山下大輔 (original) (raw)

山下 大輔

DeNA二軍監督時代(2012年3月22日、平塚球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県清水市(現・静岡市清水区
生年月日 (1952-03-05) 1952年3月5日(72歳)
身長体重 175 cm78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手
プロ入り 1973年 ドラフト1位
初出場 1974年4月7日
最終出場 1987年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
静岡県立清水東高等学校 慶應義塾大学 大洋ホエールズ 横浜大洋ホエールズ (1974 - 1988)
監督・コーチ歴
横浜ベイスターズ (1993 - 2000, 2003 - 2004) 東北楽天ゴールデンイーグルス (2005) ロサンゼルス・ドジャース(2009 - 2011) 横浜DeNAベイスターズ (2012 - 2013, 2015)
この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート

山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督コーチ解説者評論家。愛称は「大ちゃん」。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

清水東高校から1970年に一般入試で慶應義塾大学商学部へ進学。東京六大学野球リーグでは、1年次の同年秋季リーグから正遊撃手となり、高校の2年先輩である松下勝実とクリーンアップを組み活躍する。2年上の工藤真投手、清水東高でも2年上の松下勝実、1年上の萩野友康長谷部優両左腕投手らを擁し、2年次の1971年秋季リーグからの3連覇に3番打者として貢献。1、2年時には「鬼の榊原」と呼ばれた榊原敏一監督に「試合と同じ集中力で練習しろ」と鍛え上げられた[1]。3年次の1972年全日本大学野球選手権大会準決勝で4年藤田康夫と1年田村政雄両投手の中大を完封で下し決勝に進むが、関大山口高志に完封され準優勝にとどまる。同年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、1972年の大会では2本塁打を放つ。4年次の1973年には主将を務めた。「慶應のプリンス」と呼ばれ、同年春季リーグでは首位打者を獲得。当時高校生だった中尾孝義は、この頃山下から指導を受けたことがあると、YouTubeチャンネルでのインタビューで語っており、山下と慶大野球部への憧れから浪人して慶大進学を目指した(結果的には慶大合格は果たせず専修大学に進学した。)。大学同期に捕手木原弘人がいた。リーグ通算88試合に出場し、314打数102安打、11本塁打、50打点、打率.325、首位打者1回、ベストナイン4回。

現役時代

[編集]

1973年のドラフト会議を前に山下は「巨人が第一志望。在京球団でも構わない」と態度を表明していたが、その言葉通り、1番クジで1位指名した大洋ホエールズに入団。当初の背番号は20中部謙吉オーナーは山下の入団を大変喜び、秋山登ヘッドコーチの提案もあってユニフォームの色を出身地の静岡の名産にちなんだオレンジ(みかん)と緑(お茶)に変えた。これは親会社が食品会社なので食品にちなんだユニフォームにしてイメージアップを図る意味もあったが、この配色は湘南電車の色としても広く知られている。

1974年は慶大の卒業試験を終えた後の2月14日にキャンプ地の静岡入りし、翌15日にはチームは休日であったが、山下1人と首脳陣でランニング、フリー打撃、ノックなどの練習が行われた[1]。その夜に山下は風邪で発熱し、キャンプインしたのも束の間、清水の実家で数日間療養することになった。この時はスポーツ紙の担当記者が実家まで見舞いに来て、「焦ることはない」など優しい言葉をかけたが、翌16日の紙面には「虚弱児・山下」と大見出しが躍るなどプロの洗礼を受けた[1]。1年目の同年から守備力は評価され、オールスターゲームに控え選手であったにもかかわらずファン投票で選出されるほどの人気があったが、期待された打撃面が不安定で、米田慶三郎からレギュラーを奪うまでには至らなかった。

1975年には背番号を近藤昭仁が付けていた1に変更し、4月下旬には米田に代わりレギュラーに定着した。

1976年には開幕から二番打者として起用され、初めて規定打席(23位、打率.276)にも到達。遊撃手の守備率の当時のセ・リーグ記録を樹立し、ダイヤモンドグラブ賞を初受賞する。以後、ダイヤモンドグラブ賞は1983年まで8シーズン連続で受賞し、遊撃手としての受賞回数は2020年現在も最多記録である。当時の本拠地であった川崎球場は、狭く、汚く、巨人戦以外は客が入らず、評判が悪かった。ファウルボールが球場外周の駐車場に止めた選手の車を直撃することもあり、観客は秋頃には数十人でグラウンドから数えることができ、スタンドの最上段から隣の川崎競輪場を覗いている人もいた[1]。試合開始前に球場敷地内にあるラーメン店からおばちゃんが醤油ラーメンをロッカールームまで届けてくれたこともあり、ファンと共通の思い出の味になった[1]。若手時代には豪放磊落な先輩が多く、キャンプや遠征先では、大部屋で朝方まで麻雀が行われることもしばしばあった。煌々と明かりがつき、ジャラジャラと騒がしい中でも、布団を被って眠れるようになった[1]

1977年に遊撃手連続守備機会無失策のセ・リーグ記録を樹立する。

1978年には自身の記録を上回る日本記録を樹立[注 1]

1982年オフには関根潤三監督の指名で大洋版伊東キャンプに参加した[2]

1985年には新任の近藤貞雄監督により、高木豊と入れ替わりで二塁手へコンバートされる。

1986年には一塁手であった田代富雄の故障後、三塁で拙守が目立っていたカルロス・ポンセが一塁へ回ったことから、三塁手へコンバート。1986年9月1日のヤクルト戦(横浜)では阿井英二郎から自身初で唯一のサヨナラ本塁打を放っている[3]

1987年古葉竹識監督が就任して山下は遊撃手に復帰するが、開幕から3試合で先発を外れ、同じ内野手の高橋雅裕が遊撃手に台頭してレギュラーを陥落する。田代富雄が故障したシーズン後半は三塁手で出場機会を得たが、打率.186と厳しい成績に終わった。

1988年のキャンプ終了後のシーズン開始直前である4月6日に、体力の限界(特に動体視力の低下)を理由に突如、現役引退を表明した。前年オフに引退を球団に相談、慰留されて現役を続行も、開幕二軍を告げられたことが引き金であったという[4]

現役引退後

[編集]

引退後はTBS解説者(1989年 - 1992年)を務めたほか、文藝春秋Number」にコラムを連載。

1993年、監督に就任した近藤に招聘され[5]、横浜大洋から球団名が変更された横浜ベイスターズ一軍内野守備コーチに就任。

1996年に監督に就任した大矢明彦と内野手のコンバートを巡り意見の相違があり[5]1997年は二軍ヘッドコーチを務めた。

1998年には監督に就任した権藤博の指名で一軍ヘッドコーチに昇格し[注 2]、38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。権藤は「深夜に呼び出しても山下は必ず来てくれて、よく愚痴を聴いてくれた」と言っており[7]、著書の中で「彼は本当にチーム内のことを熟知していた。何でも知っているし、何を聞いても答えてくれる。とにかく引き出しがたくさんあるのだ。私が監督就任一年目で日本一になれたのも、彼の力に負うところがとても多かったように思う」と記している[8]

2000年駒田徳広が権藤に造反した際も駒田をフォローし、後日のインタビューで駒田に感謝されるなど人格者であったが、同年シーズン終了後に権藤と共に退任。その後はNHKメジャーリーグ中継」解説者・日刊スポーツ評論家(2001年 - 2002年)、2002年アジア競技大会野球日本代表打撃コーチを務めた。

2003年、生え抜きOBとして満を持して横浜監督へ就任する。シーズン前には友人のセルジオ越後の発案で、かつての「マシンガン打線」に代わる愛称としてチームの打線に「大ちゃんス打線」という名前が付けられる。コーチ陣はヘッドコーチに江藤省三[9]、投手コーチに小谷正勝、バッテリーコーチに中日を退団した福田功を自ら招聘し[10]、打撃コーチは二軍から高木由一を昇格させ、前任の森祇晶時代に就任した投手コーチの森繁和、内野守備・走塁コーチの辻発彦は留任した。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約で獲得し、タイロン・ウッズマット・ホワイトサイドエディ・ギャラード(7月29日から)、さらにFA若田部健一、トレードで中嶋聡デニー友利、ドラフトで村田修一土居龍太郎加藤武治吉村裕基を獲得するなど、球団からは手厚い支援を受けたが、新加入選手は故障や不調などでことごとく戦力にならず、石井琢朗をはじめ主力選手も不振に喘いだ。一方で森時代に不振に陥っていた鈴木尚典は打率.311と復活[11]、同じく森時代は1割台の不振に陥っていた金城龍彦も.302と復活し、多村仁古木克明、村田修一も揃って本塁打20本以上を打ったが[11]、投手陣と守備が早々に崩壊。チーム防御率4.80はリーグ最下位、失策114個はリーグ最低の守備率、三振数1110もリーグワーストであった[11]。チームは開幕早々に最下位に沈み優勝した阪神タイガースには、開幕戦勝利のあと16連敗を喫するなど[5]シーズン終了まで最下位を独走した。成績は45勝94敗で勝率.324と、ドラフト制度導入後の横浜球団史上最低勝率を記録した。投手コーチの森繁和と遠藤一彦は同年限りで退団。

2004年、ヘッド兼打撃コーチに松原誠[12]、内野守備走塁コーチに進藤達哉、外野守備走塁コーチ西岡良洋を招聘。2軍から田代富雄野村弘樹が昇格した。4月に単独首位に立つなど健闘したものの徐々に調子を落としていった。更にアテネオリンピック代表招集によりエース三浦大輔と正捕手の相川亮二が離脱すると、ベテランの中村武志や打撃は好調ながらも一軍経験が少ない鶴岡一成を捕手で起用せざるを得なくなり、更に投打が噛み合わなくなってしまう。前年大きく負け越した阪神に15勝13敗、巨人にも14勝14敗の五分と巻き返して[5]、シーズン最終戦まで広島東洋カープと5位を争ったが最終戦で最下位が決まった。チーム打率は前年度リーグ6位の.258から1位の.279まで押し上げたが、2年連続で投手陣が持ちこたえられなかった[12]。5年ぶりに大リーグから復帰した大魔神・佐々木主浩も不規則な登板感覚と直球や変化球の衰えからセーブ失敗が相次ぎ[12]、8月に故障により戦線を離脱したため急遽投手コーチの小谷が中継ぎの門倉健を抑えに抜擢し後半だけで10セーブを記録した[13]。昨年に続き二桁勝利投手はなしで失策は79まで減らしたがリーグワースト2位だった。春先に不調だった多村を我慢強く起用したところ6月以降に調子を上げていき、日本人打者では球団史上初の3割・40本・100打点を達成した[14]。シーズン終了後に任期満了で退任。

2005年には新球団東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した田尾安志の要請で[15]、楽天初代ヘッドコーチに就任。しかし就任早々の5月にはチームの成績不振のため、二軍監督に配置転換される。フェニックスリーグでは、楽天球団初の優勝を飾る。

2006年から楽天の球団編成本部長を務めた。

2007年末で同職を退任。

2008年にはTBSニュースバードtvk解説者、再び日刊スポーツ評論家を務めた。

2009年からはロサンゼルス・ドジャース傘下マイナーのA級グレートレイクス・ルーンズの守備コーチに就任。当時のチームにはディー・ゴードンらがいた。当時のゴードンは守備では華麗なプレーを好む、グラブのはめ方もいい加減と粗っぽさが目立ち、山下が「腰を落として捕ることも、足を使って送球することもできない」と回顧するほどの有り様であった。山下がコーチに在任していた2年間、早出練習では日本的な基礎に重点を置いた練習を課していたという[16][17]。又、ネイサン・イオバルディは、キャンプ(練習)後、PF P(pitcher fielding practice) を山下に志願したと言う。

2010年には日本経済新聞にマイナーリーグでの日常をレポートする「米国コーチ修行奮闘記」を月に1度程度のペースで連載し[18]、この中ではマイナーリーグの環境と比較すれば日本プロ野球の二軍はまだ恵まれていると指摘したほか、「薄給でも野球をやりたい」という情熱のある若者を日本のプロ野球界は汲み上げ切れていないのではないかと述べている[19]

2012年、日本球界では非常に珍しい、かつて一軍監督を務めた古巣・DeNA二軍監督に就任。同球団では秋山登に続いて2例目であった。

2013年限りで退任。

2014年からはゼネラルマネージャー補佐に就任したが[20]、同年シーズンオフより、再び二軍監督に就任。

2015年10月1日に2016年年度シーズンにおいて契約を結ばない旨通知された[21]

2016年よりNHK「メジャーリーグ中継」解説者に復帰し、同年の学生野球資格回復研修を受講した上で、2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[22]2018年12月1日にはホエールズ・ベイスターズOB会の副会長に就任[23]

2019年MLBオールスターゲームではホームランダービーの現地キャスターとして解説をしている最中、参加者のアレックス・ブレグマンの放ったホームランボールをマイクを持ちながら見事にキャッチした。同年10月31日、翌年度よりベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)に加入する神奈川フューチャードリームスのゼネラルマネージャーに就任することが発表された[24]

2020年11月26日に退任が発表された[25]。山下は退任発表に寄せたコメントの中で「アマチュア野球を見てみたいという気持ち」を理由に挙げている[25]

2023年10月27日、ファーム新球団のくふうハヤテベンチャーズ静岡のゼネラルマネージャーに就任したことが発表された[26]。現場職ではないものの、背番号「87」が設定されている[27]

選手としての特徴

[編集]

現役時代は球界屈指の守備の名手であり、1976年から8年連続でダイヤモンドグラブ賞(遊撃手部門)を受賞した。1976年7月11日から1977年4月5日まで遊撃手連続守備機会無失策「205」は当時のセ・リーグ記録であった[28]。山下より上の世代の遊撃手レジェンド吉田義男(元阪神)や広岡達朗(元巨人)も、山下の守備を高く評価している[29]

名手と讃えられた守備に比べ、打撃面は毎年2割台中盤に留まり、打点も少なかったため、中軸を担うことはなかったが、1981年と1983年に最多二塁打を記録しており、全盛期はチャンスメーカー的な中距離ヒッターとして起用されていた。

人物

[編集]

家庭

[編集]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二 塁 打 三 塁 打 本 塁 打 塁打 打点 盗塁 盗 塁 死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併 殺 打 打率 出 塁 率 長 打 率 O P S
1974 大洋 92 186 166 15 30 1 1 4 45 9 1 1 1 0 13 0 6 37 3 .181 .265 .271 .536
1975 103 257 222 28 55 12 2 3 80 10 6 4 7 2 21 2 5 37 4 .248 .324 .360 .684
1976 113 428 380 47 105 19 2 7 149 21 14 9 4 1 41 1 2 43 5 .276 .349 .392 .741
1977 105 488 423 77 110 17 3 18 187 48 6 7 12 2 49 2 2 68 6 .260 .338 .442 .780
1978 129 546 466 55 118 22 8 9 183 41 8 2 14 2 61 4 3 77 12 .253 .342 .393 .735
1979 129 530 458 59 129 24 3 12 195 53 6 4 11 6 53 4 2 63 7 .282 .355 .426 .780
1980 121 461 419 50 111 21 4 9 167 41 15 6 9 3 29 1 1 52 9 .265 .312 .399 .711
1981 130 554 490 68 136 31 1 16 217 52 6 11 9 2 51 1 2 38 10 .278 .336 .443 .779
1982 130 592 519 79 144 23 2 18 225 42 3 4 12 2 54 5 5 50 3 .277 .350 .434 .784
1983 130 575 495 73 133 33 2 11 203 36 11 4 9 2 66 7 3 42 11 .269 .357 .410 .767
1984 116 468 413 38 102 6 0 6 126 33 4 3 14 5 36 1 0 36 9 .247 .304 .305 .609
1985 99 329 293 25 82 17 0 6 117 25 3 2 8 1 26 1 1 32 6 .280 .340 .399 .739
1986 118 381 343 31 91 14 0 7 126 33 9 2 10 4 22 2 2 52 3 .265 .310 .367 .677
1987 94 196 172 12 32 5 0 3 46 11 3 3 11 1 12 1 0 15 1 .186 .238 .267 .505
通算:14年 1609 5991 5259 657 1378 245 28 129 2066 455 95 62 131 33 534 32 34 642 89 .262 .332 .393 .725

年度別監督成績

[編集]

年度 球団 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム本塁打 チーム打率 チーム防御率 年齢
2003年 横浜 6位 140 45 94 1 .324 42.5 192 .258 4.80 51歳
2004年 6位 138 59 76 3 .437 20.0 194 .279 4.47 52歳
通算:2年 278 104 170 4 .380 Bクラス2回

表彰

[編集]

記録

[編集]

初記録

節目の記録

守備に関する記録

その他の記録

背番号

[編集]

関連情報

[編集]

著書

[編集]

監修

出演番組

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

  1. ^ 1977年から1978年にかけて達成した遊撃手としての連続守備機会無失策記録(322機会)は、山下の後の大洋の遊撃手として活躍した高橋に更新(353、1988年 - 1989年)され、後にヤクルト池山隆寛宮本慎也中日井端弘和によって更新されている。
  2. ^ 監督就任の際して、球団にお願いしたのは「山下大輔コーチを残して欲しい」。97年、2軍にいた山下コーチには他球団から要請が来ていた。メジャーリーグの野球にも精通し、チーム生え抜きでもある彼は私の知恵袋として必要不可欠だったと述べている[6]

出典

[編集]

  1. ^ a b c d e f 洗礼、思い出のラーメン、川崎球場… 大洋一筋14年の山下大輔が見たホエールズ
  2. ^ 関根潤三さんは「選手育成の名監督」 山下大輔氏が明かす地獄の伊東キャンプ秘話 | Full-Count
  3. ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)ベースボール・マガジン社、2019年、84頁
  4. ^ 山下大輔 華麗な守備を誇った大洋の名遊撃手/プロ野球1980年代の名選手 - 週刊ベースボールONLINE、2018年12月17日付記事
  5. ^ a b c d ベースボールマガジン、ベースボールマガジン 2022年 6 月号 (横浜ベイスターズ盛衰記) 雑誌 37頁
  6. ^ 権藤博著、もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ、日刊スポーツ出版社、p124、2014年
  7. ^ 永谷脩の著作より。
  8. ^ 権藤博、『教えない教え』、集英社新書、2010年、P196-197。
  9. ^ ▼起業家File.047 江藤省三さん 野球指導者「No Baseball, No life‼」
  10. ^ 一軍経験1日もない選手が2軍監督〜マネージャー〜スカウト〜総務etc.【福田功さんコラボ】 - YouTube
  11. ^ a b c 村瀬秀信著、4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫) 文庫、P102
  12. ^ a b c スポーツニッポン、2022年8月31日、11版、松原誠の我が道㉚、コーチ業の心得は「お・ひ・た・し」
  13. ^ 【門倉健コラム】佐々木主浩さんの「大魔神スパイク」でパワー補給 代役を無事遂行東京スポーツ
  14. ^ HOT TOPIC グリエルらキューバ人選手が「伝説の人」と尊敬する日本人の天才打者とは - 週刊ベースボール、2020年11月1日
  15. ^ 読む野球-9回勝負-No.6、主婦の友社、P172
  16. ^ ディー・ゴードンが「日本流」野球を知る理由 日刊スポーツ、2017年2月20日
  17. ^ 「スローダウン」山下氏がディー・ゴードンに伝授 日刊スポーツ、2017年2月21日
  18. ^米国コーチ修行奮闘記(山下大輔)一覧」『日本経済新聞』。2011年9月15日閲覧。
  19. ^米国コーチ修行奮闘記(山下大輔)「ハプニング連続でたくましく、中村君のマイナー挑戦」」『日本経済新聞』2010年8月4日。2011年9月15日閲覧。
  20. ^ ゼネラルマネージャー補佐就任のお知らせ 横浜DeNAベイスターズ公式サイト 2013年10月17日付ニュース
  21. ^ 2016年度 ファーム監督契約について 横浜DeNAベイスターズ公式サイト 2015年10月1日付ニュース
  22. ^元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人」『日刊スポーツ』2017年2月8日。2017年2月8日閲覧。
  23. ^ベイOB会、新会長に斉藤氏 米挑戦意向の筒香にエール | ベイスターズ」『カナロコ by 神奈川新聞』2018年12月1日。2024年7月5日閲覧。
  24. ^BCリーグ神奈川に山下大輔、鈴木尚典、荒波翔氏 ベイOB3人集結」『神奈川新聞』2019年11月1日。2019年11月3日閲覧。
  25. ^ a b 山下大輔GM退任のお知らせ - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2020年11月26日)
  26. ^静岡 プロ野球チーム 山下大輔GM 赤堀元之監督の就任決定 はやて223」『NHK静岡放送局』2023年10月31日。2023年11月29日閲覧。
  27. ^ チーム情報 くふうハヤテベンチャーズ静岡(2024年6月2日閲覧)
  28. ^ 322連続無失策とハマスタ名物"目玉チャーハン"… 山下大輔が語る大洋の記憶 | Full-Count
  29. ^ 【魚拓】ファンを一目ぼれさせた昭和の名手たち - スポーツナビ
  30. ^ B・B MOOK 626 スポーツシリーズ NO.499『ホエールズ&ベイスターズ 60年の軌跡』 P32-33 ベースボール・マガジン社 2009年8月 ISBN 4583616171
  31. ^ ベイスターズプライムカメラ 2022年7月6日 ライブ配信より
  32. ^過去のおはなし」『ちびまる子ちゃん オフィシャルサイト』。2022年9月26日閲覧。
  33. ^「TARAKOさんが頭に浮かぶ」『ちびまる子』新声優に高評価続出、昭和プロ野球ファン激アツのストーリーも話題に」『smart-flash.jp』。2024年6月2日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

業績
セントラル・リーグ ベストナイン(1回)1981年 セントラル・リーグ ベストナイン 江川卓 山倉和博 藤田平 篠塚利夫 掛布雅之 山下大輔 山本浩二 / J.ライトル / 田尾安志 セントラル・リーグ ダイヤモンドグラブ賞(遊撃手)1970年代 1972 バート 1973 藤田平 1974 河埜和正 1975 藤田平 1976 山下大輔 1977 山下大輔 1978 山下大輔 1979 山下大輔 1980年代 1980 山下大輔 1981 山下大輔 1982 山下大輔 1983 山下大輔 1984 平田勝男 1985 平田勝男 1986 平田勝男 1987 平田勝男 1988 立浪和義 1989 川相昌弘 1990年代 1990 川相昌弘 1991 川相昌弘 1992 池山隆寛 1993 川相昌弘 1994 川相昌弘 1995 野村謙二郎 1996 川相昌弘 1997 宮本慎也 1998 石井琢朗 1999 宮本慎也 2000年代 2000 宮本慎也 2001 宮本慎也 2002 宮本慎也 2003 宮本慎也 2004 井端弘和 2005 井端弘和 2006 井端弘和 2007 井端弘和 2008 井端弘和 2009 井端弘和 2010年代 2010 梵英心 2011 鳥谷敬 2012 井端弘和 2013 鳥谷敬 2014 鳥谷敬 2015 鳥谷敬 2016 坂本勇人 2017 坂本勇人 2018 田中広輔 2019 坂本勇人 2020年代 2020 坂本勇人 2021 坂本勇人 2022 長岡秀樹 2023 木浪聖也 2024 矢野雅哉 1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 横浜ベイスターズ監督 2003 - 2004 渡辺大陸 1950 中島治康 1951 有馬義一 1951 小西得郎 1952 - 1953 永沢武夫 1954 藤井勇 1955 迫畑正巳 1956 - 1958 森茂雄 1959 三原脩 1960 - 1967 別当薫 1968 - 1972 青田昇 1973 宮崎剛 1974 秋山登 1975 - 1976 別当薫 1977 - 1979 土井淳 1980 - 1981 関根潤三 1982 - 1984 近藤貞雄 1985 - 1986 古葉竹識 1987 - 1989 須藤豊 1990 - 1992 江尻亮 1992 近藤昭仁 1993 - 1995 大矢明彦 1996 - 1997 権藤博 1998 - 2000 森祇晶 2001 - 2002 山下大輔 2003 - 2004 牛島和彦 2005 - 2006 大矢明彦 2007 - 2009 尾花髙夫 2010 - 2011 中畑清 2012 - 2015 アレックス・ラミレス 2016 - 2020 三浦大輔 2021 - 現在 大洋ホエールズ - 1973年ドラフト指名選手指名選手 1位:山下大輔 2位:大橋康延 3位:草場益裕(入団拒否) 4位:ウイリー木原(入団拒否) 5位:三浦道男 6位:長野隆裕(入団拒否) 7位:藤原仁(入団拒否)
日本の旗 野球日本代表
日本の旗 野球日本代表 - 1972年日米大学野球選手権大会監督 達摩省一 コーチ 大戸洋儀 宮井勝成 投手 山口高志 森部繁幸 藤田康夫 萩野友康 中村憲史朗 上田芳央 捕手 米谷延夫 中沢邦男 田中昭雄 内野手 山本功児 坂口雅久 吉沢敏雄 東門明 山口円 山下大輔 外野手 生田啓一 長崎慶一 伊達泰司 池田和雄 藤波行雄 日本の旗 野球日本代表 - 1973年日米大学野球選手権大会監督 宮井勝成 コーチ 篠原一豊 投手 矢野暢生 田村政雄 中村憲史朗 小林秀一 田尾安志 峰尾晃 捕手 楠城徹 中西清治 吉田秀雄 内野手 山本功児 垣野多鶴 中畑清 佐野仙好 山下大輔 樋野和寿 外野手 鍛治舎巧 宇山秀明 藤波行雄 迫丸金次郎 中井順二 日本の旗 野球日本代表 - 2002年アジア競技大会野球競技3 3位監督 30 後藤寿彦 コーチ 31 山下大輔 32 荒木大輔 33 田尾安志 投手 1 森大輔 11 後藤隆之 16 谷浩弥 17 銭場一浩 18 大沼幸二 19 山本浩司 21 有銘兼久 捕手 7 鶴岡一成 22 安田真範 内野手 5 四之宮洋介 6 栗原健太 9 平野恵一 10 小山豪 23 北川利之 25 前田新悟 33 畠山和洋 外野手 3 喜田剛 8 久保田智 29 吉浦貴志 51 荒金久雄 61 寺本四郎 66 西浦克拓 日本の旗 野球日本代表 - 2001年 第34回IBAFワールドカップ監督 30 後藤寿彦 コーチ 31 山下大輔 32 荒木大輔 33 應武篤良 投手 11 寺原隼人 15 須田喜照 16 篠原貴行 18 久保裕也 19 館山昌平 23 藤井秀悟 28 加藤康介 35 中村隼人 52 中野渡進 捕手 10 阿部慎之助 20 黒須隆 内野手 1 東出輝裕 2 井端弘和 4 前田新悟 6 西郷泰之 7 井口資仁 25 後藤武敏 外野手 3 葛城育郎 5 衣川隆夫 8 佐藤友亮 9 鷹野史寿 24 高橋由伸 43 上坂太一郎