ジョルジュ・サンド (original) (raw)

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1838年に描かれた肖像画

ジョルジュ・サンド(George Sand、1804年7月1日1876年6月8日)は、フランス作家であり、初期のフェミニストとしても知られる。本名をアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)という。

1804年にパリで軍人貴族の父と庶民の母との間の婚前妊娠子として生まれた。彼女の曽祖父には軍事思想家のモーリス・ド・サックスがいる軍事貴族の家系である。父が早く亡くなったため子供時代はアンドル県ノアンにある父方の祖母の館で過ごし、この田舎での生活はのちに 『魔の沼』 『愛の妖精』 などの田園小説のモチーフとなった。1822年カジミール・デュドヴァン男爵(Baron Casimir Dudevant、1795〜1871)と結婚しモーリス・サンド英語版)(1823年 - 1889年)、ソランジュ(1828年 - 1899年)の1男1女を産んだが間もなく別居し、多くの男性と恋愛関係(肉体関係も)をもった。

1831年ジュール・サンドー(Jules Sandeau)との合作で処女作 『Rose et Blanche』 を書き、これ以後「サンド」のペンネームを使うようになった。その後 『アンディアナ』 で注目され、また男装して社交界に出入りして話題となった。1833年から1834年にかけて詩人のアルフレッド・ド・ミュッセ[1]、またその後医師パジェロ、音楽家フランツ・リストとも関係があったとの説もある。

さらにフレデリック・ショパンとは、1838年マジョルカ島への逃避行から始まり、アンドル県シャトールー近郊ノアンで、1839年からパリ9区ピガル通りフランス語版) 16番地のサンドの家で同棲した。1846年から翌年頃まで夏季のヴァカンスの時期はノアンで過ごした。1842年に9区テブー通りフランス語版) 80番地のスクワール・ドルレアンフランス語版)の隣同士の番地建物で暮らした。しかし、彼女の子供たちをめぐるトラブルなどから別れた。

1840年代には政治志向を強め、民主主義社会主義の思想を懐いてアラゴカール・マルクスミハイル・バクーニン政治思想家活動家と交流した。1848年2月革命に際しては政治活動に参加したが、その後ノアンに隠棲し執筆に専念した。

その後も女性権利拡張運動を主導するとともに文学作品を書き続け、ヴィクトル・ユーゴーギュスターヴ・フローベールテオフィル・ゴーティエゴンクール兄弟ら多くの文学者と友情を結んだ。

1876年6月8日、腸閉塞症のためにノアン城館で死去。

ジョルジュ・サンド(1864年、ナダールによる肖像写真)

※は、ジョルジュ・サンド セレクション(全9巻・別巻1)

ユゲット ブシャルドー、北代美和子訳、河出書房新社 1991.11

  1. ^ ジョン・バクスター『二度目のパリ 歴史歩き』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、44頁。ISBN 978-4-7993-1314-5