不死の薬として、秦の始皇帝を始め中国の皇帝や弘法大師も服用したと言われております。

この特産地が吉野川上流にありました。その他にも伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが知られています。

なぜ、こんなに複雑になったかと言えば、イザナギ対イザナミ、アマテラス対スナノオ、百済対新羅、北朝対南朝と対立構造が何重にも上書きされていった為に、歴史を遡ることが複雑になっているからです。

たとえば、

生を司るイザナギ VS 黄泉のイザナミ、

イザナギを父神 VS 祭るアマテラス、イザナミを慕うスサノオ、

アマテラスを祭る物部氏 VS スナノオを祭る蘇我氏

百済と縁の深い物部氏 VS 新羅に縁の深い蘇我氏

百済系の神社である稲荷神社 VS 新羅系の八幡神社

呼んで字の如く百済の百済寺 VS 御音が近く新羅と判る白髭神社(※3)

百済を支援した天智天皇 VS 蘇我氏(新羅)に縁の深い天武天皇

奈良・平安時代、中央の官僚に取り立てられた百済系 VS 地方に残された新羅系

北朝に残った源氏・百済系 VS 南朝を支持した平家・新羅系

という構図がある中で、部族と部族が複雑に絡まって行きます。

時にアマテラスの末裔になり、場合によっては、スナノオの子孫になります。

かの織田信長も当初は藤原の末孫と称していましたが、ある時から平家の朝臣に変わっています。

また、

アマテラス=卑弥呼=神功皇后=持統天皇

など印象操作や戸籍の改竄も行われますから、何が正しいのか判らなくなってしまうのです。

三重県の桑名市(※4)には、タテミナカタとタテミカヅチの神社が多くあります。タテミナカタの一族が一時的にそこに根付き、タテミカヅチの来襲と共に一部がどこかに去っていったことが伺えます。

そのアマテラスに仕えるタテミカヅチは、神武天皇の東征において、自らの剣である『布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)』を高倉命に授けます。

しかし、布都というのは、

布都(フツ)=スサノオ、布都斯(フツス)=ニギハヤヒ、布留(フル)=倉稲魂尊 ウガ(宇迦)

という意味が込められており、タテミカヅチはスナノオの御魂を持って、スナノオの子(子孫)であるタテミナカタを追い詰めていたことが隠されているのです。スナノオの御魂とは、スナノオ(ニギハヤヒ)の一族のことでしょう。

タテミカヅチを祭る神社は播磨に多く残されており、播磨を通って河内・奈良に入ったニギハヤヒと交流も持つことになります。畿内に入ったニギハヤヒの一族は、木の国・伊勢(奈良・和歌山・三重)に勢力を伸ばします。そのとき、タテミカヅチの一族が力を貸していた頃であり、古冢(弥生)後期(二世紀)になると滋賀・東海に銅鐸文化が押し出され、畿内に別の文化を持ったニギハヤヒの一族がやってきたと考えられるのです。

では、ニギハヤヒがどこからやって来たのかを示す手掛かりは、北九州の久留米と畿内の奈良に残されている地名が、

筑前高田⇒大和高田、笠置山⇒笠置山、御笠山⇒三笠山、小田⇒織田、平群郷⇒平群郡、三輪⇒三輪、雲梯⇒雲梯、朝倉⇒朝倉(桜井)、三井⇒三井、浮羽町⇒音羽山、鳥屋山⇒鳥見山、鷹取山⇒高取山などなどと移民の名残りが歴史を物語っています。

<s-02-21 卑弥呼と邪馬台国>

S0221

〔卑弥呼と邪馬台国〕(安本美典著 1983 PHP研究所より)

そうすると、何故、ニギハヤヒの一族が久留米から奈良に移住したのかという疑問が湧いてきます。

その答えが気象庁のホームページに乗っている『由布岳 Yufudake』に残されております。

由布岳(北緯33°16′56″ 東経131°23′25″ 標高1,583m)

由布岳では、約2,200年前に規模の大きな噴火活動が発生した。 この噴火活動では、マグマの上昇により山体斜面が不安定になって山体崩壊が発生した後に、池代溶岩ドームが生成し、北東側から西側山麓に火砕流が流下した。 その後、山頂溶岩が出現し、南麓などにも火砕流が流下した。これら一連の噴火で由布岳火山灰が降下した。 その後、断続的に山頂でのブルカノ式噴火が続き、由布岳火山灰を降らせた。

約2,200年前に発生した大規模な噴火によって、湯布院盆地形成が形成されたとあります。そして、由布山に連動して九重山も噴火し、この一帯は断続的に噴火を繰り返したようです。

この紀元前2世紀には、石川県の白山や静岡の富士山も大噴火を起こし、日本列島は火山の活動期に入っていたようです。火山灰などで農作物の被害は甚大でありました。

<s-02-20 紀元前2世紀の噴火における被害範囲>

S0222

この紀元前2世紀は人口の激減と民族大移動が同時に起こったのであります。

このような一連の流れを汲むと、1つの歴史が浮かび上がってきます。

<s-02-23 紀元前4世紀頃>

S0223

紀元前4世紀から紀元前2世紀に掛けて、中華で多くの王朝が生まれ、殷・周の文化が春秋時代を経て、倭国に多く流入しております。「燕の鉄は倭人が運ぶ」などと評されているように、縄文・弥生時代を通じて、倭国は巨大なネットワークが形成されており、北部大陸からアスファルトなどが輸入され、日本列島を降って出雲などに運ばれ、逆に沖縄や宮崎のめずらしいが貝殻が北海道まで運ばれて、夫人たちの装飾品となっていました。

そんな中で、貴重な水銀を産出する『アワの国』は、強い影響力を持つようになり、周辺に多くの同盟国を持ってゆくことになります。

弥生時代前期から中期の銅鐸の分布は、淡路島を中心に播磨と阿波の国などが多く含まれており、海族(あまぞく)に広がっていたことを現われています。

<s-02-24 紀元前2世紀前>

S0224

紀元前2世紀前に、海族は周辺の部族を取り込み、大陸へ道を勢力下に治めていたのかもしれません。もし、旧邪馬台国というものが存在するなら、その首都がアワの国であり、その巫女がアマテラスと呼ばれていたかもしれません。アマテラスのアマは天と書きます。

天=海=アマ

つまり、アワの国の海族が天族でありました。

海族はツクヨミとスサノオの一族を取り込み、あるいは追い出して、古事記にある淡路・伊予・九州などを勢力下に治め、倭王と称されるまで勢力を伸ばしました。

<s-02-25 紀元前2世紀頃>

S0225

紀元前2世紀に入ると日本列島は火山活動の活動期に入り、富士山や白山、そして、由布山や九重連山が次々と噴火しました。火砕流などが周辺を飲み込み、火山灰などが農作物を枯れさせ、火山灰などで太陽光が遮られて為に起こる凶作期も訪れます。

日本列島で人口の激減が起こり、長野県当たりの中部から南北へ移住も起こったでしょう。

そして、由布山や九重連山の噴火もはじまります。

九州北部と列島中部の火山噴火の違いは、噴火して甚大な被害を出したことは同じですが、九州北部ではそれが連続して起こり、一時的な被害ですまなかったという点です。

つまり、一時的な人口減少では収まらず、100年近くも人が住めない土地と化したのです。その為に九州北部から民族大移動を行う必要が起きたのです。

九州北部に住む海族は日本海側を移動し、出雲から因幡の国に移ります。出雲風土記に書かれている出雲周辺以外の土地を譲るとされる出雲の『国譲らず』が発生します。オオクニヌシの一族とアマテラスの一族が緩やかな融合が進み、出雲の国は大陸との交流を強めることになり、強力な国家が誕生した訳であります。

さて、北九州の少し内陸部、久留米周辺から大分に住む部族はから古事記に書かれている航路にそって避難します。つまり、周防灘の姫島から安芸、三島、吉備、河内の難波碕に到着します。ニギハヤヒの伝承では、ニギハヤヒの一族は天磐船に乗ってきたとあります。その後、ニギハヤヒは河内国草香邑から生駒山を目指し、土着していた長髄彦(ながすねひこ)の祖先などと融合します。長髄彦の名を古事記では、那賀須泥毘古と表記しております。この那賀を使っている町は、徳島県を流れる那賀川(なかがわ)の那賀町と和歌山県の旧町名である那賀町があり、その地から移ってきた。須一族(スサノオ)の末裔ではないのでしょうか。神武の東征で熊野の高倉命もニギハヤヒの子孫であったようにこのニギハヤヒの一族と一緒に随行してきた三十二人の将軍、五人の部の長、五人の造の長、二十五部隊、船長・梶取などの名が近畿一円に広がっています。北九州の地名と奈良の地名が往々にして重なるのは、昔を懐かしんで名付けた場合と移住してきた一族名がそのまま地名になっているからなのです。

さてさて、北九州でも阿蘇に近い一族は山を越えて日向に避難します。古事記・日本書紀に書かれているニニギの天孫降臨であります。阿蘇から高千穂を通る道は、古代の交通の要所でありました。ニニギの子孫は『ウエツフミ』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に書かれている高千穂三朝(日向三代)のニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズ王朝を完成させていったと思われるのです。

そして、この同じ紀元前2世紀には、徐福を始め、秦国に国を滅ぼされた多くの民や王族が海を渡って倭国に渡来します。彼らの渡来によって倭国に銅の精製や採掘の技術、蚕の養殖から織物の技術など最新の知識と技術が入り込んできました。

同時に、共同体しか存在しなかった倭国に『国家』という概念も運ばれてきます。部族の首長でしかなかった部族長が王を名乗り、小王国が乱立し、倭国大乱の助長が始まっていったのであります。

また、ここには書いていませんが、火山噴火で避難した候補地に朝鮮半島南部もあります。こちらは最短で100km近くの海峡を渡らなければいけないので大量の部族民を運ぶことはできません。しかし、大船団を組めば、数百単位の移住もできないこともなく。また、少数であっても何度も行き来すれば、それなりの避難民が海を渡ったことでしょう。

火山が鎮火すれば、彼らは大陸や半島の政変によって逃れてきた難民と共に海を渡り返して倭国に再渡来するパターンも考慮しなければなりません。

また、倭人(海族)勢力は、大陸東部の海岸である斉から燕、渤海・黄海を渡って朝鮮半島海岸の全域、対馬海峡を渡って西日本まで伸びていた巨大な国家だったのですが、倭人(海族)は国家という概念を持たず、相互互助という共同体でありました。大王やシャーマンと呼ばれるカリスマ的存在がリーダー役を行っており、中央集権的な命令形式ではなく、首長が集まって談合によって同盟体制が維持されていたのです。それが紀元前から紀元後の漢の時代で崩れてゆきます。そして、相互互助という体制のみ残し、1つ1つが独立し、力による再統合が行われて小王国が乱立してゆくのです。その小王国は朝鮮半島(辰国)に留まらず、西日本まで及びます。そして、朝鮮半島では馬韓・辰韓に吸収され、弁韓(後の任那・加羅)から日本海岸沿いの小国を統合して邪馬台国が連合国として再結集することになってゆくのです。

さて、西日本から畿内に残ったスナノオの一族は民族大移動してきた海族(天孫族)と融合してゆきますが、それを嫌った一族は再び逃亡の旅に出ることになります。播磨でタケミカヅチに追い出されたタテミナカタは伊勢の国(三重県)の北部(桑名市、いなべ市)当たりに定住しますが、再びニギハヤヒの一族に連れられたタケミカヅチに追い出されて、信濃の国(長野県)の諏訪まで逃れて、モリヤという一族と戦います。モリヤに勝ったタテミナカタはモリヤ達と融合して諏訪王国を創ってゆくことになったのです。

<s-02-26 紀元後2世紀頃>

S02262

紀元後2世紀の倭国は、小国が乱立していました。

その中の奴国は後漢の光武帝に使者を遣わして、冊封されて金印を綬与されたという記録が残っております。奴国を名乗る国は多く残されており、どれが冊封された奴国なのかは皆目見当もつきません。

その候補の1つが日向のニニギ王朝であり、後に狗奴国ではないでしょうか。

九州に残ったニニギ王朝は、由布・九重連山の噴火が収まると逸早く、北九州に立ち戻って奴国を建国し、大陸との交易を本格的に再開します。交易が盛んになると、他国に避難していた部族たちも戻ってきます。

当然、奴国と衝突し、紛争が激化して、小さな小競り合いは倭国全体に広がって倭国大乱へと発展してゆきます。

『魏志倭人伝』によれば、

「其の国もまた元々男子を王として70~80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。」

と記されております。

この70~80年間(2世紀後半)の大乱で奴国は、滅んだのか、あるいは分裂したのか。それは定かではないのですが、邪馬台国と争った狗奴国も、また『奴国』の名を持った国なのです。

いずれにしろ、北九州を中心に西日本で邪馬台国が成立し、女王『卑弥呼』の下で連合国が生まれていったのです。

邪馬台国の候補地は、糸島市を中心とした北部九州広域説、あるいは筑後国山門郡説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群などがあります。また、因幡にアマテラスの仮宮があることから因幡説、畿内では奈良県の纏向遺跡と箸墓古墳を候補に上げています。そして、阿波古事記からアワの邪馬台国説も出ております。

魏志倭人伝を参照すれば、解読方法によってすべて候補地となり、今後の発掘調査の進展を待たなければ解決しないでしょう。

但し、その他の発掘物の状況証拠から類推するに、2世紀の鉄の分布を見れば、鉄器すら整っていない畿内が卑弥呼の邪馬台国であるハズはありません。鉄の普及は、1世紀にかけて北九州に普及し、石器が消滅します。それに比べて近畿に鉄器が普及するのは3世紀以降となります。意図的に近畿へ鉄が流れないようにしているのが見受けられるのです。

邪馬台国は、北九州北部を中心に朝鮮半島南部に国々(後の任那・加羅諸国(からしょこく))を内包しておりましたから、それを受けいれていない東日本(近畿を含む)と西日本の文化圏では鉄の分布という形で軋轢が見え隠れしているのです。

魏志倭人伝によれば、狗奴国は邪馬台国の南部に位置します。

邪馬台国の南部が意味するところは、三国志の魏・呉・蜀の対立関係と深く結び付きます。倭国の南部、つまり、薩摩(鹿児島)は倭国の南の玄関口となり、呉国と沖縄列島を結んで繋がっています。邪馬台国畿内説を唱える学者の中でも狗奴国に薩摩が含める方が多いのは、呉国との関係があるからです。魏国が邪馬台国を厚く遇するのも敵対する呉国を牽制する為であり、そう考えると卑弥呼のいる邪馬台国は阿波や宮崎である可能性が限りなく小さくなります。

逆に邪馬台国畿内説で狗奴国が奈良の南部にある和歌山の熊野から尾張までと仮定すると、魏国が邪馬台国に対する関心は小さくなり、卑弥呼を厚遇する意味が薄れてきます。

阿波の国が狗奴国である可能性も捨てきれませんが、もし、阿波が狗奴国であるとするなら、阿波から薩摩まで西日本を南北に二分する巨大な勢力を保持していることになります。すると、次に紹介する神武の東征を許した理由が見受けられなくなります。

仮に狗奴国の都が阿波であっても阿波の国と日向の国の国力は同等か、日向の国が勝っていたと考える必要が生まれてきます。

<s-02-27 紀元後3世紀頃>

S02273

紀元後2世紀の倭国大乱を経て3世紀には邪馬台国が成立し、魏国が公孫氏を滅ぼすと、景初二年(238年)12月 に卑弥呼は難升米らを魏に派遣して朝議を行います。そして、正始八年(247年)に倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告します。それに魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢(こうどう)を授与しました。黄幢とは、小型の吹流し(ふきながし)の「黄色い旗」のことで 『黄色い鯉のぼり』のようなものです。これは皇帝の権威と武威の象徴であり、魏国の皇帝が認めている証明になるのです。

日本的に言えば、錦の御旗を持っている官軍の証のようなものなのです。

さて、一方の神武の東征がいつであったか?

これは最初の「1.古事記・日本書紀のはじまり」でも説明しましたが、即位の辛酉年(241年)が最も可能性の高いと思われます。日本書記では東征に4年間以上も掛かっておりますから、日向を狗奴国と仮定しますと卑弥呼が魏国に使者を送った当時は、日向・薩摩の2ヶ国ないしは豊の国(大分)に入った頃です。神武の東征によって豊の国・東筑紫の国・安芸の国・吉備の国・畿内と次々と手中に収めてゆき、魏国に援軍を求めたと符号が合います。もちろん、古事記の東征では16年以上も掛けておりますから、卑弥呼が援軍を求めた頃は、神武たちは吉備の国に滞在している頃に当たります。

ピンクの邪馬台国連合に下(南)に、狗奴国の領土が次々と広がってゆき、邪馬台国の苦戦が目に浮かびませんか。

しかし、神武の東征には多くの不思議なことがあります。

その1つが伊予の国の越智族が簡単に味方に付いたことです。伊予の国は国産みでは「愛比売(えひめ)といひ」とあり、この愛媛の『え』は「兄」と言う字であり、意味は「姉」という意味です。当然、弟は『おと』の字が当てられ、意味は「妹」です。つまり、愛比売の妹(次女)は『乙姫(おとひめ)』様なのです。姫の名が当てられるくらい織物が盛んな土地で当時は先進的な地域だったのです。

同じく、阿波の国も水銀と銅を産出する先進的な地域でしたが、神武の東征では、亀に乗る水先案内人(海族)としてのみ登場します。

現在の四国は東京から遠く離れた田舎というイメージでありますが、古代の四国は先進的な技術を持つ先進国であり、経済的に豊かな地域だったのです。その四国が神武の東征では、ほとんど取り扱われていないのです。

そもそも日向のウガヤフキアエズ朝に東征を唆したのは塩土老翁です。塩土は潮(シホ)ツ霊(チ)(潮路を掌る神)とも呼ばれ、航海・海路に関係深い神として祭られています。老翁の容姿は、浦島太郎が玉手箱を開けた後の「老翁」にそっくりであったとされ、『万葉集』では、「墨吉」(すみのえ)の人との記述があることより、その翁を住吉明神として住吉大社で祭られております。この浦島太郎を迎えたのが竜宮城の乙姫であり、導いたのは亀に姿を変えられた神女の瀬織津姫と伝えられ、その瀬織津姫はニギハヤヒの妻とされます。ニギハヤヒの別名は天照国照彦火明櫛玉饒速日命と称され、『天照』の名を持つことよりアマテラスと同神とも言われています。

この瀬織津姫を祭っていたのが大三島でありますが、593年に瀬織津姫に変わって三島明神(現大山積神)が、津の国御島(現在の高槻市)の日本で最初の三島神社(山祇神社)である三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)(※5)より、この大三島瀬戸へと鎮座されたと伝わっております。

この伊予の大三島大山祇神社(※6)の祭祀を行う伊予越智氏は、孝霊天皇の第3皇子伊予皇子の子、越智王子にはじまる伊予の小千国造(越智国造、くにのみやつこ)からはじまるという説もありますが、大山積神(おおやまつみのかみ)の子孫である乎知命(おちのみこと)を祖先とするとも言われます。

一方、浦島太郎伝説(※7)は、全国各地に広がっており、その真偽はすべて明らかにできそうもありません。その伝承の1つである『浦島太郎』の作者とされる飛鳥時代の貴族である伊余部 馬養(いよべ の うまかい)は、持統天皇3年(689年)に書物の編集を担当する撰善言司となり、律令選定の功労により、馬養の子が功田6町と封戸百戸を与えられたと残されております。その伊余部氏は尾張氏の一族で、天火明命(ニギハヤヒ)の流れを汲む天香語山の子孫であり、少神積命の後裔とされております。しかし、伊余部氏という名は、珍しく系図から見つけることはできません。むしろ、『伊余』は、伊予の国か、伊余国造を連想させ、忌部氏(いんべうじ)に連なる者と思われます。

忌部氏は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴して天降った五伴緒の一人で、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の「太」(うず)の氏族であります。天太玉命の弟が天忍日命(あめのおしひのみこと)で、「犬」の氏族である大伴氏の祖になります。

その忌部氏は全国に広がり、主に拠点として阿波・讃岐・紀伊・出雲・筑紫・伊勢などがありました。

【古語拾遺 天中の三神と氏祖系譜】

天太王命(あめのふとだまのみこと)と曰す。[斎部宿禰(いみべのすくね)の祖なり。]

太玉命の率たる神の名は、

天日鷲命(あめのひわしのみこと)[阿波国の忌部等の祖なり。]

手置帆負命(たおきほおひのみこと)[讃岐国の忌部の祖なり。]

彦狭知命(ひこさしりのみこと)[紀伊国の忌部の祖なり。]

櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)[出雲国の玉作(たまつくり)の祖なり。]

天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。[筑紫、伊勢両国(ふたくに)の忌部の祖なり。]

中でも讃岐は、浦島太郎伝承の地の1つでもあり、また、かぐや姫(※8)のモデルになったと言われる大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)を輩出しております。

何の縁か判り兼ねますが、弘法大師空海様の生誕の地でもあります。

かぐや・姫は、その名前からアマノ・カグヤ・マ(天香語山)とカグ・ツチの両神の名が浮かびますが、讃岐忌部氏に関連するならば、父が彦火明命(ひこほあかりのみこと)、母が天道日女命の子である天香語山の事でしょう。天道日女命の父は大己貴神の女(むすめ)であり、夫の彦火明命はニギハヤヒを同神とされます。

彦火明命を祭る海部氏は、彦火明命を主神としては籠神社を祭っております。しかし、そもそも籠神社の祭神は瀬織津姫でありました。

つまり、

彦火明命=ニギハヤヒ=アマテラス

天道日女命=瀬織津姫=月読命

なのであります。

海に関係する一族は、太陽神よりも潮の満ち引きを司る月の女神を信仰しておりました。つまり、忌部氏も海部氏も海に関係する一族は、瀬織津姫を信仰していたのであります。

天香語山の娘、かぐや姫を向かえた讃岐忌部氏があっと言う間に栄えたという隠語と思われるのです。

しかし、かぐや姫と讃岐の国を関連させる特別なモノはありません。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、また、さぬき”という国名の由来は、矛竿をつくり貢物としたので竿調国(さおつきのくに)と言った竹を連想する国であったというくらいなのです。

さて、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神は、伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)によると、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたと言われております。

『丹後国風土記』逸文には豊宇賀能売命は、丹後国の比治山の頂の真井に降った八人の天女の一人で、和奈佐老夫と和奈佐老婦が衣を隠したため天に帰れず、地上に留まり、 十年間老夫婦のもとで薬酒を醸して冨をもたらしたが、 老夫婦に追い出され各地をさまよって奈具の村に鎮まったとあります。

伊勢の内宮と外宮を1つと見られますが、それよりも格式の高い内宮の別宮に荒祭宮(あらまつりのみや)〔三重県伊勢市宇治館町にある内宮(皇大神宮)の境内別宮〕があります。荒祭宮の祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)であり、創建は垂仁天皇26年10月と伝えられ、内宮の正殿と同時に建てられたと言われます。そして、皇大神宮に準じた祭事が行われ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等であり、神宮式年遷宮も正宮とほぼ同時期に遷宮されるという格別のはからいがなされております。では、天照坐皇大御神荒御魂とはどんな神なのでしょう。

鎌倉時代に編纂された伊勢神道(度会神道)の根本経典、神道五部書(しんとうごうぶしょ)の中の一書に「倭姫命世紀」があります。

その荒祭宮に関する記述に、

荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕一名、瀬織津比め神、是也、御形は鏡に座す。

内宮、荒祭宮に祭られているのは、天照坐皇大御神荒魂で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊によって生まれた八十枉津日神で、またの名を「瀬織津姫」であると記されているのです。

八十枉津日神=瀬織津姫???

八十枉津日神とは、大禍津日神(おおまがつひのかみ)と共に禍(わざわい)をもたらす悪神です。妻の伊邪那美命に追われ、黄泉国から現世へ逃げ帰った伊邪那岐命が、死の国の穢を祓うために橘小門の阿波岐原で禊ぎをしたときに、最初に生まれたのが、八十禍津日神と大禍津日神でした。

元も伊勢神宮は、第11代垂仁天皇の第4皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元となる瀧原宮を創建されたと伝えられております。

瀧原宮には、男性太陽神の天照巫皇大御神御魂(あまてらしますすめおおかみのみたま)天照大神が祭られ、左の瀧原竝宮(たきはらならびのみや)には、女性水神の瀬織津姫が祭られておりました。

しかし、7世紀後半(第21代雄略天皇22年)、現在に近い形態の祭祀に変えられると、男性太陽神は外宮多賀宮に豊受大御神荒御魂と名を変えて遷され、瀬織津姫も天照坐皇大御神荒魂と名を変えられて荒祭宮に移されました。

<s-02-28 天照大神は時代と共に、男神となり、女神となる>

S0228

つまり、第11代垂仁天皇の御世以前までは、瀬織津姫は月の女神として信仰されていたのであります。

猿田毘古神は邇邇芸命の天孫降臨の道案内を終えるとアメノウズメ(天鈿女命)を娶って伊勢に鎮座しておりますから紀元後2世紀頃の伊勢を支配していたのは、猿田毘古神(さるたひこのかみ)の一族でありました。

猿田毘古神は、その容姿から塩土老翁神と同一神とされております。

つまり、

浦島太郎=塩土老翁神=住吉明神=猿田毘古神

そして、浦島太郎を竜宮城で出迎えてくれた

瀬織津姫の妹=乙姫

日向、伊予、住吉、伊勢が塩土老翁によって繋がりました。

神武天皇はニギハヤヒの正妻である瀬織津姫の一族の協力を得たことで、神武天皇が畿内に入るのは容易と思われていたのですが、長髄彦らの思わぬ抵抗に遭い、苦戦を強いられた訳であります。しかし、同じニギハヤヒの子孫である熊野の高倉命が味方に付いたことにより、神武の東征は成功します。

この神武の東征をプロデュースした塩土老翁こと住吉明神は、『帝王編年記』によれば、神功皇后に欲して渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出峡(たまでのお)の地に求め、住吉の地における鎮祭年を神功皇后摂政11年として住吉大社を創建しております。

つまり、紀元後2世紀頃の住吉明神は、まだ津の国に住んでいなかったことになります。浦島太郎が讃岐に縁浅からぬようでありますから、讃岐・阿波の人であった可能性は高いのであります。

住吉明神、つまり阿波・讃岐の海族(後の忌部氏)は小国が乱立して分断気味の倭国の流通を安定させる為に神武の東征を利用したと考える方が妥当なのであり、その目論み通りに忌部氏は全国に勢力を広げました。

しかし、時代は移り、大伴氏や物部氏が台頭すると、ニギハヤヒ・瀬織津姫は神功皇后と挿げ替えられ、忌部氏も歴史の表舞台から去ってゆきます。それと同時に阿波の神話も消えてゆき、残された『阿波古事記』は、正しい伝承とは言い難いものとなっています。

しかし、

出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある

のように、様々な事象が、畿内(阿波・讃岐・摂津・和泉・河内・大和・紀の国)にイザナギ・イザナミ神話の発祥地があることを告げていてくれるのです。

4. 天孫降臨は2度あった。へ

【参考資料】

<s-02-X01 天の岩戸の日本地図>

S02x01_2

■天の岩戸

滋賀県米原市弥高 - 平野神社。

京都府福知山市大江町 - 皇大神宮(元伊勢内宮)、岩戸神社。

滋賀県高島市 白鬚神社 - 岩戸社。

奈良県橿原市 「天岩戸神社」 - 天香久山の南麓。

三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 - 「高倉山古墳」。昭和時代に入山が禁止された。

三重県伊勢市二見町二見興玉神社 - 「天の岩屋」

三重県志摩市磯部町恵利原 - 恵利原の水穴

岐阜県各務原市「手力雄神社」「史跡めぐり」

兵庫県洲本市先山 - 岩戸神社。

岡山県真庭市蒜山 - 茅部神社の山の上方。

徳島県美馬郡つるぎ町 - 天の岩戸神社の神域にある。

山口県山口市秋穂二島岩屋 - 塩作りの海人の在住地、玉祖命の神社に近い。

宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 - 天岩戸神社の神域にある。同神社西本宮の背後、岩戸川を挟んだ対岸の岸壁にあり、社務所に申し込めば案内付きで遥拝所へ通してくれる。周辺には天安河原など、日本神話、特に岩戸隠れ神話にまつわる地名が多く存在する。

沖縄県島尻郡伊平屋村「クマヤ洞窟」 - 全国に数多ある「天の岩戸伝説」の中で最南端地。

■岩戸

千葉県袖ヶ浦市坂戸市場 坂戸神社(袖ヶ浦市)天岩戸のかけらという伝承の岩、天磐戸の石碑がある。

長野県長野市戸隠 戸隠神社には、岩戸が落下してきた伝承がある。

岐阜県郡上市和良町 戸隠神社。天岩戸のかけらという伝承の岩がある。

奈良県奈良市柳生 天石立神社。この地まで飛ばされてきたという岩がある。

火産霊神社(福井市手寄町)

<s-02-X02 イザナミの墓>

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■イザナミの墓

島根県松江市八雲町日吉 岩坂陵墓参考地(いわさかりょうぼさんこうち)

広島県庄原市から島根県仁多郡奥出雲町境にある 比婆山(ひばやま)

島根県松江市東出雲町揖屋 揖夜神社 横屋の比婆山

三重県熊野市有馬町130 花の窟(はなのいわや)神社

徳島県吉野川市 高越山(伊射奈美(いざなみ)神社)

徳島県三好郡東みよし町 新田神社(加茂谷川岩陰遺跡)

愛媛県上浮穴郡 上黒岩岩陰遺跡

■イザナミを祭る九州の神社

福岡県直方市 多賀神社

宮崎県宮崎市 江田神社

宮崎県都城市高崎町東霧島 東霧島神社

宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所 三ヶ所神社

宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡 祇園神社

宮崎県西臼杵郡高千穂町大字向山 向山神社

宮崎県西臼杵郡 高千穂町岩戸 落立神社

宮崎県西臼杵郡 高千穂町押方 嶽宮神社

宮崎県宮崎市阿波岐原町産母 江田神社

熊本市東区 沼山津神社

熊本市北区和泉町 赤水白山比咩神社

熊本県嘉島町井寺 浮島神社 (嘉島町)

■九州の大国主の墓・神社

宮崎県西都市三宅西都原 尾八重神社 西都原古墳群

宮崎県児湯郡都農町川北 日向国一之宮都農神社

宮崎県宮崎市田野町甲 田野天建神社(旧田野神社の大国主尊(オオクニヌシノミコト)、旧田野大宮大明神の百済王(くだらおう)天建神社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の三神を合祀)

宮崎県北諸県郡三股町大字 御崎神社

宮崎県西諸県郡高原町後川内 霞神社

福岡県遠賀郡岡垣町手野 大国主神社

熊本県熊本市北区植木町鐙田 鐙田杵築神社

熊本市北区西里硯川町 川東大己貴神社

長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触 大国主神社

鹿児島県日置市吹上町中原 大汝牟遅(オオナムチ)神社

山之口町 南方神社 建御名方命(たけみなかたのみこと)

(熊本県山鹿市志々岐 志々岐阿蘇神社)

■鹿児島県・宮崎県の建御名方の神社

鹿児島県鹿児島市清水町 南方神社

諏方大明神社(南方神社)

鹿児島県薩摩川内市中郷町 諏訪神社

鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南 諏訪神社

鹿児島県南さつま市加世田小湊 八幡神社(南方神社合祀)

鹿児島 県 薩摩 川内 市 樋脇 町 市比野 諏訪神社

宮崎県都城市山之口町花木 南方神社

宮崎県宮崎市芳士 諏訪神社

宮崎県児湯郡川南町川南 阿諏訪神社

■九州の主な建御雷之男神(タケミカヅチ)の神社

鹿児島市春日町 春日神社

大分県日田市 月隈神社

春日神社(大分市)

春日神社(北九州市八幡西区)

宮崎県延岡市恒富町 春日神社

山王神社(長崎市)

■九州で素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったと伝承される場所

熊本県天草郡五和町 鬼の城

福岡県北九州市小倉の紫川の上流 平尾台

■黒髪山の大蛇退治

佐賀県武雄市 黒髪神社上宮

■大国主に関わる神々の神社

八十神、オオナムチが求婚を申し出た姫 八上比売(やかみひめ)

売沼神社(鳥取県鳥取市) 八上比売

都波只知上神社(鳥取県鳥取市) 八上比売

島御子神社(長崎県対馬市) 八上比売

・オオナムチを殺した八十神

・オオナムチを山で木の罠に掛けて殺してしまいます。(母の嘆願によって生き返ります)

・木の国(=紀伊国)のオオヤビコの元にオオナムチは逃げてきます

八十主神社 香川県仲多度郡多度津町 祭神: 大国主大神、大国主命(大己貴命)

・オオナムチを助けた姫、刺国若比売(サシクニワカヒメ)・蚶貝比売(キサガヒヒメ)

赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ) 鳥取県西伯郡南部町 刺国若比売

出雲大社の摂社天前社(伊能知比賣神社)蚶貝比売

岐佐神社(静岡県浜松市西区)蚶貝比売

加賀神社(島根県松江市島根町)キサガイヒメ命

法吉神社(島根県松江市法吉町) ウムギヒメ命

<s-02-X03 三重県の神社>

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■三重の建御名方の神社

大西神社 いなべ市北勢町阿下喜276 建御名方神・下照姫命・譽田別命

丸山神社 いなべ市北勢町川原 412 建御名方神・天兒屋根命・佐々木高綱公

小原神明社 いなべ市北勢町小原一色 54 建御名方命・菊理姫命・豊受大神

多喜諏訪神社 いなべ市北勢町向平 408-1 建御名方神・火産靈神・大山祇神

八幡神社 いなべ市員弁町下笠田 147 譽田別命・天照大御神・建御名方神

鳥取神社 員弁郡東員町大字鳥取 1457 天湯河桁命・大日霎貴命・建御名方命

諏訪神社 桑名市多度町北猪飼 476 建御名方神・大山津見神・帯中津日子神命

古濱神社 桑名市多度町御衣野 2024 建御名方神・大山津見神・天之菩卑命

諏訪神社 桑名郡木曽岬町大字新加路戸 38 建御名方神

廣幡神社 三重郡菰野町大字菰野 2770 譽田天皇・建御名方神・事代主神

諏訪神社 四日市市諏訪栄町 22-38 建御名方命・事代主命

白髭神社 四日市市大字泊村 825 猿田毘古神・建御名方神・建速須佐之男神

諏訪神社 伊賀市丸柱 1545 建御名方命・大日霎貴命・天兒屋根命

日置神社 伊賀市下柘植 2260 大日霎貴命・健御名方命・健速須佐之男命

小宮神社 伊賀市服部町 1158 呉服比賣命・建御名方命・大山祇命

猪田神社 伊賀市下郡 591 猪田神・依那古神・建御名方命

諏訪神社 伊賀市諏訪 1616 建御名方命・八坂入姫命・建速須佐之男命

参考(建御名方命を祭神にしている神社数、宮崎県14社、鹿児島県121社、大分県8社、熊本県34社、福岡県27社、佐賀県10社、長崎県7社、高知県7社、愛媛県11社、徳島県23社、香川県4社、山口県9社、広島県12社、岡山県23社、島根県20社、鳥取県9社、兵庫県36社、大阪府4社、京都8社、奈良県1社、和歌山県16社、滋賀県16社、三重県22社、愛知県44社、岐阜県70社、静岡県85社、神奈川県76社、東京都31社、埼玉県86社、群馬県101社、栃木県11社、千葉県96社、茨城県42社、山梨県184社、長野県463社、福井県18社、石川県75社、富山県65社、新潟県888社、福島県67社、山形県76社、宮城県20社、秋田県46社、岩手県19社、青森県9社、北海道5社、沖縄県0社)

■三重の建御雷之男神の神社

春日社 桑名市多度町小山 1018 建御雷之男神・慟立久船戸神・大山津見神

野志里神社 桑名市多度町下野代 3073 天照大神・建御雷神・天兒屋根命

春日社 桑名市多度町力尾 2140 建御雷男神・天兒屋根命・経津主神

春日神社 桑名市大字稗田 393 建御雷男之神・齋主神・天兒屋根命

春日神社 桑名市大字大貝須 302-12 建御雷之男神・天兒屋根命・斎主神

能部神社 桑名市大字能部 1073-1 建御雷男之命・大比霎貴命・素盞嗚命

井手神社 三重郡菰野町大字永井 338 大日霎貴尊・建甕槌神・品陀別尊

福王神社 三重郡菰野町大字田口 2404 武甕槌神・天火明饒速日命・天照大神

春日神社 伊賀市川東 613 武甕槌命・経都主命・天兒屋根命

大村神社 伊賀市阿保 1555 大村神・武甕雷神・天押雲神

比々岐神社 伊賀市北山 1426 比々岐神・武甕槌神・事解男神

種生神社 伊賀市種生 1278 武甕槌神・健速須佐之男命・紀友雄

鹿嶋神社 伊賀市霧生 2587 武甕槌神・天押雲神・経津主神

宇流冨志祢神社 名張市平尾 3319 宇那根大神・武甕槌神・経津主神

積田神社 名張市夏見 2162 武甕槌命・天兒屋根命・経津主命

上山神社 うえやまじんじゃ 熊野市神川町神上 374 速玉男命・事解男命・武甕雷命

参考(武甕雷命を祭神にしている神社数、宮崎県0社、鹿児島県15社、大分県2社、熊本県2社、福岡県8社、佐賀県0社、長崎県14社、高知県2社、愛媛県15社、徳島県3社、香川県3社、山口県4社、広島県3社、岡山県21社、島根県15社、鳥取県1社、兵庫県99社、大阪府3社、京都4社、奈良県4社、和歌山県18社、滋賀県42社、三重県22社、愛知県10社、岐阜県23社、静岡県18社、神奈川県19社、東京都10社、埼玉県8社、群馬県6社、栃木県36社、千葉県41社、茨城県329社、山梨県22社、長野県9社、福井県9社、石川県52社、富山県5社、新潟県13社、福島県49社、山形県29社、宮城県57社、秋田県39社、岩手県13社、青森県17社、北海道6社、沖縄県0社)

■日本海の建御名方の神社

諏訪神社 新潟県十日町市北新田731 建御名方神

諏訪神社 新潟市東区牡丹山3-14-38 建御名方神

諏訪神社 新潟市中央区山二ツ5-4-20 建御名方神

諏訪神社 新潟県糸魚川市寺島591 建御名方神

諏訪神社 新潟県燕市水道町1-4-14 建御名方神

竹尾諏訪神社 新潟市東区竹尾3-20-14 建御名方神

諏訪神社 新潟市江南区平賀220 建御名方神

諏訪神社 新潟市東区海老ケ瀬709 建御名方神

諏訪社 新潟市中央区笹口186 建御名方神

諏訪神社 新潟市秋葉区川口7 建御名方神

諏訪神社 新潟県長岡市土合3-4-8 建御名方神

(新潟県県の建御名方神の神社888件)

諏訪社 富山県富山市坂本2925 建御名方神

(富山県の建御名方神の神社65件)

安田春日神社 石川県白山市北安田町1041 建御名方神

静浦神社 輪島市大沢町宝来74 健御名方神

(石川県の建御名方神の神社75件)

諏訪神社 京都府綾部市西坂町嵩松54-1 建御名方神

諏訪神社 京都府綾部市物部町荒山54-1 建御名方神

諏訪神社 京都府綾部市物部町荒山54-11 建御名方神

諏訪神社 京都府綾部市志賀郷町大畑44-3 建御名方神

〔日本海側で建御名方神の神社は、綾部市のみ〕

(京都府県の建御名方神の神社8件)

(兵庫県の建御名方神の神社36件、日本海側はなし)

諏訪神社 鳥取県米子市諏訪890-1 建御名方神

諏訪神社 鳥取県東伯郡琴浦町八橋1681 建御名方神

一ノ宮倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754 建御名方神

(鳥取県の建御名方神の神社9件)

伊賀武神社 島根県仁多郡奥出雲町佐白116 武御名方神

鎌倉神社 島根県雲南市大東町上久野269 武御名方大神

野代神社 島根県松江市浜乃木2-10-30 建御名方命

若宮神社 島根県出雲市十六島町99 建御名方之神

熊野神社 島根県出雲市本庄町278 武御名方神

(島根県の建御名方神の神社20件)

■日本海の建御雷之男の神社

春日神社 新潟県上越市本町 天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神

春日神社 新潟県上越市本町 天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神

(富山県の武甕槌命の神社13件)

建石勝神社 富山県魚津市吉島2972 武甕槌神

(富山県の武甕槌命の神社5件)

鹿島神社 福井県越前市大谷町5-52 建御雷之男神

鹿島神社 福井県丹生郡越前町新保11-36 建御雷之男神

鹿島神社 福井県福井市西別所町25-1 建御雷之男神

鹿島神社 福井県福井市畠中町25-17 建御雷之男神

鹿島神社 福井県吉田郡永平寺町市荒川28-7 建御雷之男神

鹿島神社 福井県吉田郡永平寺町藤巻48-7 建御雷之男神

金津神社 福井県あわら市春宮2-14-64 武甕槌命

春日神社 福井県坂井市三国町新保18-16 武甕槌命

安波賀春日神社 福井県福井市安波賀町15-13 武甕槌尊

犀川神社 石川県金沢市中央通町16-1 武甕槌命

安田春日神社 石川県白山市北安田町1041 武甕槌命

鹿島神社 石川県鳳珠郡穴水町鹿島ハ9 武甕槌神

須須神社奥宮 石川県珠洲市狼煙町カ74 武甕槌命

須岐神社 石川県金沢市東蚊爪町ホ100甲 鹿島坐健御賀豆智命

(石川県の武甕槌命の神社52件)

(日本海側の京都県の武甕槌命の神社0件、県全域でも4件)

楯石神社 兵庫県豊岡市日高町祢布446 武甕槌命

三柱神社 兵庫県豊岡市城崎町今津475-1 武甕槌命

鷹野神社 兵庫県豊岡市竹野町竹野84-1 武甕槌命

兵主神社 兵庫県豊岡市竹野町芦谷小155 武甕槌命

(兵庫県の武甕槌命の神社99件、日本海側は豊岡のみ)

鹿島神社 鳥取県倉吉市伊木567 建御雷之男神

(鳥取県の武甕槌命の神社1件)

鹿島神社 島根県出雲市武志町673 建御雷之男神

田原神社 島根県松江市奥谷町121 建御雷之男神

松崎神社 島根県松江市春日町339 武甕槌神

奥宇賀神社 島根県出雲市奥宇賀町1388-14 武御雷之男命

春日神社カ 島根県松江市手角町371 武甕槌神

古森神社 島根県雲南市木次町寺領1421 武甕槌神

許豆神社 島根県出雲市小津町477 建御雷之男神

多氣神社 島根県松江市上宇部尾町332 武甕槌命

(鳥取県の武甕槌命の神社15件)

■カグツチ

火男火売神社(大分県別府市)は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。

静岡県浜松市天竜区春野町領家 秋葉山本宮秋葉神社

京都府京都市右京区嵯峨愛宕町 愛宕神社

大阪府堺市中区深井清水町 野々宮神社

静岡県熱海市伊豆山 伊豆山神社

愛知県豊橋市下地町宮前 豊麻神社

大阪市東区渡辺町 陶器神社

滋賀県甲賀郡信楽町 陶器神社

※3)白髭神社

浅草寺は百済仏であり、土師中知という土師氏も百済系です。羽曳野市、「近つ飛鳥」の河内のほうの飛鳥に行きますと飛鳥戸神社というのがあって、百済の混伎王(こんきおう)を祭る神社も百済系であります。

逆に、全国に沢山の白髭神社がありますが、浅草の白髭神社は由緒書きを見ますと、近江の白髭神社を勧請したものとあり、近江の白髭神社は新羅系の渡来氏族が祭った神社であります。それと一緒に祭られているのが猿田彦という国つ神です。

この白髭神社の本社に高麗神社があり、その高麗神社は高句麗から彼らが渡来した者が祭った神社であり、その系図、朝鮮では「族譜」(ジョクポ)は鎌倉の中期の1259年に焼けてしまって一部しか残っておりません。その副本には高麗、高麗井、駒井、井上、新、神田、新井、丘登、岡登、岡上、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、中山、武藤、芝木の各氏が集まって編纂したと書かれております。

『続日本紀』には、716年に「千七百九十九人の高麗人をもって高麗郡を置く」と記されております。

※4)桑名市

桑名市の由来は、桑名の祖と言われる「桑名首(クワナノオビト)」にある。

桑名首は、天久々斯比乃命(アメノククシヒノミコト)という神様であり、天目一箇命(アメノマヒトツノカミ)と同一神とされる。

天久々斯比乃命の父は、天津彦根命であり、アマテラスの子供です。

さて、天目一箇神は「播磨国風土記」の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場し、

実際に桑名市には「播磨」という地名があります。

桑名市の由来は、『和名抄』には「久波奈」と書かれており、静かな湾とされ「ク・ワ・ナ」と呼ばれたとされます。

この桑名は揖斐川河口であり、東海道の宮(熱田)と桑名間を海上七里渡しの伊勢湾海運の中継港として栄えました。

※5)三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)

三島鴨神社の社伝によれば、第16代仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として大山祇神を百済から遷り祀られたという。

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座した。

三島鴨神社、大山祇神社、三嶋大社は「日本三三島」だという。また、『万葉集』には、柿本人麻呂の下記の二つの歌が収録されている。

三島江の 玉江の薦を 標めしより おのがとぞおもう 未だ刈らねど

三島菅 いまだ苗なり 時またば 著ずやなりけむ 三島菅笠

境内社に、八幡宮、唐崎神社、三社(大将軍社・厳島神社・竃神社)、國廣大明神がある。

秋祭が10月第4日曜日、春祭が4月20日。

古くは、『日本書紀』神代上にある事代主神が三島溝樴姫に通ったという故事に基づき、三島溝樴姫を祀る溝咋神社と同日に神幸を行なっていたという。

※6).大三島大山祇神社

大山祇神社の境内に立つ『乎知命御手植の楠(おちのみことおてうえのくすのき)』には、乎知命は饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の十代目に当たり、七歳の時に応神天皇より伊予国小市の国造に任ぜられたともあります。大山祇神社の境内にある由来には、祭神である大山積神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当たり、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の后となった木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父とされていると『伊予風土記』に書かれてあると掲示されているのです。それが全国に一万社余りある大山祇神社の総本山であります。

※7).浦島太郎伝説

8世紀の初めに成立した『日本書紀』「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述に出てきます。

(雄略天皇)廿二年(中略)秋七月。丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山歷覩仙衆。語在別卷。

同じく8世紀に成立した『丹後国風土記』には、

與謝郡日置里此里有筒川村此人夫日下部首等先祖名云筒川嶼子爲人姿容秀美風流無類斯所謂水江浦嶼子者也是旧宰伊預部馬養連所記無相乖故略陳所由之旨長谷朝倉宮御宇天皇御世嶼子独乘小船汎出海中爲釣経三日三夜不得一魚乃得五色龜心思奇異置于船中即寐忽爲婦人其容美麗更不可比嶼子問曰人宅遥遠海庭人乏詎人忽來女娘微咲對曰風流之士獨汎蒼海不勝近談就風雲來(中略)

嶼子即乖違期要還知復難會廻首踟蹰咽涙徘徊于斯拭涙歌曰

等許余蔽尓久母多智和多留美頭能睿能宇良志麻能古賀許等母知和多留

神女遥飛芳音歌曰

夜麻等蔽尓加是布企阿義天久母婆奈禮所企遠理

等母与和遠和須良須奈

嶼子更不勝恋望歌曰

古良尓古非阿佐刀遠比良企和我遠礼婆等許与能波麻能奈美能等企許由

後時人追加歌曰

美頭能睿能宇良志麻能古我多麻久志義阿気受阿理世波麻多母阿波麻志遠

等許余蔽尓久母多智和多留多由女久母波都賀米等和礼曾加奈志企

読み下し:與謝郡日置里、この里に筒川村あり。ここの人夫(たみ)日下部首(くさかべのおびと)等が先祖は名を筒川嶼子といひき。人となり姿容秀美(かたちうるは)しく風流(みやび)なること類なかりき。こはいはゆる水江浦嶼子といふ者なり。これ旧宰(もとのみこともち)伊預部馬養連が記せるに相乖くことなし。故略(およ)そ所由之旨(ゆゑよし)を陳べむ。長谷(はつせ)の朝倉宮に御宇(あめのしたし)らしめしし天皇の御世、嶼子獨り小船に乗りて海中に汎(うか)び出で、釣すること三日三夜を経て一の魚だに得ず、すなはち五色の龜を得たり。心に奇異(あや)しと思ひて船の中に置きて、即ち寐(い)ねつるに、忽ちに婦人(をとめ)と爲りき。その容美麗(かたちうるは)しく更(また)比(たと)ふべきものなかりき。嶼子問ひて曰く、人宅遥遠(ひとざとはろか)にして海庭(うなばら)に人なし、詎人(なにびと)の忽ちに來れるぞといひき。女娘(をとめ)微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、風流之士(みやびを)獨り蒼海(うみ)に汎べり、近(した)しく談(かた)らむとするこころに勝(た)へず、就風雲(おとづれ)來つと曰ひき。(中略)

嶼子すなはち期要(ちぎり)に乖違(そむ)きて、還りても復(また)會ひ難きことを知り、首を廻らして踟蹰(たたず)まひ、涙に咽びて徘徊(たもとほ)りき。ここに涙を拭ひて歌ひしく、

常世邊に 雲立ち渡る 水の江の 浦島の子が 言持ち渡る

また神女遥に芳音(よきこゑ)を飛ばして歌ひしく、

大和邊に 風吹き上げて 雲離れ 退き居りともよ 吾を忘らすな

嶼子更(また)戀望(こほしさ)に勝へずして歌ひしく、

娘(こ)らに戀ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の濱の 波の音(と)聞ゆ

後時(のち)の人追ひ加へて歌ひけらく、

水の江の 浦島の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば 又も會はましを

常世邊に 雲立ち渡る 絶ゆ間なく 言ひは継がめど 我ぞ悲しき

室町時代に成立した短編物語『御伽草子』によると、

絶望した太郎が玉手箱を開けると、三筋の煙が立ち昇り、太郎はたちまち老人になった。その後、太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かい、太郎と乙姫は再び巡り会って夫婦の神になったという。

その他にも

◇古事記も日本書紀の浦島モデル

(海幸彦・山幸彦神話より)

◇丹後半島の浦島太郎伝説

・京都府与謝郡伊根町の浦嶋子

浦嶋神社

淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。

・京丹後市網野町の浦嶋子

碑文

「皺榎(しわえのき)

この樹には浦島太郎について次の民話が伝承されてゐる

ここは水の江の住人浦島太郎の終焉のの地で太郎の舘跡なりとの説がある 太郎が龍宮より帰へりて玉手箱を開くに忽ち老翁となる

驚愕(きょうがく)せる太郎はその顔の皺(しわ)を毟(むし)り取ってこの樹に投げつけたりと

依って今日猶(なお)この榎はその樹皮に醜き皺をなすなりと云ふ」

◇丹後国「風土記」逸文

『丹後の国風土記』によると,与謝郡日置(伊根・筒川・本荘から経ヶ岬までの広い地域をさす)に筒川村(現在の伊根町筒川)があります。ここに日下部首(くさかべのおびと)等の先祖で名を筒川嶋子(つつかわしまこ)という者がいました。嶋子は容姿端麗で優雅な若者でありました。この人は水江の浦の嶋子という人のことです。

◇四国香川県荘内半島の浦島太郎

香川県の形は右を向いている亀に似ていると言われます。亀の尾にあたるのが三豊市のある荘内半島です。香川県で高松市,丸亀市に次いで3番目に人口が多い三豊市は2006年に三豊郡仁尾町,詫間町など7町が合併してできた新しい都市です。荘内半島の付け根にあたる海岸の埋め立てが進み,港も整備されました。この荘内半島に,浦島太郎と関係のある地名がいくつもあります。

◇愛知県武豊町の浦島太郎

愛知県知多郡武豊町に伝わる昔話には,この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが,この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また,この地には現在も「浦之島」というような地名があります。

◇鹿児島の浦島太郎

薩摩半島の最南端にある長崎鼻,開聞岳が眼前に迫るこの地に浦島太郎の話が伝わっています。岬にある龍宮神社には豊玉姫(乙姫様)が祀られています。「竜宮城は琉球なり」とも伝えられているのです。

◇寝覚の床と浦島太郎

寝覚の床(長野県木曽郡上松町) 、寝覚山臨川寺が参拝者に配布しているパンフレットには、浦島太郎は竜宮からもどってからどこをどう歩いたかわからないけれど、この山にたどり着いたことになっています。

◇岐阜県中津川市坂下町の乙姫岩

岐阜県中津川市坂下町の木曽川に「龍宮乙姫岩」と呼ばれる岩があります。伝説によると,この岩には乙姫様が住んでいたそうです。

◇岐阜県各務原市の浦島太郎

岐阜県各務原市に前渡(まえど)というところに、市杵島神社には弁財天が祀られています。その弁財天の由来記に濃洲鵜沼の里伊木山東北木曽川の辺に龍宮ヶ城(犬山城の北方にありて現在龍宮池と称す)あり 此の下流に龍宮ヶ淵あり 附近に太郎(生れは信州上松の在に「寝醒の床」あり 其の在所と伝へらる)と云える一猟師あり、(省略)世に浦島太郎とは(太郎が安芸の厳島の浦に住めること七百三十四年故に後世に至り浦島太郎と名付)玉手箱に因む伝説は是れが抑もの起源なりと伝へらる 当神社は福徳寿の守護神であらせられるが 特に延命と夫婦縁結びの神として参拝者多く 縁結びの古奇大木の実存するは崇敬者の賞揚の的となっている。

◇横浜の浦島太郎

神奈川県横浜市に浦島太郎を見つけました。東神奈川駅を降りて,京急線の線路沿いの道を南西方向滝の川に向かって歩きます。やがて,右に寺が見えます。門には大きく慶運寺と書かれています。そして,「龍宮伝来 浦島観世音 浦島寺」と書かれた石碑があります。この石碑は亀の背に乗っているのです。

◇沖縄の浦島太郎

ウサン嶽(オサン御嶽:うたき) 、 沖縄の浦島太郎は「穏作根子」という名前です。「おさねし」と読みが書かれていますが,地元の人は「うさんし-」と呼んでいます。

◇万葉集の浦島太郎

高橋虫麻呂の歌

「春,霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると,はるか昔のことが思い出される。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日,この世と常世の境を越えてしまいました。そこで,海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し,暮らしました。3年ほど経って,嶋子が「しばらく故郷に帰って,父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ,「またここで暮らしたいのなら,決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが,3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ,常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり,浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして,息絶えて死んでしまいました。」

※8)『竹取物語』のかぐや姫のモデル

『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり畿内になく遠い存在と言えよう。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

古事記・日本書紀を編纂したのは藤原氏、神話を編纂し始めたのは推古天皇の時代でした。物部氏と蘇我氏が活躍する時代の歴史書には、ニギハヤヒが天照であり、物部氏がその子孫であるなんて藤原氏に不都合なものでしかありません。また、聖徳太子の活躍を奪いとった藤原氏にとって不都合な真実でした。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

目次へ

****0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から** 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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〔歴史館はこちらへ〕

2.邪馬台国の都がどこにあったのか?へ戻る

3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

古事記・日本書記の始まりは、天地開闢から神代七代ではじまる。

『古事記』では、

1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)

2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)

3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)

4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)

5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)

6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)

7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)

(左側が男神、右側が女神)

『日本書紀』では、

1.国常立尊(くにのとこたちのみこと)

2.国狭槌尊(くにのさつちのみこと)

3.豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)

4.泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと)

5.大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)

6.面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)

7.伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)

と、世界の成り立ちを説明し、伊弉諾尊・伊弉冉尊が登場したと書き綴っております。この伊弉諾尊を起点に物語がはじまっております。

これは先代旧事本紀(旧事紀)、宮内文書、竹内文書、九鬼文書、上記(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)や、あるいは東日流外三郡誌のように口伝を後年にまとめられたものなど、多くの古文書にもだいたい言えることです。

竹内文書など、月刊雑誌『ムー』などに紹介され、日本人は遥か彼方からやって来た宇宙人だったみたいな見出しを目にした方もいるかもしれません。それを以て「偽書だ!」と騒ぐ人も少なくありません。古典をやっている方なら、何となくピーンとくる方も多いでしょう。万葉集などの古典において、物や風景を擬人化したり、心の動きを季節や風景に喩えることに出会います。

たとえば、

安芸の宮島は美しく、神の島と呼ばれます。星で表現するならば、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、それともゼウスの星だから木星でしょうか。瀬戸内海に浮かぶ大小の島々、特に西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々から成る塩飽諸島(しわくしょとう)は、天空のスバル、プレアデス星団のように美しい島々が並んでおります。

これを古文書に書き綴れば、「天駆ける舟(天磐船)に乗り、ベテルギウスを通り過ぎ、美しいプレアデス星団を抜けて、我々はこの地に辿り着いた。」などと書かれている訳です。

奈良に拠点を置いたニギハヤヒが載って来た舟の名は、『天駆ける舟』と言います。本当に天を駆けるなら宇宙船と言えるのでしょうが、『天』とは天孫族の総称であり、『天(あま)』=『海(あま)』に通じ、天空という意味ではありません。乗っていた舟も普通の木の舟でした。

しかし、月刊『ムー』などでは、天空を超高速で駆ける天浮之船(アメノウキフネ)に乗って、遠い彼方の星々からやって来たと書く訳です。そして、UFO特集と古代天皇を結んでしまうのです。これを見て、「この古文書は偽書だ」と騒ぐ訳です。

古文書の解読は、解読する方の教養と知識と寛容さに左右され、解読者が稚拙であり、伝承者が無知であると正しく伝わりません。あの古事記も江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』によって正史となった訳であり、研究者の絶え間ない努力が必要なのです。

■『先代旧事本紀』と『大成経』

『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(略して『旧事紀』ともいう)は、聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、平安時代から知られておりました。

室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶は、自らの神道教学の祖を聖徳 太子に求め、『先代旧事本紀』を、記紀と共に三部の本書(神書)に数えていました。

この『旧事紀』は、聖徳太子と敵対したはずの物部氏の始祖伝承(ニギハヤヒ降臨)が重視されており、太子撰というのは信じ難く。おそらく律令国家確立の過程で没落した諸氏 族の伝承をまとめたものが太子に仮託され、広まったものであろういうのが通説であります。しかし、物部氏と聖徳太子と敵対したという前提が間違っているのあります。

難波の堀江で有名な善光寺を開いた本田善光は、「難波の堀江」から2体の金銅製阿弥陀像(善光寺如来)を拾い上げ、故郷に帰りこれが善光寺のはじまりとされています。

この善光寺は聖徳太子と交流があり、奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」の中に信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられています。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられ、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。

『善光寺のご書簡』

御使 黒木臣

名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩

仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念

命長七年丙子二月十三日

進上 本師如来寶前

斑鳩厩戸勝鬘 上

『法隆寺にご書簡』

一念構揚無息留 何況七日大功徳

我待衆生心無間 汝能済度豈不護

二月廿五日勝髪調御

最後の「勝髪」とは聖徳太子のこととされています。他の二通は写しがありません。また、法隆寺の方針として、未来永劫にわたって開封しないことが決められていますので、今後も見ることはできません。

しかし、それも不思議な話であります。『日本書紀』は推古29年(621年)2月5日、夜半に聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)に薨去されたと記し、法隆寺系の釈迦像光背の銘文と天寿国繍帳では、聖徳太子の薨日を推古30年(622年)2月22日としております。

皇極天皇3年(644年)に創建された善光寺と推古29年(621年)、あるいは推古30年(622年)に薨去された聖徳太子がどうやって書簡を交換したのでしょうか。

まず、第一に、聖徳太子が仏教の擁護者であったという誤りであり、聖徳太子が言う三法とは仏教の事ではなく、儒・仏・神の3つと書き綴られております。

また、物部氏は百済と関係が深く、蘇我氏は新羅との関係が深い豪族でありました。互いに外交において対立することはありましたが、物部氏が廃物派、蘇我氏が崇仏派という対立を古事記・日本書紀が書いておりますが、金銅製阿弥陀像(善光寺如来)を初めて日本に持ってきたのは、おそらく物部氏の一族であり、物部氏が廃物派であったというのも嘘であります。

物部守屋の支配地にある渋川廃寺(八尾市渋川町5丁目 渋川天神社の境内)が出土しており、守屋が創建したと伝えられます。また、この渋川一帯が仏教に親しんでいたのは間違いありません。

さらに、丁未の乱(物部守屋VS蘇我馬子)で守屋一族が衰退したのであって物部氏が滅んだのでも、衰退した訳でもありません。ただ、蘇我馬子が権力を掌握し、守屋に変わって中枢を牛耳ったというだけであります。この丁未の乱で厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我馬子と共に守屋の領地を攻めておりますが、互いに憎しみあっていた訳でもなく。また、崇仏派と廃物派の対立も存在しないのであります。つまり、聖徳太子を支持した何者かが、聖徳太子の名を持って、善光寺と書簡を交わしていたとしても、何の不思議もない訳であります。

むしろ、『先代旧事本紀』の成立は828年前後と考えられており、物部氏の偉業と蘇我氏の事業を、すべて藤原氏のモノとする日本書記に対する対抗心から制作されたという趣旨が最も考えられるものなのであります。

なお、奈良時代に成立した主要な文献は、

『古事記』(712年成立)、

『日本書紀』(720年成立)、

『出雲風土記』(733年、その他の『風土記』は別途)、

『懐風藻』7(751年成立)、

『藤氏家伝』(760~762年ごろ成立)、

『万葉集』(782~3年ごろに成立した?)

それに続き、平安時代の初期に成立した主要な文献は、

『続日本紀』(797年成立)、

『古語拾遺』(807年成立)、

『新撰姓氏録』(814年成立)、

『日本霊異記』(822年以後に成立?)、

『先代旧事本紀』(828年前後?)、

『日本後紀』(840年成立)

などなど、さまざまな文献(※1)があります。その中で江戸時代に発行された『大成経』は、聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典として一世を風靡しました。

『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)』は、江戸の戸嶋惣兵衛の店から出版された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説くものでありました。序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、推古天皇が四天王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものであると綴られております。

この大成経従えば、保食神の体から生じた五穀を集めてアマテラスに献上したのはツキヨミであり、外宮の祭神はツキヨミとなってしまう。さらに皇祖神たる日神アマテラスを祭るのは、伊勢内宮ではなく、伊雑宮となってしまうので伊勢神宮としては権威に掛かる事態となってしまったのです。

天和元年(1681年)に幕府は『大成経』を偽作と断じて禁書し、その版本を回収しました。この本を版元に持ち込んだ神道家、永野采女と僧 、潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、その関係者一同の刑も定まり 、『大成経』事件は一応の終結を迎えたのであります。

それ以来、『先代旧事本紀』、『大成経』は偽書のレッテルを貼られてしまったのであります。

この『先代旧事本紀』の特徴は、天孫と皇孫を大きく分けており、天孫(ニギハヤヒ)の末裔を尾張氏と物部氏とし、そこから枝分かれした子孫を書き綴ります。一方、皇孫(ニニギ)の末裔とし、共に天照大神の子孫であるとしてあります。

それ以降、神武天皇から始まる天皇家の歴史を綴り、治世元年(593年)の夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とされ、摂政として国政をすべて任せられ、厩戸豊聡耳皇子がお亡くなりになられることで終りとなっております。

さて、この厩戸豊聡耳皇子が聖徳太子と呼ばれ、摂政として国政を執り行ったと書かれておりますが、摂政制度が成立したのは、859年に藤原良房が実際的な官職の一つとして付いたとされます。また、正式に詔が与えられた摂政宣下は、866年に幼い清和天皇を補佐する為に「摂行天下之政(天下の政(まつりごと=政治)を摂行せしむ)」とされたのが始まりです。この事から推古天皇の時代に摂政制がなかった。ゆえに厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)の摂政政治はなかったという説もあるくらいです。

厩戸豊聡耳皇子が行った大業の1つに、遣隋使があります。

『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々』

この銘文は、隋の煬帝を怒らせたと魏志倭国伝に記載されております。

年表に表すとこんな感じになります。

〔遣隋使節関係資料の記述比較〕

<s-02-07 遣隋使節関係資料の記述比較>

S0207

特に注意されるべき点は、

推古16年(608年)に隋使裴世清の来訪と記載が残っており、

夏4月、妹子、隋より使人裴世清・下客12人を伴って筑紫に着く。

6月15日、裴世清ら難波津に上陸し新館に入る

妹子が、国書を百済に掠取されたと奏上(流刑に当たるところを許される)。

秋8月3日、裴世清ら入京。12日、裴世清、煬帝の国書を倭皇に伝える。

8月16日、隋使を朝廷で饗応する。

9月11日、裴世清ら帰国。妹子を大使、吉士雄成を小使、鞍作福利を通事とし、留学生・僧8人を派遣。

一方、魏志倭人伝には、文林郎裴世清を倭国に派遣。倭王、小徳阿輩台に数百人の儀仗をつけて来迎。

10日後、大礼哥多比、二百余騎で使者を都に迎え、倭王に面会する。

裴世清、倭王との面会後まもなく帰国を申し出、倭はそこで使者をつけて送り返した。

また、隋書の煬帝紀には、

大業4年(608年)3月19日、百済・倭・赤土・迦羅舎国が遣使してきた。

と残されています。

推古16年(608年)の隋の使者である裴世清は倭王を面接していることが重要であります。隋書には、推古天皇が存在し、それが女帝であったなどという記載がありません。

対外的に、推古天皇は倭王ではなかったと思われます。

『日本書紀』によれば、聖徳太子は601年(推古9)2月に斑鳩の宮の造営に着手し、この宮の造営には4年半も掛けております。そして、20年間も住み慣れた上宮(かみつみや)を離れて、605年(推古13)10月に一族ともども斑鳩の宮に移られます。

この斑鳩の宮は、東西規模は約210メートルと判ってきました。前期難波宮(なにわのみや)が、南北200m、東西50mですから決して小さい規模ではありません。

また、参考として、

「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となった皇極天皇が営んだ皇居である板蓋宮(いたぶきのみや)は、掘立柱列で囲まれた東西約156メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)と、その南半では中軸線上に位置する五間×二間の門と、七間×四間の建物、北半では高床式の大きな建物やや大井戸など多くの遺構が検出されています。

つまり、斑鳩の宮も倭王が住むに相応しい宮であったと推測されるのです。

推古16年(608年)に隋使裴世清は倭王と対面します。厩戸豊聡耳皇子は推古13年(605年)に斑鳩の宮に移っております。

当時、誰が倭王であったのか、それを疑う必要もないのです。

また、厩戸豊聡耳皇子と聖徳太子が同一人物であったのかという疑問は、またの機会にするとします。

聖徳太子によって編纂されたと言われる『先代旧事本紀』が世に出されたのが828年前後であり、聖徳太子が没した(622)年から200年余り先で平安時代初期にあたります。世は藤原氏が謳歌を極めておりました。日本の基礎を築いた物部氏、蘇我氏、聖徳太子などの多くの偉人がなした成果を藤原氏の成果と為し、多くの怨みが『先代旧事本紀』を始め多くの文献が世に輩出されたのでしょう。

さて、室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶の言う神書三部(古事記・日本書紀・先代旧事本紀)を見比べてみましょう。

■『先代旧事本紀』と『記紀』

旧事紀と記紀の大きな違いは、旧事紀では天孫族と呼ばれるニギハヤヒの子孫が詳しく残されております。(ニギハヤヒには、天火明命(アメノホアカリ)と同一とする説(旧事紀)、大国主の子とする説、スサノオの子とする説など様々あります。)

神世七代から国産みにおいて旧事紀と記紀に違いはありません。天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)が差し替わって入り、宇比邇神・須比智邇神などが消えていますが、そこにどれほどの忌みがあるのか皆目見当が付きません。国産みとおいては、淡路州をお産み、伊予、筑紫、壱岐、対馬州、隠岐、佐渡、大日本豊秋津州をお生みになります。

天地創造の神々を産むと、次に天下の主となる者として、大日孁貴(おおひるめむち)または天照太神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素戔烏尊(すさのおのみこと)を産みになります。

この三人は伊奘諾尊が黄泉の国から戻って来て、禊でもう一度お産みになっており、2度登場する不思議な構成になっております。

大日孁貴(おおひるめむち)または天照太神(あまてらすおおみかみ)=天照大御神

月読尊(つくよみのみこと)=月読命(つくよみのみこと)

素戔烏尊(すさのおのみこと)=建速素戔烏尊(たけはやすさのおのみこと)

〔微妙に字体が違うので、旧事紀の中では別人なのかもしれません〕

伊奘諾尊・伊弉冉尊の神産みは、記紀と同じく火産霊迦具突智(ほのむすひかぐつち)の誕生で伊弉冉尊がお亡くなりになり、伊奘諾尊が伊弉冉尊を求めて黄泉の国に旅立ち、逃げ帰ることになります。

次に素戔烏尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)を訪れたことが書かれ、宗像三女神などの誕生へと続き、素戔烏尊が高天原を去るところまで書かれております。

ここから『記紀』にない天神本紀が始まり、ニギハヤヒが河内に下り、共に降った数多の神々が示されております。

次に地祇本紀では、新羅の曽尸茂梨(そしもり)のところに天降られ、そこから出雲へとお移りになられていることが書かれております。そして、素戔烏尊は、

「韓国の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」

とおっしゃられて、松の木、樟の木、槙の木、その他沢山の種子を蒔いたとあります。

これは、当時の朝鮮半島に金銀があり、また製鉄の為に山々がハゲヤマになっており、それに対するように倭国には木々が茂っていたことを揶揄しており、記紀には見られない国際情勢がここに浮かび上がっています。

次の天孫本紀はニギハヤヒの子孫の系図が示されており、これもまた記紀に見られない部分になります。

次の皇孫本紀は記紀と似ておりますが、注釈のような物語が付け加えられております。そして、海幸彦命(うみさちひこのみこと)、山幸彦尊(やまさちひこのみこと)の話から神武天皇の東征へと続き、天皇本紀、神皇本紀、帝皇本紀と書き綴られております。

天皇本紀・神皇本紀・帝皇本紀は、神武天皇から推古天皇までの天皇家の歴史であり、記紀と非常に類似しております。しかし、話は全体に簡略化され、系図が重要視されている点が特徴的であります。

このように、旧事紀には古事記と日本書記に記載されていない箇所が存在します。しかし、記紀のいずれかをベースに書き直したというより、物部氏の為に書き直したというべきでしょう。

それは同時に記紀における欠落箇所を補完することになっています。

記紀の神武東征において、何故に河内に同じ天孫の祖であるニギハヤヒの一族がいたのか。記紀には天孫族が神武天皇より先に畿内にいた理由を語っておりません。

4世紀の崇神天皇の御世に活躍した皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人はどこに消えてしまったのでしょうか。

5~6世紀の第16代仁徳天皇から第31代用明天皇の間に活躍した物部氏の活躍も示されておりません。

旧事紀、古事記、日本書記はすべて推古天皇の時代で終わっています。天武天皇が命じたのであれば、古事記・日本書記は何故に天武朝まで書き綴らなかったのでしょうか。

その答えが『先代旧事本紀』(旧事紀)に書き示されているのです。

旧事紀は、聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、聖徳太子、あるいは聖徳太子と蘇我馬子の命によって編纂されたと書かれております。聖徳太子の時代は推古朝です。推古朝で編纂を命じたから推古朝で終わっているという当たり前の事が書かれているのです。

ならば、天武天皇が命じた古事記・日本書記は、何故に天武朝まで書き進めなかったのでしょうか。

水戸光圀の『大日本史』は、正保2年(1645年)に『史記』「伯夷伝」を読んで伯夷・叔斉に感銘を受け、以来は反省して学問に精励し、史書編纂を志したとあります。その『大日本史』が完成したのは明治39年(1906年)に10代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順になってからでした。実に261年も掛かっています。

それに比べて、天武朝が始まったのが673年であり、『古事記』(712年成立)、『日本書紀』(720年成立)の完成に30年から40年というのは実に短い期間で完成しているのが判ります。

否、天武天皇は乙巳の変(645年)の入鹿殺害によって中断していた聖徳太子が編纂を命じた史書の完成を命じたと考えれば、推古朝(593-628年)から100年余り、中断していた時期を差し引いても80年近い歳月を掛けて完成したことになります。しかも天武天皇が命じたのに、推古朝で終わっているという疑問に答えてくれるのです。

もちろん、旧事紀は聖徳太子が命じた史書である『天皇記』・『国記』の原本ではなく、他方に枝分かれした史書をかき集めて再構成された『天皇記』、あるいは『国記』が旧事紀と思われるのです。

特に旧事紀は物部氏関連を多く再編纂されています。

なぜ、そうはっきりと断言できるのかと言うならば、天孫本紀の末文に、

「十七世孫・物部連公(もののべのむらじきみ)麻呂(まろ)。馬古連公の子である。この連公は、天武朝の御世に天下のたくさんの姓を八色に改め定めたとき、連公を改めて、物部朝臣(もののべのあそん)の姓を賜った。さらに、同じ御世に改めて、石上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜った。」

と、天武朝までの後日談が書き加えられているからです。

推古朝の編纂者が天武朝の時代を知る訳もありません。しかし、天智朝の御世であっても、天武朝の御世であっても物部氏に連なる者が重宝されていたことが判ります。

旧事紀は武門の棟梁たる物部氏の氏神として祀られている石上神宮に象徴されるように、物部石上氏を始め、多くの物部氏に纏わる者達が、平安の御世で藤原氏によって古事記や日本書記から欠落させられた物部氏の記述を復活させる為に世に出されたのでしょう。

ウィキパディアの記紀編纂の要因に、

乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺すると、憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時、朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上し、『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとある。しかし、『天皇記』、『国記』は現存していない。

また、『日本書紀』の編纂に利用されたという文献(※2)も現存しない。

天武天皇は稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂させ、その後に焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に『日本書紀』が編纂されたとある。

天智天皇が編纂を命じなかったのは国難でその暇も惜しんだ為とされているが、本当の理由はやる気がなかったからだ。一方、天武天皇が本当に蘇我系の天皇であったとするなら、国書の編纂は、過去の偉人を尊んだ復興事業である。しかし、持統天皇は天智天皇の娘であり、天智天皇の悪行を残すことはあり得ないだろう。

古事記・日本書記の編纂には、そんな深い因縁が複雑に入り混じっている。

<s-02-08古事記・日本書記・先代旧事本紀の完成年代>

S0208

3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)へ

※1).さまざまな文献

飛鳥時代

『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』(聖徳太子・蘇我馬子)

『帝紀』

『旧辞』

『上宮記』

奈良時代

『粟鹿大神元記』

『古事記(太安万侶・稗田阿礼)

六国史 『日本書紀』(舎人親王・藤原不比等)

『続日本紀』(藤原継縄・菅野真道・淡海三船)

『日本後紀』(藤原緒嗣)

『続日本後紀』(藤原良房)

『日本文徳天皇実録』(藤原基経)

『日本三代実録』(藤原時平)

『伊吉博徳書』(伊吉連博徳)

『高橋氏文』

『藤氏家伝』

『因幡国伊福部臣古志』

『日本帝記』

『類聚国史』(菅原道真)

『古語拾遺』(斎部広成)

『日本霊異記』

『旧事紀(異本含む)』 『先代旧事本紀』

『白河本『旧事紀』』

『延宝本『旧事紀』』

『鷦鷯伝本『旧事紀』』

『上宮聖徳法王帝説』

『異本太子伝』

『上宮皇太子菩薩伝』(思託)

『住吉大社神代記』

『穂積三立解』

平安時代以降

『皇太神宮儀式帳』

『止由気宮儀式帳』

『大神宮諸事雑記』

『上宮聖徳太子捕闕記』

『弘仁格式』

『国造本紀』

『日本紀略』

『扶桑略記』

『釈日本紀』

『新撰姓氏録』

『尊卑分脈』

『大宰管内志』

『本朝皇胤紹運録』

『御堂関白記』

『類聚三代格』

『百練抄』

『日本書紀私記』(多人長・矢田部公望ら)

『小右記』

『日本逸史』

『出雲国造神賀詞』

『天書』

『中右記』

『新国史』

『政事要略』(藤原実資・惟宗充亮)

『源平盛衰記』

『大鏡』(不明)

『今鏡』(不明)

『栄花物語』(赤染衛門?)

『水鏡』(中山忠親?)

『日本紀』(中厳円月)

『将門記』

『本朝世紀』

『愚管抄』(慈円)

『吾妻鏡』(不明)

『鎌倉年代記』

『北条九代記』

『保暦間記』

『古事記裏書』(北畠親房・卜部兼文)

『増鏡』(二条良基?洞院公賢?)

『日本書紀纂疏』

『神皇正統記』(北畠親房)

『太平記』(不明)

『難太平記』(今川貞世)

『梅松論』(不明)

『明徳記』

『応仁記』

『鉄炮記』

『公卿補任』

江戸時代以降

『天正記』(大村由己)

『中古日本治乱記』(山中長俊)

『群書類従』

『日本国記』

『続群書類従』

『読史余論』(新井白石)

『異称日本伝』(松下見林)

『古史通』(新井白石)

『徳川実紀』(成島司直)

『続史愚抄』(柳原紀光)

『日本外史』(頼山陽)

『大日本史』(徳川光圀ほか)

『本朝通鑑』(林羅山、林鵞峯)

『大日本野史』(飯田忠彦)

『前々太平記』(平住専安(建春山人・橘墩))

『閥閲録』(永田政純(萩藩))

『国史略』(巌垣松苗)

琉球

『歴代宝案』

『おもろさうし』

『中山世鑑』

蔡鐸本『中山世譜』

蔡温本『中山世譜』

『中山世譜』

『球陽』 琉球王国編年史 『遺老説伝』

『琉球国由来記』

西洋人による日本記述

『日本王国記』(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン)

『日本見聞録』(ロドリゴ・デ・ビベロ)

『日本大王国志』(フランソワ・カロン)

『日本誌』(エンゲルベルト・ケンペル)

『日本』(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)

『日本史』(ルイス・フロイス)

近代以降

『史籍集覧』(近藤瓶城)

『徳川十五代史』(内藤耻叟)

『明治天皇紀』

『大正天皇実録』

『二千五百年史』(竹越与三郎)

『近世日本国民史』(徳富蘇峰)

『日本開化小史』(田口卯吉)

『日本二千六百年史』(大川周明)

※2). 『日本書紀』の編纂に利用されたという文献

『日本旧記』(雄略天皇21年〈477年〉3月)

『高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年〈660年〉5月、斉明天皇7年〈661年〉4月、11月、天智天皇9年〈669年〉10月)

『伊吉連博徳書』(斉明天皇5年〈659年〉7月、斉明天皇7年〈661年〉5月)

『難波吉士男人書』(斉明天皇5年〈659年〉7月)

『百済記』(神功皇后摂政47年〈247年〉4月、神功皇后摂政62年〈250年〉2月、応神天皇8年〈277年〉3月、応神天皇25年〈294年〉、雄略天皇20年〈476年〉)

『百済新撰』(雄略天皇2年〈458年〉7月、雄略天皇5年〈461年〉7月、武烈天皇4年〈502年〉)

『百済本記』(継体天皇3年〈509年〉2月、継体天皇7年〈513年〉6月、継体天皇9年〈515年〉2月、継体天皇25年〈531年〉12月、欽明天皇5年〈544年〉3月)

『譜第』(顕宗天皇即位前紀)

『晋起居注』(神功皇后摂政66年〈267年〉)

邪馬台国のあったのは2世紀でした。魏志倭人伝に卑弥呼が使者を送り、倭国の王となりました。2世紀は魏の曹操がローマ方面から取り寄せた知識で帆船の一大革命が起った時代でした。でも、2世紀の倭人は手漕ぎ舟が全盛期で卑弥呼は中華との貿易を独占できるシャーマンなのでした。そして、三韓を征した神功皇后は4世紀の人でした。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

目次へ

0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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〔歴史館はこちらへ〕

1. 古事記・日本書紀のはじまり へ戻る

2.邪馬台国の都がどこにあったのか?

この疑問は多くの歴史学者や研究家の間で議論になり、現代もその論争は続いており、邪馬台国の都がどこにあったのは結論付けられません。

ただ、九州に降りた天孫族が吉野ヶ里遺跡か、あるいは熊本県菊池の当たりにあったのでないかという推測は日本語の方言である『方言区画』から読み取れます。九州方言は、豊日方言・肥筑方言・薩隅方言の3つに分かれています。

<s-02-01 九州に残る三つの方言>

S0201

豊日方言(ほうにちほうげん)は、本土の方言に近く、肥筑方言で聞かれる、形容詞の語尾が「か」になるカ語尾はなく、逆接の接続助詞「ばってん」や主語を表す格助詞「の」も用いられないのが特徴です。豊日方言の地域は、気候も土地も豊かで食に苦労することもなく、対馬ルートと沖縄ルートの双方から交易品が届き、それを四国などとの交易を通じて、日本全国の様々な物資が届きます。

肥筑方言(ひちくほうげん)は、「よい」→「よか」となるように、形容詞の終止形語尾が「か」となるカ語尾が付きます。また、逆接の接続助詞に「ばってん・ばって」、終助詞「ばい」「たい」が特徴的です。肥筑方言の地域は、有明海の豊な地域と対馬ルートから交易を主な産業としました。その為に半島の影響を大きく受け、最も文化的なことが進んだ地域です。

薩隅方言(さつぐうほうげん)は、「シッモサン」(知りません)のように鼻音や濁音の前に来る事もできる。また、[ai] [ae] → [e] のように母音(a, i, u, e, o)が連続する部分を連母音が、音の短音に変化し、長い(nagai)→ ナゲ(nage)、具合(guai)→ グエ(gue)のようになる。それは名前でも同じで、「さいごうさん」(saigousan)→「セゴドン」(segodon)、「さいごうさま」(saigousama)→「セゴサァ」(segosaa)と生活において使用が一般化されている固有名詞を短母音化させる人も多い。薩隅方言の地域は、土地が枯れており、農作物の実りは余りありません。ゆえに狩りや海の幸を生きる糧としたことから、逞しい肉体と豪コツな性格が生まれたのかもしれません。文化的には対馬ルートほどではありませんは、沖縄列島を渡って大陸の呉国(狗呉)などの影響を大きく受けました。

いずれにしろ、三者三様の特徴を持つ方言の違いがあり、豊日方言は日向族、肥筑方言は大和族、薩隅方言は隼人族の土民が使った名残であることは間違いありません。

邪馬台国は対馬海峡から続く火の国を支配しておりましたから、肥筑方言の地域(大和族)と重なります。

文化というのは不思議なもので、一度線を引かれると何百年の歳月が過ぎても中々切れてくれません。天下分け目の関ヶ原には、目の見えない東日本人と西日本人を隔てる境界があります。関東はかつお出汁で、関西はこんぶ出汁と味の味覚が変わります。その他にも関東の持ちは四角く、関西は丸餅とか、卵焼きも関東は砂糖を入れて甘く、関西は出汁を多く入れて醤油でつくる「出汁巻き卵」を好む。出汁も関東は醤油が濃く、関西は出汁をベースに薄く作ります。つまり、その地域の食材の流通などが原因で味覚も生活様式も影響するのです。それが感性の隔たりとなり、文化を隔ててしまうのです。

この方言の境界で最も注目すべき点は、豊の国(大分)が豊日方言に入っていることです。神武の東征によって組み入れられたことによって、それ以降も九州東部の文化圏を作ってきたことが覗かれます。

ところで魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の記述(※1)を読む限り、場所の特定は不可能です。帯方郡(韓国京城府)から伊都国(いとこく)までは、距離で記述されていますので、おおよその位置が特定できます。しかし、投馬国と邪馬台国は距離ではなく、日程で書かれているのです。また、距離は12,000里と極端に長い距離が書かれています。

<s-02-02 魏志倭人伝における邪馬台国への行程>

S0202

この12,000里が伊都国からと仮定すれば、

図の円上のすべてが候補地になってしまうのです。つまり、邪馬台国の候補地である吉野ヶ里、日向、因幡、予、奴羅のすべてが否定できないと言う訳です。もちろん、伊都国から奴羅まで水10日間で移動できませんから、近畿説を説く学者は、投馬国まで水行20日の後に、水行10日か、陸行30日と訳しております。また、同じ解釈で因幡と予も邪馬台国の候補地として残ります。

逆に、帯方郡から邪馬台国まで12,000里と仮定でするならば、

伊都国から1,000里程度の距離にあるか、または方向違いの因幡付近までが邪馬台国となります。中には、陸行を無視した極端な説で沖縄が邪馬台国であるという論説を出されるかたもいます。

魏志倭人伝に沿って、伊都国から陸行30日と訳しますと、吉野ヶ里遺跡か、熊本県菊池、日向などが候補地になり、どうしてそんな日数が掛かるのかが謎です。

そもそも、伊都国まで距離で示しているのに対して、投馬国と邪馬台国が行程で記載されている時点で、投馬国と邪馬台国の場所を作者も特定できていないと考えるべきなのです。つまり、魏志倭人伝から邪馬台国の位置は特定できないのが結論なのです。その事を理解して貰った上で、九州方言の分布に戻ります。

対馬海峡を渡航する上で、天候と潮の流れを読むことは非常に重要な条件でした。シャーマンである卑弥呼は安全に渡航できる日を予測する知恵があり、その知恵によって巫女としての権威を保っております。

ゆえに、対馬海峡の対岸である火の国(筑紫、肥前、肥後)を女王卑弥呼が支配する大和族の地であったことに疑いはありません。また、紀元前3世紀に渡航してきた秦の方士である徐福も最初に上陸したのは火の国(佐賀・熊本)であります。

<s-02-03 古代九州の地図>

S0203

火の国は有明海を中心に発展したようで、熊本南部まで肥筑方言が広がっております。また、九州にも多くの岩戸が存在しますが、天照大神がお籠りになった祠は高千穂の天の岩戸のみのようです。このことから天孫降臨の地は高千穂から阿蘇、有明を渡って有明海(久留米湾)を中心に発展したと考えることができるのです。

内海は波が静かであり、山々から流れてくる川の水が潤沢な栄養を運び、豊かな水産資源の宝庫となります。入り江が深いこの地が最も発展したのも頷けるというものです。しかし、豊富な恵みを与えてくれる山々は、時として最悪を運んできます。

紀元前2世紀は、日本列島の火山が活性化し、静岡の富士、福井の白山、そして、九州の由布および九重山が大噴火を起こします。しかもその後、数百年間も断続的にブルカノ噴火を起こしたのであります。由布山から東は溶岩が流れ出し、住まいの根底から流してしまいました。

九州の噴火と言えば、1792年2月10日に起こった雲仙の噴火の記録が残されています。普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火は、3月1日より溶岩の流出が始まり2カ月近く継続し、3月22日にはの窪からも噴煙、溶岩も流出し、さらに3月25日には古焼頭からも噴煙が上がりました。普賢岳の北東部に溶岩が流れ出し、全長は2.7kmとなりました。また1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)に雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害は、島原大変肥後迷惑と呼ばれ、肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人という有史以来日本最大の火山災害となったと言われています。

おそらく、これより規模の大きい噴火が由布および九重山で断続的に起きたと考えられます。

イタリアのポンペイではありませんが、火山灰が大地を覆い尽くし、食糧は激減します。天孫の住民は民族大移動を余儀なくされたのであります。

天孫の大和族は出雲に国譲りし、ニギハヤヒの一族は豊の国の住人を連れて、秋津根国(あきつねくに、奈良・京都・大阪)に移住し、ニニギの一族は、南九州の日向と薩摩に避難しました。こうして、200年余りの間、北九州は歴史から姿を消すことになるのです。

しかし、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢していることから中継地としての村は残っていたと思われます。対馬や壱岐は決して農作物が取れる土地ではありませんが、交易によって成り立っております。同じように中継地としての村が存在していたのは間違いありません。そして、200年以上も離れて暮らした天孫たちは、まったく異なる文化を持つようになっていったのでしょう。

日向の彦火火出見尊(山幸彦)は、豊かな土地と四国と交易を続けていましたが、薩摩の火照命(海幸彦)は、土地がやせ細っていたので海の幸と沖縄列島ルートから大陸との交易で営んでいたと思われます。

ここからは想像であります。

火山の活動が鎮静化するのを最も早く感じたのは、南に位置するニニギ一族でありました。ニニギの子孫は北九州に戻って奴国を建国したのではないでしょうか?

しかし、交易が再開されると、多くの民族が戻ってきます。出雲の国に避難していた大和族が北九州に戻り、伊都国が奴国を滅ぼします。しかし、多くの民族同士の紛争は続きます。その多くの民族が相争ったことで調停者として卑弥呼が立ち、邪馬台国が建国されました。

しかし、それに賛同しない日向族の一部は南九州に追い戻され、こうして狗奴国として邪馬台国と争い始めたのです。彦火火出見尊(山幸彦)は、同じニニギの子孫である火照命(海幸彦)を従わせ、南九州を統一します。そして、神武天皇の父であるウガヤフキアエズ(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)は、子供達に東を支配化に置くように東征させたのです。

こうして、豊の国(大分・筑紫の東)から穴門の国(山口)、安芸の国(広島)、吉備の国(岡山)、秋津根国(奈良・京都・大阪)と制圧していったのです。急激に力を付ける狗奴国に対抗する為に邪馬台国の卑弥呼は魏に支援を求めたのではないでしょうか。

魏志倭人伝に乗る邪馬台国の南、つまり、日本海側にある邪馬台国と、瀬戸内海側にある狗奴国が相争っていたのです。

その後、神武天皇は畿内を制圧すると、丹の国(丹波・若狭)を攻め、さらに越の国まで兵を進めます。そして、折り返して出雲の国に攻め掛かります。

何故、神武王朝、後の大和王朝はすぐに邪馬台国を滅ぼさなかったのでしょうか?

一番の理由はやはり神武天皇の崩御でしょう。

神武天皇が亡くなると、南九州を基盤とする手研耳命(たぎしみみのみこと)と畿内を基盤とする神八井耳命・綏靖天皇兄弟とが争う。結果、神八井耳の末弟である神渟名川耳、綏靖天皇(すいぜいてんのう)が皇位に付くことになります。

後継者争いをキッカケに豪族達が反旗を翻し、王朝に亀裂が走った頃に大渡来時代を迎えます。3世紀後半から4世紀に掛けて、大型帆船を利用して多くの渡来人が倭国にやったのです。

それまでの手漕ぎ船では、大量に人員や物資を運べない上に、対馬海峡を渡る『対馬ルート』、沖縄列島の島々と渡る『沖縄列島ルート』、そして、北の果てである『北海ルート』に限られていましたが、大型帆船の登場でその前提が大きく崩れたのです。

<s-01-01 古代舟と帆船の海洋航路の違い>

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百済から直接に筑紫、新羅・高句麗から南渤海航路を使って丹波・若狭、風を巧く使って渤海航路で直接に日本海を渡る航路もできます。季節による海流の流れと風の向きで航路が幾つも生まれたのです。

もちろん、この海流と風の流れを掴むのに一世紀近い時間を要し、本格的な大渡来時代は四世紀だったかもしれません。

大量の渡来人が来襲し、鉄の精製などの新しい技術が伝来し、馬や牛、豚(猪)などの家畜も持ち込まれます。生活は一変し、山の麓に住む旧土民と、湿地帯に住居を構えた新移住民との力関係も微妙になってゆき、日本全国で騒乱の種が植えられたのです。

邪馬台国は海峡の距離が最も短い対馬ルートを持つことで交易の優位を持っていました。しかし、大型帆船は対馬島を中継することなく、朝鮮半島と筑紫を結ぶことができました。また、日本海では火の国や出雲の国を利用することなく、直接に丹の国(丹後・若狭)に寄港できるようになったのです。つまり、邪馬台国の火の国(肥前)や出雲の国の価値が小さくなったのです。

大量の渡来人が土着する過程で多くのトラブルが発生し、国内の安定が最優先されたと考えれば、欠史八代(けっしはちだい)、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇が邪馬台国を攻める暇もなかったというのが実情なのでしょう。

もう少し正確に言うならば、

神武天皇や綏靖天皇は多くの豪族から妃を貰い、多くの皇子を残します。そして、豪族同士が手を結び、時には血で血を洗う戦いを争って、生き残った天孫の子孫、神武天皇の血脈が新たな支配者として名乗り上げたと言った方が正しいでしょう。

それは正統な皇位継承権を持つ者であったとは限らないのではないでしょうか?

もしかすると、皇位継承者を倒した後に、姉妹か、娘を嫁にすることで権威を保ち、偽の血統で異母兄弟であったとか、歴史を捏造、でっちあげたりしたのかもしれません。

いずれにしろ、混迷期であり、詳しい事を知ることはできません。欠史八代の研究は、今後の考古学者の発掘に任せるしかありません。

第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)の御世では、大国であった吉備も反乱したようです。この第7代孝霊天皇の第三皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)兄弟の吉備国平定は、岡山県(吉備国)の温羅(うら)伝説に由来するとも言われ、桃太郎のモデルとなったのが彦五十狭芹彦命であり、この平定を元に桃太郎伝説ができたとも言われるのです。吉備における鉄の精製は渡来人が伝えたと考えられ、何と言っても吉備の鉄は王朝にとって重要でした。渡来人を如何に従わせるかというのが、大きな鍵を握っていたのでしょう。

第8代孝元天皇(こうげんてんのう)の御世では、山下影日売を娶って産んだ子に、武内宿禰(たけうちすくね)の名が登場し、この武内宿禰の子は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる人物です。この当たりから混乱期を終え、再生が始まったようです。

第10代崇神天皇(すじんてんのう)は、「初国知らしし御真木天皇」(はつくにしらしみまきのすめらきこと)と称され、『日本書記』には、神武天皇も『始馭天下天皇』(はつくにしらすすめらみこと)と称されていることから、同一人物ではないかという説もあります。

崇神天皇は北陸大彦・東海道に武渟川別・丹波に丹波道主、西海に吉備津彦などに軍を派遣します。みな、阿倍氏にゆかりの深い方々であり、物部氏、大伴氏、蘇我氏などの祖は力を現しておりません。崇神天皇の御世に姿を現す物部氏は、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)といい、 淀川と天野川の合流する地域を支配した肩野物部(かたのもののべ)の一族であり、神斑物者(かみのものあつかいひと)であります。大和三輪に大物主神を祀り、大田田根子を神主にしていたようです。

この伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と書かれておりますが、どこまで信じて良いのかは不明であります。

さて、この当時の出土品から馬具などが見つかっていることから、騎馬民族が大陸より来襲した説も上がっておりますが、大陸から王朝大移動を示す形跡もなく、学会では否定的であります。おそらく、渡来人が齎した知恵や武具が戦闘に馬を組み入れるなどの大きな変革を齎したのでしょう。

また、崇神天皇の御世では、初めて人民の戸口を調査し、役を課していることから「初国知らしし御真木天皇」と讃えられたのでしょう。

ところで古事記・日本書紀には、神武天皇が丹の国や越の国、出雲の国に派兵した記録はありません。ゆえに、神武天皇と崇神天皇は別人であると主張されますが、高倉下が丹の国や越の国、出雲の国に、神武天皇の兄、五瀬命(いつせのみこと)の部下が丹の国に派兵した記録を追うと、神武天皇もかなり広範囲に派兵しておりました。領地の大きさを持って別人であるというのは無理があります。

何度言っておりますが、神武天皇の東征の時期は3世紀後半以前であり、崇神天皇の崩御の時期は4世紀であり、どう考えても100年近い差があります。

<1-36『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い>

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崇神天皇の時代になると疫病が襲い、民の半数が失われると書き示しております。疫病の発生は、大陸との関係に著しく関わっています。明治7年に台湾出兵をした日本軍は、それ以来、コレラの大流行が明治12年、15年、19年、23年の4度もあり、毎年必ず数百人以上の死者があり、明治27年(1894)の日清戦争までに全国の死者数が3万~10万人を越えています。

疫病の原因は大抵が、大陸から持ってきた痘瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・赤痢・コレラ・インフルエンザ・癩・結核・梅毒などがあげられ、免疫力のない土着民の多くに広がります。つまり、この時期も多くの渡来人がやって来ていたことの裏付けとなるのです。

こうして、渡来系の力を内に取り入れて、崇神天皇は畿内・近国を再統合しました。

畿内・近国とは、奈良時代にできた令制国(りょうせいこく)の分類の1つで、

・畿内:都に近い国

・近国:近い位置にある国が近国とされた(畿内の国は分類されない)。

・中国:畿内からの距離が近くもなく遠くもない「中ぐらいの距離にある国」を意味する。

・遠国:遠い位置にある国が遠国とされた。

畿内・近国・中国・遠国(※2)と、距離と価値と街道で国を区分しておりました。

<s-02-04 5畿7道>

S0204

第12代景行天皇(けいこうてんのう)の御世には、九州北部・越の国・蝦夷を残して再統一を終えていたようです。ただ、熊襲の反乱、東国の反抗と各地で抵抗は続いておりました。そこで有名な大和武尊の話が生まれています。

大和武尊は熊襲武尊を童女の姿で騙して討ち、さらに出雲建を騙して亡き者にし、東国遠征では計略を持って討ち滅ぼし、鹿島神宮がある蝦夷まで討伐すると、利根川を上って東山道を通って尾張の国まで帰国します。そして、伊吹山の神の怒りに触れて、杖をつかなければ歩けないほど弱ります。

大和武尊は次のように仰せになり、

「私の足は三重のように勾餅のように、腫れてねじ曲がってしまい、とても疲れた」

そこで力尽きました。そこから、この地を三重と呼ぶようになります。

景行天皇が亡くなると、第4子の成務天皇(せいむてんのう)が即位されます。しかし、子がなかったのか?

この成務天皇が崩御されますと、大和武尊の第2子である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) が第14代として即位されるのです。仲哀天皇は九州の筑紫に巡行し、熊襲征伐を相談すると、気長足姫尊(神功皇后)がこう言いました。

「不毛の地、熊襲を討つより、宝物に溢れた新羅国を帰服させてはどうか」

しかし、仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を攻め、戦勝を得られないまま還幸し、橿日宮で崩御します。

気長足姫尊(神功皇后)はシャーマンのように振る舞い、そのお告げを聞かなかった仲哀天皇は天罰を受けて崩御し、神功皇后は三韓征伐を終えて帰国すると、仲哀天皇の皇子が反乱し、それを騙し討ちで成敗して河内王朝が始まるのです。

『日本書紀』では、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」と記されており、江戸時代まで神功皇后と卑弥呼は同一人物と思われていたようです。しかし、時期は合わないので倭の女王である台与ではないかと修正されました。

いずれにしろ、邪馬台国と神武王朝を同一と思わせる記述となっております。

応神天皇の崩御は古事記では、甲午394年(日本書記では、庚午310年)となっております。在位が41年として363年以前の『三韓征伐』を行ってと仮定できます。〔古事記の仲哀天皇が死去した壬戌の年(362年)〕

346年に百済が建国し、高句麗・百済・新羅の三国時代を迎えた直後ということになります。366年には百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結びます。また、382年に加耶が新羅と葛城襲津彦によって滅亡させられています。

葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ)は、武内宿禰の子で、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父でもあります。

いじれにしろ、神功皇后が朝鮮半島を攻めてきたという半島の記録は見当たりませんが、神功皇后の側近が武内宿禰ですから時代的に重なることは否定できないようです。

仲哀天皇の行幸を日本書記によれば、

元年春正月、日本武尊の第二子の仲哀天皇が即位。

2年春正月、気長足姫尊を皇后とされた。

2月6日、敦賀に移り、行宮(かりみや)を笥飯宮(けひのみや)という。

3月15日、南海道を行幸する。二~三人の卿と、官人数百人とで紀伊国(きいのくに)においでになり、徳勒津宮(ところつのみや)に居られた。そこで熊襲を討とうとして、徳勒津(ところつ)をたって、船で穴門(あなと、山口県)においでになった。

夏6月10日、天皇は豊浦津(とゆらのつ、山口県豊浦)に泊まられた。皇后は敦賀から出発して、渟田門(ぬたのみなと、福井県)に至り、秋7月5日に豊浦津に着く。

9月、穴門に宮、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)を建てて住まわれる。

8年春正月4日に筑紫に行かれる。岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の熊鰐(わに)は周芳(すわ)の沙麼(さば、山口県佐波)の浦までお迎えした。熊鰐を水先案内人として山鹿岬(やまかのさき、福岡県北九州市遠見ノ鼻・岩屋崎)からめぐて岡浦(おかのうら)に入ります。水門(みなと、岡水門=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しましたが、そこで舟が進まなくなります。結局、潮が満ちてから岡浦に泊まります。

21日、灘県(なだあがた、福岡県博多地方)に到着して、橿日宮(かしひみや)に滞在されます。

秋9月5日、群臣に熊襲を討とうと会議させます。皇后に神託を垂れると、

「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂うれえられるのか、そこは荒れて痩やせた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝まさって宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)という(栲衾は白い布で新羅の枕詞)。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立あなとのあたいほむだちが献上した水田――名づけて大田という。これらのものをお供えしなさい。」と述べた。

しかし、天皇は神託を信じずに熊襲を攻めた。

9年春2月5日、天皇は急に病気になられてお亡くなりになります。

<s-02-05 仲哀天皇の7年間の行幸>

S0205

日本書記には、

仲哀天皇は2年夏6月10日から8年まで穴門(山口)の穴門豊浦宮で住まわれ、8年春正月4日頃から9年春2月5日頃まで筑紫(福岡)の橿日宮に滞在されたと示されています。また、熊襲を討伐とありますが、熊本や鹿児島へ侵攻した記述はありません。

仲哀天皇が殯葬されたという地は、小郡市大保1032の仲哀天皇殯斂地 大保伝承地とされ、大宰府より15kmほど南に下った所です。また、遺骸は忌宮神社(下関市長府宮の内町)にあるこの地の土肥山(仲哀天皇殯斂地)に殯葬されました。また、神功皇后が神託をなされたのは香椎宮(福岡県福岡市東区香椎)であり、そこに廟を置いたとされます。他にも香椎宮古宮神社跡、仲哀天皇陵長野伝承地(糸島市川付787)、仲哀天皇殯斂地長府伝承地(下関市長府侍町1丁目10-1)、仲哀天皇殯斂地華山伝承地(下関市菊川町上岡枝)と福岡から下関の範囲で点在しています。

つまり、熊襲は筑紫の国の周辺に存在していたのであります。

仲哀天皇が穴門豊浦宮に6年近くも在中していたのか?

山鹿岬で舟が止まったのか?

万葉の詩などには、書かれている文字に隠語が仕組まれており、物事の全体を俯瞰できるようになっております。そう考えれば、山鹿岬で舟が止まったのは、そこが境界であり、岡浦、水門と進軍を続け、橿日宮に達した時には、6年の歳月を要していたと書かれているのです。

そこで改めて、仲哀天皇は熊襲討伐を臣下に問うた訳です。

仲哀天皇はそのまま進軍することを望みましたが、神功皇后は先に新羅・百済・高句麗と国交を結ぶことを望みます。

神功皇后の『三韓征伐』と古事記・日本書記には書き示されておりますが、三韓が倭国に征伐された記述は残っておりません。

この頃の朝鮮半島は、高句麗が342年に前燕の慕容(ぼようこう)に攻められ、第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となって滅亡を回避しました。百済は第13代近肖古王となり、346年頃に漢城(ソウル)を首都と定め、馬韓地域を統一します。新羅は元々辰韓の一国に過ぎませんでしたが、286年にかけて西晋に対して朝貢を行ってことから辰韓を支配化に置いたと思われます。366年には、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が高句麗に対抗するため同盟を結びます。

朝鮮側の史料を元に考えると344年に通婚を要求したが、新羅は「娘は嫁に行った」として断ったことで、345年に国交を断絶し、346年に風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃したという記述が該当します。しかし、古事記の仲哀天皇が死去した壬戌の年(362年)より前の話となりますから参考として覚えておく程度の話でしょう。

また、397年に百済は倭国に百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好し、399年に百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化しておりますが、30年以上も後の時代であります。

このことから三韓が征伐された事が屈辱的であった為に記述されていないとするなら、人質を送ったという記述を消されているでしょう。

神功皇后の名を『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后と書かれ、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)とあります。この開化天皇玄孫・息長宿禰王は、山代之大筒木真若王と姪の丹波之阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)の間に迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を産み、その迦邇米雷王も丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売の父、息長宿禰王を産んでおります。

丹波というからは丹波道主命系の姫であり、丹波道主は阿部氏主導の四道将軍とするべく加えられた中級貴族の祖であります。

丹波と言えば、天之日矛(あめのひぼこ・天日槍命・海檜槍)・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話が残されております。

新羅の阿具(あぐ)沼の辺で昼寝していた女の陰部に日光が射し、女は赤玉を産んだ。新羅の王子、天之日矛は、その玉をある男から貰い受け、持ち帰って床に置くと、玉はたちまち美女に変じた。日矛は美女を妻にし、美女は珍味を作って日矛に仕えたが、ある日機嫌を損ねて美女を罵ると、美女は「祖国へ帰ります」と言って、小舟に乗って日本へ帰ってしまった。後悔した日矛は、美女の後を追って日本にやって来る。美女は一旦、大分の姫島まで逃げたが、執拗に追ってくる日矛から逃れ、最後は難波に落ち着いた。この女神が、阿加流比咩(あかるひめ)で、比売碁曾神祠(大分県姫島)、比売許曽神社(大阪市東成区東小橋南之町)、赤留比売命神社(大阪市東住吉区平野三十歩町)、姫島神社(大阪市西淀川区姫島町)などに祀られている。難波の沖まで姫を追って来た日矛だったが、海上の守護神に塞ぎられ、終に上陸することが出来ず、やむなく播磨、淡路、近江、若狭を転々として但馬に入り、多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘、前津見(まえつみ・紀では出島の太耳の娘、麻多烏)と結婚して、当時、入江湖で泥海だった但馬の地を、円山川の河口の豊岡市瀬戸にあった岩山を切り拓いて水を日本海に流し、但馬平野を作り出し肥沃な耕地にして、但馬開発の祖神の出石八前大神(いずしのやくさのおおかみ)として、出石神社に祀られた。

但馬は、律令制以前に但馬・丹後も含み丹波国造の領域とされていますから、共に丹波であります。

<s-02-06 応神天皇記の系図>

S0206

〔応神天皇記の系図〕(アメノヒボコ ウィキペディアHPより)

この系図から神功皇后は天之日矛の子孫であり、同族の五十迹手の国である北九州の「伊都国」で応神天皇を産んでおります。

また、近江水系を支配した息長氏の祖は、15代応神天皇の5世孫にあたる息長真手王だといわれますが、「古事記」には、その祖父で応神天皇の孫、意富々杼王(おほほどのみこ)が、息長(滋賀県坂田郡米原町)の坂君、酒人君(さかひとのきみ・大阪市天王寺区玉造)、三国君(みくにのきみ・福井県三国町)らの祖となったと伝えております。

この息長氏を祀る神社は、

・朱智神社(京都府京田辺市天王高ヶ峰)

祭神&祖神 迦邇米雷王

配神 建速須佐之男命、天照國照彦火明命

社家 息長(朱智・三国)氏

息長氏 滋賀県坂田郡天野川(息長川)流域、三重県桑名郡多度町

京都府京田辺市付近、大阪市天王寺区玉造、福井県三国町

息長丹生真人氏 滋賀県伊香郡余呉町丹生、滋賀県坂田郡米原町丹生

天之御影命(あめのみかげのみこと):開化天皇の子、日子坐王(四世孫が神功皇后)の妃である息長水依比売の父。天目一箇神と同神とも、兄弟とも言われます。

いずれにしろ、神功皇后は系図的・一族的にも、新羅と縁浅からぬ関係であり、新羅・高句麗との交易で富みを得た一族であったと考えられます。つまり、国際情勢に詳しかったということです。

北九州を支配していた『(仮)熊襲』は朝鮮半島と繋がりが深く、一方、神武王朝から続く仲哀王朝は、新羅・高句麗・百済と国交すら結んでいない状況でした。大陸から見れば、『(仮)熊襲』が倭国であり、仲哀王朝は倭国に逆らう蛮族に過ぎなかったのです。

つまり、神功皇后は仲哀王朝こそ倭国の王であり、それを認めさせれば、『(仮)熊襲』と組みする加羅諸国が寝返ると確信していたに違いありません。

実際、新羅と一戦を交えた後に、新羅・百済・高句麗と国交を結ぶと、加羅諸国は神功皇后に伏したと読み取れるのです。

そして、帰国した皇后に『(仮)熊襲』も服従したのでしょう。

何故、『(仮)熊襲』を熊襲と古事記・日本書紀に書き記されていたのでしょう。

そもそも鹿児島の『霧島市敷根』の集落に『桂の木で有名な桂姫城の勝浦姫』の伝説があり、「薩隅日地理纂考」という藩・県による官撰の「薩摩・大隅・日向諸県郡の地誌」に、

『古老ノ傳説ニ曰ク 敷根ノ産ニテ 神功皇后ニ仕ヘ奉リ 三韓征伐ニ従ヒ 武功アリシヲ 皇后重ク賞シ給ヒ 勝浦姫ノ名ヲ賜フ 武家是ヲ愛慕ス 依テ 其名ヲ後代ニ傳ヘムカ為ニ 植置リ トイフ ‥中略‥ 桂姫ノ根元ハ天鈿女命ノ古事ヨリ出タリ』(同書 446頁)、桂姫の元祖は、名を岩田姫と謂ひ、神功皇后の侍女でありました。「皇后三韓征伐の御時に、胄の代わりに召されたと云ふ、綿帽子を家に傳へて、御目見えの度毎に之を持参し、現に大阪陣の時など、神君之を頂戴して、自ら御被り成された」と書かれています。

元祖、鹿児島の熊襲に住んでいる隼人族は、三韓征伐に従って従軍しているお味方だったのです。

『神功皇后伝説』では、一人が神主、一人が琴を弾く、一人が審神者(さにわ)とされ、神功皇后が神主、琴奏者が武内宿禰、中臣烏賊津が審神者となっております。

皇后は味方を招集されたみたいで、伊勢(いせ)の国の度会(わたらい)の県の、五十鈴(いすず)の宮においでになる、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)を呼ばれ、

次に、天事代虚事代玉櫛籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)を呼ばれ、

次に、日向国の橘(たちばな)の表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)〔住吉三神(※3)〕を呼ばれ、

次に、吉備臣の祖、鴨別(かもわけ)を遣わして熊襲の国を討たれますが、神功皇后の侍女である桂姫であり、熊襲隼人族は三韓征伐で兵を出したお味方であったようです。鴨別を遣わして、参陣するように促し、熊襲隼人族は快く出陣したと読み解くできなのでしょうか。

こうして、神功皇后は全国から兵を集います。

そして、後顧の憂いを断つ為にでしょうか。筑紫の国の荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲(はしろくまわし)(※4)を討たれてから三韓征伐に赴かれることになっております。

三韓征伐を終えた神功皇后は、中臣烏賊津に長崎の地を与えて監視させます。そして、生まれた皇子(応神天皇)を皇太子に据えると、異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑みますが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したと書き示されています。

ところで、『(仮)熊襲』を境に、畿内の古墳より邪馬台国の象徴の1つである『三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)』が出土されるようになります。三角縁神獣鏡は、邪馬台国の卑弥呼が魏国より倭王の印として賜ったと言われる鏡ですが、北九州であまり出土せず、もっぱら畿内や王朝に付き従った豪族の墓から出土します。

この事から、邪馬台国は畿内にあったという説が有力視されるのですが、肝心に大陸から三角縁神獣鏡は出土されず、2015年(平成27年)に中国の骨董市で三角縁神獣鏡が発見されたという報告がなされているだけです。

三角縁神獣鏡が大陸から伝わってきたかの議論はともかくとして、畿内で出土する三角縁神獣鏡のほとんどが国内産であると思われるのです。

さて、最初に邪馬台国と神武王朝は別であると言いました。

3世紀まで邪馬台国、あるいは、邪馬台国を名乗る北九州の勢力が存在し、神功皇后に併合されたことで仲哀王朝は、倭国の王である大和王朝(邪馬台王朝)を名乗り、国号を『奴羅(なら)』から『大和(ヤマト)』に改めたのではないでしょうか。

つまり、

3世紀以前の北九州にあった卑弥呼の邪馬台国、

4世紀以後に倭国併合した神功皇后の邪馬台国(ヤマト)の2つが存在するのです。

邪馬台国がどこにあったのか?

それは、九州説でも、畿内説でもなく、時代と共に移り変わったのです。

しかし、何故、古事記・日本書記は、邪馬台国の存在を隠したのでしょうか?

古事記・日本書記は共に7世紀の天武天皇の御世に編纂を命じられました。日出づる天子を名乗った聖徳太子は、600年(推古8年)の遣隋使で国号を『日本』と改めて、50年以上も過ぎ、今更に邪馬台国の国号を隠す意味もなかったでしょう。

これには、古事記・日本書紀の成り立ちによって判るのです。

次は『古事記・日本書紀の成り立ち(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)』から考えてみましょう。

3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) )へ

《第15代天皇から第17代天皇の在位》

応神天皇:在位41年

仁徳天皇:在位87年

履中天皇:在位6年(倭の五王、讃)〔413年『晋書』安帝紀、『太平御覧』〕

※1).『三国志魏書』倭人伝 (通称:魏志倭人伝)

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm)より抜粋

倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。昔は百余国、漢代には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。

帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する①。

筆者注記① 当時の市は、物々交換を行なう交易の場とされる。従って、糴の訳は「穀物と物々交換する」と意訳するのが妥当だと思われる。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

また別の海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千余戸あり、山海に沿って暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。

東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。

東南の奴国に至るには百里、官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、二万余戸ある。

東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。

東に行き、不彌国に至るには百里、官は多模、副は卑奴母離といい、千余家ある。

南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。

南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。

南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、その余の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の領域内の全部である。

その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。

男子無大小皆黥面文身②。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東治之東。

男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青を施している。古より、そこの遣使が中国を詣でると皆が大夫を自称した。夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子(庶子の無余)が会稽に封じられ、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をした。

今の倭の海人は水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥を厭うからである。後にやや装飾となった。諸国の文身は各自に異なり、左や右、大や小、身分の尊卑で差がある。その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる。

筆者注記② 黥は、犯罪者を明示するため、顔面に入れ墨をする古代中国の刑罰のこと。文身の文は、虎や豹などの模様の付いた毛皮を「文皮」というように文様の意味。従って、文身とは文様の付いた身体、すなわち刺青を彫った身体を表わしている。往時の中国では、文身を海洋民族の習性だと考えていたようだ。

其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

その風俗は淫乱ではない、男性は皆が露紒(ろしょう=頭に何も被らない)で、木綿を頭に巻いている(鉢巻き)。そこの衣は横幅があり、互いを結束して連ね(ラマ僧の巻衣)、簡単な縫製もない。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣)。

種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。

水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳(ダンジ)や朱崖(シュガイ。ともに海南島の地名)に同じである。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

そこの行き来では、海を渡って中国を訪れるが、常に一人を頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、共に訪れる(者)が生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病が生じたり、暴風の災害などに遭ったりすれば、これを殺す、その持衰の不謹慎が(災いを招いた)というのだ。

出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。

真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)があり、樹木には楠木、栃、樟、櫪、橿、桑、楓。竹には篠、簳、桃支。生姜、橘、椒、茗荷があるが、滋味なることを知らない。猿や黒い雉がいる。

其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒①。見大人所敬、但搏手以當跪拜。

注記① 其俗不知正歳四節、但計春耕秋收為年紀。

そこの風習では、事を起して行動に移るときには、為す言動があり、すなわち骨を焼いて卜占で吉凶を占う。先ず卜占を唱えるが、その語句は令亀の法の如く、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆(きざし)を占う。

そこでは会同での起居振舞(たちいふるまい)に、父子男女の差別がない。人々の性癖は酒を嗜む①。大人(高貴な者)への表敬を観ると、拍手を以て跪拜(膝を着いての拝礼)にあてている。

注記① 『魏略』によれば、そこの風習では、一年に四季があること(歴)を知らない。ただし、春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としている。

其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。

そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)はあるいは二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。

窃盗をせず、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている。租賦を収めている。邸閣(立派な高楼)の国があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都国で治め、国の中では刺史の如くある。王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し、文書、賜物を女王に詣でて伝送するが、間違いはあり得ない。

下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

賎民が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。言葉で伝達すべき説明事は蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて、両手を地に着けて敬意を表す。応答する声は噫(いい)と言い、これで承諾を示す。

其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。

景初二年(238年)六月(通説では景初三年の誤記とする)、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。

太守の劉夏は官吏を遣わし、送使を率いて京都に詣でる。

其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。

その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。

今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。

今、汝を親魏倭王と為し、仮の金印紫綬を包装して帯方太守に付託し、汝に仮授せしむ。その種族の人々を鎮撫(鎮めなだめる)し、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中の労に勤める。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮授し、引見して慰労を賜い、遣わして還す。

今以絳地交龍錦五匹①、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。

① 臣松之以為地應為綈、漢文帝著皂衣謂之弋綈是也。此字不體、非魏朝之失、則傳寫者誤也。

今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹①、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。

注記① 臣松之は、地は綈に対応するとし、漢の文帝は黒い衣を着るが、これを弋綈と言うのである。この字は字典に則らず、魏朝の過失にあらず、書写の者の誤記である 。

筆者注記 絳は深紅の意味で、絳地は深紅を基調(深紅地)となるが、本文注記に記載があるように、現代漢語でも、地「di=ディ」と綈「ti=ティ」と同一の音調であり、上古音韻では同音だった可能性もある。従って、地は綈(つむぎ=紬)の誤記とされる。

又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」

また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して難升米、牛利に付託するので、帰還したら目録を受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」。

正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。

正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。

其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。

其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して仮授せしめた。

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。

その八年(247年)、(帯方郡)太守の王頎が(洛陽の)官府に到着した。

倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。

卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。

※2).畿内・近国・中国・遠国<平安時代の延喜式>

■畿内

大国:大和国、河内国 、山城国、摂津国

上国:なし

中国:なし

下国:和泉国

■近国

<東海道>

大国:伊勢国

上国:尾張国、三河国

中国:

下国:伊賀国、志摩国

<北陸道>

大国:

上国:

中国:

下国:

<東山道>

大国:近江国

上国:美濃国

中国:

下国:

<山陰道>

大国:

上国:但馬国、因幡国、丹波国

中国:

下国:丹後国

<山陽道>

大国:播磨国

上国:備前国、美作国

中国:

下国:

<南海道>

大国:

上国:紀伊国

中国:

下国:淡路国

■中国

<東海道>

大国:

上国:遠江国、駿河国

中国:能登国

下国:伊豆国

<北陸道>

大国:越前国

上国:加賀国、越中国

中国:

下国:

<東山道>

大国:越前国

上国:甲斐国、信濃国

中国:

下国:飛騨国

<山陰道>

大国:

上国:

中国:伯耆国、出雲国

下国:

<山陽道>

大国:

上国:備中国、備後国

中国:

下国:

<南海道>

大国:

上国:

中国:

下国:

<西海道>

大国:

上国:阿波国 、讃岐国

中国:

下国:

■遠国

<東海道>

大国:武蔵国、上総国、下総国、常陸国

上国:相模国

中国:

下国:

<北陸道>

大国:

上国:越後国

中国:佐渡国

下国:

<東山道>

大国:上野国、陸奥国

上国:下野国、出羽国

中国:安房国

下国:

<山陰道>

大国:

上国:

中国:石見国

下国:隠岐国

<山陽道>

大国:

上国:安芸国、周防国

中国:長門国

下国:

<南海道>

大国:

上国:伊予国

中国:土佐国

下国:

<西海道>

大国:肥後国

上国:筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国

中国:日向国、大隅国、薩摩国

下国:壱岐国、対馬国

※3).住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に底筒男命(ソコツツオノミコト)•中筒男命(ナカツツオノミコト)•上筒男命(ウワツツオノミコト)の住吉三神を祀る神社であり、

三大住吉神社と呼ばれるのが、

住吉大社 - 大阪府大阪市住吉区住吉

住吉神社 (下関市) - 山口県下関市一の宮住吉

住吉神社 (福岡市) - 福岡県福岡市博多区住吉

であります。

鹿児島の住吉神社(鹿児島県曽於市住吉山)には、標高267mの住吉山(姥が嶽)の中腹に鎮座し、樹齢800年の巨木に囲まれて鎮守の森の中にひっそりとたたずんでおります。当町檍原は、古事記、日本書紀に見えるように、伊邪那岐命が禊祓をされ、住吉三神を初め諸神を生じ給うた神代の要地であり、当神社はこの住吉大神の荒魂を祀るといわれ、海内諸住吉社の根本であるとされています。天和三年神祇道管領卜部朝臣兼連が、島津光久公の請いにより、当社の縁起を著しました。此の縁起は社司高橋魂正が蔵していたが、延享年中の火災により焼失したといわれ、同時に兼連が著した「日州檍原記」が「三国名所図会」に掲載されております。

※4).【夜須の地名伝説】

朝倉地方には、羽白熊鷲という強力な首長がいて、 朝廷の命にも従おうとしなかった。そこで筑紫の国に入られた神功皇后はまず、これを討たんと決意され、 策を立てて夜須町安野原におぴきよせられた。

羽白熊鷲は強健で、身体には翼があり、よく飛ぴ高く翔けることができたから、神功皇后も、なかなかこれを討つことができなかった。そして神功皇后はこの強者を倒したのち、 その安堵感から周囲の者に「熊鷲を取り得て、我が心即ち安し」ともらされた。

古事記・日本書記が編集されたのは8世紀です。日本書紀の在位を逆算すると、神武天皇が即位したのは2600年ほど前になります。縄文人と弥生人が暮らしていた時期になり、東征なんて考えられません。神武天皇の東征はいつごろなのでしょうか?

神話はその先にあります。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

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****0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から** 1.古事記・日本書紀のはじまり 2.邪馬台国の都がどこにあったのか? 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある) 4. 天孫降臨は2度あった 5. 日本の神話 国産み 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊 7. 日本の神話 大国主

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**1. 古事記・日本書紀のはじまり

古事記は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものであったが、朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御し、その修史事業が中断してしまった。そのことを惜しんだ元明天皇は、和銅4年(711年)9月に太安萬侶に命じて編纂させ、和銅5年(712年)に元明天皇に献上されたと成立の経緯を記されている。

一方、日本書記は、成立の経緯を記されておらず、『続日本紀』の記述により成立の経緯が記されている。『続日本紀』によれば、天武天皇は天武十年(681年)三月に川嶋皇子らに命じて、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂させ、養老四年(720年)五月に舎人親王らが『日本紀』を奏上した。

さて、古事記は、明治政府以降、日本の皇国史観として位置付けられているが、南北朝時代まで、その存在を知られていない。元々、天皇の勅命で行った事業であったが、奈良時代の正史『続日本紀』に示されていなかった。南北朝時代の1371年から72年にかけて真福寺(宝生院の前身)の第二世信瑜(しんゆ)の命で、秘蔵されていた『古事記』を僧・賢瑜(けんゆ)に書写させた真福寺本古事記三帖が発見されるまで、『古事記』は一般に知られることはなかったのだ。

その為に、古事記は偽書という説が古くからある。

しかし、江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのぶなが)が約35年を費やして『古事記』註釈の集大成である全44巻の『古事記伝』を著したことで、『日本書紀』と比して冷遇されていた古事記の地位を復興した。特に日本書記の儒教的な「からごころ」がなく、日本古来の「やまとごころ」を重視していることを高く評価している。

明治政府は明治5年太政官布告第342号によって、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」より神武天皇の即位をもって「紀元」と定め、「紀元節」と称することを定めた。それは西暦紀元前660年に相当します。

さて、この日本書記において、古代の天皇の寿命が異常に長いことから、年次や存在そのものを疑う歴史学者も少なくない。実際、紀元前660年の日本に王朝が存在したとは考えられない。だがしかし、それを持って、日本書記を否定するのは愚かなことであります。

<1-36『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い>

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〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(第二章 『日本書紀』の実年代HPより)

古事記は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものであったが、朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御し、その修史事業が中断してしまった。そのことを惜しんだ元明天皇は、和銅4年(711年)9月に太安萬侶に命じて編纂させ、和銅5年(712年)に元明天皇に献上されたと成立の経緯を記されている。

第30代敏達天皇、そして用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の時代になると、時代との誤差も小さくなり、崩御の時期の信憑性も増してきます。そこを基準に崩御した時期を列挙すると神武天皇が崩御した時期が推測されます。そこから即位の辛酉年が、181年、241年、301年の3つにしぼり出されます。

この頃、日本は激動の時代であり、邪馬台国の女王卑弥呼が魏国に援軍を求めております。また、この魏国が西洋の船舶製造技と航海術を取り入れた大型帆船が登場し、3世紀後半以降には、渤海・黄海・日本海に多数の航路が生まれました。

<s-01-01 古代舟と帆船の海洋航路の違い>

S0101

〔古代舟と帆船の海洋航路の違い〕(風に支えられた渤海船 キッズ日本海学HPより半分使用)

新しい航路は、大量の渡来人を倭国に呼び込み、馬などの家畜も日本に上陸します。

現代のヨーロッパで大量の難民が流入することで多くの問題が発生し、国内が混乱するように、3世紀のゲルマン民族の南下でローマ帝国が滅びたように、日本も多いに混乱したでしょう。

もし、301年に即位したと仮定しますと、丁度、百済からの大量渡来人の時期と重なります。神武の東征は45歳の年に日向を出向し、畝傍山の東南の橿原の地を都と定めて52歳で即位します。

日本書記では、北九州に一ヶ月、安芸に三ヶ月、吉備に三年滞在し、

古事記では、北九州に一年、安芸に七年、吉備に八年滞在し、

日本書記と古事記の差異は、また別の問題としまして、筑紫にやってくる渡来人の為に東へ東へと進出したことになります。しかし、そう考えると、何故ゆえに熊野へ迂回したのでしょうか?

吉備に戻り、大兵力を整えて再び紀の川から奈良盆地へ侵入しなかったのでしょうか。

<1-49 紀の川河口からの航空写真>

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〔紀の川河口からの航空写真〕(紀の川 万葉香の悠久の歴史と自然の川 国土交通省HPより)

奈良時代に奈良の物資が紀の川を通じて運び出されます。何も難所である熊野灘を越えて熊野から進入するのは謎です。

この紀の川に付いては、

経済から見る歴史学 日本編 01-9 神武の東征(後篇)

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/01-7-7dc4.html

をお読み下さい。

そう考えると、神武の東征で神武天皇は大量の兵士も持っていなかったことが伺われます。つまり、民族大移動の大侵略ではなく、その土地を統治する為に征伐戦だったことが判ります。そうなると4世紀に入ろうとする301年に神武天皇の即位は考えられません。

次に181年の即位を考えます。

邪馬台国が神武王朝であるとするなら、神武天皇は60年後に大混乱に陥り、女王卑弥呼に王位を譲ることになります。神功皇后(じんぐうこうごう)を卑弥呼、あるいは台与(臺與)は記紀において尊い方として祀り上げられているのです。つまり、欠史八代(けっしはちだい)の当たりに卑弥呼を登場させない理由が見当たらないのです。この事より邪馬台国と神武王朝は別の国であったと判ります。

では、神武王朝の国名は何であったかと言えば、『ナラ』でありました。

漢字で書くと、『奴羅』あるいは『奴国』であります。

奴国は、邪馬台国以前に倭国の王を認められた国の名前であり、伊都国に一度滅ぼされた後に、邪馬台国に所属する奴国と邪馬台国に敵対する狗奴国など多くの国に分裂します。

また、一説には、「倭奴国」は、「倭」=イ、「奴」=トと呼び、伊都国自身も奴国を名乗っていたと言われています。

さて、邪馬台国の南にある狗奴国を治めていたのは、狗古智卑狗(くこちひこ)という官の王でした。クコチはククチ=久々知=鞠智=菊池と変化して、菊池彦ではないかと言われています。しかも『魏書東夷伝』に登場する狗奴国の官は、王卑弥弓呼より先に記されていることから、かなりの実権を握っていたと想像されています。

「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王」 -- 『魏書』東夷伝

では、狗奴国がどこにあったかを検証しますと、

神武天皇の東征で日向から大和までを平定しました。そして、熊野で家臣となった高倉下(たかくらじ)は、丹の国(丹波・若狭)から越の国(越後)、さらに出雲の国まで平定したようです。

もしも、神武天皇が181年に即位したと仮定すると、

邪馬台国は九州の一部しか領土がなく、九州南部から越後までを支配する神武王朝と戦っていたことになります。もちろん、60年間で勢力図が変わったと仮定することもできますが、『魏書東夷伝』には、邪馬台国が狗奴国に奪われた領土を取り返したという記述がないことが、そうでない事を物語っています。

つまり、神武天皇の即位は、241年で邪馬台国と神武王朝は別の国であることが推察されるのです。卑弥呼が魏国に援軍を要請した248年は、即位から7年足らずであり、畿内を平定している過程であり、神武天皇の力は未知数でした。ならば、神武天皇の父であるウガヤフキアエズが存命であったと考えれば、狗奴国の中心は奈良ではなく、南九州地方ということになります。こうなると日本海側を支配する邪馬台国と瀬戸内海側を治めた狗奴国の戦いの構図が見事に浮かび上がってきます。

2.邪馬台国の都がどこにあったのか?へ