寺島宗則 (original) (raw)

日本の旗 日本政治家寺島 宗則てらしま むねのり
寺島宗則(『太陽』第5巻第19号より)
生年月日 1832年6月21日
出生地 日本薩摩国出水郡出水郷脇本村
没年月日 (1893-06-06) 1893年6月6日(60歳没)
称号 伯爵
配偶者 寺島茂登子
子女 長女・長崎多恵子長男・寺島誠一郎次男・寺島豊次郎
親族 娘婿・長崎省吾(宮中顧問官)
日本の旗 第3代 元老院議長
在任期間 1881年10月21日 - 1882年7月13日
天皇 明治天皇
日本の旗 第4代 外務卿
在任期間 1873年10月28日 - 1879年9月10日
日本の旗 第4代 文部卿
在任期間 1879年9月10日 - 1880年2月28日
日本の旗 初代 枢密院副議長
在任期間 1888年5月10日 - 1891年9月10日
神奈川県の旗 神奈川県知事
在任期間 1868年11月5日 - 1869年5月28日
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寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日天保3年5月23日〉 - 1893年明治26年〉6月6日)は、日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴[1]、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。

来歴・人物

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天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本字槝之浦)の郷士長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ[2]

弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸蘭学塾慶應義塾の前身)に出講する[3][4][注 1]。安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政4年(1857年)から英語を独学しはじめ、安政5年(1858年)に横浜で貿易実務に関わったことをきっかけに、翌安政6年(1859年)から本格的に英語を学ぶ[2]文久元年(1861年)には、英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉箕作秋坪とともに抜擢された[2]

文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる。この時、欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り、英学派に転ずる[2]。翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる[1]慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団に参加し欧州を再訪[6]。渡欧中にはイギリス外務省との外交交渉などを行った[6]ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン構内に設置されている記念碑は、当時関わった一人として「寺島宗則」の名前を刻んでいる[7]

慶応年間薩藩留学生。(後列左から)田中静洲、町田申四郎、鮫島尚信、寺島宗則、吉田清成。(前列左から)町田清蔵、町田久成磯永彦助

明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。慶応3年(1867年)11月、全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出した[8]明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となる。

1880年頃撮影

明治6年(1873年)、参議外務卿となる。政府の財政難から関税自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、明治12年(1879年)に外務卿を辞職。その後、文部卿元老院議長、在アメリカ日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任した。

明治17年(1884年)には伯爵に叙され、翌年には東京学士会院会員となった。

明治26年(1893年)、62歳で死去。

憲法上の帝国議会の位置づけ

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明治22年(1889年)の枢密院での憲法制定の御前会議において、当時枢密顧問官であった寺島宗則は、議長・伊藤博文の提出した憲法草案には、帝国議会発議権を付与する項目がないことを問題としこれを付与すべきと主張した。そして議論の結果、ついに憲法上に帝国議会の発議権を明記させることに成功した[9]

栄典

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位階

勲章等

墓所・霊廟・銅像

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若き薩摩の群像

墓所は品川区海晏寺の非公開墓域にある。昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[14]』の一人として銅像が建てられている。

著作

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家族

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妻の寺島茂登子

脚注

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注釈

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  1. ^ この蘭学塾は、安政5年(1858年)以降、福澤諭吉が教授担当することになり、慶應義塾の源流となる。[5]

出典

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  1. ^ a b アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、p.107
  2. ^ a b c d 『薩摩と西欧文明: ザビエルそして洋学、留学生』第二章近代西洋文明と鹿児島(三)鹿児島の英学ザビエル渡来450周年記念シンポジウム委員会図書出版 南方新社, 2000
  3. ^ 中津藩士藩儒者岡見彦三
  4. ^ 平山洋「諭吉の流儀『福翁自伝』を読む」ISBN 4569709419 p.71参照
  5. ^慶應義塾百年史上巻』第一章「草創期の慶應義塾」
  6. ^ a b薩摩藩英国留学生の歴史”. 薩摩藩英国留学生記念館. 2020年5月24日閲覧。
  7. ^ 安倍首相、「長州ファイブ」記念碑を訪問 2019年2月3日閲覧。
  8. ^ 『忠義公史料』東京大学史料編纂所
  9. ^ 板垣退助 監修『自由党史(下)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、pp.378-379
  10. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  11. ^ 『官報』第1134号「叙任及辞令」1887年4月14日。
  12. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  13. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  14. ^若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。
  15. ^ 『現代華族譜要』p411
  16. ^ 寺島誠一郞 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  17. ^ 文献に描かれた「曾槃像」――「曾氏家系記碑」と「曾氏家牒」を中心に景徳、鹿児島大学、平成30年度

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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公職
先代(創設) **日本の旗 枢密院副議長**初代:1888年5月10日 - 1891年9月10日 次代副島種臣
先代大木喬任 **日本の旗 元老院議長**第3代:1881年10月21日 - 1882年7月13日 次代佐野常民
先代西郷従道 **日本の旗 文部卿**第4代:1879年9月10日 - 1880年2月28日 次代河野敏鎌
先代井上馨 日本の旗 法制局長官1879年 - 1880年 次代_(廃止)_
先代副島種臣外務事務総裁 **日本の旗 外務卿**第4代:1873年10月28日 - 1879年9月10日 次代井上馨
先代_(新設)_ **日本の旗 外務大輔**1869年 - 1872年 次代_(欠員→)_鮫島尚信
先代小松清廉大隈重信 日本の旗 外国官副知事1869年(途中まで小松清廉と共同) 次代_(廃止)_
日本の爵位
先代叙爵 伯爵寺島(宗則)家初代1884年 - 1893年 次代寺島誠一郎
日本の旗 在アメリカ合衆国日本全権公使 (1882年 - 1884年) アメリカ合衆国の旗
代理公使・弁理公使 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使) 上野景範 1872(弁理公使a
特命全権公使 吉田清成 1874–82 寺島宗則 1882–84 九鬼隆一 1884–88 陸奥宗光 1888–90 建野郷三 1891–94 栗野慎一郎 1894–96 星亨 1896–98 小村寿太郎 1898–1900 高平小五郎 1900–06
特命全権大使 青木周蔵 1906–08 高平小五郎 1908–09b 内田康哉 1909–11 珍田捨巳 1912–16 佐藤愛麿 1916–18 石井菊次郎 1918–19 幣原喜重郎 1919–22 埴原正直 1922–24 松平恆雄 1924–28 出淵勝次 1928–34 斎藤博 1934–39 堀内謙介 1938–40 野村吉三郎 1941d 来栖三郎c 1941d (閉 鎖 1941–52)
在外事務所長 武内龍次 1951–52
特命全権大使 武内龍次臨時代理大使 1952 新木栄吉 1952–53 井口貞夫 1954–56 谷正之 1956–57 朝海浩一郎 1957–63 武内龍次 1963–67 下田武三 1967–70 牛場信彦 1970–73 安川壮 1973–75 東郷文彦 1975–80 大河原良雄 1980–85 松永信雄 1985–89 村田良平 1989–92 栗山尚一 1992–95 斎藤邦彦 1995–99 柳井俊二 1999–2001 加藤良三 2001–08 藤崎一郎 2008–12 佐々江賢一郎 2012–18 杉山晋輔 2018–2021 冨田浩司 2021–2023 山田重夫 2023–現任
a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねるb 再任c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使)d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝カテゴリ カテゴリ
日本の旗 文部卿 (1879年 - 1880年)
再編前 文部大臣文部卿 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 科学技術庁長官 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝
再編後 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子
省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ
日本の旗 外務大臣 (外務卿:1873年 - 1879年)
外国事務総裁 江戸幕府 小笠原長行 山口直毅 明治政府 仁和寺宮嘉彰親王
外国事務総督 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉
外国事務局督 山階宮晃親王
外国官知事 伊達宗城 澤宣嘉
外務卿 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨
外務大臣 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅
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日本の旗 在イギリス日本全権公使 (1872年 - 1873年) イギリスの旗
全権公使 鮫島尚信1870-1872 少弁務使 寺島宗則1872 大弁務使 / 1872-1873 上野景範1874-1879 森有礼1879-1884 河瀬真孝1884-1893 青木周蔵1894-1898 加藤高明1898-1900 林董1900-1905 大使館に昇格
全権大使 林董1905-1906 小村壽太郎1906-1908 加藤高明1908-1913 井上勝之助1913-1916 珍田捨巳1916-1920 林権助1920-1925 松井慶四郎1925-1929 松平恆雄1929-1936 吉田茂1936-1939 重光葵1939-1941 大使交換中断1941 上村伸一1941-1942臨時代理大使 引揚1942
在外事務所長 朝海浩一郎1951-1952
全権大使 朝海浩一郎1952臨時代理大使 松本俊一1952-1955 西春彦1955-1958 大野勝巳1958-1964 島重信1964-1968 湯川盛夫1968-1972 森治樹1972-1975 加藤匡夫1977-1979 藤山楢一1979-1982 平原毅1982-1985 山崎敏夫1985-1988 千葉一夫1988-1990 北村汎1990-1994 藤井宏昭1994-1997 林貞行1997-2001 折田正樹2001-2004 野上義二2004-2008 海老原紳2008-2011 林景一2011-2016 鶴岡公二2016-2019 長嶺安政2019-2020 林肇2020-
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神奈川県の旗 神奈川県知事(1868年 - 1869年)
官選 裁判所総督・府知事 東久世通禧 県知事 寺島宗則 井関盛艮 陸奥宗光 県令 陸奥宗光 大江卓権令 中島信行 野村靖権令→県令 沖守固 県知事 沖守固 浅田徳則 内海忠勝 中野健明 浅田徳則 周布公平 大島久満次 石原健三 有吉忠一 井上孝哉 安河内麻吉 清野長太郎 堀切善次郎 池田宏 山県治郎 遠藤柳作 横山助成 石田馨 半井清 大村清一 飯沼一省 松村光磨 近藤壌太郎 藤原孝夫 内山岩太郎 渡辺広
公選 内山岩太郎 津田文吾 長洲一二 岡崎洋 松沢成文 黒岩祐治
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