小林正樹 (original) (raw)

曖昧さ回避 その他の同名の人物については「小林正樹 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
こばやし まさき小林 正樹
小林 正樹新潮社『芸術新潮』3月号(1953)より
生年月日 (1916-02-14) 1916年2月14日
没年月日 (1996-10-04) 1996年10月4日(80歳没)
出生地 日本の旗 日本北海道小樽区(現・小樽市
職業 映画監督
主な作品
人間の條件』(1959年 - 1961年)『切腹』(1962年)『怪談』(1965年)『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)
受賞カンヌ国際映画祭 審査員特別賞1963年切腹1965年怪談ヴェネツィア国際映画祭 サン・ジョルジョ賞1960年人間の條件』**国際映画批評家連盟賞1967年上意討ち 拝領妻始末パシネッティ賞**1960年『人間の條件』ベルリン国際映画祭 国際映画批評家連盟賞1985年東京裁判日本アカデミー賞 会長特別賞1996年その他の賞 紫綬褒章1984年
テンプレートを表示

小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は、日本の映画監督

人物・来歴

[編集]

北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優の田中絹代又従弟[1][2]に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する[3]。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。

同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する[3]。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。同年、『暁の合唱』(清水宏監督)、『風薫る庭』(大庭秀雄監督)に助監督として就いたのち、応召する。満州においてソ連国境線の警備にあたる。軍務の合間を縫ってシナリオ『防人』を執筆。1944年(昭和19年)に宮古島へ移動、飛行場建設作業に従事する。

1945年(昭和20年)、宮古島で終戦を迎えるが、労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に収容される。

1946年(昭和21年)に復員して松竹大船撮影所に戻り、1947年(昭和22年)助監督として木下恵介監督につく。

1948年(昭和23年)の『破戒』から『日本の悲劇』まで11作品でチーフを務め、木下門下の優等生と呼ばれた。1952年(昭和27年)、中編『息子の青春』を監督し、1953年(昭和28年)木下が脚本を手がけた『まごころ』で正式に監督に昇進。同年安部公房の脚本により、無実の罪で投獄されたBC級戦犯を描いた重厚な作品『壁あつき部屋』を監督するが、アメリカ合衆国への配慮から1956年(昭和31年)まで公開が見送られた。その後、プロ野球の内幕を暴露した『あなた買います』や、基地の町の退廃を描写した1957年(昭和32年)『黒い河』などが評価される。

1960年頃

1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)の3年間にかけて公開された『人間の條件』は、五味川純平原作の大長編反戦小説『人間の條件』の映画化で、長きに渡る撮影期間と莫大な製作費をつぎ込み、6部作、9時間31分の超大作となった。完成した作品は、戦時中の日本軍の暴虐と、それに反抗したインテリ兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描ききり、毎日芸術賞、毎日映画コンクール監督賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞した。

1962年(昭和37年)、滝口康彦の小説『異聞浪人記』を原作にした橋本忍の脚本を得、自身でも「自作の中で最も密度が高い」と豪語した初の時代劇『切腹』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。続いて小泉八雲の原作『怪談』をオムニバス方式で映画化した初のカラー作品『怪談』は3時間の大作で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、世界的にと絶賛された[4]。撮影は廃屋となっていた航空機の格納庫に大規模なセットを組んで行われ、ホリゾントに描かれた空の絵などに、美術を担当した戸田重昌の才気が光り、武満徹による音楽は、画や演技との掛け合いを行う音響のような効果を存分に発揮し、幻想的な世界を作り上げた[4]。しかし、大規模なセット、長期に亘る撮影、スタッフ・キャストほか800名にもおよぶ大編成のため、製作費が大幅に膨らみ、多くの名作を世に送ってきた独立プロダクション「文芸プロダクションにんじんくらぶ」は、多額の負債を抱えて倒産するという憂き目に合う[4]

1965年(昭和40年)松竹を退社して東京映画と契約し、1967年(昭和42年)三船プロ第1作となる『上意討ち 拝領妻始末』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞、キネマ旬報ベスト・ワンとなった。1968年(昭和43年)の『日本の青春』のあとフリーとなり、1969年(昭和44年)には黒澤明、木下恵介、市川崑とともに「四騎の会」を結成。同年には第19回ベルリン国際映画祭の審査員に招待される。1971年(昭和46年)にはカンヌ国際映画祭で25周年記念として世界10大監督の1人として功労賞を受賞。同年から俳優座映画放送製作『いのちぼうにふろう』を監督や井上靖の長編小説をテレビドラマ化と同時に映画も製作した1975年(昭和50年)の『化石』などといった話題作を発表。

1982年(昭和57年)には足掛け5年の歳月をかけて米国国防総省の保管フィルムや内外のニュース映像などをつなぎ合わせ、極東国際軍事裁判の長編記録映画『東京裁判』を完成させた。『東京裁判』は、立花隆などから肯定的な評価を得た一方、南京事件に関する映像に中国・国民政府が作成した信憑性の低い『中国之怒吼』のフィルムを挿入した事が批判を受けるなど、評価が分かれた(ただし作品中では『これは中国側のフィルムである』というクレジットを表記し、中立性に配慮を行っている)。この間、井上靖原作の『敦煌』の映画企画を長年温め、脚本も完成していたが、製作を決定した新生大映社長の徳間康快とのあいだで方針の食い違いを生じ、断念せざるをえなかった。1985年(昭和60年)円地文子原作の連合赤軍事件を題材にした『食卓のない家』を監督。これが最後の映画監督作品になる。

小林は、癌を患っていた又従姉である女優・田中絹代の晩年の面倒を看た。身寄りがない田中は借金をしており、邸宅が抵当に入っていた。そのため、小林は、田中の法的な相続権もなく賃貸借の証文もないまま、田中のために奔走し、小林自らが借金をして抵当権を解除、田中の入院費をも負担した[5]。田中の死後の1985年(昭和60年)に小林自身が病気で倒れた際には急遽、彼の働きで毎日映画コンクール田中絹代賞が創設され、日本映画界の発展に貢献した女優に授与されることとなった。晩年は大学時代の恩師会津八一の伝記映画の準備をしていたが、1996年(平成8年)10月4日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で80歳で死去。遺骨は、神奈川県鎌倉市円覚寺と、絹代の出生地であり墓がある山口県下関市の市営下関中央霊園に分骨されている。

2016年2月14日に生誕100年かつ没後20年となり、これを記念し松竹のサイト上に「映画監督小林正樹 生誕100年記念プロジェクト」として小林正樹監督遺託業務世話人会の芸游会および複数の関係各社による特設サイトが設置[6]、また全国で記念上映や企画展が開催された[7]

作品

[編集]

監督作品

[編集]

人間の條件 第1部 純愛篇/第2部 激怒篇』(1959年)のスタッフとキャスト

『人間の條件 第5部・第6部 完結篇』(1961年)

上意討ち 拝領妻始末』(1967年)

その他の映像作品

[編集]

栄典

[編集]

評伝

[編集]

展示

[編集]

東京の世田谷文学館で「小林正樹展」が開催された(2016年7月16日 - 9月15日)[10]

脚注

[編集]

出典

[編集]

  1. ^NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは”. NPO法人田中絹代メモリアル協会. 2013年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月2日閲覧。
  2. ^ 倉本 2002, p. 137.
  3. ^ a b 日本映画監督全集 キネマ旬報増刊12・24号 No698 174頁 キネマ旬報社 1976年12月24日発行
  4. ^ a b c 小林淳 2022, pp. 219–232, 「第六章 奇想天外映画に華美な光彩を加える音場 [1964、1965] 三『怪談』」
  5. ^ 倉本 2002, pp. 137–139.
  6. ^映画監督小林正樹 生誕100年記念プロジェクト”. 松竹. 2021年12月1日閲覧。
  7. ^小林正樹監督生誕100年記念特集上映”. 松竹. 2021年12月1日閲覧。
  8. ^ 「「秋の叙勲」 東京で559人が受章」『読売新聞』1990年11月3日朝刊
  9. ^ “小林正樹の全貌に迫る書籍発売、木下惠介による講演や仲代達矢の寄稿文も収録”. 映画ナタリー. (2016年12月21日). https://natalie.mu/eiga/news/214165 2016年12月22日閲覧。
  10. ^小林正樹の自筆資料など集めた展覧会が開催、仲代達矢によるトークショーも”. 映画ナタリー. 2019年7月2日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、**小林正樹**に関連するカテゴリがあります。

小林正樹監督作品
1950年代 息子の青春(1952) この広い空のどこかに(1954) あなた買います(1956) 黒い河(1957) 人間の條件 (1959)
1960年代 からみ合い(1962) 切腹(1962) 怪談(1965) 上意討ち 拝領妻始末(1967)
1970年代 どですかでん (1970、企画) いのちぼうにふろう(1971) 化石(1975) 燃える秋(1978)
1980年代以降 東京裁判(1983) 食卓のない家(1985) どら平太 (2000、脚本)
毎日芸術賞受賞者
第1回井上靖 八代目松本幸四郎 間宮芳生 第2回丹羽文雄 土門拳 第3回吉川英治 小林正樹 安川加壽子 第4回谷崎潤一郎 内村直也 八代目坂東三津五郎 第5回舟橋聖一 新藤兼人 第6回伊馬春部 三島由紀夫 第7回野口冨士男 市川崑 第8回三善晃 滝沢修 岡田謙三 第9回司馬遼太郎 第10回杉村春子 茂木草介 東山魁夷 岩田藤七 第11回秋元松代 平野謙 棟方志功 第12回東野英治郎 山田洋次 第13回大岡昇平 白川義員 第14回辻邦生 宇野重吉 第15回櫻間道雄 第16回荒正人 山田五十鈴 第17回仲代達矢 倉本聰 第18回遠山一行 森繁久彌 第19回寺田透 黒川紀章 第20回有吉佐和子 飯沢匡 林忠彦 第21回東敦子 篠山紀信 前進座 第22回五代目河原崎國太郎 篠田一士 若杉弘 越路吹雪 第23回森下洋子 藤原新也 第24回佐多稲子 八代目松本幸四郎 林康子 第25回水上勉 朝比奈隆 三代目市川猿之助 磯崎新 第26回吉村昭 佐々木昭一郎 山本安英 第27回竹西寛子 第28回北村和夫 安藤忠雄 NHK交響楽団 第29回芝木好子 深町幸男 第30回一柳慧 吉田簑助 渥美清 第31回今村昌平 木下順二 第32回武満徹 本多秋五 森光子 第33回高井有一 第34回三代目中村鴈治郎 佐々木昭一郎 山田太一 第35回遠藤周作 松村禎三 橋田壽賀子 第36回秋山和慶 幸田弘子 横尾忠則 第37回今井信子 江成常夫 ひょうご舞台芸術「GHETTO」 第38回古井由吉 小栗康平 黒柳徹子 馬場あき子 第39回金石範 入沢康夫 五代目坂東玉三郎 宮崎駿 第40回萩原葉子 森澄雄 十三代目片岡仁左衛門 第41回蜷川幸雄 岡井隆 河野多惠子 高倉健 第42回黒井千次 大島渚 吉永小百合 第43回加藤幸子 麻実れい 鷹羽狩行 第44回井上ひさし 小澤征爾 清岡卓行 第45回高橋たか子 七代目竹本住大夫 第46回中村稔 前登志夫 観世栄夫 沼尻竜典 第47回谷川俊太郎 三木卓 奈良岡朋子 西村朗 李禹煥 第48回内山玲子 篠弘 司修 二代目中村吉右衛門 篠原有司男 第49回岡本眸 野田秀樹 平岩弓枝 細江英公 森山良子 第50回吉増剛造 舟越桂 永井路子 七代目尾上菊五郎 石内都 第51回鳳蘭 隈研吾 関正人 辻原登 遠山慶子 金子兜太 第52回秋山陽 大峯あきら 村上龍 森村泰昌 吉田都 加山雄三 第53回石飛博光 菊畑茂久馬 津島佑子 豊竹咲大夫 坂茂 由紀さおり 第54回高野公彦 辰野登恵子 谷村新司 テレビマンユニオン 十代目坂東三津五郎 荒木経惟 第55回長田弘 平幹二朗 青木野枝 佐伯一麦 永六輔 第56回飯守泰次郎 鍵和田秞子 隠崎隆一 船本芳雲 柳家小三治 松浦寿輝 第57回伊藤一彦 桐竹勘十郎 庄司紗矢香 菅木志雄 宮城谷昌光 是枝裕和 第58回石井ふく子 河口龍夫 黒沢清 筒井康隆 堤剛 坂本冬美 第59回有馬朗人 遠藤利克 髙村薫 仲川恭司 山路和弘 熊川哲也 第60回金森穣 栗木京子 内藤礼 永井愛 宮本輝 大林宣彦 第61回宇多喜代子 逢坂剛 草笛光子 佐藤俊介 塩田千春 今野勉 第62回青木淳 西澤徹夫 鵜山仁 鴻池朋子 高樹のぶ子 水原紫苑半沢直樹」 第63回風間杜夫 皆川博子 下谷洋子 高橋睦郎 三島喜美代 吉野直子 第64回加藤登紀子 遠藤彰子 加藤健一 桐野夏生 永田和宏
毎日映画コンクール 監督賞
1940年代 今井正(1946) 黒澤明(1947) 木下惠介(1948) 小津安二郎(1949)
1950年代 吉村公三郎(1950) 成瀬巳喜男(1951) 渋谷実(1952) 今井正(1953) 木下惠介(1954) 成瀬巳喜男(1955) 今井正(1956) 今井正(1957) 木下惠介(1958) 山本薩夫(1959)
1960年代 市川崑(1960) 小林正樹(1961) 市川崑(1962) 今村昌平(1963、1967) 勅使河原宏(1964) 内田吐夢(1965) 山本薩夫(1966) 岡本喜八(1968) 山田洋次(1969)
1970年代 山本薩夫(1970) 篠田正浩山田洋次(1971) 斎藤耕一(1972) 山田洋次(1973、1977) 野村芳太郎(1974) 新藤兼人(1975) 山本薩夫(1976) 野村芳太郎(1978) 長谷川和彦(1979)
1980年代 黒澤明(1980、1985) 小栗康平(1981) 深作欣二(1982) 大島渚(1983) 伊丹十三(1984) 熊井啓(1986) 原一男(1987) 大林宣彦(1988) 舛田利雄(1989)
1990年代 市川準(1990) 山田洋次(1991) 東陽一(1992) 市川準(1993) 神代辰巳(1994) 新藤兼人(1995) 周防正行(1996) 今村昌平(1997) 平山秀幸(1998) 森田芳光(1999)
2000年代 阪本順治(2000) 宮崎駿(2001) 平山秀幸(2002) 崔洋一(2003) 黒木和雄(2004) 緒方明(2005) 根岸吉太郎(2006) 周防正行(2007) 若松孝二(2008) 園子温(2009)
2010年代 三池崇史(2010) 富田克也(2011) 吉田大八(2012) 石井裕也(2013) 呉美保(2014) 塚本晋也(2015) 西川美和(2016) 富田克也(2017) 上田慎一郎(2018) 石川慶(2019)
2020年代 河瀨直美(2020) 濱口竜介(2021) 三宅唱(2022) 石井裕也(2023)
括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月)
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画監督賞
1950年代 成瀬巳喜男(1955) 今井正(1956、1957、1959) 木下惠介(1958)
1960年代 市川崑(1960、1962) 羽仁進(1961) 今村昌平(1963、1968) 勅使河原宏(1964) 黒澤明(1965) 山本薩夫(1966) 小林正樹(1967) 篠田正浩(1969)
1970年代 山田洋次(1970、1977) 大島渚(1971) 熊井啓(1972) 斎藤耕一(1973) 熊井啓(1974) 新藤兼人(1975) 長谷川和彦(1976) 東陽一(1978) 今村昌平(1979)
1980年代 鈴木清順(1980) 小栗康平(1981) 深作欣二(1982) 森田芳光(1983、1985) 伊丹十三(1984) 熊井啓(1986) 伊丹十三(1987) 黒木和雄(1988) 今村昌平(1989)
1990年代 中原俊(1990) 山田洋次(1991) 周防正行(1992) 崔洋一(1993) 原一男(1994) 新藤兼人(1995) 小栗康平(1996) 望月六郎(1997) 平山秀幸(1998) 原田眞人(1999)
2000年代 阪本順治(2000) 行定勲(2001) 山田洋次(2002) 黒木和雄(2003) 崔洋一(2004) 井筒和幸(2005) 根岸吉太郎(2006) 周防正行(2007) 滝田洋二郎(2008) 木村大作(2009)
2010年代 李相日(2010) 園子温(2011) 周防正行(2012) 石井裕也(2013) 呉美保(2014) 橋口亮輔(2015) 片渕須直(2016) 大林宣彦(2017) 瀬々敬久(2018) 白石和彌(2019)
2020年代 大林宣彦(2020) 濱口竜介(2021) 高橋伴明(2022) ヴィム・ヴェンダース(2023)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般 FAST ISNI VIAF WorldCat
国立図書館 ノルウェー スペイン フランス BnF data カタルーニャ ドイツ イスラエル アメリカ スウェーデン 日本 チェコ オーストラリア 韓国 2 オランダ ポーランド
学術データベース CiNii Books CiNii Research
人物 Trove(オーストラリア) 1
その他 SNAC IdRef