大鵬幸喜 (original) (raw)

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大鵬 幸喜
大関時代の大鵬(1961年5月場所)
基礎情報
四股名 納谷 幸喜→大鵬 幸喜
本名 納谷 幸喜(別名:住吉 幸喜/イヴァーン・ボリシコ)
愛称 コンピューター・北海の白熊負けない○○
生年月日 (1940-05-29) 1940年5月29日
没年月日 (2013-01-19) 2013年1月19日(72歳没)
出身 北海道川上郡弟子屈町(出生地は樺太敷香郡敷香町
身長 187cm
体重 153kg
BMI 43.75
所属部屋 二所ノ関部屋
得意技 左四つ、寄り掬い投げ上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第48代横綱
生涯戦歴 872勝182敗136休(87場所)
幕内戦歴 746勝144敗136休(69場所)
優勝 幕内最高優勝32回十両優勝1回三段目優勝1回
敢闘賞2回技能賞1回
データ
初土俵 1956年9月場所
入幕 1960年1月場所
引退 1971年5月場所
趣味 野球麻雀(現役時代)[1][2]
備考
金星1個(朝潮1個)
2019年7月3日現在■テンプレート ■プロジェクト 相撲

大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年昭和15年)5月29日 - 2013年平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町出身(出生地は樺太敷香郡敷香町、現在のロシア極東連邦管区サハリン州ポロナイスク市)で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。第48代横綱。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録した。昭和時代の大横綱[3]位階正四位。本名は納谷 幸喜(なや こうき)、出生名はイヴァーン・マルキャノヴィチ・ボリシコ(Іван Маркіянович Боришко)で、ウクライナ人の父親を持つ。母親の再婚により住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていた時期もあった。

1940年昭和15年)、ウクライナ人の元コサック騎兵将校、マルキャン・ボリシコ[注釈 1]の三男として、日本の領有下にあった南樺太敷香町(ロシアの呼び名サハリン州ポロナイスク)に生まれた[4]。母親は日本人の納谷キヨ。マルキャンはロシア革命後に日本に亡命した、所謂白系ロシア人であった。なお、南樺太は日本領であったため、大鵬は外国出身横綱にならない。

太平洋戦争末期、日本への米軍による原爆投下後、ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した[注釈 2]。小笠原丸はその後、留萌沖でソ連潜水艦L-12の魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。その点、同じく焼け跡世代でありながらも戦火とは無縁の山形の自然で伸び伸びと育った柏戸とは対照的である[5]

北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。後年、巡業で振る舞われたちゃんこに感銘を受けていたことも入門の動機として明らかになっている[6]。相撲ライターの佐藤祥子の著書によると、入門は叔父の根回しによるもので納谷自身も薄々入門すると予期していたようである。北海道巡業へ納谷を置いて行ったことを叔父から聞いた母は戸惑ったという。また、北海道の田舎暮らしでラーメンすら食べた経験が無く、買い食いや外食を母から禁止されていた納谷にしてみれば、角界入りは美味しい物につられたようなものであった[7]

1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。同期には後の大関清國小結沢光前頭大心玉嵐らがいる。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「二所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた[8]序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では三段目で優勝、十両目前の西幕下2枚目まで番付を上げていた同年9月場所では3勝5敗で負け越したものの、取的時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。初土俵から幕下時代までは本名の納谷で土俵に上がっていた。三段目時代、飲みに出かけた時に(当時角界では20歳未満での飲酒が珍しくなかった)両国界隈のバーで「伊勢ノ海部屋の富樫(のちの柏戸)はいい力士だ、あれは絶対横綱になる」と耳にし、それから柏戸を越すことを目指して稽古に打ち込んだ[5]。厳しい稽古は当時10代の大鵬の体には大きな負担であり、三段目時代には既に腰椎を損傷していた。それでも大鵬は、公式発表された怪我でもない限り、稽古でも相手に気付かれないように工夫した[9]

1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという[注釈 3]。そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬と」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたもので、その点では二所ノ関の期待以上によく育ったと言える。

1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となる。12日目には小結柏戸剛が「止め男」として当てられ、早晩角界を背負って立つライバルとなるだろうと目されていた両者の対戦が早くも実現することになった。解説者の神風正一は「左四つになって大鵬」と予想し、玉ノ海梅吉も「結局大鵬が寄り勝ちそう」と予想。大方の予想が大鵬六分、柏戸四分である中、師匠の伊勢ノ海は「大体柏戸は小結、負けるはずがないじゃないか。ガブリ左四つになればともかく、その他の格好だったら絶対に負けない。そして柏戸は間違っても左は差させない」と柏戸の勝ちと予想。この一番で柏戸の出し投げに屈し、幕内での初黒星[10]。神風は「左差しにちょっとこだわり過ぎたようだ。土俵際も腰が随分高かった。柏戸は十分に腰を割っていたから投げには絶好の時だった。柏戸の勝因は右おっつけが鋭かったことだ」とこの1番を解説した[11]。その後14日目千秋楽と連敗したものの、12勝3敗の好成績を挙げた(敢闘賞)。13日目には関脇出羽錦と、千秋楽には関脇北葉山と対戦し、この場所では計3人の三役と対戦した。しかし三役3人と対戦させられたことに対して観客からの同情は無く、むしろ「小結、関脇では相手不足で、大関・横綱と組ませても五分に戦えるのではないか」とまで言われていた[10]

同年3月場所で東前頭4枚目まで番付を上げるが、序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。2日目の朝汐戦は横綱初挑戦となったが、朝汐が立ち遅れたのを待ったかと思い一瞬力を抜いたところをつけ込まれる形で寄り切られ、物言いがついたものの行司軍配通り。4日目には前場所優勝の栃錦にいいところなく押し出され、栃錦とはこれが唯一の取組になった(栃錦は翌場所引退)。栃錦はこの時「横綱、よく大鵬に勝てましたね」とある記者から質問されたくらいであり、当時の大鵬の評価の程が窺える[12]。後半の平幕戦で盛り返したものの13日目福田山戦できわどい相撲を落として負け越し、最終的に7勝8敗でこの場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外の場所で、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を記録している。なお、1965年5月場所は千秋楽に休場=不戦敗で9勝6敗だった)。またこの場所は柏鵬がともに幕内で皆勤して取組が組まれなかった唯一の場所でもある。

続く5月場所は前頭6枚目に下がって出直しとなったが、初日朝汐を破って横綱挑戦3戦目で初勝利、生涯唯一の金星を挙げるなど11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となる。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後史上最年少で大関へ昇進した[注釈 4]。入幕した年に大関昇進を果たした力士は2019年現在でも大鵬のみ(入幕から6場所での大関昇進も、年6場所制後最短である)で、同じく入幕した1960年に年間最多勝を獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てた。小結・関脇では36勝9敗という圧倒的な強さを誇り、合計3場所で通過となった。また、新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録[注釈 5]だった。この場所でTBSアナウンサーの小坂秀二が「柏鵬時代」という言葉を発したことをきっかけに、それが一気に定着するに至った[8]

新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で初優勝の柏戸に主役を譲って綱取りの面でも一歩を先んじられる形になった。しかし翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮(もと朝汐)を連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たした。なお朝潮とはこれで対戦成績を4勝4敗と五分にし、これが最後の取組となった。9月場所では14日目に柏戸に敗れ3敗目を喫したが、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦に臨み巴戦を制して2場所連続優勝。場所後協会横綱審議委員会に大鵬・柏戸両名の横綱昇進を諮問し、両名とも満場一致で横綱に推薦された[13]。大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものだった[注釈 6]。また横審が内規を定めてから、大関で2場所連続優勝を果たして横綱に昇進したのは大鵬が初めてである。昇進時の口上は「横綱の地位をけがさぬよう今後も精進します」であった[14]

新入幕で初めて敗れた柏戸と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。後に第69代横綱となった白鵬翔の四股名は、この両横綱に由来する。新横綱の場所である1961年(昭和36年)11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期と一致した[注釈 7]。NET(現在のテレビ朝日)は1964年5月限りで、日本テレビとTBSは1965年1月限りで大相撲中継から撤退しており、大相撲中継の勢いが落ちたのも大鵬の常勝による土俵のマンネリ化が原因であるとされている[15]。この連覇直後から神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判されたが、二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。大鵬自身は当時の時津風理事長が言った「『これは大鵬しかできるものがいなかった』という相撲の内容を示せばいい。後世に至ってもどの力士も真似のできないもの、それが大鵬の型である」という言葉で自分の相撲に確信を持てるようになったという[16]

その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた。1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。

場所 柏戸成績 大鵬成績 優勝力士 備考
1962年11月場所 12勝3敗 13勝2敗 大鵬 柏戸3敗、大鵬1敗で対戦して柏戸勝利。
1963年9月場所 15勝0敗 14勝1敗 柏戸 全勝同士相星決戦で柏戸勝利。
1964年3月場所 14勝1敗 15勝0敗 大鵬 2回目の全勝同士相星決戦で、大鵬勝利。
1966年5月場所 12勝3敗 14勝1敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬1敗で対戦して大鵬勝利。
1966年7月場所 12勝3敗 14勝1敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬1敗で対戦して大鵬勝利。
1966年9月場所 13勝2敗 13勝2敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬1敗で対戦して柏戸勝利。優勝決定戦では大鵬勝利。
1967年5月場所 13勝2敗 14勝1敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬全勝で対戦、柏戸勝利。

1964年(昭和39年)からは本態性高血圧によって幕内で初の途中休場となり、入院。退院早々二所ノ関からは龍沢寺で座禅を組むよう命じられた[17]。さらに1965年(昭和40年)には柏戸や北の富士勝昭と共にアメリカ合衆国から拳銃を密輸入していたことが発覚して書類送検され、罰金3万円(現在の15万円に相当)の略式起訴処分。警視庁の調べに対し、大鵬は「若羽黒の件がバレ、怖くなって隅田川に捨てた」と供述していた。しかし日本相撲協会からは譴責処分に留まった[18][19]。この直後の1965年5月場所は左足首関節内骨折で9勝6敗、千秋楽は休場して不戦敗となった。

再起をかけた1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇を達成するが、1967年(昭和42年)には左肘を負傷[注釈 8]し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続で全休した。復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した[注釈 9]。この連勝記録は、同場所2日目に戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため「**世紀の大誤審**」と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった。しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語った。この発言は、大鵬の高潔な相撲哲学を象徴する言葉として話題を呼び、横綱としての大鵬の評判を以前にも増して高めることになった[17]。一方、相撲記者の若林哲治によるとこの誤審に大鵬は激怒していたといい、当時の新聞にも「俺は残っていたと思った」との談話や、顔がこわばっていたとの記述がある[20]

大鵬は同場所5日目から肺炎で途中休場となり、さらに肺炎の影響で肺機能が低下したことですぐ息が切れるようになってしまい、激しい稽古が出来なくなったという。それでも1969年(昭和44年)5月場所[注釈 10]には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて1969年9月場所初日には日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。天龍源一郎の証言によると、優勝30回に近付いていたとある場所の終盤、花道奥で当時まだ幕下で大鵬の付け人を行っていた天龍が大鵬の背中を拭いて控えに向かって行ったあとの下をパッと見たら、大鵬の足の形が床に残っていたという。天龍は「あれだけの大横綱でも緊張するのか」と、見てはいけないものを見てしまった気がしたと、後に振り返っている[21]

現役晩年に至っても、北の富士と玉の海正洋の両横綱に対しては最後まで壁として君臨し続けた[注釈 11]1971年(昭和46年)1月場所には32回目の優勝を果たしたが、千秋楽の玉の海戦では寄り切って1敗で並び、優勝決定戦ではその玉の海と水入りの大相撲。最後は玉の海の下手投げを左上手投げに打ち返して寄り切った[22]。同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。貴ノ花との一番を詳細に説明すると、大鵬は左かち上げから左ハズ、右おっつけで攻め込んだが、貴ノ花が右おっつけから右上手を取って大鵬の左腰に食いつく絶好の体勢になり、掬い投げや突き押しで応戦するものの貴ノ花に体を預けられて尻から落ちて行った、という内容である[23]。その後大鵬自身、翌6日目の福の花孝一戦を「これで自身最後の相撲としたい」と申し出たが、日本相撲協会から「死に体で土俵に上がる事は出来ない」と却下。結局福の花戦は不戦敗[注釈 12]となり、貴ノ花との取組が現役最後の一番となった。なお、引退に関しては中々踏ん切りが付かなかったというが、当時2歳の長女に後押しされて決意が固まったという[24]。 引退を発表した翌朝、NHKの朝のニュース番組に出演し、「最も誇れる自身の記録は何か?」と聞かれて、「6場所連続優勝2回」と答えている。引退相撲は1971年(昭和46年)10月2日蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露された。しかし、それからわずか9日後の10月11日に玉の海が急死してしまい、大鵬も玉の海の訃報を聞いて相当な衝撃を受けたという[注釈 13]

柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所 - 1969年5月場所の58場所間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。

場所 対戦日 柏戸勝敗(通算成績) 大鵬勝敗(通算成績) 優勝力士 備考
1960年1月場所 12日目 ○(1) ●(0) 栃錦 初対戦
1960年3月場所 - - - 若乃花 対戦なし。
1960年5月場所 12日目 ●(1) ○(1) 若三杉
1960年7月場所 8日目 ○(2) ●(1) 若乃花
1960年9月場所 9日目 ○(3) ●(1) 若乃花 柏戸新大関
1960年11月場所 14日目 ●(3) ○(2) 大鵬(1)
1961年1月場所 11日目 ○(4) ●(2) 柏戸(1) 大鵬新大関
1961年3月場所 11日目 ○(5) ●(2) 朝潮
1961年5月場所 14日目 ○(6) ●(2) 佐田の山
1961年7月場所 14日目 ●(6) ○(3) 大鵬(2)
1961年9月場所 14日目 ○(7) ●(3) 大鵬(3)
1961年11月場所 14日目 ●(7) ○(4) 大鵬(4) 柏鵬両者新横綱
1962年1月場所 千秋楽 ●(7) ○(5) 大鵬(5)
1962年3月場所 千秋楽 ○(8) ●(5) 栃ノ海
1962年5月場所 千秋楽 ●(8) ○(6) 佐田の山
1962年7月場所 千秋楽 ●(8) ○(7) 大鵬(6)
1962年9月場所 千秋楽 ●(8) ○(8) 大鵬(7)
1962年11月場所 千秋楽 ○(9) ●(8) 大鵬(8)
1963年1月場所 - - - 大鵬(9) 柏戸休場により対戦なし。
1963年3月場所 - - - 大鵬(10) 柏戸休場により対戦なし。
1963年5月場所 - - - 大鵬(11) 柏戸休場により対戦なし。
1963年7月場所 - - - 富士錦 柏戸休場により対戦なし。
1963年9月場所 千秋楽 ○(10) ●(8) 柏戸(2) 千秋楽全勝同士相星決戦
1963年11月場所 千秋楽 ●(10) ○(9) 栃ノ海
1964年1月場所 千秋楽 ●(10) ○(10) 大鵬(12)
1964年3月場所 千秋楽 ●(10) ○(11) 大鵬(13) 千秋楽全勝同士相星決戦
1964年5月場所 - - - 栃ノ海 柏戸休場により対戦なし。
1964年7月場所 - - - 富士錦 柏戸休場により対戦なし。
1964年9月場所 - - - 大鵬(14) 柏戸休場により対戦なし。
1964年11月場所 - - - 大鵬(15) 柏戸休場により対戦なし。
1965年1月場所 - - - 佐田の山 柏戸休場により対戦なし。
1965年3月場所 - - - 大鵬(16) 柏戸休場により対戦なし。
1965年5月場所 13日目 ○(11) ●(11) 佐田の山
1965年7月場所 11日目 ○(12) ●(11) 大鵬(17)
1965年9月場所 12日目 ○(13) ●(11) 柏戸(3)
1965年11月場所 - - - 大鵬(18) 柏戸休場により対戦なし。
1966年1月場所 - - - 柏戸(4) 大鵬休場により対戦なし。
1966年3月場所 千秋楽 ●(13) ○(12) 大鵬(19)
1966年5月場所 千秋楽 ●(13) ○(13) 大鵬(20) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦
1966年7月場所 千秋楽 ●(13) ○(14) 大鵬(21) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦
1966年9月場所 千秋楽 ○(14) ●(14) 大鵬(22) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 優勝決定戦は大鵬勝利。
1966年11月場所 千秋楽 ●(14) ○(15) 大鵬(23)
1967年1月場所 千秋楽 ●(14) ○(16) 大鵬(24)
1967年3月場所 14日目 ○(15) ●(16) 北の富士
1967年5月場所 千秋楽 ○(16) ●(16) 大鵬(25)
1967年7月場所 - - - 柏戸(5) 大鵬休場により対戦なし。
1967年9月場所 14日目 ●(16) ○(17) 大鵬(26)
1967年11月場所 - - - 佐田の山 大鵬休場により対戦なし。
1968年1月場所 - - - 佐田の山 大鵬休場により対戦なし。
1968年3月場所 - - - 若浪 大鵬休場により対戦なし。
1968年5月場所 - - - 玉の海(当時玉乃島) 両者休場により対戦なし。
1968年7月場所 - - - 琴桜 大鵬休場により対戦なし。
1968年9月場所 千秋楽 ●(16) ○(18) 大鵬(27)
1968年11月場所 千秋楽 ●(16) ○(19) 大鵬(28)
1969年1月場所 千秋楽 ●(16) ○(20) 大鵬(29)
1969年3月場所 - - - 琴桜 大鵬休場により対戦なし。
1969年5月場所 千秋楽 ●(16) ○(21) 大鵬(30)

引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成した。定年後、部屋は娘婿の貴闘力忠茂(現役時代は二子山部屋所属)に譲ったが、部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋とした。しかし、貴闘力は賭博問題で2010年(平成22年)7月4日に解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになった。

大鵬が入幕する前は、角界の最大派閥は出羽海一門で、非主流派とみなされる二所ノ関所属の大鵬は、親方としての出世は遅いと見られていたが、1976年(昭和51年)に35歳の若さで役員待遇・審判部副部長に就任した。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞によって倒れ、左半身麻痺などその後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就任する見込みが無くなった[注釈 14]。引退後に年寄名を大鵬 翔己(たいほう しょうき)としていたが、この病気を患って以降は現役時代の「大鵬 幸喜」に戻している。病気自体は不屈の精神で妻・芳子の献身もあってリハビリ[注釈 15]を重ねながら回復して歩ける程度には回復し[25]1980年(昭和55年)には理事に就任した。地方場所(名古屋場所担当)部長、さらには相撲教習所所長などを歴任し、8期務めた後の1996年(平成8年)に役員待遇へ退いた[注釈 16]。「巨人、大鵬、卵焼き」と称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情が湧いたと語っている。その回復が実を結び、2000年(平成12年)には自身同様「昭和の大横綱」と評される北の湖敏満(太刀持ち)と九重貢(元・千代の富士、露払い)の2人を従えて、還暦土俵入りを披露した。ただし、前述の脳梗塞の後遺症から四股が踏めないため、土俵入りそのものは行えず、赤い綱を締めて土俵上で雲龍型のせり上がりの構えを取ることと、土俵中央に立って柏手を打つ(これも1回ではうまくいかなかった)という、一部の所作を披露したのみであった。

2001年(平成13年)、サハリン州で自身の父親であるマルキャン・ボリシコ[注釈 1]の生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設された。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。その交流はロシア連邦にも及び、2002年(平成14年)には北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを「露鵬幸生」として自分の部屋に入門させた(弟のバトラズは「白露山佑太」として二十山部屋に入門させ、後に北の湖部屋へ転籍)。大鵬はソスランの四股名に自分の「鵬」、名前にも本名の「幸」の字を入れ、期待に応えた露鵬は、2006年(平成18年)3月場所で小結まで昇進したが、2008年(平成20年)にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことで弟と共に日本相撲協会を解雇された。

横綱審議委員会での大鵬(2011年12月23日撮影)

2005年(平成17年)に65歳となって定年退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任した。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが脳梗塞で退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。

2008年(平成20年)11月16日付で、協会の理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認された[26]。同年12月26日、協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語った[27]

2009年(平成21年)10月27日、相撲界から初となる2009年(平成21年度)文化功労者に選出された。これを受けた大鵬は記者会見で「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語った[28]。その中でその気持ちは二所ノ関一門の分裂、劣勢状態の責任を感じており、文化功労者選出後には8代二所ノ関や6代二所ノ関の墓前で頭を下げている[25]

2013年(平成25年)1月19日心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院において死去[29][30][31]。72歳没(享年73歳)。入院中には、2012年に頸髄損傷で同じ病院に入院中だった尾車(元大関・琴風)を見舞い、尾車によれば「おーい、何やってんだ。お前、早く弟子のところに帰ってやらんか。俺も昔、この病院でリハビリやったんだ」と励ました[32]

大鵬の訃報を受けて、日本相撲協会は大鵬の還暦土俵入りにも参加した北の湖敏満理事長と九重貢事業部長などが哀悼の意を表す談話を発表した他、同世代の日本スポーツ界のヒーローであった長嶋茂雄ファイティング原田、そして大鵬とは大の親友関係だった王貞治が「同じ時代に世の中に出て、光栄だった」と故人との思い出を語る談話をそれぞれ発表している[33][34]。通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれ、王貞治、黒柳徹子白鵬翔らが弔辞を読んだ。

大鵬が死去するわずか16日前の1月3日には、故郷の弟子屈町で暮らす実兄が急性心筋梗塞のため79歳で死去。弟である大鵬は、体調不良のため葬儀に参列できなかったことも後に明らかになっている[35]。また、大鵬は70歳に入ってから酸素ボンベを頻繁に使用するようになったという。

没後、1月19日付にて正四位並びに旭日重光章が追贈された[36]。また、2月15日付で国民栄誉賞が授与され[37]、25日、未亡人と白鵬らが出席して授与式が行われた。3月24日、3月場所千秋楽の優勝力士インタビューにおいて、白鵬の呼びかけで観客全員で1分間の黙祷が行われた[38][39]

2014年8月15日、故郷サハリンに大鵬の銅像が建立された[40]。大鵬の母および妻が秋田県出身であった縁から(妻の生家は和菓子店であり、現在は妻の弟が社長を務めている)、制作には大潟村在住の彫刻家があたり、同県の関係者を中心に募金活動が行われた[41]

墓所妙久寺東京都江東区、納谷家の菩提寺)。戒名は『大道院殿忍受錬成日鵬大居士』。

父親がウクライナ人[注釈 1]で母親が日本人。納谷は母方の姓で、幸喜の名は皇紀2600年に因んで名付けられた。イヴァーンというウクライナ語名も存在していたという。

ライバルとされた柏戸剛と「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる相撲黄金時代を築いた。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録したことから**昭和の大横綱**と称され、戦後最強の横綱と呼ばれることも多い[42]

現役時代は大変な美男子と評判であった。当時の子供たちの好きな物を並べた「**巨人・大鵬・卵焼き**」という流行語は、当時の大鵬の人気と知名度を象徴する有名な言葉であるが、大鵬本人は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある[43]。その理由は、大鵬自身がアンチ巨人(巨人が嫌い)だったことと、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にされたくない気持ちがあったこと、そして何よりも、「大鵬の相撲には型がない」と批判されていた時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から揶揄されたことがあったためであるという。ただし、後年に出版した自伝には『巨人 大鵬 卵焼き ― 私の履歴書』という題名を付けた。また、巨人の選手の中でも、自身と同じ1940年(昭和15年)5月生まれであり、なにより自分と同じ努力家として知られた王貞治とは大変親しく、若い頃にはよく一緒に酒を飲んでいたという[注釈 17]。この「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉は、1960年代前半の高度経済成長期に、通産官僚であった堺屋太一が、当時若手官僚の間で時代の象徴として冗談で言い合っていたこのフレーズを、記者会見の中で「日本の高度成長が国民に支持されるのは、子供が巨人、大鵬、卵焼きを好きなのと一緒だ」と答えて紹介したことがきっかけで広まったとされている[44][45]

若い頃はもろ差し[注釈 18]を使用して柏戸など突進力のある相手に対する守りを固める相撲を得意としていた。入幕したばかりの頃は立合いの当たりや突っ張りがそれほど強くも鋭くもなかったものの、これらは差し身によく繋がった。自分より差し身の良い相手には突っ張ってから差し、自分より差し身の劣る相手にはいきなり差しに行く相撲を取った[46]

非常に手堅く、胸を合わせずに前屈みになって腰を引く「逆・くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込み、投げで崩すか寄り切る。差すと必ず差し手を返し、一度掬って相手の出足を止め、その後は腰を落として寄っていくが、左四つの場合は出ておいての右上手投げで決めた[46]。体勢、とりわけ懐の深さに加え、真綿やスポンジに例えられるほど身体が柔らかく、どんな当たりをも受け止めても崩れない相撲を可能にした[注釈 19]立合いも上手く、最晩年の1971年(昭和46年)3月場所では初挑戦の大雪嶺登が奇襲として一度目の仕切りで立った際も難なく捕まえて勝利している。

大兵にもかかわらず、前捌きや回りこみが巧みで冷静・緻密な相撲を取った。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げの上手さが際立っており、伝家の宝刀と称された。前傾姿勢で腰を引く構えによって相手に廻しを取りにくくさせたが、自分も廻しが遠くなるため、掬い投げを多用した。1970年(昭和45年)5月場所の千秋楽では北の富士の上手投げを掬い投げで打ち返して全勝を阻止したが、北の富士は「柔らかさ負けしたよ」と嘆いた。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さ故によく決まった。結果的に決まり手が「叩き込み」となったものの、相手が突っ張りの威力に耐えられず足に来てそのまま倒れたもののような相撲も多かった。だが、左膝を痛めた1968年(昭和43年)以後は叩き込みなどの引き技に頼る相撲が目立つようになって批判を浴びている。

一方で大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことができなかった。この腰の脆さが弱点で、普段は「逆くの字」の体勢、身体の柔らかさ、懐の深さで弱点を補っていたが、胸を合わせてがっぷり四つになるとなかなか勝負に出られず、立合いから上体を起されて押されると一方的に攻められることもしばしばあった。そのような弱点を露呈させることが多かったのは、対戦経験の少ない平幕や押し相撲が相手のとき、彼らとの取り組みが多い序盤戦で、「序盤・平幕・押し相撲」が大鵬の鬼門と言われた。押し相撲に苦戦していたことは引退後に自身も認めており、「『押されてはいけない』という先入観にとらわれ、差し身にこだわりすぎて、狙っていくところをいなされ、アワを食っているうちに、押し出されるというケースが多かった」と語っている。「引っ張り込んで動きを止めてから料理する」という大鵬なりの押し相撲対策が確立したのは「横綱になって2年目あたり」だったという[47]

基本的には左四つに組みとめての寄りと投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。良く言えばオールラウンダーで、悪く言えば絶対的な型がなかった。この点は右四つの完成された型を持った双葉山定次とは対照的で、大鵬以前はこういった相撲は小兵のやることで横綱・大関には相応しくないとみられていた。また「逆・くの字」の体勢を「へっぴり腰」と揶揄されることもあり、腰の力で相手の攻めを受け止めて取る相撲を本格的とする立場の評論家(小坂秀二など)から「小さな相撲」と批判されたこともある。ただ、相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高く、二所ノ関は「型のないのが大鵬の型」「名人に型なし」と批判に反駁した。大鵬が勝ち続けて昭和の大横綱へと成長すると、「型のない」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。一方で、玉ノ海梅吉は大鵬がどれほど結果を残しても批判を止めなかった。玉ノ海は概して柏戸などのような速攻相撲の力士を好み、攻めの遅い大鵬は玉ノ海の趣向に反したようである。攻めが遅いことは自覚していたようで、口に水を含みながら相撲を取ることで短い相撲を取らざるを得なくなるように稽古場で工夫した[9]

その強さと出世の早さ故か、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った。大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだった。全盛期は1時間ものぶつかり稽古をこなすほどの持久力であり、稽古をさせるほど強くなると見込んでいた二所ノ関は大鵬に雑用やちゃんこ番をやらせなかった[48]。本人は弟弟子の大麒麟將能の方が天才と呼ぶにふさわしいと発言している。大鵬の取り口を批判している玉ノ海にしても土俵に上がった大鵬を見て「これはね、大鵬の体は稽古をして大きくなった体ですからな」と褒め「ただ大飯を食らったんじゃない」と表現するなど稽古で素養を開花したことについては評価している[8]。1966年頃の取材ではバーベルやエキスパンダーなどを使用した科学的トレーニングを取り入れていることが明らかになり、相撲の稽古だけにこだわらない一面もあった[1][2]

川湯相撲記念(現:大鵬相撲記念館)にある大鵬幸喜像

幕内最高優勝32回は、白鵬に次ぐ歴代2位の記録だが、引退当時は最多優勝記録であった。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われた(現在は白鵬の16年連続に次ぐ歴代2位だが白鵬も「入幕年の優勝」は達成していない)。

大鵬の最多連勝記録は、45連勝である。(1968年9月場所2日目-1969年3月場所初日。1926年の東西相撲合併以降、歴代4位)
下記に、大鵬のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。

回数 連勝数 期間 止めた力士 備考 止めた力士が決めた決まり手 連勝が止まった場所の連勝を止めた力士の番付
1 25 1962年7月場所3日目 - 1962年9月場所12日目 北葉山 うっちゃり 西大関2枚目張出
2 30 1963年3月場所5日目 - 1963年7月場所4日目 青ノ里 1963年5月場所全勝優勝 寄り切り 東前頭3枚目
3 34 1963年11月場所千秋楽 - 1964年5月場所3日目 前田川 1964年1月場所-3月場所2場所連続全勝優勝 引き落とし 西前頭2枚目
4 20 1964年9月場所5日目 - 1964年11月場所9日目 明武谷 突き出し 東関脇
5 26 1966年5月場所2日目 - 1966年7月場所12日目 豊山 下手投げ 東大関
6 34 1966年11月場所初日 - 1967年3月場所4日目 浅瀬川 1966年11月場所-1967年1月場所2場所連続全勝優勝 寄り切り 東前頭3枚目
7 25 1967年9月場所初日 - 1967年11月場所10日目 海乃山 1967年9月場所全勝優勝 けたぐり 西関脇
8 45 1968年9月場所2日目 - 1969年3月場所初日 戸田 1968年11月場所-1969年1月場所2場所連続全勝優勝 押し出し 東前頭筆頭
9 20 1970年11月場所6日目 - 1971年1月場所10日目 琴櫻 押し出し 東大関2枚目張出

(1960年11月場所
1961年 7月場所、9月場所、11月場所
1962年 1月場所、7月場所、9月場所、11月場所
1963年 1月場所、3月場所、5月場所
1964年 1月場所、3月場所、9月場所、11月場所
1965年 3月場所、7月場所、11月場所
1966年 3月場所、5月場所、7月場所、9月場所、11月場所
1967年 1月場所、5月場所、9月場所
1968年 9月場所、11月場所
1969年 1月場所、5月場所
1970年 3月場所
1971年 1月場所)

全勝:8回(引退当時歴代1位タイ、現在歴代2位タイ)

連覇:6連覇(1962年7月場所-1963年5月場所、1966年3月場所-1967年1月場所 2度達成)

同点:2回

大鵬幸喜

一月場所初場所(東京 三月場所春場所(大阪 五月場所夏場所(東京) 七月場所名古屋場所(愛知 九月場所秋場所(東京) 十一月場所九州場所(福岡
1956年(昭和31年) x x x x (前相撲) x
1957年(昭和32年) 西序ノ口23枚目7–1 東序二段83枚目6–2 西序二段29枚目7–1 x 西三段目71枚目7–1 東三段目37枚目6–2
1958年(昭和33年) 西三段目20枚目6–2 東三段目筆頭優勝8–0 西幕下31枚目7–1 東幕下9枚目7–1 西幕下2枚目3–5 東幕下7枚目6–2
1959年(昭和34年) 東幕下4枚目6–2 東幕下筆頭6–2 西十両20枚目9–6 東十両16枚目9–6 東十両10枚目13–2 東十両3枚目優勝13–2
1960年(昭和35年) 西前頭13枚目12–3敢 東前頭4枚目7–8 東前頭6枚目11–4敢★ 西小結11–4 西関脇12–3技 東関脇13–2
1961年(昭和36年) 東張出大関10–5 西張出大関12–3 西大関11–4 東大関13–2 東大関12–3[注釈 26] 西横綱13–2
1962年(昭和37年) 東横綱13–2 東横綱13–2[注釈 27] 東横綱11–4 東横綱14–1 東横綱13–2[注釈 27] 東横綱13–2
1963年(昭和38年) 東横綱14–1 東横綱14–1 東横綱15–0 東横綱12–3 東横綱14–1 西横綱12–3
1964年(昭和39年) 東横綱15–0 東横綱15–0 東横綱10–5 東張出横綱1–4–10[注釈 28] 西横綱14–1 東横綱14–1
1965年(昭和40年) 東横綱11–4 東横綱14–1 東横綱9–6[注釈 29] 西横綱13–2 東横綱11–4 東張出横綱13–2
1966年(昭和41年) 東横綱休場0–0–15 東張出横綱13–2 東横綱14–1 東横綱14–1 東横綱13–2[注釈 30] 東横綱15–0
1967年(昭和42年) 東横綱15–0 東横綱13–2 東横綱14–1 東横綱2–1–12[注釈 31] 東張出横綱15–0 東横綱11–2–2[注釈 32]
1968年(昭和43年) 東横綱1–3–11[注釈 33] 東張出横綱休場0–0–15 西横綱休場0–0–15 西横綱休場0–0–15 西横綱14–1 東横綱15–0
1969年(昭和44年) 東横綱15–0 東横綱3–2–10[注釈 34] 西横綱13–2 東横綱11–4 東横綱11–4 東横綱6–4–5[注釈 35]
1970年(昭和45年) 東横綱休場0–0–15 東張出横綱14–1 東横綱12–3 西横綱2–2–11[注釈 36] 東張出横綱12–3 西横綱14–1[注釈 37]
1971年(昭和46年) 西横綱14–1[注釈 37] 西横綱12–3 西横綱引退3–3–0 x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
青ノ里 14 2 朝潮(米川) 4 4 浅瀬川 7 1 朝登 2 0
天津風 4 0 泉洋 1 0 一乃矢 1 0 岩風 17 2
宇多川 3 0 追手山 1 0 大晃 7 1 小城ノ花 19 1
海乃山 21 4 開隆山 16 4 柏戸 21** 16 和晃 1 0
金乃花 7 1 北の洋 7 1 北の富士 26 5 北葉山 24 11
君錦 1 0 清國 29 4(1) 黒姫山 2 1 高鉄山 7 1
琴櫻 22 4 佐田の山 27(1)* 5(1)* 沢光 1 0 潮錦 4 0
信夫山 2 0 大豪 9 0 大受 3 1 大雪 1 0
大雄 5 0 大竜川 2 0 貴ノ花 3 2 高見山 11 0
玉の海 21* 7(1)* 常錦 2 0 鶴ヶ嶺 19 1 出羽錦 17(1) 3
時津山 3 0 時葉山 3 0 栃東 6 2(1) 栃王山 5 0
栃錦 0 1 栃ノ海 17 6 栃光 24 6 栃富士 0 1
豊國 10 3 鳴門海 1 0 成山 2 1 錦洋 0 1
羽黒岩 6 1 羽黒川 14 1 羽黒山 21 0 長谷川 21 2
花光 1 0 廣川 7 0 福田山 0 2 福の花 10 1(1)
房錦 6 5 富士錦 27 3 藤ノ川 16 1 二子岳 7 1
前田川 8 3 前の山 13 3 三重ノ海 3 1 禊鳳 1 0
三根山 1(1) 0 明武谷 20* 5 陸奥嵐 10 3(2) 豊山 28 4
義ノ花 4 1(1) 龍虎 9 1 若杉山 1 0 若秩父 4 0
若天龍 2 0 若浪 8 1(1) 若羽黒 13 2 若二瀬 8 0
若前田 4 0 若見山 11 0

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。

  1. ^ a b c 大鵬自身は現役引退直後に刊行された「大鵬自伝」(ベースボールマガジン社版)で父親について「幼い時に亡くなった」、「朧ろにかすんだ霧の中にかくれていて、その輪郭はつかみようもない」、「牧場を経営していた」、「正直に言って父と呼ぶべき人を知らないのです」(いずれもP40)と述べており、1981年に再版されたほるぶ新書版でも、同じ記述になっている。

  2. ^ 北海道へ引き上げる際に稚内で途中下船したのは、大鵬が記した「私の履歴書」によると母親の事情ではなく、当時子供だった大鵬が「降りたい、降りたい」と愚図ったために仕方なく下船し、鉄道で目的地に向かったと述べている。大鵬自身も「小樽まで乗船していたら今の自分はなかった」と語っている。

  3. ^ 大鵬は引退後、「おおづつ」と読ませる巨砲丈士を育てることになる。

  4. ^ 2019年現在の最年少記録は関脇・大関・初優勝とも貴乃花光司が保持。

  5. ^ 後に佐田の山晋松が3場所目で12勝3敗の成績で初優勝を記録し、2019年現在も単独で保持しているが、対戦内容から問題になった。

  6. ^ 2019年現在の記録は北の湖敏満の21歳2ヶ月。

  7. ^ 「大相撲」(読売新聞社刊)1968年7月号では「幕内全力士が考える大相撲再建案」が特集され、力士たちが「相撲人気が落ち目になっていると思うが、力士としてどのようにしたらいいと考えているか」という質問に答えている。

  8. ^ もともと左肘は1965年(昭和40年)11月場所5日目の栃王山裕規戦で痛めていたが、この年に2度にわたって左肘を負傷したことが致命傷となり、本人は「肘が『く』の字に曲がったまま、伸ばすことも折り曲げることもできなくなり、相撲に工夫が必要になった」と語っている。(「大鵬自伝」P194-198)

  9. ^ 取り直し制度導入後では2位(当時)。この後に千代の富士貢が53連勝、白鵬翔が63連勝を記録して2012年(平成24年)11月現在では歴代4位。

  10. ^ しかしこの場所は大鵬以外の横綱・大関陣が全員8勝あるいは9勝に留まっており、場所後の『読売大相撲』には「史上最低の落第場所」「なんとかしてください」という総評が寄せられる始末であった。

  11. ^ 北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬の4勝2敗で勝ち越している。

  12. ^ 福の花は柏戸の現役引退当日(1969年7月場所4日目)の対戦相手にもなっている。

  13. ^ 当時、玉の海は虫垂炎にかかっていたが、責任感の強い玉の海は大鵬の引退相撲の式が終了するまで入院を拒んでいたため症状が悪化し、手遅れの状態になってしまったと言われる。そのため、結果として大鵬の引退相撲が玉の海の生命を縮める一因になってしまったとも言える。

  14. ^ これによって車椅子移動が基本となったために勝負審判が務められず、挨拶で土俵に上がるのにも支障が生じる。大鵬の同世代では佐田の山と豊山勝男が理事長を務めている。

  15. ^ リハビリは廊下を這うことから始め、それを見た者達から好奇や憐みの視線を向けられたという。:大鵬さん 引退後は不遇 脳梗塞、大麻事件、娘婿解雇 幕内優勝力士出せず Sponichi Annex 2013年1月20日 06:00

  16. ^ この退任により同じ二所ノ関一門の枠で理事職を引き継いだのは、自身の現役最後の対戦相手でもあり、当時部屋の全盛を誇っていた11代二子山だった。

  17. ^ 大鵬がアンチ巨人だったにもかかわらず王と親しかったのは、誕生日が近いだけでなく、王が巨人の選手の中でも並外れた努力家で大鵬と共通するスポーツ精神の持ち主であったこと、また父親が外国人という共通点があった(王の父は中国人であった)ことも理由として挙げられる。ちなみに、王も大鵬と同じく若い頃はかなりの酒豪であった。

  18. ^ 両腕を交差して相手の片腕を挟むように差すといった比較的珍しい方のもろ差し。

  19. ^ 全盛期の琴櫻傑將が放ったぶちかましを稽古場で受けられるのは大鵬ただ一人だったと言われており、他の力士は琴櫻のぶちかましを恐れて胸を出すのを皆避けたという。これは大鵬の特異体質を表わす逸話である。

  20. ^ 大鵬よりも以前、栃錦清隆が横綱昇進を決めた日に師匠の栃木山守也から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された話があり、大鵬もこの話を聞いて深く感じ入る所があったと言える。また、栃錦のライバルであった若乃花幹士も、大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱が負け越せば引退以外に道はないため、横綱昇進が決まった時には推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという。

  21. ^ 大鵬の土俵入りの指導は二子山(初代若乃花、大鵬の昇進当時は現役)が行った。

  22. ^ 同様のエピソードに、ラジオドラマ「君の名は」がある。

  23. ^ その世代の有名人の名を子供につけるという例は多く、全国高等学校野球選手権大会で人気を博した荒木大輔ヤクルトスワローズ)に因んで名づけられた松坂大輔ボストン・レッドソックス)などの例がある。

  24. ^ 当時の琴櫻は新三役の小結で迎えた1月場所で受けた右足首骨折の影響が残り、幕尻の東前頭15枚目で迎えた復帰場所の5月場所で負け越し、翌7月場所での十両陥落が確実になっていた。当時は「系統別総当たり制」のため、大鵬と琴櫻は本場所では対戦していなかった。

  25. ^ 安本はその後に柔道フランス代表チームのコーチを務めた。

  26. ^ 柏戸明武谷と優勝決定戦

  27. ^ a b 佐田の山と優勝決定戦

  28. ^ 本態性高血圧により5日目から途中休場

  29. ^ 左足首関節内骨折により千秋楽不戦敗

  30. ^ 柏戸と優勝決定戦

  31. ^ 左肘関節挫傷・左上腕筋肘頭附着部離断により3日目から途中休場

  32. ^ 左肘関節剥離骨折により13日目から途中休場

  33. ^ インフルエンザ性気管支炎・本態性高血圧により4日目から途中休場

  34. ^ 急性気管支炎・扁桃腺炎により5日目から途中休場

  35. ^ 左膝側副靱帯損傷により10日目から途中休場

  36. ^ 右足首関節捻挫により4日目から途中休場

  37. ^ a b 玉の海と優勝決定戦

  38. ^ a b c d e f g h 『相撲』別冊菊花号 p32-35

  39. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p14-19

  40. ^ なお、「恐らく近代以降の(そして戦後に限れば間違いなく)最も偉大な力士」と評されている(ジャパンタイムズの記事Whether crisis or not, sumo's show must go on

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年間最多勝力士
1950年代 1957 栃錦清隆 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆
1960年代 1960 大鵬幸喜 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 柏戸剛 1967 大鵬幸喜 / 柏戸剛 1968 玉乃島正夫 1969 北の富士勝昭
1970年代 1970 北の富士勝昭 / 玉の海正洋 1971 北の富士勝昭 1972 輪島大士 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 北の湖敏満 1976 輪島大士 1977 北の湖敏満 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満
1980年代 1980 北の湖敏満 1981 北の湖敏満 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 北勝海信芳 1988 旭富士正也 1989 北勝海信芳
1990年代 1990 旭富士正也 1991 霧島一博 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋
2000年代 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔
2010年代 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 稀勢の里寛 2017 白鵬翔 2018 栃ノ心剛史 2019 朝乃山英樹
2020年代 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鐵力
第192代大関(在位:1961年1月-1961年9月)
161代 - 180代 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信
181代 - 200代 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將
201代 - 220代 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司
221代 - 240代 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平
241代 - 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝