アンドレイ・マルコフ (original) (raw)

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Andrey (Andrei) Andreyevich Markov
生誕 (1856-06-14) 1856年6月14日ロシア帝国の旗 ロシア帝国リャザン
死没 (1922-07-20) 1922年7月20日(66歳没)ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ペトログラード
居住 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
研究分野 数学
研究機関 サンクトペテルブルク大学
出身校 サンクトペテルブルク大学
博士課程指導教員 パフヌティ・チェビシェフ
博士課程指導学生 アブラム・ベシコヴィッチ ヤコビ・タマルキン ゲオルジー・ボロノイ
主な業績 マルコフ連鎖; マルコフ過程
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アンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフロシア語: Андре́й Андре́евич Ма́рков, ラテン文字転写: Andrey (Andrei) Andreyevich Markov, 1856年6月14日 - 1922年7月20日、日付はいずれも新暦)は、ロシア数学者。特に確率過程論に関する業績で知られる。彼の研究成果は、後にマルコフ連鎖として知られるようになった。

同じアンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフという名前を持つ彼の息子(1903年 - 1979年)もまた著名な数学者であり、構成的数学や再帰関数論の発展に寄与した。

アンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフは、リャザン森林管理局長を勤めていたアンドレイ・グリゴールヴィチ・マルコフと、その最初の妻であったナジェージダ・ペトローヴナ・マルコワの息子として、リャザンの地で生まれた。

1860年代の初め、父アンドレイ・グリゴールヴィチはサンクトペテルブルクに転居し、王女エカテリーナ・アレクサンドローヴナ・ヴァルヴァチェヴァの資産管理者となった。

マルコフの最初の学校生活は、1866年、サンクトペテルブルク第5グラマースクールに入学した時に始まった。この頃から既に、彼は高等数学に強い興味を持っていた。グラマー・スクール在学中の17歳の時に、彼はヴィクトール・ブニャコフスキーアレクサンドル・コルキンイェゴール・ゾロタレフといった数学者に対して、線形常微分方程式の全く新しい解法を提案しており、その結果コルキンの学生らが集ういわゆる「コルキンの土曜日」に招待された。1874年に学校を卒業すると、彼はサンクトペテルブルク大学物理数学の研究を始めた。

彼が師事した教員にはユリアン・ソホツキー微分法、高等代数学)、コンスタンチン・ポッセ解析幾何学)、イェゴール・ゾロタレフ(積分法)、パフヌティ・チェビシェフ数論確率論)、アレクサンドル・コルキン(常/偏微分方程式)らがいる。

1877年、彼は『連分数法を用いた微分方程式の積分と方程式 ( 1 + x 2 ) d y d x = n ( 1 + y 2 ) {\displaystyle (1+x^{2}){\frac {dy}{dx}}=n(1+y^{2})} {\displaystyle (1+x^{2}){\frac {dy}{dx}}=n(1+y^{2})}への応用』という問題に対する驚異的な解法が評価され、金メダルを授与された。翌年、彼は選抜試験に合格し、講師職を得る準備のために大学に残った。

1880年春、マルコフはコルキンとゾロタレフの勧めにより、修士論文『正の行列式を持つ二元二次形式について』を提出した。

その5年後、1885年1月に、彼は博士論文『代数的連分数のいくつかの応用について』を提出した。

彼の教育面での仕事は、修士号を得た後の1880年秋に始まった。彼は私講師として、微積分の講義を行った。後に彼は解析学の入門講座、確率論(1882年に退職したチェビシェフの後任)、差分法などの講義を受け持った。1895/96年から1905年まで彼はさらに微分法の講義も担当した。

博士の学位を取得して1年後、1886年に彼は特任教授に指名され、さらに科学アカデミー会員にも推挙された。ブニャコフスキーの死後、1890年にはアカデミーの特別メンバーとなった。1894年には母校サンクトペテルブルク大学で、(通常の)教授職を得ることができた。

1896年には、チェビシェフの後継としてアカデミーの一般メンバーに推挙された。1905年に彼はmerited professor となり退職の権利を得たが、彼はすぐにそれを行使した。とは言え、彼は1910年まで差分法の講義を続けた。

1908年学生運動との関連により、サンクトペテルブルク大学の教授・講師は彼らの学生を監視するよう命じられた。マルコフは最初にこの命令を拒否し、なぜ彼が「支配者の代理人」となることを拒否するのかの説明文を著した。マルコフは大学でこれ以上教育を続けることを拒否され、結局大学からは完全に退職することになった。

1913年、サンクトペテルブルク大学の評議会は9人の科学者を名誉会員として推挙した。マルコフもその中に含まれていたが、教育省は彼の推薦を認めなかった。しかしそのわずか4年後、1917年2月革命の後に、推薦は認められることになった。マルコフは教壇に戻り、1922年に死去するまで確率論と差分法の講義を続けた。

マルコフはパフヌティ・チェビシェフおよびアレクサンドル・リャプノフとともに、ロシアにおける確率論研究のよき伝統をつくった。

確率論における、マルコフの最も重要な業績は、今日マルコフ過程として知られる確率過程の研究である。

マルコフは、ロシアの作家プーシキンの小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を素材に,文章中に現れる文字間のつながりについての統計的な分析を行った。そして文字の系列などのように事象が相次いで起こるときに、各事象の起こる確率がそれに先行する事象の影響を受ける場合を考察する必要があることを見出し、マルコフ過程の概念を導入した。

マルコフ過程の理論は、現代の確率過程論の一部分として、時間的に変化する確率的現象を扱う物理学工学オペレーションズ・リサーチ生物学社会科学などに広く応用される。

ロシアの大数学者と同様、マルコフは解析の分野でも多くの業績を残している。マルコフの書いた論文の3分の1以上が解析学に関するもので、連分数、関数空間の極値問題、直交多項式微分方程式など多くの問題を解いた。

数論分野についてマルコフの論文は15本と少ないが、この分野の欠かすことのできない重要な仕事を含んでいる。その多くはマルコフの修士論文から派生するものである。

確率論
確率の歴史 アンドレイ・コルモゴロフ トーマス・ベイズ アンドレイ・マルコフ ジョゼフ・L・ドゥーブ 伊藤清
確率の定義 客観確率 統計的確率 古典的確率 公理的確率 主観確率 ベイズ確率 確率の拡張 外確率 負の確率
基礎概念 モデル 試行 結果 事象 標本空間 確率測度 確率空間 確率変数 確率変数の収束 確率分布 離散確率分布 連続確率分布 同時分布 周辺分布 条件付き確率分布 独立同分布 関数 確率質量関数 確率密度関数 累積分布関数 特性関数 用語 独立 期待値 モーメント 条件付き確率 条件付き期待値
確率の解釈 ベルトランの逆説 3囚人問題 モンティ・ホール問題 サンクトペテルブルクのパラドックス 合接の誤謬 ギャンブラーの誤謬
問題 壺問題 クーポンコレクター問題
法則・定理 ベイズの定理 大数の法則 中心極限定理 コルモゴロフの0-1法則 デ・フィネッティの定理 ウィーナー=ヒンチンの定理
測度論 確率測度の拡張カラテオドリの拡張定理 E.ホップの拡張定理 コルモゴロフの拡張定理 ヴィタリの収束定理 ルベーグの優収束定理 ラプラス原理 スコロホッドの表現定理
確率微分方程式 伊藤の補題
確率過程 独立増分過程 定常過程 マルチンゲール マルコフ過程 マルコフ性 マルコフ連鎖 マルコフ決定過程 部分観測マルコフ決定過程 マルコフ再生過程 ウィーナー過程 ブラウン運動 幾何ブラウン運動 非整数ブラウン運動 ベルヌーイ過程 ガウス過程 自己相似過程 経験過程 中華料理店過程 オルンシュタイン=ウーレンベック過程
情報量 最大エントロピー原理 交差エントロピー 結合エントロピー カルバック・ライブラー情報量 相互情報量
応用 数理ファイナンス ブラック–ショールズ方程式 確率的ボラティリティモデル 系統学 ベイズ法
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