山風 (白露型駆逐艦) (original) (raw)

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山風
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者 大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 白露型駆逐艦
艦歴
発注 ②計画
起工 1935年5月25日
進水 1936年2月21日
就役 1937年6月30日
最期 1942年6月25日戦没[1](日本側認定6月23日[2]
除籍 1942年8月20日[3]
要目(計画時)
基準排水量 1,685トン
全長 111 m
最大幅 9.9 m
吃水 3.5 m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸
出力 42,000hp
速力 34ノット
航続距離 18ktで4,000浬
乗員 226名
兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門50口径12.7cm単装砲 1基1門13mm連装機銃 2基[4]61cm4連装魚雷発射管 2基8門(魚雷16本)爆雷投射機2基爆雷×16
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山風(やまかぜ)は[5]日本海軍駆逐艦[6]

一等駆逐艦「山風」は、白露型駆逐艦の8番艦(海風型駆逐艦/改白露型2番艦)である[7]。この名を持つ日本海軍の艦船としては海風型駆逐艦山風」に続いて2隻目(初代山風は第八号掃海艇と改名)[8][9]。 本艦以下白露型4隻(海風、山風、江風、涼風)は第24駆逐隊を編制し、太平洋戦争緒戦ではフィリピン攻略戦蘭印作戦に参加、本艦はスラバヤ沖海戦でも活躍した[1]ミッドウェー作戦では主力部隊・警戒部隊のタンカーを護衛する[10][11]。同作戦終了直後の1942年(昭和17年)6月下旬、「山風」は日本本土近海で米潜水艦ノーチラスの雷撃により沈没[12][13]。白露型最初の喪失艦となった[14]

1934年(昭和9年)11月24日、日本海軍は浦賀船渠で建造予定の駆逐艦を『山風(ヤマカゼ)』、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦を『江風(カハカゼ)』と命名し、鴻型水雷艇3隻にもそれぞれ艦名を与える[15]。 同日附で、6隻(山風、江風、鵯、隼、鵲、第18号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録された[16]。 本艦は浦賀船渠1935年(昭和10年)5月25日に起工[17][18]1936年(昭和11年)2月21日進水[19][17]。当事の浦賀船渠は白露型3隻(時雨五月雨、山風)を同時に建造していた[20]。 7月1日、日本海軍は野間口兼知少佐(前職、駆逐艦皐月艦長)を山風艤装員長に任命した[21]

1937年(昭和12年)1月21日、浦賀船渠に山風艤装員事務所を設置[22]。 5月31日、姉妹艦2隻(江風海風)により第24駆逐隊が編制される(司令久宗米次郎大佐)[23][24]。初代司令駆逐艦は「江風」[25]。「江風」は本艦よりも先に竣工していたのである[26][27]。 編制直後の第24駆逐隊は佐世保警備戦隊に編入された[注 1]

6月30日、「山風」は竣工した[5]。同日附で野間口艤装員長は山風駆逐艦長(初代)となる[29]佐世保鎮守府所属[30][14]。竣工と同時に、佐世保へ回航[31]。「山風」は6月30日附で、姉妹艦「涼風」は8月31日附で、順次第24駆逐隊に編入される[24]。 7月18日、24駆司令駆逐艦は「江風」から「山風」に変更[32]。7月28日、各艦各隊(妙高、北上、第23駆逐隊、第24駆逐隊、第29駆逐隊)は佐世保警備戦隊から除かれた[28]

第24駆逐隊の初実戦は、第二次上海事変(昭和12年)だった[33]。中国大陸沿岸に進出後、同年9月2日には、軽巡2隻(由良鬼怒)、小型艦艇(子日春雨、海風、山風、隼、千鳥)で対地砲撃を実施する[34]。 10月20日、支那方面艦隊の編制と共に第24駆逐隊は第二航空戦隊(空母加賀)に編入される[35]。「加賀」以下第二航空戦隊は中国大陸沿岸部で活動した。 12月1日、第24駆逐隊は第一水雷戦隊に編入される[36]。同月から翌年にかけて、南京攻略戦にともなう揚子江遡上作戦に従事した[37][38]

1938年(昭和13年)10月5日附で野間口少佐は駆逐艦浦波艦長[39]へ転任[注 2]吉川潔少佐が本艦二代目艦長に任命された[注 3]。 また12月15日附で第24駆逐隊司令久宗米次郎大佐は、潜水母艦長鯨艦長へ転任する[42][注 4]。後任の24駆司令は中川浩大佐となった[42]

1939年(昭和14年)10月15日附で江風駆逐艦長横井稔中佐が駆逐艦朝潮艦長に転じた事にともない、吉川中佐は白露型2隻(山風、江風)艦長兼務を命じられる[43]。 11月15日、豊島俊一少佐(当時、駆逐艦羽風艦長)が本艦三代目駆逐艦長に任命される[44]。この人事に伴い、吉川潔中佐は江風駆逐艦長に専念することになった[44]

1940年(昭和15年)10月19日附で中川(24駆司令)は重巡洋艦古鷹艦長[45]へ転任[注 5]。後任の24駆司令には松原博大佐(当時、第27駆逐隊司令)[45]が任命された[注 6]。11月15日、第24駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂)に編入された[14]

1941年(昭和16年)2月3日有明海東方で訓練中に「山風」は僚艦「涼風」と衝突[46]、「山風」は艦首下部を失う損害を受けた[47]。 この頃、陽炎型駆逐艦16番艦「」が舞鶴海軍工廠で竣工した(同年1月27日)。「山風」を漢字縦書きすると『』と読めるため、山風と嵐の間で郵便物の誤配送が多発する[48]。山風側は「山」と「風」の間を開いて書くよう要請している[48]。また嵐側も同じ悩みを抱えており、同艦が所属する第4駆逐隊(駆逐隊司令有賀幸作大佐)は、艦名に振り仮名を添付して「嵐(アラシ)」と表記するよう通達した[49][注 7]

7月25日附で第24駆逐隊司令は松原博大佐から平井泰次大佐に交代する[50][注 8]。 9月10日附で豊島(山風駆逐艦長)は駆逐艦磯風艦長へ転任[51]。駆逐艦菊月艦長[52]や駆逐艦初霜艦長を歴任した浜中脩一少佐が、豊島の後任として山風駆逐艦長に任命された[51]。 11月26日附で第24駆逐隊は第三艦隊司令長官高橋伊望中将の指揮下に入り、フィリピンの戦いに従事すべく日本本土を出発した[53]

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦以後、第24駆逐隊(駆逐隊司令平井大佐)は南方部隊に属しレガスピー上陸作戦、ラモン湾上陸作戦に従事[14]1942年(昭和17年)1月から蘭印部隊に属しタラカン攻略作戦、バリックパパン攻略作戦、マカッサル攻略作戦、スラバヤ攻略作戦、パナイ島攻略作戦等の蘭印作戦に参加した[1]

タラカン攻略作戦の際、本艦はオランダ軍の機雷敷設艦を撃沈した[54][55]。経過は以下のとおり。 1942年(昭和17年)1月12日朝、タラカン島守備隊降伏の報告を受けた第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(軽巡〈那珂〉、第2駆逐隊〈村雨夕立春雨五月雨〉、第9駆逐隊〈朝雲峯雲夏雲〉、第24駆逐隊〈海風、江風、山風、涼風〉)は[56]、指揮下の第11・30掃海隊に港口の機雷除去を命じた[57]。掃海を開始した掃海艇部隊に対し、秘匿されていた陸上砲台が砲撃を開始、約5-10分のうちに掃海艇13号[58]14号[59]を撃沈、第11掃海隊司令を含む156名が戦死した[57][60]。機雷敷設海面かつ短時間で決着した砲戦のため、那珂以下の第四水雷戦隊各艦は戦闘を見守る事しかできなかった[55][61]。 同日夜、「山風」はタラカン島とブニュー島の間で脱出を試みたオランダ敷設艦プリンス・ファン・オラニエ(Hr. Ms. Prins van Oranje)を発見し、第38号哨戒艇(旧樅型駆逐艦」)とともにオラニエを撃沈、オラニエの生存者5名を救助した[55][62]。「山風」の勝利はタラカン攻略部隊全員の士気を高揚させ、同時に蘭印方面における初の水上艦同士の交戦でもあった[62][63]

2月4日、セレベス島(スラウェシ島)マカッサル方面で、米潜水艦スカルピン (USS Sculpin, SS-191) が姉妹艦「涼風」を雷撃する[64]。同艦は大破[65]。しばらく戦線を離脱した[64]。 2月11日、「山風」はスラウェシ島マナド沖合で浮上潜水艦を発見、砲撃による撃沈を報告した[66][67]。24日、駆逐艦「」は敵潜水艦の撃沈を報告した[67]。米潜水艦シャーク(USS Shark, SS-174) は「山風」か「雷」のどちらかに撃沈されたとされる(アメリカ軍は山風による撃沈と認定)[67][68]

2月22日より24駆2隻(山風、江風)は第五戦隊の指揮下に入り[69]、同部隊に所属してスラバヤ沖海戦に参加した[70][71]。 本海戦直前、第24駆逐隊(山風、江風)は第五戦隊部隊(指揮官/第五戦隊司令官高木武雄少将、第五戦隊〈那智羽黒〉、第7駆逐隊第1小隊〈〉)に所属して航行していた[70]。連合国軍艦隊との交戦直前の2月27日17時30分、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通、第16駆逐隊〈雪風初風時津風天津風〉)が第五戦隊と合流したので、高木司令官は指揮下駆逐艦4隻(山風、江風、潮、漣)を第二水雷戦隊に臨時編入する[71][72]。 第一次昼戦・第二次昼戦で第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊は魚雷98本を発射したが、戦果は魚雷攻撃で蘭駆逐艦コルテノールを撃沈、第9駆逐隊(朝雲峯雲)の砲撃による駆逐艦エレクトラ_HMS Electra (H27)_の撃沈のみであった[73]。両軍が互いに相手を見失ったのち、高木司令官は2隻(山風、江風)を第二水雷戦隊から第五戦隊指揮下に復帰させた[74]

3月1日、4隻(那智、羽黒、山風、江風)は脱出を図るイギリスの重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68)、駆逐艦2隻(ポープエンカウンター)と遭遇[75][76]。 重巡2隻(妙高足柄)、駆逐艦2隻()および空母龍驤艦載機と共同で連合国軍艦艇3隻を撃沈した[75][77]。 同戦闘で「山風」はエクセターに対し魚雷2本を発射[78]、また敵軍の魚雷1本が艦底を通過したと報告している[79]。各艦は弾薬をほとんど撃ち尽くしていた[80]。 残燃料が乏しい中[81]、「山風」はエクセターの生存者67名を救助[82]。「江風」が救助していた蘭軽巡ジャワ(_HNLMS Java_)の生存者37名も「山風」に収容された[83]。 また、山風と共に英艦隊と交戦した第6駆逐隊(《駆逐艦長工藤俊作少佐》、《駆逐艦長竹内一少佐》)も、多くの英国軍艦の乗員を救出した[75][84]。「山風」は江風達と分離してマカッサルへ向かった[85]。 3月3日と5日、24駆(山風、江風)はそれぞれ第五戦隊の指揮下を離れた[69]

4月10日、第24駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)に編入された[86]。4月30日、警戒部隊編入[87]

フィリピン攻略作戦に従事したのち、6月上旬のミッドウェー海戦における第一水雷戦隊と第三水雷戦隊(旗艦川内)各部隊・各艦は、主力部隊および警戒部隊(第一戦隊〈大和、長門、陸奥〉、第二戦隊〈伊勢、日向、山城、扶桑〉、第九戦隊〈北上、大井〉、空母隊〈鳳翔夕風〉、特務隊〈千代田日進〉、燃料補給部隊)の護衛に従事する[88][89]。 ミッドウェー海戦当日の第24駆逐隊は[90]、第九戦隊司令官岸福治少将(旗艦北上)を指揮官とする警戒隊に所属[91][注 9]第一艦隊司令長官高須四郎中将直率の警戒部隊(伊勢、日向、山城、扶桑)と行動を共にする[91][92]。「山風」は第二補給隊の特設給油艦2隻(さくらめんて丸、東亜丸)を護衛した[91][93]

6月17日、第二戦隊(扶桑山城伊勢日向)、第九戦隊(北上大井[94][95]、護衛艦艇(第20駆逐隊〈天霧夕霧朝霧白雲〉、第24駆逐隊〈江風、海風、山風〉、第27駆逐隊〈時雨白露夕暮〉)は横須賀に到着した[96]

1942年(昭和17年)6月21日、第二水雷戦隊(神通、雪風、天津風、時津風、初風)等が横須賀に到着[97]、一方で横須賀在泊の各艦(時雨、白露、江風)等も、翌日からの第二戦隊(扶桑、山城、伊勢、日向)・第九戦隊(大井、北上)西日本回航護衛任務のため横須賀を出発する[98][99]。 同日夕刻、「山風」は川崎型油槽船2隻(神国丸、日本丸)を護衛し、大湊へ向け横須賀を出発する[100][101]6月23日午前11時30分、「山風」は大湊に入泊[102]。午後1時、「山風」は大湊を単艦で出発、柱島(内海西部)に向かう[11]。だが19時45分の連絡を最後に消息を絶った[103][104]6月25日、輸送船を護衛中の駆逐艦「羽風」(第34駆逐隊)は浮上中の潜水艦を発見、爆雷攻撃をおこなう[105][106]。 午前4時20分、「羽風」は1000m離れた地点に「山風」と思しき駆逐艦を発見、協同攻撃を依頼した[106]。 同日、東京湾沖でアメリカの潜水艦ノーチラス [13]は「山風」に対し魚雷4本を発射、2本が命中して「山風」は沈没した[107]。浜中艦長以下乗組員全員が戦死(日本海軍の戦死認定は6月23日附)[2][108]。アメリカ軍による沈没地点記録は北緯34度34分 東経140度26分 / 北緯34.567度 東経140.433度 / 34.567; 140.433[1][14]。ノーチラスは沈没する本艦の写真を撮影しており[109]、一番砲塔に日の丸が描かれている事が確認できる[10][110]横須賀鎮守府では、本艦遭難情況について以下のように記録している[107][111]

(三)本邦沿岸附近艦艇ト雖モ行動豫定ヲ所要ノ向ニ豫報シ且ツ見張ヲ嚴重ニセザレバ不覚ヲ取ルコトアリ
驅逐艦山風ハ六月二十三日午後大湊港外ニ一時假泊シタル後桂島ニ向ケ航行セシモ大湊警備府及本府ハ其ノ行動ヲ知ラズ七月二日ニ至リ初メテ行方不明ナルコトヲ感知セシモ時既ニ一週間以上ヲ經過シアリシ爲遂ニ遭難ノ端緒スラ捕捉スル能ハズ全ク消息不明ト云フ奇怪ナル結果ヲ來タセリ — 自昭和十七年七月一日 至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戰時日誌

日本海軍は7月上旬に「山風」が行方不明になったことを悟り、各方面に捜索を依頼する[112]。関東地方の航空隊が対潜哨戒を兼ねて捜索を実施したが[104][113]、上記のように手遅れだった[107]。また襟裳岬沖合でも兵員用の机らしき木片が見つかったため[113][114]、大湊防備隊より海防艦八丈等が調査のために出動している[115]。 7月14日、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)に編入され、行方不明になった本艦も書類上は同水雷戦隊に所属する[116]。 7月30日附で第24駆逐隊司令は平井泰次大佐から村上暢之助大佐に交代[117]。平井大佐は8月15日附で軽巡「夕張」艦長に任命された[118]

8月20日、駆逐艦「山風」は 帝国駆逐艦籍[119]、 第24駆逐隊[120]白露型駆逐艦[121]のそれぞれから除籍された。

米潜水艦ノーチラスから撮影された、沈む山風

  1. ^ 第24駆逐隊編入時の佐世保警備戦隊は、戦艦金剛、巡洋艦(妙高長良北上)、第24駆逐隊、第23駆逐隊(菊月三日月望月夕月)、第29駆逐隊(追風疾風)であった[28]
  2. ^ 後日、野間口少佐は駆逐艦夏潮初代駆逐艦長等[40]等を歴任した。
  3. ^ 吉川潔少佐は同年9月15日まで駆逐艦弥生艦長を務めていた[41]
  4. ^ 後日、久宗は軽巡川内艦長、重巡青葉艦長(サボ島沖海戦時)、戦艦長門艦長、山城艦長等を歴任した。
  5. ^ 後日、中川は軽巡阿賀野艦長等を歴任。第三水雷戦隊司令官としてサイパン島の戦いで戦死した。
  6. ^ 後日、松原は軽巡阿賀野艦長、空母翔鶴沈没時艦長等を歴任した。
  7. ^ 百人一首には『吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ』(第22番文屋康秀作)がある。
  8. ^ 後日、平井大佐は軽巡名取艦長として同艦沈没時に戦死した。
  9. ^ 第九戦隊〈北上、大井〉、第24駆逐隊〈海風、江風〉、第27駆逐隊〈夕暮、白露、時雨〉、第20駆逐隊〈天霧、朝霧、夕霧、白雲〉)

※『艦長たちの軍艦史』309頁による。

  1. 野間口兼知 少佐:1937年1月20日[21] -

  2. 野間口兼知 少佐:1937年6月30日[29] - 1938年10月5日[39]

  3. 吉川潔 少佐:1938年10月5日[39] - 1939年11月15日[44]

  4. 豊島俊一 少佐:1939年11月15日[44] - 1941年9月10日[51]

  5. 浜中脩一 少佐/中佐:1941年9月10日[51] - 1942年6月23日戦死認定[2]、大佐進級[122]

  6. ^ a b c d <#陽炎型%282014%29>295頁『山風(やまかぜ)』

  7. ^ a b c昭和17年8月29日(発令6月23日付)海軍辞令公報(部内限)第930号 p.15アジア歴史資料センター Ref.C13072086700

  8. ^ #S1708横鎮日誌(4)p.8『二十日〇一〇〇海軍大臣(宛略)二十日附 一.驅逐艦編制中左ノ通改定セラル 二十四驅逐隊ノ項中山風ヲ削ル 二.山風ヲ驅逐艦籍ヨリ除カル』

  9. ^ 『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』による。福田啓二編『軍艦基本計画資料』、国本康文「「利根」型の搭載機銃」によると25mm連装機銃2基を搭載した。

  10. ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 91a山風(やまかぜ)

  11. ^ 日本軍艦集2600年版p.41『一等驅逐艦 山風(やまかぜ) 基準排水量1,368噸、長さ102.24米、幅9.67米、平均吃水2.77米、速力34節、備砲12.7糎砲5門、魚雷發射管8門、起工昭和10年5月25日、進水昭和11年2月21日、竣工昭和12年6月30日、建造所浦賀船渠會社―五月雨と同型。白露、時雨は昭和11年、村雨、夕立、春雨、江風、海風は同12年に夫々竣工した。』

  12. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風』

  13. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実p.94『海風型(二隻)』

  14. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.221『◎驅逐艦海風外三隻ヲ掃海艇ニ變更ニ付命名ノ件 昭和五年六月一日(達六七) 驅逐艦海風、山風、楢、榎ヲ掃海艇ニ變更ニ付左ノ通命名ス 第七號掃海艇(驅逐艦海風)/第八號掃海艇(驅逐艦山風)/第九號掃海艇(驅逐艦楢)/第十號掃海艇(驅逐艦榎)』

  15. ^ a b <#写真太平洋戦争3巻>235頁(ノーチラスより撮影された沈没する山風)

  16. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史2 2005, pp. 167a-168行方不明となった駆逐艦「山風」

  17. ^ <#撃沈戦記III>44-45頁『「その後の「山風」』

  18. ^ a b 海上護衛戦(戦史叢書)446-447頁『米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表』

  19. ^ a b c d e #ハンディ判艦艇写真集17p.47『(駆逐艦『白露型』行動年表)◆山風◆』

  20. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.210『◎驅逐艦山風外一隻水雷艇鵯外二隻及掃海艇命名ノ件 昭和九年十一月二十四(達二〇一) 艦艇製造費ヲ以テ昭和九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻水雷艇三隻掃海艇一隻ニ左ノ通命名ス|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 山ヤマ風カゼ|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 江カハ風カゼ| 株式會社石川島造船所ニ於テ建造 水雷艇 鵯ヒヨドリ|横濱船渠株式會社ニ於テ建造 水雷艇 隼ハヤブサ|株式會社日本産業大阪鐡工所ニ於テ建造 水雷艇 鵲カササギ|三井物産株式會社造船部玉工場ニ於テ建造 第十八號掃海艇』

  21. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和九年十一月二十四日(内令四九五) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦一等ノ部白露型ノ項中「海風」ノ下ニ「、山風、江風」ヲ加フ|水雷艇ノ部鴻型ノ項中「鴻」ノ下ニ「、鵯、隼、鵲」ヲ加フ|掃海艇ノ部第十三号型ノ項中「第十七號」ノ下ニ「、第十八號」ヲ加フ』

  22. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『山風|(艦諸元略)|浦賀船渠會社|10-5-25|11-2-21|12-6-30|(兵装略)』

  23. ^第171号の6 10.5.30山風アジア歴史資料センター Ref.C05110625900 『艦名 山風(ヤマカゼ)/龍骨据付ノ日 昭和十年(一九三五年)五月二十五日(以下略)』

  24. ^昭和11年2月22日 海軍公報 第2691号 p.20アジア歴史資料センター Ref.C12070355900 『○驅逐艦進水 浦賀船渠株式會社ニテ建造中ノ驅逐艦山風昨二十一日午後三時四十五分進水セリ』

  25. ^昭和11年2月22日 海軍公報 第29691号 pp.21-22アジア歴史資料センター Ref.C12070355900 『○艦船所在【浦賀】(司令駆逐艦)夕暮有明/(時雨)(五月雨)(山風)』

  26. ^ a b 昭和12年7月1日付 官報第3013号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3で閲覧可能。

  27. ^昭和12年1月26日 海軍公報 第2962号 p.18アジア歴史資料センター Ref.C12070362400 『○艤装員事務所設置 驅逐艦山風艤装員事務所ヲ浦賀船渠株式會社浦賀工場ニ設置シ本月二十一日ヨリ事務ヲ開始セリ』

  28. ^ 昭和12年06月01日付 官報第3121号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ8

  29. ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.71-72『昭和一一.一二.一(内令四七一)|佐世保鎮守府|第二十四驅逐隊|桃、柳、樫、檜|海風、江風(一二.五.三一 二五九)/山風(一二.六.三〇 三〇五)/涼風(一二.八.三一 五五九)|樫(一二.五.一 二〇二)/桃、柳、檜(一二.五.三一 二五九)』

  30. ^昭和12年6月2日 海軍公報(部内限)第2626号 p.7アジア歴史資料センター Ref.C12070366200 『○司令驅逐艦指定 第二十四驅逐隊司令代理ハ去月三十一日司令驅逐艦ヲ江風ニ指定セリ』

  31. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『江風|一等駆逐艦|(艦要目略)|藤永田造船所|10-4-25|11-11-1|12-4-30|(艦装備略)』

  32. ^ #ハンディ判艦艇写真集17p.66(江風進水式写真)

  33. ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)p.51『昭和一一|一二.一(内令四七四)|佐世保警備戰隊|妙高、北上、長良、阿武隈/能登呂/第二十三驅逐隊/第二十九驅逐隊/第二十一水雷隊|昭和十二年 二.一〇(内令六三)金剛/五.三一(内令二六一)第二十四驅逐隊/八.三一(内令五六〇)朝潮/一〇.一(内令六五九)第二十七驅逐隊/一〇.一〇(内令六九一)第一砲艦隊/一〇.二〇(内令七三三)第二十二驅逐隊 第二十八驅逐隊/一〇.三一(内令七六四)第二十五驅逐隊|昭和十二年 四.一五(内令一五七)阿武隈 能登呂/五.一(内令二〇四)第二十一水雷隊/七.二八(内令三六七)妙高 北上 第二十三驅逐隊 第二十四驅逐隊 第二十九驅逐隊/一〇.三一(内令七六四)朝潮』

  34. ^ a b 昭和12年7月1日付 官報第3147号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ9で閲覧可能。

  35. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.18『・艦艇、特務艦本籍別一覧表』

  36. ^昭和12年7月1日 海軍公報(部内限)第2651号 p.1アジア歴史資料センター Ref.C12070366500 『○驅逐艦山風行動豫定』

  37. ^昭和12年7月21日 海軍公報(部内限)第2668号 p.42アジア歴史資料センター Ref.C12070366700 『○司令驅逐艦變更 第二十四驅逐隊司令ハ本月十八日司令驅逐艦ヲ江風ヨリ山風ニ變更セリ』

  38. ^ #ハンディ判艦艇写真集17p.65(中国大陸行動中涼風写真)

  39. ^ #揚子江方面作戦(1)p.16『九.二|由良、鬼怒、子日、春雨、海風、山風、隼、千鳥|呉淞砲台劉河鎮方面砲撃』

  40. ^ #24dg(支那事変第2回)p.2『十月三十一日第二航空戰隊ニ編入ノ儘護衛艦隊ニ編入』

  41. ^ #24dg(支那事変第2回)pp.2-3『第二十四驅逐隊|江風|(略)十二月一日第一艦隊第一水雷戰隊ニ編入(以下略)』

  42. ^ #揚子江方面作戦(1)p.13『十二月(略)第一警戒部隊 11S 2wg 3wg 24dg|呉淞上流揚子江|南京遡江作戰 戰場整理蕪湖ニ至ル水路啓開確保 陸軍作戰協力 史那船舶交通遮断 魯港攻撃萩港進出』

  43. ^ 日本水雷戦史34-35頁『揚子江を溯る(十三年九月)』

  44. ^ a b c昭和13年10月5日(発令10月5日付)海軍辞令公報(部内限)第247号 pp.9-10アジア歴史資料センター Ref.C13072074400

  45. ^昭和15年9月2日(発令8月31日付)海軍辞令公報(部内限)第521号 p.1アジア歴史資料センター Ref.C13072078800

  46. ^昭和13年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第239号 p.21アジア歴史資料センター Ref.C13072074300

  47. ^ a b昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.18アジア歴史資料センター Ref.C13072074800

  48. ^昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22アジア歴史資料センター Ref.C13072076400

  49. ^ a b c d昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 pp.49-50アジア歴史資料センター Ref.C13072076700

  50. ^ a b昭和15年10月21日(発令10月19日付)海軍辞令公報(部内限)第546号 pp.24-25アジア歴史資料センター Ref.C13072079200

  51. ^ #S1602涼風日誌p.5『2月3日|2F策人用応用教練参加中山風ト觸衝ス、有明湾回航取止ム』

  52. ^ #ハンディ判艦艇写真集17p.63(山風艦首損傷部写真)』

  53. ^ a b昭和16年3月22日 海軍公報(部内限)第3752号 p.49アジア歴史資料センター Ref.C12070393800 『○郵便物宛名ニ關スル件 本艦宛郵便物ト驅逐艦嵐宛ノモノトハ相互ニ混同セラレ易キニ付宛名ハ山ト風ヲ離シテ明確ニ記載相成度。(驅逐艦山風)』

  54. ^昭和16年8月22日 海軍公報(部内限)第3878号 p.37アジア歴史資料センター Ref.C12070396700 『○書類竝ニ郵便物表記方ニ關スル件 驅逐艦嵐ト山風トハ字體見誤易キ爲書類ノ誤送不達等甚ダ多ク事務處理上遺憾ニ不堪候條書類及郵便物ノ發送ニ當リテハ其ノ表記ニ十分注意相成候度 追テ事故防止ノ爲自今左ノ通艦名ニ振假名ヲ添付相成度「驅逐艦 嵐アラシ」(第四驅逐隊)』

  55. ^昭和16年7月25日(発令7月25日付)海軍辞令公報(部内限)第678号 p.41平井補職、p.42松原免職アジア歴史資料センター Ref.C13072081600

  56. ^ a b c d昭和16年9月10日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第708号 pp.23,25アジア歴史資料センター Ref.C13072082000

  57. ^昭和15年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第518号 p.51アジア歴史資料センター Ref.C13072078700

  58. ^ #24dg支那事変第10回功績p.2『(略)一.十一月二十六日 新軍隊區分實施第四急襲隊(指揮官第一根據地隊司令官)トシテ菲島作戰ニ関シ第三艦隊司令長官ノ指揮下ニ入リ同日「パラオ」ニ向ケ寺島水道ヲ進發ス』

  59. ^ <#連合軍艦艇撃沈す>215-216頁『「プリンス・ヴァン・オラーニュ」撃沈』

  60. ^ a b c 日本水雷戦史64-66頁『オランダ敷設艦撃沈』

  61. ^ <#連合軍艦艇撃沈す>212-213頁

  62. ^ a b 海軍進攻作戦(蘭印)149-154頁『第十三、第十四掃海艇の戦闘』

  63. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 213a『掃海艇』行動年表 ◇第13号◇

  64. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 213b『掃海艇』行動年表 ◇第14号◇

  65. ^ <#連合軍艦艇撃沈す>214-215頁『掃海艇の犠牲』

  66. ^ <#雷海戦記>120-121頁

  67. ^ a b 海軍進攻作戦(蘭印)154頁『敵敷設艦を撃沈』

  68. ^ 日本水雷戦史66頁(開戦時、上海や香港で水上艦艇同士の小規模戦闘が生起している)

  69. ^ a b 日本水雷戦史71-72頁『マカッサル占領』

  70. ^ <#叢書26海軍進攻作戦>262-263頁『航空制圧、船団進航』

  71. ^ <#高松宮日記4巻>101-102頁『二月十一日(水)晴(略)○「山風」(二一=一一=〇二三〇)〇一三九ケマ灯台ノ95°30′ニテ敵浮上潜水艦ヲ発見。距離12kmニテ照射砲撃、命中弾四斉射ヲ得、〇一四七之ヲ没入セシム。爾後戦場捜索ノ結果重油夥シク流出ス。生存者三名ヲ確認セシモ波荒キ為救助出来ズ、撃沈確実。発砲弾数、主砲四二、機銃六〇、損害ナシ』

  72. ^ a b c 潜水艦攻撃27-29頁『6.シャーク(米)/1942年2月〈駆逐艦「山風」、または「雷」?による〉』

  73. ^ 日本水雷戦史72-73頁『米潜水艦シャークを撃沈』

  74. ^ a b #S1703五戦隊日誌(2)p.4『本作戦期間中(司令官)5Sノ直接指揮下ニ入リ或ハ指揮下ヲ離レタルモノ左ノ通』

  75. ^ a b 海軍進攻作戦(蘭印)448-450頁『敵有力水上部隊出現(二月二十七日)』

  76. ^ a b 日本水雷戦史87-88頁

  77. ^ 海軍進攻作戦(蘭印)451-454頁『第一次昼戦(自一七二五 至一八五〇)』

  78. ^ 海軍進攻作戦(蘭印)478頁『連合軍側の状況』

  79. ^ 海軍進攻作戦(蘭印)460頁『輸送船団クラガン入泊』

  80. ^ a b c 日本水雷戦史99-100頁

  81. ^ 海軍進攻作戦(蘭印)461-463頁『残存敵艦隊を撃滅』

  82. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.25『茲ニ於テ直ニ砲戦目標ヲ煙幕展開中ノ敵駆逐艦ニ変換山風江風ノ砲戦ニ加入シ1300山風江風ニ対シ突撃下令、次デ1309更ニ「敵駆逐艦ヲ攻撃セヨ」ト発令セリ此ノ時敵駆逐艦ハ大火災ヲ起シ傾斜シツツアリ』

  83. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.24『1244煙幕ノ間ニ敵巡洋艦ヲ視認シ得ルニ至レルヲ以テ再ビ射撃ヲ開始(開始距離17000米)スルト共ニ魚雷戦ヲ行ヒ1252発射終了セリ(発射雷数那智羽黒各四、山風二、江風四)』

  84. ^ #S1703五戦隊日誌(1)pp.25-26『1313 5Sノ左斜前ニアリテ戦斗中ノ山風ヨリ『敵ノ魚雷下ヲ通ル』旨報告アリ機ヲ逸セズ緊急斉動ヲ以テ之ヲ回避反転シ1341遁走スル残存敵駆逐艦ノ追撃ヲ始ム…』

  85. ^ #S1703五戦隊日誌(1)pp.28-29『二.5S山風江風本日ノ戦斗ニ於テ被害ナシ 5Sハ2月27日28日及本戦斗ニ於テ主砲残弾那智1門7発羽黒1門19発残魚雷那智羽黒各四江風一門15発山風概ネ江風ニ同ジ』

  86. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.26『(註)山風江風燃料残額ノ関係上同艦ハ「バンゼルマシン」ニテ補給スルニ非レバ「ケンダリ」回航不能ナル状態トナリ』

  87. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.30『尚山風ヲシテ敵駆(H10)[(註)後日山風ノ捕虜トセシハエクセター乗員ニシテ5S指令ノH10ノ乗員ナラザリシコト判明セリ]ノ乗員67名(内士官6)ヲ捕虜トセシメタリ』

  88. ^ #S1703五戦隊日誌(2)pp.33-34『3-2|(略)俘虜ノ処理ニ関スル発受報左ノ通 3月2日0800(3Fキデ582)発3F参謀長宛5S2sd司令官 5S機密第760番電関聯 捕虜ハ駆逐艦1隻ニ収容ノ上「マカツサル」佐聯特陸ニ之ヲ引渡シ同艦ハ「マカツサル」又ハ「バンジャルマシン」ニ於テ補給終了後原隊ニ復帰セシメラル』

  89. ^ <#雷海戦記>193-200頁『敵の漂流者を救え』

  90. ^ #S1703五戦隊日誌(2)p.35『3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ』

  91. ^ #S1703一水戦日誌(4)pp.4-5『(2)第二段作戦第一期兵力部署(四月十日以後) 警戒部隊第一水雷戦隊/第一水雷戦隊司令官/阿武隈、第六駆逐隊、第二十一駆逐隊、第二十四駆逐隊』-『4月10日 第二段作戦第一期兵力部署発令セラレ當隊(第27駆逐隊、第24駆逐隊欠)警戒部隊ニ、第24駆逐隊ハ南方部隊ニ編入セラル(但内地帰投迄C作戦編制ノママ)浦風合同』

  92. ^ #S1703一水戦日誌(4)p.7『4月30日 第24駆逐隊、警戒部隊ニ編入セラル』

  93. ^ #S1612第九戦隊(2)p.46『GF司令長官|二十九日一八四五GF|夜間ハ1S 2S横陣列直衛配備標準「H」トナセ但シ(71)(72)ヲ止メ9S鳳翔直衛其ノ侭驅逐艦一ヲ(57)(58)ノ後方各八粁ニ置ク』

  94. ^ #あ号作戦(4)p.22『(ロ)任務編制配備 本月當初M.I A.L作戰開始期ニ於テ3sd 24dg(凉風山風欠)及27dg(有明欠)ヲ併セ指揮シ主力部隊水雷戰隊トシテ主力部隊直衛トナル』

  95. ^ #S1612第九戦隊(3)p.13『六月四日〇五〇〇警戒部隊分離以後ハ警戒部隊警戒隊(兵力9S 24dg(-d×1) 27dg(-d×1) 20dg 指揮官本職)トシテ1F司令長官指揮下ニアリテ警戒部隊主隊ト共ニ行動北方部隊支援ニ任ズ』

  96. ^ a b c 戦史叢書ミッドウェー海戦191-192頁(主隊、警戒部隊艦艇一覧)

  97. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦276『警戒部隊の分離』

  98. ^ <#写真太平洋戦争3巻>166頁(【1】主力部隊-連合艦隊司令長官山本五十六大将直率)

  99. ^ #S1612第九戦隊(3)pp.3-4『(イ)一般情勢』

  100. ^ #S1612第九戦隊(3)p.7『四参考 麾下艦船ノ行動』

  101. ^ #S1706横鎮日誌(4)p.41『一七(天候略)一.伊五、三六潜、沖風出港/北上扶桑伊勢江風海風山風日向山城夕霧天霧白雲夕暮白露時雨朝霧伊三六潜入港』

  102. ^ #あ号作戦(4)p.15『(イ)自六月一日至六月二十一日 前月ニ引續キMI作戰ニ從事{2sd(15dg 18dg欠)六月二十一日横須賀歸着(以下略)』

  103. ^ #S1706横鎮日誌(4)p.48『二一(天候略)一.(イ)出港艦艇 一四〇〇白雪夕霧江風、一四一〇夕暮時雨白露/(ロ)入港艦船〇七三〇雪風時津風、〇七四五神通、一一一五栗田丸、一三〇〇天津風初風、一三一五鹿野丸』

  104. ^ #S1706横鎮日誌(2)p.44『二〇日一七三〇横鎮長官(宛略)一.第二戰隊、第九戰隊及驅逐艦九隻二十二日一三〇〇横須賀發西水道通過一八〇〇北緯三四度八分東経一三九度二五分 二十三日一九〇〇潮岬ノ一七四度一四五浬通過西航ス(以下略)』

  105. ^ #S1707横鎮日誌(1)p.53『二日二一〇〇(宛略)横鎮機密第三二番電 山風ハ六月二十一日一六〇〇神國丸、日本丸ヲ護衛横須賀ヲ出港シタル後直ニ大湊通信系ニ入リタル儘其ノ後本府ト連絡ナシ 尚山風機密第七四番電モ受信シ居ラズ』

  106. ^ 日本水雷戦史419-420頁『山風』

  107. ^ #S17.06.17-06.30経過概要p.15〔1942年6月〕|23|1310|山風(24dg/1Sd)大湊発桂島回航中一九四五以後消息不明 内戰部隊f部隊ヲ以テ捜索中 六月二十五日沈没|内地|北方作戰地ヨリ二三日一一三〇大湊入港補給ヲ行フ事ナク約二時間後出港セリ 日本海ニ入リタルカ本邦東岸航路ヲ執リタルカ不明』

  108. ^ #S1707横鎮日誌(1)p.7『四.聯合艦隊驅逐艦山風ハ六月二十三日一三一〇桂島ニ向ケ大湊港外出港後一九四五大湊通信隊ト連絡シタル儘消息ヲ断ツ(本府喪失艦船ニハ計上セズ)』

  109. ^ a b 本土方面海軍作戦103-104頁『七月の作戦状況』

  110. ^ #S17.06.17-06.30経過概要p.19〔1942年6月〕|25|0345|野島崎127°35′ニテ慶洋丸ハ(潜水艦)×1ノ雷撃ヲ受ケ帆風(5F附)ハ之ヲ攻撃|内地|二回爆雷攻撃被害ナシ 効果ナシ』

  111. ^ a b #S1706横鎮日誌(3)pp.9-10『二十五日〇六三〇羽風艦長|二十五日一二四〇 横鎭、一空艦隊各長官、聨合艦隊参謀長、横防戰司令官、三十四驅司令|羽風機密第五一五番電 戰闘概報/一.〇三三二大島ノ九六度六一浬ニ於テ浮上潜水艦ヲ右四〇度約四五〇〇米ニ發見シ間モナク潜没〇三三九投射開始〇三四二投射中止反轉後〇三四六左九〇度二〇〇〇米ニ潜望鏡ヲ再ビ發見之ニ對シ〇三五〇投射開始投射運動開始時慶洋丸ニ對シ發射セル雷跡三本 本艦前方ヲ通過〇三五四投射中止シ爾後潜没位置ヲ中心ニ制壓攻撃ヲ實施セリ/二.効果 (イ)目撃シ得ズ不明ナルモ概ネ効果確實ナルモノト認ム/(ロ)投射爆雷第一次九個、第二次六個、制壓投射五個、計二十個/(ハ)慶洋丸ニ被害ナシ/三.發見情況 第二次發見ハ潜水艦ノ發射前ノ露出ニシテ約三秒ニシテ全没ス/射點ニハ油浮出雷跡ノ起點ヲナシ明瞭ニ認メラレタリ/四.〇四二〇約一〇〇〇米附近ニ驅逐艦アルヲ認メ之ニ協同ヲ依頼セリ(驅逐艦山風)目下探信射蕩中|無電』

  112. ^ a b c 歴群51、真実の艦艇史2 2005, p. 168.

  113. ^ <#連合軍艦艇撃沈す>219頁『その後の「山風」』

  114. ^ 歴群51、真実の艦艇史2 2005, p. 167b.

  115. ^ 潜水艦攻撃195-196頁『●米潜水艦ノーチラス〈1942年6月28日〉』

  116. ^ #S1707横鎮日誌(5)pp.17-18『(ホ)戰訓』

  117. ^ #S1707横鎮日誌(5)pp.31-33『四(天候略)六.山風二十三日一三〇〇大湊發桂島回航中一九四五以後消息不明ニ付各部隊ニ對シ固有任務遂行ノ傍兼テ同艦ノ捜索ニ努メシム』

  118. ^ a b #S17.07.01-07.15経過概要p.9〔1942年7月〕|5|午后|2G Sfノflc隊ハ山風捜索中尻矢崎ノ55°22′ニ油多量ニ浮流セルヲ発見(三沢fg)又襟裳岬ノ237°37′ニ兵員用机ラシキ木片六散在セルヲ発見|内地|山風遭難地点ナルヤノ疑ヒアリ艦艇ヲ以テ調査ノ予定』

  119. ^ #S1707大湊防備隊日誌pp.29-30

  120. ^ #S1707大湊防備隊日誌p.30『六日一一一〇八丈艦長|六日一一五〇 白神艇長(石埼艇長 津防指揮官)|八丈機密第六一七番電 六日一一一〇 我一一三〇襟裳岬二三七度三七浬ノ地点ニ到着 机ラシキモノ捜索ス 合同セヨ』

  121. ^ #S1705二水戦日誌(2)pp.53-54『(五)24dg(山風缺)7月14日附當隊ニ編入セラレ7月18日湊町沖着當隊ニ合同 自7月18日至7月31日 湊町沖又ハ木更津沖ニ在リテ対潜掃蕩作戦竝ニ主要艦船護衛任務ニ従事』-『(ロ)七月中ノ2sd艦隊区分』

  122. ^昭和17年7月31日(発令7月30日付)海軍辞令公報(部内限)第908号 p.11アジア歴史資料センター Ref.C13072086400

  123. ^昭和17年8月15日(発令8月15日付)海軍辞令公報(部内限)第921号 p.18アジア歴史資料センター Ref.C13072086600

  124. ^ <#内令昭和17年8月%282%29>、p.49〔 内令第千五百四十四號|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 山風 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕

  125. ^ #内令昭和17年8月(2)p.48〔 内令第千五百四十二號|驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二十四驅逐隊ノ項中「山風、」ヲ削ル 〕

  126. ^ #内令昭和17年8月(3)pp.5-6〔 内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月二十日海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略) 〕

  127. ^故海軍大佐浜中脩一位階追陞ノ件 p.5アジア歴史資料センター Ref.A11115306400