景浦將 (original) (raw)
景浦 將
晩年の景浦(1943年撮影) | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県松山市 |
生年月日 | (1915-07-20) 1915年7月20日 |
没年月日 | (1945-05-20) 1945年5月20日(29歳没) |
身長体重 | 173 cm75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、投手、三塁手、一塁手 |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1936年4月29日 |
最終出場 | 1943年11月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
愛媛県立松山商業学校 旧制立教大学(中退) 大阪タイガース 阪神軍 (1936 - 1939, 1943) | |
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者 | |
選出年 | 1965年 |
選出方法 | 特別表彰 |
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景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手、内野手)。
日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人で、フィリピンにて戦死している。本名が「將」だったことから「鬪將(闘将)」の異名をとり[1][2]、阪神ファンの間では「零代ミスタータイガース」としても知られている[3]。
旧字体が使用できない新聞等のメディアでは「景浦将」の表記を用いることがある。
水島新司の漫画「あぶさん」に登場する景浦安武のモデルとなった一人。当時、朝日軍に所属していた景浦賢一は実弟である。
経歴
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プロ入り前
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松山商業野球部時代の景浦(1932年)
1915年7月20日に愛媛県松山市で材木商を営む家に生まれる。少年時代は小柄で痩せており、当初は野球ではなく剣道に打ち込んでいた。甲子園の強豪でもある松山商業学校に進学後も2年生までは剣道部に所属していたが、後の景浦の長打力の源はこの剣道による猛稽古で鍛えられた強靭な手首と足腰にあるとも言われている。景浦の長打力については剣道以外にも「野球部への入部祝いとして、父からプレゼントされた手製のバット(桜の木)を毎日欠かさず素振りして長打力が付いた」とも言われており[4]、いずれにせよ景浦の地道な努力が実を結んだとされる。
3年生のある日、野球部で選手が不足する事態となった際に当時の指導者だった後藤二郎から勧誘されて野球部に入部した。景浦は入部した途端に打球の鋭さや投じた球の速さによってすぐに頭角を現し、三森秀夫(のちに法政大学から東京巨人軍へ入団)、高須清(のちに早稲田大学から大日本麦酒を経てイーグルス入団)らと共に第8回選抜中等学校野球大会(ベスト8)、第17回全国中等学校優勝野球大会(ベスト4)に出場するなど成績を残す。1932年の第9回選抜中等学校野球大会では決勝戦で楠本保率いる兵庫県立明石中学校を接戦の末に下して優勝を果たしたほか、同年夏の第18回全国中等学校優勝野球大会でも決勝戦(対中京商業学校戦)において2回裏から先発・三森の2番手として登板し、9回表に自ら三塁打を放って同点に追いつく執念を見せる。しかしその直後、中京商業学校の選手が放った打球が景浦の左足に直撃して降板し[注 1]、三塁の守備に就くも足の状態が悪いことに気付いた中京商業側が景浦が守る三塁側へ執拗なバント攻めを展開した挙句、延長11回にサヨナラ負けを喫して準優勝となった。
松山商業学校を卒業後は立教大学へ進学し、1年生ながら公式戦において打者として長打力を発揮する一方、投手として4勝1敗の好成績を残し、立教大学の優勝に貢献した。景浦の1学年上に坪内道典がおり、景浦が戦死するまで親交が続いたほか、立教大学在籍中は帰郷する度に母校・松山商業学校へ出向き、後輩らに1人1時間のノックを浴びせた。このノックを浴びた千葉茂は「(景浦が)戻ったと聞いただけで身体が震えた」という[4]。
プロ入り後
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| | | | | ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ | | ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- | | 景浦の豪快なスイング | | 投手としても活躍 |
景浦は大学卒業を待たず、1936年2月28日に立教大学を中退し、大阪タイガースと入団契約を取り交わした。当初、景浦はタイガースへ入団する意思は無かったが、「材木商の実家が「山を買う」という話に騙されて金を盗られ、多額の借金を負ってしまい、借金返済のために大学を中退してタイガースに入団した[_要出典_]」「監督の森茂雄から『野球がダメなら電鉄社員として面倒を見るから』と勧誘された」とも言われている[4]。だが、入団時に支払われた支度金が給与から天引きされていたことが後に発覚し、シーズン途中に森が解任されたことと合わせて、景浦にとって球団不信の原因となった[4]。それでも景浦のセールスポイントとして大きなリンゴを一握りで潰せる握力を引っ提げて入団し、初代「4番・三塁手」のスラッガーとして打棒を振るい、タイガースの中心選手として沢村栄治(東京巨人軍)と数々の名勝負を繰り広げたほか、人員不足から投手としても登板した。
景浦は1937年に4番・三塁手へ転向し、首位打者(1937年秋季)、打点王(1937年春季、1938年春季)[5]を獲得するなど群を抜いた活躍を見せ、タイガースの初代日本一と翌年の連覇を牽引した。1937年春季に投手として規定投球回数を満たして防御率0.93と、沢村(0.81)に次ぐ2位の好成績を見せ、打者としてはリーグトップの21長打を放った[注 2]。47打点は春・秋の2シーズン制での最多記録[注 3]となったほか、同年秋季は打率.333で首位打者にも輝いた。最優秀防御率と首位打者の両方を記録したのは景浦のみである。また、このシーズンの出塁率.515は歴代2位[注 4]で、1938年春季には31打点で2度目の打点王に輝いたほか、守備でも持ち前の強肩でピンチを救った。
投手としては、重いシュート(ナチュラルシュートとも言われ、速球のみ投げていたとの記述もある[4])を武器に1936年秋季には防御率0.79(歴代2位)で最優秀防御率、6戦全勝の勝率10割(歴代1位)で最高勝率をそれぞれ獲得し、東京巨人軍との優勝決定戦では沢村の3連投の前に屈したものの、第1戦(洲崎球場)では沢村と投げ合い、味方の守備の失策から5点を失ったものの自責点は沢村の3点より少ない2点と好投を見せて完投、打っては4回に沢村から場外へ消える3ラン本塁打を放つなど気を吐いた[6]。その景浦を見た東京巨人軍監督の藤本定義は「アイツこそ史上最強の打者」と絶賛した[4]。
1939年に最初の応召となるが、帰国後も折からの球団不信によるものから「ゴチャゴチャ考えながら野球をやるのが嫌だ」として実家の材木商を継承した[4]。1943年に阪神軍へ復帰後は以前通りの長打力を発揮したが、投手や守備としては兵役中に過度の手榴弾の投擲によって肩を痛め、主に肩への負担が少ない一塁手を担うようになった。それでも兵役の影響は大きいもので守備力まで低下し、相手チームのファンからは同じく兵役から帰還した藤村富美男が守る二塁との間を狙えという野次が飛んだという[7]。
戦死
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1944年に二度目の応召となるがその後は再び日本の土を踏むことは叶わず、1945年5月20日にフィリピン・ルソン島カラングランで戦死したとされる。同じ部隊から帰還した人物の証言では、景浦が飢餓の状況で食料調達に出かけたまま戻らなかったという[8]。景浦の実家には戦後になって送られてきた戦死広報に「1945年5月20日、フィリピン・ルソン島のカラングランで戦死」と書かれていた[8]。ただし、この記述は景浦が所属していたとされる部隊の所在地記録とは異なっており、真相は不明である[8]。故郷、愛媛県松山市に建立されている墓碑と上記の戦死公報によると最終階級は曹長で、実家の母の計らいで最後に戦場に赴く前に結婚していたと言う。
後日になって実家に骨壺が届けられたが、入っていたのは現地の石ころが3つだけだった[9]。後年、景浦の弟・賢一と甥の隆男はインタビューで骨壺について「こんなものが人ひとりの命なのか…」と語っていた[10]。
1965年に野球殿堂入りを果たしたほか、東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に景浦の名前が刻まれている。
プレースタイル
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景浦の打撃~ダンスホール代稼ぎの本塁打
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タイガースで同僚だった松木謙治郎によると、景浦が使用したバットは270匁(1.025kg)~280匁(1.05kg)で長さは35インチ(88.9cm)あり、入団時に265匁(0.994kg)のバットを用いていた松木は驚いたという[11]。景浦自ら「他の選手は振れないはずだ[4]」と語る重いバットを目一杯長く持ち、左手はグリップエンドを包み込むように握り、腰をねじ切るような大きなフォームで行っていた。弟の賢一には常々「絶対にフォームを真似してはいけないよ」と述べていたという[4]。ただし景浦は上半身に比べると足が細く、フルスイングの際に足首を捻って痛めることがあったという。
球筋は弾丸のように速いライナー性の当たりを飛ばしたと言われており、守備練習で内野に就いた味方に対して「危ないから、どけ」というほどだった。景浦の打球は立教大学の先輩にあたる坪内道典によると「外野フェンスギリギリで取った時でも、捕球すると砲丸投げの玉のように重かった」と述べた[12]。
景浦の怪力ぶりを示す記録として、当時は非常に本塁打が出にくいとされていた阪神甲子園球場で、いわゆる「ラッキーゾーン」設置以前にプロ野球公式戦で最多となるオーバーフェンスの4本塁打(阪急軍の山下実とタイ記録)を放ったというものがある[13]。坪内は、景浦と共に毎晩に渡ってダンスホールに通って所持金が無くなった際に、甲子園で本塁打を放つと20円の賞金がもらえたため、景浦に頼んだところ本当にはなって見せたというエピソードを紹介し、改めて景浦のパワーは別格だったと述べている[14][15]。
プロ野球に関する戦前の映像記録はあまり残っていないが、上半身がちぎれそうな勢いでフルスイングする景浦の映像が残されている。
景浦の守備~才能があったのは投手
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当時の球界ではナンバーワンの強肩として知られ、遠投大会では144mという歴代トップの大遠投を見せて優勝したとの記録が残っている[注 5]。
投手としては、決め球のナチュラルシュートが内角に決まると打者が仰け反るような変化をしたという。また、球質が重いうえに低めにしっかり投げ込める制球力があったため、相手打者の打球が外野には滅多に飛ばなかったと言われている[15]。松木謙治郎は「(景浦は)打者としても超一流だが、投手のほうがさらに才能があったかもしれない」と述懐している[14]。
練習嫌いというわけでは無いが通常は投球練習をほとんど行わず、試合中に野手から投手としてマウンドに上がる際にもウォーミングアップとして5~6球程度を投げるのみだったという[15]。しかし、兵役においてその強肩ぶりに目を付けられて手榴弾投げを担当することとなり、それが原因で肩を痛め、復帰後は一塁手としてプレーして投手として登板することは無かった。
人物
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日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人で、最優秀防御率と首位打者を両方とも獲得したことがある唯一の選手である。
投手として史上初のシーズン無敗や防御率0点台、野手として首位打者(1回)・打点王(2回)を獲得するなど最強打者と称された[16]。共に戦争で命を落とした沢村栄治(東京巨人軍)とライバル関係にあり、「東の沢村、西の景浦」「職業野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった」と言われている[17]。
景浦は相当の大食漢で、松山商業学校時代には下校途中に松山市駅で販売していた日切焼を20個食べてから帰宅したり、若林忠志と「すき焼きで肉一貫目(約4kg)食べたら賞金10円という賭けをして勝利した」「同郷の力士で部屋一番の大食いである前田山英五郎と焼き鳥の食べ比べをし、160本平らげて勝利した(景浦はまだ食べられたが前田山が降参した)」「すき焼きの肉が煮える前に完食してしまい、他の選手に景浦と同じテーブルで食べるのを嫌がられた」などといった逸話が残されている[4][18]。酒は全く飲まなかった[4]。
実際は繊細な仲間思いの人物だったという。松木謙治郎は戦後に阪神タイガースの監督に就任した際に、「景浦が復員して『戦争から帰ってきたぞ。今から試合に出るからな』と松木に言って試合に出場する」夢をよく見たという[19]。さらに松木は「景浦が無事に帰ってきていたら、タイガースの監督として(読売)ジャイアンツに負けないチームを作っていただろう。人間としてあんな立派な男はいなかった」とも述べている[14]。
エピソード
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- 気に入らないことがあれば、自分の守備位置への打球を無視したり、ボール球を故意に空振りしたり怠慢プレーを再三見せたという。監督だった石本秀一の日記には「今日も景浦、飛球を追わず、打っても走らず。原因不明」という記述がある。原因として昇給に関することと監督人事に関するものなど諸説あるが、前者は、景浦の昇給分が本人ではなく実家に全額が送金されていたが景浦はそれを知らず、後輩の釣常雄の給料が自身より高額だと誤解し、抗議のためにボイコットしたというものである。一方、後者は初代監督・森と親しかった景浦が森の解任に納得しておらず、後任の石本を認めていなかったために指示に従わなかったというものである[4]。これが元で、死後に野球殿堂入りを選出する際に「プレーが不真面目」として反対意見も出たという[20]。
- 選手仲間とミルクホールの代金を賭けた試合で本塁打を放ち、走りながら一本指を立てた。
- 抜群の運動神経で、バスケットボールや射的も誰よりも上手かったという[4]。
- 1944年に二度目の応召となり、満州国で従軍していたところへ同郷の前田山英五郎が慰問で虎林市に滞在していた折に慰問を受けた。その際に前田山は歯が抜けてとても痩せていた景浦の姿を見て、当初景浦だとは信じられなかったという[21]。
- 詩人の西條八十には「戦場を駆けるタンク」と称された[1]。
その他
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1984年に日本プロ野球50周年[22]記念切手3種のうち、「打者」と題する切手が景浦である。公式には景浦と発表されていない[23]が、景浦のフルスイングした際の写真をモチーフにしている。
詳細情報
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年度別打撃成績
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年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗 塁 死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併 殺 打 | 打率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936春夏 | 大阪 阪神 | 15 | 66 | 58 | 6 | 19 | 5 | 1 | 1 | 29 | 17 | 0 | 4 | 0 | -- | 8 | -- | 0 | 5 | 4 | .328 | .409 | .500 | .909 |
1936秋 | 31 | 133 | 113 | 17 | 28 | 9 | 0 | 1 | 40 | 21 | 4 | 4 | 0 | -- | 20 | -- | 0 | 11 | 4 | .248 | .361 | .354 | .715 | |
1937春 | 55 | 241 | 190 | 41 | 55 | 14 | 5 | 2 | 85 | 47 | 7 | 3 | 0 | -- | 51 | -- | 0 | 17 | 3 | .289 | .440 | .447 | .887 | |
1937秋 | 38 | 165 | 120 | 28 | 40 | 12 | 2 | 3 | 65 | 31 | 5 | 0 | 0 | -- | 44 | -- | 1 | 5 | 3 | .333 | .515 | .542 | 1.057 | |
1938春 | 31 | 141 | 120 | 19 | 34 | 6 | 0 | 5 | 55 | 31 | 0 | 0 | 0 | -- | 21 | -- | 0 | 13 | 2 | .283 | .390 | .458 | .848 | |
1938秋 | 27 | 117 | 99 | 15 | 26 | 5 | 0 | 1 | 34 | 13 | 1 | 0 | 0 | -- | 17 | -- | 1 | 6 | 3 | .263 | .376 | .343 | .720 | |
1939 | 74 | 303 | 267 | 33 | 69 | 7 | 1 | 9 | 105 | 38 | 6 | 5 | 0 | 0 | 36 | -- | 0 | 23 | 3 | .258 | .347 | .393 | .740 | |
1943 | 52 | 210 | 167 | 13 | 36 | 5 | 1 | 3 | 52 | 24 | 5 | 2 | 2 | -- | 40 | -- | 1 | 7 | 7 | .216 | .370 | .311 | .682 | |
通算:5年 | 323 | 1376 | 1134 | 172 | 307 | 63 | 10 | 25 | 465 | 222 | 28 | 14 | 2 | 0 | 237 | -- | 3 | 87 | 25 | .271 | .398 | .410 | .808 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に球団名を変更
- 出典:オフィシャルベースボールガイド・日本プロ野球記録大百科・阪神タイガース昭和のあゆみ
年度別投手成績
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年度 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無 四 球 | 勝利 | 敗戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝率 | 打者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴投 | ボ 丨 ク | 失点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936春夏 | 大阪 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 13 | 2.2 | 3 | 0 | 2 | -- | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 2 | 6.75 | 1.88 |
1936秋 | 8 | 8 | 5 | 1 | 0 | 6 | 0 | -- | -- | 1.000 | 214 | 57.0 | 23 | 0 | 18 | -- | 0 | 30 | 0 | 0 | 8 | 5 | 0.79 | 0.72 | |
1937春 | 22 | 7 | 3 | 1 | 0 | 11 | 5 | -- | -- | .688 | 434 | 106.1 | 72 | 0 | 39 | -- | 1 | 52 | 0 | 0 | 26 | 11 | 0.93 | 1.04 | |
1937秋 | 8 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | -- | -- | .800 | 120 | 31.1 | 18 | 1 | 9 | -- | 0 | 17 | 0 | 0 | 5 | 5 | 1.44 | 0.86 | |
1938春 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | -- | 1.000 | 125 | 29.1 | 26 | 0 | 12 | -- | 1 | 16 | 0 | 0 | 8 | 8 | 2.45 | 1.30 | |
1938秋 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | -- | -- | .667 | 69 | 15.2 | 14 | 0 | 12 | -- | 0 | 5 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0.57 | 1.66 | |
1939 | 6 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 2 | -- | -- | .500 | 140 | 32.0 | 33 | 1 | 14 | -- | 1 | 13 | 0 | 0 | 19 | 16 | 4.50 | 1.47 | |
通算:4年 | 56 | 20 | 10 | 2 | 0 | 27 | 9 | -- | -- | .750 | 1115 | 274.1 | 189 | 2 | 106 | -- | 3 | 134 | 0 | 0 | 75 | 48 | 1.57 | 1.08 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録
タイトル
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表彰
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- 野球殿堂特別表彰(1965年)
記録
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背番号
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- 6 (1936年 - 1939年、1943年)
脚注
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注釈
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- ^ のちにその左足は骨折していた事が判明している。
- ^ シーズン記録としては1939年に中島治康が更新。
- ^ シーズン記録としては1939年に川上哲治が更新。
- ^ 歴代1位は1974年の王貞治(読売ジャイアンツ)の**.532**。
- ^ この記録に関しては、当時の選手にここまでの遠投が本当に可能だったのか疑問の声もあり、「114m」の書き間違いではないかという説もある[_要出典_]。
- ^ 他には1937年秋に御園生崇男(11勝0敗)が、1981年に間柴茂有(15勝0敗)が、2013年に田中将大(24勝0敗)がそれぞれ達成している。
- ^ 2リーグ制以降に限ると、2023年に村上頌樹が記録した0.741が最高記録となる。
出典
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- ^ a b “猛虎人国記(6)~愛媛県 「ミスター」の嚆矢 景浦将”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002918850.html 2013年4月3日閲覧。
- ^ “プロ野球70年フォトヒストリー 「闘将」と呼ばれた男 景浦将”. 日本プロ野球機構. 2015年9月24日閲覧。
- ^ “金本知憲氏が戦前の強打者・景浦将氏に思いをはせる”. 日刊スポーツ. (2015年8月4日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1517616.html 2015年9月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m プロ野球データファイル(ベースボール・マガジン社)第62号
- ^ “打点王(1リーグ) - プロ野球”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/m/baseball/professional/record/rbc/pf-rbc_1l_m.html 2020年3月19日閲覧。
- ^ “【12月9日】1936年(昭11) 沢村栄治VS景浦将、初の「王座決定戦3番勝負」(野球) スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球12月”. 2016年7月7日閲覧。
- ^ 南萬満『真虎伝』新評論、1996年、p.65。この内容は大井広介の著書『タイガース史』(ベースボール・マガジン社、1958年)からの引用。
- ^ a b c 早坂隆『戦場に散った野球人たち』文藝春秋、2014年、pp.63 - 64。なお戦没地について「カラングラン島」と記した文献もあるが、遺族にも取材した早坂の著書では本文の記述である。
- ^ 2021年8月15日、北海道新聞日曜版2ページ『五感紀行』。
- ^ 二宮清純『沢村栄治と景浦将 かく戦いかく散れり』Number PLUS 1999年8月号、P150-156。
- ^ 『タイガースの生い立ち』pp.50 - 51。
- ^ 『日本プロ野球偉人伝vol.1』ベースボールマガジン社、2013年10月、p.16,93
- ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、p.368。ラッキーゾーン設置以前のプロ野球公式戦は796試合が行われたが、そのうちでランニング本塁打などを除いた「オーバーフェンスの本塁打」は僅か49本しか出なかった。
- ^ a b c 二宮清純 (2012年8月15日). “二宮清純「唯我独論」:第550回 戦争で散った沢村のライバル・景浦将”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2013年4月3日閲覧。
- ^ a b c 『日本プロ野球偉人伝vol.1』ベースボールマガジン社、2013年10月、p.35
- ^ “特攻隊員として戦死した2人の選手や景浦將… 戦後74年、戦火に散ったプロ野球選手”. Full-count. (2019年8月15日). https://full-count.jp/2019/08/15/post502064/ 2020年3月11日閲覧。
- ^ なお、1984年に「日本プロ野球50年記念切手」が郵政省(当時)から発行された際には、スイングした景浦の写真を元にしたデザインが採用されている。ただし公式には景浦と称している訳ではなく、ただの「打者」としか紹介されていない。なお、近藤道郞が記した「今日も明日も阪神タイガース!」(講談社+α文庫)61ページには「絵柄は打者の景浦将、投手の沢村栄治」との記述がある。
- ^ 『タイガースの生いたち』PP.51 - 52。
- ^ 『タイガースの生いたち』、p.54。
- ^ 玉木正之「プロ野球大事典」新潮文庫
- ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年、p.53。
- ^ 大日本東京野球倶楽部の創設(これが日本初のプロ野球リーグ創設につながった)から数えての年数である。日本初のプロ野球チームは1920年創立の日本運動協会。
- ^ ただし、近藤道郞著、『今日も明日も阪神タイガース!』(講談社+α文庫)61ページには、「絵柄は打者の景浦将、投手の沢村栄治」との記述がある。
関連項目
[編集]
外部リンク
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業績 |
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表話編歴野球殿堂表彰者競技者表彰1960年代 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 1970年代 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 1980年代 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 1990年代 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 2000年代 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 プレーヤー2000年代 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 2010年代 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 2020年代 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 エキスパート2000年代 09 青田昇 2010年代 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 2020年代 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 特別表彰1950年代 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 1960年代 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 1970年代 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 1980年代 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 1990年代 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 2000年代 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 2010年代 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 2020年代 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 新世紀2000年代 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表話編歴首位打者(日本プロ野球1リーグ時代) 1936秋 中根之 1937春 松木謙治郎 1937秋 景浦將 1938春 中島治康 1938秋 中島治康 1939 川上哲治 1940 鬼頭数雄 1941 川上哲治 1942 呉波 1943 呉昌征 1944 岡村俊昭 1946 金田正泰 1947 大下弘 1948 青田昇 1949 小鶴誠 1945年は太平洋戦争のため中断 表話編歴打点王(日本プロ野球1リーグ時代) 1936秋 古谷倉之助 1937春 景浦將 1937秋 中島治康 1938春 景浦將 1938秋 中島治康 1939 川上哲治 1940 中島治康 1941 川上哲治 1942 中島治康 1943 青田昇, 野口明 1944 藤村富美男 1946 山本一人 1947 藤村富美男 1948 藤村富美男 1949 藤村富美男 1945年は太平洋戦争のため中断 表話編歴最優秀防御率(日本プロ野球1リーグ時代) 1936秋 景浦將 1937春 沢村栄治 1937秋 西村幸生 1938春 西村幸生 1938秋 V.スタルヒン 1939 若林忠志 1940 野口二郎 1941 野口二郎 1942 林安夫 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 藤本英雄 1947 白木義一郎 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1945年は太平洋戦争のため中断 表話編歴最優秀勝率投手(日本プロ野球1リーグ時代) 1936秋 景浦將 1937春 沢村栄治 1937秋 御園生崇男 1938春 御園生崇男 1938秋 V.スタルヒン 1939 若林忠志 1940 須田博 1941 森弘太郎 1942 広瀬習一 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 藤本英雄 1947 御園生崇男 1948 別所昭 1949 藤本英雄 1945年は太平洋戦争のため中断 表話編歴大阪タイガース開幕投手1930年代 1936春夏 藤村富美男 1936秋 若林忠志 1937春 景浦將 1937秋 若林忠志 1938春 御園生崇男 1938秋 青木正一 1939 若林忠志 1940年代 1940 木下勇 1941 若林忠志 1942 若林忠志 1943 三輪八郎 1944 若林忠志 1946 渡辺誠太郎 1947 若林忠志 1948 御園生崇男 1949 若林忠志 1950年代 1950 内山清 1951 内山清 1952 三船正俊 1953 藤村隆男 1954 小山正明 1955 西村一孔 1956 小山正明 1957 西尾慈高 1958 渡辺省三 1959 小山正明 1960年代 1960 村山実 1961 小山正明 1962 小山正明 1963 小山正明 1964 村山実 1965 G.バッキー 1966 村山実 1967 村山実 1968 村山実 1969 江夏豊 1970年代 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 古沢憲司 1973 江夏豊 1974 江夏豊 1975 江夏豊 1976 古沢憲司 1977 江本孟紀 1978 江本孟紀 1979 江本孟紀 1980年代 1980 小林繁 1981 小林繁 1982 小林繁 1983 小林繁 1984 野村収 1985 池田親興 1986 池田親興 1987 M.キーオ 1988 仲田幸司 1989 仲田幸司 1990年代 1990 中西清起 1991 野田浩司 1992 葛西稔 1993 仲田幸司 1994 湯舟敏郎 1995 湯舟敏郎 1996 藪恵壹 1997 川尻哲郎 1998 藪恵壹 1999 藪恵壹 2000年代 2000 星野伸之 2001 星野伸之 2002 井川慶 2003 井川慶 2004 井川慶 2005 井川慶 2006 井川慶 2007 下柳剛 2008 安藤優也 2009 安藤優也 2010年代 2010 安藤優也 2011 能見篤史 2012 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 能見篤史 2015 R.メッセンジャー 2016 R.メッセンジャー 2017 R.メッセンジャー 2018 R.メッセンジャー 2019 R.メッセンジャー 2020年代 2020 西勇輝 2021 藤浪晋太郎 2022 藤浪晋太郎 2023 青柳晃洋 2024 青柳晃洋 |