桂吉朝 (original) (raw)

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桂(かつら) 吉朝(きっちょう)
桂(かつら) 吉朝(きっちょう)結三柏は、桂米朝一門の定紋である。
本名 上田(うえだ) 浩久(ひろひさ)
生年月日 1954年11月18日
没年月日 (2005-11-08) 2005年11月8日(50歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府堺市
師匠 三代目桂米朝
弟子 桂あさ吉桂吉弥桂よね吉桂しん吉桂吉坊桂佐ん吉桂吉の丞
出囃子 外記猿
活動期間 1974年 - 2005年
活動内容 上方落語舞台芝居
所属 米朝事務所
公式サイト 桂 吉朝
主な作品
弱法師」<百年目>
備考
上方落語協会会員(1974年 - 2005年)
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桂 吉朝(かつら きっちょう、1954年11月18日 - 2005年11月8日)は、大阪府堺市出身の落語家出囃子は、当初『芸者ワルツ』、のちに『外記猿』[1]。本名:上田 浩久

5人兄弟の末っ子で、生家は印刷業だった[2]大阪府立今宮工業高等学校では落語研究会に所属[2]。高校時代から『素人名人会』に出演。このころ3代目桂米之助の元に稽古に通った。これは米之助が、吉朝も参加した素人寄席の「落語村」(福島勤労青少年ホーム)の指導をしていた縁による[2]。3代目桂米之助からは「東の旅」をネタ付けされる[2]

高校卒業後は家業の手伝いを経て、1974年1月に3代目桂米朝に弟子入り[2]。米朝を選んだ理由は、噺の知的センスだったという[2]。入門の際に吉朝の「東の旅・発端」を聞いた米朝は「これはもう教えることはない」と言って[注釈 1]商売根問」の稽古をつけ、これが初高座のネタとなった。後に米朝は自身の芸を「枝雀には50教え、吉朝には100教えた」とインタビューで答えている[_要出典_]。戸田学は「入門当初から、落語ファンには一定の評価はされていた」と記している[3]

桂千朝とは入門時期が近く、やや遅れて入門した桂米八とともに米朝宅で3年間住み込みの弟子となり、4畳間の部屋で3人暮らしの生活を送ることとなった[4]。米朝曰く、一番きっちりしていたのが千朝で、毎度のように遅れて寝起きしては怒られていたのが米八、そして掃除が終わったあとに食卓にいつの間にか座っているのが吉朝であった[4]

1993年5月21日に、サンケイホールで初の独演会を開催[3]。米朝一門で、同ホールでの独演会は米朝・2代目桂枝雀2代目桂ざこば3代目桂南光に次いで5人目であった[3]。以後、2004年まで12回を数えた[3]

若い頃から千朝、桂雀松らや講談師の旭堂南左衛門と勉強会を開催した。落語だけにとどまらず中島らもの劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」の役者としても活躍したほか、阪本順治監督の映画『王手』(1991年)に将棋の師匠役で出演もした[5]。また狂言師13世茂山千五郎らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を行う一方、文楽の桐竹勘十郎豊竹英太夫(現6代目豊竹呂太夫)らとも親交が深く、文楽と落語をコラボレーションさせた会を開催するなど、他ジャンルの芸能との交流も深かった。また桂千朝と組んで中田ダイマル・ラケット宮川左近ショー物まねもやっていた[6]。弟弟子の桂米左とともに日本のアニメーションの元祖とも言われる「錦影絵」を演じるなど新しい試みにも意欲的であった。その才能と実力から上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待されていたが、1999年胃がんを患い、手術を受け一度復帰したものの、2004年10月になって胃がんを再発。その後治療を続けながら高座を務めていたが既にがんは末期の状態であった。

2005年10月27日国立文楽劇場で行われた「米朝・吉朝の会」で、師匠の米朝が吉朝たっての希望で近年高座にかけることが少なくなっていた「狸の賽」を口演。吉朝は、当初「河豚鍋」と「弱法師」の2席を予定していたが、楽屋では医師付き添いのもと酸素を吸入しながら45分以上をかけて「弱法師」を演じるのが精一杯で「河豚鍋」を演じることは出来ず、「劇場の前を偶然通りかかった」という雀松が「替り目」を代演して穴を埋めた。終演後しばらくは観客からの拍手が鳴り止まなかった。そして吉朝にとってはそれが生前最期の高座となった。

それからわずか12日後の2005年11月8日、心不全のため、兵庫県尼崎市の病院で死去[7]。50歳没。

直前まで吉朝が「米團治」を、3代目桂小米朝が「米朝」を襲名する話が進められていたが吉朝の死去により実現しなかった[_要出典_]。後に小米朝が「5代目桂米團治」を襲名することになる[8]。生前、米團治を襲名するのかと問われた吉朝は、「どっちかというと曽呂利新左衛門の方がええねんけどなあ。堺出身やし…」と答えたという[5]

七段目」「蛸芝居」「質屋芝居」などといった芝居噺を得意とし[9]、「地獄八景亡者戯」以外にも「百年目」「愛宕山」「高津の冨」「千両蜜柑」などの師匠米朝ゆずりの大ネタに、現代のセンスに合った「くすぐり」を加え独自の世界を切り開き米團治系の後継者と言われていた[_要出典_]。また「河豚鍋」「天災」「化け物使い」などの他の一門の持ちネタも自らの持ちネタとし、おもしろさだけでなく、こなせるネタの幅広さは当代一と噂されていた[_誰によって?_]。

長男の上田康介は1983年生まれ。2007年ころからカメラマンとして活動[10]

弟子は他の枝雀・ざこば一門と異なり、大師匠である米朝宅に住み込みで内弟子修行をするのが慣例となっていた。

孫弟子

タイトル 演目 収録年月日 収録会場 発売年月日 発売元
おとしばなし「吉朝庵」 その1 地獄八景亡者戯 1997年1月27日 和歌山県民文化会館小ホール 1997年4月16日 東芝EMI
おとしばなし「吉朝庵」 その2 たちきり 1998年1月16日 大阪リサイタルホール 1998年4月22日
つる 1998年1月16日 大阪リサイタルホール
おとしばなし「吉朝庵」 その3 住吉駕籠 1998年1月16日 大阪リサイタルホール 1999年10月14日
かぜうどん 1998年1月23日 堺市民会館小ホール
おとしばなし「吉朝庵」 その4 愛宕山 2000年5月20日 大阪サンケイホール 2001年8月8日
七段目 2000年1月26日 大阪リサイタルホール
おとしばなし「吉朝庵」 その5 質屋蔵 2000年5月20日 大阪サンケイホール 2001年8月8日
子ほめ 2000年5月20日 大阪サンケイホール

2005年12月21日の「桂吉朝を送る会」で満中陰志として参列者に配られたもので、のちに限定1,000枚で制作された。番号は命日を入れた「KICHO 1108」。収録されている「弱法師」は最後の高座。

タイトル 演目 収録年月日 収録会場 発売年月日 発売元
吉朝庵 形見噺 そってん芝居 2004年10月8日 国立文楽劇場 2006年8月8日 東芝EMI
弱法師 2005年10月27日 国立文楽劇場

上田康介『吉朝庵: 桂吉朝夢ばなし』[単行本]

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『くっしゃみ講釈』『深山隠れ』の特典CD付き

タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元
特選・吉朝庵第一集 天災 1997年10月16日 NHKあの顔この顔上方落語 2006年11月8日 東芝EMI
蛸芝居 1997年3月15日 平成紅梅亭
タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元
特選・吉朝庵第二集 狐芝居 1996年10月3日 平成紅梅亭 2007年10月24日 東芝EMI
愛宕山 1996年9月21日 平成紅梅亭

よみうりテレビ(YTV)の「平成紅梅亭」第47回で放映されたもの。

タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元
「特選!噺家の会」 子ほめ 2003年5月3日 平成紅梅亭 2004年11月17日 PONY CANYON

「平成紅梅亭20周年記念 ~今蘇る!名人芸ベストセレクション~」

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タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元
「特選!噺家の会」 ふぐ鍋 1995年11月11日 平成紅梅亭 2016年6月29日 ユニバーサルミュージック
回数 演目 備考 放送年月日
第1回 七段目 1995年9月16日
第2回 ふぐ鍋 →第64回(2006年3月22日)で再放送平成紅梅亭20周年記念 ~今蘇る!名人芸ベストセレクション~に収録 1995年11月11日
第3回 くしゃみ講釈 1996年1月13日
第4回 住吉駕篭 1996年3月09日
第5回 鷺とり 1996年5月11日
第6回 崇徳院 1996年7月13日
第7回 愛宕山 DVD『特選・吉朝庵』第2集に収録 1996年9月21日
第8回 狐芝居 DVD『特選・吉朝庵』第2集に収録 1996年11月19日
第9回 宿屋仇 1997年1月11日
かぜうどん
第10回 高津の富 1997年3月15日
蛸芝居 DVD『特選・吉朝庵』第1集に収録
第15回 昆陽の御池 1998年1月17日
第18回 蛇含草 1998年7月11日
第25回 遊山船 1999年9月11日
第29回 猫の忠信 2000年5月6日
第37回 質屋蔵 2001年9月8日
第41回 化物つかい 2002年5月8日
第47回 子ほめ DVD『特選!噺家の会』に収録 2003年5月23日
  1. ^ 米朝は入門したての弟子には必ず「東の旅・発端」を教えていたことで知られており、吉朝に対する初稽古は異例のものだった。

  2. ^ 戸田、2013年、p.190

  3. ^ a b c d e f 戸田、2014年、pp.397 - 398

  4. ^ a b c d 戸田、2014年、pp.512 - 513

  5. ^ a b #米朝 (2007) p.180

  6. ^ a b 戸田、2013年、p.194

  7. ^ 「桂吉朝さんを悼む」戸田、2013年、pp.190 - 192(初出は読売新聞大阪版2005年11月14日夕刊)

  8. ^ “桂吉朝さん死去…50歳、上方落語界のホープ力尽く”. 夕刊フジ. (2005年11月9日). http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_11/g2005110912.html 2016年5月11日閲覧。

  9. ^ “小米朝さんが米団治襲名へ/半世紀ぶりに大名跡復活”. 四国新聞. (2007年7月19日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20070719000239 2022年5月14日閲覧。

  10. ^ 戸田、2013年、p.189

  11. ^ 上田康介・小佐田定雄『吉朝庵 桂吉朝夢ばなし』、淡交社、2011年、ISBN 978-4-473-03767-1