ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝) (original) (raw)
ハインリヒ5世Heinrich V. | |
---|---|
神聖ローマ皇帝 | |
ハインリヒ5世 | |
在位 | 1098年 - 1125年(ローマ王) |
戴冠式 | 1099年1月6日(ローマ王)1111年4月13日(神聖ローマ皇帝) |
出生 | 1081年8月11日 神聖ローマ帝国、ゴスラー |
死去 | (1125-05-23) 1125年5月23日(43歳没) 神聖ローマ帝国、ユトレヒト |
埋葬 | 神聖ローマ帝国、シュパイアー大聖堂 |
配偶者 | マティルダ・オブ・イングランド |
家名 | ザーリアー家 |
王朝 | ザーリアー朝 |
父親 | ハインリヒ4世 |
母親 | ベルタ・ディ・サヴォイア |
テンプレートを表示 |
ハインリヒ5世(Heinrich V., 1081年8月11日 - 1125年5月23日[1])は、ザーリアー朝第4代にして最後のローマ王(ドイツ王、在位:1098年 - 1125年、戴冠:1099年1月6日)[注釈 1]、イタリア王エンリーコ5世、神聖ローマ皇帝(戴冠:1111年4月13日)[注釈 2][注釈 3]。1105年までは後継者としての共同王。ザーリアー朝第3代皇帝ハインリヒ4世とサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタの子。教会との不和が続く状況を懸念して父を裏切り、結果的にローマ王・皇帝が神権を手放すヴォルムス協約を成立させた。
生涯
[編集]
父への反逆
[編集]
1081年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の次男として生まれた。当時は皇帝と教皇の間で、教会の叙任権を巡って熾烈な闘争が展開されていた(叙任権闘争)。こうした中、兄の皇太子コンラートは父の方針に従わず、十字軍を提唱したことで知られるローマ教皇ウルバヌス2世に恭順の意を示していた。この態度を受け父は1098年5月のマインツの帝国会議で次男のハインリヒをローマ王位継承者として定めた[2][3]。こうしてハインリヒは皇太子としての共同ローマ王位とイタリア王位を継承し、1099年1月6日にアーヘンで行われたローマ王戴冠式では何度も父への忠誠を誓わされた。
このため継承者とはいえハインリヒに政治的実権はなく、またハインリヒは破門された皇帝の下で諸侯が離反するのを危惧した[4]。この状況に不満を持ったハインリヒは、兄と同じく父に叛旗を翻した。有力諸侯やローマ教皇もハインリヒを支持し、1106年初めに再びマインツで開かれた王国会議でハインリヒの王位が承認された[5][6]。父はこの会議の後間もなく死去した[5][6]。
ポンテ・マンモロ協約
[編集]
ハインリヒ5世は、父より続いていた叙任権闘争の解決を図り[7]、1110年よりローマ遠征を決行した[8][9]。そして翌1111年2月4日、ローマ教皇パスカリス2世と急進的な内容の合意を成立させた(サンタ・マリア・イン・トゥーリ条約)。その内容は、国王が完全に教会の叙任権を放棄することと、教会が世俗的な土地、財産および諸権利を返還することから成り立っていた[8][10]。
ところが、ハインリヒ5世の皇帝戴冠式に際してこの合意が公に示されると、聖職者を中心に驚きと反発の渦が起こった。そのため、戴冠式は大混乱となり続行不可能となった[8][11]。結局、ハインリヒ5世は兵を動かして、教皇や高位聖職者をローマから拉致することになった[8][12]。そして、ポンテ・マンモロにおいて、皇帝に有利な叙任権に関する取り決めを定めた[8][12]。これが「ポンテ・マンモロ協約」である。さらに、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、改めてハインリヒ5世の戴冠式も行われた[12][13]。
諸侯の反乱
[編集]
当然ながら、ハインリヒ5世がイタリアから引き揚げた後、ローマが黙っているわけがなかった。ローマ教会側はハインリヒ5世を破門し、事実上ポンテ・マンモロ協約はあっという間に反故にされた[12][13]。
こうした中、勢力拡大を図る各地の諸侯がハインリヒ5世に対峙する。とりわけ、ザクセン公ロタール・フォン・ズップリンブルク(後の皇帝ロタール3世)を中心とした勢力は、マインツ大司教アーダルベルトも味方につけ、大いにハインリヒ5世を苦しめた[13]。1119年7月24日、自らが父をおさえて王となったマインツの王国会議で、ローマ教皇との和解を約束させられた[14]。その後、幾度からの交渉を経て、1122年9月23日にヴォルムス協約が成立する[15][16]。
ザクセンの自立
[編集]
ヴォルムス協約によって、叙任権闘争は一応の終結へと至った。しかし、この取り決めは皇帝の地位低下をもたらすのみであった。ザクセン公の自立は一層進み、帝国内の混乱は収拾されなかった[17]。
こうした中、1123年にアイレンブルク伯兼マイセン辺境伯ハインリヒ2世が子供の無いまま薨去した。ハインリヒ5世は家臣のグロイチュ伯ヴィプレヒト2世をマイセン辺境伯に任命したが、ハインリヒ2世の従叔父のコンラートが反発、ザクセン公ロタールと同盟を組んでヴィプレヒト2世を追放した。しかも、ロタールは勝手にコンラートにマイセン辺境伯領を与え、バレンシュテット伯アルブレヒト熊公にもラウジッツを与えた[18][19]。ハインリヒ5世はこの決定に対処できないまま1125年5月23日、ユトレヒトで癌のため崩御した[18][20]。39歳であった[18]。シュパイアー大聖堂に葬られた[20]。
1114年に結婚したマティルダ・オブ・イングランドとの間に嫡子がいなかったため、これをもってザーリアー朝は断絶することになる[18]。次のローマ王選挙は甥で姉アグネスとシュヴァーベン大公フリードリヒ1世の子フリードリヒ2世が立候補したが、諸侯はもう1人の候補者ロタール・フォン・ズップリンブルクをローマ王に選出した[21]。
叙任権闘争で失われたもの
[編集]
ローマ皇帝はヴォルムス協約において、目に見える形ではほとんど何も損をしていない。中世西欧のローマ帝国はイタリア王国の統治を前提としてブルグント王国、さらにローマ教会から「ドイツ王国」と呼ばれた旧東フランク王国を主たる構成要素としているが、そのうち実質的な帝国本土である「ドイツ王国」内では、司教・修道院長の選挙に皇帝が臨席することが認められた[22]。
ローマ皇帝の臨席による無形の圧力は、皇帝の望む形での決定に向かわせることが多かった。また、複数の候補者が出るなど、叙任をめぐって意見の対立が見られた場合は、ローマ皇帝の裁量で決定できるという取り決めもあった[22][23]。つまり「ドイツ王国」内では事実上、叙任権を保留したとさえいえる。もちろん教会が有する土地や財産の受封といった世俗的な権利はローマ皇帝によってなされるので[17]、この点でも皇帝は何ら失っていない。
しかし、それでもローマ皇帝は致命的なものを失った。それは神権的な皇帝権である。ザクセン朝、ザーリアー朝を通じて、さらに起源をたどればカール大帝以来、歴代のフランク王、ローマ皇帝はずっと普遍的なキリスト教帝国樹立という夢を追っていた。しかし、もはやそれを支える論拠は失われたのである。
こうした中、次のホーエンシュタウフェン朝の時代に入ってから初めて「神聖帝国」の名が使用される。1157年3月のミラノ討伐イタリア遠征のための諸侯に対する召集状においてフリードリヒ1世が初めて「神聖帝国」の語を用いている[24]。神聖であることが自明の理で無くなったからこそ「神聖」を名乗る必要が出たのである。さらに「神聖ローマ帝国」の語が用いられるのは中世的な国家体制が崩壊した直後のローマ王ヴィルヘルム以降のことである[25]。
脚注
[編集]
[脚注の使い方]
注釈
[編集]
- ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは存在しない。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。
- ^ 「5世」はドイツ王(東フランク王)としてハインリヒ1世から数えた数字で皇帝、イタリア王としては4人目のハインリヒ。
- ^ 当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。神聖ローマ皇帝は歴史学的用語で実際の称号ではない。
出典
[編集]
- ^ 日外アソシエーツ367日誕生日大事典. “ハインリヒ5世”. コトバンク. 2024年9月12日閲覧。
- ^ 成瀬他、p. 195
- ^ 瀬原、p. 331
- ^ 瀬原、p. 332
- ^ a b 成瀬他、p. 196
- ^ a b 瀬原、p. 333
- ^ 成瀬他、p. 198-199
- ^ a b c d e 成瀬他、p. 201
- ^ 瀬原、p. 339
- ^ 瀬原、p. 340
- ^ 瀬原、p. 340-341
- ^ a b c d 瀬原、p. 341
- ^ a b c 成瀬他、p. 202
- ^ 成瀬他、p. 203
- ^ 成瀬他、p. 204
- ^ 瀬原、p. 346
- ^ a b 成瀬他、p. 206
- ^ a b c d 成瀬他、p. 207
- ^ 瀬原、p. 347
- ^ a b 瀬原、p. 348
- ^ 成瀬他、p. 212
- ^ a b 成瀬他、p. 205
- ^ 瀬原、p. 146
- ^ 菊池、p. 96-97
- ^ 成瀬他、p. 134
参考文献
[編集]
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書、2003年
関連項目
[編集]
外部リンク
[編集]
表話編歴ザーリアー朝第4代ローマ王(1105年 - 1125年) | ||
---|---|---|
歴代ドイツ君主・盟主 | ||
カロリング朝 | (ピピン751-768) カール1世皇帝(768)-814 ルートヴィヒ1世皇帝814-840 ロタール1世皇帝840-843 ルートヴィヒ2世843-876 カールマン2世876-880 ルートヴィヒ3世876-882 カール3世皇帝876-887 アルヌルフ皇帝887-899 ルートヴィヒ4世899-911 断絶 コンラート1世1911-918 共同王 (カールマン1世768-771) | |
ザクセン朝 | ハインリヒ1世919-936 オットー1世皇帝936-973 オットー2世皇帝973-983 オットー3世皇帝983-1002 ハインリヒ2世皇帝1002-1024 共同王 オットー2世皇帝961-973 対立王 バイエルン公アルヌルフ919-921 バイエルン公ハインリヒ2世984-985 | |
ザーリアー朝 | コンラート2世皇帝1024-1039 ハインリヒ3世皇帝1039-1056 ハインリヒ4世皇帝1056-1105 ハインリヒ5世皇帝1105-1125 断絶 ロタール3世2,皇帝1125-1137 共同王 ハインリヒ3世1028-1039 ハインリヒ4世1053-1156 イタリア王コンラート1087-1098 ハインリヒ5世1198-1105 対立王 シュヴァーベン公ルドルフ1077-1080 ザルム伯ヘルマン1081-1088 フランケン公コンラート1127-1135 | |
ホーエンシュタウフェン朝 | コンラート3世1138-1152 フリードリヒ1世皇帝1152-1190 ハインリヒ6世皇帝1190-1197 フリードリヒ2世1197-1198 フィリップ1198-1208 中断 オットー4世3,皇帝1208-1215 再開 フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220 ハインリヒ(7世)1220-1235 コンラート4世1237-1254 共同王 ハインリヒ6世1169-1190 フリードリヒ2世1194-1197 対立王 ヴェルフ家オットー1198-1208 シチリア王フリードリヒ1212-1215 ハインリヒ・ラスペ1246-1247 ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254 | |
大空位時代 | ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256 コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272 対立王 カスティーリャ王アルフォンソ10世1257-1275 | |
非世襲期 | ルドルフ1世41273-1291 アドルフ51292-1298 アルブレヒト1世41298-1308 ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313 ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347 カール4世6,皇帝1347-1378 ヴェンツェル61378-1400 ループレヒト71400-1410 ジギスムント6,皇帝1410-1437 アルブレヒト2世41438-1439 共同王 フリードリヒ3世41325-1230 ヴェンツェル61376-1478 対立王 オーストリア公フリードリヒ1世1314-1325 ベーメン王カール1世1246-1247 シュヴァルツブルク=ブランケンブルク伯ギュンター1349 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ1世1400 メーレン辺境伯ヨープスト1410-1411 | |
ハプスブルク家 | フリードリヒ4世皇帝1440-1493 マクシミリアン1世皇帝1493-1519 カール5世皇帝1519-1556 フェルディナント1世皇帝1556-1564 マクシミリアン2世皇帝1564-1576 ルドルフ2世皇帝1576-1612 マティアス皇帝1612-1619 フェルディナント2世皇帝1619-1637 フェルディナント3世皇帝1637-1657 レオポルト1世皇帝1658-1705 ヨーゼフ1世皇帝1705-1711 カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745 共同王 マクシミリアン1世1486-1593 フェルディナント1世1531-1556 マクシミリアン2世1562-1564 ルドルフ2世1575-1676 フェルディナント3世1636-1637 フェルディナント4世1653-1654 ヨーゼフ1世1690-1705 |
ハプスブルク=ロートリンゲン家 | フランツ1世皇帝1745-1765 ヨーゼフ2世皇帝1765-1790 レオポルト2世皇帝1790-1792 フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806 | |
ライン同盟 | フランス皇帝ナポレオン1世(保護者)1806-1813 | |
連邦主席 | オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835 オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848 ヨハン大公(帝国執政)1848-1849 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866 プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871 | |
ドイツ皇帝 | プロイセン王ヴィルヘルム1世1871-1888 プロイセン王フリードリヒ3世1888 プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918 | |
^1 コンラディン家 ^2 ズップリンブルク家 ^3 ヴェルフ家 ^4 ハプスブルク家 ^5 ナッサウ家 ^6 ルクセンブルク家 ^7 ヴィッテルスバッハ家 ^皇帝 神聖ローマ皇帝 カテゴリ |
表話編歴神聖ローマ皇帝(1111年 - 1125年) | |
---|---|
カロリング朝(フランク・ローマ皇帝) | カール1世800-814 ルートヴィヒ1世813-840 ロタール1世817-855 ルートヴィヒ2世850-875 カール2世875-877 カール3世881-887 グイード1891-894 ランベルト1891-898 アルヌルフ896-899 ルートヴィヒ3世2901-915 ベレンガル3915-924 |
ザクセン朝 | オットー1世962-973 オットー2世967-983 オットー3世996-1002 ハインリヒ2世1014-1024 |
ザーリアー朝 | コンラート2世1027-1039 ハインリヒ3世1046-1056 ハインリヒ4世1084-1105 ハインリヒ5世1111-1125 ロタール3世41133-1137 |
ホーエンシュタウフェン朝 | フリードリヒ1世1155-1190 ハインリヒ6世1191-1197 オットー4世51209-1215 フリードリヒ2世1220-1250 |
ルクセンブルク家 | ハインリヒ7世1312-1313 ルートヴィヒ4世61328-1347 カール4世1355-1378 ジギスムント1433-1437 |
ハプスブルク家 | フリードリヒ3世1452-1493 マクシミリアン1世1508-1519 カール5世1530-1556 フェルディナント1世1558-1564 マクシミリアン2世1564-1576 ルドルフ2世1576-1612 マティアス1612-1619 フェルディナント2世1619-1637 フェルディナント3世1637-1657 レオポルト1世1658-1705 ヨーゼフ1世1705-1711 カール6世1711-1740 カール7世61742-1745 |
ハプスブルク=ロートリンゲン家 | フランツ1世71745-1765 ヨーゼフ2世1765-1790 レオポルト2世1790-1792 フランツ2世1792-1806 |
一覧 ^1 ヴィドー家 ^2 ボゾン家 ^3 ウンロシング家 ^4 ズップリンブルク家 ^5 ヴェルフ家 ^6 ヴィッテルスバッハ家 ^7 ロートリンゲン家 カテゴリ |
典拠管理データベース | |
---|---|
全般 | FAST ISNI VIAF WorldCat |
国立図書館 | フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ オーストラリア ギリシャ ポーランド |
芸術家 | ULAN |
人物 | オランダ ドイッチェ・ビオグラフィー Trove(オーストラリア) 1 |