中山竹通 (original) (raw)

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中山 竹通 Portal:陸上競技
選手情報
フルネーム なかやま たけゆき
ラテン文字 Takeyuki Nakayama
国籍 日本の旗 日本
種目 長距離走マラソン
生年月日 (1959-12-20) 1959年12月20日(64歳)
生誕地 長野県北安曇郡池田町
身長 180cm
体重 58kg
自己ベスト
5000m 13分43秒80(1986年)
10000m 27分35秒33(1987年)
マラソン 2時間08分15秒(1985年)
獲得メダル 陸上競技 アジア競技大会 1986 ソウル 男子マラソン
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中山 竹通(なかやま たけゆき、1959年12月20日 - )は、長野県北安曇郡池田町出身の日本の元陸上競技長距離種目)選手、指導者。身長180cm、体重58kg(現役当時)。息子の中山卓也も陸上長距離種目選手。

1980年代後半に瀬古利彦宗茂宗猛兄弟、新宅雅也らと、1990年代前半には谷口浩美森下広一らと日本マラソン界をリードした。2時間10分を切るサブテン5回は川内優輝高岡寿成に続き、瀬古利彦佐藤敦之藤原新と並び日本歴代3位タイ、2時間9分を切るレース4回は高岡と並び日本最多タイ(2014年現在)。

来歴

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生家は山間の農家だった[1]長野県池田工業高等学校時代に陸上競技を始める[1]。高校3年時には国民体育大会長野県予選の少年男子A5000mで優勝するも、記録的に本選で上位に入れそうもないと判断され、派遣を見送られる[2]

高校卒業時、陸上部のある県下の養命酒への採用がほぼ内定していたが、高校教師の手違いで東京の養命酒本社に出向く日にバスケットシューズをはいていったところ、それが実は面接で、結局中山は不採用となった[2]。そのため国鉄臨時職員として入る[1]。国鉄では車両基地で清掃作業などをしながら走っていた[2]。高校時代の指導者が富士通長野工場の陸上部監督に相談して入社、ようやく安定した環境で走れるようになる[1]。とはいえ、陸上部の選手への特別扱いはなく、通常の勤務や残業をこなしながらの競技生活だった[1]。この間、中山は瀬古利彦のフォームを研究しながら、世界に勝てるスピードを得るためにつま先から着地する走法を身につける[3]1983年3月、中日名古屋スピードマラソンの男子30kmの部に出場、3位に入る(優勝した中村孝生と22秒差)[4]。当時旗揚げに際して選手の確保が進まなかったダイエー陸上部のメンバーがテレビ中継でこの走りを見て獲得をコーチの佐藤進に進言し、半年後にダイエーに入社した[4]。佐藤の立てた厳しいトレーニングメニューを中山はこなし、練習量を増やした[4]。同年12月の福岡国際マラソンで初マラソンを走る[5]。瀬古利彦が優勝したこのレースで中山は14位であった[1]

1984年の福岡国際マラソンで2時間10分00秒で初優勝。

1985年4月14日のワールドカップマラソン広島大会で日本最高記録で世界歴代3位(当時)の2時間8分15秒でアーメド・サラジブチ)に次ぐ2位でフィニッシュ[1][注 1]

1986年にはソウルアジア大会では、序盤から銀メダルとなる谷口浩美らを振り切り独走、2時間8分21秒のタイムで圧勝した。この記録は、30年以上経った現在でもアジア大会の男子マラソンの大会記録として未だ破られていない。

1987年7月2日には、ワールド・ゲームズ(ヘルシンキ)の10000mで日本新記録(当時)となる27分35秒33をマークした[6][注 2]。この新記録樹立は、従来の記録保持者であった瀬古に対して、1988年ソウルオリンピックの代表選考を前にスピード面での優位をアピールする狙いがあった[6]

同年12月6日のソウルオリンピック代表選考会となる福岡国際マラソンでは、雪混じりの雨天の中を20キロ通過時点で1時間を切り、35キロ地点まで当時の世界記録を49秒上回るハイペースで飛ばし、最後に失速するも2位以下に2分以上の大差をつける2時間8分18秒で圧勝した。

1988年のソウルオリンピックでは日本の代表3人(ほかに瀬古、新宅)の中ではもっともメダルの呼び声が高く、金メダル候補に推す声も大きかった。2年前にほぼ同じコース・季節のアジア大会マラソンに2時間8分台で優勝していたこともその理由である。本番では中山は他の日本人選手が30km過ぎまでに全員脱落する中、35Km過ぎまで先頭4人(他の3人は、ジェリンド・ボルディンイタリア)、ダグラス・ワキウリケニア)、サラ)の一角に加わっていたが、ゴールの競技場が視界に入ったところで集団から後退した。中山は最後に追い上げるが、サラに6秒差でそのまま4位でゴールする(ほか日本選手では瀬古利彦が9位、新宅永灯至は17位に終わった)。このとき「金メダルでなければ2位もビリも一緒」と発言したと伝えられた[7]。ソウル五輪前、ダイエーの中内㓛会長は「優勝したら純金のメダルをやる」(当時、オリンピックの金メダルは金メッキか金張りと定められていた)と発言していたが、前記の発言を受けると一転して中山を非難する感想を漏らした。直前の合宿で蓄積した疲れが取れなかったことが敗因だった[7]

ソウル五輪後、指導者の変更を経て、1990年東京国際マラソンでは、世界最高記録保持者のベライン・デンシモエチオピア)、1984年ロサンゼルスオリンピック男子マラソン銀メダリストのジョン・トレーシーアイルランド)らを相手に序盤から独走で優勝した。

1991年別府大分毎日マラソンでは森下広一との一騎討ちとなる[8]。このレースでは1987年の福岡国際以来のサブテンとなる2時間9分12秒で森下に次ぐ2位に入る。このときレース中、森下と併走していた39km過ぎに中山は「日の丸を背負うなら、前に出ろ」と声を上げて促した[8]

1992年の東京国際マラソンでも森下とのデッドヒートに惜敗して2位となったが、2大会連続のオリンピック代表に最後の3番手で選出される[8]。その1992年バルセロナオリンピック・男子マラソンではゴール地点の競技場へ3位争いで現れたが、トラックでシュテファン・フライガングドイツ)に抜かれて4位となった。メダルには手が届かなかったが、二大会連続でオリンピック入賞[注 3]を果たした。

バルセロナオリンピック後に一線を退き、後進の指導にあたる。

大阪産業大学、同付属高等学校などの陸上部監督を経て、2004年4月より2009年3月まで愛知製鋼陸上部監督をつとめた。愛知製鋼退任後もマラソン解説者指導者、講演活動を続けている。

2018年3月に、佐賀県で開催された「さが桜マラソン」にゲストランナーとして出場、コンディションは万全ではなかったが3時間39分で完走した[9]

人物

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その強い個性ゆえ、指導者との間でもしばしば軋轢が起きた。彼をダイエー陸上部に招いた育ての親でもある佐藤進とはソウル五輪後に訣別。日本陸連はその後任として、君原健二を育てた高橋進をあてがったが、自身の経験と実戦に立脚する中山は、理論優先の高橋の指導には従わなかった[10]

マスコミの「オリンピック至上主義」的な報道姿勢に対しては批判的な意見を持つ。マラソン自体の持つ価値から見ると、オリンピックのマラソン競技はベストとはいえないというのがその根拠で、「メダルを取れなかったからといわれるのを覚悟の上で率直に言うと、オリンピック(のマラソン)はつまらないというのが正直な印象だった」と述べている[11]

マラソンのトップ選手に至るまでの過程から、勝負にこだわるのがマラソンであり、楽しそうに走っている市民ランナーを見ると腹が立つと発言したこともあった[2]

ソウルではアジア大会やオリンピックを含めて4回マラソンを走っており、バルセロナ五輪男子マラソン金メダリストの黄永祚は高校時代にテレビで中山を見てマラソンに進むことを決め、後に別府大分毎日マラソン主催者の招きで来日した際に中山を紹介されると直立不動になったという[12]

ソウル五輪代表選考での発言

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ソウルオリンピック代表選考における瀬古利彦への扱いを巡り語ったとされる「瀬古、這ってでも出てこい!」という発言(実際の発言内容については後述)は、中山の個性を端的に表すものとして付きまとうことになった。

当時、ソウル五輪の男子マラソン選考会は次の通り設定されていた。

ただしオリンピック候補選手、強化選手は必ず福岡に出場することとされ、実質「福岡一発選考」とされた。

しかし瀬古利彦が怪我で欠場したことにより、瀬古の福岡欠場時に怪我をした瀬古への配慮として日本陸上競技連盟は、「瀬古利彦はびわ湖毎日マラソンで好成績を出せば良い」との判断が出されたとされ、半ば後出し同然で代表選考は福岡一発選考ではなくなった。瀬古はびわ湖で平凡な記録ながら優勝し、結果としてソウルオリンピック代表に選ばれた。

メディアは挑発的な響きを帯びた表現を「中山の発言」として用いた[注 4]が、中山自身は瀬古欠場の感想を問われたのに対して「自分なら這ってでも出ますけどね」[13][14]と答えている。

中山は引退後の1999年のインタビューで瀬古について「(仲が)いいとか悪いとか、そういう親しい関係ではなかったし、あくまでも自分の大きな目標だった。尊敬していなければ目標にはならない」と述べている[11]。また、2013年のインタビューでは「ぼくが恵まれていたかもしれないのは、遠い存在とはいっても、ぼくの前に宗さんたちがいて、瀬古さんがいましたから。ぼくにとって、宗さんたちは現実でした。(中略)瀬古さんはその反対で架空でした。強いけど、何をやっているのかまるで分からない。(中略)世の中に出るためには、この人たちからマラソンを学ばなければならないと思いました。」とその存在について語っている[4][注 5]

2010年1月26日に、東京マラソン関連のイベントとして開催されたトークショーに瀬古とともに出演し、「和解の握手」を交わした。トークショーの冒頭に瀬古が「オレは中山のことが好きだけど、中山は(オレのことが)嫌いだった」と発言したのに対し、中山は「ずっと雲の上の存在。それと勝負とは違う」と返答した[15]

マラソン成績

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年月 大会名 タイム 順位 備考
1983.12 福岡国際マラソン 2:14:15 14位
1984.09 ソウル国際マラソン 2:15:45 3位 バイクの先導ミスにより距離不足のため、記録は非公認。
1984.12 福岡国際マラソン 2:10:00 優勝 当時日本歴代5位
1985.04 W杯マラソン広島大会 2:08:15 2位 当時日本最高記録、当時世界歴代3位
1985.09 ソウル国際マラソン 2:10:09 優勝
1986.02 東京国際マラソン 2:08:43 4位
1986.10 ソウルアジア競技大会 2:08:21 優勝 大会記録
1987.02 東京国際マラソン 2:10:33 2位
1987.12 福岡国際マラソン 2:08:18 優勝 当時大会最高タイ記録、ソウル五輪代表選考会
1988.10 ソウルオリンピック 2:11:05 4位 五輪初入賞
1989.04 ボストンマラソン ----------- (棄権)
1990.02 東京国際マラソン 2:10:57 優勝
1991.02 別府大分毎日マラソン 2:09:12 2位
1991.09 東京世界陸上競技選手権 ----------- (棄権)
1992.02 東京国際マラソン 2:10:25 2位 バルセロナ五輪代表選考会
1992.08 バルセロナオリンピック 2:14:02 4位 五輪二大会連続入賞

著書

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脚注

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注釈

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  1. ^ この記録は1986年10月19日北京国際マラソン児玉泰介に破られるまで日本最高、1997年12月7日の福岡国際マラソンで早田俊幸に破られるまで国内最高の記録だった。
  2. ^ この記録は2001年5月4日高岡寿成に破られるまで日本記録。
  3. ^ 戦後の日本男子マラソン代表では、ほかに君原健二(1968年メキシコ五輪2位、1972年ミュンヘン五輪5位)しかいない。
  4. ^ 毎日新聞は、福岡国際マラソン中山優勝を報じる記事の見出しを「見たか瀬古」としている。
  5. ^ この内容は『陸上競技マガジン』2013年6月号からの転載。中山はダイエーに入る前に、宗兄弟の所属していた旭化成陸上部の練習メニューを入手していた[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 武田薫 2014, pp. 224–225.
  2. ^ a b c d 記者グループ 1988, 第5章「中山という男」.
  3. ^ 武田薫 2014, pp. 226–228.
  4. ^ a b c d e 武田薫 2014, pp. 226–229.
  5. ^ 武田薫 2014, p. 224.
  6. ^ a b 武田薫 2014, pp. 233–234.
  7. ^ a b “不遇乗り越え連続4位 マラソンの中山竹通 【わが街 オリンピアン 長野県】”. 共同通信(リンク先は47NEWSへの転載. (2021年5月11日). https://www.47news.jp/6164882.html 2022年10月8日閲覧。
  8. ^ a b c 武田薫 2014, pp. 255–257.
  9. ^ “中山竹通さん、往年のストライド健在 さが桜マラソン2018”. 佐賀新聞. (2018年3月19日). https://www.saga-s.co.jp/articles/-/194534 2022年10月8日閲覧。
  10. ^ 武田薫 2014, pp. 251–252.
  11. ^ a b 「日本のマラソンはなぜ弱くなったのか」『別冊宝島No.458 マラソンに勝つ』、宝島社、1999年、pp.244 - 255。インタビュアー・構成はスポーツライターの武田薫。
  12. ^ 武田薫 2014, p. 258.
  13. ^ 後藤正治『マラソンランナー』文藝春秋文春新書〉、2003年、[_要ページ番号_]
  14. ^ 「新兵庫人―輝く」第3部 長距離王国 (3)日の丸を胸に "反骨心こそ 世界への切符" - 神戸新聞2009年6月21日
  15. ^ “因縁ライバル 瀬古&中山が“和解”の握手”. スポーツニッポン. (2010年1月27日). http://www.sponichi.co.jp/sports/special//201001athletics/KFullNormal20100127135.html 2011年2月16日閲覧。

参考文献

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関連書籍

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外部リンク

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先代瀬古利彦 10000m日本記録27分35秒33 次代高岡寿成
先代瀬古利彦 マラソン日本記録2時間08分15秒 次代児玉泰介
陸上競技アジア競技大会金メダリスト – 男子マラソン
1951: インドの旗 Chhota Singh 1954: 実施せず 1958: 大韓民国の旗 李昌薰英語版) 1962: 日本の旗 長田正幸 1966–1970: 君原健二 1974: 実施せず 1978: 日本の旗 阪本峰照 1982: 大韓民国の旗 Kim Yang-kon 1986: 日本の旗 中山竹通 1990: 大韓民国の旗 金元卓英語版) 1994: 大韓民国の旗 黄永祚 1998–2002 李鳳柱 2006: カタールの旗 ムバラク・ハッサン・シャミ 2010: 大韓民国の旗 池永駿英語版) 2014: ブルネイの旗 ハサン・マハブーブ 2018: 日本の旗 井上大仁 (JPN) 2022: He Jie (CHN)
日本の旗日本陸上競技選手権大会 男子マラソン優勝者陸上競技のピクトグラム
1910年代 13 金栗四三 14 金栗四三 15 金栗四三 16 加藤富之助 17 秋葉祐之 18 秋葉祐之 19 三浦弥平
1920年代 20 後藤長一 21 下村広次 22 西田長次郎 23 松岡正夫 25 丸三郎 26 山内政夫 27 高橋清二 28 山田兼松 29 楠好蔵
1930年代 30 高橋清二 31 塩飽玉男 32 権泰夏 33 楠好蔵 34 中田勇 35 孫基禎 36 鈴木勇 37 柳長春 38 樺沢繁一 39 呉東祐
1940年代 40 竹中正一郎 42 秋葉安太 46 古賀新三 47 古賀新三 48 渡辺俊一 49 橋本博
1950年代 50 野田義一 51 篠崎清 52 橋本博 53 廣島庫夫 54 高橋芳勝 55 フィンランドの旗ヴェイッコ・カルヴォーネン英語版) 56 山田敬蔵 57 堀之内澄雄 58 堀之内澄雄 59 越川泰男
1960年代 60 貞永信義 61 エチオピアの旗アベベ・ビキラ 62 寺沢徹 63 ニュージーランドの旗ジェフリー・ジュリアン英語版) 64 君原健二 65 廣島日出国 66 御船芳郎 67 オーストラリアの旗デレク・クレイトン 68 宇佐美彰朗 69 カナダの旗ジェロム・ドレイトン英語版
1970年代 70 イギリスの旗ビル・アドコックス英語版) 71 アメリカ合衆国の旗フランク・ショーター 72 宇佐美彰朗 73 アメリカ合衆国の旗フランク・ショーター 74 宇佐美彰朗 75 カナダの旗ジェロム・ドレイトン英語版) 76 宇佐美彰朗 77 アメリカ合衆国の旗ウイリアム・ロジャース英語版) 78 宗猛
1980年代 80 弓削裕 81 オーストラリアの旗ロバート・ド・キャステラ 82 水久保美千男 83 瀬古利彦 84 岩瀬哲治 85 新宅雅也 86 渋谷俊浩 87 中山竹通 88 瀬古利彦 89 ポルトガルの旗マヌエル・マティアス
1990年代 90 ベルギーの旗エディ・エルブイク英語版) 91 森田修一 92 アイルランドの旗マイク・オレイリー 93 メキシコの旗ディオニシオ・セロン英語版) 94 鈴木賢一 95 大家正喜 96 田幸寛史 97 早田俊幸 98 小島宗幸 99 三木弘
2000年代 00 藤田敦史(2:06:51)* 01 油谷繁 02 間野敏男 03 国近友昭 04 小島忠幸 05 高岡寿成 06 奥谷亘 07 久保田満 08 藤原新 09 下森直
2010年代 10 佐藤智之 11 川内優輝 12 堀端宏行 13 藤原正和 14 松村康平 15 佐々木悟 16 北島寿典 17 井上大仁 18 服部勇馬 19 中村匠吾
2020年代 20 作田直也 21 鈴木健吾 22 其田健也 23 小山直城
*は大会記録
日本の旗 福岡国際マラソン優勝者
1947 和田敏一 48 山田三郎 49 古賀新三 50 小柳舜治 51 拝郷弘美 52 西田勝雄 53 濱村秀雄 54 レイナルド・ゴルノ 55 ヴェイッコ・カルボネン 56 山田敬蔵 57 廣島庫夫 58 貞永信義 59 廣島庫夫 60 バリー・マギー 61 パベル・カントレク 62 寺沢徹 63 ジェフリー・ジュリアン 64 寺沢徹 65 廣島日出国 66 マイク・ライアン 67 デレク・クレイトン 68 ビル・アドコックス 69 ジェロム・ドレイトン 70 宇佐美彰朗 71 フランク・ショーター 72 フランク・ショーター 73 フランク・ショーター 74 フランク・ショーター 75 ジェロム・ドレイトン 76 ジェロム・ドレイトン 77 ビル・ロジャース 78 瀬古利彦 79 瀬古利彦 80 瀬古利彦 81 ロバート・ド・キャステラ 82 ポール・バリンジャー 83 瀬古利彦 84 中山竹通 85 新宅雅也 86 ジュマ・イカンガー 87 中山竹通 88 渋谷俊浩 89 マヌエル・マティアス 90 ベライン・デンシモ 91 森田修一 92 テナ・ネゲレ 93 ディオニシオ・セロン 94 ボアイ・アコナイ 95 ルイス・アントニオ・ドスサントス 96 李鳳柱 97 ジョサイア・チュグワネ 98 ジャクソン・カビガ 99 ゲザハン・アベラ 2000 藤田敦史 01 ゲザハン・アベラ 02 ゲザハン・アベラ 03 国近友昭 04 尾方剛 05 ドミトロ・バラノフスキー 06 ハイレ・ゲブレセラシェ 07 サムエル・ワンジル 08 ツェガエ・ケベデ 09 ツェガエ・ケベデ 10 ジャウアド・ガリブ 11 ジョセファト・ダビリ 12 ジョセフ・ギタウ 13 マーティン・マサシ 14 パトリック・マカウ 15 パトリック・マカウ 16 イエマネ・ツェゲイ 17 ソンドレ・ノールスタッド・モーエン 18 服部勇馬 19 藤本拓 20 吉田祐也 21 マイケル・ギザエ 22 マル・テフェリ 23 マイケル・ギザエ
日本の旗男子10000m日本歴代 第8位 (10傑)
1.塩尻和也(27分09秒80) 2.太田智樹(27分12秒53) 3.相澤晃(27分13秒04) 4.葛西潤(27分17秒46) 5.前田和摩(27分21秒52) 6.田澤廉(27分22秒31) 7.伊藤達彦(27分25秒73) 8.鈴木芽吹(27分26秒67) 9.羽生拓矢(27分27秒49) 10.小林歩(27分28秒13)
日本スポーツ賞 グランプリ
1950年代 51 古橋廣之進 52 石井庄八 53 山田敬蔵 54 長沢二郎 55 古川勝 56 笹原正三 57 第24回世界卓球選手権日本代表選手団 58 曾根康治 59 山中毅
1960年代 60 ローマ五輪日本男子体操チーム 61 大日本紡績貝塚女子バレーボールチーム 62 三宅義信 63 田中聡子 64 遠藤幸雄 65 重松森雄 66 深津尚子 67 鈴木惠一 68 君原健二 69 第6回世界柔道選手権大会日本代表選手団
1970年代 70 西側よしみ、第17回世界体操競技選手権日本代表チーム 71 中山紀子湯木博恵 72 田口信教ミュンヘン五輪体操日本男子選手団 73 第8回世界柔道選手権大会日本代表選手団 74 バレーボール全日本女子チーム 75 エベレスト女子登山隊 76 モントリオール五輪バレーボール日本女子チーム 77 河野満 78 山下泰裕 79 藤猪省三
1980年代 80 瀬古利彦 81 釜本邦茂 82 室伏重信 83 黒岩彰 84 山下泰裕 85 正木嘉美 86 中山竹通 87 小川直也 88 鈴木大地 89 伊藤みどり
1990年代 90 橋本聖子 91 谷口浩美 92 岩崎恭子 93 浅利純子 94 リレハンメル五輪日本代表複合チーム 95 田村亮子 96 恵本裕子 97 鈴木博美 98 清水宏保 99 篠原信一
2000年代 00 高橋尚子 01 田村亮子 02–03 北島康介 04 野村忠宏 05 冨田洋之 06 荒川静香 07 吉田沙保里 08 北島康介 09 内村航平
2010年代 10 吉田沙保里 11 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 12 ロンドン五輪レスリング男女日本代表選手団 13 内村航平 14 羽生結弦 15–16 伊調馨 17 桐生祥秀 18 羽生結弦 19 ラグビー日本代表
2020年代 20–21 大野将平 22 髙木美帆
陸上競技日本代表 - 出場大会
Template:1986年アジア競技大会 陸上競技日本代表 陸上競技日本代表 - 1988 ソウルオリンピック男子 笠原隆弘 栗原浩司 大沢知宏 高野進 米重修一 阿久津浩三 遠藤司 吉田良一 青戸慎司 山内健次 松原薫 川角博美 小池弘文 臼井淳一 柴田博之 山下訓史 溝口和洋 吉田雅美 新宅永灯至 瀬古利彦 中山竹通 酒井浩文 小坂忠広 女子 松野明美 佐藤恵 松井江美 宮原美佐子 荒木久美 浅井えり子 陸上競技日本代表 - 1991 東京世界陸上男子 井上悟 杉本龍勇 山下徹也 奥山義行 高野進 奥山光広 熊谷勝仁 森下広一 浦田春生 池田克美 岩崎利彦 苅部俊二 斎藤嘉彦 山崎一彦 仲村明 小中富公一 渡辺高博 伊東浩司 吉田孝久 竹井秀行 下仁 山下訓史 溝口和洋 金子宗弘 谷口浩美 篠原太 中山竹通 酒井浩文 今村文男 小坂忠広 園原健弘 女子 早狩実紀 五十嵐美紀 真木和 松野明美 佐々木あゆみ 長谷川順子 正木典子 柿沼和恵 北田敏恵 野村綾子 徳田由美子 北川政代 佐藤涼子 天野恵子 佐藤恵 北森郁子 宮島秋子 山下佐知子 有森裕子 荒木久美 佐藤優子 平山秀子 増田房子 陸上競技日本代表 - 1992 バルセロナオリンピック男子 井上悟 杉本龍勇 青戸慎司 高野進 渡辺高博 浦田春生 大崎栄 岩崎利彦 斎藤嘉彦 山崎一彦 鈴木久嗣 簡優好 森長正樹 山下訓史 佐野浩之 吉田雅美 森下広一 谷口浩美 中山竹通 園原健弘 今村文男 小坂忠広 女子 五十嵐美紀 真木和 鈴木博美 佐藤恵 山下佐知子 小鴨由水 有森裕子 佐藤優子 板倉美紀
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