呉昌征 (original) (raw)

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呉 昌征(石井 昌征)

1952年7月
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 台湾台南庁楠梓坑支庁仕隆区(現:高雄市橋頭区
生年月日 (1916-06-28) 1916年6月28日
没年月日 (1987-06-07) 1987年6月7日(70歳没)
身長体重 167[1] cm64[1] kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手投手
プロ入り 1937年
初出場 1937年3月28日
最終出場 1957年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
台南州立嘉義農林学校 東京巨人軍 (1937 - 1943) 阪神軍 大阪タイガース (1944, 1946 - 1949) 毎日オリオンズ (1950 - 1957)
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年 1995年
選出方法 特別表彰
台湾野球殿堂 殿堂表彰者
選出年 2018年
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呉 昌征(ご まさゆき/しょうせい、1916年6月28日 - 1987年6月7日[2]は、台湾高雄市橋頭区(当時は台南庁楠梓坑支庁仕隆区)出身のプロ野球選手外野手)。

プロ入りから1942年までの登録名は本名の呉 波(ご は)。その後、日本に帰化石井 昌征(いしい まさゆき)に改名。登録名は呉 昌征とした。

1リーグ時代に、巨人阪神の両チームで活躍した外野手。俊足・好打・強肩を誇り、そのエネルギッシュな攻守から人間機関車と呼ばれた。戦時下の投高打低の時代であった1942年1943年に2年連続で首位打者を獲得。1942年は.286で日本プロ野球唯一の二割台での首位打者、1943年はリーグただ一人の三割打者となり、最高殊勲選手にも輝いた。のちに阪神に移ると、1946年には投手も兼ねる二刀流で戦後初のノーヒットノーランを記録するなど二桁勝利(14勝)も挙げている。1950年のセ・パ両リーグ分立に伴って毎日オリオンズに移籍し、1957年にはNPB史上初の20年現役選手として連盟特別表彰を受けて引退。1995年日本の野球殿堂に、2018年には台湾棒球名人堂中国語版)に選出され、王貞治に次ぐ2人目の日台野球殿堂入りとなった。

経歴

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プロ入りまで

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尋常小学校時代に走り高跳びで好記録を出し、織田幹雄から早稲田大学へ来ないか、と勧誘されたとの逸話がある[3]

嘉義農林学校(のちの国立嘉義大学)時代には近藤兵太郎監督の下、春の甲子園に1回(1935年)、夏の甲子園に3回(1933年1935年1936年)出場[4]。裸足の選手として知られたが、平素から裸足でプレーしていたわけではなく、甲子園出場の前に全員でスパイクを新調したが、呉は足に合わず靴ずれが生じ、痛くて脱ぎ捨てただけだったという[5]。当時は外野手に加えて投手を兼任していたが、1935年の春の甲子園では、2回戦でリリーフに立つもほかに救援登板した2投手と合わせて計21四球を出す乱調で、浦和中に12点を与え敗退した。以降、主戦投手になることはなく、野手に専念するようになった[1]1935年の夏の甲子園では、準々決勝で松山商業延長戦の末に敗れたが、この試合で安打を放ち一塁出塁すると三球連続で盗塁を決め、僅か3球の間に得点を挙げてしまったという。また、酷暑の夏の甲子園でプレーしながら、この時の新聞に「甲子園は涼しかった」との談話を残している[6]。甲子園通算6試合で、19打数4安打、打率.211[7]

プロ野球現役時代

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東京巨人軍監督藤本定義と嘉義農林の近藤兵太郎が松山商業のOB同士で交流があったこともあり[7]1937年に巨人軍に入団。新人ながら1番・中堅手のレギュラーとなって春季は打率.289を挙げて打撃成績5位に入るとともに、リーグ最多の8三塁打を記録する[8]。その後打撃不振に陥り一時出場機会が減少するが、1940年より打順は下位ながら中堅手のレギュラーに復活する。1942年は主に七番打者を務めるが、戦時中の物資不足により品質の粗悪な飛ばないボールを使っていたため他選手が軒並み低打率に喘ぐ中、呉は前年より打率を大幅に向上させて終盤にはトップバッターに定着し、打率.286で首位打者を獲得した。なお、打率2割台での首位打者獲得は日本プロ野球唯一の記録となっている。翌1943年呉波から呉昌征改名すると、シーズン当初よりトップバッターに入って打率.300を記録。リーグでただ一人の3割打者となって、2年連続の首位打者とともに最高殊勲選手タイトルを獲得した。また、この年の5月17日から9月18日まで当時の新記録となる29連続盗塁成功を記録している(1964年に広瀬叔功が31連続で更新)[9]。なお、この両年はリーグ最多得点(1942年:65、1943年:68)を記録するとともに、2年連続で盗塁数2位(1942年:40、1943年:54)となった。

1943年シーズン終了後、台湾に帰郷するため巨人を退団するが[4]、一説では徴兵逃れが目的だったともされる[10]。しかし、台湾へ向かう準備で訪れた大阪で、同地の企業・神島化学工業に勤務することとなり[4]、さらに神島化学の社長・宮原清が阪神球団社長の富樫興一に呉を紹介したことで、阪神軍に移籍することとなった[4]。この移籍については、大阪で偶然会った日本野球連盟理事長鈴木龍二の仲介や[10]、金銭トレードともされる[4]1944年は20試合の出場で19盗塁を記録し、巨人の呉新亨と並んで盗塁王となった。この時立った打席の数は93で、2021年千葉ロッテマリーンズ和田康士朗が更新するまで最少打席数の盗塁王であった[11]

太平洋戦争の激化でプロ野球が開催されなかった1945年は兵役に就き、8月15日の終戦に伴って除隊される。

1946年は投手が少ないチーム事情から、監督の藤村富美男の「外野から正確なバックホームができるのだから、投手もできるだろう」との発案で、呉は投手としても登板するようになる。同年4月28日に行われた開幕第2戦目の対阪急軍戦(西宮)で初先発[1]。9回1失点でプロ初勝利を完投で挙げる[1]。これ以降、先発ローテーションに定着した[1]。特に同年6月16日には戦後初のノーヒットノーランを達成。この試合では四死球を5個与えているが、投球数は122球で試合時間は約1時間半の快投だった[1]。最終的に、この年はチームトップの14勝(6敗)、リーグ9位の防御率3.02を記録した。更に、登板のない日は打者として1番・中堅手で出場。打者としても、打率.291(リーグ14位)、25盗塁(同7位)を記録し、文字通り投打で大活躍した。しかし、以降のシーズンでは投手として出場することはほとんどなく、主に1番・中堅手として阪神球団の主力選手を務めた[4]。なお、この間の1947年には81得点で三度目のリーグ最多得点を記録。1948年には金田正泰の日本記録を更新する129単打を放った(翌年に千葉茂が更新)。また、当時東京の築地に熱心な阪神ファンがおり、チームメイトとともに呉はそのファンの自宅に出入りしていたが、1947年オフに呉はそのファンの姪である和子夫人と結婚している[12]

1949年末の2リーグ分裂騒動若林忠志に従ってパ・リーグ毎日オリオンズに移籍。1950年は2番・右翼手としてリーグ4位の打率.324を挙げるとともに、16試合連続得点を記録するなど、毎日のリーグ優勝に貢献した。また同年の日本シリーズ第2戦ではシリーズ第一号本塁打を放っている。1951年も打率.302(リーグ7位)と2年連続3割を記録すると、以降1953年まで1番または2番・左翼手としてレギュラーを務めた。1954年以降は山内和弘にレギュラーを譲って控えに回り、1957年現役引退。実働20年で現役引退したが、実働20年を記録した選手は日本プロ野球史上初であり[4]、連盟特別表彰を受けた[13]。巨人・阪神という人気チームの両方で主力選手として活躍した稀有な存在であった。巨人対阪神のOB戦では、「君はこっちだ」と川上哲治青田昇藤村富美男梶岡忠義ら両軍からからかわれていた。

引退後

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引退後は、台湾との間で貿易商を営んだほか、食品会社の監査役、スポーツクラブの顧問などを務めたが、いずれもあまり長く続かなかったという[14]。現役時代から、引退したら日本に帰化すると語っていたとされるが、1977年還暦を迎えたことを期に帰化し、夫人の旧姓から石井 昌征(いしい まさゆき)に改名した[15]

1987年6月7日に急性心不全により死去[14]。70歳没。1995年野球殿堂(特別表彰)入り。

2013年に日本在住の子孫が昌征のルーツを辿るべく訪台している[16]2018年1月4日には台湾棒球名人堂中国語版)に選出され、王貞治に次ぐ2人目の日台野球殿堂入りとなった[17]

選手としての特徴

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嘉義農林野球部(1935年、前列右から4人目が呉昌征)

俊足・強肩の外野手として活躍。小柄ながらエネルギッシュな攻守により人間機関車と呼ばれた[13]。長打力はなかったが、シュアーなバッティングが持ち味で、時折見せるセーフティバントも得意とした[18]。外野手として鉄砲肩の上にコントロールが良く、二塁からの走者を正確なバックホームで刺す様子はまるで神業のようであったという[19]

人物

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昌征という名前は、呉の恩人の息子につけられた名前を「自分にも(その名を)分けてつけさせて下さい」といって変更したものである。

太平洋戦争末期の1945年日本プロ野球戦争の影響からシーズンは中断され、阪神甲子園球場グラウンドは芋畑になったが、呉はそこで現場監督(耕作指導員)を務めた[4]。呉は学生時代に嘉義農林学校で学んだ経験を生かし土壌改良にも取り組んだ[4]

終戦に伴って、呉は日本語しか話せないにもかかわらず、日本籍から中華民国籍となるが、「戦勝国」側の人間となったことから、配給では優遇を受けたこともあったという[12]。なお、呉は20歳で来日して以降、一度も祖国の土を踏んだことはなかったとされる[20]

逸話

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巨人時代に仲の良かった平山菊二の実家に招待された際に五右衛門風呂に入ったが、台湾生まれの呉は入り方がわからず、本来足で底に沈めるべき底板をと勘違いして出して入ってしまう。当然、浴槽の底は高温になっていたため呉は熱くて驚くが、これが日本の風呂と思って失礼に当たらないようにしばらく我慢していた。そのうち、呉もさすがに我慢できなくなり、高速な足の回転を活かして風呂の中で猛烈な勢いで走り続け、何とか火傷せずに済んだという[6]

詳細情報

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年度別打撃成績

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年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二 塁 打 三 塁 打 本 塁 打 塁打 打点 盗塁 盗 塁 死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併 殺 打 打率 出 塁 率 長 打 率 O P S
1937 巨人 55 255 194 36 56 5 8 0 77 19 18 -- 8 -- 51 -- 2 23 -- .289 .441 .397 .838
1937秋 19 59 55 6 18 2 2 0 24 4 4 -- 0 -- 4 -- 0 12 -- .327 .373 .436 .809
1938 32 116 81 17 17 0 2 0 21 7 9 -- 5 -- 29 -- 1 15 -- .210 .423 .259 .683
1938秋 5 13 11 1 3 0 0 0 3 0 0 -- 0 -- 2 -- 0 2 -- .273 .385 .273 .657
1939 49 48 43 13 7 2 0 0 9 1 2 -- 0 0 5 -- 0 14 -- .163 .250 .209 .459
1940 91 316 269 40 53 7 6 2 78 25 13 -- 3 2 39 -- 3 40 -- .197 .304 .290 .593
1941 85 336 265 43 59 6 5 1 78 30 14 -- 11 -- 58 -- 2 19 -- .223 .366 .294 .660
1942 105 455 370 65 106 11 11 1 142 35 40 7 7 -- 77 -- 1 35 -- .286 .411 .384 .794
1943 84 386 297 68 89 12 4 2 115 20 54 5 3 -- 85 -- 1 25 -- .300 .457 .387 .844
1944 阪神 大阪 20 93 74 20 22 5 0 0 27 3 19 2 1 -- 18 -- 0 7 -- .297 .435 .365 .800
1946 101 450 388 78 113 10 7 1 140 32 25 6 7 -- 54 -- 1 25 -- .291 .379 .361 .740
1947 115 513 445 81 119 15 9 1 155 28 40 9 3 -- 64 -- 1 29 -- .267 .361 .348 .709
1948 135 606 527 79 146 14 3 0 166 24 35 11 5 -- 70 -- 3 32 -- .277 .365 .315 .680
1949 82 222 184 31 41 6 1 0 49 10 14 5 5 -- 33 -- 0 16 -- .223 .341 .266 .607
1950 毎日 98 407 361 89 117 23 11 7 183 45 29 6 3 -- 42 -- 1 36 3 .324 .396 .507 .903
1951 104 422 381 59 115 13 4 3 145 25 18 9 2 -- 35 -- 4 26 0 .302 .367 .381 .747
1952 108 320 267 41 69 13 2 1 89 27 16 6 2 -- 50 -- 1 20 4 .258 .377 .333 .711
1953 101 296 250 47 68 5 3 0 79 14 8 5 3 -- 43 -- 0 27 1 .272 .379 .316 .695
1954 89 138 115 16 28 5 2 1 40 10 8 2 0 2 19 -- 2 21 0 .243 .355 .348 .703
1955 107 193 167 33 55 2 0 1 60 23 13 5 2 2 21 2 1 19 1 .329 .403 .359 .762
1956 72 94 82 6 13 2 0 0 15 4 1 2 2 0 10 0 0 15 3 .159 .250 .183 .433
1957 43 51 41 11 12 1 1 0 15 3 1 1 1 0 9 0 0 7 0 .293 .420 .366 .786
通算:20年 1700 5789 4867 880 1326 159 81 21 1710 389 381 81 73 6 818 2 24 465 12 .272 .379 .351 .731

年度別投手成績

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年度 球団 登板 先発 完投 完封 無 四 球 勝利 敗戦 セ 丨 ブ ホ 丨 ル ド 勝率 打者 投 球 回 被 安 打 被 本 塁 打 与 四 球 敬遠 与 死 球 奪 三 振 暴投 ボ 丨 ク 失点 自 責 点 防 御 率 W H I P
1940 巨人 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 30 7.0 8 1 2 -- 0 3 0 0 9 9 11.57 1.43
1946 大阪 27 20 16 2 0 14 6 -- -- .700 757 181.1 172 5 65 -- 2 63 2 1 71 61 3.03 1.31
1947 1 1 1 0 0 1 0 -- -- 1.000 37 9.0 6 0 2 -- 1 0 0 0 1 0 0.00 0.89
1948 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 8 0.2 5 0 0 -- 0 0 0 0 3 2 27.00 7.50
1949 1 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 9 1.0 5 0 1 -- 0 0 0 0 5 5 45.00 6.00
通算:5年 31 23 17 2 0 15 7 -- -- .682 841 199.0 196 6 70 -- 3 66 2 1 89 77 3.48 1.34

タイトル

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表彰

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記録

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節目の記録

その他の記録

背番号

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登録名

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映画化

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台湾で2014年2月27日から、日本では2015年1月24日から公開された[23]台湾公立嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)野球部の活躍を描いた台湾映画KANO 1931海の向こうの甲子園」の作中に少年時代の呉も登場し、魏祈安が演じた。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g “【6月16日】1946年(昭21) 盗塁王・呉昌征 戦後初のノーヒットノーラン達成”. スポーツニッポン. (2012年6月16日). https://web.archive.org/web/20130625101407/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120616003458240.html 2013年8月13日閲覧。
  2. ^ https://npb.jp/bis/players/91593874.html
  3. ^ 『巨人軍栄光の40年』196頁
  4. ^ a b c d e f g h i 内田雅也 (2012年3月27日). “猛虎人国記(18)~外地~”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002919290.html 2013年8月13日閲覧。
  5. ^ 「人間機関車・呉昌征はなぜ“はだしの選手”と言われたのか/プロ野球仰天伝説157」週刊ベースボールONLINE
  6. ^ a b 『巨人軍の男たち』58頁
  7. ^ a b 『プロ野球助っ人三国志』236頁
  8. ^ 同年の伊賀上良平と並び、2シーズン制での最多記録。2年後に川上哲治が更新
  9. ^ 『宇佐美徹也の記録 巨人軍65年―栄光の巨人軍65年の歩み』46頁
  10. ^ a b 『プロ野球助っ人三国志』238頁
  11. ^ “【ロッテ】育成出身の和田康士朗が初の盗塁王 史上最少「24打席」でタイトル獲得 同僚荻野も盗塁王”. 中日スポーツ. (2021年10月30日). https://www.chunichi.co.jp/article/357039 2022年9月30日閲覧。
  12. ^ a b 『プロ野球助っ人三国志』239頁
  13. ^ a b 『ジャイアンツ栄光の70年』37頁
  14. ^ a b 『プロ野球助っ人三国志』240頁
  15. ^ 『プロ野球助っ人三国志』234頁
  16. ^ (繁体字中国語)〈南部〉《首位日職台將》吳昌征傳奇 子來台尋根2013年4月29日,自由時報
  17. ^ 「KANO」ゆかりの呉昌征氏、王貞治氏に次ぐ2人目の日台野球殿堂入り中央社フォーカス台湾
  18. ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』257頁
  19. ^ 『巨人軍の男たち』59頁
  20. ^ 『プロ野球助っ人三国志』241頁
  21. ^ 台湾野球殿堂、呉昌征氏らに終身貢献賞中央廣播電臺
  22. ^1000安打”. 日本野球機構. 2022年9月30日閲覧。
  23. ^ KANO公式日本語サイト

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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業績
野球殿堂表彰者競技者表彰1960年代 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治鶴岡一人 69 苅田久徳 1970年代 70 天知俊一二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂西沢道夫 78 松木謙治郎浜崎真二 79 別所毅彦 1980年代 80 大下弘小鶴誠 81 飯田徳治岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂白石勝巳荒巻淳 88 長嶋茂雄別当薫西本幸雄金田正一 89 島秀之助野村克也野口二郎 1990年代 90 真田重蔵張本勲 91 牧野茂筒井修島岡吉郎 92 廣岡達朗坪内道則吉田義男 93 稲尾和久村山実 94 王貞治与那嶺要 95 杉浦忠石井藤吉郎 96 藤田元司衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太広瀬叔功古葉竹識近藤貞雄 2000年代 00 米田哲也 01 根本陸夫小山正明 02 山内一弘鈴木啓示福本豊田宮謙次郎 03 上田利治関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治森祇晶 06 門田博光高木守道山田久志 07 梶本隆夫 プレーヤー2000年代 08 山本浩二堀内恒夫 09 若松勉 2010年代 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄秋山幸二佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜金本知憲 19 立浪和義 2020年代 22 髙津臣吾山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信黒田博樹 エキスパート2000年代 09 青田昇 2010年代 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 2020年代 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 特別表彰1950年代 59 正力松太郎平岡凞青井鉞男安部磯雄橋戸信押川清久慈次郎沢村栄治小野三千麿 1960年代 60 飛田忠順河野安通志桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登宮武三郎景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎田邊宗英小林一三 69 三宅大輔田部武雄森岡二朗島田善介有馬頼寧 1970年代 70 田村駒治郎直木松太郎中馬庚 71 小西得郎水野利八 72 中野武二太田茂 73 内海弘蔵天野貞祐広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄西村幸生 78 伊丹安広吉原正喜岡田源三郎 79 平沼亮三谷口五郎 1980年代 80 千葉茂 81 佐伯達夫小川正太郎 82 鈴木龍二外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄山内以九士 86 中河美芳松方正雄 87 藤田信男山下実 88 横沢三郎芥田武夫永田雅一 89 池田恒雄伊達正男 1990年代 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志井口新次郎 99 吉國一郎 2000年代 00 福島慎太郎 01 武田孟長谷川良平 02 中澤不二雄生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規君島一郎 2010年代 10 古田昌幸 12 長船騏郎大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男村山龍平 16 松本瀧藏山中正竹 17 郷司裕鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 2020年代 20 前田祐吉石井連藏 21 川島勝司佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 新世紀2000年代 02 フランク・オドール正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン鈴鹿栄 MVP(日本プロ野球1リーグ時代) 1937春 沢村栄治 1937秋 ハリス 1938春 苅田久徳 1938秋 中島治康 1939 V.スタルヒン 1940 須田博 1941 川上哲治 1942 水原茂 1943 呉昌征 1944 若林忠志 1946 山本一人 1947 若林忠志 1948 山本一人 1949 藤村富美男 1945年は太平洋戦争のため中断 首位打者(日本プロ野球1リーグ時代) 1936秋 中根之 1937春 松木謙治郎 1937秋 景浦將 1938春 中島治康 1938秋 中島治康 1939 川上哲治 1940 鬼頭数雄 1941 川上哲治 1942 呉波 1943 呉昌征 1944 岡村俊昭 1946 金田正泰 1947 大下弘 1948 青田昇 1949 小鶴誠 1945年は太平洋戦争のため中断 盗塁王(日本プロ野球1リーグ時代) 1936秋 苅田久徳 1937春 山口政信 1937秋 島秀之助, 鬼頭数雄 1938春 江口行男 1938秋 佐々木常助 1939 山田伝, 五味芳夫 1940 石田政良 1941 坪内道則 1942 坪内道則 1943 山田伝 1944 呉昌征, 呉新亨 1946 河西俊雄 1947 河西俊雄 1948 河西俊雄 1949 木塚忠助 1945年は太平洋戦争のため中断 日本プロ野球 ノーヒットノーラン投手1930年代 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 1940年代 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 1950年代 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 1960年代 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 1970年代 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 1980年代 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 1990年代 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 2000年代 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 2010年代 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 2020年代 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 脚注 ノーヒットノーラン達成投手のみ記載。完全試合達成投手についてはTemplate:日本プロ野球完全試合達成者を参照。

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