モートンの熊手(Morton's fork)?: 極東ブログ (original) (raw)

鳩山内閣の対米外交問題を軽く論じた、22日の、マイケル・オースリン(Michael Auslin)氏によるウォールストリート・ジャーナル寄稿「Japan Dissing」(参照)が一部で話題になっているようだった。時事「「日本切り捨て」時代に=鳩山首相を酷評-米専門家」(参照)はこう紹介していた。

米保守系シンクタンク、アメリカン・エンタープライズ政策研究所(AEI)のマイケル・オースリン日本部長は22日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙(電子版)に寄稿し、鳩山政権の対米政策を厳しく批判、米国が日本に愛想を尽かして無視する「ジャパン・ディッシング(日本切り捨て)」の時代に突入したと論評した。
オースリン氏は、日米関係はこれまで、貿易摩擦時代の「ジャパン・バッシング(日本たたき)」、対中重視・日本軽視を強めたクリントン元政権の「ジャパン・パッシング(日本外し)」など紆余(うよ)曲折があったと指摘した。
その上で、現在、鳩山政権は米国に一貫した政策を提示することができず、「オバマ政権からひんしゅくを買い徐々に無視されつつある」と分析。「日本の政治エリートは、米政府内で日本の評価がいかに下がっているかを知れば、日本たたきや日本外しの時代が懐かしく思えるかもしれない」と皮肉っている。

すでに日本版のウォールストリート・ジャーナルに「冷え込む米日関係 - ジャパン・バッシングならぬ「ジャパン・ディッシング」(参照)として翻訳もネット上で読めるのだが、その訳文に「モートンの熊手」が出てきた。原文と対比して引用する。

日本の政治エリートが、米政府の間で日本の評価がいかに下がっているかを知ったら、バッシングやパッシングの日々が懐かしく思えるかもしれない。日本は今、どちらも望ましくない選択肢から選ばざるを得ない「モートンの熊手」状態に陥っている。すなわち、米国に無視されるか、解決のしようがほとんどない問題とみなされるかの、いずれかだ。

Once Japan's political elites figure out how low their stock has sunk on the Potomac, they may well wish for the days of bashing and passing. They face a Morton's fork between being ignored or being seen as a problem to which there is little solution.

日本では「モートンの熊手」があまり知られていないことを配慮して、「どちらも望ましくない選択肢から選ばざるを得ない」という解説が補われている。一昔前の流行語でいうなら「究極の選択」(参照)というところだろうし、ネットでよく言われる下品な言い回しでは、カレー味のなんたらとなんたら味のカレーといったところだ。
英文として興味深いのは、Morton's forkに不定冠詞がついていることで、どっちを選んでもひどい選択肢の状況のひとつといった意味合いがある。
民主党の鳩山政権がカレー味のなんたらというのは、米人専門家に指摘されるまでもないし、そもそも国会議員として秘書の有罪が決まってもなんら責任を取らないで済んでいる異常な状態は、すでに日本の政治の終了を意味しているだろう。
問題は、だから、モートンの熊手(Morton's fork)である。
それは何か。ウィキペディア「誤った二分法」(参照)にはこう解説がある。

「モートンの熊手」 (en:Morton's Fork) はどちらも望ましくない2つの選択肢から選ぶというもので、誤った二分法の例とされることが多い。この言葉は英国貴族への課税についての論証を起源としている。

「わが国の貴族が裕福なら、永久に課税しても問題はない。逆に貧しくみえるなら、彼らは質素に暮らして莫大な貯金を蓄えているはずで、やはり永久に課税しても問題はない」[1]

これは、土地だけ所有していて流動資産がない貴族を考慮していないという点で、誤った二分法と言える

間違った説明ではないが、なぜモートンなのか、なぜ熊手なのかについての説明はない。
英文のウィキペディアでは単独の項目になっていて(参照)、モートンの由来も簡素に書かれている。

The expression originates from a policy of tax collection devised by John Morton, Lord Chancellor of England in 1487, under the rule of Henry VII.[1]

この表現は、カンタベリー大司教ジョン・モートンが1487年に考案した徴税(徳税)指針を起源にしている。

しかしこの項目の説明は十分とはいえない。というのは、モートン司教の事跡をこのように呼んだ由来がある。それは、哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon)がヘンリー7世の時代を扱った史書の記述によるものだ(参照)。

There is a tradition of a dilemma, that bishop Morton the Chancellor used, to raise up the benevolence to higher rates ; and some called it his fork, and some his crotch.

モートン司教が使ったものだが、徳税を上げる矛盾の伝統がある。これを、フォークと呼ぶ者もいるし、クロッチと呼ぶ者もいる。

実際に、モートンの熊手(Morton's fork)として定着するのは、19世紀のことらしい(参照)。
ところで。
これまで「モートンの熊手(Morton's fork)」という訳語を採ってきたのだが、これは「熊手」なのだろうか? 手元の日本版のブリタニカにもその訳語が載っているのだが、これはどちらかというと一種の伝統的な誤訳の部類ではないかと思う。
このフォークだが、"a fork in the road"のような「分かれ道」あるいは「分岐」といった意味だろう。
チェスの基本技にも近いイメージがある。

チェスのフォーク(両取り)

二手に分岐したというイメージは、ベーコンの原文からも推察される。そこには、クロッチ(crotch)ともあり、これは現代のrowlockを意味していると思われる。

rowlock

現代の英語では、crotchは分岐している形状より、分岐の根元の股布の意味が強い。
フォークも、クロッチと似た、二股の構造を指していると思われる。欧米圏の悪魔がよく三叉の熊手を手にしているが、あれの二股のものであろう。もちろん、二股でも熊手として訳してもいいのだが、熊手ほど分かれてもいないし、ここで強調されているのは、二つに分かれている構造だ。フォークリフトのフォークのほうが近い。
意味を取るなら、「モートンの熊手」というより、「モートンの二者択一」であろうが、それだと面白みに欠けるかもしれない。