扶桑 (戦艦) (original) (raw)

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扶桑
第一次改装後の扶桑(1933年)第一次改装後の扶桑(1933年)
基本情報
建造所 呉海軍工廠[1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種 戦艦[2]
級名 扶桑型[3]
母港 最終時:[4]
艦歴
計画 第三期拡張計画(予算のみ)[5]新充実計画(1911-1916年度)[6]
発注 1911年8月26日訓令[7]
起工 1912年3月11日[1]
進水 1914年3月28日[1]
竣工 1915年11月8日[1]
最期 1944年10月25日
除籍 1945年8月31日[4]
要目(新造時計画)
基準排水量 29,326英トン[8]または 29,330英トン[9]
常備排水量 計画:30,600英トン[8]、または31,090英トン[10]竣工時:30,998英トン[9][10]
全長 673 ft 0 in (205.13 m)[11]
水線長 665 ft 0 in (202.69 m)[11]
垂線間長 630 ft 0 in (192.02 m)[8][12][11]
最大幅 水線幅と同じ
水線幅 94 ft 0 in (28.65 m)[12][11]または28.68m[8]
深さ 43 ft 2 in (13.16 m)[11]
吃水 計画常備平均:28 ft 6 in (8.69 m)[8][12][11]完成常備平均:8.623m[10]新造時公試平均:28 ft 8+1⁄8 in (8.74 m)[13]
ボイラー 宮原式混焼缶 24基[11](両面8基、単面16基[14])
主機 ブラウン・カーチス式(高中低圧[11])直結タービン2軸併結[15] 2基[11]
推進 4軸 x 280rpm[11]
出力 40,000馬力[11]
速力 計画:22.5ノット[8][注釈 1]新造公試:22.93ノット[16]
燃料 石炭5,022トン、重油1,026トン[11][10]または石炭4,000英トン、重油1,000英トン[15]
航続距離 8,000カイリ / 14ノット[11]
乗員 1,193名[11][15]竣工時定員:1,276名[17]
兵装 45口径四一式36cm連装砲6基12門[11][15]四一式15cm単装砲16門[11][15]三年式8cm高角砲4門[11][15]朱式6.5mm機砲3門[15]四一式短8cm砲外膅12門[15]53cm水中発射管6門[11]
装甲 舷側:12in(304.8mm)-4in(101.6mm)[18]甲板:3in(76.2mm)-1.2in(30.5mm)[18]砲塔:12in(304.8mm)-8in(203.2mm)[18]砲郭:6in(152.4mm)[18]司令塔:12in(304.8mm)[18]主砲天蓋152mm[_要出典_]
搭載艇 13隻[1][15]
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扶桑(ふそう/ふさう)は、大日本帝国海軍戦艦[19][20][21]扶桑型戦艦1番艦[22]。日本独自の設計による初の超弩級戦艦である。扶桑の名の由来は日本国の古い異名の一つであり[23]、同名を頂く艦としては二代目となる[24](初代扶桑1878年竣工の装甲フリゲート[25])。艦内神社男山八幡宮(石清水八幡宮)および伊勢神宮[26]

第三号戦艦として1912年(明治45年)3月11日呉海軍工廠で起工[1]1914年(大正3年)3月28日に第三号戦艦は「扶桑」と命名された[19]伏見宮博恭王立会いのもと進水[27][1]。同日附で戦艦に類別される[2]1915年(大正4年)11月8日に竣工した[28][1]。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった[29]。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、「扶桑」の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている[30]

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生[31]。9月3日、「扶桑」は東京出身の海軍兵学校生徒41名をのせて東京へ向かった[31][32]1924年(大正13年)7月、高松宮宣仁親王源田実など海軍兵学校52期生235名が卒業するに際し[33]、摂政宮(大正天皇皇太子、即位前の昭和天皇。高松宮兄宮)が海軍兵学校卒業式に行啓する予定が組まれ[34]、摂政宮の御召艦は「扶桑」(艦長米内光政大佐)に指定された[34]。だが行啓直前に「扶桑」で腸チフス患者が発生し、摂政宮行啓は中止になった[34]

「扶桑」はワシントン軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた[35]1930年(昭和5年)4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年(昭和8年)5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた[36]。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった[37]。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の「山城」と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された[38]

高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが「山城」との区別点となっている。なお建造から第一次改装までは「扶桑」の三番砲塔も砲口が艦尾方向を向いていた[39]。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり[_要出典_]、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある[40]

なお、ワシントン軍縮条約の前後に扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約で主砲や舷側装甲の変更が禁止されたため実現しなかった[41]

1933年(昭和8年)11月15日附で、高松宮宣仁親王(海軍大尉)が扶桑分隊長(主砲後部砲台長)[42]として配属される[43][44]。荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王が呆れる事もあった[45]。謎の自殺者が出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している[46]1934年(昭和9年)2月4日、連合艦隊司令長官末次信正中将が巡視に訪れて激励した[47]。4月1日、戦艦の魚雷装備廃止にともない、有田雄三(扶桑水雷長)は重巡洋艦「摩耶」に転任した[48]。 9月11日、「扶桑」以下第一艦隊は舞鶴を出発[49]。連合艦隊演習にともない、北海道、朝鮮半島各地、大連(旅順港)等を航海する[43]。26日より第一戦隊旗艦は「扶桑」から「日向」に変更された[50]。艦隊は青島市を経由して、10月5日佐世保に戻った[51]。11月、高松宮は海軍大学校(甲種学生第34期)入学のため、「扶桑」を退艦した[43][52]

第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年(昭和9年)10月下旬から実施され、1935年(昭和10年)2月19日まで、同じく呉で行われた[53]。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。水平防御も強化された他、艦橋上の測距儀も8mのものに換装され射撃指揮装置も一新された。対空火器の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のレイテ沖海戦には電探も搭載された。機関も改修され出力が5000馬力増加し、改装後の公試では24.7ktを発揮した。外観上の特徴としては、煙突が1本になった[54]。捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18kt〜21.5kt程度に止まり[55]、日本戦艦中最も遅い戦艦となったとされる。一方で、戦闘運転で26ノットを出したという証言もある[56]。主砲一斉射撃時の爆風についても鶴岡信道(第33代扶桑艦長。当時大佐)は特に問題なかったとするが、遠距離射撃時の散布界が広くなる傾向は否めなかったとしている[56]。また水平防御(対250kg爆弾)については不安を抱えており、『結果的には、扶桑、山城という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね。』と回想している[57]

太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する第一戦隊(長門、陸奥)他第一艦隊各艦と共に出撃した。北緯30度、東経160度の「K点」まで進出する予定だったが、12月11日に反転、12月13日に日本・柱島泊地に戻った[58]。「扶桑」乗組員への功績評価は「功労甲」であった。

1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃[59]、6月4日に第一戦隊(大和、長門、陸奥)以下主隊と分離しアリューシャン諸島へ向かった[60]。だがアメリカ軍と交戦することはなく、6月17日に日本へ戻った。それ以降の「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」は出撃機会もなく、いわゆる『柱島艦隊』として、実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用された[61]

1943年(昭和18年)6月1日、「扶桑」艦長は古村啓蔵大佐から鶴岡信道大佐に交代[62](古村大佐は、6月9日附で戦艦「武蔵」艦長[63])。6月8日瀬戸内海柱島泊地に停泊していた「扶桑」、「長門」等は戦艦「陸奥」の爆沈に遭遇した[64][65]。「陸奥」艦長三好輝彦大佐は、「扶桑」艦長室にて鶴岡(扶桑)艦長(6月1日発令[62]。6月7日「扶桑」に到着。三好とは海軍兵学校の同期)と歓談したあと「陸奥」に戻り、爆発にまきこまれて戦死した[66]。「扶桑」や「長門」以下各艦は共同で「陸奥」生存者の救助をおこなった[66][67]

7月には、「長門」と共に航空隊の演習目標艦となった[68]。なお、同型艦「山城」が練習艦として日本本土にとどまっていたのに対し[69]、「扶桑」はトラック泊地に進出することになった[70]。 8月17日に連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦「大和」、「長門」、「扶桑」、空母「大鷹[71]、巡洋艦「愛宕」、「高雄」、「能代」、駆逐艦「涼風」、「海風」、「秋雲」、「夕雲」、「若月」、「天津風」、「初風」)として呉を出撃し、23日にトラックへ到着[72][73]。以降はトラック泊地で待機した[74][75]。 姉妹艦達が輸送任務を終えて日本に戻っても「扶桑」はトラック泊地にとどまり[76]、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲直前にリンガ泊地へ移動している[70]

1944年5月中旬、「長門」とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入[77]。5月14日にタウイタウイへ進出[78]

1944年(昭和19年)6月初旬の渾作戦に、渾部隊指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官指揮のもと、扶桑は第十六戦隊(青葉鬼怒)、第五戦隊(妙高羽黒)、第十駆逐隊(風雲朝雲)、第十九駆逐隊(浦波敷波)、第二十七駆逐隊(春雨五月雨白露時雨)と共に出撃する[79]。渾作戦部隊は、ビアク島に上陸したアメリカ軍を撃退すべく同方面に進出した[80][81]。間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、アメリカ艦隊を誘い出すための陽動部隊(囮)であった[82]

6月3日、アメリカ軍哨戒機に発見された事、アメリカ軍機動部隊出現の報告(誤認)など受けて退避、間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)および各隊はミンダナオ島ダバオへ戻った[81]。「扶桑」の士官によれば、「扶桑」と重巡洋艦「青葉」がいち早く退避したことで司令官は叱責されたという[83]。「扶桑」はマリアナ沖海戦には参加せず、そのままダバオで待機を続けた[84][85]。 7月1日、第四駆逐隊(山雲野分満潮)に護衛され、「扶桑」はダバオを出港[86][87]。 「扶桑」隊はタラカン島タラカンに寄港して燃料を満載しつつ(2日〜8日)[87]、日本本土へ向かった[88]。 14日、敵潜水艦と思しき存在に対し照射射撃を行う[89][90]。第四駆逐隊とは宿毛湾で分離した[91][90]。「扶桑」は呉工廠にて修理と機銃の増設工事を行った。

9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:山城、扶桑)が編制される[92]

9月22日、第二戦隊(山城、扶桑)は第十七駆逐隊(浦風浜風雪風磯風)に護衛されて内地を出撃、ブルネイを経由してリンガ泊地にむかう[93]。航海中の24日、第二戦隊は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)に編入された(連合艦隊電令作第431号)[94]。10月上旬、第二戦隊はリンガ泊地に到着した[94]

開戦前の改装工事および出師準備工事によって、航空機艤装は船体後部に移設され、対空機銃は25mm連装機銃を主力換装されている。大戦中の装備の増強は不明な点も多いが、25mm三連装、連装、単装機銃に13mm機銃多数が追加され、二一号、二二号、一三号電探(レーダー)も加えられたとされる。[95]

1944年(昭和19年)10月25日未明、第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊)は指揮官西村祥治第二戦隊司令官の指揮のもと、戦艦「山城」、「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「満潮」、「朝雲」、「山雲」、「時雨」という戦力でレイテ湾へ突入中、スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、「時雨」を残して全滅した[96]。「扶桑」も雷撃を受け沈没した。経過は以下の通り。

10月22日朝、栗田艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊・第二部隊)はブルネイ泊地を出撃、西村艦隊(第三部隊)は午後3時に同泊地から出撃した[97]。対空機銃を増設した関係で、「扶桑」には定員より多い約1300名が乗艦していたとされる[98]。劣速で[99]航続力の少ない第三部隊は当初より第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高い代わりにレイテ湾への最短航路を経由する事が決定されていた為[100]、同24日、第一遊撃隊とは別コースのスリガオ海峡を通り抜けてレイテ湾を目指した。栗田艦隊(とくに戦艦武蔵)がアメリカ軍機動部隊の攻撃を一身に受けていたために、西村艦隊はミンダナオ海で急降下爆撃機約20(空母「エンタープライズ」、「フランクリン」所属機)による空襲を受けたのみであった[97]

米艦載機を砲撃中の「扶桑」と「最上」(写真上段)[101]

「扶桑」はカタパルト附近に爆弾1発を受け、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けた[97]。「最上」は『扶桑後部ニ爆弾一命中観測機一機炎上 後部ニ破口ヲ生ジタル外大ナル被害ナシ』と報告した[102]

『雑誌丸エキストラ 5月号別冊』によれば、至近弾で後部甲板に装着していた爆雷が爆発し、搭載していた九四式水偵2機に引火。水偵に搭載していた小型爆弾が爆発した事で後部甲板は火の海となり、舵取機室以外の司令官室とその周辺の用具庫などを吹き飛ばされただけでなく、前艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受ける事となった。また、空襲の際に投下された250kg爆弾は副砲の一番砲廊を貫き、中毒者収容室と被服庫の辺りを貫通し、前部水圧機室で爆発した。この爆発によって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、扶桑中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけでなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。更に、前部水圧機室が破壊された事で「扶桑」の第一、第二砲塔の操作に支障が起き、被弾の衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜した。応急処置がほどこされたものの、傾斜は復元されず、そのままの状態で進む事となった[103]

同日夜、アメリカ海軍の魚雷艇部隊がスリガオ海峡の入り口に待ち構えていたため、西村艦隊は重巡洋艦「最上」と駆逐艦「朝雲」、「満潮」、「山雲」を先行させ[104]、直率の「山城」、「扶桑」、「時雨」の探照灯で魚雷艇を攻撃しつつ航行した[105][106][107]

明けて10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が率いるアメリカ軍の第7艦隊第77任務部隊第2群は、丁字陣形で西村艦隊を待ち構えていた。西村艦隊は「満潮」→「朝雲」→「山城」《旗艦》→「扶桑」→「最上」、「山城」の右1.5kmに「山雲」、左に「時雨」という単縦陣で海峡に侵入した[108][107]。さらに完全な単縦陣に移行しつつ砲撃を開始、魚雷艇部隊や駆逐艦隊に向けて砲弾を放った。午前3時、アメリカ軍の駆逐艦隊は魚雷27本を発射、うち1本が「扶桑」右舷に命中した[109]。「最上」戦闘詳報では午前3時以降の攻撃で扶桑右舷中央部に魚雷が命中して落伍、「最上」が「山城」の後ろに続行したと記録されている[110]。なお、西村中将は扶桑が落伍したことを知らなかったとみられる[_要出典_]。 その後午前3時10分(アメリカ軍記録3時38分)、「扶桑」第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆した事で大爆発が発生して船体は真っ二つに割れたというが、駆逐艦「ハッチンス」の戦闘報告によると横転して艦体は二つに折れたが爆発はしていないという。[111]。 アメリカ軍によれば、「扶桑」艦首前半部分は午前4時20-30分頃に沈没し、転覆して浮いていた艦尾後半部分は午前5時20分頃に重巡洋艦「ルイビル」が砲撃して沈めた[112]。沈没位置は日本側の記録では、レイテ湾 北緯10度24分 東経125度21分 / 北緯10.400度 東経125.350度 / 10.400; 125.350、アメリカ軍の記録では北緯10度25分 東経125度20分 / 北緯10.417度 東経125.333度 / 10.417; 125.333となっている。[_要出典_]

多くの資料で「扶桑」艦長阪匡身少将を含む幹部以下全員が戦死したとあるが[113][92]、記録では「扶桑」所属乗組員7名がマニラ地区の地上兵力に編入された[114]。異説としては「扶桑」にも「山城」と同様10名の生存者がいて戦後帰還しているとする江崎寿人大尉(「山城」主計長)の証言もあり、同じ日に沈んだ「山城」には自軍に救助された乗組員がいない事などから情報が混同されている可能性もあり、日米の証言、資料にも差があり、詳細は未だ不明の様である[115]。また、戦後レイテ沖海戦時「扶桑」二分隊主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹(当時)が沈没時の様子を描いた手記を残している[116]

1945年(昭和20年)8月31日、除籍[4]

特徴的な艦橋は船体から分離して45mほど離れた場所で横倒しになって沈んでいる。船体は転覆した状態で沈んでいる。船体は分離こそしていないが、艦首部分は大きく右側に曲がっており右舷の舷側には2つの巨大な裂目が出来ている。

4月2日〜5日 厦門入港[119]

4月9日〜14日 と戦艦長門陸奥、軽巡洋艦天龍、給油艦鶴見、駆逐艦16隻、香港まで親善の訪問を行う。

実働戦力低下のため一時的に戦列復帰(榛名と入れ替わりに改装に復帰)

9月〜10月中旬 第一艦隊第一戦隊として朝鮮半島・旅順・青島市等を訪問。

10月下旬 呉海軍工廠で第二次近代化改装(艦尾延長・第三主砲塔係留位置変更・カタパルト設置)

11月1日 宣仁親王、海軍大学校甲種学生となり退艦(発令1日、退艦2日)[120]

4月18日〜22日 東京空襲の米空母機動部隊追撃

5月29日6月17日 MI作戦支援、キスカ方面に出動、横須賀に帰港。

11月15日1943年1月15日 候補生実習艦として実戦から外される。

6月8日 「陸奥」爆沈に遭遇、救助活動に従事。

秋以降、トラック泊地に進出。

2月25日 第一艦隊解散により連合艦隊付属に編入(1月ごろリンガ泊地へ進出)。

5月中旬 「長門」とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入。タウイタウイへ進出。

5月27日 アメリカ軍のビアク上陸を受け、渾作戦間接援護隊旗艦として出撃、6月5日ダバオへ入港。

7月1日 第四駆逐隊(満潮、野分、山雲)に護衛されダバオ出発。タラカンを経由して内地帰投。

7月15日 呉工廠に入渠し、機銃・電探の増備工事開始(8月14日出渠)。

9月5日 第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)として、第五艦隊各艦と共に内海西部で訓練を実施[121]

9月10日 新編された第二戦隊に編入され、第二艦隊編入[122]

9月22日 輸送任務を兼ね、第十七駆逐隊に護衛されて内地を出撃[123]

9月24日 第二戦隊は第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に編入[94]

10月4日 栗田艦隊にリンガ泊地で合流、8日ブルネイへ進出、22日15:30出撃。(スル海・スリガオ海峡経由レイテ突入航路)

10月25日 スリガオ海峡夜戦にてアメリカ艦隊の雷撃で魚雷が命中して横転、大爆発を起こして沈没した(-180m / 600 fsw)。

要目 新造時(1915年) 艦尾延長時(1935年) レイテ沖海戦時(1944年)
排水量 基準:29,330t常備:30,998t 基準:34,700t公試:39,154t
全長 205.13m 212.75m
全幅 28.65m 33.08m
吃水 8.69m 9.69m
主缶 宮原式混焼缶両面8基同片面16基 ロ号艦本式4基同ハ号缶2基
主機 ブラウンカーチス式タービン 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 40,000shp 75,000shp※※
速力 22.5ノット(計画) 24.5ノット(計画)※※
航続距離 8,000海里/14ノット 11,800海里/16ノット※※
燃料 石炭:4,000t重油:1,000t 重油:5,100t
乗員 1,193名 1,396名 1,637名
主砲 四一式35.6cm連装砲6基
副砲 四一式15.2cm単装砲16門 同14門
高角砲 なし 12.7cm連装砲4基
機銃 13mm4連装4基25mm連装8基 25mm3連装8基25mm連装16基同単装39挺13mm単装10挺
魚雷 53cm水中発射管6門 なし
その他兵装 21号電探1基22号2基13号2基
装甲 水線305mm甲板64mm主砲天蓋152mm 水線305mm甲板100mm主砲天蓋152mm縦壁75mm
搭載機 なし 水偵3機カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年は推定を含む。
※※ 艦尾延長前の数値。

実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 実施場所 備考 出典
1915年8月29日 217.85rpm 46,263馬力 23.004ノット [124]
新造公試 全力 30,662トン 287.85rpm 46,335 SHP 22.93ノット [16]
高速航続力試験 全力 34,440トン 279.70rpm 43,891 SHP 21.923ノット 2時間続航 [16]
高速航続力試験 8/10 34,760トンから30,910トン 262.72rpm 36,024 SHP 19.675ノット 9時間続航 [16]
高速航続力試験 6/10 34,760トンから30,910トン 241.19rpm 27,111 SHP 19.097ノット 160時間続航 [16]
1933年5月10日 大改装後 24.68ノット 宿毛沖 [125]

※『艦長たちの軍艦史』18-21頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

兼呉海軍工廠艤装員(1915年2月26日[126] - 1915年11月8日)

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  1. ^ #軍艦基本計画資料sheet1、#昭和造船史1pp.778-779、附表第2 艦艇要目表 2.主力艦改装前後要目比較表では23ノットとしている。

  2. ^ a b c d e f g h <#艦船要目公表範囲%28昭和12年12月1日%29> p.2〔 扶桑|戰艦|長(米)192.02|幅(米)28.68|喫水(米)8.69|排水量(噸)(基準)29,330|速力(節)22.5|短艇數13|建造所 呉工廠|起工年月日 明治45-3-11|進水年月日 大正3-3-28|竣工年月日 大正4-11-8|主要兵装 大砲36c/m…12 15c/m…16 12.7c/m高角8|發射管2|探照燈8|機械 種類「タルビン」 數4|罐 種類艦本式 數6|推進器數4|馬力40,000 〕

  3. ^ a b #達大正3年4月p.3『達第五十八號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「摂津」ノ次ニ「扶桑」ヲ加フ 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』

  4. ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92、大正15年11月29日(内令238)。

  5. ^ a b c d昭和20年9月3日(月)海軍公報 第5175号 p.1アジア歴史資料センター Ref.C12070509300 〔 内令第七五〇號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 山城 軍艦 武藏 軍艦 翔鶴 軍艦 信濃|呉鎮守府在籍 軍艦 扶桑 軍艦 大和 軍艦 瑞鶴|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 大鳳|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣 〕

  6. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-230

  7. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.226-227,232

  8. ^ <#T4公文備考41/軍艦扶桑製造の件%281%29>画像4-5、官房機密第415号「明治四十四年八月二十六日 海軍大臣 呉鎮司令長官 第三号戦艦製造ノ件 軍備補充費ヲ以テ製造スヘキ第三号戦艦別紙要領書及図面八葉ニ基キ所属海軍工廠ヲシテ製造セシムヘシ 製造費豫算及船体部機関部製造方法書並ニ機関部図面ハ海軍艦政本部長ヨリ送付セシム 右訓令ス(別紙要領書及図面八葉添フ)(終) 」

  9. ^ a b c d e f 「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」p.3。

  10. ^ a b #昭和造船史1pp.778-779、附表第2 艦艇要目表 2.主力艦改装前後要目比較表

  11. ^ a b c d #軍艦基本計画資料sheet1

  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表

  13. ^ a b c 「軍艦長門、扶桑要目」p.4

  14. ^ <#T9公文備考55/戦闘運転成績表%281%29>画像12、大正九年軍艦扶桑戦闘運転成績表(其ノ一)

  15. ^ #帝国海軍機関史(1975)p.471(四〇三頁)

  16. ^ a b c d e f g h i <#戦史叢書31海軍軍戦備1>付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」

  17. ^ a b c d e <#T5公文備考26/試験%281%29>画像22-23、高速航続力試験成績表

  18. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.522-523、大正3年3月28日内令35、将校同相当官52人、兵曹長同相当官、准士官26人、下士268人、卒930人

  19. ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.222

  20. ^ a b c #達大正3年4月p.3『達第五十七號 呉海軍工廠ニ於テ建造ノ第三號戰艦ヲ扶桑ト命名セラル 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』

  21. ^ <#日本軍艦集2600年版> p.17〔 -戰艦- 扶桑(ふさう) 基準排水量29,330噸、長さ192.03米、幅28.68米、平均吃水8.69米、速力22.5節、備砲36糎砲12門、15糎砲16門、12.7糎高角砲8門、魚雷發射管2門、起工明治45年3月11日、進水大正3年3月28日、竣工大正4年11月8日、建造所呉海軍工廠-姉妹艦に山城がある。〕

  22. ^ <#ポケット海軍年鑑%281935%29> p.14〔 戰艦"扶桑 ふさう" 全要目{排水量29,330噸 速力22.5節 備砲36糎砲12門 15糎砲16門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管2門 起工明治45年3月 竣工大正4年11月 建造所 呉工廠} 同型艦"山城 やましろ" 昭和8年に約3ヶ年を要して大改装を完成したこの扶桑ほど、づばぬけた近代化を示して世人をあつと云はせたものは世界中どこをたづねてもあるまい。改装直にその年の特別大演習に参加し、引續き昭和9年度昭和10年度と聯合艦隊の主軸をなしてゐるのに見て、この近代化は異彩を放つてゐる。竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。戰艦山城はこの扶桑と同型の姉妹艦本年これも改装を完成して共に聯合艦隊の主力として活躍中である。 〕

  23. ^ <#艦艇類別等級表%28昭和16年12月31日%29> p.1〔 艦艇類別等級表|軍艦|戰艦|扶桑型|扶桑、山城 〕

  24. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.25『艦名考:東海中に在りと云ふ大なる神木、転じて東方日出づる處にある神仙国、即ち我が大日本国の異称とす。』

  25. ^ 「官房第714号 10.2.20 軍航扶桑由来の件」p.3

  26. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.110

  27. ^ <#高松宮日記2巻> 170-171頁〔 十一月二十四日雨(中略)今日は午前、扶桑神社(昨年大神宮を合祀す もともとは男山八幡だつた)のおまつりあり。後武技試合ありしも喪中だから参列せず。午後、配置教育、総合兵器額、第四回弾火薬庫装置 〕

  28. ^ 「軍艦扶桑進水式に関する件(3)」p.59

  29. ^ 「軍艦扶桑製造の件(2)」p.4

  30. ^ #歴群30扶桑型p.122

  31. ^ #歴群30扶桑型p.123

  32. ^ a b 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 205.

  33. ^ <#高松宮日記1巻> 176頁〔 九月三日 月曜 東京出身ノ生徒ハ「扶桑」デ急行シタ。途中寄港スルノデ東京着ハ余リ早クナイ(以下略) 〕

  34. ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 726〈付〉高松宮宣仁親王ご年譜

  35. ^ a b c 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 215.

  36. ^ 「丸 2013年8月号」p76

  37. ^ #歴群30扶桑型p.125

  38. ^ #歴群30扶桑型p.126

  39. ^写真週報117号」p.11、#歴群30扶桑型p.110

  40. ^ 「軍艦扶桑製造の件(2)」p.59。扶桑の設計図より。

  41. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 12–16水平防御に弱点

  42. ^ 「丸 2013年8月号」p89

  43. ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 292.

  44. ^ a b c 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 732〈付〉高松宮宣仁親王ご年譜

  45. ^ <#高松宮日記2巻>165頁

  46. ^ <#高松宮日記2巻> 199頁〔 一月十日 八時半、艦へ。今日は艦へとまるつもりだつたら、艦長がきて浴室便所の繼が悪いから艦へとまるなとのことだつたから、浴室はどうせ入らぬからいらぬ、便所も使はないからと云つたら、大便をするだろうと(以下略) 〕

  47. ^ <#高松宮日記2巻> 205頁〔 一月二十三日(略)今朝、四塔の換装室から弾庫へおりるあのせまい通路で首つりをやつた三水あり。原因不明。志願兵で中学も出た、よい明い兵だつたさうだが、四塔員、オハラヒをしたりする。いやはや不景気な艦である。病死したものも最近あつたが。〕

  48. ^ <#高松宮日記2巻> 212頁〔 二月四日 〕

  49. ^ <#高松宮日記2巻> 236頁〔 四月一日 水雷長が摩耶へ転任(戦艦の雷装廃止によつて)〕

  50. ^ <#高松宮日記2巻> 299頁〔 九月十一日 〕

  51. ^ <#高松宮日記2巻> 306頁〔 九月二十六日 十時半、第一戦隊旗艦変更、「日向」へ(以下略) 〕

  52. ^ <#高松宮日記2巻>312頁『十月五日 六時、まだ暗いのに入港。午前、鎮長官〔米内光政中将〕、松浦寅三郎氏来艦。午後、知事来る。』

  53. ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 296海軍大学校入学

  54. ^ #歴群30扶桑型p.127

  55. ^ <#ポケット海軍年鑑%281937%29> p.13〔 戰艦"扶桑 ふさう" 全要目{排水量29,330噸 速力22.5節 備砲36糎砲12門 15糎砲16門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管2門 起工明治45年3月 竣工大正4年11月 建造所 呉工廠} 約3ヶ年を要して大改装を完成した扶桑ほど、思ひ切つた近代化を示して世界をあつと云はせたものはあるまい。それほどこの近代化は異彩を放ち、竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。煙突は一本に省略されカタパルトが嚴然と据ゑられ(山城では射出機は艦尾にある)探照燈架が増へ、後檣が大きくなつて、人をして同艦であるかを疑はしめたほどの蝉脱振であつた。長さ192.02米、幅28.68米(山城28.65米)平均吃水8.69米。〕

  56. ^ 「レイテ沖の日米大作戦」p60、「第3/2. 海上作戦(レイテ海戦)(2)」p1〜6、「昭和19年10月16日〜昭和19年10月28日 戦闘詳報. 第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)」p12、32、「昭和19年10月18日〜昭和19年10月25日 軍艦最上戦闘詳報」p7「昭和19年10月23日〜昭和19年10月27日 駆逐艦時雨戦闘詳報」p34〜36

  57. ^ a b 佐藤、艦長たち 1993, p. 14.

  58. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 15.

  59. ^ #歴群30扶桑型p.170

  60. ^ #歴群30扶桑型p.173

  61. ^ #歴群30扶桑型p.174

  62. ^ <#戦艦十二隻%282014%29>314-315頁(古村啓蔵扶桑艦長談)

  63. ^ a b c 昭和18年6月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1034号。アジア歴史資料センターref.C13072091400 p.23で閲覧可能。

  64. ^ 昭和18年6月9日付 海軍辞令公報(部内限)第1040号。アジア歴史資料センターref.C13072091500 p.44で閲覧可能。

  65. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 9–12「陸奥」爆沈の目撃者

  66. ^ 戦史叢書88 1975, p. 109戦艦陸奥の爆沈

  67. ^ a b 佐藤、艦長たち 1993, p. 11.

  68. ^ <#戦艦十二隻%282014%29>280-284頁

  69. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(2)」p.30

  70. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(4)」pp.18-20

  71. ^ a b 佐藤、艦長たち 1993, pp. 16–17運命のスリガオ突入

  72. ^ <#S1806二水戦日誌%282%29> p.51〔 一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略) 〕

  73. ^ <#S1806二水戦日誌%282%29> p.4〔 (三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着 〕

  74. ^ <#S1806二水戦日誌%282%29> p.60〔 二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和 長門 扶桑 愛宕 高雄 能代 24dg(涼風 海風)11dg(秋雲 夕雲)天津風 若月 初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五 〕

  75. ^ <#S1804十一水戦日誌%285%29> pp.10-12

  76. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 17.

  77. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(5)」p.75

  78. ^ 「戦史叢書 マリアナ沖海戦」 p370〜371

  79. ^ 「戦史叢書 マリアナ沖海戦 付表第一 聯合艦隊主要艦艇行動表」

  80. ^ 扶桑は第十駆逐隊(風雲、朝雲)と共に間接護衛隊に編入。「戦史叢書 マリアナ沖海戦」p494

  81. ^ <#S1906五戦隊日誌> p.2〔 (一)前月末渾部隊ニ編入セラレ「ダバオ」ニ待機中ノ處二日渾作戰部隊警戒隊(5S 27dg)間接護衛隊(扶桑10dg)ヲ率ヰ「ビアク」島ニ向ケ「ダバオ」ヲ出撃セルモ三日同作戰ノ一時中止ヲ令セラレタルヲ以テ五日「ダバオ」ニ歸投警戒待機ス此ノ間四日払暁敵B-24三機ト交戰ソノ一機ヲ撃墜他ヲ撃退セリ 〕

  82. ^ a b <#あ号作戦日誌%282%29> pp.20-21〔 (ハ)第十駆逐隊(1)風雲 渾部隊トシテ第五戰隊扶桑ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ヨリ「ダバオ」回航中ノ所一日同地着、二日渾作戦間接護衛隊トシテ第五戦隊扶桑ト共ニ「ダバオ」出撃「ビアク」ニ向ケ航行中ノ所渾作戰中止反転ス 四日敵哨戒機数機ト交戰戰果被害ナク五日「ダバオ」ニ入港ス、七日渾作戰再興即日「ダバオ」出撃「バチヤン」ニ向ケ警戒航行中ノ處八日0320「セントオーガスチン」岬ノ二四〇度二〇浬ニ於テ敵浮上潜水艦ヲ発見之ガ攻撃ニ向ヒツヽアル中雷撃ヲ受ケ沈没セリ 〕

  83. ^ <#リバイバル戦記コレクション6>185頁

  84. ^ <#リバイバル戦記コレクション6>186頁

  85. ^ #歴群30扶桑型p.175

  86. ^ 野分物語 2014, pp. 202–209戦艦「扶桑」の内地回航

  87. ^ <#S1812第4駆日誌%288%29> p.5〔 十日附 朝雲當隊ニ編入 艦船番号左ノ通リニ定ム 一番艦満潮 二番艦野分 三番艦朝雲 四番艦山雲 〕

  88. ^ a b <#S1812第4駆日誌%287%29> pp.3-5,11〔 1日0445「ダバオ」発 扶桑ヲ護衛シ「タラカン」ニ向フ 〕-〔 8日0645横須賀ニ向ケ発扶桑護衛 〕

  89. ^ 野分物語 2014, p. 205.

  90. ^ <#S1812第4駆日誌%287%29> p.5〔 14日0305 浮上潜水艦ニ対シ扶桑照射砲撃ス 〕

  91. ^ a b 野分物語 2014, p. 206.

  92. ^ <#S1812第4駆日誌%287%29> p.6〔 14日 0900宿毛湾入港 扶桑ヨリ燃料補給 終了後扶桑ト解列 1315宿毛湾出発 4dg(朝雲欠)横須賀回航 〕

  93. ^ a b <#戦艦十二隻%282014%29>316-317頁『スリガオ海峡の夜戦』

  94. ^ <#S1907十戦隊日誌%283%29> pp.4-5〔 (ホ)第十七駆逐隊 (1)磯風浦風 十一日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断十二日浜風若月ト共ニ「リンガ」発「リンガ」進出豫定ノ第二戰隊警戒ノ爲呉ニ回航十九日同地着若月ト分離雪風ト合同修理工事施行ノ上二十二日第二戰隊警戒艦竝ニ輸送任務ヲ兼ネ同地発「ブルネイ」ヲ経テ「リンガ」進出ノ途上ニアリ(十月二日「リンガ」着) 〕

  95. ^ a b c 戦史叢書37 1970, p. 569.

  96. ^ 週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル (6)p.22

  97. ^ <#海軍駆逐隊%282015%29>344-346頁『生き残ったもの一隻』

  98. ^ a b c <#戦艦十二隻%282014%29>329頁『西村艦隊の大黒柱として』

  99. ^ <#サイパン・レイテ海戦記>239頁

  100. ^ 実速21kt、艦隊全速20kt

  101. ^ 「戦史叢書 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦」p71

  102. ^ #丸 MARU 1月別冊 第二次世界大戦「日本の戦艦」大百科 日本の超弩級戦艦オールカタログp.109『浮かぶ城閣「扶桑」型の血戦記』

  103. ^ #決断と異議p.160、#最上詳報p.7

  104. ^ 『雑誌丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』p124

  105. ^ <#時雨詳報> p.8〔 一八三〇|最上4dg(d×3)ヲ分離「リゴツト」湾方向ニ偵察掃蕩セシム 〕

  106. ^ <#サイパン・レイテ海戦記>197頁

  107. ^ <#時雨詳報> p.8〔 二二五〇(二三〇九)|2S時雨敵魚雷艇ト交戦撃退シツツ進撃 以後概ネ終始魚雷艇ニ觸接セラル(戦果時雨一隻撃沈) 〕

  108. ^ a b <#戦艦十二隻%282014%29>330-331頁『敵ながら天晴れのT字戦法』

  109. ^ #時雨詳報p.8、#最上詳報p.8

  110. ^ <#戦艦十二隻%282014%29>331-333頁『扶桑にむけた集中砲火』

  111. ^ <#最上詳報> p.16〔 扶桑右舷中部ニ魚雷命中、右舷ニ傾斜速力低下後落セルヲ以テ山城ニ続行ス 〕

  112. ^ <#サイパン・レイテ海戦記>199頁

  113. ^ #決断と異議p.210

  114. ^ 「艦長たちの軍艦史」p.20

  115. ^ <#10月18日以降増援兵力> p.2〔 方面:北比|地域:マニラ|所轄|扶桑|進出期日(編制期日):1944.10.25|員数:7 〕

  116. ^ <#サイパン・レイテ海戦記>238頁

  117. ^ 『雑誌丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』p122〜p127『老朽戦艦扶桑スリガオ海峡に消ゆ』

  118. ^ <#候補生実務練習報告%284%29> p.10〔 五.一|金|呉|免長門乗組被仰付扶桑乗組 〕

  119. ^ #大正天皇御物語p.137

  120. ^ <#第1艦隊廈門回航状況> p.3〔 第一艦隊ノ来厦ニ關シ報告ノ件(略)本月二日午前入港同五日未明馬公ニ向ケ出港(略) 〕

  121. ^ <#高松宮日記2巻> 320頁〔 十一月一日 午前「扶桑」へ行く。舟尾(艦尾)切取工事でとても騒々しい(以下略) 〕

  122. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 373–374訓練等

  123. ^ 戦史叢書37 1970, p. 372兵力の改定

  124. ^ <#S1802第17駆日誌%283%29> pp.30-31〔 2S機密第210105番電 當隊及十七駆輸送中ノ人員物件左ノ通リニ付之ガ揚搭ニ関シ予メ準備シ置カレ度(以下略) 〕

  125. ^ <#T4公文備考44/試験%281%29>画像45、電報

  126. ^ 昭和45年11月15日発刊 第1巻・第2号「丸」季刊「Graphic Quarterly(グラフィック・クォータリー)THE MARU GRAPHIC 11/AUTUMN1970」では、大改装後の速力が24.7ktとされている

  127. ^ a b海軍辞令公報 大正4年2月アジア歴史資料センター Ref.C13072070900

  128. ^昭和19年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1337号アジア歴史資料センター Ref.C13072095900