前田山英五郎 (original) (raw)

前田山 英五郎
前田山英五郎の版画
基礎情報
四股名 喜木山 → 佐田岬 英五郎 → 前田山 英五郎 → 前田山 穎五郎
本名 萩森 金松
愛称 闘将[1]稽古の鬼国際部長[2]クビになった横綱前田山の張り手旋風
生年月日 1914年5月4日[1]
没年月日 (1971-08-17) 1971年8月17日(57歳没)
出身 日本の旗 日本愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市
身長 180cm
体重 120kg
BMI 37.04
所属部屋 高砂部屋
得意技 突っ張り、左四つ、吊り、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位 第39代横綱
生涯戦歴 306勝153敗50休(52場所)
幕内戦歴 206勝104敗39休(27場所)
優勝 幕内最高優勝1回十両優勝1回幕下優勝1回
データ
初土俵 1929年1月場所[1]
入幕 1937年1月場所[1]
引退 1949年10月場所[1]
備考
2019年7月13日現在■テンプレート ■プロジェクト 相撲

前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。

来歴

[編集]

粗暴の力士、右腕切断の危機

[編集]

1914年5月4日愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた[3]。入門当時の四股名は、地元にちなんだ「喜木山」で、のちに佐田岬と改名する。しかし、入門当初から粗暴な性格だった[4]ことが災いし、関取に昇進した際には誰一人として化粧廻しを贈る者がいなかった。後年の文献によると、若手時代は酒に酔って騒動を起こしては脱走を繰り返したといい[5]、その粗暴さから高砂が三度も破門を言い渡したとされており、その度に小学校の恩師[6]を始めとする周囲の人物が帰参に奔走したという[2]

1934年のある日、鯱ノ里一郎との稽古中に筋肉炎から右腕を負傷する。その傷口から細菌の感染によって悪性の骨髄炎に罹ったため、右腕切断を検討する程の重症となった。前田和三郎慶應義塾大学教授)の数度[注 1][注 2]にわたる懸命の手術で奇跡的に回復すると、これに恩義を感じて四股名を「前田山」へ改めた[1][注 3][7][4]。手術の後遺症も無いまま、1937年1月場所で新入幕を果たすと、1938年1月場所では小結で11勝2敗の好成績を挙げた。当時の大関は鏡岩善四郎ただ一人で、その鏡岩もすでに36歳でこの場所が5勝8敗と不調だった[注 4]事情も手伝って、関脇を飛び越えて大関に昇進した[7][1]

9年間の大関時代

[編集]

1941年春場所に双葉山を破る

昇進後しばらくは大関として可も不可もなしという成績が続き[7]、下から急成長して来た羽黒山政司安藝ノ海節男照國萬藏らに横綱を先取りされ、彼らの後塵を拝することが多くなった。それでも、1941年1月場所では、羽黒山・双葉山を相次いで張り手戦法で黒星を付けて存在感を示し、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた。13日目の双葉山戦ではここまで双葉山に6連敗中であった中、左右から強烈に張りまくり、組み止められながらも力で応戦。最後はうっちゃり気味に吊り出した[8]。双葉山と羽黒山はともに前田山に敗れただけの14勝1敗で、番付上位者優勝制度によって双葉山が優勝、羽黒山が優勝同点だった。この場所は他に名寄岩静男旭川幸之焏にも勝利し、対戦のあった立浪部屋の関取全員に黒星を付けている。双葉山とはこれ以前にも1939年5月場所で、同体取り直しからさらに水入りになる大相撲を取っている。

1942年に高砂が廃業すると、二枚鑑札によって年寄・高砂を継承する。この継承は意外性を以って受け止められたが、後に弟子育成で手腕を発揮したことを考えると先代高砂には先見の明があったということになる[5]1944年11月場所には9勝1敗で初優勝を遂げ、前場所も8勝2敗の星を残していることから横綱に推挙されてもおかしくなかったが、太平洋戦争の戦火が激しくなり、横綱どころではない状況で話題にすらのぼらなかった[7]。こうした境遇もあってか、前田山は実に大関を9年・18場所の長期に渡って務めている。その最中は概ねの流れとして優勝争いにも加われなかった。なかなか優勝できず、横綱昇進どころか関脇陥落の危機まで聞こえるようになった1947年6月場所では、初めて行われた優勝決定戦に進出し、決勝で羽黒山に敗れて優勝同点に終わるも、戦後初の横綱昇進が決定的になる。この時点で前田山は現役19年目、悲願の横綱昇進だった。

クビになった横綱

[編集]

1948年吉田司家から横綱免許が授与されたが、前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き(「粗暴の振る舞いこれありし、時には自責仕る可く候」とのこと。意訳すれば「粗暴行為があった場合は横綱免許を取り消す」という意味)の免許状だった[4]。横綱昇進後は休場が多くなり、横綱在位3場所目で2回以上の休場は昭和以降2人目という不名誉記録を作っている[9]1949年10月場所(当時の秋場所は大阪での開催だった)は初日の力道山戦に勝利しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・帰京した。

しかし、同年10月15日の夕方に協会へ休場届を提出して病院に戻ると思われた矢先、後楽園球場へ出向いてフランク・オドールと握手したほか、そのままサンフランシスコ・シールズ読売ジャイアンツの試合を観戦した。この時の写真が新聞に大々的に取り上げられ、ただの横綱ではなく二枚鑑札として師匠を兼ねる立場[注 5]であったため、職権乱用の末の不祥事に非難が殺到、急遽帰阪した前田山は14日目以降の横綱土俵入りと千秋楽の取組の出場を希望したが全て却下され、さらに引退勧告を出されてそのまま現役を引退した(シールズ事件)[5][7][10]。部屋の力士たちと草野球チームまで作るほどの野球好きが、結果的に仇となってしまった。

なお横綱在位6場所は、昭和以降に昇進した力士としては歴代1位の短命横綱だった[注 6]。「クビになった横綱」として世間から嘲笑されたことから廃業して帰郷することを思い立つが、妻から「あなたがやることは弟子を育成すること、それが仕事でしょ。それができないなら死んでしまえ」と叱咤され、高砂部屋の親方として後進の指導にあたる[7]

引退後

[編集]

高砂親方時代(1956年3月)

1951年には藤田山忠義大ノ海久光八方山主計を連れてアメリカ合衆国を巡業し、積極的に海外へ相撲を紹介した[4]。当時としてはアメリカ巡業は前例がなかったが、当時の前田山の気性の激しさやGHQの仲介が影響して実現に至った。1959年には大阪場所に強く「大阪太郎」の異名を取った朝潮太郎 (3代)を横綱に昇進させたほか、前の山太郎を大関へ育てるなど弟子の育成手腕は高く、高砂部屋所属の力士が幕内で最多人数を数えたこともあった。特に朝潮は当初密入国者であり米の配給など受けられなかったため、前田山は両国駅の改札口に立って闇屋を捕まえて闇米を買って朝潮に食べさせたという[4]1964年には、のちに外国人力士初の関取となる高見山大五郎を入門させた。取り分け海外への相撲普及が実績として目立ち、愛称「国際部長」は高砂固有の役職名として公式記録に後年まで残っている[2]

1967年には一門の総帥として、出羽海一門を破門された九重を受け入れた[4]

1971年8月17日肝臓癌で死去。57歳没。翌1972年7月場所において愛弟子の高見山が平幕優勝を果たし、前田山未亡人ならびに恩人の前田和三郎がこの快挙を見届けた。

墓所は横浜市鶴見区總持寺[11]

人物

[編集]

張り手を交えた猛烈な突っ張りで戦中‐戦後の多難な時期を強豪大関として支え、その功労に報いられる形で横綱を免許されたが、いわゆる「シールズ事件」で晩節を汚した横綱としてのイメージ、あるいは高見山大五郎の師匠としての「大相撲の国際化の先鞭をつけた親方」のイメージが強い。張り手だけでなく、腰を高く上げた見るからに攻撃的な仕切りや、うっちゃり気味に体をもたれかけながらの吊りなど、殺気漲る取り口は特徴的であった。持久力に欠けていたのか戦前の15日興行の時期には綱取りレベルの成績を残せなかったが、太平洋戦争が激化して興行日数が短縮された影響からか1944年11月場所には本来横綱昇進も妥当である成績(先述)を残した。

横綱在位6場所は、横綱在位場所数として昭和以降では最短のワースト1位[注 7]、皆勤は僅か2場所、横綱として1場所の最高成績も9勝6敗が最高だったほか、横綱通算勝率が5割未満、というのも前田山だけである[注 8]。昭和以降の横綱としては横綱同士対決未勝利(0勝4敗)の記録も残っている。「弱い横綱」のイメージを残して引退することになったが、力士としては現役21年の長命を保ったため、横綱にならず名大関として終わっていた方が良かったと評価されることが多い。

現役時代の闘志あふれる姿と、引退後親方としても反主流で押し通し、外人力士を育て上げるといったその人生は「アウトサイダーに徹した男の生涯」とも称されている[12]

若い頃は粗暴さで知られていたが、晩年は「角をもがれた鬼」と形容されるほど温和であった。

エピソード

[編集]

1956年春場所で初優勝の朝汐らとともに祝杯を挙げる

主な成績

[編集]

通算成績

[編集]

各段優勝

[編集]

同点:1回

場所別成績

[編集]

前田山英五郎

春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1929年(昭和4年) (前相撲) (前相撲) 東序ノ口15枚目3–3 東序ノ口15枚目4–2
1930年(昭和5年) 東序二段29枚目3–3 東序二段29枚目2–4 東序二段29枚目5–1 東序二段29枚目5–1
1931年(昭和6年) 東三段目20枚目1–5 東三段目20枚目3–3 西三段目33枚目5–1 西三段目33枚目5–1
1932年(昭和7年) 東幕下17枚目5–3 東幕下17枚目5–5 東幕下7枚目0–0–11[注 11] 東幕下7枚目7–3–1[注 12]
1933年(昭和8年) 西幕下14枚目7–4 x 西幕下3枚目7–4 x
1934年(昭和9年) 西十両9枚目0–0–11 x 東幕下7枚目0–0–11 x
1935年(昭和10年) 西三段目5枚目5–1 x 東幕下14枚目優勝10–1 x
1936年(昭和11年) 東十両12枚目8–3 x 西十両4枚目優勝10–1 x
1937年(昭和12年) 東前頭12枚目7–4 x 東前頭5枚目9–4 x
1938年(昭和13年) 東小結11–2 x 東大関8–5 x
1939年(昭和14年) 東大関9–4 x 東大関10–5 x
1940年(昭和15年) 西大関10–5 x 西大関11–4 x
1941年(昭和16年) 東張出大関12–3 x 東張出大関10–5 x
1942年(昭和17年) 西大関2–3–10[注 13] x 東大関11–4 x
1943年(昭和18年) 西大関11–4 x 東大関9–6 x
1944年(昭和19年) 西大関9–6 x 東大関8–2 西大関9–1
1945年(昭和20年) x x 東大関1–2–4[注 14] 東張出大関5–5
1946年(昭和21年) x x 国技館修理のため中止 東張出大関11–2
1947年(昭和22年) x x 西大関9–1 西張出横綱6–5
1948年(昭和23年) x x 東横綱0–1–10[注 15] 東横綱3–6–2[注 16]
1949年(昭和24年) 東張出横綱5–3–5[注 17] x 西横綱9–6 東張出横綱引退1–6–8[注 18]
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績

[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
愛知山 1 0 青葉山 3 1 安藝ノ海 4 2 旭川 3 1
東冨士 0* 0 綾昇 2 4 綾若 1 0 五ツ嶋 0 4
大潮 3 0 大起 0 1 大浪 3 0 大ノ海 1 0
大八洲 1 0 鏡岩 5 0 鏡里 1 1 笠置山 7 2
鹿嶋洋 4 1 柏戸 4 1 桂川 3 0 金湊 1 1
神風 3 6 九州山 4 1 清美川 2 0 九ヶ錦 3 0
九州錦 1 0 高津山 3 1 琴錦 5 0 小松山 3 0
駒ノ里 3 0 佐賀ノ花 6 5 相模川 4 1 櫻錦 3 1
佐渡ヶ嶋 1 0 汐ノ海 5 1 神東山 1 0 大邱山 3 0
立田野 1 0 楯甲 6 1 玉錦 1 2 玉ノ海 5 2
千代ノ山 1 2 鶴ヶ嶺 3 1 照國 1 10 輝昇 4 0
出羽錦 1 1 出羽湊 5 2 十勝岩 2 0 栃錦 2 0
巴潟 2 0 豊嶋 3 2 名寄岩 7 6(1) 羽黒山 6 7*
幡瀬川 1 0 盤石 2 3(1) 番神山 1 1 肥州山 6 0
備州山 5 1 二瀬川 3 2 双葉山 1 7 双見山 3 0
不動岩 3 0 増位山 2 6(1) 松ノ里 3 1 松浦潟 3 1
三根山 5 3(1) 緑嶋 1 0 武藏山 2(1) 0 陸奥ノ里 1 0
八方山 0 1 吉葉山 3 0 力道山 2 3(3) 龍王山(竜王山) 2 0
両國 3 2 和歌嶋 2 0 若瀬川 2 2

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。

改名歴

[編集]

年寄変遷

[編集]

脚注

[編集]

[脚注の使い方]

注釈

[編集]

  1. ^ 1度目の手術から経過は良好だったが、土俵に上がれない辛さから飲酒した上に警官と大立ち回りを演じたことがある。そのために高砂は破門を言い渡すが、高砂と親交のあった頭山満が将来性を見抜いて仲介、土俵際から戻ってきた。
  2. ^ 前田和三郎(1894年7月28日‐1979年8月17日)は85歳で逝去するが、逝去した日は前田山の没後からちょうど8年に当たる日だった。
  3. ^ 前田和三郎は佐田岬の右腕を完治させただけでなく、入院費用に至るまで医療費を一切負担してくれたため、これも「前田山」への改名に関係している。ただし、下の名前の「英五郎」は幕末の侠客・大前田英五郎に因んでいるため、これも暴れん坊の面目躍如である
  4. ^ 鏡岩はその後も調子が上がらず、1939年5月場所を最後に引退している。
  5. ^ 通常休場届は力士が師匠を経由して提出するのであって、協会に休場届を提出する以上、師匠がまず休場する力士本人の届を受理しなければならない。ところが二枚鑑札である前田山の場合は力士としての自分の休場届を師匠の立場で受理し、そのまま協会へ提出することが許された。要するに現役力士でありながら休場届を師匠に不受理とされないという特権があった。
  6. ^ 大正以前の横綱を含めると前田山より在位場所数が短い者(例として2代目西ノ海は在位5場所)もいる。
  7. ^ 横綱在位は場所数で数えることが一般的だが、稀に在位期間で数えることがある。この場合、前田山の在位は2年強でワースト7位となり、場所数でワースト2位の三重ノ海剛司(8場所・1年4ヶ月)が最短になる。
  8. ^ 休場を負けに準ずる扱いにした場合に勝率5割未満になる横綱は他に武藏山武(15勝15敗70休)ら5人いる。
  9. ^ 双葉山とは入門前、修学旅行で行った先で見かけたため、知人関係だった。そして双葉山とはその関係上、以前は激しい稽古を行っていたため、その当時の感覚で取組を行っていた。
  10. ^ 2021年朝乃山広暉が新型コロナウイルス対応ガイドライン違反で問題になった際も同様である。
  11. ^ このとき一時天竜一派に身を寄せていたという
  12. ^ 脱走のペナルティにより東三段目7格で出場
  13. ^ 中耳炎により5日目から途中休場
  14. ^ 3日目から途中休場
  15. ^ 急性虫垂炎により初日不戦敗
  16. ^ 突き指に伴う棄権により6日目不戦敗、7日目から途中休場、10日目から再出場
  17. ^ 急性腸カタルにより6日目から途中休場、12日目から再出場
  18. ^ 大腸炎により7日目から途中休場

出典

[編集]

  1. ^ a b c d e f g ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p16
  2. ^ a b c d e 『どかんかい―張り手一代 前田山英五郎 国際化を駆け抜けた男』(BABジャパン出版局、今田柔全)
  3. ^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p52-55
  4. ^ a b c d e f ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p26-28
  5. ^ a b c d ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p13
  6. ^ a b 【ベテラン記者コラム(161)】厳罰の朝乃山、「クビになった横綱」が至った〝境地〟を知って SANSPO.COM 2021/06/24 12:00 (2021年6月29日閲覧)
  7. ^ a b c d e f 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)20ページから22ページ
  8. ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p40
  9. ^ 『大相撲中継』2017年9月16日号 p78
  10. ^ ハーフタイム 朝日新聞 1976年1月14日 17ページ
  11. ^ 『大相撲中継』2018年2月17日号 p.99
  12. ^ 『古今横綱大事典』1986年、読売新聞社、58頁。
  13. ^ 力道山が刺された日。妻が聞いたアントニオ猪木を認める言葉と幻の計画 - Sportiva・2020年7月31日
  14. ^ 小島貞二『本日晴天興行なり』p.231
  15. ^ 日刊スポーツ 2008年05月21日
  16. ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 p.13 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515
  17. ^かつて、大相撲の土俵に上がった女性がいた。地方巡業で起きた前代未聞のできごと」『BuzzFeed』。2018年4月10日閲覧。
  18. ^ 佐藤祥子 p.137

関連項目

[編集]

大相撲幕内優勝力士
1910年代以前 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也
1920年代 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬
1930年代 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉
1940年代 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信
1950年代 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明
1960年代 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄
1970年代 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代)
1980年代 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉
1990年代 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春
2000年代 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平
2010年代 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹
2020年代 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝
年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。
第39代横綱(在位:1947年11月-1949年10月)
初代 - 10代 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉
11代 - 20代 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代)
21代 - 30代 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代)
31代 - 40代 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹
41代 - 50代 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松
51代 - 60代 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司
61代 - 70代 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平
71代 - 80代 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄
無類力士 雷電爲右エ門
第170代大関
161代 - 180代 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信
181代 - 200代 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將
201代 - 220代 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司
221代 - 240代 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平
241代 - 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝