[書評]アメリカの保守とリベラル conservative and liberal - HPO:個人的な意見 ココログ版 (original) (raw)

・「アメリカの保守とリベラル」 by 佐々木毅さん

本書は文句なしの名著だ。そもそも、R30さんがなぜご自身をあるいはブログ界隈の方たちを「ほんとはリベラルだ」と喝破されていたことに疑問をもったことがきっかけだった。

ネット右翼だって現実社会に戻ればリベラルでしょうが by R30さん

そして、鈴木謙介さんが「本書を嫁!」と書いていらっしゃるのに刺激をうけて、素直に読んでみた。非常に勉強になった。改めて、フクヤマ、ライシュ、(ポール)ケネディなどの米国の政治思潮における位置づけが理解できたような気になっている。

身勝手なマニフェスト @ SOUL for SALE

この本から感じたことを固有名詞と通史的な序列(つまりはこの本の最大の特徴)を排除してまとめてみた。

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この図を念頭に置きながら、自分なりに感じたことを書いてみたい。

本書で時系列的に語られる1960年代後半から1990年代前半までの米国の保守とリベラルの政治思想の流れを読むといろいろと現代の日本に生きるものとして示唆されるところがあるように感じる。

まず、よくもわるくも不器用な米国人は、不器用なゆえに小手先で政治的な信条をいじることをせずに、ひとつの社会思想として民主主義を深めているという一面があることを感じる。逆に日本人は器用であるがゆえに、過大な応用をしてばかりいるので政治的な混乱を深めているのかもしれない。

ただし、前提として米国は建国の理念から民主主義、「~からの自由」を標榜していた歴史を見るに、日本での右、左という感覚で保守とリベラルをとらえてると大きな間違いを犯してしまうようだ。たまたま読んだ雑誌に「アメリカは(個人主義の方向に傾く)左翼国家である。」と西部邁さんが書いていらっしゃったが、米国の保守とリベラルを日本の政治的な言語であらわすとこうなるのだろうか?また、少なくとも本書執筆時点では欧州の中道左派が主流だった政治的状況とか、欧州のキリスト教民主主義などともやはり米国の政治思想潮流とは違和感がある。なんたって、極端な資本家と低所得層がいっしょに共和党支持だったりするという状況はなかなか理解しずらい。

今回理解できたのは、保守主義とリベラルの最大の争点のひとつは「見えざる手」を信じるか、社会工学ともいえる人間の人工的な力を信じるかの差であるということだ。いわゆるリベラルの福祉政策を見直す大きな契機は、リベラルの「社会は人間の手によって改善しうる」という強い確信が「予期せざる結果の法則」というアンチテーゼによってくつがえされた歴史があるという。ちなみに、私の立場だとこの辺にどうしても「ベキ分布」(すそのの長い分布)を連想してしまう。なんというか、人の手によって作られたもので滅びないものはない。人が必ず死ぬということは言わずもがなだ。

ループ、そして、死滅の本質へ (HPO)

「人間が社会を改善しうる」という信念は、逆にいえば「神の見えざる手」を信じないということになる。このためにリベラル側はどちらかというと「大きな政府」志向であったといえる。ただし、これはカーター政権以後に感情的、ヒューマニズムにすぎなかったと反省される。この実に謙虚な反省に、じつにプラグマティックというか、日本の教条主義的かつクリシェをかかげた思考停止状況と実に対照的なものを感じる。この辺の自分の主張すらも80年代、90年代とネオ・リベラルといわれた人達が克服していくさまが実に見事に本書に描かれている。ちなみに、社会的改善が可能だという認識においてリベラルが公民権運動へより接近するという状況も理解できる。

逆をいえば、経済的に「神の見えざる手」を信じる米国の保守においてはより社会的な絆を大切にする思想になる。つまり、伝統的な信仰や米国流の家族中心主義的な価値観だ。このため、キリスト教への接近もはかられるし、資本家と低所得者層の両方が共和党に共存しているという事態が理解できる。

保守とリベラルの政治的相克の中で深まっていく政治思想としての「公共の哲学」に真剣に感動すらおぼえてしまう。たとえば、リベラル側の福祉政策への反省の深まりの中で、市場経済をとらえなおすというくだりだ。なんといか、自由市場において生活するということは、基本的な社会の信頼があるということなのだというと「発見する」ということは、どういうことだろうか。

市場というのは、さまざまな商品の交換が行われる場所だ。そこにはさまざまな代替物もとりひきしうる。商品の対価を払うということ、投資をするということは、経済的な自由の根本に市場に対する、あるいはそこに参加する人たちに対する信頼感がなければならない。どうも、この辺に現在の複雑ネットワークの議論との接点があるように感じるのだが、まだ明確になっていない。ループというか、常に代替手段が存在する場を市場としてとらえる、ネットワークの塊として市場をとらえるという視点が大切な気がするのだが、思いつきの域を出ない。

いずれにせよ、保守側は政治的側面については穏健な自由の制限を主張するのとは逆に、経済的な側面については広い自由を求めることになる。この辺の経済的「自由」に関する保守とリベラルの逆転状況については、(イギリス人であるが)生物学者のジョン・メーナード=スミスも述べているところだ。

ジョン・メーナード・スミスの延長 (HPO)

政治思想の深まりの中で、自己への愛、権利主張をどうとらえるかという議論が米国において行われたという。「~からの自由」が強調されるあまり米国としての利益、競争力が著しく失われたという反省にたって、いかに「~への自由」が強調された。経済的な自由があって、はじめて政治的な自由が担保されるということと、誰しもが自分自身が一番かわいいということになると、いかにここの利害の合成物としての社会全体を見るかということに必然的に到達する。この辺が、日本において個々の権利のみに重きがおかれ、全体の利益という視点が失われているように感じるのは、私だけだろうか?

また、この自己愛の問題は、完成された福祉社会が「現代文明の中の野蛮人」を産むという矛盾にもつながる。「I, Robot」、「攻殻機動隊」、「アップルシード2巻」あたりの問題意識と自分の中で重なる。

また、この自己愛の議論につてい読み進み、約20年前にかなり米国衰亡論がはやっていたくだりにに達した。個人主義、自由放任主義のひとつの帰結としての過大な社会保障や社会的競争力の喪失など、当時の日本と比べて米国内における危機感があおられていたわけだが、いつのまにかそうしたキーワードは現在の日本によくあてはまるようになってしまった。直感的に想ってしまうのでは、米国の20年くらい前の政治的状況といまの日本の政治状況を引き比べることはかなり可能のような気がする。カーターが外構弱腰、ワシントンの無能さをさらけだしているころの米国に近いのではないだろうか?

環境が政治的な遺伝子の発現を産み、政治的遺伝子の発現が環境を産むという相互差用において、当時の米国と現代の日本において同様な環境が存在していると主張するのはあまりに根拠がないのかもしれない。せいぜひが同じ様な頭がひとつ、うでが二本、足が二本という程度の相似かもしれない。まあ、顔に個性があるようにそれ以上ではない。ただし、当時の深刻さを思うに、逆をいえば現在どれだけ日本が混迷の度合いを深め、衰亡論がはやっていたとしても、それを逆転するチャンスはかならずあると、信じたくなる。

ああ、そうそう四半世紀前のミルトン・フリードマンのマネタリズムにリフレ政策の根っこを見てはいけないのだろうか?

そして、ブログ界隈の住人として、まさに複雑ネットワークの力を検証可能な手段をもったいまこそ科学的な保守主義が確立しうる時だと私は考える。べき乗則はその一側面にすぎない。社会のGA的な発想というのも、硬直した組織を流動化させていく中でとても大事だと感じる。

また、米国の保守が信じる「神の見えざる手」、伝統的な絆の価値などを、現代の複雑ネットワーク論や、エージェントモデルを使ったシュミレーションで止揚可能な議論に私には思える。

それでも、ネットワークが緊密化していき、とてつもなく加速化された口コミベースで伝聞が広がるようになるのなら、どうしても紋切り型のクリシェが先行しがちだ。finalventさんのおっしゃるとおり、こういう状況では実はメタな議論はめちゃくちゃ危険なのかもしれない。政治的なクリシェを闘わせるのではなく、具体的な政策なり、今後の見方なりをこそ示すことが重要なのではないか?なにが検証可能で、なにか想像にすぎないのか?なにに自分は価値の根源を置いてリアルを生きていくべきなのだろうか?いまのところ、左だろうと右だろうとこれを読んでくださっているあなたは同じ日本の中にいるしかないという点では運命共同体なのだから。

そう、もっといってしまえば本当に主義主張で闘うべき相手はブログ界隈にはいない。ブログ界隈の住人が共同して闘うべきは他にいる。

■参照リンク
ブッシュのサポーターはどこに? by やじゅんさん うわっ、赤面の至り...
日本における「保守」と「リベラル」とは何か by やじゅんさん
アメリカの保守とリベラル by だいさん うわっ、なんといシンクロでしょう!