日本のオーストラリア空襲 (original) (raw)

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日本のオーストラリア空襲
ダーウィン港内で炎上する艦船(1942年2月19日)
戦争第二次世界大戦
年月日1942年2月-1943年11月
場所オーストラリアの旗 オーストラリア西オーストラリア州クイーンズランド州ノーザンテリトリー
結果大日本帝国海軍機による空襲成功。戦略的勝利。
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 オーストラリアの旗 オーストラリアイギリスの旗 イギリスアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国オランダの旗 オランダ
戦力
零式艦上戦闘機一式陸上攻撃機二式飛行艇など P-39 エアラコブラP-40E ウォーホークスピットファイアPBYカタリナ対空砲火など
損害
死者約20-30人捕虜数名航空機10-20機撃墜 死者約400名負傷者約1,000人航空機30-40機撃墜KLM民間機1機撃墜航空機80-100機地上破壊オーストラリア海軍掃海艇パトリシア・キャム民間はしけ10艇沈没他地上施設多数
太平洋戦争 南方作戦 ソロモン ニューギニア ミッドウェー作戦 ビルマ インド洋 中部太平洋 マリアナ フィリピン 沖縄戦 日本本土空襲 本土決戦 ソ連対日参戦 その他の作戦と戦い
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日本のオーストラリア空襲(にほんのオーストラリアくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1942年2月から翌1943年11月までの期間にわたり、連合国の一国であるオーストラリア本土、地域の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶に対し、大日本帝国海軍および大日本帝国陸軍航空機により行われた一連の空襲の事を指す。

ブリスベン市内の防空シェルター(1945年)

オーストラリア本土は、第二次世界大戦中に日本軍機により少なくとも97回の攻撃をうけた。最初でかつ最も大規模だったのは1942年2月19日朝の空襲で、ダーウィンは242機の艦載機に攻撃され、少なくとも243人が死亡し、数百人が住宅を失った。ポート・ダーウィンはこのために海軍の主要基地としての機能を完全に喪失した。

これらの攻撃に対し、王立オーストラリア空軍(RAAF)、オーストラリア陸軍王立オーストラリア海軍アメリカ陸軍航空軍アメリカ海軍英国王立空軍(RAF)、オーストラリアに逃亡したオランダ王立東インド空軍が反撃を行った[1]。ほか、ブリスベンをはじめとした都市部では防空シェルターの整備が行われた。

また日本軍の上陸が予想されたことから、オーストラリア政府と軍により沿岸の警備や海岸線への地雷の埋設、避難訓練が行われたほか、学童疎開の実施も検討された。

これらの攻撃により、死者は400人以上、負傷者1,000人以上が出たとされ、さらに日本軍は軍事施設や軍用兵器類だけではなく、港湾や民間管理の飛行場、鉄道や燃料タンクといった戦時の補給線であるインフラストラクチャーも攻撃目標とした。このためこれらの施設に勤務する、もしくは近隣に在住する多くの非軍属の労働者らも被害に遭った。最後の空襲は1943年11月であった。

日本軍がオーストラリアに対して一連の空襲を実施した目的は、日本軍がオランダ領東インド諸島を占領したのに対抗しようとして、連合国軍が北オーストラリアにある各基地を使用するのを妨害するためだった。

石油貯蔵タンクの爆発、ダーウィンへの日本による最初の空襲で攻撃された。手前はHMAS デロラインで損害をまぬがれた(1942年2月19日)

爆撃で破壊されたダーウィン市内の郵便局(1942年2月19日)

1942年2月19日のダーウィン市への爆撃は、日本がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の攻撃だった。2月19日に4隻の日本航空母艦赤城加賀飛龍蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させた。これらの艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え、アメリカ海軍の「USS パーリー」を含む9隻の船舶が沈没した。

同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、市街地と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。これらの攻撃に使用された弾薬量は、前年12月に行われた真珠湾攻撃の総量を凌ぐと言われている。

避難した多くの民間人と共に、軍すらも街から逃亡してしまったため、損害の確認に手間取ることとなったが、最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、300人から400人が負傷し、その大部分はイギリス軍アメリカ軍などの、オーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。ダーウィン市を防衛していたオーストラリアおよびアメリカ軍はわずかに日本機4機を撃破できただけで、この一連の空襲は完全に成功した。

全く無警戒であったオーストラリア側には、

というような証言が残っている。

炎上するB-24リベレーター(1942年3月3日)

1942年3月3日に、9機の日本海軍の零式艦上戦闘機が、西オーストラリア州北西沿岸の町であるブルームの空港と港湾施設を攻撃した。

ブルームは小さな町だが、当時日本軍のジャワへの進攻によってオランダ領東インドから避難してくる民間人と、退却してくるオランダ軍やアメリカ軍関係者の脱出ルート上に位置する主要な航空基地となっていた。

攻撃は零戦による機銃掃射であり、爆弾は投下されなかったが、アメリカ軍のB-24リベレーター爆撃機が破壊されたほか、14機の飛行艇が破壊され、35人から40人が死亡するという被害を出した。

さらにブルームにはほとんど防御の備えがなされていなかったので、日本軍側に与えた損失は軽く、ブルーム上空で零戦1機を撃墜した他、もう1機に損害を与え、基地帰還失敗で損失させたにとどまった。

タウンズビルの基地に展開するアメリカ軍のF-4偵察機(1942年7月)

オーストラリア北東沿岸部のクイーンズランド州最大の港湾都市であるタウンズビルの郊外には、アメリカ陸軍航空隊の主要な航空基地があり、1942年7月後半の3夜に、日本海軍飛行艇の空襲をうけた。

7月25日から26日にかけての深夜に、市街地に3機の日本軍の大型飛行艇による攻撃をうけたが、3機から投下された6個の爆弾は海に落ち被害はなかった。タウンズビルは7月28日の早朝に2度目の攻撃をうけ、1機の飛行艇から8個の爆弾が投下されたが、それらは街の郊外の潅木地帯に着弾した。6機の P-39 エアラコブラはこの日本機を迎撃しようと離陸したが迎撃には失敗した。

タウンズビルへの3度目の空襲は7月29日の夜におきた。1機の飛行艇が再び街を攻撃して来て、6個の爆弾は海に落ちたが7個目は街の競馬場トラックコースに損傷を与えた。この日本機は4機のエアラコブラに迎撃され損傷をうけたが無事帰還した。

4度目の空襲は7月31日、クイーンズランド州最北区で発生した。1機の飛行艇から1個の爆弾が投下され、モスマン(Mossman, Queensland)郊外の一軒家の民家近くで爆発して一人の子供が負傷した。

爆撃で破壊されたダーウィン市内の税関ビル(1942年10月)

日本軍機の爆撃で破壊されたダーウィン市内の建物(1943年4月)

日本軍機に撃墜されたアメリカ軍のP-40(1942年2月19日)

1942年5月にイギリスからスピットファイアを装備する飛行隊の増援が決まり、オーストラリア空軍は第1航空団の編成をはじめた。しかし、地中海の戦局悪化と、日本軍にインド洋と南太平洋の制海権を奪われたことにより増援は中断され、10月に定数機の輸送を終えた。

1942年3月中旬にアメリカ陸軍航空軍のP-40E ウォーホークを装備する第49戦闘機航空群がダーウィンに到着し、翌月から迎撃任務についた。

オーストラリア空軍と交代する8月までダーウィンで昼間爆撃を迎撃し、オーストラリア軍およびアメリカ軍の集計では、「21機を失ったが日本機を79機撃破した」とされるが、この集計は、戦果がかなり誇張されているとみられている。

  1. ^ 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.14 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年