「自己」という幻想 : 池田信夫 blog (original) (raw)

ソーシャルブレインズ入門――<社会脳>って何だろう (講談社現代新書)学生時代に、廣松渉のゼミに1年間もぐりこんだことがあるが、そのゼミには毎回、大森荘蔵が出てきて討論していた。図式的にいえば、廣松が構造主義的な立場から「共同主観性」の優位を説くのに対して、大森がポストモダン的な「個人主観性」による価値の構成を論じる立場だった。あるとき大森が、ヴィトゲンシュタインの有名な例を出して「廣松さんには私の歯の痛みがわかりますか?」と質問したとき、廣松は「わかります」と答えた。

そのときは、さすがに廣松の議論には無理があると感じたが、脳科学のミラーニューロンについての最近の実験は、廣松説を支持している。本書の紹介する「ラバーハンド実験」では、自分の腕とマネキンの腕をついたての向こうに置いて、両方を同時に刺激する。長期間これを続けていると、マネキンの腕を刺激すると自分の腕に刺激を感じるようになるという。つまり古い脳には他人の痛みと自分の痛みは区別がつかず、「これは<私>の痛みだ」というのは新しい脳によって構成された認識なのである。

これは進化論的に考えても当然だ。人間を含む霊長類の生活単位は個体ではなく、数十人の個体群である。特に人間の個体群では分業が発達しているので、あなたが一人で山の中に放置されたら、1ヶ月も生きていけないだろう。したがって脳が社会的につながっているのは当然で、これを著者はソーシャル・ブレインズと呼ぶ。

脳が相互作用するとき、重要なのは認知コストである。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%を消費する。これは脳内の膨大な毛細血管に血液を送っているためだが、人間の脳の重さはチンパンジーの4倍なのに血流量は2倍しかないので、エネルギー供給はぎりぎりだ。したがって脳はなるべく新しい行動を起こさないで、習慣に従って認知コストを節約しようとする。人々が互いにこのような保守的行動をとると、規範ができて行動パターンが決まる。

歴史的にも、自己完結的な自我という概念は、近代西欧(とその影響を受けた文明圏)にしかみられない特殊な意識である。ただ個体群が安定せず、不特定多数と相互作用しなければならない社会では、個人をモナド的な主体とみなして「自己責任」で行動させ、財産権によって彼の自由を守る制度が効率的である。経済学の前提している「合理的個人」とは、このような便宜的な制度にもとづいたフィクションであり、それを自明の前提とした消費者行動理論が実証に耐えないのは当たり前だ。

今後の経済学は、こうしたintersubjectiveな脳の機能から出発する必要があろう。それはフッサールやメルロ=ポンティなどが原理的には明らかにしたメカニズムであり、社会学では(フッサールの弟子である)シュッツなどが試みた理論だ。実は私の卒論は、シュッツをもとにした「経済的世界の現象学」というものだったのだが、30年ぶりに読みなおしてみるか・・・