ルイジ・ボッケリーニ (original) (raw)

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ルイジ・ボッケリーニRidolfo Luigi Boccherini
チェロを弾く肖像画(1764-1767)ルイジ・ボッケリーニのサイン、1776年の楽譜より抜粋
基本情報
出生名 Ridolfo Luigi Boccherini
別名 ハイドン夫人
生誕 1743年2月19日 トスカーナ大公国ルッカ
死没 1805年5月28日(62歳)スペインの旗 スペイン王国マドリード
ジャンル 古典派音楽
活動期間 1756年 - 1805年

ルイジ・ボッケリーニ(Ridolfo Luigi Boccherini, 1743年2月19日[1] - 1805年5月28日[2])は、イタリアルッカ生まれの作曲家チェロ奏者。

同時代のハイドンモーツァルトに比して現在では作曲家としては隠れた存在であるが、存命中はチェロ演奏家として名高く、チェロ協奏曲チェロソナタに加え、弦楽四重奏曲を90曲以上、弦楽四重奏にチェロを1本加えた弦楽五重奏曲を100曲以上作曲し、自身で演奏も行った。その中でも弦楽五重奏曲ホ長調G275の第3楽章は「ボッケリーニのメヌエット」として有名である。

その作風はハイドンに似ていながら優美で時に憂いを含むものであり、ヴァイオリニストのジュゼッペ・プッポイタリア語版)からはハイドン夫人(Signora Haydn)と呼ばれた。

台本作家のジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニは兄。

当時弦楽器が盛んだったイタリアのルッカに5人兄弟の3番目として生まれる。(ルッカは後にプッチーニの生誕地としても有名)。父レオポルドは町楽師のチェロ・コントラバス奏者だった。彼や、ルッカ大聖堂楽長のドメニコ・フランチェスコ・ヴァンヌッチカタルーニャ語版)らからチェロを学び、13歳でデビューを果たした。その後ローマでも研鑽を積み、20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め高い評価を得る。

父が亡くなった後はヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレーディと組み、ヨーロッパ中で華々しく演奏活動を行う。1768年には演奏会の本場パリのコンセール・スピリチュエルで成功を収めるなど、名声を極めるが、1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子付き奏者兼作曲家となり、マドリードで後半生を送った。(同時期に画家のゴヤもドン・ルイス皇子の庇護を受けている)。

かつては1785年ドン・ルイス皇子の死去後はブランデンブルク=プロイセンに渡りフリードリヒ・ヴィルヘルム2世に仕えたと伝えられていたが、実際には王室作曲家のままスペインを離れず、作品をブランデンブルク=プロイセンに送っていたらしい。晩年は失職し貧困と忘却の内にこの世を去った。遺骨は1927年になり生地ルッカへと移されている。

ボッケリーニはハイドン、モーツァルトと同時代の作曲家でありながら、彼らとは一味異なる独特な作風を固持しているといわれる。

つまりモチーフの展開を中心としたソナタ形式を必ずしも主体とせず、複数のメロディーを巧みに繰り返し織り交ぜながら情緒感を出していくのがその特徴で、時としてその音楽は古めかしいバロック音楽のようにも斬新なロマン派音楽のようにも聞こえる。また、後期の作品にはスペインの固有音楽を取り入れ国民楽派の先駆けとも思える作品を作っている。

これは一つにはボッケリーニ自身が当時まだ通奏低音に使われることの多かったチェロのヴィルトゥオーソであったため、自らを主演奏者とする形式性より即興性を生かした音楽を作ったこと、また、当時の音楽の中心地であるウィーンパリから離れたスペインの地で活躍していたこともその理由として考えられる。

ボッケリーニの音楽史上の功績としては室内楽のジャンル確立が挙げられる。弦楽四重奏曲と、とりわけ弦楽五重奏曲では抜きん出た量と質を誇っているが、ジャンル確立に欠かせない四声を対等に扱うという点では最初期の作品(例えば弦楽四重奏曲Op.2 G.159~164(1761年))において十分完成されており、これは同時代のハイドンの作品群を凌駕している[3]

ベートーヴェンの活躍以降、ボッケリーニのような形式をさほど重視しない音楽は主流とは見なされず、20世紀まで一部の楽曲を除き忘れ去られていたが、近年になりその情緒的で優美な作品を再評価する動きも出てきており、その中にはチェリストのアンナー・ビルスマもいる。

ドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われる)

ボッケリーニがマドリッドに来た時、王家直属の音楽長には同じイタリア人のガエターノ・ブルネッティが既に就任しており、ボッケリーニは王位を巡る紛争で幽閉状態であった王の弟ドン・ルイス皇子付き作曲家という地位に甘んじなければならなかった。この地位は生涯変わる事は無かったが、その謎を解く鍵となる逸話が、ボッケリーニの子孫に伝えられている。

ある日のこと、ボッケリーニの新しい室内楽の評判を聞いたカルロス皇子(後のカルロス4世)は、彼を宮廷に招き、自らその曲の演奏に加わる機会を作った。カルロス皇子は第1ヴァイオリンを担当した。途中、第1ヴァイオリンに「ド、シ、ド、シ」を繰り返す場面があり、暫く我慢していた皇子もその長さに痺れを切らしてこう言った。「ド、シ、ド、シ!こりゃひどい、初心者でもこうは書くまい!」ボッケリーニは反論する。「殿下、よくお聴き下さい、第1ヴァイオリンの繰り返しの間に奏でられる第2ヴァイオリンとヴィオラの響き、またチェロによるピチカートを!これらの音の対話が見事になされた時、そのフレーズが単調との思いは失われるでしょう」「ド、シ、ド、シ!半時も!なんと愉快な対話だ。下手な初学者の悪い見本だな」ボッケリーニは引かなかった。「殿下、斯様な判断をされる前に御自身の音楽への理解を御深め下さい」怒った皇子はボッケリーニの脚を掴み、窓から落とさんばかりであった。その後、二度と王家に呼ばれる事は無かった。

それから暫くしてブルネッティは王家への御追従から、ド、シ、ド、シをわざと繰り返す交響曲を作り「変人(Il maniatico)」と表題をつけたといわれている[4]

(G.はイーヴ・ジェラールによる作品目録番号)















































  1. ^ ジェルメーヌ・ド・ロチルドフランス語版) (1962). Luigi Boccherini. Sa vie, son œuvre. プロンフランス語版). pp. 190
  2. ^ボッケリーニ』 - コトバンク
  3. ^ ヴルフ・コーノルト著『弦楽四重奏曲の流れ:ハイドンからシューベルトまで』井本晌二訳、シンフォニア刊、1987年、ルイジ・ボッケリーニの項
  4. ^ 柴田南雄著『西洋音楽の歴史・下(一)』音楽之友社刊、1973年、ガエータノ・ブルネッティの項
  5. ^ a b もともと第9番と「12の変奏曲」は同じ楽曲として、変奏曲がギター五重奏曲第9番の第4楽章にあたると考えられていたが、のちにそれぞれ独立した楽曲であることが判明した。多くの演奏・録音で、4楽章構成のギター五重奏曲第9番ハ長調『マドリードの帰営ラッパ』として扱われている。Quintetto n. 4 in Re maggiore, G 448, per 2 violini, viola, violoncello e chitarra = in D major, for 2 violins, viola, violoncello and guitar, Luigi Boccherini ; a cura di Fulvia Morabito, Andrea Schiavina,Opera omnia / Luigi Boccherini ; edizione critica diretta da Christian Speck, Ut Orpheus, c2012.