マーティン・ディーゴ (original) (raw)

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はディーゴ第二姓(母方の)はリアノスです。

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

マーティン・ディーゴ_Martin Dihigo_

基本情報
国籍 キューバ
出身地 マタンサス州シドラ
生年月日 (1905-05-25) 1905年5月25日
没年月日 (1971-05-20) 1971年5月20日(65歳没)
身長体重 6' 3" =約190.5 cm190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手外野手二塁手三塁手
プロ入り 1922年
初出場 NLB / 1923年
最終出場 NLB / 1945年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
キューバン・スターズ (イースト) (1923 - 1927) ホームステッド・グレイズ (1928) ヒルデール・デイジーズ (1929) キューバン・スターズ(イースト) (1930) ヒルデール・デイジーズ (1930 - 1931) ボルチモア・ブラックソックス (1931) ニューヨーク・キューバンズ (1935 - 1936) ベラクルス・イーグルス (1937 - 1939) ベラクルス・ブルース (1940) トレオン・コットンディーラーズ (1941 - 1943) ヌエバラレド・オウルズ (1944) ニューヨーク・キューバンズ (1945) トレオン・コットンディーラーズ (1946) サンルイスポトシ・トゥネロス (1947) ベラクルス・ブルース (1947) ベラクルス・イーグルス (1950)
監督歴
ベラクルス・ブルース (1940) ニューヨーク・キューバンズ (1945) ベラクルス・イーグルス (1950, 1956 - 1957)
アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年 1977年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会選出
キューバ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年 1951年
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マーティン・マグダレノ・ディーゴ・リアノスMartín Magdaleno Dihigo Llanos , 1905年5月25日 - 1971年5月20日)は、キューバマタンサス州シドラ出身のプロ野球選手投手内野手外野手)。右投げ右打ち。愛称は**"El Maestro"エル・マエストロ**)。

経歴

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1922-1923シーズンに16歳でキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"のレオネス・デル・ハバナプロ野球選手としてのキャリアを始めた。

1923年からアメリカ合衆国ニグロリーグのキューバ人選抜チームであるキューバン・スターズ (イースト)に所属し、当初は主に一塁手として出場していた。

ニグロリーグでは1926年イースタン・カラードリーグ本塁打王のタイトルを獲得した。ニグロナショナルリーグニューヨーク・キューバンズに所属した1935年にも2度目の本塁打王のタイトルを獲得するなど、打撃面でも目を見張る成績を残した。1936年を最後にニグロリーグを離れた。

キューバリーグでは1927-1928シーズン、1935-1936シーズン、1936-1937シーズン、1941-1942シーズンと計4度のMVPを獲得した。

メキシカンリーグでは1938年に打者として打率.387、また投手としては18勝2敗・防御率0.90の成績を残している。資料によれば[1]、メキシカンリーグ史上最初のノーヒットノーランを達成(1937年9月16日)したのがディーゴだと言われている。また同年、当時の大投手だったサチェル・ペイジと対決した試合があり、その試合では前半にペイジと投手戦を演じたあと、9回に自ら決勝の本塁打を放ってチームを勝利に導くという大活躍をやってのけた。[2]

その後は1945年にニグロリーグのニューヨーク・キューバンズ選手兼任監督として1年だけプレーして、イーストウェスト・オールスターゲーム(ニグロリーグのオールスターゲーム)にも10年ぶりに選ばれた。

1947年にキューバリーグでのキャリアを終え、メキシカンリーグで選手兼任監督としてプレーした。

1950年にキューバリーグで1試合だけ「現役復帰」して2を投げた。通算107勝76敗は革命前のキューバリーグでは最も多い勝利数である。また、通算121完投もリーグ最多。

1951年キューバ野球殿堂入りを果たした[3]

フィデル・カストロを早くから支持し、キューバ革命の成功後は亡くなるまでスポーツ省の大臣を務めていた。

1971年5月20日に死去。65歳没。

1977年ニグロリーグ特別委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。この他、メキシコ、ベネズエラドミニカ共和国の野球殿堂にも名前を刻んでいる。

プレースタイル

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捕手以外の全ての守備位置を経験した。アメリカ野球殿堂入りした名一塁手であるジョニー・マイズ1943年にドミニカ共和国のウィンターリーグで一緒にプレーしたディーゴについて「すべての守備位置をこなすし、走塁も良く、監督もし、左右どちらでも打つことができた」[4]。また、元ニグロリーガーのテッド・ページは「外野からの送球はロベルト・クレメンテよりも優れていた」というコメントを残している[1]。アメリカ野球殿堂入りした元ニグロリーガーのバック・レナードロサンゼルス・ドジャースアル・キャンパニスゼネラルマネージャーは今までの人生で見た最高のプレイヤーとしてディーゴを挙げ[5]、高く評価していた。ユーモアがあり、気立ての良いことで知られ、キューバの国民的英雄だった。

詳細情報

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獲得タイトル・記録

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NLB

各国リーグ通算打撃・投手成績

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脚注

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  1. ^ a bMartin Dihigo” (英語). SABR.org. 2013年4月20日閲覧。
  2. ^ NLBPAによれば、この試合でペイジは腕を痛めていたために、アンダースローで制球重視の投球をしていたが、それでも6回まで無失点に抑えていたそうである。
  3. ^Cuban Baseball Hall of Fame” (英語). Baseball-Almanac.com. 2013年4月20日閲覧。
  4. ^Dihigo played all nine positions in the Negro Leagues” (英語). MLB.com. 2013年4月20日閲覧。
  5. ^Clemente headlines All-Time Latino Team” (英語). MLB.com. 2013年4月20日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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アメリカ野球殿堂表彰者 投手
ピート・アレクサンダー チーフ・ベンダー バート・ブライレブン モーデカイ・ブラウン レイ・ブラウン ジム・バニング スティーブ・カールトン ジャック・チェスブロ ジョン・クラークソン アンディ・クーパー スタン・コベレスキ レオン・デイ ディジー・ディーン マーティン・ディーゴ ドン・ドライスデール デニス・エカーズリー レッド・フェイバー ボブ・フェラー ローリー・フィンガーズ ホワイティー・フォード ビル・フォスター パッド・ガルヴィン ボブ・ギブソン トム・グラビン レフティ・ゴメス リッチ・ゴセージ バーリー・グライムス レフティ・グローブ ロイ・ハラデイ ジェシー・ヘインズ トレバー・ホフマン ウェイト・ホイト カール・ハッベル キャットフィッシュ・ハンター ファーガソン・ジェンキンス ランディ・ジョンソン ウォルター・ジョンソン アディ・ジョス ジム・カート ティム・キーフ サンディー・コーファックス ボブ・レモン テッド・ライオンズ グレッグ・マダックス フアン・マリシャル ルーブ・マーカード ペドロ・マルティネス クリスティ・マシューソン ジョー・マクギニティ ホセ・メンデス ジャック・モリス マイク・ムッシーナ ハル・ニューハウザー キッド・ニコルズ フィル・ニークロ サチェル・ペイジ ジム・パーマー ハーブ・ペノック ゲイロード・ペリー エディ・プランク チャールズ・ラドボーン マリアノ・リベラ エッパ・リクシー ロビン・ロバーツ ブレット・ローガン レッド・ラフィング エイモス・ルーシー ノーラン・ライアン トム・シーバー ヒルトン・スミス リー・スミス ジョン・スモルツ ウォーレン・スパーン ブルース・スーター ドン・サットン ダジー・ヴァンス ルーブ・ワッデル エド・ウォルシュ ミッキー・ウェルチ ホイト・ウィルヘルム スモーキー・ジョー・ウィリアムズ ビック・ウィリス アーリー・ウィン サイ・ヤング
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