いったい誰がデザイナーなんでしょう?: DESIGN IT! w/LOVE (original) (raw)

デザインとは何かを問うことと同時に、最近は誰がデザイナーなのかということについても考えるようになりました。

デザイナーとはいったい何をする人なのか? デザイナーが行うデザインというタスクはいったい何であり、それを実際に行っているのは誰なのか、ということです。

グランドデザイン

何度もこのブログでは書いているとおり、デザインとは見た目や形をうんぬんすることではないと思います。美的な観点のみで色や形を決めていくことがデザインではありません。デザインはお絵描きとは違います。

つまり、デザインという定義自体が、いまだに日本においては、スタイリングと直結したところで止まっているのである。本来のデザインは、もっと大所高所の見地にある。

デザインがスタイリングのことのみを指すのではないことは確かです。では「本来のデザインは、もっと大所高所の見地にある」というのはどういう意味でしょう。

グランドデザインという言葉があります。
この言葉からは色や形をうんぬんするというよりも、もっと大きな意味でものづくりや物事のあり方の計画を立てるという意味が連想されると思います。

千利休は、茶杓や竹製の花入れくらいは自分でつくりましたが、自分好みの楽焼きの黒茶碗はお気に入りの陶工である長次郎につくらせました。
利休に師事した古田織部もまた、地元である美濃に加藤景延らを中心とした優れた陶工十人を集め「織部十作」を定めましたし、岐阜・美濃と九州・唐津や朝鮮とのやきものの技術交流を積極的に行えるようにしましたが、自身でやきものをつくったわけではありません。
さらに織部門下には、桂離宮の造園、二条城などの築庭、建築を行った小堀遠州や、紙屋、筆墨屋、画描き、漆職などを抱える総合芸術の共同作業体をつくった本阿弥光悦などがいるわけですが、彼らもまた、すべてを自分でものづくりするというよりも、ものづくりを行う上でのグランドデザインを行ったといえると思います。

ものづくりとデザイン

ものづくりとデザインは違います

ものづくりを実際に行うのはものをつくる技術をもった職人です。それら職人とデザイナーはイコールではないと思います。
むしろ、デザイナーはものづくりを可能にするための計画・準備を行う人のことを指すのだと思います。

デザイナー・利休が職人・長次郎に黒楽茶碗をつくらせたのであり、デザイナー・織部が唐津や朝鮮の技術も取り入れた織部焼きを職人集団である織部十作の陶工たちに焼かせたのです。

単なるスタイリングを超えた、包括的な意味が「デザイン」にはあるのだ。すなわち設計や、コンセプトの立案、あるいは「ものづくり」全体の枠づくりのことであり、身近な言葉では「ディレクション」ないしは「プロデュース」と同義と言っていい。

この本を書いている奥山さんも現在、山形カロッツェリア研究会を通じて、高いものづくり技術をもった職人たちのプロデュース=グランドデザインを行う仕事を続けています。まさに安土桃山の時代に利休や織部が行っていたのと同じデザイナーの仕事です。

デザイナーの仕事

ものづくりを行うためには、単にものをつくれる技術があればいいというわけではありません。ものづくりにはコストがかかりますから、そのコストを支払うのを妥当なものにする需要がないといけませんし、それには需要の創出が必要です。前に「自分をつくる:其の2.クリエイティブ・クラスも営業力を鍛える」というエントリーでものづくりを行うためにはそれに関わる人が営業的視点をもつことが大事であるという旨を書きましたが、これもデザイナーに求められる仕事の1つだと思います。

そして、実際に需要を喚起するためには、明確なコンセプトが必要になりますし、コンセプトを生み出すためのヴィジョンやそれをコンセプトに落とし込む際の市場やユーザーの現状やニーズを汲み取るためのリサーチ力も必要になってくるでしょう。これに関しては昨日の「関係性を問う力、構造を読み解く目がなければデザインできない」でも書きましたので、ここでは繰り返しません。

grand design

ようするに、ものづくりを行う際、実際にものをつくる前にものがつくれるようにする下地、設計、計画が必要だということです。

デザイナーの仕事はものを実際につくることではなく、ものをつくるための下地や設計、計画を準備するということのはずです。
しかしながら、実際にデザイナーと呼ばれている人たちがやっている仕事がそういうものかというと、どうもそうは見えない場合も多くあります。そういう場合、デザインされていないものが生み出されてきてしまいます。

美へのこだわりという素質

とはいえ、いまの時点でデザイナーの仕事を「ディレクション」ないしは「プロデュース」と呼んでしまうことには若干の不安もあります。
デザインとはスタイリングのことだけではないとはいえ、スタイリングもまたデザインの大事な要素であることに変わりがなく、それゆえに「ディレクション」や「プロデュース」と言ってしまった場合、利休や織部には備わっている美へのこだわりという大事な素質が抜け落ちてしまいそうな気もするからです。

マス・プロダクションにあまりに慣れてしまい、それが普通のことであると思い込んでしまっている僕たちには、本来、ものはひとつひとつ異なってるほうが自然であるということを忘れがちです。
利休や織部が焼かせ、名物とうたわれる長次郎の楽茶碗や織部焼きの茶碗などは唯一無二のものとして、それぞれがこの世にたった1つしかないものです。

それは何も利休や織部の時代だけの美意識、もののあり方というわけではなくて、奥山さんが下の引用でも伝えているように、ヨーロッパのものづくりにおいては依然として残る価値観なんでしょう。

今、評価の高いミッド・センチュリーの名作(1950年代を中心に製作されたもの)なども、実際のデビュー当時は板が波打っていたりと、ひどい代物だった。それが、生産が進むにつれて品質が「よくなって」いく。まるで「もの」が人間のごとく成長するかのようだが、ヨーロッパの消費者には、こうした「成長」を受け入れている部分がある。

たった1つしかないものをつくるという観点、美意識が欠けている人が多いのではないでしょうか。そのことにまったく気づかない人もいると思います。
コンピュータの上でいつでも(誰でも)再現可能なものには、唯一無二の美は宿りません。その美に関する目利きの力がコンピュータ上だけでものづくりに関わる思考をしていては鍛えることがままならないでしょう。

それはものだけではなく、人に対してもおなじです。
一期一会のデザイン」でも書きましたが、その人には二度と会えないと思ってもてなすという力も現在欠けている点だと思います。マス・プロダクションは同時にそれを売る相手である顧客ひとりひとりの顔さえも消してしまった感があります。
同じものなのだから誰に売っても変わりないと。マス・プロダクツは個人の好みには応えられません。利休好みや織部好みといった個人の美へのこだわりにあわせられない。実際にあわせるかどうかは別としても、そのことに気づかずにいるという美意識はちょっと情けなく感じます。

誰がデザイナーなのか

話がそれました。
いったい誰がデザイナーなんでしょう?という話です。

機能的な意味でも、美的な意味でも、用を知りそれを形にするのがデザイナーの仕事だと僕は思います。

その意味で「スピードを上げたいなら速度を上げるんじゃなくてスタートを早めること」や「スタートを早めるためには、意図的に過去の経験の蓄積を増やさなくてはいけない」で書いたような、「いまだ多くの人が気づいていないことに、いかにして早く気づくことができるか」というスキルをもつことが必要になってきます。いや、早いかどうかよりもまず人が気づかないことでも「用を知る」ということができるかです。

何が求められているのか、どう用いられるのかを知らずに、どうして求められる形、用いられる形を決定することができるのでしょう。
そして、実際に誰が何を求め、何を用いているのかを知り、それを実際に形にできるようにするのは、いった誰の仕事なのでしょうか。
もちろん、それはデザイナーの仕事です。しかし、そうだとしても、いったい誰がそうした意味でのデザイナーなのでしょうというのが僕の一番の疑問なのです。

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