コンラート4世 (神聖ローマ皇帝) (original) (raw)
このページの名前に関して「**コンラート4世 (ドイツ王)」もしくは「コンラート4世 (ローマ王)」への改名**が提案されています。議論はノート:コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)を参照してください。(2024年5月) |
---|
コンラート4世Konrad IV. | |
---|---|
ローマ王シチリア国王エルサレム国王 | |
在位 | 1237年 - 1254年(ローマ王)1250年 - 1254年(シチリア王) |
出生 | 1228年4月25日 シチリア王国、アンドリア |
死去 | (1254-05-21) 1254年5月21日(26歳没) シチリア王国、バジリカータ、ラヴェッロ |
埋葬 | シチリア王国、メッシーナ大聖堂 |
配偶者 | エリーザベト・フォン・バイエルン |
子女 | コッラディーノ |
家名 | ホーエンシュタウフェン家 |
王朝 | ホーエンシュタウフェン朝 |
父親 | フリードリヒ2世 |
母親 | イザベル2世 |
テンプレートを表示 |
コンラート4世(Konrad IV., 1228年4月25日 - 1254年5月21日[1])は第2次ホーエンシュタウフェン朝第3代にして最後のローマ王(在位:1237年 - 1254年)[注釈 1]。教皇と不和のまま正式な皇帝(神聖ローマ皇帝)として戴冠する前に早世[注釈 2]。シチリア王としてはホーエンシュタウフェン朝第3代国王コッラード(Corrado)(在位:1250年 - 1254年)。父はシチリア王と神聖ローマ皇帝(ローマ教会の皇帝[_疑問点 – ノート_])を兼ねたフリードリヒ2世、母はエルサレム女王イザベル2世(ヨランダ)。このためエルサレム王でもある(在位:1228年 - 1254年)。異母兄に先代ローマ王ハインリヒ(7世)、異母弟にサルデーニャ王エンツォとアンティオキア公フリードリヒ3世とマンフレーディがいる。父帝に反逆した兄ハインリヒに代わって嫡子としてローマ王になるが、父が崩御してシチリア王を兼ねた後はわずか4年で病死。ドイツ(ローマ帝国におけるゲルマニア)は大空位時代となり、シチリア王としてのみ残ったホーエンシュタウフェン朝もしばらくして断絶した。
生涯
[編集]
1228年、母の死によりエルサレム王位を継承した。コンラート4世には異母兄ハインリヒがいたが、彼は1234年にローマ教皇に煽動されて父帝に反逆したため、皇太子を廃されたうえで自殺しており[2]、次男であったコンラートが父帝の後継者となった。1237年2月、フリードリヒ2世はウィーンに居合わせた諸侯にコンラートをローマ王および将来の皇帝に選出させた[3][4]。1246年、チューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが対立王に選ばれたため、フランクフルトでハインリヒ・ラスペと戦ったが敗北した[5]。翌1247年にハインリヒ・ラスペは死去し、ホラント伯ウィレム2世が新たに対立王に選ばれ、コンラートはウィレムと戦い勝利した[3]。1250年に父フリードリヒ2世が亡くなり[6]、シュタウフェン家の勢力は急速に衰えた[7]。コンラートはシチリア王国占領を目指して1251年10月にイタリアに向け出発[7]、1252年にイタリアに入り、弟マンフレーディをシチリア王の代理統治者に任じた[5]。
1254年、短期間病んだ後、コンラート4世は死去した[5]。幼い息子のコッラディーノや庶弟のエンツォとマンフレーディ兄弟もローマ教皇と争った末、教皇の支持を受けたシャルル・ダンジューによって滅ぼされた。1272年にホーエンシュタウフェン家で唯一生き残った弟エンツォも嗣子がないままボローニャで獄死した。ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、帝国は大空位時代を迎えることになった。
子女
[編集]
1246年にバイエルン公兼ライン宮中伯オットー2世の娘エリーザベトと結婚、1男をもうけた。
- コッラディーノ(コンラーディン)(1252年 - 1268年) - シチリア王、エルサレム王。シャルル・ダンジューに敗れ、斬首された。
エリーザベトは1259年にケルンテン公マインハルトと再婚した。
脚注
[編集]
[脚注の使い方]
注釈
[編集]
- ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。
- ^ 神聖ローマ皇帝は歴史学的用語で実際の称号ではない。当時はまだ神聖ローマ帝国という国号もなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に認可され戴冠していた。
出典
[編集]
- ^ 『コンラート4世』 - コトバンク
- ^ 瀬原、p. 498-499
- ^ a b 成瀬 他、p. 281
- ^ 瀬原、p. 501
- ^ a b c 瀬原、p. 515。
- ^ 瀬原、p. 510。赤痢か熱病といわれる。
- ^ a b 成瀬 他、p. 285
参考文献
[編集]
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
表話編歴シチリア国王(1250年-1254年) | |
---|---|
オートヴィル朝 | ルッジェーロ1世(伯)1072-1101 シモーネ(伯)1101-1105 ルッジェーロ2世(伯)1105-1130, (王)1130-1154 グリエルモ1世1151-1166 グリエルモ2世1166-1189 タンクレーディ1189-1194 ルッジェーロ3世(父と共治)1193 グリエルモ3世1194 コスタンツァ1194-1198 |
ホーエンシュタウフェン朝 | エンリーコ1194-1197 フェデリーコ1世1198-1250 コッラード1250-1254 コッラディーノ1254-1268 マンフレーディ1258-1266 |
アンジュー朝 | カルロ1世1266-1282 |
アラゴン朝 | ピエトロ1世1282-1285 ジャコモ1世1285-1296 フェデリーコ2世1296-1337 ピエトロ2世1337-1342 ルドヴィーコ1342-1355 フェデリーコ3世1355-1377 マリア1377-1401 マルティーノ1世1390-1409 マルティーノ2世1409-1410 |
トラスタマラ朝 | フェルディナンド1世1412-1416 アルフォンソ1世1416-1458 ジョヴァンニ1世1458-1479 フェルディナンド2世1479-1516 |
スペイン・ハプスブルク朝 | カルロ2世1516-1556 フィリッポ1世1556-1598 フィリッポ2世1598-1621 フィリッポ3世1621-1665 カルロ3世1665-1700 |
ブルボン朝 | フィリッポ4世1700-1714 |
サヴォイア朝 | ヴィットーリオ・アメデーオ1714-1720 |
オーストリア・ハプスブルク朝 | カルロ4世1720-1734 |
ブルボン朝 | カルロ5世1735-1759 フェルディナンド3世1759-1816 1816年、両シチリア王国成立 |
一覧 カテゴリ |
表話編歴エルサレム国王 | |
---|---|
ブローニュ家 | ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099-1100 ボードゥアン1世1100-1118 |
ルテル家 | ボードゥアン2世1118-1131 メリザンド(共治)1131-1153 |
ガティネ家 | フルク(共治)1131-1143 ボードゥアン3世1143-1162 アモーリー1世1162-1174 ボードゥアン4世1174-1185 |
アレラーミチ家 | ボードゥアン5世1183-1186 |
ガティネ家 | シビーユ(共治)1186-1190 ギー・ド・リュジニャン(共治)1186-1190/2 イザベル1世(共治)1190/2-1205 アンリ1世(共治)1192-1197 アモーリー2世(共治)1198-1205 |
アレラーミチ家 | マリーア(共治)1205-1212 |
ブリエンヌ家 | ジャン1世(共治)1210-1212 イザベル2世1212-1228 |
ホーエンシュタウフェン家 | コンラート2世1228-1254 コンラート3世1254-1268 |
リュジニャン家 | ユーグ1268-1284 ジャン2世1284-1285 アンリ2世1285-1291 |
カテゴリ |
典拠管理データベース | |
---|---|
全般 | FAST ISNI VIAF WorldCat |
国立図書館 | ドイツ イスラエル アメリカ ギリシャ オランダ ポーランド バチカン |
芸術家 | ULAN |
人物 | トレッカーニ百科事典 ドイッチェ・ビオグラフィー |
その他 | IdRef |