朝日 (戦艦) (original) (raw)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朝日
朝日(1906年6月5日、横須賀)朝日(1906年6月5日、横須賀)
基本情報
建造所 ジョン・ブラウン社(イギリスの旗 イギリス・クライドバンク)[1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種 戦艦海防艦練習特務艦潜水艦救難艦)→工作艦
級名 敷島型
艦歴
計画 第二期拡張計画[2](明治29年度)
起工 1897年8月18日[注釈 1]
進水 1899年3月13日[3]
竣工 1900年7月31日[3]
最期 1942年5月25日戦没
除籍 1942年6月15日
要目(戦艦時)
常備排水量 15,200 英トン
全長 129.62 m (425 ft 3 in)
最大幅 22.92 m (75 ft 2 in1/2)
吃水 8.31 m (27 ft 3 in)
機関 3気筒3段膨張レシプロ機関×2基
主缶 ベルビール×25基
出力 15,000 hp
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 18.0 ノット
燃料 石炭:1,549トン
乗員 836名
兵装 40口径30.5cm連装砲×2基40口径15.2cm単装砲×14基40口径7.6cm単装砲×20基47mm単装砲×12基45cm水上魚雷発射管×4門
装甲 HS(ハーベイ・ニッケル)鋼舷側:9 in (228.6 mm) - 4 in (101.6mm)[4]甲板:4in(101.6mm)-1in(25.4 mm)[4]砲塔:14 in (355.6 mm) - 8 in (203.2 mm)[4]砲郭:6 in (152.4 mm) - 2 in (50.8 mm)[4]司令塔:14 in (355.6 mm) - 3 in (76.2 mm)[4]
テンプレートを表示

朝日(あさひ)は、日本海軍戦艦[5][6]敷島型戦艦の2番艦である。

日露戦争時代の主力艦[5]イギリスで建造され[7]、1900年(明治33年)7月末に竣工した[8][9]日露戦争における海上戦闘(黄海海戦日本海海戦等)では、主力艦として参加する[10][11]。なお旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫少佐は、朝日の水雷長であった[12][13]

1920年(大正10年)9月、朝日は戦艦から海防艦へ類別変更された[9][14]。1922年(大正12年)2月、ワシントン海軍軍縮条約で非戦闘用として保有を許され[15]、4月より練習特務艦となる[11][16]。後日、潜水艦救難艦に改造される[17]1937年(昭和12年)8月、工作艦に類別変更された[9][18]。工作艦として日中戦争太平洋戦争に参加する。南方作戦が一段落したあとの1942年(昭和17年)5月下旬、シンガポールから日本本土へ帰投中にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した[9]。船籍港は横須賀港。後に呉鎮守府所属[19]

朝日(旭日)の艦名は[11]本居宣長の和歌の

敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花

の歌からとったと思われる。当時大和は既に艦名として使われていたため敷島に続いて朝日が艦名に選ばれたと推測される[20]

1897年(明治30年)度の「第一、二期海軍拡張計画」により[7]、第二号甲鉄戦艦として[6]イギリス、クライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された[21]。10月18日、第二号甲鉄戦艦は「朝日」と命名される[6][22]。8月18日、ジョン・ブラウン社で起工した[23]1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義する[24]。該当する4隻(富士八島敷島、朝日)が一等戦艦に類別された[25][26]1899年(明治32年)3月13日、進水[11][23]1900年(明治33年)5月、西洋滞在中の秋山真之広瀬武夫が竣工間際の朝日を見学している[27][28]。また公試の帰りに座礁する事故があり、竣工が予定より約3カ月遅れたという[29]。7月31日に竣工し[11][23]、同日にイギリスを出発[30]。10月23日、横須賀港に到着した[11]。日本海軍としては竣工順で4隻目(富士、八島、敷島、朝日)の近代的戦艦となった[31]

1902年(明治35年)4月22日、広瀬武夫大尉は朝日水雷長兼分隊長を命じられた[28]。広瀬は『朝日艦の歌』を作った[32][33]1904年(明治37年)からの日露戦争では第一艦隊第一戦隊として[34]旅順口攻撃旅順港閉塞作戦黄海海戦日本海海戦に参加した[11]。日露開戦時の朝日水雷長は、引続き広瀬武夫少佐であった[35]。旅順閉塞作戦では朝日からも決死隊志願者が殺到するなど、本艦を含めて連合艦隊の士気は極めて高かったという[36]。3月27日、広瀬は閉塞船福井丸を指揮して第二次旅順閉塞作戦に従事して戦死[37]、のちに軍神と謳われた[38][39]。広瀬の私室は、軍神室として保存されたという[注釈 2]。 8月10日の黄海海戦では、発射した弾丸が砲身内で早期爆発する膅発(とうはつ)に見舞われ、主砲の一部が使用不能となった[41]

1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦当日、朝日は第一戦隊(三笠[注釈 3]、敷島、富士、朝日、春日日進[注釈 4]龍田[42]の4番艦であった[43]。またイギリス海軍のウィリアム・パケナム大佐が、観戦武官として朝日に乗艦していた[44]。 同海戦勝利後の朝日と装甲巡洋艦浅間[45]、降伏したロシア戦艦オリョール」の護衛を担当している[46]。朝日はオリョールの乗組員を収容した[47]。回航中の5月16日、戦闘で負傷していたオリョール艦長のニコライ・ユーンク大佐が死去、水葬に伏された[48]。またオリョールの浸水が増したため[49]、3隻(朝日、浅間、オリョール)[50] は予定を変更して舞鶴港に入港した[49][51]。後日、オリョールは戦艦石見と改名された[49]

1905年(明治38年)12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定する[52]。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模丹後肥前周防)が『戦艦』に類別された[53][54]

1908年(明治41年)7月、伊勢湾で座礁した[55]1909年(明治42年)7月25日[56]伊豆諸島近海で演習中に副砲の爆発事故で死者4名を出した[57]

1910年(明治43年)12月[58]皇族軍人伏見宮博恭王は大佐へ昇進するとともに、朝日艦長に任命された[59]。のちに条約派として知られる堀悌吉も、朝日分隊長として本艦に勤務していた[60][61]1911年(明治44年)10月中旬以降、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)が愛知県や広島県を行啓する[62]。20日、皇太子は宮島で富士に乗艦し、以降豊後水道での艦隊演習や佐伯湾大入島視察などの行事をこなす[63][64]。24日、朝日艦長・博恭王は富士を訪問し、皇太子と昼食を共にした[65]。翌年3月、博恭王は巡洋戦艦伊吹艦長に任命され、朝日を離れた[63]

1915年(大正4年)8月31日、横須賀で廃棄艦(標的艦壱岐[注釈 5]に対する実弾射撃演習をおこなう[注釈 6]。標的艦で火災が発生し、朝日は非常信号で消防隊を呼び寄せた[注釈 7][注釈 8]

第一次世界大戦では1918年(大正7年)に第三艦隊第五戦隊の旗艦として、ウラジオストック方面の警備に従事した。同方面の警備には石見が派遣されており、朝日と共にウラジオストックに駐留した[70]。8月5日、朝日は横須賀に帰投して加藤寛治少将は栃内海軍次官の出迎えを受けた[注釈 9]

1920年(大正9年)6月下旬、ルーマニアカロル皇太子が訪日した[72]。7月27日に横浜港から離日する際、朝日はカロルの乗船した貨客船「コレア丸」を途中まで見送った[73]

1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、朝日も海防艦(一等)となる[14][74]

練習特務艦朝日の舷側に取り付けられているのが潜水艦救難用のブラケット。

1923年(大正12年)2月6日、ワシントン軍縮条約が締結されて列強各国の保有艦艇が整理され、日本は「敷島」と「朝日」を非戦闘用として保有することを許された[15]。このため2隻とも兵装、装甲を撤去し、練習艦となった[11]。同年4月1日、3隻(敷島、朝日、須磨)は軍艦籍より除籍され[75]、艦艇類別等級表からも削除された[76][77]。敷島と朝日は練習特務艦に類別された[16][78]1924年(大正13年)7月、海防艦石見が航空機(基地航空隊や空母鳳翔航空隊)の標的として処分されることになった[49][79]。演習海域の三浦半島城ヶ島西方まで、朝日は石見を曳航した[80]。沈まない場合は、駆逐艦浦風による撃沈処分が予定されていた[81]。だが7月9日以降の爆撃実験で大破、石見は沈没した[80]

このころに第70潜(呂31)、第43潜(呂25)と潜水艦事故が続けて起こった[82]。日本海軍は1925年(大正14年)になり、朝日に潜水艦救難設備を設置した[注釈 10]。これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理だった[5][82]。改造の際に機関部の改装をおこない、一本煙突となっている[84]。朝日はに常駐し潜水艦事故に備えていた。

1927年昭和2年5月19日からは〇一潜水艦を沈没潜水艦を浮揚する際の(沈錘船)として改装し[85]1932年(昭和7年)4月1日に雑役船公称第2929号が登場してからは〇一潜水艦改め公称第2900号を重錘に、公称第2929号を沈没潜水艦に仕立てての潜水艦救難実験・訓練に従事する。

1937年(昭和12年)5月31日、沈錘船2隻が老朽化したことや、朝日が工作艦へ改装される際に救難設備を撤去することが決まったため、沈錘船は製鋼材料とすることとなった[86]。朝日は工作艦への改装と同時に救難設備を撤去し[82][87]、公称第2900号、公称第2929号は同年6月26日に廃船となった[88]。朝日の救難設備が事故に使用されることはなかった。朝日にかわり、知床型給油艦佐多が潜水艦救難艦に改造された[82]

また、朝日は1928年(昭和3年)には試製呉式一号射出機を仮装備し、日本海軍初の射出実験を行った[82][89]。撤去された前部主砲は、海軍砲術学校の教材として泊浦海岸に据え付けられた[5]

朝日
1938年、上海に停泊中の「朝日」1938年、上海に停泊中の「朝日」
基本情報
艦歴
要目(工作艦時)
排水量 11,141トン
垂線間長 122.10m
最大幅 22.94m
吃水 6.93m
ボイラー ロ号艦本式ボイラー 石炭専焼4基
主機 3気筒3段レシプロ2基
推進 2軸
出力 15,000hp
速力 12ノット
燃料 石炭:1,722トン
乗員 計画乗員:286名
兵装 7.6cm単装高角砲2門
テンプレートを表示

工作艦関東1924年(大正13年)12月に座礁放棄されて以降、日本海軍は工作艦を保有していなかった[90][91]1931年(昭和6年)頃、朝日に簡単な工作設備が設置された[5][91]1937年(昭和12年)7月には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので、日本海軍は正式に朝日を工作艦に改造する[82][91]。艦橋前にはダミーの木製30cm砲を装備した[92]呉海軍工廠で改装工事を実施、8月15日に工事を完了した[92]。日露戦当時の朝日水雷長・広瀬武夫が使用していた私室は、工作艦に改造後も記念室として残されていたという[13]。8月16日、海軍は朝日の類別を練習特務艦から工作艦に変更する[18]。朝日は中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した[82][93]1939年(昭和14年)3月下旬、上海市の黄浦江に停泊中の朝日で、広瀬中佐の三十五回忌が営まれた[注釈 2]。11月には、上海方面根拠地隊旗艦となっている[93]

1940年(昭和15年)11月1日、朝日工作部は上海陸上に移り第一海軍工作部と改称したため[82][93](昭和15年11月1日、発足)[94]、朝日は日本へ戻った[93]。11月15日からは連合艦隊付属となった[95]。新鋭工作艦明石(昭和14年7月竣工)[96] と共に、連合艦隊各艦の故障修理や整備をおこなう[82][97](練習戦艦から戦艦に改装された比叡など)[注釈 11]

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、朝日は南方作戦(南方部隊本隊指揮官近藤信竹中将:第二艦隊司令長官)に参加する[93]カムラン湾所在だった[5][99]1942年(昭和17年)2月にシンガポールが陥落すると、翌月には同地に進出する[5][100]。3月13日、シンガポールに入港した[95]。工作艦明石と共に、シンガポールの港湾施設の復旧や、損傷艦の修理に活躍した[91][101]。給油艦鶴見(3月1日、潜水艦雷撃で損傷)や軽巡洋艦那珂(4月1日、潜水艦雷撃で大破)の応急修理も、朝日工作部が第101工作部(シンガポール陸上)に協力したため順調に進んだ[100]

同年5月22日[95][注釈 12]、朝日は自身の修理をおこなうためシンガポールを出発し、日本へ向かった[100]。護衛は駆潜艇1隻で、危険な沿岸航路をさけて南シナ海の中央を北上することにしたという[101]。しかし、旧式低速(福井静夫によると艦首に白波の迷彩塗装を施していたが、当時の速力は8ノット程度)[100] の大型艦であったため敵潜水艦の格好の目標となってしまい、5月25日の深夜にカムラン湾南東(サイゴン沖約120浬)[93] でアメリカ潜水艦サーモンから雷撃される[9][100]。朝日の左舷に2発の魚雷が命中した[102]。最初の魚雷が命中したのは広瀬武夫(最終役職は朝日水雷長[注釈 13])の記念室の真下で、同部屋に保存されていた広瀬の遺品は沈没と共に全て失われた[13]。5月26日午前1時3分、転覆して沈没した[102]。この時、乗組員の大多数は随伴していた駆潜艇に救助されたが、機関部員を中心に戦死者十数名を出した[注釈 14]

同年6月15日、朝日は特務艦籍[19] および特務艦類別等級表より除籍された[104][105]。残務処理は呉海兵団内において行われた[106]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  1. ^ #日本の戦艦(上)2001p.38では、起工日は1897年8月1日となっているが、おそらく間違い。

  2. ^ a b 軍神廣瀬中佐三十五周忌 廿七日朝日艦上で執行[40]【上海二十二日發國通】二十七日は軍神廣瀬中佐戰死の三十五周年に當るので目下黄浦江上にある軍艦朝日で當日午前十時より嚴粛な祭典を擧行、中佐の遺烈を偲ぶことゝなつた 同艦では當時中佐の私室であつたのを軍神室として今なほ保存しをり二十七日には中佐の寫眞や壮擧に上る時に書かれた書翰等も展覧に供される筈である(記事おわり)

  3. ^ 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の旗艦。

  4. ^ 第一戦隊司令官三須宗太郎少将の旗艦。

  5. ^ 日本海海戦で降伏したバルチック艦隊所属の戦艦インペラートル・ニコライ1世で、日本海軍編入時に「壱岐」と改名した[66]

  6. ^ ●廢艦と標的[67] 廢艦壹岐は横須賀港にて朝日艦の實彈射撃標的に用ゐられ彈丸悉く命中し遂に火災を起し防火隊は之を鎭火せり又一日は飛行機より爆彈投下の標的に用ひられたりと(記事おわり)

  7. ^ 壹岐艦の最後 ▽實射的となりて沈まん[68] 日本海々戰に我軍に捕獲されし軍艦ワリヤーグは壹岐と改名し我海軍に威を添へしが先に廢艦となりて横須賀に在りし處三十日午後午後一時港務部長の命令にて第四第九の小蒸汽に曳かれ軍港外防波堤西北方に放され軍艦朝日の實彈射撃の標的となり十二吋砲を除く籔十の砲門を開いて孰れも美事に命中し最後の一發を石油タンクに見舞ひたれば忽ち火災を起し朝日は非常信號にて各艦へ火災を報じ第一水雷艇隊他數十艘の短艇より成る消防隊が漕ぎ付け三時二十分鎭火せり翌一日は海軍飛行機の爆彈投下の標的となり更に八日より十日まで伊勢灣に行ふ演習艦霧以下數艘の實射的たるべく尚引上げに用意なる場所を選びて第一戰隊の水雷發射に供し斯くて歴史の一部を語る壹岐艦は遂に光榮なる最後を遂ぐる筈なり(記事おわり)

  8. ^ 後日、壱岐は金剛型戦艦の実弾標的となって沈没した[69]

  9. ^ ▲朝日艦横須賀に凱旋 加藤司令官参内復奏[71] 浦鹽港警備中なりし戰艦朝日(一萬五千噸十二吋砲四門)は沿海州警備の第○艦隊の一部浦鹽に來り聯合諸國の陸軍も續々同港に上陸しつゝあるにより陸戰隊を引揚げて僚艦と共に凱旋し來り月曜(五日)横須賀に入港したり司令官加藤寛治少将は出迎の栃内海軍次官と共に東上したるが参内軍状を奏上すべし(記事おわり)

  10. ^ 朝日艦潜水艇救助に成功[83]【東京卅日】曩に横須賀工廠長が發見した潜水艦救助の装置は特務艦朝日にのみ据附けられ秘密裡に救助作業を試みて成功した日本は既に将卒百三十名を潜水艦で殺した(記事おわり)

  11. ^ (高松宮宣仁親王日記、第3巻、昭和16年1月15日記事)[98](略)高角砲、副砲、射撃盤に九八転輪入れること、「朝日」で訓令を準備する意味で、艦本へ問ひ合わせの上、着手することゝす。司令塔の観測鏡、防水扉修理も「朝日」でやることゝす。(以下略)

  12. ^ 『日本戦艦物語II』では5月23日になっているが、それ以外の文献では5月22日。

  13. ^ 朝日機関長の回想(補助艦艇奮戦記の43頁)では広瀬の役職を朝日運用長とするが、実際は朝日水雷長。

  14. ^ (昭和17年5月)[103]〔 26|0103|昨夜S(潜水艦)雷撃ヲ受ケシ朝日沈没シ永複丸(11BBg 7W)ニテ対潜掃蕩中|馬来|罐室当直員16戰死 他乗組員大部ハgchニ収容セラル 御寫眞御勅諭ハ無事 〕

  15. ^ #日本の戦艦(上)2001p.20

  16. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9、明治二十九年

  17. ^ a b #日本の戦艦(上)2001p.38

  18. ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.218

  19. ^ a b c d e f g 日本補助艦艇物語、217頁「工作艦(1)朝日」

  20. ^ a b c <#達明治30年10月%281%29> p.31

  21. ^ a b <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ24

  22. ^ 日本補助艦艇物語、10頁(朝日写真解説)

  23. ^ a b c d e 補助艦艇奮戦記、269頁「朝日(あさひ/工作艦)」

  24. ^ 帝国軍艦帖コマ40-41「戰艦 朝日」

  25. ^ a b c d e f g h 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ59(原本85頁)

  26. ^ <#軍する身>コマ86(原本141頁)「朝日では軍神廣瀬武夫少佐が水雷長として乗って居った。」

  27. ^ a b c 補助艦艇奮戦記、43頁「海底に消えた軍神の遺品」

  28. ^ a b <#達大正10年9月> p.1

  29. ^ a b 華府海軍条約、主力艦ノ代換及廢棄 日本國 - 国立国会図書館デジタルコレクション

  30. ^ a b <#達大正12年4月%281%29> p.12

  31. ^Maui Shinbun, 1926.01.18”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.1〔 有名な朝日艦 今は救難作業艦 〕

  32. ^ a b <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ73(原本106頁)

  33. ^ a b #内令昭和17年6月(1)pp.41-42

  34. ^ 聯合艦隊軍艦銘銘伝p341。

  35. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ188(原本282頁)

  36. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ198〔 ◎戰艦朝日巡洋艦八雲吾妻淺間常磐及水雷砲艦千早命名ノ件 明治三十年十月十八日(達一四一) 〕

  37. ^ a b c <#海軍制度沿革%28巻11、1940%29>コマ568(原本1084-1085頁)

  38. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15

  39. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級』

  40. ^ #達明治31年3月(1)pp.16-17

  41. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 194–195.

  42. ^ a b 軍神広瀬武夫 2009, pp. 221–222.

  43. ^ <#福井戦艦物語弐>、66頁

  44. ^ 明治33年8月3日官報第5126号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6

  45. ^ <#福井戦艦物語壱>、73-74頁「日露開戦に備えて」

  46. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 225–226.

  47. ^Shanhai Nippō, 1904.04.09”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.2〔 雜報/廣瀬中佐の遺詠 〕

  48. ^ 写真日本の軍艦 戦艦II、239頁(朝日項目)

  49. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 230–231.

  50. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 236–238.

  51. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 268–271.

  52. ^ 軍談秋山真之 2010, pp. 102–103「軍人の亀鑑広瀬中佐の戦死」

  53. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 296–297.

  54. ^Manshū Nichinichi Shinbun, 1939.03.23”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.7

  55. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 106.

  56. ^ 日本海海戦の証言 2018, p. 296「日本聯合艦隊/第一艦隊/第一戦隊」

  57. ^ 日本海海戦の証言 2018, p. 174.

  58. ^「8年3月10日「ハイシーフリート」の降服を見たるまで及び毒瓦斯に就いてに関する件」、大正6年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所) p.22アジア歴史資料センター Ref.C10100815500

  59. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 111–113.

  60. ^ <#朝日の光> コマ119, 128

  61. ^ <#日露戦役海軍写真集%282%29>コマ45

  62. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 122–124.

  63. ^ a b c d <#福井戦艦物語壱>、111-112頁「◇石見―アリヨール」

  64. ^ <#朝日の光>コマ123『「朝日」「淺間」の二艦「アリヨール」を率ひ某軍港に向ふ』

  65. ^ <#戦袍余薫懐旧録II>コマ236-237(原本430-433頁)

  66. ^ #達明治38年12月pp.6-7

  67. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ53-54『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』

  68. ^ #達明治38年12月pp.8-9

  69. ^Chōsen Shinpō, 1908.03.08”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.2〔 坐礁せる朝日艦(六日) 〕

  70. ^Shin Sekai, 1909.07.27”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.2〔 朝日艦の奇禍 九名の死傷者を出す(東京二十六日發) 〕

  71. ^Chōsen Shinpō, 1909.07.28”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.2〔 朝日艦奇禍 〕

  72. ^Manshū Nichinichi Shinbun, 1910.12.08”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.2〔 ●御乗艦 伏見宮若殿下明日より朝日艦長として御乗艦御執務あらせらるゝ筈 〕

  73. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, p. 48.

  74. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, p. 53.

  75. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, p. 59.

  76. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 291岐阜・愛知県下並びに佐伯 広島両湾に行啓

  77. ^ a b 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, p. 54.

  78. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 292宮島より軍艦富士に御搭乗

  79. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 295.

  80. ^Nippu Jiji, 1915.05.25”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.3〔 ◎軍艦壹岐廢艦 元は露西亞の軍艦 一旦艦籍の除かる 〕

  81. ^Chōsen Shinbun, 1915.09.03”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.2

  82. ^Chōsen Shinbun, 1915.09.04”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.3

  83. ^Nan’yō Shinpō, 1915.10.27”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.3〔 ●悲愴なる軍艦 壹岐の最後 ▲射撃の標的となつて沈む▼

  84. ^Urajio Nippō, 1922.09.23”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.1〔 過去よ年鑑の極東政情(八)石戸事件と我陸戰隊の上陸 〕

  85. ^Nichibei Shinbun, 1918.08.09”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.1

  86. ^Nippu Jiji, 1920.06.21”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.5〔 羅國皇太子來朝 来月廿七日迄御滯在 〕

  87. ^Ōshū Nippō, 1920.08.16”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.5〔 劍崎沖迄 朝日艦の護送 〕

  88. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ59『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』

  89. ^ <#達大正12年4月%281%29> p.12

  90. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ59

  91. ^ #達大正12年4月(1)p.12

  92. ^ <#海軍制度沿革%28巻8、1940%29>コマ72

  93. ^ #実験研究1(1)p.3『石見實験要領』

  94. ^ a b <#大正の海軍物語>コマ134-135(原本249-251頁)

  95. ^ <#実験研究1%282%29> p.26

  96. ^ a b c d e f g h i <#福井戦艦物語弐>、113-114頁「◇朝日」

  97. ^Shin Sekai, 1925.12.01”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月11日閲覧。 p.1

  98. ^ 写真日本の軍艦13巻、4頁(朝日写真解説より)

  99. ^ #潜水艦救難用沈錘船p.2

  100. ^ #軍務1機密第218号p.3

  101. ^ 写真日本の軍艦13巻、3頁(朝日写真解説より)

  102. ^ #S12第6102号p.74

  103. ^ 写真日本の軍艦13巻、5頁(朝日写真解説より)

  104. ^ 日本補助艦艇物語、217-218頁「(2)明石」

  105. ^ a b c d 日本補助艦艇物語、244-247頁「わが海軍における工作艦の歴史」

  106. ^ a b 写真日本の軍艦13巻、6頁(朝日写真解説より)

  107. ^ a b c d e f 写真日本の軍艦13巻、7頁(朝日写真解説より)

  108. ^支那事変 第8回功績概見表綴 特設部隊 特設艦船 海軍武功調査/第1海軍工作部支那事変第8回功績概見表 p.1アジア歴史資料センター Ref.C14121011600 『(略)記事 一五、一一、一 第一海軍工作部開設セラル』

  109. ^ a b c 写真日本の軍艦13巻、42頁「『特務艦』行動年表 ◆朝日(工作艦)◆」

  110. ^ 補助艦艇奮戦記、268-269頁「明石(あかし/工作艦)」

  111. ^ 高松宮日記3巻、177-178頁(昭和16年1月6日、1月7日記事)

  112. ^ 高松宮日記3巻、182頁

  113. ^ 補助艦艇奮戦記、37頁

  114. ^ a b c d e <#福井戦艦物語弐>、115-116頁

  115. ^ a b 補助艦艇奮戦記、38頁

  116. ^ a b 補助艦艇奮戦記、39-41頁「突如ひびいた大音響」

  117. ^ #S17.05.17-05.31経過概要p.19

  118. ^ #S1705呉鎮日誌(2)pp.48-49

  119. ^ #内令昭和17年6月(2)p.22

  120. ^昭和17年7月13日月金)海軍公報(部内限)第4038号 p.7アジア歴史資料センター Ref.C12070421800 『○殘務整理 第十一掃海隊主計科關係殘務整理ハ軍艦磐手内平場主計大尉之ヲ行フ|特務艦朝日殘務整理ハ呉海兵團内ニ於テ之ヲ行フ(朝日殘務整理委員)』

  121. ^昭和12年8月26日(木)海軍公報(部内限)第2699号 p.32アジア歴史資料センター Ref.C12070367200 『○官房機密第三四〇一號 今次事變中特務艦朝日ノ工作ニ關シ左ノ通定ム 昭和十二年八月二十六日』

  122. ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。

  123. ^ 『官報』第3013号、大正11年8月16日。

  124. ^ 『官報』第3022号、大正11年8月26日。

  125. ^ 『官報』第3085号、大正11年11月11日。

  126. ^ 『官報』第3140号、大正12年1月22日。

  127. ^ a b 『官報』第3199号、大正12年4月2日。

  128. ^ a b 『官報』第3375号、大正12年11月21日。

  129. ^ 『官報』第3544号、大正13年6月17日。

  130. ^ 『官報』第4258号、大正15年11月2日。

  131. ^ a b 『官報』第279号、昭和2年12月2日。

  132. ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。

  133. ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。

  134. ^ a b 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。

  135. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。

  136. ^ 『官報』第1615号、昭和7年5月21日。

  137. ^ a b 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。

  138. ^ 『官報』第2344号、昭和9年10月23日。

  139. ^ a b昭和13年11月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第256号アジア歴史資料センター Ref.C13072074500

ウィキメディア・コモンズには、**朝日 (戦艦)**に関連するカテゴリがあります。