峯雲 (駆逐艦) (original) (raw)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

峯雲
艦歴
計画 ②計画 [1]
起工 1937年3月22日[2]
進水 1937年11月4日[2]
竣工 1938年4月30日[2]
最後 1943年3月5日戦没
除籍 1943年4月1日[3]
要目
排水量 基準:約2,000t、公試:2,400t
全長 118.00m
全幅 10.386m
吃水 3.71m(平均)
機関 オール・ギアードタービン2基2軸ロ号艦本式重油専焼缶3基51,000hp
最大速力 34.85kt
航続距離 18ktで5,190浬
燃料 重油580t
乗員 230名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門25mm機銃 II×2(または13mm機銃 II×2)61cm4連装魚雷発射管 2基8門(九〇式魚雷16本)九一式爆雷×36

峯雲(みねぐも)は、日本海軍駆逐艦[4]朝潮型駆逐艦の8番艦である[5]。『戦史叢書』等、一部資料では「峰雲」と表記する[6]

一等駆逐艦峯雲(みねぐも)は、日本海軍が藤永田造船所で建造した朝潮型駆逐艦で[7]1938年(昭和13年)4月に竣工した[8]1941年(昭和16年)6月23日、駆逐艦夏潮黒潮を巻き込む多重衝突事故を起こした[9]。 12月8日の太平洋戦争開戦時、ひきつづき朝潮型4隻(峯雲、朝雲[10]、夏雲[11]、山雲[12])で編制された第9駆逐隊に所属し[13]、第四水雷戦隊僚艦と共に南方作戦にともなうフィリピン作戦蘭印作戦バリクパパン沖海戦スラバヤ沖海戦クリスマス島攻略作戦)等に参加した[4]

1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦や、ガダルカナル島攻防戦にともなう8月中旬の第二次ソロモン海戦前後における第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)は、第二艦隊司令長官近藤信竹中将の重巡洋艦戦隊と行動を共にした[14][15][16]。峯雲は8月20日にトラック泊地で座礁し、海戦後は空襲で損傷した水上機母艦千歳を護衛した[4]。9月下旬よりソロモン諸島に進出、ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に従事した[17]。10月5日に空襲を受けて損傷する[17]。内地に戻り、横須賀で修理をおこなった[4]

戦線復帰後の1943年(昭和18年)3月上旬、峯雲と駆逐艦村雨[18]コロンバンガラ島輸送作戦を実施する[19][20]クラ湾を航行中の3月5日夜、連合軍艦隊(巡洋艦3、駆逐艦3)のレーダーを活用した夜間奇襲攻撃により[21][22]、村雨[23]と峯雲[8]は一方的に撃沈された[24]ビラ・スタンモーア夜戦[25][26]

1936年(昭和11年)12月14日、日本海軍は建造予定の朝潮型駆逐艦に峯雲の艦名を与えた[1][27]1937年(昭和12年)3月22日、藤永田造船所で起工する[2]、同年11月4日に進水[2][28]1938年(昭和13年)4月30日に竣工し[2]、第41駆逐隊に編入された[29]。12月15日に第三予備艦となり横須賀海軍工廠蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。1939年(昭和14年)11月15日、第41駆逐隊は第9駆逐隊と改称された[29]1940年(昭和15年)10月15日、鈴木保厚中佐が艦長に就任した[30]。11月15日、第9駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦「那珂」)[31]に編入された。

1941年(昭和16年)4月10日、佐藤康夫大佐(海兵44期。当時、第5駆逐隊司令)[32]が第9駆逐隊司令に就任した[33]。6月23日、峯雲(四水戦、第9駆逐隊)は日向灘で陽炎型駆逐艦夏潮(二水戦、第15駆逐隊)の右舷中央部に衝突した[9][34]。艦首を損傷した峯雲は後進をかけたところ、後続の陽炎型駆逐艦黒潮(二水戦、第15駆逐隊)に追突され[35]、左舷艦尾も損傷した[36][37]呉海軍工廠で約5ヶ月間におよぶ修理をおこなったが、太平洋戦争の開戦には間に合った。

同年12月8日の開戦時、第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐)は朝潮型5-8番艦4隻(朝雲[38]山雲[39]夏雲[40]、峯雲[8])で編制され、第四水雷戦隊[注 1](司令官西村祥治少将、旗艦「那珂」)[41]、第2駆逐隊(村雨[23]五月雨[42]春雨[43]夕立[44])、第24駆逐隊(海風[45]江風[46]山風[47]涼風[48])と共に比島部隊(指揮官高橋伊望第三艦隊司令長官)に所属していた[49][50][51]南方作戦において、ビガン上陸作戦[52][53][注 2]リンガエン湾上陸作戦を支援した[56][57]。 12月31日、別行動中の山雲が機雷で大破し、戦線を離脱した[12][58](翌年5月15日、第9駆逐隊より除籍)[59]。 山雲をのぞく第9駆逐隊3隻(朝雲、峯雲、夏雲)はひきつづき第四水雷戦隊各隊と共に行動し、1942年(昭和17年)1月よりタラカン[60]バリクパパン等(バリクパパン沖海戦[61]の攻略作戦に加わり、2月以降はマカッサル攻略作戦[注 3]ジャワ島攻略作戦に協力、蘭印作戦に従事した[4]

1942年(昭和17年)2月下旬、ジャワ島攻略を目指す日本軍輸送船団(護衛/第四水雷戦隊護衛、支援/第五戦隊と第二水雷戦隊)[63]を英米蘭豪のABDA艦隊が迎撃し、スラバヤ沖海戦が勃発した[64][65]。第9駆逐隊のうち朝雲(司令駆逐艦)と峯雲は第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊各部隊各艦と共に海戦に参加したが[66]、夏雲は駆逐艦海風(第24駆逐隊)[67]や敷設艦若鷹等と共に輸送船団を護衛し、砲雷撃戦は行わなかった[68][69]。 会敵したABDA艦隊に対し、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将、軽巡〈那珂〉[70]、第2駆逐隊〈村雨、五月雨、春雨、夕立〉、第9駆逐隊〈朝雲、峯雲〉)[71]は日本艦隊のなかで最も接近し[72]、中でも佐藤康夫大佐(第9駆逐隊司令)の朝潮型2隻(朝雲〈司令駆逐艦〉、峯雲)はABDA艦隊に向けて突撃を続けた[32][73]。重巡羽黒の砲撃を受けた英重巡エクセターの離脱を援護するため[74]、英駆逐艦が応戦する[75][76]。峯雲と朝雲は煙幕から出てきた英駆逐艦2隻(エレクトラエンカウンター)と距離3000mで砲撃戦になった[77][78]。朝雲が損傷したが[79]、峯雲は朝雲を掩護しながら砲戦を続行した[75][80]。その結果、エレクトラを撃沈し、エンカウンターと駆逐艦ジュピターを撃退した[81][82]。朝雲は修理のため戦線を離脱、第9駆逐隊の司令駆逐艦は夏雲になった[83]

3月1日未明、東部ジャワ上陸船団は入泊を開始する[84]。第9駆逐隊をふくめ四水戦各部隊・各艦は、軽巡鬼怒や第8駆逐隊(朝潮荒潮[注 4]等と共同で哨戒を行った[83]。連合軍の空襲を受け輸送船1隻擱座・1隻大破[85]、ほかに鬼怒が小破した[86]。また泊地や周辺海域では連合軍の魚雷艇潜水艦が活動しており、峯雲は二水戦や四水戦の僚艦と共に哨戒・迎撃・掃蕩に従事した[87]。3月9日、オランダ軍は降伏した[88][86]

3月下旬、峯雲をふくむ第四水雷戦隊はインド洋クリスマス島攻略作戦に参加した[89][90](攻略部隊指揮官は原顕三郎第十六戦隊司令官、旗艦「名取」。編成は日本軍のクリスマス島占領参照)[91]。同島の守備隊は3月31日朝に降伏した[92][93]。 4月1日18時、同島周辺を哨戒中の軽巡那珂(第四水雷戦隊旗艦)と第9駆逐隊(夏雲、峯雲)[94]をアメリカ潜水艦シーウルフが襲撃し、那珂はシーウルフの雷撃で大破した[95][96]。那珂は軽巡名取(攻略部隊旗艦)に曳航され[31][97]、第9駆逐隊(夏雲、峯雲)ふくめ攻略部隊各部隊・各艦に護衛されてクリスマス島を離れ、ジャワ島バンダム湾へ帰投した[55][98]。 6日、第9駆逐隊は大破した那珂を護衛し、バンタム湾からシンガポールへ移動した[31][99]。那珂はシンガポールに残り、修理を続けることになった[55][100]。 12日、夏雲(第四水雷戦隊旗艦)と峯雲は横須賀に向けてシンガポールを出発する[101]。途中でドーリットル空襲を実行した米機動部隊を追ったが会敵できず、20日夜に横須賀に到着した[101][102]

5月2日、本州南岸において水上機母艦瑞穂がアメリカ潜水艦ドラムに撃沈される[103]。重巡高雄摩耶が救助をおこない[104]、第9駆逐隊(朝雲、峯雲、夏雲)は基地航空隊や防備部隊と協同で対潜掃討を行った[105]。 5月15日、山雲は第9駆逐隊からのぞかれ、朝潮型3隻(朝雲、峯雲、夏雲)に減少する[59]。まもなく第四水雷戦隊旗艦も長良型軽巡洋艦由良(5月9日、四水戦に編入)[106]になった[107][108]。 5月19日、第9駆逐隊は高雄型重巡洋艦金剛型戦艦を護衛して瀬戸内海へ移動した[109]ミッドウェー島攻略を目指すミッドウェー作戦において、第四水雷戦隊は攻略部隊主隊(指揮官近藤信竹海軍中将、第二艦隊司令長官)に配属された[14][15]。近藤長官直率の攻略部隊本隊は、第四戦隊第1小隊(愛宕〈第二艦隊旗艦〉、鳥海)[注 5]、第五戦隊(妙高、羽黒)、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)、第四水雷戦隊[注 6][注 7](旗艦〈由良〉、第2駆逐隊〈村雨、春雨、五月雨、夕立〉、第9駆逐隊〈朝雲、峯雲、夏雲〉)[110]、空母瑞鳳と駆逐艦三日月[111]、タンカー4隻、途中合流の特殊水上機母艦千代田日進(2隻とも、甲標的魚雷艇を運搬)[112][113]であった[114](ミッドウェー作戦における攻略部隊の行動と戦闘経過は当該記事を参照)。

6月5-7日のミッドウェー海戦で、日本は空母4隻と重巡三隈を失うなどして敗れた[115]山本五十六連合艦隊司令長官は一部兵力で牽制部隊を編成し、またアリューシャン方面の北方部隊を増強することを下令した[116][117]。第五戦隊司令官高木武雄中将(海兵39期)を指揮官とする牽制部隊(第五戦隊〈妙高羽黒〉、第9駆逐隊〈朝雲、夏雲、峯雲〉[注 8]、タンカー玄洋丸 )は米機動部隊の追撃を引き付けるため[118]ウェーク島近海で行動した[119][120]。基地航空部隊(第十一航空艦隊司令長官塚原二四三中将、ウェーク島に陸攻50機を配備)[121]と連携し偽電を交信したが、めぼしい成果はなかった[122][123]。14日、同部隊は北方部隊に編入された[124][125]。 峯雲は玄洋丸と共に行動していたが、15日に牽制部隊と合流してアリューシャン列島方面に転戦した[122]。その後、第五戦隊司令官指揮下の第二支援隊(第五戦隊〈妙高、羽黒〉、戦艦〈金剛〉、第一水雷戦隊〔軽巡〈阿武隈〉、第21駆逐隊〈初春、子日、若葉、初霜〉、第9駆逐隊〈朝雲、夏雲、峯雲〉、第二十一戦隊〈軽巡木曾、軽巡多摩〉、タンカー玄洋丸 )として行動し、米機動部隊の出現に備えた[124]。米機動部隊は出現せず各艦は撤収し、7月上旬には内地に帰投した[126]

第9駆逐隊が北方で行動中の1942年(昭和17年)6月15日、那珂は予備艦となって第四水雷戦隊からのぞかれた[31](その後、舞鶴海軍工廠で昭和18年3月31日まで修理)[55][100]。6月20日、第四水雷戦隊司令官は西村祥治少将から高間完少将に交代した[注 9][127]。 ミッドウェー・アリューシャン作戦後の連合艦隊は第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第四水雷戦隊に本州南岸の敵潜掃討を命じており、北方から戻った第9駆逐隊(朝雲、峯雲、夏雲)も哨戒に加わった[128]。本艦が所属したのは乙掃蕩隊(指揮官四水戦司令官、由良、第2駆逐隊、第9駆逐隊、駆逐艦三日月山雲)であった[128]

8月7日、米軍はガダルカナル島フロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まる[129]。第四水雷戦隊(由良、第9駆逐隊、第27駆逐隊)[注 10]は前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官、旗艦「愛宕」)に所属[130][16]、高雄型と妙高型の重巡洋艦戦隊、長門型戦艦陸奥[131]や水上機母艦千歳[132]等とともにトラック泊地に集結した[133]。 20日(21日とも)、トラックを出港する際に、峯雲は冬島で座礁した[4][134]。峯雲は応急修理をおこなったあと、油槽船を護衛して前進部隊を追いかけた[135]。第二次ソロモン海戦[136][137]における前進部隊は、空母エンタープライズ艦載機[138]の急降下爆撃により水上機母艦千歳が損傷、人力操舵となった[139]。峯雲は千歳を護衛して、トラック泊地に後退した[140]。同艦はトラック泊地で9月20日まで修理をおこなった[141]

9月中旬、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍の総攻撃を支援するため、前進部隊の一員としてトラック泊地を出撃した[142]。9月15日に空襲で妙高が小破したほか[143]、大規模な戦闘はなかった[144]。9月20日、聯合艦隊は第四水雷戦隊の大部分を外南洋部隊(指揮官三川軍一海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入することを発令し、各艦は前進部隊とわかれて順次ソロモン諸島ブーゲンビル島ショートランド泊地に進出した[145]。 9月25日、ショートランド泊地でB-17重爆の空襲を受けた由良(第四水雷戦隊旗艦)が小破した[108][146]

10月1日時点で、第9駆逐隊は外南洋部隊増援部隊(指揮官橋本信太郎海軍少将、第三水雷戦隊司令官。旗艦「川内」)に所属していた[147]。 2日、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(朝雲座乗)指揮下の駆逐艦5隻(第9駆逐隊〈朝雲、夏雲、峯雲〉、第2駆逐隊〈村雨春雨〉)は零式水上観測機の援護を受け、ガ島輸送に成功した[148][147]。 5日、佐藤大佐指揮下の駆逐艦6隻(第9駆逐隊〈朝雲、夏雲、峯雲〉、第2駆逐隊〈村雨、春雨、夕立〉)は、陸兵約650名と野砲2門と各種弾薬を搭載し、ショートランド泊地を出撃する[149][150]。 午後3時過ぎ、急降下爆撃機SBDドーントレス9機[151]の空襲により、峯雲は至近弾で浸水する[152]。発揮可能速力12ノットとなった[153]。この作戦では村雨も至近弾により浸水被害を受け、途中で引き返している[153][154]。夏雲は峯雲を護衛してショートランド泊地に帰投した[153][注 11]

村雨と峯雲は、修理のためラバウルに移った[155]。10月12日、サボ島沖海戦で姉妹艦夏雲が沈没[156][157]、第9駆逐隊は朝雲と峯雲の2隻になった[158]。 10月20日、宇垣纏連合艦隊参謀長は、損傷した駆逐艦五月雨(第2駆逐隊)の主砲砲身を、峯雲と交換するよう指示した[159]。30日、五月雨がトラック泊地に到着し、工作艦明石で両艦の工事をおこない主砲を換装、五月雨の毘式四十粍機銃と峯雲の九六式二十五粍高角機銃も交換した[160]。 11月16日、峯雲はトラック泊地を出発し、23日に横須賀に到着した[161]。 12月3日、横須賀から横浜に回航され、修理を行った[162][163]

1943年(昭和18年)2月1日、峯雲駆逐艦長として上杉義男中佐が就任した[164]。12日に修理が完了し、輸送船武庫丸を護衛して横須賀を出発、22日にトラック泊地に到着した[165]。峯雲が航海中の2月15日附で、第9駆逐隊司令は佐藤康夫大佐から小西要人大佐に交代した[166][167]。 当時の日本軍はガダルカナル島から撤退し、中部ソロモン諸島(ニュージョージア諸島ニュージョージア島ムンダに飛行場を築いて、新たな防衛拠点を整備しようとしていた[168][169]。だが輸送船団への空襲で補給が途切れ、各島では弾薬と兵員の糧食が欠乏した[170][171]。結局、日本軍は中部ソロモン諸島でも小型艦艇(駆逐艦、駆潜艇、掃海艇)による鼠輸送に頼らざるをえなくなった[172][173]。この動きに関連し、トラック泊地の村雨と峯雲もソロモン諸島輸送作戦への従事を命じられた[174][175]

2月27日、第2駆逐隊司令橘正雄大佐(村雨座乗)[174]が指揮する2隻(村雨、峯雲)は南東方面部隊に編入される[176]。28日トラックを出撃し、3月2日朝にラバウルに到着した[177]。3月4日夕、ドラム缶200本ずつと弾薬糧食を上甲板に満載し、ラバウルを出発した[19]。同日、ビスマルク海海戦沈没艦の生存者を乗せた浦波初雪がラバウルに帰投した[19]。 輸送隊(村雨、峯雲)はブーゲンビル島ブイン(ショートランド泊地)を経由して[178][179]、3月5日午後9時30分から10時30分までコロンバンガラ島クラ湾で揚陸をおこなう[19][174]。中部ソロモン諸島の防備を担当する第八連合特別陸戦隊司令官大田実海軍少将(ニューギニア方面防備部隊指揮官)には、同部隊副官として、前年12月1日まで峯雲砲術長であった岡野勇三大尉が赴任していた[180]。村雨と峯雲が揚陸した物資は、隣のニュージョージア島の部隊に届けられた[181]。帰路は北上してショートランド泊地へ向かった[182][183]。しかし2隻の行動はPBYカタリナ飛行艇などで米軍側に掌握されており、潜水艦グレイバックとグランパスがクラ湾出口に配備された[174][184]

天候は薄曇り、月齢28、視界15km程、風もない静かな夜だったという[182]。当時、アーロン・S・メリル少将指揮する第68任務部隊の軽巡3隻(モントピリアクリーブランドデンバー)、駆逐艦3隻(ウォーラーコンウェイコニー)はムンダ飛行場へ艦砲射撃をおこなうためクラ湾に侵入していたが、日本艦出現の報告を受けて攻撃準備に入った[174][185]。 22時57分にレーダーで峯雲と村雨を探知し、23時01分に砲撃を始めた[185](ビラ・スタンモーア夜戦)[186]。レーダーのない峯雲と村雨は米艦隊の存在に気付かず、当初は空襲と誤認した[182][186]。まず峯雲が被弾炎上し[182]、村雨も主砲や機関部を破壊され航行不能に陥った[186][187]。峯雲は被弾からまもなく艦中央部に魚雷が命中し[188]、艦尾から沈没していった[189]。 コロンバンガラ島の日本軍守備隊は、北東沖で1隻が爆発するのを目撃した[190]。米軍の記録では、峯雲は駆逐艦ウォーラーの魚雷で、村雨は巡洋艦3隻の砲撃で沈没した[186][185]。日本側の記録では、峯雲の沈没時刻は23時15分、村雨の沈没時刻は23時30分[186][183]。峯雲乗組員255名のうち、生存者は45名[注 12]、戦死者は210名であった[192]。沈没時は2隻とも多数の乗員が生存していたが、敵艦より機銃掃射をうけたり[193]、長時間におよぶ漂流によって多数が行方不明となった[194]。また同日のコロンバンガラ島守備隊はメリル隊の艦砲射撃を受けて甚大な被害を出しており、大発動艇による救助が遅れて死者が増えてしまったという[195][192]。なおコロンバンガラ島警備隊から派遣された救援隊の隊長は、元峯雲砲術長[180]の岡野大尉であった[196]

その後、コロンバンガラ島の日本軍守備隊に救助された峯雲と村雨の生存者計179人は[195]、鼠輸送でコ島に到着した各艦(朝雲〈第9駆逐隊司令駆逐艦〉、雪風浦波敷波長月[197][198]などに収容され、ラバウル経由で横須賀に戻った[199]。村雨が所属していた第2駆逐隊司令の橘大佐は、峯雲と村雨の沈没原因について「敵巡洋艦3隻の砲撃とB-17十数機の空襲」と報告し、レーダーに厳重に警戒するよう注意を喚起した[182]

なお峯雲と村雨はアメリカ潜水艦グランパス (USS Grampus, SS-207) の撃沈に関与した可能性があるが、種子島洋二(当時、村雨艦長)の回想には特に潜水艦攻撃をおこなった記述はなく[200]、現時点でグランパスの喪失原因は謎である[201]。 4月1日、峯雲は駆逐艦籍と朝潮型駆逐艦から除籍された[3][202]。 まだ第9駆逐隊は峯雲の沈没により朝雲1隻となり、初雪型駆逐艦[202]薄雲[203]白雲[204]を編入して3隻編制となった[205]

本艦の艦名は、海上自衛隊護衛艦みねぐも」に継承された。

艤装員長

  1. 山代勝守 少佐/中佐:1938年1月20日[206] - 1938年4月30日[207]

駆逐艦長

  1. 山代勝守 中佐:1938年4月30日[207] - 1938年11月15日[208]
  2. 山田鐵夫 少佐/中佐:1938年11月15日[208] - 1940年10月15日[30]
  3. 鈴木保厚 中佐:1940年10月15日[30] - 1943年1月25日[209]、以後1943年2月1日まで駆逐艦長の発令はなし。
  4. 上杉義男 中佐:1943年2月1日[164] - 1943年3月5日 戦死[210]。同日付任海軍大佐[211]
  1. ^ 四水戦隷下の第4駆逐隊(駆逐隊司令有賀幸作大佐:野分萩風舞風)は近藤長官の南方部隊本隊に所属し、別行動。

  2. ^ 12月10日、空襲で四水戦旗艦の那珂が小破した[54][55]

  3. ^ 同作戦中、潜水艦の雷撃により駆逐艦夏潮が沈没、駆逐艦涼風が大破した[62]

  4. ^ 第8駆逐隊の大潮満潮バリ島沖海戦で損傷し、戦線離脱。

  5. ^ 『戦史叢書43、ミッドウェー海戦』171頁の兵力部署では愛宕・高雄とするが、高雄と摩耶は北方部隊に配備されアリューシャン作戦従事。

  6. ^ 第四水雷戦隊隷下の第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)は南雲機動部隊に編入され、空母4隻と共に行動する。

  7. ^ 第四水雷戦隊隷下の第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は攻略部隊支援隊(指揮官栗田健男第七戦隊司令官、最上型重巡4隻)に所属し、別行動。

  8. ^ 『戦史叢書62、中部太平洋方面海軍作戦(2)』26頁では第9駆逐隊に駆逐艦山雲を加えるが、同艦は5月15日に9駆から削除されている[59]

  9. ^ 当時、高間少々は戦艦榛名艦長であった。西村少将は最上型重巡洋艦で編制された第七戦隊司令官へ転任した。

  10. ^ 第四水雷戦隊隷下の第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)はB作戦参加中、マレー半島所在。

  11. ^ 健在の3隻(朝雲、春雨、夕立)により、ガ島輸送は成功した[153]

  12. ^ 峯雲砲術長、航海長、予備士官2名、下士官兵42名とも[191]

  13. ^ a b <#達昭和11年12月%281%29> p.5〔 達第百八十二號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ水上機母艦二隻及驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十二月十四日 海軍大臣 永野修身|呉海軍工廠ニ於テ建造 水上機母艦 千代田(チヨダ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 水上機母艦 瑞穂(ミヅホ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 峯雲(ミネグモ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 霰(アラレ) 〕

  14. ^ a b c d e f <#艦船要目公表範囲%28昭和16年6月30日%29> p.20〔 峯雲|一等駆逐艦|(艦要目略)|藤永田造船所|12-3-22|12-11-4|13-4-30|(艦装備略) 〕

  15. ^ a b <#内令昭和18年4月%281%29> pp.28-29〔 内令第五百八十二號|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 村雨、驅逐艦 朝潮、驅逐艦 大潮、驅逐艦 荒潮、驅逐艦 峯雲|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雪、驅逐艦 時津風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 伊號第一潜水艦、伊號第十八潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕

  16. ^ a b c d e f 重本ほか、陽炎型 2014, p. 299a峯雲(みねぐも)

  17. ^ <#艦艇類別等級表%28昭和16年6月30日%29> p.4〔 艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|朝潮型|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰 〕

  18. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 74a-77三月五日の輸送(村雨、峰雲の沈没)

  19. ^ 日本駆逐艦物語、288頁「日本海軍駆逐艦名一覧」「峯雲 Minegumo」

  20. ^ a b c 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91m峯雲(みねぐも)

  21. ^ a b 日本駆逐艦物語、156-159頁「二重衝突による黒潮の損傷」

  22. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 300朝雲(あさぐも)

  23. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 299b夏雲(なつぐも)

  24. ^ a b 重本ほか、陽炎型 2014, p. 301山雲(やまぐも)

  25. ^ 戦史叢書27巻 1969, pp. 104–110戦時編制発令

  26. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 144〈ミッドウェー攻略部隊〉

  27. ^ a b 戦史叢書43巻 1971, pp. 171a-175作戦計画(攻略部隊)

  28. ^ a b 戦史叢書62巻 1973, pp. 97–98その他の各隊の進出

  29. ^ a b 海軍駆逐隊 2015, pp. 161–164地獄の輸送作戦

  30. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 293村雨(むらさめ)

  31. ^ a b c d 戦史叢書96巻 1976, p. 74a.

  32. ^ <#S1712四水戦日誌%285%29> p.8〔 9dg及2dg(春雨欠)ハNTBニ編入中ニシテ同方面作戰ニ従事 (司令)村雨及峯雲ハ上旬「コロンバンガラ」沖ニ於テ敵巡洋艦三隻駆逐艦二隻以上及大型爆撃機十機以上ト遭遇交戰不幸遂ニ峯雲二三一五(司令)村雨二三三〇撃沈セラル 〕

  33. ^ 海軍駆逐隊 2015, pp. 163–165驚異の敵レーダー

  34. ^ 駆逐艦物語 2016, pp. 78–79▽ビラスタンモーア夜戦

  35. ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 90a村雨(むらさめ)

  36. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 148〔ビラ・スタンモーア夜戦〕

  37. ^ 駆逐艦入門, 2006 & ヴィラ・スタンモア海戦, pp. 371–372.

  38. ^ 奥宮、ラバウル 2001, p. 507付録、昭和18年3月6日

  39. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29> p.204 〔◎水上機母艦千代田瑞穂及驅逐艦峯雲霰命名ノ件 昭和十一年十二月十四日(達一八二) 〕

  40. ^昭和12年11月6日 海軍公報第3190号 p.14アジア歴史資料センター Ref.C12070364000 〔 ○進水 驅逐艦峯雲本月四日株式會社藤永田造船所ニ於テ進水セリ/驅逐艦朝雲本月五日株式會社川崎造船所ニ於テ進水セリ 〕

  41. ^ a b #ハンディ判艦艇写真集17pp.85-86

  42. ^ a b c昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.36,38アジア歴史資料センター Ref.C13072079000

  43. ^ a b c d 写真日本の軍艦第9巻、軽巡II 37-38頁〔 軽巡洋艦『川内、神通、那珂』行動年表 ◆那珂◆ 〕

  44. ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, pp. 184–185.

  45. ^昭和16年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第615号 p.44アジア歴史資料センター Ref.C13072080700

  46. ^ #ハンディ判艦艇写真集17p.91(峯雲艦首・艦尾損傷写真)

  47. ^ 日本駆逐艦物語 158頁〔 第12図 昭和16年6月23日の二重衝突 〕

  48. ^ #ハンディ判艦艇写真集17p.101

  49. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 180黒潮艦首損傷写真解説より

  50. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91i朝雲(あさぐも)

  51. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91j山雲(やまぐも)

  52. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91k夏雲(なつぐも)

  53. ^ 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, p. 172a表1〈5500トン型〉の配置 昭和16年12月10日

  54. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 90d五月雨(さみだれ)

  55. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 90c春雨(はるさめ)

  56. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 90b村雨(ゆうだち)

  57. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91a海風(うみかぜ)

  58. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91c江風(かわかぜ)

  59. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91b山風(やまかぜ)

  60. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1988, p. 91d村雨(すずかぜ)

  61. ^ 戦史叢書26巻 1969, p. 00付図第一

  62. ^ 戦史叢書27巻 1969, pp. 120–125作戦計画

  63. ^ 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, pp. 172b-173〈五五〇〇トン型〉開戦後三週間

  64. ^ 戦史叢書27巻 1969, pp. 208–210ビガン急襲/作戦準備

  65. ^ 海軍駆逐隊 2015, pp. 156–157.

  66. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 47–50〈ビガン上陸部隊〉

  67. ^ a b c d 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, pp. 153–154「那珂」変遷

  68. ^ 戦史叢書27巻 1969, pp. 254–258リンガエン湾揚陸/護衛部隊の計画

  69. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 50–51リンガエン湾の上陸

  70. ^ 海軍駆逐隊 2015, p. 158.

  71. ^ a b c <#内令昭和17年5月%282%29> p.26〔 内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル 〕

  72. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 65–66オランダ敷設艦撃沈

  73. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 67–68米に名をなさしめたバリクパパン海戦

  74. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 71–72マカッサル占領

  75. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 441–444東部ジャワ攻略船団の進攻

  76. ^ 駆逐艦物語 2016, pp. 69–71▽スラバヤ沖海戦

  77. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 52–53スラバヤ沖海戦

  78. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 88〈スラバヤ海戦の日本兵力〉

  79. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 87.

  80. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 449–450.

  81. ^ <#S1702四水戦日誌%281%29> p.78〔 二十七(天候略)一一.1616海風夏雲解列輸送船団ノ護衛ニ向フ 〕

  82. ^ 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, p. 174.

  83. ^ 艦長たち(続篇) 1984, p. 175.

  84. ^ 海軍駆逐隊 2015, pp. 157–160スラバヤ沖のチャンス

  85. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 454a-456第二次昼戦(自1850至1950)

  86. ^ 連合軍艦隊撃沈す 2013, pp. 95–96スラバヤ沖海戦

  87. ^ a b 戦史叢書26巻 1969, p. 454b.

  88. ^ 海軍駆逐隊 2015, pp. 160–161四分五烈の連合軍

  89. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, p. 54全軍突撃を開始

  90. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 478–479連合軍の状況

  91. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 184.

  92. ^ 艦長たち(続篇) 1984, pp. 243–245.

  93. ^ 戦史叢書26巻 1969付図第五

  94. ^ <#S1612四水戦作戦記録%284%29> pp.37-38〔(ロ)新型一等驅逐艦ノ給弾薬 「スラバヤ」沖海戦晝戰ニ於テ峯雲ハ朝雲ト共ニ巡洋艦三隻駆逐艦三隻ノ有力ナル敵ト砲戰シ敵巡洋艦及駆逐艦二隻ハ逃走駆逐艦一隻ヲ撃沈セシモ此ノ戰闘ニ於テ峯雲ハ三〇乃至四〇齋射頃ヨリ先ヅ装薬間ニ合ハズ次イデ弾薬間ニ合ハズ遂ニ射撃速度ヲ著シク減ジ(齋射間隔八乃至九秒幸射撃速度ヲ著シク減ジタル時ハ敵ノ大部ハ逃走シ残ル一艦モ沈没ニ瀕シ砲火沈黙シアリタリ)甚シキ不安ノ念ヲ起サシメタリ… 〕

  95. ^ a b 戦史叢書26巻 1969, pp. 460–461輸送船団クラガン入泊

  96. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 136–137東部ジャワ上陸の長良、鬼怒

  97. ^ 戦史叢書26巻 1969, p. 461.

  98. ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 137.

  99. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 519–526東部ジャワ方面部隊、敵を掃蕩

  100. ^ 戦史叢書26巻 1969, p. 524.

  101. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 118–119.

  102. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 219–222クリスマス島上陸(三月三十一日)

  103. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 613–614クリスマス島の攻略

  104. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 221.

  105. ^ 戦史叢書26巻 1969, p. 617.

  106. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 119第9駆逐隊(朝雲、山雲)とするが、夏雲・峯雲の誤記。

  107. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 222a.

  108. ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 191–192○米潜水艦シーウルフ(1942年3月31日)

  109. ^ 写真日本の軍艦第8巻、軽巡I 176-177頁〔 軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆名取◆ 〕

  110. ^ 戦史叢書26巻 1969, pp. 618–620.

  111. ^ 戦史叢書26巻 1969, p. 622.

  112. ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 222b那珂のその後

  113. ^ a b <#S1704四水戦日誌%281%29> p.9〔 本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ 〕

  114. ^ <#S1704四水戦日誌%281%29> p.56、p.66〔 二〇(天候略)一九二〇9dg1D横須賀着 〕

  115. ^ 補助艦艇奮戦記 2016, pp. 166–167瑞穂(みずほ)

  116. ^ 重巡摩耶 2002, p. 127.

  117. ^ 戦史叢書85巻 1975, p. 106本州南岸の護衛、対潜作戦/五月の状況

  118. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 227由良、第四水雷戦隊旗艦となる(五月)

  119. ^昭和17年6月4日(木)海軍公報(部内限)第4107号 p.19アジア歴史資料センター Ref.C12070412400 〔 ○旗艦變更 第四水雷戰隊司令官ハ五月二十日旗艦ヲ由良ニ變更セリ 〕

  120. ^ a b 写真日本の軍艦第8巻、軽巡I 234-235頁〔 軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表 ◆由良◆ 〕

  121. ^ 戦史叢書43巻 1971, pp. 175–176本隊の出撃準備

  122. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 87五月三十日(航海中)

  123. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 303–304ミッドウェー海戦の瑞鳳

  124. ^ 戦史叢書43巻 1971, pp. 118–120最後の作戦打ち合わせ

  125. ^ 戦史叢書62巻 1973, pp. 20–21.

  126. ^ 戦史叢書43巻 1971, pp. 171b、173-176.

  127. ^ 戦史叢書62巻 1973, pp. 21–22ミッドウェー作戦の経過

  128. ^ 戦史叢書43巻 1971, pp. 528–530牽制作戦/作戦指導と経過概要

  129. ^ 戦史叢書62巻 1973, p. 25聯合艦隊司令長官当面の作戦方針下令

  130. ^ 艦長たち(続篇) 1984, pp. 179–180ミッドウェーで牽制行動

  131. ^ 戦史叢書43巻 1971, pp. 530a-531牽制部隊の牽制行動

  132. ^ 戦史叢書62巻 1973, p. 26aMI作戦の牽制部隊の作戦

  133. ^ 戦史叢書43巻 1971, pp. 531–533一航空部隊の作戦

  134. ^ a b 戦史叢書43巻 1971, p. 530b.

  135. ^ 戦史叢書62巻 1973, pp. 26b-28牽制部隊の前程哨戒

  136. ^ a b 戦史叢書29巻 1969, pp. 260–262.

  137. ^ 戦史叢書62巻 1973, p. 30.

  138. ^ 戦史叢書29巻 1969, p. 263.

  139. ^昭和17年6月22日(発令6月20日付)海軍辞令公報(部内限)第886号 p.7アジア歴史資料センター Ref.C13072085900

  140. ^ a b 戦史叢書85巻 1975, p. 107聯合艦隊の協力

  141. ^ 戦史叢書49巻 1971, pp. 438–439ガダルカナル島及びツラギ上陸

  142. ^ 戦史叢書49巻 1971, p. 543前進部隊兵力部署

  143. ^ 愛宕奮戦記, pp. 114–115○8月11日(火曜日)

  144. ^ 愛宕奮戦記, pp. 115–116○8月12日(水曜日)

  145. ^ 戦史叢書62巻 1973, p. 91前進部隊(2F基幹)のトラック進出

  146. ^ 愛宕奮戦記, pp. 123–124○8月21日(金曜日)

  147. ^ 愛宕奮戦記, pp. 132–134○8月26日(水曜日)

  148. ^ 奥宮、ラバウル 2001, p. 476付録、昭和17年8月24日、第二次ソロモン海戦

  149. ^ 戦史叢書83巻 1975, pp. 5–6船団によるガ島輸送の挫折

  150. ^ 戦史叢書49巻 1971, p. 581.

  151. ^ 戦史叢書49巻 1971, p. 575-577前進部隊の作戦

  152. ^ 愛宕奮戦記, pp. 134–135○8月27日(木曜日)

  153. ^ 補助艦艇奮戦記 2016, pp. 165–166千歳(ちとせ)

  154. ^ 戦史叢書83巻 1975, pp. 116–117トラック出撃

  155. ^ 愛宕奮戦記, pp. 171–172○9月15日(火曜日)

  156. ^ 戦史叢書83巻 1975, p. 120.

  157. ^ 戦史叢書83巻 1975, p. 143.

  158. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 326由良の被爆(九月)

  159. ^ a b 戦史叢書83巻 1975, pp. 177–178輸送再開

  160. ^ 奥宮、ラバウル 2001, p. 486付録、昭和17年10月2日

  161. ^ 奥宮、ラバウル 2001, p. 487付録、昭和17年10月5日

  162. ^ 戦史叢書83巻 1975, pp. 181a-182四日~六日の輸送

  163. ^ 戦史叢書83巻 1975, p. 181c米軍資料による。

  164. ^ 高松宮日記5巻 1996, p. 20○第九駆逐隊(五-一六一五)

  165. ^ a b c d 戦史叢書83巻 1975, p. 181b.

  166. ^ 高松宮日記5巻 1996, p. 21○第二駆逐隊(五-一六三〇)

  167. ^ <#S1710四水戦日誌%281%29> p.43〔 六日1157(司令官)3sd(宛略)3sd機密第061157番電 村雨及峯雲修理ノ爲「ラボール」ニ回航セシム村雨(使用可能速力二十一節)代艦トシテ有明派遣ヲ得バ好都合ナリ 〕

  168. ^ 重本ほか、陽炎型, 2014 & 夏雲(なつぐも), p. 299b.

  169. ^ 戦史叢書83巻 1975, pp. 200–202「叢雲、夏雲」の喪失

  170. ^ <#内令昭和17年11月%283%29> p.44〔 内令第二千百十七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年十一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第九驅逐隊ノ項中「夏雲、」ヲ削ル/第十一驅逐隊ノ項中「吹雪、」及「、叢雲」ヲ削ル 〕

  171. ^ 高松宮日記5巻 1996, p. 86○聯合艦隊参謀長(二〇-一七四一)「五月雨」被害砲身換装用トシテ「峯雲」砲身二ツ準備シアリ(以下略)

  172. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 137–138.

  173. ^ <#S1711四水戦日誌%284%29> p.58〔 一六(天候略)一.峯雲修理ノタメ1330横須賀ニ向ケトラック発(以下略)』p.61『二三(天候略)一峯雲1117横須賀着/二.春雨白露2100ラボール発(ラエ輸送)|一.峯雲横須賀着修理整備入渠準備ニ着手ス 〕

  174. ^ <#S1712四水戦日誌%281%29> p.14〔 峯雲及五月雨ハ前月下旬以降横須賀ニ於テ修理ニ従事中峯雲ハ三日横濱ニ回航入渠 五月雨ハ十九日修理完成同日1530横須賀發二十四日0830「トラック」着爾後同地ニ在リテ警戒護衛任務等ニ従事ス 〕

  175. ^ <#S1712四水戦日誌%282%29> p.52〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動〕、p.57〔 三.(天候略)一.峯雲1100横須賀発即日横濱着/二.夕暮0530有明0945ショートランド着/三.夕暮1100ショートランド出撃(ガ島輸送)/四.有明1327ショートランド出撃(SNB支援隊)|一.峯雲横濱ニ於テ入渠/二.春雨準備出来次第横須賀ニ回航修理ニ従事スベキ件発令(Adb電令作第八五号) 〕

  176. ^ a b昭和18年2月1日(発令2月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1046号 p.22アジア歴史資料センター Ref.C13072089600

  177. ^ <#S1712四水戦日誌%284%29> p.26〔 十二日1300峯雲(宛略)峯雲機密第12130番電 武庫丸ヲ護衛シ「トラック」ニ向ケ横須賀発 〕、p.69〔 二二(天候略)一.峯雲1130トラック着(以下略) 〕

  178. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 185.

  179. ^昭和18年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31佐藤・小西補職・山代免職アジア歴史資料センター Ref.C13072089700

  180. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 37–41二月上旬までのソロモン方面防備の概要

  181. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 42–43中部ソロモン方面防備計画

  182. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 304–308ブィラ・スタンモア海戦(三月)

  183. ^ セ号作戦 2003, pp. 49–53ニュージョージアへ緊急輸送

  184. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 43–44中部ソロモン方面増援輸送

  185. ^ 戦史叢書40巻 1970, pp. 205–207二月、三月の中部ソロモン輸送作戦

  186. ^ a b c d e 日本水雷戦史 1986, p. 305.

  187. ^ セ号作戦 2003, p. 50.

  188. ^ <#S1712四水戦日誌%284%29> p.10〔 峯雲ハ横浜及横須賀ニ於テ修理ニ任ジ十二日修理完成横須賀發途中武庫丸護衛ニ任ジ二十二日「トラック」着 (司令)村雨峯雲二十七日NTBニ編入二十八日「トラック」出撃「ラボール」ニ回航ス 〕

  189. ^ <#S1712四水戦日誌%285%29> p.32〔 二(天候略)一.村雨峯雲0800ラボール着/二.白露115佐世保着/三.夕暮1300トラック着/四.朝雲2340ラエ着|一.有明1100ヨリ1900迄トラック礁内出動訓練/二.白露佐世保ニ於テ修理ニ従事ス/三.夕暮(トラック)着瑞鳳基地物件依載 〕

  190. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, p. 56.

  191. ^ セ号作戦 2003, pp. 51–52.

  192. ^ a b昭和17年12月2日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1003号 p.3アジア歴史資料センター Ref.C13072088500

  193. ^ 戦史叢書40巻 1970, p. 206.

  194. ^ a b c d e 戦史叢書96巻 1976, p. 75.

  195. ^ a b 高松宮日記6巻 1997, p. 103a○第二駆逐隊司令(七-〇九五八)

  196. ^ セ号作戦 2003, pp. 54a-60「村雨」ついに被弾、沈没

  197. ^ a b c 戦史叢書96巻 1976, pp. 76–77.

  198. ^ a b c d e 日本水雷戦史 1986, pp. 306–307.

  199. ^ 高松宮日記6巻 1997, p. 103b○「峯雲」砲術長(七-〇八三〇)

  200. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, pp. 59–63帰路の悪夢〈敵魚雷命中沈没*「峯雲」乗組員

  201. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, p. 64.

  202. ^ 高松宮日記6巻 1997, p. 100○第八艦隊(六-一九三二)

  203. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, p. 79.

  204. ^ a b 日本水雷戦史 1986, pp. 308a-309.

  205. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, pp. 65–67暗夜の漂流〈無差別銃撃*機銃員・飯嶋一水ほか〉

  206. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, p. 72.

  207. ^ a b セ号作戦 2003, pp. 72–73.

  208. ^ 下士官たちの太平洋戦争 1986, p. 78.

  209. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 77–78その他の三月中の中部ソロモン方面輸送

  210. ^ 高松宮日記6巻 1997, p. 101○第九駆逐隊(七-一一五五)外南洋部隊作66号

  211. ^ <#S1712四水戦日誌%285%29> pp.16-17〔 八日1420(司令)2dg(宛略)2dg機密第081420番電 六日早朝ヨリ八聯特協力ヲ得テ「コロンバンガラ」基地ニ収容セラレタル生存者左ノ通リニシテ引續キ行方不明者ノ捜索ヲNGBニ依頼生存者ハ今夜入港予定ノ駆逐艦ニ便乗「ラボール」皈投ノ予定 生存者村雨准士官以上本職艦長砲術長水雷長通信士小西候補生掌砲長掌水雷長缶長計9名下士官兵41(内重傷4名軽傷6名)兵84名(内重傷5名軽傷6名)合計134名 峯雲巡士官以上砲術長航海長計2名下士官14名兵29名(内重傷1名)合計45名 〕、同部隊戦時日誌 pp.22-23〔 十四日0735(司令)2dg(宛略) 八通機密第140735番電 村雨峯雲生存者ハ十五日「ラバウル」発予定ノ立石 初鳥ニ便乗「トラック」経由横須賀ニ送還セシム 司令ハ「ラバウル」ニ待機近日「ラボール」着ノ五月雨ニ乗艦ノ予定 〕

  212. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 308b-309潜水艦グラムパス撃沈は誤報

  213. ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 59–60(16)グラムパス(米)/1943年3月5日〈駆逐艦「村雨」「峯雲」、または水偵による〉

  214. ^ a b <#内令昭和18年4月%281%29> p.20〔 内令第五百六十八號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ同「潮潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ同項中「、朝潮、大潮」「、荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル 〕

  215. ^ 写真日本の軍艦、駆逐艦I 251-252頁〔『特型駆逐艦』(吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲)行動年表 ◇薄雲◇ 〕

  216. ^ 写真日本の軍艦、駆逐艦I 252頁〔『特型駆逐艦』(吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲)行動年表 ◇白雲◇ 〕

  217. ^ <#内令昭和18年4月%281%29> p.26〔 内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル 〕

  218. ^昭和13年1月20日(発令1月20日付)海軍辞令公報(号外)第125号 p.23アジア歴史資料センター Ref.C13072073300

  219. ^ a b昭和13年5月2日(発令4月30日付)海軍辞令公報(部内限)号外第176号 p.1アジア歴史資料センター Ref.C13072073800

  220. ^ a b昭和13年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)号外第261号 p.1,3アジア歴史資料センター Ref.C13072074600

  221. ^昭和18年1月27日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1042号 p.29アジア歴史資料センター Ref.C13072089500

  222. ^故海軍大佐上杉義男位階追陞の件 p.6アジア歴史資料センター Ref.A12090255000

  223. ^昭和18年5月1日(発令3月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1105号 p.31アジア歴史資料センター Ref.C13072090800