大友義鎮 (original) (raw)

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凡例大友 義鎮 / 大友 宗麟
大友宗麟像(瑞峯院所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年1月3日1530年1月31日)もしくは同年5月4日5月30日
死没 天正15年5月23日1587年6月28日[1]
改名 塩法師丸(幼名)、義鎮、瑞峯休庵宗麟
別名 五郎、新太郎(仮名)。宗滴、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎(号)、普蘭師司怡、不龍獅子虎[2]渾名:豊後の王、九州の王
戒名 瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士
霊名 ドン・フランシスコ(普蘭師司怙)
墓所 大分県津久見市津久見京都市北区瑞峯院位牌は津久見市上宮本町の響流山長泉寺
官位 正四位下左近衛少将左衛門督正三位[3]
幕府 室町幕府豊後豊前肥前肥後筑前筑後守護九州探題
主君 足利義晴義輝義栄義昭豊臣秀吉
氏族 大友氏藤原氏秀郷流)
父母 父:大友義鑑母:坊城氏
兄弟 義鎮(宗麟)大内義長塩市丸隼人[4]一条房基室、河野通宣室、吉弘鑑理室(貞善院義誉静音)、小田部鎮元室、城井鎮房室、親貞
正室:**一色義清・宝岸寺殿継室:奈多夫人**(奈多鑑基娘) 側室:一萬田夫人(一萬田親実娘)など7人。
**義統**、親家親盛、女子(長女、母は一色氏)、ジェスタ (一条兼定継室のち清田鎮忠継室)、久我三休室、奈多鎮基室、一萬田鎮実室、母里友信室、臼杵統尚室、桂姫小早川秀包室)
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大友義鎮(宗麟)
神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像
教会 カトリック教会(キリシタン)
洗礼名 ドン・フランシスコ
受洗日 1578年
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大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ豊後の王と称された。

父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説がある。 弟に大内義長塩市丸親貞など[注釈 1]。子に義統(吉統)、親家親盛など。

中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球カンボジアポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交[注釈 2][注釈 3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。

大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していた。大友氏豊後国筑後国守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名であった。

享禄3年(1530年)1月3日(または5月4日)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれた。傅役は重臣の入田親誠が務めた。幼名は塩法師丸

天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗った[5]

義鎮20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。

天文19年(1550年)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こした。

2月10日、塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去した(二階崩れの変)。義鑑の遺言により、義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となった。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

大友宗麟公像(大分県津久見市)

天文20年(1551年)に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。これにより大友氏は、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に、北九州における大内氏に服属する国人勢力が同時に大友氏にも服属することになり、さらに周防・長門国方面にも影響力を確保した。特に筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらした。弘治3年(1557年)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使の蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還するとともに大内氏所有の「日本国王」印(毛利博物館現存)を用いて朝貢した。

また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中にした。さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利し、天文23年(1554年)に肥前国の守護にも任じられた。しかし、父の死(二階崩れ)以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエル宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付き、天文22年(1553年)に一萬田鑑相[注釈 4]宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)、義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。

弘治3年(1557年)、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失った。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国秋月文種を滅ぼし、毛利氏を追い、北九州における旧大内領を確保することに成功した。

この頃に義鎮は本拠地を、豊後府内の大友館から丹生島城(臼杵城)に移している[注釈 5]。現在は陸続きとなっているが、当時の丹生島は三方を海に囲まれ、西方は干潮時にだけ陸続きとなる天然の要害であった。この本拠地移動に関しては、北の毛利氏からの攻撃を警戒し南遷した、日向国経営のために南遷した、家臣団の反乱に備えた、府内の寺社仏閣や商人などの旧勢力の影響から逃れつつ新しい経済都市を形成しようとした、など諸説ある。

大内氏の領国を完全併呑することはできなかったが、義鎮は北九州一円を実質的に支配した。天文23年(1554年)に13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど、従来から大友氏は足利将軍家との関係を強化していた。

臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ)

永禄2年(1559年)、義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国両国の守護[7]に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任された[8]。またさらに、大内氏家督(大内の当主を義鎮が大内一族から選んで決めてもよいし、義鎮自身が大内の当主になってもよい、という権利)それに伴う周防・長門の守護の資格(九州から渡海し、中国地方に攻めこんで領有しても良いという許可)も得た。これにより実効支配だけではなく、九州特に北九州の領有と支配に幕府の権威が与えられ、さらに毛利氏を追捕する権利を持ち、毛利氏に味方し大友氏に逆らう者は将軍の敵と認定される形となった。

永禄3年(1560年)、左衛門督に任官された。これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。また、3月には足利義輝より義鎮に対する御内書に、父義鑑の代に足利義晴より下賜された桐紋について、「萬松院殿(義晴)代紋を遣わさる由、目出たく候。一続(一族)と為す可く其の旨存じ可く候」とあることから朝廷や足利将軍家に多大な献金を行っていたことと、その信頼を受けていたことを察することができる。

このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を勝ち取った。

しかし、永禄5年(1562年)、門司城の戦いで毛利元就に敗れ、同年に出家休庵宗麟と号した。永禄5年9月13日には、宇佐八幡宮への寄進を表明して、毛利氏に対する戦勝を祈願したが、この時、毛利氏の行為を具体的侵攻であるのみならず、八幡大菩薩の神敵と非難している。即ち、世俗の次元に加えて信仰の次元においても敵の不正義・味方の正義を強調している。これは武士や平民を動員する上でのいわゆる理論武装として、前述の幕府や朝廷の権威・御墨付きだけでは足りず、宗教上の大義を掲げる必要があったからであると推測されている[9]

その後も足利将軍家には多大な援助を続けた。永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられた。翌永禄7年(1564年)には義輝に毛利氏との和睦の調停を依頼して、北九州の支配権の確立・権益の確保を実現するなど、幕府との関係は密であった[10][11]

京都の幕府では永禄8年(1565年)に足利義輝が家臣の謀反により没し、永禄11年(1568年)に弟の足利義昭が新将軍となった。毛利氏は山陰地方の仇敵・尼子氏を滅ぼしたのち、再び北九州へ食指を伸ばすようになり、和睦は反故となった。永禄10年(1567年)、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起し、これに大友氏重臣の高橋鑑種も加わるという事態が起こったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。この毛利氏との戦闘の時期に宗麟は、キリスト教宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請している。この際に「自分はキリスト教を保護する者であり、毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破るために大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。永禄12年(1569年)、肥前国で勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信を制するため、自ら軍勢を率いて筑後・肥前へ討伐に向かうが、毛利氏が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退する。

義鎮は多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与えた一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の一族である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を九州から撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。

経済面では支配下の博多やの豪商のみならず、豊後府内の豪商仲屋顕通仲屋宗越父子を厚遇して御用商人化し、秤と分銅の衡量権益を授け、対外貿易の実務も担わせた。仲屋宗越は臼杵城下の唐人町懸ノ町に広大な屋敷地の保有を認められ、のちには豊臣秀吉からも厚遇されて京都方広寺大仏殿(京の大仏)造立時に奔走することになる。

義鎮は日本の戦国大名では最も早い天正年間に、カンボジア国王との善隣外交関係の締結に成功している。義鎮がカンボジアに派遣した交易船は、帰路の天正元年(1573年)8月に銀子・鹿皮等を積んで薩摩国の港(阿久根港)に大風避難寄港し、以降消息を絶った。また、カンボジア国王が天正7年(1579年)に義鎮に向けて派遣した交易船には、鏡匠・象簡・象が乗り込み、銅銃・蜂蝋が積まれていたが、前年耳川の戦いで優位に立った島津義久による経済封鎖によって抑留された。

元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻したが龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ、弟の親貞が戦死した。ただしこの勝敗は大友・龍造寺氏双方にとって局地的な事象でしかなく、大友氏の肥前支配はこの時点では維持されていた[12]。その後大友氏は肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗したが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。

元亀4年(1574年)、京都では織田信長が将軍・足利義昭との抗争に勝利し権力を確立し、義昭は京を追放され、天正4年(1576年)に山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けた[注釈 6]

天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、家督を長男の義統に譲って隠居した[13]。家督は相続されたが、天正5年頃までは宗麟と義統との共同統治が行われていたことが確認されている[14]

下記の日向国出陣直前の天正6年(1578年)7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている(本項内では以降も、著名な名乗りである「宗麟」で統一する)。

改宗の理由として、宗麟の関心は信仰の内容ではなくかなりの程度、信者となることでもたらされる現世利益、すなわち実収入にあったと考えられている。またそれが宗麟個人のみならず、大友家中の人々にキリシタン信仰を広める上で有効な面もあったとされている[9]

天正5年(1577年)、薩摩国島津義久日向国に侵攻を開始し、日向の大名の伊東義祐は姻戚関係にあった大友氏を頼り、豊後へ逃れてきた。日向北部の縣の松尾城主である土持親成は宗麟に臣従していたが、これを機に島津へ寝返ったため天正6年(1578年)1月にこれを攻めて鎮圧[15]。同年9月、大友勢は伊東の旧領回復を期して出兵[15]。宗麟も出陣したが耳川の戦いで大友氏は大敗し、多くの重臣を失った[注釈 7]

耳川の戦いが起こる切っ掛けとなった島津軍の日向国北上の理由として、京都で織田信長に敗れ毛利輝元の下に亡命していた足利義昭の影響を指摘する意見がある。将軍・義昭は毛利氏が織田氏攻めのための上洛戦に踏み切らないのは、大友宗麟が毛利氏の背後を脅かしているからだと考え、島津氏をや龍造寺氏、四国の長宗我部氏らに工作を行い、大友氏を攻めさせようとした、とされる。義昭は宗麟を、将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」[16]と糾弾したため、先に大友氏が室町幕府の将軍に任命された六ヶ国守護としての権威が消失し、周辺の大小名に対する支配の正当性を失った形となった。一方で宗麟は織田政権に接近して、この苦境を打破しようとした[17]。織田信長は大友義統に対し、六ヶ国のみならず周防・長門(毛利が大内から奪っていた国)の領有まで許可した。

天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏草野氏黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れていった。家中では、先代の宗麟と当主の義統による二元政治の確執から、双方の対立が深まった。

耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの勢力拡大もあり、大友氏の領土は侵食されていった。宗麟は本州で大勢力となっていた織田信長に依頼し、島津氏との和睦を斡旋してもらった。大友氏は信長の中国地方侵攻すなわち毛利氏との戦いに協力することなどを約束していたが、天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が死んだことにより、これらは立ち消えとなった[18]

岩屋城跡に建つ城址碑。高橋紹運の一軍の壊滅死を悼んでいる。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにて、龍造寺隆信が島津義久の弟の島津家久に敗北を喫し戦死すると、大友氏は立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回した。

しかし、天正13年(1585年)に道雪が病死し同地での求心力を失った。これを好機と見た島津義久は北上を始めた。家臣の高橋紹運立花宗茂(道雪養子)父子の奮戦は島津軍の侵攻を鈍らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友氏単独では島津氏の勢いには対抗出来なくなっていた。

臼杵公園(臼杵城跡)にあるフランキ砲(「国崩し」)のレプリカ

このため天正14年(1586年)、宗麟は上方へ向かい、中央で統一政策を進める豊臣秀吉大坂城で謁見することに成功した。宗麟は大友氏が豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を懇願した。島津義久はその後も大友領へ侵攻した(豊薩合戦)。大友氏救援に赴いた仙石秀久十河存保長宗我部元親らの四国勢を中心とした豊臣軍の先発隊が豊後に到着したが、この先発隊と大友氏は「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、攻められていた大友氏の鶴ヶ城の救援に赴き、同年12月12日に独断で会戦(戸次川の戦い)したが、島津家久軍により大友氏軍と豊臣軍先発隊は壊滅敗走させられた。島津軍はさらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略した。この時、丹生島城(のちの臼杵城)に籠城していた宗麟は大砲・国崩しフランキ砲)を使って丹生島城を守った[注釈 8][注釈 9][注釈 10]。豊後国内で栂牟礼城佐伯惟定岡城志賀親次鶴崎城妙林尼、筑前国の立花山城の立花宗茂(立花山城の戦い)など各臣は自らの居城で奮闘した。しかし、個々の拠点をかろうじて防衛しているだけであり、豊後は島津氏に蹂躙され、大友家は滅亡寸前にまで追い詰められていた。

天正15年(1587年)、豊前国小倉に先着していた毛利輝元宇喜多秀家宮部継潤らの軍勢と豊臣秀長の軍勢が合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊が九州に入り、総勢10万の軍勢が九州に上陸した(九州平定)。同年4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将の宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥っていたが、豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部を救援に向かい島津軍と衝突し、島津軍は島津忠隣猿渡信光が戦死するなど甚大な損害を出して敗走した。この戦果は、戸次川の戦いの敗北により失った豊臣氏の権威を回復し、秀吉による九州平定を盤石なものにした上で、窮地に陥っている大友氏を救った戦いとなった。大友氏領内の島津軍は撤退した。

5月13日、秀吉は秀長へ全11ヶ条の条々を下した。(『大友家文書録』)

などの内容であるが、これにより、この時点では豊後・日向二国が義統と宗麟にそれぞれ与えられ、豊臣氏の支配体制の内ではあるが、両国が大友氏の采配の下となる様子が窺える。

宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死した。58歳。死因はチフスが有力とされている。

九州平定後、秀吉の命令で義統は豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去した、とされている。

大友宗麟の墓(津久見市)

墓所は大分県津久見市内と、京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後にキリスト教式の葬儀が行われ、墓は自邸に設けられたが、後に義統が府内の大知寺で改めて仏式の葬儀を行い、墓地も仏式のものに改められた。その後、義統が所領没収されるなどして大友氏が衰退したこともあり、宗麟の墓所は荒廃していたが、寛政年間(1789 - 1801年)に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬した。津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって、新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。

大友宗麟像(瑞峯院所蔵)[注釈 12]

文化人としての活動は活発で書画茶道蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。

天正6年(1578年)、ルイス・フロイスが臼杵からポルトガルのイエズス会に送った同年9月16日付け書簡に彼についての記述があった。

アンソニー・ヴァン・ダイク「日本の王に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」

「大友興廃記」によると、宗麟は家督を継いで3年あまり後、「大友家政道条々」という19箇条よりなる分国法を制定発布したとしている。これは「政道十九条」と呼ばれている。

それまでの大友氏の分国法としては大友義長が制定した「大友義長条々」、大友義鑑が制定した「新大友義長条々」がある。この「政道十九条」には重臣宛に発した私信があり、分国法と断定するには問題があるともされている。また、梅木俊次らはこれを確かに宗麟の制定したものと主張しているが、外山幹夫らは偽作だと主張している。

父:大友義鑑 母:坊城氏(公家の娘) 兄弟姉妹女(一条房基室) 女(河野通宣室) 大内義長 大友親貞 塩市丸 妻一色夫人・宝岸寺殿(家督相続時に離婚している、理由は不明) 奈多夫人八幡奈多宮大宮司の家系で、宗麟のキリスト教入信が原因で離婚) 林氏(洗礼名「ジュリア」、イエズス会関係の史料によると元・奈多夫人の女中頭であったとされる) 一萬田夫人(家臣・一萬田親実(鑑相)の娘、鑑実の姉または妹) 入田義実の娘 など7人の側室が居た。 大友義統(吉統、洗礼名「コンスタンチノ」) ジュスタ[注釈 13]一条兼定室のち清田鎮忠室。義統より年長の姉[注釈 14]、寛永4年(1627)8月7日逝去) 娘(志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女) テクラ[注釈 15](久我三休室。宗麟と奈多夫人の次女。) 娘(奈多鎮基室) 大友親家(洗礼名「ドン・セバスチャン」) 娘(一萬田鎮実室) 娘(母里友信室) 娘(臼杵統尚室、統尚は臼杵氏一族、鎮尚の子か。奈多夫人の出、天正11年(1583年)逝去した。遺された娘は妹の桂姫の養女となった) クインタ(林宗頓(志賀親成、洗礼名はゴンサロ)室[注釈 16]) レジナ(伊東義賢室) 大友親盛(洗礼名「パンタレアン」) 桂姫小早川秀包室、洗礼名「ドナ・マセンシア」) 娘(天正9年(1581年)に、林ジュリアとの間に生まれた末女)

以下、義鎮から偏諱を賜った人物、義鎮期の主な家臣を掲載する。太字の字を含む人物は義鎮から偏諱を賜った人物である[注釈 17]。( )内に血縁関係や別名、通称、役職などを掲載しているが、長文になる場合は脚注に掲載している。

武将一覧

一萬田氏 (大友氏庶流)橋爪(=一萬田鑑実、義兄弟) 高橋(=高橋鑑種、鑑実の叔父、筑後十五城の一つ、高橋氏を継ぐ。) 一萬田実(拶)(娘婿、鑑実の嫡男) 一萬田(鑑実の弟、鎮実の叔父。子に時治。) 一萬田(一説に一萬田統賢の父とされる人物。) 竈門(竃門勘解由允、高橋越前守) 奈多(義兄、奈多鑑基の嫡男) 田原親賢(義兄、鎮基の実弟、法名:紹忍) 香志田(父は鑑基。大友親治の五男・田原親種を祖とする大友氏一族。) 城井房(永) (義弟、妻は義鎮の妹、宇都宮鎮房とも) 清田(娘婿、清田氏第13代当主。12代鑑信の次男(嫡男)。別名:延。) 清田(父は鎮忠または鑑信の弟・鑑通) 田村筥崎座主。宗麟の従兄弟とされる。養子に安武方清。) 日田氏 大友親直流(親直は10代大友親世の子)大友(親直の子・親頼の玄孫、父は頼房日田(鑑栄の子。祖先・親胤は親直の子または大友親繁の子・親勝と同一人物とされる。) 財津(讃岐入道龍閑。鑑永の弟。) 財津永次(鎮則の子) 財津永高(鎮則の子) 財津永正(鎮則の子) 財津大学(鎮則の子、実名不詳) 竹田津(日田氏庶流・竹田津長重の子。鑑久の弟か) 竹田津(鑑久の子か) 竹田津(一族、義鎮の次男・田原親家に仕える)

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入田氏(大友氏庶流)入田親誠(別名:親実。義鎮の傳役。後に二階崩れの変の黒幕として討伐された。) 入田(親誠の嫡男) 入田(親誠の子、義実の弟) 木付氏 木付秀(虎)(鑑実の子) 木付直(円)(鎮秀の子) 木付(鎮秀の子) 志賀氏(大友氏庶流)北志賀氏志賀親守 志賀親度 志賀親次(別名: 親善) 南志賀氏志賀鑑隆(常陸介) 志賀(兵庫守、鑑隆の嫡男) 志賀親政(鎮隆の子) 志賀(初名:頼信、信。鎮隆の弟。) 志賀(鑑隆の叔父、初名:親行) その他一族麦生鑑光(姓は「むにゅう」と読む。「鑑」の字は先代大友義鑑から賜ったものであろう。1554年肥前守護職を得、義鎮の臣となる。) 麦生鑑綱麦生本源氏物語の最初の所有者とされる。鑑光と同一人物か。) 麦生(義鎮期の家臣として名がある。鑑綱が改名したものか。) 吉岡氏佐土原氏(大友氏庶流野津氏流)吉岡(=吉岡長増) 吉岡(長増の嫡男、妻は妙林尼、鑑興から改名) 佐土原 (鑑親の子か) 吉弘氏大友氏庶流)・豊後高橋氏筑後十五城の一つ。)吉弘鑑理 吉弘信(仭)(鑑理の嫡男) 高橋紹運(吉弘理 → 高橋種、鎮信の実弟、高橋鑑種の養子) 吉弘(鑑次の子) 吉弘(鑑次の子) 吉弘(一族) 吉弘(一族) 吉弘(一族) 吉弘(一族) 吉弘(鎮方の子) 北原(高橋紹運家臣。子に進士兵衛種興。) 谷川(高橋紹運家臣。) 萩尾(高橋紹運家臣。) 萩尾大学(麟可の嫡男) 田北氏(大友氏庶流)田北 田北(鎮周の子またはその兄・鑑生の子) 田北(鎮周の婿養子(吉弘統幸実弟)の田北統員と同一人物とする説と、鑑生の子とする説がある。) 田北(鑑辰の子、鑑益の養子) 立花氏戸次氏(大友氏庶流)戸次鑑連 戸次鑑方立花道雪の三弟) 戸次親行立花道雪の四弟) 戸次戸次鑑方の子、鑑連の甥・養子) 戸次(しげきみ/しげとき、鎮連の弟(鑑方の次男)、立花姓を下賜される。文禄の役で戦死。) 戸次(鎮連・鎮林の弟) 戸次(鑑連の従兄弟) 戸次(しげちか、鑑堅の子) 戸次(法名: 傑、栄。加判衆、分家・片賀瀬戸次氏第4代当主、父は親方(親善)。) 戸次(鎮秀の弟) 戸次(鎮秀の従兄弟、父は親俊、長門守) 戸次(鎮就の子、掃部助) 戸次(分家・藤北戸次氏第2代当主親宗の嫡男) 戸次(鎮直の弟、藤北戸次氏第3代当主。) 戸次(親宗の兄・戸次親繁(親延とも)の嫡男) 戸次(鎮時の弟、立花姓を下賜される) 立花鑑貞中国語版)(初名:戸次直貞。鎮時・鎮実の弟で、叔父・親就の養子となる。のち立花姓を賜る。文禄の役第一次平壤城の戦い)にて戦死。) 立花(鑑貞の子。別名、戸次鎮貞。のち親家に改名。妻は立花宗茂の妹、子に立花親長。) 戸次(一族) 立花(旧姓:米多比(ねたび)、立花姓を下賜される) 津守(戸次氏一族) 内田 内田(鎮次の子) 内田(鎮並の弟) 内田(鎮家の弟) 杉森(内田鎮資の弟) 小野 小野質幸(鎮幸の子) 小野(森下釣雲の子、鎮幸の養子) 小野成幸(鎮幸の従兄弟、文禄の役で戦死。) 京都 京都 薦野(河内宗とも、薦野増時の父) 原尻古庄氏の一族とされる) 原尻 三池(初め鑑照、照。父は親高(鑑速)筑後十五城の一つ。) 三池 横大路親友(備後守、元々は少弐氏家臣。)

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赤尾(光岡城主赤尾賢種の遠戚) 赤星赤星統家の大伯父・鑑直の子) 麻生(初め水晶城主、のち花尾城主。父の麻生家信大内政弘の家臣。兄の隆守は河内岡城主。) 安心院(あじむ りんせい、諱は公正(きみまさ)。大内氏家臣、龍王城主。) 飯田(大内氏家臣飯田興秀の子。初め義鎮の実弟・大内義長より1字を賜い「長秀」と称していたが、のち義鎮に仕えてからは「鎮敦」に改名。) 飯田義忠(鎮敦の弟。義鎮の義兄・田原親賢に属して活躍。※「義」の字は大内義長または大友義鎮から1字賜ったものと思われる。) 足利氏系豊後上野氏 上野 上野(鎮信の子) 上野(鎮信の弟) 臼杵氏 臼杵(実名)は長景) 臼杵鑑賡(長景の子) 臼杵(鑑賡の弟) 臼杵鑑定(鑑速の弟) 臼杵(鑑定の子) 臼杵(初名:鑑良、鑑定の弟) 臼杵(鎮良の子) 臼杵(鎮良の子) 臼杵(別名: 慶、法名:紹冊、鎮良の弟) 臼杵 臼杵(鎮賡の弟) 臼杵(鎮賡の弟、子に鎮尚) 臼杵(鑑泰の子) 臼杵(鑑親の子) 内空閑氏[注釈 18] 内空閑(内空閑氏第8代当主) 内空閑(鎮資の養嗣子、隈部親永の子。第9代当主。別名:正利。) 内空閑(鎮資の実子、鎮房を養子に迎えた後に誕生) 豊前宇都宮氏 城井鎮房 城井(鎮房の遠戚。父は直豊。) 佐田 佐田(鎮綱の父・隆居の従弟) 佐田(鎮治の子) 野仲 広津宇都宮信房の弟・廣澤直房の末裔とされる。) 広津 (別名、次。鎮頼の子。) 吉富宇都宮冬綱の子吉富房政の末裔) 吉富(鎮隆の子) 瓜生貞延 瓜生勝忠(貞延の嫡男) 小川(鑑昌の嫡男か) 小田少弐氏家臣・小田政光の嫡男。初め龍造寺隆信、のちに大友氏に通じた。) 豊後大神氏 大神(深江城主、子に親長、鎮次、鎮勝、親直) 大神(鎮正の子) 大神(深江城主、鎮正の子) 大神(日出城主、鑑房の子) 大神(鎮氏の子) 大津留(鑑康の子か) 小田部(松浦隼人佐鎮隆) 大津留(大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。) 大津留(大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。) 小田部(大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。) 雄城 (大友親治期の家臣・雄城治景の嫡男) (別名:重治。佐渡守。鎮正の家臣。勢場ヶ原の戦いにおいて大神鎮氏とともに鹿鳴越城を守る。) 矢部 甲斐甲斐親直のはとこ・親昌の子) 鹿子木氏菊池氏支配氏族鹿子木(鹿子木鑑員の子) 鹿子木(鹿子木鑑員の弟、親員(寂心)の孫) 蒲池氏筑後宇都宮氏筑後十五城の一つ。)下蒲池 蒲池(実名)は鑑盛。) 蒲池(鑑盛の長庶子) 蒲池(別名、竝(並)。鑑盛の次男・嫡子。) 蒲池(鑑盛の三男、のち統安に改名。) 上蒲池 蒲池鑑広 蒲池(鑑広の子) 蒲池(鑑広の子) 蒲池(鑑広の子。名の表記は胤とも、法名: 全融) 中野(鑑広の子。子の光元以降は柳河藩士として続く。) 大木氏犬塚氏 大木(父は大木親照(ちかてる)、統光の父) 犬塚(初名:盛家、少弐氏・龍造寺氏の家臣。) 犬塚(掃部助、鎮家の嫡男。別名:茂盛。) 犬塚(鎮家の甥(兄・尚家の子)) 犬塚(鎮家のはとこ、父は鑑直、子に家広。) 河崎氏筑後十五城の一つ。)河崎堯(則)[注釈 19] 真玉(真玉氏第八代当主。真玉城主。父は治房。) 豊後清原氏 恵良氏(以下5名の関係は不明)恵良 恵良 恵良 恵良 恵良 長野(ちょうの)氏長野(父は言家) 長野 帆足氏帆足(日出生城主帆足鑑直の嫡男) 帆足(鑑直の次男。別名:正尚。) 帆足(一族、子に兼永。) 筑後草野氏筑後十五城の一つ。)草野(初名:鑑員) 草野(鎮員の子、初名:家清。兄弟に永直。子の永広は鍋島勝茂に仕えた。) 草野原田隆種(了栄)の子で初名は原田種吉。肥前草野家草野永久の養子となる。子に永純原田信種。) 朽網氏 朽網(実名)は鑑康、入田義実・鎮氏の叔父。) 朽網則(策)(鑑康の嫡男) 朽網(鎮則の弟) 久保 久保(のち龍造寺隆信の家臣、鎮泰との関係は不明。) 隈部隈部親永の大叔父) 隈部(尾張守、隈部親永の遠戚。) 黒木氏筑後十五城の一つ。)黒木家永 黒木(黒木兵庫助。系図に名前が見られないことから家永と同一人物の可能性が高い。) 小佐井鑑直[注釈 20] 小佐井(二階崩れの変前に殺害された小佐井大和守と同一人物とされる) 五条氏筑後十五城の一つ。)五条(鑑量の嫡男、初め鑑定。) 五条(鑑量の次男、鎮定の弟。) 豊後佐伯氏 佐伯(諱(実名)は惟教) 佐伯(初名:惟忠、惟教の次男。) 賀来(初名:惟定。鑑保の子(一説では弟)。由原八幡宮大宮司。姓は「加来」とも。) 上野(佐伯氏の一族とされる(※上記の上野氏とは別系。)) 斎藤 佐藤(鑑直の弟。豊後安禅寺砦主。子に長治。) 城島(石見守、大蔵丞。城島氏第24代当主。初名:時次、法名:真慶。23代備中守鑑数(時達)の子。) 大内氏家臣・杉隆泰の嫡男) 千手(美濃入道、は鑑元。) 副但馬(実名不詳)の子) 高田(美作守。高田城主。鑑将の子。子に伊賀守正孝。) 高山(豊後若宮大宮司。) 武宮 田尻氏筑後十五城の一つ。)田尻鑑種 田尻(鑑種の弟) 田尻(鑑種・鎮種の弟) 田尻(鑑種・鎮種・鎮岑の従兄弟、父は鑑乗) 田尻(鑑種の大叔父、治種の弟) 田尻(鎮高の弟) 田尻(鎮周の子) 田尻(鎮高・鎮周の弟) 田尻(治種・鎮高・鎮周・鎮賢の叔父) 田尻(鎮貞の子、治種・鎮高・鎮周・鎮賢の従兄弟) 田尻(鎮貞の弟) 田尻(鎮貞・鎮純の従兄弟、父は種任。) 田尻(鎮忠の子) 田尻(鎮忠の叔父、種任の弟) 田尻(鎮廣の子、鎮貞・鎮純・鎮忠の従兄弟) 田尻(鎮光の弟) 田染 田染 種具 種具 田吹(鑑富の子か) 丹波氏筑後十五城の一つ。)丹波高良山座主。) 丹波良寛(鎮興の子。父の跡を継いで高良山座主。) 丹波 (鎮興の子。兄・良寛の跡を継いで高良山座主。天正19年(1591年)、小早川秀包に謀殺される。) 筑紫筑紫惟門の子。勝尾城主。) 角隈石宗(大友義鑑・義鎮期の軍師) 鶴原 時枝 (後に黒田氏家臣となる。) 利光(実名)は鑑教。) 富来(富来氏十九代当主。鑑忠の子。朝鮮で討死。養子に末弟・統長と甥の統尚がいる。) 富来(弁分佐渡守。鑑豊の孫、父は氏家。) 永弘 成恒氏 成恒田嶋崎城成恒清種の子) 成恒(一族。義鎮に仕える。) 成恒(一族。越中守。のち杉重矩の家臣となり矩種に改名。) 西 (通称: 左近) 西牟田氏筑後十五城の一つ。)西牟田(父は親氏。別名:家増。祖父・播磨守親毎大友義長に仕えて以来、代々大友氏に臣従していたが、耳川の戦いで大友氏が弱体化したのに伴い、鎮豊は龍造寺隆信の麾下に参じた。) 西牟田家周(鎮豊(家増)の弟。伊豆守。) 野上(野上兵庫) 狭間大友氏一族) 服部右京亮(実名不詳。義鑑の代からの家臣。反義鎮派の態度を取り続け、のちに一萬田鑑相とともに謀反を起こして敗死。) 福島(但馬守) 古庄氏 古庄波多江政宗の子、古庄能登守(治重の弟)の養嗣子となる。) 古庄鎮行(丹波守) 小田原 豊饒(美作兼松城主。姓は「ぶにょう」と読む。鑑述の子か。龍造寺氏家臣。) 星野氏筑後十五城の一つ。)星野(初め重実) 星野(初め鑑泰。鎮実の外孫・養子、実家は蒲池氏(蒲池鑑広の子とされる)。) 星野(鎮泰の嫡男) 星野(鎮泰の次男、別名:吉実) 星野(鎮泰の三男、別名:吉兼) 溝口氏筑後十五城の一つ。)溝口(鑑資の子か。休松の戦いで戦死。)) 宗像氏 宗像(姓は麻生とも。宗像氏貞と対立。) 宗像石垣原の戦いで戦死。) 元重 元重(元重城主。鎮清の子。耳川の戦いで戦死。) 森迫(森迫館主。耳川の戦いで戦死。父は鑑根。子の三十郎親正は先だって戦死。) 問註所氏筑後十五城の一つ。)問註所問註所氏宗家当主、統景の父) 問註所(鎮連の弟) 問註所(鎮連の弟、町野左馬進) 問註所(鎮連の子、統景の弟、鎮堅の養子) 問註所(鎮連の叔父・鑑定の子) 問註所(鎮昌の弟) 問註所(鎮連のはとこ、父は鑑成) 吉松 若林 渡辺(読みは「しげし」か。渡辺氏一族、真那井渡辺氏の人物。)

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上記以外の近隣勢力および義鎮亡き後に「鎮」の字を祖先から取って用いた人物を以下に示す。

上妻氏 - 高木氏支流(高木鑑房と同族)上妻(敦家の子) 上妻(鎮房の弟) 上妻(鎮房の子) 上妻(鎮政の子) 綾部(別名:賢幸。白虎山城主。父は泰幸少弐氏龍造寺隆信の家臣。のち隆信によって滅ぼされる。) 肥前有馬氏 有馬晴信 - 初名を純(しげずみ)、のち景(しげかげ)、貴(しげたか)、真(しげざね)と名乗った。 波多 (名の読みは「しげし」。のち親(ちかし)に改名。肥前国岸岳城城主。有馬晴信の実弟で松浦党の一族である波多氏に養子入りしたとされる。) 天草五人衆 天草(別名: 種、久武。本渡城主。父は尚種、妻は天草種元の姉(または妹)。) 上津浦 志岐経(泉) 栖本(兵部大輔。菊池氏一族。) 栖本(又七郎。鎮通の孫、父は通隆(親高の弟)。子に栖本通次。) 臼杵(鎮順の子、従兄・統景の養子) 臼杵(鎮尚の子) 賀来(竹屋喜平次、父は鎮綱の子・正綱) 賀来(鎮隅の兄・久盛の子) 蒲池氏 蒲池氏(下蒲池)蒲池鎮漣蒲池久(宗虎丸、蒲池鎮漣の嫡男) 蒲池明(鶴明)朽網宗壽の次男) (鎮明の子) (鎮正の子) 蒲池(鎮春の子) 蒲池康(江口康) (鎮春の子) 江口(鎮康の養子) 窪田勝(蒲池克) (鎮俊の子) 江口(鎮克の弟) 窪田(鎮克の子) 蒲池(鎮克の娘婿) 蒲池統安塩塚(統安の子、応誉の兄) 蒲池統(応誉の子) 蒲池之丞(蒲池之) 蒲池氏(上蒲池)蒲池鑑広蒲池(鎮運の子) 蒲池(鎮等の子、別名:重永) 蒲池(中村源太郎、鎮永の子孫、) 蒲池(本名: 蒲池則、鎮義の甥) 清田氏清田(鎮忠の子、義鎮の外孫) 清田(鎮忠の子、義鎮の外孫) 清田(鎮乗の曾孫。(鎮乗から乗栄-久太-鎮安)) 清田(鎮安の子) 清田(由布安芸守の孫、鑑信の子・正成の家系を継ぐ) 草野 草野の養嗣子。実父は鍋島清房の子・信俊。のち永和に改名。) 草場(草野鎮永の子、奈良崎永祐の養子。草場を姓とし、のち永恒に改名。) 神代少弐氏家臣・神代勝利の子) 黒木(家永の孫、父は延実。) 小島(別名:武遠。菊池氏一族。) 小代(藤内兵衛尉、菊池氏家臣) 小森田菊池氏家臣) 佐田佐田鎮綱の子、兄に統綱) 立花高橋鎮種(紹運)の子、のちの宗茂[注釈 21]田原(田原親貫の曾孫。父は続明、祖父は親国。) 田原(山鹿越右衛門、鎮忠の子) 馬場(少弐氏一族・馬場鑑周の弟、同頼周の孫(父は政員)。) 戸次(戸次鎮実の孫、父は統実) 戸次(戸次鎮実の孫、父は統実) 新田 辺原(法名: 紹真。姓の読みは「へはら」。菊池氏家臣。) 松浦 (平戸松浦氏第26代当主・肥前国平戸藩初代藩主。曾孫の重信(松浦鎮信 (天祥))も同名を称する。) 三田井氏三田井(親氏の子、大友義右期の家臣・三田井右武の弟) 三田井(鎮安の弟) 三田井(鎮武の弟) 三田井(右武の次男・越前守親武の子) 三田井 (鎮信の弟) 三田井 (鎮氏の弟) 安武(別名: 教、則。父は鑑教(鑑政)と思われる。) 安武(鎮政の子・政勝の孫、父は安信。) 安武方清筥崎座主。鎮政の子。鎮信の異母兄弟とされる。(田村)麟清の養子となる。) 安武(豊前守) 鶴崎 (津留崎石見守。鶴崎城主) 由比(少弐氏家臣。父は正盛。) 横岳(別名: 頼貞、恒。少弐氏一門。のち龍造寺政家に仕え偏諱を賜って家実に改名。) 龍造寺(隆信の嫡男、のちの政家) 龍造寺龍造寺胤栄の子で隆信の義兄弟又は龍造寺常家胤家の子・胤直の養子)の子(備後守)とされる。)

大友宗麟公墓(大分県津久見市)の胸像(2020年)

銅像・レリーフ

小説

映画

テレビドラマ

絵画

楽曲

漫画

  1. ^ 親貞に関しては菊池重治の子ともいわれる。

  2. ^ 宗麟は今山・耳川の戦いで敗北し、戦略家としては二流と見られている。しかし、政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。既に有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職を得、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕には特に秀でていた。

  3. ^ 発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1,000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であったことを裏づけている。

  4. ^ のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父。

  5. ^ 通説では、永禄5年(1562年)もしくは同6年(1563年)に臼杵の丹生島城に移ったとされているが、八木直樹は姓氏対立事件を機に義鎮が丹生島に移ったことに触れた弘治3年(1557年10月29日)のガスパル・ヴィレラの書簡(『耶蘇会士日本通信』)の記事以降の大友氏の関係文書を分析した結果、義鎮が府内ではなく臼杵において政務を行っていたと指摘し、さらなる史料不足から具体的年代は断定できないものの、弘治2年前後から大友氏の改易まで、天正7年(1579年)の田原親貫の反乱対応のために大友義統が2年ほど府内に移った(この期間も義鎮は臼杵か津久見に滞在していた)以外は一貫して臼杵に大友氏の本拠が置かれていたとしている[6]

  6. ^ 翌1575年に信長は従三位権大納言となり足利義昭と並び、さらに過去に義昭が望んでいた右近衛大将を兼ねることで上位に立っている。信長子息の信忠は1576年に出羽介および秋田城介鎮狄将軍と同等)となった。

  7. ^ 耳川の戦いは、「宗麟主導の下に、日向国にキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争」とされることが多い。 しかし、天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が”家臣団の要請を受けて”乗り出していることから、耳川の戦いは先代宗麟ではなく、当主の義統主導によるものだった、とも言われている。合戦の敗因については「宗麟の姻戚であった総大将の田原親賢が、田北鎮周などの他重臣達の反発を招いた結果、大友氏内の統率が取れていなかった」とする説や、「親賢はキリスト教を嫌悪していたため、信徒や宣教師の支援が得られなかったことが原因」とする説もある。

  8. ^ 日本で初めて大砲を使ったのは、宗麟であったとされる。

  9. ^ この大砲は大友氏改易後も、江戸時代を通じて臼杵城本丸に配備されていた。

  10. ^ 同城に宗麟と共に立て籠もっていた家臣の志賀親守は、実は既に島津氏に内通していた。島津軍は丹生島城攻略を重視せず、本軍は府内に向けて進軍している。

  11. ^ 長宗我部氏はこれを固辞した。

  12. ^ 絹本著色、重要美術品怡雲宗悦が天正15年(1587年)9月の年期を記した賛をもつ。描法から狩野派絵師の作だと推定される[19]

  13. ^ 「於西御前(阿西御前)・桑姬」は清田鎮忠夫人「ジュスタ」(大友宗麟と奈多夫人の長女)を指す。『長崎名勝図絵』(1820年頃、饒田喩義編纂)には「阿西御前」とある。読みは「おにしごぜん」。「於西御前」の表記は『志賀家事歴』による[23][24][25]。『大友の末葉・清田一族』によると、ジュスタの墓碑は元「(大分県)清田村民家の後ろ、銀杏大木を印」として在った。のち、大分郡松岡村松岡山長興寺に移され、追って石塔が建てられ、「清芳院殿月峯自圓大姉」と法号が刻まれた[26]。号は本源院とも。

  14. ^ 宗麟は、奈多夫人がまだ服部右京亮の妻であった1550年頃に自分の側室にし、服部右京亮の存命中に奈多夫人が宗麟の子供を宿して出産したのがこの娘である。

  15. ^ 彼女の三女は妹の桂姫の洗礼名と同じ「マセンシア」[23]

  16. ^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林クインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。

  17. ^ 義鎮から偏諱を賜った蒲池鎮漣の子孫が代々「鎮」を通字として用いるようになった例など、一部の人物が義鎮亡き後に「鎮」の字を名前に用いているケースもあるが、こちらも別項に掲載する。

  18. ^ 姓は「うちくが」と読む。この家では元々「鎮」の字が用いられていた[27]ため、義鎮から賜っていない可能性もある。

  19. ^ 名の読みは「しげたか/しげのり」。河崎鑑実の従兄弟・能堯(よしたか)の子。豊臣秀吉九州征伐に際して参礼せずに除封処分を受けた。子孫は佐賀藩士として続く。

  20. ^ 子の鎮直は二階崩れの変前に殺害された小佐井大和守と同一人物とされているが、この当時の大友氏当主は義鑑なので鑑直の間違いではないかと思われる。また、1580年の龍造寺氏との戦いで鑑直が一旦捕虜となったという史実もある。

  21. ^ 高橋氏、戸次氏時代は統虎(「統」は宗麟の子・義統から賜った字)を名乗る。立花道雪の養子となり鎮虎に改名(父・鎮種または隠居後の宗麟から賜っているものと考えられる)。以後幾度も改名し最終的には宗茂となる。

  22. ^大友宗麟』 - コトバンク

  23. ^ 大濱徹也 (2010年3月9日). “豊後の王フランシスコ大友宗麟”. 日本文教出版. 2020年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。

  24. ^ 『官報』3439号「授爵,叙任及辞令」1924年2月13日. (1924/2). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955587/3

  25. ^ 『立花遺香』 P.107~108

  26. ^大友宗麟”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカジャパン. 2022年5月11日閲覧。

  27. ^ 八木直樹「十六世紀後半における豊後府内・臼杵と大友氏―城下町移転に関する再検討―」『ヒストリア』204号、2007年。 /所収:八木直樹 編『豊後大友氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-122-6

  28. ^ 筑前国守護職補任は、足利義輝御判御教書(大友家文書)(九州国立博物館 2015, p. 29(写真掲載))

  29. ^ 大覚寺義俊副状(大友家文書)(九州国立博物館 2015, p. 30(写真掲載))

  30. ^ a b 神田千里「大友宗麟の改宗―その実態と背景―」『東洋大学文学部紀要』第68集史学科篇第40号、2014年。

  31. ^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」『政治経済史学』102号・103号、1974年。

  32. ^ 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」『日本歴史』367号、1978年。

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